抱きしめろ!

ゲイvsホモフォーブのミュージックバトル?!


すごくためになるPet Shop Boysサイトマスター・マーガレット様の、すごくためになるマーガレットの乙女通信
この通信の「1曲に固執してみる」というシリーズが、すごくためになって(くどいな)、おもしろいのだ。PSBの曲を1曲ずつ、歌詞とその曲が誕生した背景を、深く掘り下げて解説する。歌詞と資料の翻訳だけでもありがたいのだが、マーガレット様の分析が、いちいちピンポイントで深いのだ。


で、「The night I fell in love(2002)」についての最新号をここで紹介したくなってしまったのは、アメリカのヒップホップスター、エミネムの同性愛嫌悪表現が話題に上っているから。
同性愛者を侮蔑する言葉の使用や同性愛嫌悪的表現が絶えず非難されている(非難されている彼の差別表現はそれだけに留まらないが)エミネムへの、PSBとエルトン・ジョン、イギリスのゲイ・アーティストの巨頭からの「返礼」である。
この解説に、僕は笑った。かなり笑った。要約なんかでこの味を消すのは超もったいないので、ぜひ読んでもらいたい。


妄想乙女マーガレット通信★vol.52


日本語版ウィキペディアのエミネムの項では、エルトンがエミネムが反同性愛的なのにもかかわらずその才能を絶賛し共演した、といったニュアンスに取れる書きかたがされているけれど、僕は、マーガレットさんの読みがズバリ正しいんじゃないかと思う。
いや、エルトンがエミネムの才能を認めているというのは、そのとおりだろう(エミネムのベストアルバム「Curtain Call」でも共演している)。だが、その才能ゆえに、エルトンがエミネムの同性愛嫌悪表現まで許容しているかというと、そんなはずはない。世界中のゲイのフロントランナー、ロール・モデルであろうと絶えず意識しているお人である。許すわけがない。


だから、一番効果的な手を打った。ギュッと抱きしめたのだ。


これがどれほどエミネムに効いたのか、効果のほどは分からない(彼はあとで「エルトンがゲイだと知らなかった」と言ったそうだが*1)。
しかし、エミネムが、いつも罵っている「ホモ野郎(fag)」のビッグスターと歌い、ギュッと抱きしめられた事実は、もう消えない。「同性愛を嫌悪する言葉を繰り返しているくせに、 ステージで同性愛者と抱き合った」という矛盾したダブル・スタンダードに、彼を追い込んでしまった。これは、僕にとっては、むちゃくちゃ愉快な快挙だ。


Eminem featuring Elton John – Stan (2001 Grammy Award)


これを、「エミネムは歌はホモフォビックだがほんとうは同性愛者に『寛容』だ」とか「同性愛者も認めるほどエミネムの才能はすばらしいのだ!」と取りたがる人ももちろん大勢いるだろうが、どうでもいい。そういう人には、分からないというだけだ。


PSBの「The night I fell in love」も同じだ。「ホモきめー!」と執拗に繰り返しているノンケを見ると、「そんなにホモが気になるのは、自分がそうだからじゃない?」と言いたくなる。それをサラッと作品でやってくれたPSBには、喝采したくなる。
エミネムは、このお返しに「Can I Bitch」の中でPSBを車でひき殺したそうだが*2、さて、この勝負、どちらに軍配を上げるかは、ファン次第か?そりゃ、PSBに決まってるって。



日本のヒップホップとホモフォビアキングギドラ


エミネムの同性愛嫌悪表現は、同性愛者に向けられているわけではないという。「ファグ(fag)」というのは、たぶんただの「悪罵」なのだ。「ホモ野郎」「オカマ」と罵ることが「男らしくない男」という最大級のあざけりになる、ヒップホップに強いマッチョ主義の論理を、そのまま踏襲しているだけなのである。エミネムは、「歌詞をまともに取らないで欲しい、自分は同性愛者に敵意があるわけじゃない」と言っている*3
だが、「同性愛者に対して言ってるんじゃない」といっても、そういう悪罵は「同性愛者とは劣った人間である・この社会で同性愛者はあざけられる」という異性愛中心主義(ヘテロセクシズム)を前提にして、はじめて成り立つものだ。その同一線上に、同性愛者への有形無形の暴力がある。それに気づかず、ヘテロセクシズムという「体制」の上に安穏をあぐらをかいて、「本気に取るな」「同性愛者を差別しているつもりはない」もなにもない。
ヘテロセクシズムは「体制」「権力」であり、それに便乗している人間は体制や権力に迎合しているようなものだ。同性愛嫌悪表現を振り回している人間が同時に「俺は権力には屈しない」とか言ったりしようものなら、ただ笑止千万である。



ところで、僕がこんなふうにあまり知りもしないエミネムのことを考えているのはなぜかというと、最近、5年前に起きたキングギドラのCD回収問題を思い出す機会があったからだ。

封印歌謡大全

封印歌謡大全


戦前から現在まで、放送禁止や、なんらかのかたちで「封印」された158曲の歌を追う。
この中に、2002年同性愛者差別表現でCDが回収されたキングギドラの「ドライブハイ」が入っている。

ニセもん野郎にホモ野郎 一発で仕止める言葉のドライブバイ 
こいつやってもいいか 奴の命奪ってもいいか


だってわかってやってんだろう そのオカマみたいな変なの 
だいたいわかる居そうなとこ いつでも行ける行こうかそこ 
てめえの連れたアバズレのレズに 火の粉かけたくなきゃパッくれろMC


キングギドラ「ドライブハイ」で同性愛差別的として問題化した部分)


僕は当時あまりこの問題を意識していなかったので、事件の経過がどんな雰囲気だったのか、よく知らない。最初に抗議をしたすこたん企画(現すこたんソーシャルサービス)のサイトにも、事件に関する情報は少ししか残っていない。


まとまった事件の記録はウェブ上でも探しにくいが、比較的詳しいのは、鈴木邦男をぶっとばせ!―酒井徹の裏主張
の一連のキングギドラ論争だろう。
No.2:「キングギドラ」のCD回収事件を振り返って
No.5:「キングギドラ」の差別居直り発言に抗議
No.41:「キングギドラ」問題論争
No.59:キングギドラ問題再論
No.61:さらに「キングギドラ」問題
No.62:またまた「キングギドラ」論争
Mo.78:Y-Sさんへのお返事
THE YELLOW MONKEYの「SUCK OF LIFE」の「君の彼はゲイでおまけにデブ 幸せなんて言葉はない」という歌詞と、キングギドラの「ドライブハイ」がどう違うのかー前者が同性愛嫌悪的ではなく、後者が同性愛嫌悪的なのはなぜかーを論じたもの)


(なんと、一水会鈴木邦男氏のオフィシャルサイトだ。酒井徹氏のキングギドラ批判と、それに寄せられた―かなり予測がつく―反論と、酒井氏の再反論が、とても興味深い)


すこたんソーシャルサービスの関連アーカイブ
すこたん企画リソース―blast 2002年8月号
すこたん企画リソース―SWITCH 2002 Vol.20 No.9


web上に残る記録や『封印歌謡大全』から伝わるのは、すこたん企画にはじまる同性愛者の抗議に対し、レコード会社が一方的な型どおりの謝罪とCD回収に突っ走ったことだ。
『封印歌謡大全』の綴る「封印歌謡の歴史」の中にキングギドラ問題を位置づけて読んでみると、それが戦後を通して培われてきた音楽業界の自主規制体質の機械的な対応に過ぎなかったのだと分かる。
すこたん企画の伊藤悟氏が望んでいたキングギドラとの対話は実現しなかったし、なぜ抗議されたのか、キングギドラにほとんど伝わっていなかった。

「どこがいけないんだろう?っていうのはいまだにあるよ。普通の日常会話でしゃべってることを、そのまま曲にするのがラップだからさ」
「一般の人、つまりゲイでもないしゲイを嫌いでもない普通の人に判断してもらいたい、っていうのはあるよね。そういう人がどう思ったか?っていうのは、わかんないで終わってるから。そこが、なんか煮え切らない」


(インタビューでのキングギドラの言葉―鈴木邦男をぶっとばせ!―酒井徹の裏主張No.5:「キングギドラ」の差別居直り発言に抗議から引用)


同じヒップホップだから当然だが、キングギドラの論理はまったくエミネムと同じだ。「ホモ野郎」は「ヤワなラッパー」に対する罵倒で、悪気があったわけじゃない―
だが、「普通の日常会話」で「ホモ野郎」「アバズレのレズ」と口にできる社会がどんな社会なのか、ゲイが「一般の人」「普通の人」ではないと思っている彼らには分かっていない。


キャムプの力


「悪気もなく」あたりまえに広がっているヘテロセクシズムとホモフォビアを理解させることは、とにかく難しい。
ことに、それが芸術表現の場合。誰も傷つけない表現など可能かどうか分からないし、言葉の抗議はすぐに「言葉狩り」や表層だけの「差別問題」に矮小化されてしまう。


マジメな言葉での説得に消耗するのではなく、ギュッと抱きしめてしまうことはできないものか、と思う。
ホモフォビアを笑いの中に引きずり込み、その破綻っぷりを、格好の悪さを暴き立ててしまう。自分の嫌悪感情は当然世間に保障してもらえると思い込んでいる連中の恥部をグサッと突き刺し、自分の鈍さ、みっともなさをしたたかに思い知らせ、恥じ入らせてしまう。
そんな表現が手に入らないものかと思う。


そういう表現を、ゲイ・カルチャーはずっと作ってきた。少々下品な笑いの中に相手を引きずり込み、呆気にとられさせ、価値観を脱臼させてしまう。性的少数者の主張なんかまったく通じなかった時代、キャムプな笑いは言葉に代わる武器だった。


キャムプといえば、Queer Music Experience.の「選択的バイセクシュアル・アーティストの系譜・女子篇」(マドンナ様だ)で紹介されている「Like A Virgin/Hollywood Medley」はめっちゃ面白い。2003年度MTVアワードでマドンナブリトニー・スピアーズクリスティーナ・アギレラが演じたパフォーマンスだが、藤嶋貴樹さんの解説と併せて必見である。
カメラはステージ上のマドンナとブリトニー、アレギラのゲイゲイしいパフォーマンスと同時に、レズビアン表現も含むステージを眺める客席のセレブたちの表情を捉えているのだが、この中で「全然ついていけてないセレブ」の最右翼エミネムなのである。
「孤高のラッパーのエミネムがこんな下品なお笑いショーに愛想笑いするか」と取るむきもあるだろうが、ゲイ・テイストが席巻するこのステージが楽しめる人には、エミネムの表情は「ゲイバーの中で途方に暮れているノンケ」に見えてきて、かなり笑えてくる。超はしゃぎまくっているゲイのファブ5と比較すると、もっと笑える。


まるで空気のように社会の隅々まで行き渡ったホモフォビアは、そう簡単には消えない。「日常会話で『ホモ殺してー』と言う人は行く所行けばいくらでもいるし(普通に大学にいませんか?)*4」という人間は絶えないし、その時に自分が感じる痛みと屈辱感を人に理解させることは、途方もなく難しい。
だけど、LGBTアーティスト、またはLGBTスピリットのあるアーティストのカウンターな表現が、すっと憂さを晴らしてくれる。
彼ら彼女らもホモフォビックな表現を消すことはできない。が、それを笑いのめし、腰砕けにする表現を優雅に返す。
差別はそう簡単にはなくならない。制度的な不平等は徐々に解消されても、感情的な差別や嫌悪はなくならない。それでもいい。
ただ、それに対抗する表現があれば、なんとか切り抜けてゆける。
差別を抹消することはできないかもしれない。なら、対抗する力さえ手に入れればいい。
ゲイゲイしいキャムプな笑いの役割は、たぶんいつまでも終わらない。


1日遅れだが、今年のIDAHOにかこつけて、そんなことを考えている。

5月25日追記


エントリで紹介した「酒井徹の裏主張」の酒井氏ご自身より、一連のキングギドラ論争の正確なURLをご指示いただいた。これまでのリンクでは「裏主張」のトップページにしか飛べなかったのだが、これで論争の各テキストに飛べるようになった。また、キングギドラ論争関連で、僕が気づいていなかったテキスト(No.78)も教えていただいたので、追加した。
あと、論争を振り返って酒井氏がコメント欄に寄せて下さった感想も必読なので、御覧いただきたい。


コメント下さった酒井氏にお礼申し上げる。ありがとうございました。