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2010-05-05

「人を殺してはいけない」という《信仰》と公理「人を殺してはいけない」という《信仰》と公理系を含むブックマーク

http://d.hatena.ne.jp/daen0_0/20100503/p1の『「なぜ人を殺してはいけないの?」に、ニーチェマジレスしたら - 誰が得するんだよこの書評』に書かれたいたことから。

「人を殺してはいけない」というのも、やはり《信仰》にすぎません。その《信仰》を世の中の大多数が共有すると、《真理》だとされます。しかし、実際はその教区限定の《真理》なのです。教区の外には、異なる《信仰》をもつ人だっているのです。信者たちは、異なる信者を批判するとき口々にこういいます。「自分たちの言っていることこそが《真理》だ。だって《真理》なんだから」。そして相手を異端者だと侮蔑します。

http://d.hatena.ne.jp/daen0_0/20100503/p1

このあたりは数学公理系と似ているかなと感じました。ユークリッド幾何学が唯一の物ではなく、無数の非ユークリッド幾何学が存在して、公理系としては同等であるといったような部分についてです。

しかし、公理系として同等である無数の非ユークリッド幾何学の全てが同等に検討されているわけではありません。数学的な意味のあるいくつかのものについて検討されているわけですが、この数学的な意味というのも人間が決めているにすぎないものです。

公理は記号で書かれたただの論理式の集まりなので、理屈の上ではナンセンスな公理のもとに全く内在的な意味の無い数学理論を構築してもよいことになるが、多くの数学者はナンセンスな公理系ではなく、何らかの直観的・歴史的な意味や妥当性にもとづいた公理系を研究の対象にしている。

だがどういう公理系が「直観的歴史的妥当性がある」ものであるのかについては必ずしも数学者全員の合意が得られているとは限らない。例えば直観主義論理の立場では排中律は認められない。 排中律とは任意の命題Aに対しA自身かAの否定のどちらかが成立する、という要請で一つのモデルの中では命題の真偽は確定的なものであるという立場の推論規則である。 通常の数学では排中律を認めるが、直観主義論理の立場に立った研究者たちは命題の真偽について実際に証明できる手続きが与えられることを要請する。

公理 - Wikipedia

「人を殺してはいけない」というのを公理とする公理系としてこの世界を解釈することも、比喩的な意味で可能です。それでは、ユークリッド幾何学平行線公理を変更することによって非ユークリッド幾何学が生まれたように、「人を殺してはいけない」という公理を変更することによって生まれる世界を考えることはできるでしょうか。


「人殺しは絶対的な善だ。おれはそう信じている」「法律で裁かれたっておれは別にかまわない」「殺人をキモいと思うやつもいるが、おれはそうは思わない」「逆に社会の常識は殺人者にとっては迷惑だ」

http://d.hatena.ne.jp/daen0_0/20100503/p1

これは新たな公理系というよりは、「人を殺してはいけない」という公理系における例外、特異点のようなものだと考えられます。公理系として成立するのは、たとえば「人殺しは絶対的な善だ。」というのを社会の規範として含むような場合です。このとき、社会の多数がこの公理に従います。しかし、人殺しが絶対的な善だとして、多くの人が人殺しをしていけば短い期間ですべての人が死んでしまい、その社会は終了してしまうでしょう。これでは社会として不安定です。少なくとも今の社会と同程度の安定性は欲しいところです。


藤子・F・不二雄氏の「気楽に殺ろうよ」では、いくつかの公理つまり社会の規準を変更してそれなりに安定している世界を描いています。例えば、食欲に関する事柄と性欲に関する事柄が入れ替わっていて、食事などがタブー視され裸などはあけっぴろげになっています。

殺人に関しても、限定的ですが容認されています。まず、自分の子供を殺すことはまったく自由に行えます。また、子供を殺さずに別の誰かを殺すことも可能で、その権利を売買することも可能です。1人を誕生させることにより、1人を殺す権利を得るという具合です。これならば無制限に殺しあって、誰もいなくなってしまうことはありません。


動物などの世界だと、他の動物を食べる弱肉強食ではあっても、同じ種族で殺しあうというのはあまり存在しません。昆虫などでは、子が親を食べたり、交尾後の雌が雄を食べるといった現象も存在します。これを何とかして人間の社会にあてはめれば、これまた限定的な条件ではありますが殺人を容認する社会となります。小林泰三氏の作品に、こういった虫と似たことが行われる世界の話があります。しかし、その世界でも限定された場合の殺人が容認されているだけであって、一般的には「人を殺してはいけない」という公理は存在します。


どうもある程度でも安定に存在する、「人を殺してはいけない」という公理の存在しない社会を考えるのはかなり難しいようです。社会の外部に対する殺戮を容認する場合でも、内部での殺人まで認めると社会の維持が難しくなります。善悪と別の理由で人を殺すことを制限すれば可能でしょうが、それは形をかえた善悪にすぎないように思います。殺すのが追いつかない速度で新しい人が誕生する場合ならば、もしかして成立するかも。

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