"「いじめっ子、いじめられっ子、そして傍観者」"

http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50403382.html

何と言っても本書の特徴は、いじめの当事者として「傍観者」という存在に着目したことにある。そう。いじめが成立するには、この第三の存在が欠かせないのだ。いじめに対する介入として行われる行動は、たいていいじめる者(the bully)への制裁と、いじめられる者(the bullied)への保護と補償しかなされないが、いじめに対して最も効果があるのは、この第三の存在である傍観者(the bystander)を、「目撃者」(the witness)へと転じさせるというのが本書が提示する数多く処方の中で最も特徴的なものであろう。

 傍観者が、目撃者になろうとすると、
 「当事者でもないくせに」
 「正義の代行者ぶりが気に食わない」
 とブクマされること必至かと。


マルチン・ニーメラーの言葉

はじめにやつらは共産主義者に襲いかかったが、私は共産主義者ではなかったから声をあげなかった。
つぎにやつらは社会主義者労働組合員に襲いかかったが、私はそのどちらでもなかったから声をあげなかった。
つぎにやつらはユダヤ人に襲いかかったが、私はユダヤ人ではなかったから声をあげなかった。
そして、やつらが私に襲いかかったとき、私のために声をあげてくれる人はもう誰もいなかった。


 いじめが学校で無くならない理由はいくつか考えられ、一つにはいじめが(いじめにあう人間を除いては)合理的だからだろう。あと、日教組的なものは、「強制力を伴わない倫理の実施」を目標としているが、「強制力を伴わない倫理」は無意味であること、それどころか「強制力を伴わない」命題が、倫理とみなされないこと、があるんじゃないだろうか。