デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

情報リテラシーについて/きけんな情報強者たち

このエントリーをはてなブックマークに追加
Share on Tumblr




ツイッターでつぶやいたネタを再編。
尊敬しているブロガーさんの1人・内田樹先生がこんなエントリーをお書きになっていた。


情報リテラシーについて -内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/2011/09/16_1350.php


いわく、情報格差が拡大している。かつての日本は一億層中流の「情報平等社会」を実現していたが、インターネットの登場によりそれが崩れた。“強者”のもとには質の高い情報が集積される一方で、“弱者”は質の低い情報(デマ等も含む)に囲まれた環境で満足してしまう。このような状況は危険なので、私たちは「情報平等社会」に回帰すべきではないか。情報(価値観や思想、正義を含む)というものは、「公共の議論の場」で批判にさらされることで、はじめて「正しさ」を得られるのだから――。
だいたいこんな論旨だ。これって、なんかおかしくない?
というわけで、つらつらと考えてみた。




       ◆ ◆ ◆




インターネットの登場による言論の爆発は、生物史におけるカンブリア大爆発によく似ている。それまでマスメディアが担っていた「情報統一」が失われ、価値観や政治観――すなわち「正義」が多様化した。
冷戦時代を経験している人たちは、こういう正義の多様化を恐れるようだ。だけど、冷戦時代に世界が経験したのは「正義」の二極化であって、多様化ではない。その前の第二次大戦を例にとっても、やはり連合国・枢軸国という「二極化」が混乱の原因だった。
正義の二極化は社会不安を生む。では多様化はどうだろう。社会に混乱と不安定をもたらすものだろうか。
サッカーワールドカップで、私はアメリカチームに感動した。打たれ強いタフなプレイスタイルもさることながら、選手もスタンドも、アメリカチームは他のどの国よりもカラフルだった。肌の色や服装が、である。人種・文化の壁を越えて「アメリカ」という旗印の下に団結していること。そのことに深い感動を覚えた。
「正義」の多様化は、たしかに細かな衝突や対立を生む。アメリカの犯罪発生率や社会問題を見ればそれは明らかだ。しかし、あくまでも「細かな」ものにすぎない。かの国が世界でもっとも繁栄しているのは事実だ。アメリカはもともと「自分たち以外の正義を認めない」性質を持っていたが、それも9.11後の10年で崩れつつある。
社会が「正義」の多様化を受容することは不可能ではない。


「正義」の多様化を恐れ、単一化に回帰しようと望む――その気持ちは解らないでもない。自分の知らない価値観に触れるのは、誰だって恐い。その恐怖心がゼノフォビアを生み、レイシズムを肯定する。「正義の単一化」を望むのは、多様化に対応できない“老人的な”感情である。
恐竜の絶滅は生物史上もっとも魅力的なミステリーだが、仮説のひとつに「おなら説」というものがある。白亜紀末期、それまでの裸子植物にかわって被子植物が一気に繁栄した。被子植物食物繊維が多いので、草食恐竜たちはおならが止まらなくなる。そのメタンガスにより地球が温暖化し、環境が激変。植生の変化についていけなくなった恐竜たちは絶滅した、というのが「恐竜絶滅おなら説」だ。被子植物の発達という「生物の多様化」が、環境変化の原因となり、恐竜たちを絶滅に追い込んだ。
たぶん恐竜たちは、裸子植物が支配的だった時代に帰りたかっただろう。しかし時代は戻らない。
「正義の多様化」も同じだ。この流れが逆転することはおそらくないし、マスコミが支配していた「単一の正義」の時代には戻れない。「多様性を受け容れながら安定的な社会を作る」ことこそ、私たちに課された宿題だ。
「正義の多様化は危険だ」と言うとき、それは誰にとっての、何に対する「危険」なのだろう。“話の通じないヤツがいるかもしれない”という漠然とした不安にすぎないんじゃないの? 通じないヤツには、通じるように努力するのが人間ってものでしょう。それを放棄する態度はいただけない。


多様化を受け容れるには、「公共の言論の場」が必要で、そこで「正義」の生存競争をさせなければいけない。現在、インターネッツでしきりと喧伝される「陰謀論」は、そういった公の場から切り離されているから危険なのだ――。と、内田先生は言う。


本当に?
言論の場から「完全に切り離された人たち」なんて実在するの?


生物の場合、小さな島などの隔絶された環境では特殊な進化を遂げる。ガラパゴス諸島とか小笠原とかね。なるほど言論や正義というものも、閉ざされた環境ではいびつな進歩を遂げるだろう。そうしてオウム信者はテロに走った。しかし、この情報化の時代に、「公共の言論の場」から完全に隔離された言論空間なんて存在しうるのだろうか。どんなに過激な思想の持ち主でも、正反対の思想に簡単に触れられる。これこそ情報化社会の美点ではないか。
また仮に、“単一の思想にしか触れられない”という「特殊空間」が存在するとしよう。そこでいびつな「正義」が醸成されてしまうとしよう。だけどその「正義」は、公の場で鍛えられた「正義」に打ち勝てるのだろうか。“移入種”に生存競争で負けないほどの「説得力」を持ちうるだろうか。
たぶん無理だろうし、心配には及ばない。


一般的に、生物の多様性は適応度を高め、単調性は適応度を下げる。遺伝的な多様性の豊かな種だけが、環境の激変に耐えられる。逆に、多様性を失うと「進化の袋小路」に迷い込んでしまう。たとえばコアラはユーカリの葉しか食べない。もしも環境の変化でユーカリが無くなれば絶滅するしかない。
多様性を失った結果、環境の変化に耐えられなくなる。これを「進化の袋小路」と呼ぶ。
これは何も生物に限った話ではない。私たちの価値観や知識――すなわち私たちの「正義」にも同じことがいえる。単一の正義しか持たない社会は、環境の変化にすこぶる弱い。
たとえば「都会の核家族として生活し、父は終身雇用・年功序列の会社で働き、母は専業主婦、子供たちは“いい学校”を目指して勉強する」という物語が、かつて日本にはあった。こういう生き方・価値観が日本人の「正義」だった。この正義はマスコミという強力な伝播装置を利用し、この国を席巻していた。
そして日本の「正義」は多様性を失い、単調なものになってしまった。
その後、私たちを取りまく社会環境が激変したのはご存じの通りだ。しかし日本は:日本人はその変化についていけなかった。この国が死に体の20年を過ごしたのは、この国の「正義」が進化の袋小路にハマっていたからに他ならない。


「情報平等社会」は正義の単調性を求める社会だ。もう二度と戻れない社会でもある。人々の価値観は多様であればあるほどいい。団結し、二極化や単一化に向かうほうが危険だ。正義の二極化は社会不安を生み、単一化は社会の硬直化を招く。
また、「情報のプラットフォームが無くなった」という認識は誤りだ。私たちはネット社会という、最強の情報プラットフォームを手に入れた。双方向でかつ情報の不均等を排した、正義の生存競争にとって理想的なプラットフォームだ。つぎの時代はどんな価値観が勢力を伸ばし、支配的になるのだろう。
活発な生存競争のなかから、すぐれた思想・アイディアが生まれ出るのを私はわくわくしながら見守りたい。
生存戦略、しましょうか。






付記1)遺伝子が生物のカラダを媒介として伝播していく情報的存在であるように、「価値観」「思想」「正義」等は人の脳みそ(記憶や思考)を媒介として伝播していく情報的存在である。と、私は考えている。より多くの人々に共感されることが、進化的な「成功」だといえる。


付記2)したがって「価値観」や「正義」の“論理的な正しさ”よりも、“説得力”に私は着目する。論理的・道義的に誤謬があるとしても、ヒトラーのカラーフィルムによる演説はとてつもない説得力を持っていた。社会を変えるのは思想の“正しさ”ではなく、“説得力”なのだ。恐ろしいことに。


付記3)価値観・思想・正義――これらの「正しさ」は、説得力を増すための一要素にすぎない。どんなに「正しい」思想であっても、聞いた人がその論理的な正しさを理解できなければ意味がない。社会的に無意味だ。思想の正しさを担保するには反証可能性が必要だが、正しさだけでは世の中を動かし得ない以上、「公共の議論の場」の欠如を現代社会の「欠点」と呼ぶのはいささか苦しい。売れないラーメン屋が(本当は宣伝活動に問題があるのに)、味(=論理的正しさ)の向上のみで売り上げを伸ばそうとするようなものだ。
論理的・道義的に正しい思想だけが社会への影響力を持つわけではない。



付記4)念のために論点整理:
メタな視点が大事とか、どんな知的集団に属しているのかが重要とか、その辺は反論の余地がないです。が、少数意見を「おろか」だと切り捨てるのはいかがなものか、という疑問から反論を試みています。多様性のほうが大事だよ。とくに考察の余地があるのは次の二点。

情報の二極化がいま進行している。この格差はそのまま権力・財貨・文化資本の分配比率に反映するだろう。私は階層社会の出現を望まない。もう一度「情報平等社会」に航路を戻さなければならないと思っている。そして、その責務は新聞が担う他ない。

→情報平等社会への回帰は不可能だし、望ましくない(社会不安や硬直化を招くから)。情報格差により権財文の資本分配比率に偏りが生じるのは間違いない。けれど、それは「情報のチカラ」だけで解決できる問題ではない。

もちろん、「情報難民」たちもネット上に「広場」のようなものをつくって、そこに情報を集約することはできる。けれども、彼らがそこに集まるのは、「自分に同調する人間がたくさんいることを確認するため」であって、「自分の情報の不正確さや欠落について吟味を請うため」ではない。

→そういう場に集う人たちだって、いろいろな情報に触れているはず。そういう人たちが「反証機会のある場所」を絶対に見ないと言い切れる理由はあるのだろうか。「偏った意見をいうヤツは、偏った情報にしか触れていないはずだ」という先入観に基づいた論理であり、客観性に欠ける。
ヒトは、より説得力のある「正義」を信じる生き物だ。より説得力のあるほうへと傾く「流動性」を持っている。
様々な考え方に触れられる時代だからこそ、どんな思想の持ち主であれ、その思想を“選び取った”と見なすべきだろう。過去の常識に照らしてその思想がどんなに「正しくない」ものであったとしても、その人の「選択権」を否定する理由はあるのだろうか。高学歴なかしこいヒトには、「お前らはバカだから自分で選択するな」と言う権利があるとでもいうのか。どれぐらいかしこければそういうコトを言っても許されるの? 大卒? 旧帝大以上卒? それとも東大卒だけ?
人間は、どんなバカであっても、自分の頭で考え、判断を下す生き物だ。人間的であるとはそういうことだ。思想や哲学を愛する人たちは、ついつい演繹的な思考方法で世の中を分析してしまう。しかし、まずは「人間はこういう行動・思考を取る」という観察に基づいて、帰納的にものごとを判断するべきではなかろうか。
ヒトは多種多様な思想・価値観・正義を持ちうる。そういう生き物だ。そうした「心の多様性」を認めることが、これからの私たちの社会には求められている。





.