デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

「学歴社会」を終わらせるには



「学歴社会は終わった」という言葉が空虚なのは、実際にはぜんぜん終わっていないからだ。いわゆる「言論人」たちは、いったいどんな人々のどういう状況を指して「学歴社会」という言葉を使っているのだろう。たぶんその社会に、私たち10代・20代の姿はない。この言葉は「学歴だけでは社内で出世できなくなった」ということを言っているにすぎない。大企業に勤めるエリートなおじさまたちにしかカンケーない話なのだ。こんな話が「言論人」の口から飛び出すのは、言論というものが社会のごく一部の層に独占されてきたからだ。ネットは言論を民主化した。
学歴社会は終わっていない。むしろ収縮する経済では椅子の奪いあいが激化するため、「学歴」はより強固な壁として私たちの前に立ちはだかる。入社後の出世に学校名は関係なくなったかもしれないが、そもそも早慶上智しか入社できないのでは意味がない。
そして「社内の出世レース」が人生の目的となる大企業に、はたして魅力を感じるか?という疑問がある。日本は豊かに「なった」。この先どんなに経済情勢が悪化しても、食うや食わずやの生活を送る人はごくわずかだろう。牛丼を食べていれば、とりあえず飢えることはない。※ただし飢えないからといって幸福だとは限らない。先進国では貧困層ほど肥満が多い。



そもそも「学歴社会」とは何か。
それは学歴で生涯所得が決まってしまう社会のことだ。
では、どういう状況になれば「学歴社会は崩壊した」と言えるのか。
それは学歴によらず、あらゆる人が自分の能力でカネを稼げる(少なくともそのチャンスがある)社会になることだ。
財務諸表の読めない経済学部生、税法を知らない法学部生、そして「商売を禁じられているかのように」カネとは無縁な理系の学生たち。この国の学歴は、商売の能力とは無関係な場合が多い。ほんとうに「いい会社に入るためのライセンス」でしかない。学歴で商才は計れない。
だからこそ本当は誰にでもチャンスがあるはずなのだ。
知人の娘が、某ドーナツ・チェーン店の社員になった。彼女は短大卒業後に一度就職したが「健康上の理由」で退職。半年ほど寝込んだ後、そのドーナツ屋でアルバイトを始めた。根は真面目で聡明な人だ。働きぶりを評価され、社員へと抜擢された。
少し言葉を交わすだけで、彼女の賢さはすぐに分かる。機転が利くし物覚えはいいし、正直なところドーナツ屋の店員にしておくのは惜しい人だと思う。ドーナツ屋を軽視する意図はない。ただ、彼女にマック・ジョブをさせるのはもったいないと感じてしまうのだ。
近現代的な株式会社は産業革命以後に生まれたが、それ以前から組織的な商売は行われていた。農場主たちは農奴を使役して、財をたくわえた。現代は、たまたま農奴が豊さを手に入れた希有な時代にすぎない。歴史の大部分において、「雇われる生き方」とは「隷属する生き方」だった。「雇われる生き方」を消し去らない限り、この地上から専制と隷従、圧迫と偏狭は無くならない。
それでも彼女は「雇われる生き方」を選んでしまう。
彼女も、彼女のまわりの大人たちも、「商売の始め方」を知らないからだ。与えられた仕事をありがたく勤め上げなさい──そういう価値観で生きてきたからだ。ドーナツが好きなら自分でドーナツ屋を始めればいいのに。道具も技術も真剣さもある。ただ知識がないだけで、彼女は──私たちは──使役される立場に甘んじている。
「商売に必要な基礎知識」というものは、たしかにある。
漢字を読めなければ日本語の本を読めないように、最低限知っておかなければ商売を始められない知識というものがある。そして、そういう知識から私たちは引き離されて育つ。
読み書きそろばんというけれど、かつては「そろばん」とは「商売のやり方」という意味を持っていた。なぜか現代では算数だけになってしまった。現代の教育制度の大きな問題点だ。
教育のことはあまり論じたくない。というのも、日本人なら誰でも日本の教育について一席ぶてるからだ。だって日本の教育を受けてきたわけだし、専門知識なんて無くても教育評論家を気取れる。だから私は教育制度について語りたくない。商売の知識についても各個人でどうにかすべきだと思っていた。
でも最近は「商売の知識を組み込む」ことだけは今の教育制度に必要なんじゃないかと考えるようになった。人はカネを稼がないと生きていけない。雇用は激減し、雇われるだけではカネにならない。それでも「商売のやり方」を教えないのはどういうことだ、死ねということか。
たとえば援助交際。あれは児童福祉の問題で、治安の問題で、公衆衛生の問題で、ジェンダーの問題だ。けれど突き詰めれば、援助交際の根底には経済の問題が流れていると思うのだ。遊ぶカネ欲しさに体を売る。ほかに売るモノがないからだ。寂しくて体を売るという話も耳にする。暴論を言うけど、淋しいのは遊ぶカネがないからじゃないの?
売れるモノが手元にあるとき、それを売ってしまうのはヒトとしてとても合理的な行為だ。
倫理的にいくら「売るな」と訴えたところで、買うやつらがいる以上、少女たちは売春をやめない。もちろん売春は道徳的な問題をはらんでいるし、援助交際は法的にも倫理的にも犯罪だ。が、そういった倫理を論じるだけで彼女たちの行動が変わるとは思えない。神を殺した私たちには損得勘定しか残っていない。「売るな」と頭ごなしに禁止するだけでは無意味だ。「ほかに売れるモノ」を渡さなければ片手落ちではないか。



インターネットの登場を、カネの終焉のように語る人たちがいる。けれどカネはあまりにも便利な道具であり、インターネットの登場ぐらいでは無くならない。私は、インターネットの世界は「場所(プレイス)」にすぎないと考えている。「第八大陸」といった言葉で語られるとおり、ネットの社会はもう一つの現実なのだ。そしてこの第八大陸は、隅から隅まで「バザール」でびっしりと覆い尽くされている。
トルコ・イスタンブールはヨーロッパとアジアとを結ぶ玄関口として栄えた都市だ。この街の発展を牽引したのが「グラン・バザール」という巨大な市場だった。古今東西のあらゆる品物が集まり、商人たちで賑わっている……そんなグランバザールの空気は現在でも健在だという。インターネットの世界は、そんなバザールの空気を思わせる。
けれど今の第八大陸では、商売をしているのは一般企業ばかりだ。このバザールには数え切れないほどの一般人がいて、それぞれの店先にすばらしい商品を並べている。しかし今はまだ、その商品を受け渡す方法も、代金を回収する方法も、ぜんぜん確立していない段階なのだ。だから私たち「一般参加者」は、いまだに商売から一歩離れた場所にいる。ほんとうは店先に立っているにもかかわらず、だ。
私たち一人ひとりが「自分がバザールにいる」ことに気づき、商売を始めたとき、ようやく学歴社会は崩壊するだろう。私たちは本当の自由を手に入れ、社会はさらなる豊かさへと突き進んでいける。
世界を変えられるかどうかは私たち次第だ。




新学歴社会と日本 (中公新書ラクレ)

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商売心得帖 (PHP文庫)

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出会い系のシングルマザーたち―欲望と貧困のはざまで

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