2011-11-08
『空のかなたで菩提樹が』
創作 | |
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――――我々はただ願うのみ。
我々は、ただ祈るのみ。
一 ◆ 現在(1)
最後の夜だった。
彼はしきりとワインを勧めた。きっと、酔わせたかったのだ。脳みそがぼうっとしているうちに、言いたくないセリフをすべて聞かせてしまおう――そういう魂胆だったのだ。
「千夏、きみには学業もある」
制服を押し着せられて、リボンで首を絞められる。あんな収容所の、どこが教育施設と呼べるだろう。白ワインのグラスが照明を跳ね返していた。この渋くて酸っぱい液体は、ほんとうは今でも苦手。なんとか飲み干せるようになったのは、この男がいたから。
糊のきいたスーツに、しわの刻まれた手。左手の薬指にはリングが光っている。
「続けていくことは、きみのためにもならない。僕たちの関係は、お互いにとって不利益なものになってしまったんだ。分かるね」
まただ。
この「分かるね」というセリフを、何度聞かされただろう。親でも教師でもない、甘ったるい声。同年代の男たちには言えないコトバ。この一言に、何度だまされてきただろう。騙されるのが嬉しいときもあった。
「……うん」しおらしい声を出してみる。「分かります」
ほんとは、ぜんぜん分からない。
相手はホッとしたように頬を緩める。おきまりの表情だ。初めてこの顔を見たのは、ワインバーに連れていかれた時。味なんて全然分からないけれど「美味しいです」と答えた。あの時もこいつは、この顔だった。
「これを受け取ってほしい」
白いテーブルクロスの上に、茶封筒を差し出す。皿のうえでフランス料理が冷えていく。封筒の厚みは、およそ一センチメートル。
「イヤラシイと言われそうだが、せめてもの気持ちなんだ」
中身は、確かめなくても分かっていた。こいつと体を重ねるたびに渡されていたから。
「これで最後――って、ことですね」
だけど、こんなに分厚い封筒は、今まで見たことがなかった。相手はかぶりを振る。西陣織のネクタイがキラキラと光る。
「いいや、しばらく距離を置こうと言っているだけだ。何か困ったことがあれば、いつでも連絡して欲しい。僕に出来ることなら、何だってやる」
歳に似合わず、キザなことが大好きな男だ。こちらのワガママをなんでも聞いてくれた。うなるほどの金を持っているこの男に、出来ないことなんて無さそうだった。
「きみは聡明だ。――無暗に泣きわめいたり、ヒステリックな電話をかけてきたりはしないだろう。それがどれだけバカバカしいことか分かっている。お互いを傷つけるだけだと知っている。……もしも、きみが連絡をくれたなら、それは、よほどのことなのだろう。僕は必ず電話を取るよ」
最後の演説を聞きながらグラスを取る。無発泡のはずなのに、くちびるにチクチクと滲みる。
「きみを信用しているから、こんなことを言える。きみの賢さを信頼しているからね」
「わかっています」
そうか、と相手はうなずいた。そしてまた、あの微笑みを浮かべる。
「きみと会えてよかった。愛していたよ、千夏」
二 ● 四十五億年前
十一次元を折りたたむ機構に壊滅的な打撃を受け、我々は虚空にとり残された。
我々が問う。/なにか手はないのか。
我々が応える。/だめだ、手の施しようがない。
折りたたみなしで「もといたばしょ」へと回帰するには莫大な時を要するが、時間的な断裂は我々の存在を引き裂き、連続性を死滅させる。しかるに我々は停泊を余儀なくされた。
生まれたばかりの恒星系だが灼熱の時期は終わっており、惑星たちは分厚い大気のなかに電磁的な波動を持っていて、硫酸の積乱雲から放たれるそれらは真空中を走査し、星系全体を巨大な網の目に治めているため、星空に広がる底引き網へと、我々の意識を滑り込ませることができた。
そしてこの恒星系は、我々の意識下に置かれた。
いまや岩石の一つに至るまで、我々の「いちぶ」だ。
我々を繋ぎとめる容器は「みなもと」をほとんど失っており、かろうじて残された熱量を使って、我々は自らの存在を転写したが、残された「みなもと」はあまりにも少なく、我々にできることは極めて限定されており、したがって我々の「自己性」を極小の別容器へと転移できたことは奇蹟といっても差しつかえなく、「自己性」を詰めた別容器はこの星系独自の素材で武装させて星系全体へと拡散した。
彼らはいつか、萌芽する。
その日まで我々にできることはない。
三 ▼ 二週間前(1)
ベラは思わず怒鳴った。
「だから、無理だと言っているじゃないですか!」
ごちゃついたテーブルの上には、小さな鏡が置かれている。ああ、また酷い顔。二十六歳の美貌が台無しだ。背後のブラインドからは、アジア独特の黄ばんだ光が差し込んでいる。この街に漂う香辛料の臭いがベラは苦手だった。壁の向こうからは、蒸着装置の駆動音が聞こえてくる。ががが、ががが、という断続的な叫び声。
「スケジュールを見てください、そんな急に増産をかけたりできませんよ!」
電話の向こうは米国本社の上司だ。アジア統括部長というのが、あのハゲたWAPSの肩書だ。
『そう言わないでおくれよ。いいかい、ベラ。これは君にとってもチャンスなんだ。わかるだろう。ビジネスにはね、攻め時ってものがある。今こそ、その時なんだよ。もしここで、この受注をさばくことができれば、私たちはマーケットで優位に立てる』
優位に立ちたい? あのハゲは誰かに威張り散らしたいだけだ。本当はマーケットのことなんて、これっぽっちも分かっていない。わざとらしい巻き舌で「ポルトゲス」とベラを罵り、社訓を理解しろと叱りつける。
――あの浅学菲才野郎、私はスペイン系だ。
かつてあの国が左右に分断されていたころ、ベラの先祖は米国に渡った。戦火を逃れるためだ。そしてカリフォルニアのブドウ畑で、ベラは生まれた。
『とにかく、これは業務上の命令だ。こなしてもらえるね?』
日系企業には務めるものじゃない――、同級生の忠告を、もっと真剣に聞いておくべきだった。ベラは学生時代を英国で過ごし、生物学を学んだ。修士号を取得したのは、たった一年前の出来事だ。なのに今はユーラシア大陸の片隅で、有機溶媒まみれで働いている。
ベラの会社は、もともと日本のソーゴーショーシャの一事業部門だったらしい。分離・独立した現在も、社員の半分近くが日本人で、カタガキをめぐる競争に心血を注いでいる。社訓にブシドーの文字を見つけた時、ベラは思わず吹き出してしまった。実情を知った今では笑えないけれど。
米国本土のオフィスで研修を受けた時から、なにかおかしいと感じていた。そして研修の三ヶ月後には、地球の裏側へと飛ばされた。
「こなせる、こなせないの問題じゃありませんよ。ぜったいに不良品が――」
ぶつん、と電話が切れる。Fから始まる四文字を、思わず吐きだす。
頭に浮かんだのは、現場主任の顔だった。四十代の半ばだというが、ベラの目にはもっと幼く見える。黒々とした髪と、日に焼けた肌。粗悪な酒のせいで、前歯が一本抜けている。ベラが工場内を歩き回ると、胸や尻を撫でまわすように眺めてくる。そして仲間たちと、広東語で笑い合うのだ。
頭を抱えたかった。
ここから三百キロ離れた工業団地では、日系企業でストライキが続いているという。果実みたいな社名のパソコン工場では自殺者が絶えない。中国当局も重い腰を上げようとしている。労働者たちは(サボってもいいのだ)と気づきはじめている。言葉が分からなくても、ぴりぴりとした空気を肌で感じていた。
ともかく、まずはあの現場主任と話をつけなくては。ベラは立ち上がり、部屋を出る。とたんに騒音に包まれた。眼下には、工場のラインが広がっている。断続的な機械音と、煮詰めたゴムの臭い。
ブリキの階段を、ベラは駆け降りる。
四 ◆ 現在(2)
彼とはレストランの前で別れた。
「家の近くまで送って行くよ」と言われたけれど、断った。
新宿の西口は閑散としている。吹き抜ける風に夏の終わりを感じた。ビルの影で男女が絡まり合っている。なるべく見ないようにしながら、駅方面へと急ぐ。……でも、目的は電車に乗ることじゃない。駅の近くにはディスカウント・ストアがある。黄色い看板が目印だ。乱雑に積まれた商品の中に「あれ」もあるはず。
悲しみも、怒りも、湧いてこない。ただ、驚きが胸を満たしていた。あの男はこちらの家を知っている。メールで、そしてベッドの中で教えた。それに対して自分はどうだ。あいつの家はおろか、名刺さえ、もらったことが無い。自分の無恥さに驚いた。笑えた。
いつでも連絡が欲しい――。口ではそう言ったけれど、明日には携帯の番号を変えているかも知れない。彼のクルマのナンバープレートを今でも覚えている。だけどキザな趣味とは裏腹に、マセラティでもジャガーでもなかった。よくある国産車。グレードは高級なのかも知れないけれど、どこのレンタカー屋にでも置いてある。そして住所も知らない。彼にたどり着くすべを持っていない。
それでいいのだ、と思う。
だって彼との関係は、お仕事だったから。わりのいいアルバイトだったから。姉さんにも、あのクソババアにも、そう言ってある。「今日はバイトだから遅くなる」と言って、いつも家を出る。だから、これでいいの。
血は争えない。あのクソババアも同じだ。男から奪い取った金で生きている。産んでと頼んだ覚えはないのに、ポンと孕みやがって。父は電力会社の測量技師だったという。よく分からないけれど、セスナ機に乗る仕事だったらしい。その小さな飛行機が落ちて、父は死んだ。物心がつく前の話だ。あのクソババアは、その時の遺族保険で糊口をしのいできた。男の搾りかすで、娘二人を育てた。
歳の離れた姉は、逃げ出すように独り立ちして、いまは離れた町の役場で働いている。残された二人は冷戦状態だ。小さなアパートに帰っても、会話なんて無い。
気づけば駅前を通り過ぎていた。新宿の大ガードをくぐりぬけ、靖国通りに出る。ローファーを履いた足が痛い。学校指定のダサいやつ。だけど、ああいうレストランに履いていける靴を、他に持っていなかった。
ディスカウント・ストアは黄色い看板を点滅させている。下品な色遣い。雑多な陳列と、こちらの神経をすり減らすようなBGM。なにを買うかは決まっていた。
ガムテープとライター。そして練炭。
五 ▼ 二週間前(2)
現場主任は首を振った。
〈無理むり、そんなの出来っこない〉
身ぶり手ぶりで意思疎通をはかる。彼の背後には生産ラインの操作パネルがある。その向こうは溶剤を混ぜ合わせる巨大な釜だ。湯気を上げて、鼻の曲がるような悪臭を放っている。
「でも、この装置の稼働率はもっと高くできるでしょう。カタログをチェックしてみたけれど、限界値の七割程度しか使っていないはず。全力を出せば少しは――」
ペッと唾を吐いて、彼はベラを遮った。床に掘られた排水溝を粘つく痰が流れていく。タンク洗浄に用いられた工業用水が、絶えずこの溝を流れている。
〈この攪拌機は、もともと天然ゴムを念頭に置いて設計されている。だけど、今使っているのは合成ゴムだ。そっちの方が安いからと、天然を取りやめたのはあんたたちだ。だから、しっかり混ざらないんだよ〉
「稼働率が悪いのはそのせい、ってこと?」
現場主任はうなずく。場内はうだるような暑さだ。彼のこめかみには玉の汗が光っている。
〈俺は稼働率をあげようが一向に構わない。だけど、品質は保証できない〉
「逆に聞くけど、カタログ通りの稼働率で動かしたらどうなるの?」
ふんと鼻を鳴らし、彼は「知らないね」と答えた。この男が口にする唯一の英語だ。何かあるたびに「知らないね」と返される。が、ベラは退かなかった。「経験豊富なあなたの意見を聞きたい」と食い下がる。
現場主任はひたいをぬぐう。きまり悪そうに左右に目を向けた。ラインのそこここで、汗まみれの男たちが働いている。作業のかたわら、ベラたち二人にちらちらと目を向ける。
〈熱に弱くなる〉
「どのぐらい?」
〈ひなたに置いておけば、半日もせずに溶けはじめる〉
と、いうことは、一応は製品の形にできるということだ。少なくとも日陰に保管している間は、形を保っていられる。
しかし製品の性質上、あらゆる環境に対応できなければいけない。ちょっとした熱でダメになるのは明白な不良品だ。米国本社の上司の顔が、ベラの脳裏をよぎった。(――おい、ポルトゲス。昼下がりだといって寝ぼけるんじゃないぞ。ここはあんたらの国じゃない)そんないつもの嫌味では済まされない。
「ハイ、ミス。エクスキューズ、ミー」
たどたどしい言葉にふり返ると、事務担当の女の子が立っていた。ハイスクールを出たばかりという雰囲気の小柄な子だ。この工場での経験はベラよりも長い。来たばかりの頃から色々と教えてもらっている。ピザを食ってふんぞりかえっているどこかのデブよりも、よほど頼りになる。
「お電話です、国外から」
「どこ?」
あのハゲの声を思い出す。さっきの電話では、なにか言い足りなかったのだろうか。ならばこっちにも言い分がある。相手は米国人だ、多少は話が通じるだろう。少なくとも、日本人よりは。――親会社から時々視察に来る日本人のことを、ベラはひそかに「プロバブリスト」と呼んでいる。口を開けば「おそらく(プロバブリィ)」と言うからだ。こちらがどんなに困難を訴えても、「おそらく大丈夫でしょう」「おそらくあなたならできます」「おそらく気持ちの問題です」としか答えない。でも、今回ばかりは本当にムリ。
「ええと、その、U・K・です」
――英国? ベラは眉をひそめる。
「ジョージアと彼は言います……言いました」
「ジョージじゃなくて?」
相手はこくこくとうなずく。この子の発音は「he」と「she」とを聞き分けづらい。
思い当たる人物は、一人しかいない。どんなに忙しい時も午後の紅茶を欠かさず、趣味はお菓子作りと編み物の英国婦人だ。とても科学者には見えなかった。
「一年前まであなたの先生をしていた、と言っています」
大学時代の恩師。ベラは現場を放り出して、事務室に向かった。
六 ★ 現在(3)
ユーロビートが空気を震わせている。天井にはミラーボールが回り、ソファ型の座席には男女がペアで座っている。褐色の肌を大きく露出させて、アリスは踊っていた。客の膝の上によじ登り、乳房を押しつける。客の手が伸び、衣服のすき間から指を這わそうとする。アリスは人差し指を立て、「ダメ」と示す。この店は、そこまでさせる店じゃない。
アリスというのは源氏名だ。最初は奇妙な風習だと思った。アリスの故郷では、名前を変えるのはそんなに珍しいことではない。世をはばかるための仮の名前なんて、必要だとは思えなかった。だからアリスは、誰にでも「アリスです」と名乗っている。ビザを取ったときの名前は、もう使わなくなった。そのビザも、とっくの昔に切れてしまった。
「お客さん、つぎはなに飲む?」
客はひとしきり考えて、一緒に乾杯しようよ、と誘ってきた。
「嬉しい! ありがとー!」
ソファの上に半ば立ちあがるようにして、ボーイを呼ぶ。客にはスカートの中が丸見えだろう。これぐらいはサービスだ。相手のふところ具合を予測しながら、ぎりぎり払えそうな金額のボトルを入れる。
「他のコも呼んでいい? みんなで飲もー!」
アリスはタイの農村に生まれた。祖父はその土地では有名な地主だった。ジャングルに囲まれた静かな町で、アリスは幼少期を過ごした。家族関係も良好で、正月には数え切れないほどの親戚縁者が集まった。
家から一時間ほど歩いた場所に、小高い丘があった。菩提樹の古木が生えていて、その木陰は子供たちの遊び場だった。眼下には水田と畑が広がり、鮮烈な緑を放っていた。
――この菩提樹の枝を折ってはいけないよ。
子供たちの掟だ。独り遊びを許され、菩提樹の丘に初めて来た子供は、まずこの掟を教わる。子供たちの間に代々伝わる昔話があって、それを訊かされる。
――昔々、怠け者の男がいました。彼はこの菩提樹の木陰で、日がな一日を過ごしていました。輪ゴムを木の幹に飛ばしては、時間を潰しているのでした。
――そんな昔に、輪ゴムなんてあったの?
――気にしないの! そういう細かいことは言いっこなし!
頭上は、丸い木の葉に覆われている。強い日差しに透かされて、葉脈がくっきりと浮かび上がる。空気はやわらかな湿気を帯び、丘を吹き上げる風に、汗が気持ちいい。
――ある日のことです。怠け者の男がいつものように輪ゴムで遊んでいると、菩提樹の精が現われました。そして男に訊くのです。「お前はいつも、そうやって何もせずに過ごしている。何か欲しいものや、やりたいことはないのかね」男は答えます。「私には野望や欲がありません。身の丈に合った、つつましい暮らしができればそれで充分です」すると菩提樹の精は腕を組み、ふむ、と考えました。そして男のみすぼらしい姿を眺めてから、言いました。「そこの枝を三本折って持って帰りなさい。これからは働かずともよかろう」男が言われたとおりにすると、その夜、枝が金塊に変わったのです。男は大金持ちになりました。
幼い子供は、目を丸くする。
――それならボクもこの枝を持って帰る!
年長の子が口を尖らせる。話は最後まで聞きなさい、と。
――さて怠け者の男の近所には、ずる賢い男が住んでいました。ずる賢い男は、菩提樹の枝の話を聞いて、さっそくこの丘にやってきました。そして、この樹の枝を折ったのです。すると木陰から、菩提樹の精が現われました。かんかんに怒っていました。
子供たちは、ごくりと唾を飲み込む。
――菩提樹の精は言いました。「いったい誰の許しを得て、この枝を折ったのだ」しかし、ずる賢い男は、答えられません。菩提樹の精はますます恐ろしい姿になって「いったい誰からだ」と迫ります。ずる賢い男はほうほうの体で逃げ出しました。でも、折った枝は手放しませんでした。
年長の子は、諭すような口調になる。
――その夜、枝は金塊にはなりませんでした。そのかわり獰猛なコブラになって、男の足に噛みついたのです。ずる賢い男は一命を取り留めましたが、下半身を動かせなくなりました。そして二度と、この丘に登ることも、菩提樹に触れることも、できなくなりました。
あの頃はすべてが眩しかった。丘の上の菩提樹に見守られて、毎日が楽しかった。
歌舞伎町で男に媚びを売る未来なんか、アリスは想像していなかった。
客は執拗に、衣服の下へと指をのばす。作り笑いを顔に貼り付けて、アリスはそれを振り払う。何度も、何度も。
七 ● 二十二億年前
恒星系に生命が根付き、順調に成長を見せていた。ほぼすべての惑星に、生物の萌芽があったと言ってもいい。が、可能性は限られていた。熱量の過多や、重力の影響。そして大気の組成。萌芽した命は、しかし、次々に途絶えていった。
残る可能性は三番目の惑星だけだ。
生命はいまだ複雑さを体得しておらず、核酸の外側を細胞膜で覆っただけの単純な姿をしている。しかし、その中に変わった働きをする者が現われた。彼らは光を糧として、酸素を排泄した。
我々はただ、傍観していた。絶望を胸に抱いて。
海から放たれた酸素は、大気中のメタンを手当たり次第に酸化した。惑星を温暖に保っていたメタンはあっという間に消え、北極と南極とに巨大な氷床が現われた。それは徐々に海を覆っていく。白い氷原は太陽の熱を跳ね返し、気温をますます低下させる。
そして全球が凍結した。
太陽周期のいたずらだろう。かつて豊かな水をたたえていた惑星は、今や見る影もない。地表は厚さ一キロメートルの氷で覆われた。極から赤道に至るまで、惑星の表面に液体の水は無くなった。浅瀬はすべて氷漬けとなり、巨大な氷塊は深海にまで到達した。氷に閉ざされて、海そのものが消えた。
生命は途絶えるかに思われた。
八 ◆ 現在(4)
男の金で、靴を買った。とびっきり高いヤツ。学校指定のローファーなんかじゃ、三途の川は渡れそうにない。
西武新宿駅の脇にある、薄汚い公衆トイレだ。包装を破って、新品を取り出す。途中のコンビニは、どこもトイレを貸してくれなかった。こんなことなら、買ったその場で履きかえれば良かった。
こうした要領の悪さも、血だろうか。
小学生のころ、「自分の名前の由来を調べなさい」という宿題があった。どうして千夏と名付けたのか、クソババアに聞いた。あいつは苦笑しながら、「あなたを授かったのはとても暑い夏だったから」と言った。ただの自然現象、なんのひねりも無い。そして申し訳なさそうに肩をすぼめ、「本当はあなたを生むつもりは無かったんだけど」と付け加えた。その言葉の意味を理解したのは、もう少し経ってからだ。保健体育の授業を受けて、母の真意を知った。
姉とは十歳近く歳が離れている。
電力会社は安定した仕事だと聞くけれど、父のような末端の労働者なんて、給料はすずめの涙だ。だから「子供は一人まで」と決めた両親の判断も、理にかなっていた。
だからこそ、要領の悪さに笑いたくなる。うっかり孕んでしまったから、産むしかなくなった。季節にあわせて、お手軽な名前を付けた。そして産まれた子供は、父の死によって生かされている。バカじゃねーの、このカラダは名実ともに、男の搾りかすだ。
姉とは仲が悪い。
一緒に遊んでもらった記憶はほとんど無い。彼女はいつも外を出歩いて、自分のクラスメイトたちと遊んでいた。姉は「一人っ子」として十年を過ごした。だから突如として現われた妹に、どう接すればいいか分からなかったのだ。両親が赤ん坊に釘付けになり、自分に目を向けてくれなくなる。そんな突然の変化に、上手く対応できなかった。
高校を出るとすぐ、姉は家を出ていった。
残された二人も、徐々に険悪になっていった。とくに反抗期が始まってからは、修復不可能なまでに冷え切った。家にいるのはただただ苦痛で、小学生のころは図書室で時間をつぶし、中学生になってからは、学校のそばのファミレスにたむろしていた。高校生になった今は、夜の繁華街が根城だ。
ならば友人たちと遊んでいて楽しいのか。そう訊かれると答えに詰まる。正直なところ「びみょー」だから。交わされる言葉はどれも空虚で、うわべをなぞるものばかり。だけどハブられるのは怖いから、しかたなくSNSに登録している。他人のつぶやきを読んだって、共感なんかできるはずがない。わずらわしい直接のメールが減ったのは、嬉しい誤算だったけど。《ねえ千夏、いま○○ってドラマ観てる?》アホか、テレビぐらい一人で見ろ。そういう通信網の無駄遣いはなくなり、今ではみんな、闇に向かってつぶやいている。
靴を履き替え、トイレから出る。
目にしみるネオンと、空を埋め尽くすような嬌声。地獄があるとしたら、たぶんこの景色に似ているだろう。酔っ払いの高笑いは、悲鳴にそっくりだ。脱いだローファーは、ブランドロゴの入った紙袋に詰める。コンビニに歩み寄り、ゴミ箱に突っ込む。
――さよなら、いつものわたし。
死に場所は決めていた。このあたりで気密性の高い小部屋といえば、ひとつしか思いつかなかった。ガムや吸殻で汚れた道を、ぼんやりと歩いていく。
右手にぶら下げているのは、ディスカウント・ストアの黄色いビニール袋。
練炭って、こんなに重いんだ。
九 ★ 現在(5)
アリスは客に腕をからませて、雑踏のなかを進む。
三人の仕事仲間が後に続く。彼女たちもそれぞれに、腕に男を捕まえている。客が「二軒目に行く」と言ったので、「ゴショウバンしちゃだめー?」と訊いてみた。鼻の下を伸ばし切った男たちは、何も考えずにうなずいた。系列店にひっぱり込むのもアリスの仕事だ。
「アリスちゃんは、カレシいないの?」
客が訊く。コマ劇前の広場で、学生の集団が一気飲みをしている。
「いないよー。だってアリス、もてないもん」
「えー、ウソ!」
大げさな仕草で「こんなに可愛いのに」と驚いて見せる。お世辞だろう。喜んだふりをするのが礼儀だ。日本人の男は、みんな同じ。優しい言葉で、本性を隠している。
アリスが初めて出会った日本人は、黒いスーツを着ていた。菩提樹が見下ろす丘のふもとで、汗をだらだらとかきながら、それでもネクタイを緩めなかった。お腹の出た白人の男と、通訳の青年を従えていた。
「この家の娘さんだね」覚えたてのタイ語で彼は微笑み、「可愛らしい、賢そうな顔をしている」と言った。アリスはなんだか怖くなって、玄関に駆けこんだ。「お父さんを呼んできてくれ」という言葉は、兄弟の一人が受け取った。
その後、日本人と白人の二人は繰り返し町を訪れた。そのたびに、父や祖父と何やら話しこんでいた。子供たちは追い払われて、会話の内容は分からない。彼らが来た後は、父の顔つきが変わる。眉間にしわを寄せた険しいものになり、しかし瞳がぎらぎらと輝きだす。アリスは、そんな父の顔が怖かった。
小学校に上がった頃のことだ。その日は学校がお休みで、アリスは仲間たちと、いつものように菩提樹の丘で遊んでいた。友達のひとりが声を上げた。
「煙が上がっている!」
群青色の空に、灰色の塊がもうもうと昇っていた。慌てて丘を駆け降りると、慣れ親しんだ田畑が燃えていた。炎は真っ赤な舌で大地を舐めとり、緑のあぜ道を漆黒へと塗り替えていく。
変化は、あっという間だった。
翌日には重機が何台も集まり、田んぼを埋め立てた。翌週にはワケの分からない樹木が運び込まれ、茶色い地面に植えられていった。翌月には日雇い労働者が集まって、そうした木々の世話を始めた。父の持つ広々とした土地は、整然とした落葉樹の林になった。
父は満足げだった。百年前にできなかったことを、自分の代になって実現できたと胸を張っていた。彼の言う「一家の夢」が、アリスにはよく分からない。合宿所のような場所で寝起きする日雇労働者を見ると、自分の部屋に土足で押し入られたような気持ちになる。あんな変なニオイのする樹なんか、なんで育てているのだろう。お米や野菜でよかったじゃないか。
だが、作物の切り替えには成功したようで、一家のカネ回りはよくなった。今まで食べたことのないものが食卓に並び、見たことも無いような家具が持ち込まれ、父はまるで一国の王のようにふるまった。
雲行きが怪しくなったのは、ほんの数年前だ。
労働者の人数が日に日に減らされて、処理しきれなくなった下草が落葉樹林を浸食していった。両親は絶えず口論をしていた。アリスは自室にこもって、知らんぷりを貫いた。この田舎を、早く飛びだしたかった。遠く離れた場所に出て、思い切り翼を広げたかった。だから当時から日本語の勉強をしていた。
二年前、ついに終わりが来た。
落葉樹から採れる製品が値崩れを起こし、父は破産した。開墾のときに積み上げた借金も、まだ残っていたようだ。彼は広大な土地を手放し、一家は離散した。
そしてアリスは今、歌舞伎町にいる。
人ゴミを掻き分け、客を引っ張る。この街は眠らない。ジャングルよりも濃密な熱気に満たされている。アリスはふと、目を止めた。
高校生ぐらいの少女が、コンビニの前に立っている。
ブランドロゴのある紙袋と、黄色いビニール袋。その子の持ち物は、ちぐはぐだった。清潔感のある服装なのに、こんな場所に立っている。少女は小さく息を吐き、紙袋をゴミ箱に押し込む。
――なにが入っているのだろう。
気になったけど、後を追うのはやめた。コンビニの向こうに、警官の姿を見つけたからだ。仕事仲間と目配せを交わし、客を路地裏へと連れ込む。フィリピンから来た娘が「こっちにイイお店があるんだよー」と言う。彼女たちもみんな、ビザが失効しているのだ。呼び止められ、外国人登録証を見せろと言われたらひとたまりもない。良くても強制送還、悪ければ檻の中だ。
派遣型風俗の使うレンタルルームが左右に並んでいる。歌舞伎町のなかでも、最も空気の淀んだエリアだ。路地裏は薄暗さに満ちている。人目をはばかりながら、アリスたちは歩き続ける。
どこまで行けばいいだろう。
いつまで歩き続ければ、いいのだろう。
十 ▲ 二週間前(3)
朝の空は澄み渡っていた。
冬には鬱病患者を続出させるこの国の天気も、夏の間だけは上機嫌だ。窓の向こうには芝生がどこまでも広がり、初老の男性が数人、早くも日光浴を始めていた。
「おひさしぶりね、ベラ」
ジョージアは窓辺に立ち、受話器を耳に当てる。もう一方の手にはコーヒーのマグカップ。頭は白に近い金髪で、碧眼はこの空よりも青い。目尻にはしわが刻まれている。この国の平均的な女として歳を重ねてきたつもりだ。違いがあるとすれば、結婚相手。過去には何人かの男と付き合った、が、籍を入れる機会はついに訪れなかった。ジョージアは科学に恋をし、学問を人生の伴侶とした。
『ごぶさたしています。少し、驚きました。先生から電話をいただけるなんて思っていなかったから。お元気ですか?』
「ええ。夏はいいわね、何もかもが活きいきとしているから、私まで元気をもらえるわ」
『そのぶんコンタミネーションは怖いですけどね』
ふふ、とジョージアは笑う。
「ところで、ベラ。あなたはどうなの? お仕事のほうは順調かしら」
相手は、にわかに口ごもる。受話器の向こうから、かすかに機械の音が聞こえてくる。ががが、ががが、という断続的な声。
『はい、まあ……おそらく順調です』
おそらく(プロバブリィ)か、とジョージアは思う。以前のベラはそんな言葉遣いをしなかった。何かにつけ白黒つけたがる娘だった。その分、頭は切れる。学術誌を渡せば、学生とは思えないほどの速さで読みこなしていく。要約も上手い。
『あのう、それでどういったご用件でしょうか』
「いいニュースがあるわ」
ジョージアは窓から離れ、食卓に向かう。朝食の途中だった。大きな丸皿には、とろりとしたスクランブルエッグと、たっぷりのベイクドビーンズ、そして薄いトーストが添えられている。その皿の横にはノートパソコンだ。先ほどメールをチェックしながら思わず叫んだ。柄にもなくガッツポーズをしてしまった。
「例の論文、覚えているかしら。あなたが卒業する間際に、投稿したやつ」
『忘れるはずありません』
そうだろう。ここ数年、ジョージアの研究室では同じテーマに取り組んできた。そのきっかけとなったのは、まだ学部生だったベラの一言だ。DNA配列のデータベースを触りながら「ここと、ここ、似ていませんか?」と彼女はつぶやいた。
『極限環境に生息する微生物のみに特異的な遺伝子配列の解析……でも、リジェクトされ続けていましたよね』
この地球上に、生物のいない場所はない。地下数千メートルの岩盤や、深海の熱水噴出孔からも微生物が見つかる。そういった生き物の塩基配列を解析すること――簡単に言ってしまえば、それがジョージアたちの仕事だ。データの不備を指摘され、何度も突き返されてきた。
「ところがその論文が、ようやく掲載されることになったの。追試データをいくつか加えたけれど、論旨は変わらないわ。著者の欄にはあなたの名前も加わる」
世界一有名な科学雑誌の名前を告げると、相手は沈黙した。相変わらず、ががが、ががが、という音が聞こえる。
「これは出過ぎた意見だけど、やっぱり、私はもったいないと思うのよ。あなたが就職を決めた時、世界全体が不況にあえいでいたでしょう。そうでなければ、あなたのような人は、もっと自分の知識を活かせるような仕事についていたと思うの」
ベラは答えない。ジョージアは続ける。
「あなたの技量を、私はよく知っている。私のところで研究を続けていれば、きっと、素晴らしい成果を出していたはず」
『あの、いったい何をおっしゃりたいんですか』
「私たちのところに、戻ってこない? 無理にとは言わないわ。ドクターを出るまでは奨学金で食べていくことになるでしょうし、お給料は、ごめんなさい、今よりもずっと安くなってしまうと思う。でも、適材適所というものがあるはず。……もちろん、あなたが望めば、だけど」
『……もったいないと言えば、今の仕事だって私には充分もったいないんです。力不足を感じる毎日ですし、こんな働きぶりでお給料をもらっていいのか、いつも悩みます。私の十分の一の賃金で、工場の人たちは働いているです。それも、私なんかよりもよっぽど頼もしく』
人は変わるものだ。ベラはラテンの血を継ぐ明るい娘だ。こんな弱音を吐くなんて想像できなかった。
「あなたはお金のために働いているの?」
礼儀知らずは承知の上。挑発的な口調でジョージアは言った。ひときわ長い沈黙が返ってくる。相手の返事を待ちながら、コーヒーに口をつける。凛とした苦みに、脳が冴えわたっていく。
『いいえ』
ベラの声は硬い。
十一 ● 六億年前
惑星はふたたび全球凍結した。
しかし我々は、以前のような不安を抱いてはいない。前回、凍ったままの惑星は、公転軌道を何億回も周り、そして突如、解け始めた。我々からすればそれは一瞬のできごとで、百回も周らぬうちに、惑星はもとの暖かさを取り戻した。おそらく今の全球凍結も同じ結末を迎えるだろう。
生命は生き延びた。
二酸化炭素さえも凍りつくような寒さの中で、微生物たちは生き続けた。冷気は命を鍛え、生きるのに最低限必要の姿から、他の生き方を模索するものを生み出した。細胞の中を複雑化させ、機能を分化させた。それが前回の凍結を経て得られた変化だ。
今回も同じであろう。
あの白い氷床の下で、生命は目覚ましい変化を遂げているはずだ。それを思い浮べると、我々は歓喜に打ち震える。無いはずのイレモノを振りまわし、喜びで天を満たしたくなる。いつしか我々は、単なる傍観者ではなくなった。もちろん、差し伸べるべき手が我々にはない。我々は観察者だ。自らの内なる世界で引き起こされる戯曲を、心から楽しむ観客だ。
ああ、仔よ、仔よ。我々の愛しき仔供らよ。どうか生き残っておくれ、どうかそこに在りつづけておくれ。
十二 ◆ 現在(6)
バスルームは、思ったよりも広かった。
とくに想定外だったのは、大きな換気窓があったこと。磨りガラスに塗料を吹いて、外から覗かれないようにしてある。こんな窓があるなんて、もとはラブホテルとして設計された建物ではないのかも。
手にしたテープで窓や換気扇を塞いでいく。銀色に光るテープは、いかにもプロ仕様といった雰囲気だ。ディスカウント・ストアで、ガムテープの隣に陳列されていた。配管修理用のテープだそうだ。接着剤がたっぷりと塗られ、ゴムのにおいがする。
風呂場の床はピンクのタイルが貼られている。黒いバスタブはグランドピアノみたいだ。ベッドサイドで見つけた大きな灰皿を、洗い場の中央に置く。耐熱ガラス製で、サラダボウルのようなサイズ。そこに練炭を盛っていく。
あの男との関係を、内緒にしておいて良かった。「男にフラれて自殺した」なんて解釈をされずに済む。女子高生を買うロリコンなんかのために、死んでたまるか。そう考えて、ふと気付いた。一人だけ、知っているやつがいる。
孝太。小学校のころの幼馴染だ。
学年は一つ上で、幼いころはいつも彼と遊んでいた。小学生の女子はイジメが大好きで、どのクラスでも、一人ずつ順番に洗礼を受ける。あれは確か、二年生の頃だ。独りでブランコに揺られていたら、声をかけられた。
――千夏ちゃん、だよね?
それから、いつも彼の後ろをついて周るようになった。携帯型ゲーム機をねだったのも、彼と一緒に遊びたかったからだ。
――コータ、コータ、今日はなにするの!
今となっては笑い話だけど、たぶん、初恋だった。
学年が進むにつれて、彼はどんどん男らしくなっていった。体育の授業でサッカーをしている孝太を、窓際の席から眺めていた。他の男子のように「女子は話しかけてくるな!」なんて子供じみたことも言わなかった。彼は卒業後、遠くの私立中学に進んだ。
憧れを持て余したまま、とり残された。
中学時代に恋をしなかったのは、たぶんそのせいだ。友情と恋心との区別をつけるのは本当に難しくて、(孝太との関係にケリをつけていない)という感情に縛られていた。
黒い塊の奥底が、赤く熱を帯びる。
無事に火をつけることができた。ホッとため息をつき、立ちあがる。少し汗をかいていた。バスタオルの包装を破って、こめかみの水滴を吸わせる。鏡を見た。大丈夫、もともと薄い化粧だ。崩れていない。浴室内のハンガーにタオルをかけ、最後の仕上げに入る。ドアのすき間を、粘着テープで密封していく。
孝太とは、思わぬ場所で再会した。
南青山。部活の練習帰りだろうか、彼はスポーツバッグを肩に、友人たちと原宿に向かって歩いていた。たくましいカラダと、精悍な顔つき。だけど、見間違えるはずがない。小学生のころの面影が、はっきりと残っていた。
こちらはあの男と二人だった。グッチのバッグを買わせるついでに、あの辺を散歩していた。孝太は、こちらの家庭事情を知っている。だから、父親だというごまかしは通用しない。親戚のおじさんという言い逃れも無理だったろう。だって、つないだ手の、指を絡めていたから。
あの時、孝太と視線を重ねてしまった。
彼は目を見開いた。ああ、気付かれた。ブランコで泣いていた千夏は、こんな女になりました――。あの時ほど、男の手を振りほどきたいと思ったことはない。孝太に駆けよって、違うの、これにはワケがあるのと、大声で弁解したかった。彼はそっと目を伏せ、知らんぷりをしてくれた。
孝太への一方的な想いは、こうして終わった。
――今のは、知り合い?
その時の男の声に、嫉妬の色はなかった。それが余計に腹立たしかった。「彼氏はいないのか」と訊かれたのも、その直後だ。男との関係は、すでに半年以上続いていた。あの男はいつでもそうだ。自信に満ちていて、打ちひしがれるということを知らない。困らせてやろうと思って、仕事中に電話をかけたことがある。だけどこちらの考えは見透かされていて、優しい言葉で諭された。そして最後には、お決まりの一言だ。「わかるね」と念を押される。
要するにあの男は、千夏という人間を造り変えたかったのだと思う。自動車にオプション装備を取り付けるように、望み通りの人格を創造しようとした。それが「わかるね」の一言だし、こちらが「分かります」と答えた後の、満足げな表情だった。つまり彼が求めたのは「千夏」という女の形をした容器で、その中身には興味など無かったのだ。十七歳のイレモノに、ワインの趣味だとか、洋服のセンスだとか、好き勝手な妄想を詰め込もうとした。
当たり前だろ。だって「千夏」は金で買われたのだから。
ひょっとして、あの男に認めてもらいたかったのだろうか。かぎカッコなしの千夏を、受け入れて欲しかったのだろうか。そう考えて、苦笑する。
分をわきまえろ、ただの商品のくせに。
死んだら、クソババアは泣くだろう。いい気味だ。姉は「悲しそうなふり」をするだろう。クラスメイトも同じだ。友達想いの自分を演出するために、嘘っぱちの涙を流す。だれも本当の千夏には興味がない。うつわの中の「存在」には目もくれない。
この存在には価値がないから。
存在することに意味がないから。
だから、この世から消えてなくなろう。生まれるはずの無かった存在だ。いなくても誰も困らない、男の搾りかすだ。
バスタブにお湯を張った。睡眠薬をあおる。ぬるま湯につかれば、薬のまわりが良くなるはず。服を脱ごうと襟元に指を当て、また苦笑する。染みついた習慣は、無意識のうちに体を動かす。買ったばかりの靴で、バスタブに足を入れる。服を着たまま、下半身をお湯につける。あっという間に湯気が充満する。心配になって目を向けたけど、練炭の火は消えそうにない。
携帯電話を手に取って、遺書めいたものを書こうとした。だけどメールの宛先を考えて、指が止まる。送るべき相手なんか、一人もいなかった。電池の残量が少ない。SNSに繋いだところで、警告が出た。〈三十秒後に電源がOFFになります。いますぐ充電してください〉持ち主が死のうとしているのに、ちんけな電子機器は生き永らえようと悶えている。すばやくキーを叩き、〈ごめんね〉と闇に向かってつぶやく。そして、手を放した。とぷん、と小さなしぶきを上げて、携帯電話はお湯に沈む。
――さよなら、ほんとうのわたし。
目を閉じると、まぶたの裏側に星空が見える。やさしい夜空を眺めながら、あっという間に意識が遠のいていく。解放感に胸が満たされる。やっと解き放たれた。やっと、自由を手に入れた。
十三 ● 十七年前
ここに至るまでの生命の進化は、我々の想像をはるかに上回るものだった。その最たるものは「性別」の発明だ。二回目の全球凍結のあと、生きものたちは寄り添うことを覚えた。多様性を維持するために、我々とはまったく違う方式を編み出した。一つの細胞が愛をささやけば、その想いは分子シグナルとなって、もう一方の細胞に伝わる。そうして単細胞生物たちは遺伝子の交換を覚えた。「性」の誕生だった。
進歩は止まらない。無数の細胞が集まり、一つの命を演出するようになる
あるものは食われ、あるものは逃げる。光を糧とするものらは、早々と陸に上がった。海の底では血で血を洗う競争が続く。身を守るため、体表を硬くするものがいる。より速く泳ぐため、ひれを進化させるものがいる。そして、真水に適応するものが現われる。川を上り、内陸へと棲み家を広げていく。干からびた沼の底で、大気から酸素を得るものが登場する。そして動物たちは陸に上がる。
この星の環境は、決して生命を甘やかさなかった。ある時は大地が割れ、溶岩とガスが噴き出した。ガスによって気温は急上昇し、広大な砂漠を生みだした。樹林は死滅し、酸素濃度の低下により多くの命が失われた。またある時は巨大な彗星を引きよせて、海原に穴をうがった。吹き上げた粉塵は日光を覆い隠し、多くのものが寒さに倒れた。
だが、命は途絶えなかった。
この惑星から生命が消えたことは、一度たりとも無い。彼らは子孫を残し続けた。終わりのない鎖を、つむぎ続けた。
その終端にもほど近い場所で、ある時、一つの細胞が愛を囁く。昔ながらの分子の言葉を、細胞膜からにじみ出させる。
もう一つの細胞が、それに答える。
二つの細胞は融合し、互いの核酸を混ぜ合わせる。
細胞分裂を繰り返して、肉の塊へと成長していく。
脊索が現われ、それを追うように神経系が作られる。脊椎が形成され、ひれのような手足が生える。不要な細胞は自滅を選び、指先の形が彫られていく。そして脳が際限なく膨らみ、ついに母体から産み落とされる。
――元気な女の子ですよ。
――よく頑張ったな。
――名前は、決めてあります。
――はい、二人で決めたんです。
――千夏です。
十四 ★ 現在(7)
酔いが回っていた。アリスは千鳥足で、何度も転びそうになる。
先ほどの店でテキーラを何杯もあおった。客たちと共に三軒目へと向かっていた。フィリピンから来た娘が、「大丈夫?」と顔を覗き込む。アリスは「へーき、へーき」とげらげら笑って、アスファルトの上でバレリーナのように回って見せる。客たちが喜んでいる。自分も楽しい。熱気を帯びた夜が、夜が、ぐるぐると回る、回る。
と、足を滑らせ、バランスを崩した。二、三歩後ずさりして、半透明のゴミ袋の山に背中から倒れこんだ。思わず笑いが漏れる。仲間たちも笑っている。道行く人が見ているけれど、気にするものか。夜風を胸一杯に吸い込んで、空を見上げる。
歌舞伎町に、星は見えない。
どぎつい電飾に彩られ、夜空はミルクを混ぜた墨汁みたいに濁っている。その黒い空を背景に、白い煙の塊がゆらりと立ち昇る。いつか菩提樹の下で見た、灰色の塊を思い出す。あの時の空は、絵具で塗ったような青だった。
――煙?
ふんわりと酔いが覚めていく。アリスは立ちあがった。道の向こう、ラブホテルの一室から煙が出ている。あの窓の大きさは、たぶん風呂場だ。仲間たちも気づき、互いに耳打ちをしている。
ここは交番から離れている。
街の人々は、空を見上げたりしない。
――だけど通報したら、捕まる。
十五 ▼ 現在(8)
ベラは高度四万フィートにいた。エコノミークラスの息苦しさに辟易し、通路側の席を取れなかった不運を嘆く。ヒースローまで残り八時間ほど。眠っていればあっという間だけど、こういう時に限って目が冴えてしまう。しかたなく、英字版のニッケイを斜め読みして時間を潰す。過去二十年の原油価格変動について特集していた。
湾岸戦争以前から低い水準で推移していた油の値段は、ニューヨークとペンタゴンに旅客機が突っ込んだあの日から、徐々に値上がりを始める。価格高騰は天井知らずで、中東の石油王たちの懐を潤した。溢れるほどカネは巡り巡って、ドバイに楼閣を作らせた。
天然ゴムの世界的な生産高は、原油価格を追いかけるように上昇している。合成ゴムの価格が上がったため、代わりに天然ゴムが消費されるようになった。東南アジアや中南米で、新たなゴムノキ畑がいくつも開墾された。
だが、終わりは突然やってきた。
米国の保険会社がたて続けに倒産した、あの秋の日に。
まさにつるべ落としだ。油の値段は急落した。「坂道を転げ落ちるように」という表現では生ぬるい、垂直落下だった。もちろん石油製品の価格も下落。天然ゴムは割に合わなくなり、あらゆる産業が、もとの合成ゴムへと素材を切り替えた。
紙面には天然ゴムの生産高が、カラフルなグラフで描かれている。まるで崖から身を投げる恋人同士だ。原油価格を追いかけて、天然ゴムの生産量も急落している。この薄っぺらなグラフの向こう側で、数え切れないほどの人間が破産の憂き目にあった。ドバイの高層建築は廃墟となり、ゴム畑は売り飛ばされた。
ベラはページから目を放す。折りたたんで、ゴミ袋に突っ込んだ。フライトアテンダントを呼んで、飲み物を注文する。経済のことを考えるのは、もう、やめだ。
すべての問題を投げうって、ベラは会社を辞めた。ジョージア教授に早く会いたい。あの古い町で、再び学問に没頭するのだ。
米国本社の上司は、ハゲ頭を真っ赤にして怒るだろう。だけど、無茶な発注を受けたのはベラの責任ではない。言われた通りの納期を守るため、しかたなく製造ラインを動かした。その結果、あの配管修理テープに不良品が混ざっていたとしても関係ない。会社が文句を言ってきたら、「知らなかった」とシラを切るつもりだ。あの現場主任にも、いくらか金を握らせておいた。
現場主任の言葉通りなら、あのテープは致命的な欠陥品だ。ちょっと温めただけで接着剤が溶けて、はがれてしまう。それこそ、ぬるま湯程度の温度で。
十六 ▲ 翌日(1)
若者たちのまなざしが、ジョージアを捉えている。講堂には百人ほどが集まっていた。プロジェクタの光が、スクリーンに海底を映しだす。熱水噴出口の硫化水素で生きる生物について、ジョージアは語っていた。集まった学生たちの多くは、生物を専攻していない。普段は文学や心理について研究している学徒たち。
「……こうして見てきたように、生命の本質は『はびこる』ことにあります。しぶとく存続しつづけることにある。生物は、地球上のありとあらゆる場所に広がりました。宇宙放射線が降り注ぐ超高高度のジェット気流にも、膨大な数の微生物が生息しています。地底深くの岩盤や、フルーツで釘が打てる南極点でさえ、生物の棲み家となっている。私たちの生存できる環境は、意外と広い。直径一メートルの鉛を含む岩石があれば、その中の微生物は宇宙空間を旅できる――、そう主張する研究者もいます」
ジョージアは学生たちを見まわす。ここが今日の講義の肝だ。
「つまり地球で最初の生命は、宇宙から来た可能性もあるわけです。南極で発見された隕石からは、生物の痕跡らしきものが発見されています。遥か遠くの宇宙から、私たちの祖先はやってきた。その可能性は決して低くありません」
学生の一人が手を挙げる。彼の黒い肌に、金縁の眼鏡が似合っている。
「地球外生命体はいると思いますか?」
「まず間違いなくいるでしょう」ジョージアは即答した。「むしろ、いないほうがおかしい。宇宙にはこれだけの星があり、生命はこんなにもしぶといのですから。……知性的な生命も、たぶん、います。ただし、エイリアンが私たちとコンタクトできるかどうかは、また別の問題ですね。広大な宇宙で、お互いを探さなければいけない」
また別の学生が手を挙げる。顔中ピアスだらけで、ジャケットには鋲が打たれている。
「そういう知的生命体が、地球生命を創造した可能性もありますよね? 最初の生命が宇宙から来たのなら」
ジョージアは苦笑した。
「ええ、ありうるでしょう。面白い想像です。ただし、気を付けてください。それで進化論が否定されるわけではありません。地球で最初の生命を誰かが作ったのなら、その〈誰か〉は一体どのようにして生まれたのでしょう。もっとすごい超越的存在が作ったのでしょうか。では、それはどうやって生まれたのか。超・超越的存在がいるのか……。一般的な創造論に立つと、永遠に答えを出せません」
顔をしかめる聴講者はいなかった。ジョージアは続ける。
「進化論と言った場合、みなさんは地球の生命史を思い浮べるのでしょう。しかし、私たち生物学者は、もう少し広い意味で使っています。――より多くの子孫を残せたものが、より多く生き残る。その過程を繰り返すことで、生命の形質が変化していく。――このメカニズムそのものを指して、〈進化〉と呼んでいます。ですから適応できる範囲は、地球生命に限りません。進化のメカニズムは、極めて一般的です」
火にかけた鍋の水がお湯になる。それぐらい当たり前の法則だ。
「したがって、仮に〈誰か〉が地球最初の生命を作ったのだとしても、進化のメカニズムを否定することはできません。偶然の積み重ねによって多様性が生まれ、その中でもっとも適したものが次世代を残す。この法則は揺らがないのです。……また、様々な証拠から、私たちヒトもそういった進化を経て生まれたことが分かっています。私たちは、偶然の積み重ねによって生まれました」
科学者は微笑む。
「とてもすてきな偶然の、ね」
十七 ◆ 翌日(2)
ずいぶん遠くを、旅していたような気がする。
男に別れの言葉を聞かされてから、何億年も経ったみたいだ。まぶたの向こうが眩しい。消毒薬のニオイ。
眼を開けると、姉が覗きこんでいた。かちりと目が合う。たっぷり十秒は見つめ合っただろう。姉はハッとふり返り、叫んだ。
「母さん! 目を覚ましたよ! 千夏が目を覚ました!」
そんな大声を出すことも無いのに。静かにしてほしい、寝起きの頭にガンガンと響く。呼ばれた母は、口をへの字にしていた。頬をこわばらせて、眉間にしわを寄せている。のしのしとベッドサイドに近づいて――。
母は、うわーん、と泣いた。
最初はあっけに取られて、その泣きっぷりを眺めていた。まるでマンガだ。赤ん坊みたいに手放しで泣いている。そして理解した。この人は子供なのだ。人はそう簡単に大人にはなれない。どんなに歳を重ねても、心のどこかには幼さを残している。
「やめてよ」
泣きすがる母に、言った。
「そんなに泣かないで。恥ずかしいじゃん」
母は「だってぇ」と応える。呂律が怪しい。
「千夏が、千夏が、いなくなっちゃうかと思ったから……」
その続きは嗚咽まみれで、何を言っているのか判らなかった。どこの病院だろう。母の頭を撫でながら、周囲に目を向ける。白い壁、染み一つないカーテン。ふと左腕に違和感を覚えて、視線を落とす。ぞっとするほど太い針が静脈に突き立てられ、ゆったりと点滴液を流し込んでいる。母の格好はほとんど寝巻のままだし、姉は寝ぐせを残している。
姉は抱き合う二人を見降ろして、ふん、と鼻を鳴らした。
「あんた、運が良かったわね。あんたにしてみれば、悪かったのかもしれないけれど。……あの粘着テープ、不良品だったそうよ。お風呂の湯気で接着剤が溶けて、はがれていたらしいわ。それとバスタオル。ハンガーから落ちたタオルに、練炭の火が燃え移ったんだって。で、その煙が窓から漏れて、通行人が気がついた。火事だと思って通報した」
そんな偶然がありうるのだろうか。まだ頭がぼんやりとしている。
「まったく、心配かけさせんじゃないわよ。でも、まあ――」
姉はそっぽを向き、付け加える。
「死なないでくれて、ありがとう」
そう、この人も同じ。みんな子供なのだ。ココロは成熟できないまま、大きなカラダを持て余している。なのに、許してあげられなかった。周囲のすべての人間に、完璧な大人であることを求めた。母に残る幼稚さを糾弾して、クソババアと呼んだ。素直になれない姉のことを切り捨てた。
「あの、さ……」
「なによ?」
「その……怒っていないの? わたしをひっぱたくとか、『言うべきことがあるんじゃないの?』とか。『心配かけたことを謝りなさい』とか」
姉は小さく笑った。
「いらないわ、そんなの」
彼女の手には、携帯電話が握られている
「充分よ」
十八 ★ 翌日(3)
アリスの取り調べにあたったのは、中年の婦人警官だ。
警視庁新宿署の取調室。灰色のスチール机を挟んで、二人は座っている。テレビドラマで見たことのある光景だった。
この国に渡ってきたいきさつや、アリスの半生を、根掘り葉掘り訊かれた。だから、包み隠さず話した。日本企業の出資を受けて、父がゴム畑を始めたこと。ボロ儲けして豪遊したこと。そして破産し、一家がバラバラになったこと。
「なるほどねぇ……」
婦人警官は、ふぅ、と息をつく。
「いきさつは分かりました。でも、あなたは国に帰されることになるでしょうね。法律は法律ですから」
分かっています、とアリスは答える。
「カクゴ、決めてあります」
そうでなければ、通報なんてしなかった。失うものの大きさは、理解しているつもりだ。それでも、アリスはホテルに駆け込み、火が出ていることを伝えた。室内に少女がいると知って、救急車が来るまで待っていた。警官の事情聴取からも逃げなかった。仲間に迷惑はかけられない。彼女たちのことは内緒だ。
「ああ、それと」
婦人警官は微笑む。
「あの女の子、目を覚ましたそうよ。あなたのお手柄ね」
アリスはため息を漏らした。本当に良かった。自分の行動を、価値あるものにできた。自分の存在を、意味あるものにできた。もしも父がゴムノキの栽培に取り組まなければ、アリスはこの国にいなかっただろう。あの田舎町で一生を過ごしていた。都会に憧れながら、「そうでない自分」に欠落感を覚えたままだった。食うには困らなかったかも知れない。だけど、幸せだったかどうかは判らない。
――あの町に、帰ろう。
菩提樹の見下ろす丘のふもとに、帰ろう。もちろんあの枝が、金塊に変わることはない。樹の精霊なんて空想の産物だ。菩提樹は何もしてくれない。
だけど、あそこがアリスの故郷だ。
あの木陰は、どこよりも居心地がいい。
十九 ▲ 翌日(4)
「もし知的生命体がいるとしたら、それはどんな姿をしていると思いますか」
「それは……わかりません。ただ、彼らの知性を測る手段として〈進化論を持っているかどうか〉が、一つの尺度となるでしょう。超自然現象を仮定せず、物理的、化学的な現象だけで〈知性の誕生〉を説明するには、進化のアルゴリズムが不可欠です。いわゆる自然選択というメカニズムがなければ、あらゆる生命は複雑性を獲得できない」
「たとえばケイ素生命体とか、エネルギー生命体であっても、ですか?」
「そうです。〈子孫を残す〉というのは、言い換えれば〈遺伝子を伝える〉ことです。もっと一般化すれば、〈情報を伝達する〉とも言えます。私たちの場合は情報の媒体に核酸を使っていますが、どんな媒体でも進化は起こりうる。自然選択によって伝達方法が複雑化していき、より巧みなものになっていく。知性の誕生は、そういった進化の果てにあります……」
「……同じように進化の過程をくぐりぬけてきたのならば、私たちと同じように、存続することへの欲求を持っているはずです。……エイリアンがどんな姿をしているのか、私には判りません。意思疎通どころか、お互いを認識することさえも不可能かもしれない。それでも〈存在しつづけたい〉という一点において、私たちは解りあえる」
二十 ◆ 翌日(5)
母も姉も帰り、夜の病室に一人残された。寝付くことができず、天井に向かって手を突き出す。自分の両手を眺める。「ろうそくのような」という慣用句があるけれど、人間の肌は、あんなに冷たい色じゃない。左手の甲には、ほくろが一つ。手のひらを見れば、指の腹はふっくらと丸みを帯びている。生命線は、途切れていない。
人はつい、自分が生きていることを忘れそうになる。だから、ある人は手首を切るし、ある人はタバコを吸う。体を売るのも同じだ。そうやって自分を痛めつけて、生きていることを思い出す。そしてナイフやタバコとは違い、「愛している」の一言はあまりにも甘美だった。だからそれが失われた時に、心を支えていた何かが崩れてしまった。
だけど、このカラダは、死を拒んだ。
心が死を求めても、肉体はそれを許さなかった。指先の細胞一つにいたるまで、生き続けようとした。すべての細胞に刻まれた遺伝子たちが、生きろと命じた。だからこそ母や姉を許す機会を得られた。
――死ななくて、良かった。
視界がぼやける。指の形がにじんで、天井と解け合う。暗い心の奥底が、赤く熱を帯びる。燃えるような感触が、心臓から全身に広がる。
――わたし、やっぱり生きたいよ。
二十一 ● 翌日(6)
この恒星系で起こったすべての出来事を、我々は観てきた。見守ることしかできなかった。彼女たちの「今」があるのは、すべて偶然の産物だ。
では――、と我々が言う。我々は、何者なのかと。
我々が問う。/我々の存在には意味があるのか。
我々が答える。/我々の存在に、価値はあるのか。
いつか素晴らしい知性が、我々に気がつくだろう。我々に呼び掛けるだろう。しかし、その時、我々は応えることができない。応答する手段を持たない。我々にできることは、あまりにも少ない。
我々はただ願うのみ。
我々は、ただ祈るのみ。
〈了〉
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