2009-04-25
あたらしいフォトアルバムシリーズをはじめました
あたらしいフォトアルバムをスタートしました。
第1弾は奈良公園から若草山(と、そこかしこにいる鹿)の写真です。
http://red-ocean.org/landview/nara/
(ひそかな売りは、背景の全画面表示です。ブラウザのサイズを変えても、余白ができない…ハズです)
2009-02-05
木の枝にかかるハンカチの目から
ところで、前回までに書いたことを振り返ってみると、本が読めないのはすべて今の環境、今の状況によるものであって、以前は小説や詩を好きなだけ読んでいたのだ…と言いたげにも見えるが、実際、全くそんなことはなかった。たしかに時間に余裕のあった学生のころは、今よりも本を読んでいたような気もするが、正確には「読もうとするが、読み進められず、それでいて目の前には、読まねばならぬ本が山のように積まれ続けていて、ますます読めないことに焦り、追いつめられていく」ことの連続であった気がする。
ところで、最近部屋を整理していたら、昔のメモ書きが出てきた。2003年の8月のメモ。
雨の日の列車は、濡れたレールの上を、つるつる滑りながら走る。モーターが車輪に伝える加速力が、濡れたレールの上では十分に作用しないから、車輪とレールの間に力のギャップが生じる。その力の余白が、車輪をからまわりさせ、速度とは不釣合いなほどにまでモータ音を高鳴らせていく。滑りは前後方向の振動となって、車内に伝えられる。
そしてこれこそが、私自身の問題であることにようやく今朝、気づけた。雨の日のレールと車輪の隙間にある空転は、私の身体の中で、日々経験されていたのだ。自分の中にある「あせり」が、滑りに似たものであることにようやく気づいた。
どうやら5年前から、状況はあまり変化していないらしい。
どうもいっぺんに、いろんなものを、一瞬で吸収しなければならない…というような、焦りに似た感情が私のなかにあるのだ。パッとわかるところまでひとっ飛びで行ってしまいたいという、無謀な発想が私を支配している。こつこつと読み進めなければならない書物、特に、ある部分の記述をよく理解せぬままに読み進めると、とたんに理解が難しくなるような種類の書物は、とっととあきらめて、読まぬようにしたほうがいいのかもしれない。
でもなぜだか、そういう書物を、文学や人文学の書物を、読まなければならないという気になるのである。その理由を、とりあえず思いついた言葉で言うならば、”知的であることへの憧れ”なのかもしれない。さらにもう少し踏み込んで、あさはかとも思われるかもしれない言い方をするならば、知的なものを書くためのバックグラウンドを身につけたいという欲求によるものなのだ、とも言えるかもしれない。しかし、この欲求には、なにか決定的な間違えがあるような気がする。
※※※
既に書かれた書物、既に描かれた絵画、既に撮られた映画…。何かをつくろうとする人が、“既にあるもの”を見るとき、程度や性質の差こそあれ、人はそれらに対し、ある種の羨望のまなざしを向けていると思う。後生の作者は、既に活躍した作者なり既につくられた作品という、越えることのできない存在に、近づきたい、あわよくばそれを飛び越したいという欲望のような意志を必ず持っているように思える。
だが、それだけで作品はつくれないような気がする。もしかしたら、自分という存在を、一度今いる位置からはずしたところへ置き、そこから世界を観察し、そして何かを書こうという意識を持たない限り、“なにかをつくりだすこと”は、根本的に不可能なのではないか。
そう考えていくと、何かを読むことによって「自分」という存在を充実させようとか、高めようといった意志が働いている限り、そもそも何かを”読む”ことはできないのではないか? という気がしてきた。
長い年月のうちに、書かれてきた言葉、紡がれてきた言葉は、もはや世界という書庫の貯蔵量を、限界まで満たしているようだ。地球上のありとあらゆる書物を、一人の人間が一生のうちに読み切ることは、とうてい不可能だろう。しかし、であるからこそ、世界という書庫の蔵書が、実は、圧倒的に不足しているような気もする。
その不足感とは、一体何なのか? その不足感こそが、なにかを書き出す力、何かを生み出す力の源泉なのではないか。
現世を生きている人々の、日常的世界からは圧倒的に離れているようでいて、もしかしたら圧倒的に近すぎるかもしれない、書かれてきた言葉の世界。そこへ触れようとするには、ノウハウやハウトゥーを手に入れるのと同じような態度、プロセスではとうてい不可能なのだ(という気が、急激にしてきた)。
まずは、自分がいない、だだっ広い世界を想像してみる。そして、その世界のなかで、かろうじてつかまっていられそうな小さな取っ手を探してみる。
まるで小枝にかかったハンカチが、おそるおそる下を覗き込むときのような好奇心で、言葉の世界へと向き合えるような、そんな場所へ行けないだろうか。
2009-02-01
「丘の上、団地の窓辺」の意味するもの
読書はどこでもできそうでいて、実はそういうものではないと、このところ強く実感する。ノウハウや情報をただ知るための行為としてであれば、電車のなかでも、ファストフード店のなかでも、甲子園球場や後楽園スタジアムでも読書は可能かもしれない。
だが、小説なり詩なり、別の世界のことを描いたものを読むときは、自らをガードする壁を、すこしだけ取り払い、作品が描く世界の片隅に立ち入らなければならない。壁を開かず、ただ単に読もうとしても、ただ単に目で字面を追うという行為をしているだけになってしまう。情報誌を読むのと同じ感覚で、詩や小説を読むことはできない。
防護壁を取り払うのは、いつ、どこでもできることだろうか? どうやらそれに長けていて、ちょっとした合間に、すぐスイッチを切り替えることができる人もいるようだが、私には無理だ。通勤途中の電車のなかで、詩を読むのはかなり厳しい。私の中にある、司令塔のようなところから、やらねばならないたくさんのタスクが書かれた、巻き物のようなリストが送られてきて、読書のために取り払おうとした壁の、わずかな開口部にしぶとくまとわりつき、せっかく空きそうになった穴を、すっかりふさいでしまうのだ。
集約的な労働環境のなかで、否応にもその存在感を増しつつある、自分の中の情報統率的な司令塔と折り合いをつけ、いかにして読書環境を手に入れるか。これが、今日からこのブログのテーマである。
ところで、込み入った都市のなかでも、防護壁を取り除けるかもしれない場所があって、それが、「丘の上、団地の窓辺。」だと思う。丘の上には、いつも風がふいていて、少し寂しげに、開かれている。団地の窓からは広い芝生が見下ろせて、公園の中にいるような気分にさえてくれる。遠くが見渡せるというただそれだけのことで、私たちは焦りから解放され、私の中にある情報司令塔も、その活動を停滞する。だからその場所でなら、私は、作品の世界に足を踏み込んで本を読むことができ…はずなのだ。
今私がこのブログを打っているのは、(一応)丘の上にある、団地の窓辺である。上に書いたことが正しいならば、さぞかし読書が進みそうなものだが、それほどうまい具合に、ことは運んでいない。なかばそのために、団地に引っ越しまでしたというのに。(そのへんのノウハウ的なエピソードは、レトロダンチダイアリーにあります、とちょっと宣伝。)
どうすれば本が読める状況をつくれるか。このブログに”書く”ことの継続によって、何らかの突破口を見つけることができるのではないか?と、ひそかに期待しているのだが…。
2009-01-31
タイトルを変えた
しばらくほっぽといたこのブログですが、タイトルを変えて継続することにしました。
――と、いかにもブログ的な書き出しをしてしまったが、こういういかにもブログに書いてます的なことをかくのが、だいぶバカらしくなってきた。何度かブログをつくっては、数回書き込んでやめ、またブログをつくっては、いくつか文字を書き込んでやめ、ということを繰り返したが、これは単純に書くのが面倒だったり、書くネタがなかったりといった理由によるところではなく、結局のところ、「ブログ的文体で書こうとしなくてはならない」といった、目に見えぬ圧力によるストレスが主因だった気がしてきた。
一体全体、どうしてブログという仕組みの上で書こうとするとき、ブログ的な文章を書かなければ…という意識にしばられてしまうのだろう。ブログ的な文章は、ブログ的な文体と、ブログ的な中味によって構成されていなくてはならず、そこで書かれる事柄は、プライベートを露出させんとしているかのように見えて、ところが書く人間は、ほとんど私的な現象をあからさまにしようとはしないような内容でなければならない。誰かに見せたい、つくられた自分の姿、半プライベートな姿を表出するためのツールがブログであり、それがこの、3ペインの決まり決まったブログスタイルのなかで、延々と再生産(というか、再引用)されつづけているわけだが、その再生産をこれ以上続けても、ほとんど何ら生産的な意味はなく、電子部品と記憶領域の無駄でしかない。
と、ここまで書いたらだいぶすっきりしてきた。
このブログの新しいタイトルは、「丘の上、団地の窓辺。」というもの。なんだかタイトルっぽくないというか、「、」と「。」が変に目立つ、広告代理店が好きそうなネーミングになってしまったが、まあお許し頂きたい。
頭脳集約的な労働環境のなかで、心の残余を気づかぬうちに切り取られ、あくせくと動き回る生活が奪い去る、私の読書的時間(心のガードをあるていどあけておかなければ触れることのできない、詩的な読書時間)を、なんとかして取り戻そうという、ここ最近の私のテーマを、このタイトルがもたらすイメージのなかで、実現させたいという、個人的格闘(?)を維持するための、決意表明的なブログにしていきたい。

