科学と意味論

http://d.hatena.ne.jp/jouno/20051002

進化論の眼目は、非目的論的過程が、目的合理的結果を、偶発的にではなく、必然ではないにせよ十分な蓋然性で、生み出すプロセスを明らかにしたことなので、これはサイバネティクスがいかに知的興奮を誘うものであったかというのと似た話で、ミンスキーが知的なものはそれ自体は知的でない諸部分の複合の仕方として説明されなければ説明したことにならない、と喝破したのも同じ昔の話で、知性を知性で説明したら「脳の中の小人」、循環論法、デカルト松果体になってしまう。思考実験としてはフィードバックループというものの振る舞いがいかに「半ばモノに属し半ばココロに属す」ような振る舞いをするかということの方がずっと刺激的だ。そこから逆に、ココロとモノの連続性が見えてくる。進化論は人間を動物の延長に位置づけるというのはただしいのであって、しかし、かつて花田清輝がいっていたように、もうそこをつきぬけて、人間と鉱物とに一貫する連続性を見るべきなのだと僕は思う。精神はものからできているのだから、複数のモノとココロの中間形態が存在し、そこには、本質的な切れ目はない、というべきなのだ。その意味では、知性・人間中心主義は、たしかにインテリジェント・デザインのような「形而上学」と手を切れない側面を持ってもいる。徹底的に擬人化とは対極の操作として、鉱物の半-精神を見出す試み。精神によって鉱物を理解しようとする日本人の多神教的=擬人法的精神に抵抗して、鉱物によって精神を理解しようとすることが、理性の試みなのだと僕は思う。

 長いけど転載。
 反喫煙問題からの流れで発見した文章。要するに、科学的測定と政治的解釈は同一ではない、という話なんだろう。idと喫煙問題の類似って。