感想いろいろ

http://www5.big.or.jp/~seraph/zero/

公立の方が色んな人がいるから多様な価値観を持った人と接する機会ができる、と考えるか、荒れやすいから教育上よくないと考えるか。社会階層が似ている人が集まってるところでは恋愛以外のカーストが発生しにくいという面もあります。

http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2005083100108&genre=F1&area=K10

  来春開校する同志社立命館小の学校計画で、豪華な設備や学用品が保護者の関心を集めている。ホテル提供の給食や人気ブランド製の通学かばんなど、イメージを高めようと両小とも教育内容と同等以上に力を入れる。児童募集で影響を受ける京の有力私立小も施設を増強するなど、ブランド競争が過熱している。

 教育という言葉の定義にもよる、といういつもの話。
 えー、多様な環境が多様な価値観を持つ人間を育てるというのなら、イラクの学校にでも行けば、という話。イラクは常識外だ、と反論が出るだろうが、ある種の人間にとっては、公立小が常識外だという話。上記のような理由で、オレの子供が出来たら、公立校に通わせるんだ、と言った奴ら、どうするつもりだろう。
 田舎と違い、都会では地域によって階層化が発生し、目先が利く親や、マトモな親に限って私立に通わせるので、私立でない学校には、(中略)な生徒が集まるという偏見を持っている。ある程度の収入がある親は、ストレスを受けない立場にいるか、ストレスを発散できる収入を持っていて、子供にストレスを転嫁することなく、また、子供もストレスをイジメとして発散する必要がないのではないか、という偏見も持っている。
http://slashdot.jp/journal.pl?op=display&uid=4148&id=315548
>だから僕はせめて小学校は(小学校だからこそ)子どもを公立の学校に通わせるべきだと思う。
という命題の真偽は、だから発言者が自分の子弟をどんな学校に入れるかで判断したい。まあ、Blogはエントリー内で論旨が纏まっていれば良いらしいので、こういう発言は無粋らしいのだが。


http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/kokoro/century/news/20050831org00m100108000c.html

 その母親は日本橋のデパートにつながる地下鉄の狭い階段を登っていた。先を進む6歳の息子と2歳の娘を目で監視しながらベビーカーを抱え、肩には子どもたちのタオルや着替えをつめたトートバックが重く垂れていた。ポケモンセンターを目指していたのだ。

 突然、後方から「退けよ、オラ」という野太い声がかかり、ベビーカーを支える腕が強引に押しのけられて初老の男が脇をすり抜けた。邪魔な物体のように退けられた女性は人前でオドオドしてしまうタチだったが、この時は前方にいる子どもたちへの心配もあって思わず大声をあげた。「ナニすんのよ!すいませんくらい言えないの!」。男は女性の大声に気圧されたように顔を半分後ろに向け「何だ?」と凄んだが、そのまま駆け抜けた。その際、追い越した息子になにやら「捨てゼリフ」を投げたが、息子は「わかんなかった」そうだ。

 弱いことを、倫理的な罪とみる風習ってあるよね。

・努力貧乏の働きすぎの時代"
http://kurokawashigeru.air-nifty.com/blog/2005/08/831_08f0.html

買い手としての私たちにとって、より良い製品やサービスを求める選択が簡単になればなるほど、売り手の私たちは消費者をつなぎとめ、顧客を維持し、機会をとらえ、契約を取るために、ますます激しく闘わなくてはならなくなる。この結果、私たちの生活はますます狂乱状態になる。

24時間の郊外型スーパーができて、コンビニができて便利になる一方で、そんなところぐらいしか働き口がなくなっている現実がそれだ。そして、この狂乱状態の枠外にいる人だけが、つなぎとめられる消費者としてのおいしい思いをしている。つまり土地持ちの資産家、その子弟の大学院生とニート、公務員・教員、シンクタンク職員たちだ。

 こういう書き方だと、プロレタリアートプチブルの対立を煽るかのようだ。
 要するに、レクサスに乗る階層の人がいて、そうでない階層の人がいる。公務員・教員は、レクサスに乗る階層ではないので、石を投げるのは不当な気はする。
>圧倒的に搾取される側が多いのに多数決でどちらかになるというのは一見不思議ではあります。
 国敗れて山河有り、と考えている、主に第一次産業に従事していると思われる人は、搾取が無くなれば、生産物は全部自分のもの、と考えているに違いない。国家が転覆しても、労働生産物は変わらない、と。ところが、第二次産業以降に従事している(と思われる)人であれば、国が敗れれば山河があっても失業なのだ。資本を引き上げられてしまえば、山河に工場まであっても生産は困難で、生産物を貨幣に換えることも困難だし。だから、国が敗れることに否定的なのだ。