に し へ ゆ く 〜Orientation to Occident

2008-02-02

佐藤雅樹「少女マンガとホモフォビア」


id:nodadaさんが、1990年代前半に起きた「やおい論争」について触れたマンガ評論家藤本由香里さんのエッセイをレビューしておられる。


腐男子じゃないけど、ゲイじゃないーコラム『HONEYの蜜×蜜日記』、藤本由香里さんのやおい論争。


 藤本さんはね、まずはこう言うのです。このやおい論争における、表象暴力系の問題について「自分の好きな表現が一定の人を傷つけてしまう可能性があることを表現者は自覚し、そして自分の表現に責任を持ちつづけるしかない(ただし、気にしすぎると表現が出来なくなるのも事実だ)」と仰ってるんです。それはその通りだなと思います。そして、次には「ただ一ついえることは、生身の人間に自分のファンタジーを押し付けてはいけないということ!」と議論を展開していくんですね。

(中略)

 さて、藤本さんはこの議論では「何がファンタジーで何がリアルなのか」ということをゲンミツに触れていませんが、私見では

 腐女子或いはボーイズラブ=ファンタジー

 ゲイ=リアル

という具合に対置しているように読めます。そして「やおいとゲイは別。」と言う…。つまり、腐というファンタジーはリアル(ゲイ)とはかけ離れた存在・形象であり 二つは隔離されなければならない、という主張です。


nodadaさんは、以前にも、BLで描かれる「空想の『ホモ』」と「現実のゲイ」を別物とする言説に疑問を呈するエントリを書いておられた。

腐男子じゃないけど、ゲイじゃないー腐業界における「ホモ」の再盗用とかなんとか。


僕も、BLにはまったくの門外漢ながら、やおいやBLで「ファンタジー(BL・やおい)/リアル(現実のゲイ・男性同性愛)」を分けるというセンシティヴな言説について、アメリカのゲイサイトでの同種の議論に絡めてこのエントリで触れたことがあるが、日本におけるこうした言説の起源は「やおい論争」に遡るということなのだろうか。


「やおい論争」については、やおい・BL研究家の小泉蜜さんのサイトがよく参照されているらしい。


蜜の厨房ー正しいボーイズラブ講座特別番外編


小泉蜜さんのまとめと分析は非常に優れていて、この論争が手に入りにくいミニコミ誌で行われたことを考えると、第一のソースとして盛んに参照されるのも当然である。当然なのだが、小泉さんのサイトばかりが情報源にされることは、ある偏向ももたらしていないか、と感じる*1


というのも、小泉蜜さんのサイトには、ゲイとしての立場から「やおい論争」を仕掛けた佐藤雅樹さんが『クィア・スタディーズ96』に寄稿したエッセイ「少女マンガとホモフォビア」)が収録されていないのである。

クィア・スタディーズ (’96)

クィア・スタディーズ (’96)


「やおい論争」に言及しているブログやサイトを見ると、佐藤さんがゲイの立場からやおいを激しく批判し、「やおいはホモフォビアだ」と決めつけたかのように取られている。

Google検索結果ーやおい 佐藤雅樹


だが、このエッセイを読むと、佐藤さんが言いたかったことは大分違うのではないかということが分かる。


最近盛んになっているBL研究で論考を発表されているクィア批評研究者石田仁さんが授業で扱っておられるが*2、このエッセイはどれほど読まれているのだろうか。少なくとも、「やおい論争」で佐藤さんが何を言いたかったのかを知るためには、読まれるべきだと思う。これは刊行された本だから誰でも読める(そもそも僕は、「やおい論争」というものがあったことを最初にこの本で知った)。


ここでは、「やおい論争」に関する佐藤さんの最終的な主張を示していると思われる一部を引用したい。


2点ほど注意。


(1)引用の最後の方で、「少女マンガ」と出てくる(そもそも、タイトルが「少女マンガとホモフォビア」)けれど、佐藤さんは少年愛を扱った「少女マンガ」をやおいの母体と考えている。1996年に書かれたエッセイだから、やおいやBLのイメージは現在と比べ当然かなり古いだろう。


(2)佐藤さんが問題にしている「ホモフォビア(同性愛嫌悪)」は、これはどっちかというと僕の解釈だが、より広く取るべきだと思う。

ホモフォビア」の第一義は「同性愛または同性愛者に対する不合理な恐怖感・嫌悪感・拒絶・偏見」で、精神医学・心理学の見かたを社会分析に援用し、多くの人が無自覚になっている社会の制度的心理的同性愛差別を浮き彫りにしようとする、いわば戦略的な概念だ(異性愛中心主義的社会に「病識」を持たせようとするわけだ)。

しかし、精神医学的な「フォビア」という言葉は、「人間の内面的心理だからどうしようもないではないか」「同性愛者を内面で嫌悪しようが個人の自由だ」という反論も招く。

「ホモフォビア」の語が生み出すこのような誤解や問題は、macskaさんが指摘しておられる。

*minx* [macska dot org in exile]−フォビアで苦しむのは、フォビアを抱えている当人の側

また、その狙い撃とうとするところが矮小化され、「ゲイなんて気持悪い!」と露骨に感情的な拒否感を示していなければ「ホモフォビアはない」と思われることも、しばしばあるように思う。

しかし、性的少数者を「『普通』でないゆえに異端視されても仕方がない者」として扱う空気を無批判に受け入れる(たとえば表現物の中で同性愛者をそのように描く)ことも、性的少数者に抑圧的な社会構造の再生産に加担することに変わりない。

クィア批評は、まさにこのような社会構造、異性愛のみを社会の規範セクシュアリティと見なし、同性愛やさまざまな性的少数者を周縁的なものとして差異化する構造を、「ヘテロノーマティヴィティ(異性愛規範主義)」として批判する方法をとっている(河口和也『クィア・スタディーズ』isbn:4000270044参照)。

佐藤さんの言う「ホモフォビアに無自覚であること」は「ヘテロノーマティヴィティの押しつけに無自覚であること」と言い換えても、いいと思う。


前置きが長くなったが、以下、引用。


佐藤雅樹「少女マンガとホモフォビア」『クィア・スタディーズ96』pp.161-169.


pp. 166-167.

 表現に置ける差別を考えるのは難しい。

 作品とは、発表されたときから一人歩きをしてしまうものだからだ。作者に差別的な意図があろうとなかろうと、結果的に誰かをおとしめる価値観に加担してしまうことはある。表現とは,大なり小なり社会的な影響力をもつものだからである。


 (異性愛者の)男が買うポルノグラフィが女性差別表現になってしまうのは、(異性愛者の)男と女の間に社会的な不均衡があるからだ。性の商品化自体が悪いのではなく、社会的な弱者(「男対女」という図式においては「女」)に性の商品化を押しつけてしまうからである。社会的に対等な者同士間で、相手の性を商品化しあうことが差別なのではないはずだ。


 この強制異性愛社会では、同性愛者は異性愛の情報、価値観に完全包囲されている。自分たちに必要な情報さえ、自覚的に求めなければ与えられない。表現物,情報において、あきらかな不均衡があるのである。


 そんな中で、それが同性愛を描いたものだろうがそうでなかろうが、男同士が恋愛しセックスする表現物は、あきらかな混同を生む。「男同士」という型を使ったときからすでに「現実の同性愛者」と切り離しては考えられないのだ。「同性愛」という型を使いながら、「そんなつもりはなかった」などと言うのは、あまりにも愚かで無自覚な話である。


 「『純粋な欲望』としてのセックスではない」という言説もヘンだ。だから性差別なんかではない、と言いたいのだろうが、男と女の欲情のメカニズムが違うのは当たり前だ。ことはポルノかお芸術かの話ではない。「愛」だの「関係性」だのという口実があれば許されるという問題ではないのだ。自分より弱い立場の存在に、ステレオタイプを押しつけることが「差別」なのである。もう一度,自分たちが「男社会」から強制され続けてきたことを思い出したらいい。そして、女たちがポルノを批判してきた言説をふりかえってみればいいのだ。


 ここで、当事者以外が表現の担い手になるのはすべていけないのか、という疑問が残る。どうやったところで、表現物には作者が身を置く社会の価値観が反映されてしまう。他者に対するなんらかのステレオタイプ化は避けられないことなのである。


 では、当事者なら何を表現してもいいか,ステレオタイプから自由なのか、というと、もちろんそんなことは、ない。強烈なホモフォビア(同性愛嫌悪)を抱えていたり、異性愛社会の価値観しか内包していなければ、当事者であっても、社会から押しつけられたステレオタイプに縛られていることだろう。


 問題は「ホモフォビア(同性愛嫌悪)」なのである。このことは作品の「質」とは無関係だ。「いい」といわれる名作にもホモフォビアは隠されているだろうし、同性愛者自身が描いた表現物にもホモフォビアが潜んでいるかもしれない。内なる「ホモフォビア」に無自覚であることこそが、「差別的なるもの」の正体なのだ。


(p. 169.)

 こうした問題は、なにも「少女マンガ」に限ったことではなく、この強制異性愛社会の中では、あらゆる局面で発生している出来事なのだ。「少女マンガ」は、それをもっとも端的な形で表してしまった。

 では、こうした現実にどう対抗したらよいのだろうか。

 まず、同性愛者自身が自分たちに必要な表現物を出していくこと。

 さらに、既成の作品を、糾弾ではなく、「批評」していくことが必要なのだ。「ゲイ」また「クィア」というセクシュアル・マイノリティの視点から。

(中略)

 「いい」作品とはなんだろう。それは、安直な「現実逃避をうながすもの」ではなく、「現実を生きやすくする作品」なのだと思う。

*1:曖昧な記憶で自信が持てないのだが、僕が以前、小泉蜜さんのサイトを拝読したとき、小泉さんはサイト日記で「やおい論争」についてご自分の文章ばかりが孫引きされることに戸惑いを示し、「やおい論争」について語りたいのならきちんと原資料に当たってくれ、ということを書いておられたと思う。現在の小泉さんの日記では確認できないので、僕の思い違いかもしれず、ご存知の方がおられたら、どうかご指摘いただきたい。僕の間違いであれば、お詫びとともに訂正します。

*2:石田さんのサイト石田ラボ−明治学院大学社会学特講B授業概要

bluegenebluegene 2008/02/15 10:51 初めまして。やおいは苦手なのですが、ゲイ男性が主人公になっているフィクションを愛好する者(女性)です。自分がどういう位置づけになるのかどうもわかりません(苦笑)。

註に書かれた小泉蜜さんのコメントですが、2月8日の日記でもちょうどそのことを書いておられます。やはり『花恋』の藤本さんのエッセイがきっかけのようです。

>でも私の書いた「やおい論争」についての紹介文は、すごーくデフォルメした私の個人的な見解にすぎないので、ほんとに詳しく知りたい方は、なんとかがんばって原本の「やおい論争」を入手して読んでくださいね。
日記はこちらに。
http://www.bl.mmtr.or.jp/~kitchen/mits/#lips

bluegenebluegene 2008/02/15 10:52 ↑2月6日でした。連続投稿すみません。

Ry0TARy0TA 2008/02/16 14:56 >bluegeneさん、どうもです。

情報ありがとうございます。
ほんとだ、しかも、BLとゲイの境界が曖昧になってきた、という「ポストやおい論争」について、新しい論考を書き始めておられますね!続きが楽しみです。

>自分がどういう位置づけになるのかどうもわかりません(苦笑)
僕的には、何か特別に位置づけを考えなきゃならないことなのかなあ?と思うんですが(笑)。
たとえば「腐女子」というのは、やおいやBLという女性による女性のための男性同性愛表象、その独自のカルチャーが好きだという意識があればこそのアイデンティで、その意味で独特なんだと思いますが、ただレズビアンやゲイが登場するストーリーに異性愛者が関心を持つのがなにか「特殊」であるかのように思われるのって、僕は個人的に好きじゃないんですね。「一般に異性愛者には同性愛者は理解出来ないものだ」→「同性愛は理解を超えた異常な存在だ」という意識が潜んでいるような気がして。男が関心を持ったら「隠れゲイ?」女なら「腐女子?」とか。
僕は異性愛のストーリー(男視点でも女視点でも)も好きですし、レズビアン作家のサラ・ウォーターズも大好きですが、自分が「実はノンケ?」「百合好き男(ゲイ)」とは思いませんし。同性愛(者)に関心を持つことだけが、一方的に「理由が必要なこと」のように思われているような気がしています。
と、いう考えを、このhttp://d.hatena.ne.jp/Ry0TA/20070609/1181346540エントリで書いたりしています。よろしかったらごらん下さい(笑)。

それでは、ありがとうございました。

通りすがり通りすがり 2008/12/10 02:20 はじめまして。エントリ興味深く拝見させていただきました。
エントリで引用された佐藤さんの話は「ゲイ」を「同性愛者」と言い換え、ぼかすことである種のミソジニーを隠蔽しているような気がしてなりません(「「少女マンガ」は、それをもっとも端的な形で表してしまった」と断定しておきながら、AVにありがちな男性の手になるレズビアンものはなぜスルーなのでしょう)。
佐藤さんの主張を乱暴に要約すれば、マイノリティ(女性)のくせにさらに弱い立場のマイノリティ(ゲイ)に対して表彰暴力(少女マンガにおける男性同性愛表現)をふるうことはよくない、それに対する解決法は当事者による対抗言説を産み出すことだということになると思います。しかしここで佐藤さんが想定している「同性愛者」は、おそらくゲイだけですよね。
もし私の解釈が正しければ、佐藤さんの話の趣旨は異性愛規範主義という「マイノリティ差別」を問題にしているようでありながら、その実ゲイに関する言説の生産者が女性だということが気に入らない、要するに「(男でない)女なのに男のことを語っているのが気に入らない」だけというミソジニックな主張に還元されてしまうのではないでしょうか。

個人的には、逆にゲイの方たちは男性による男性同性愛についての言説(例えば、日ハム多田野選手を題材にした創作物など)があり、ノンケを含めた一部の層に好んで消費されているという事実をどう評価してらっしゃるのでしょうか。気になります。

Ry0TARy0TA 2008/12/10 19:55 >通りすがりさん、どうもです。
  
>佐藤さんの話は「ゲイ」を「同性愛者」と言い換え、ぼかすことである種のミソジニーを隠蔽している
  
そう受け止められざるを得ないということは、よく分かります。
「同性愛」「同性愛者」について発言するとき、男性同性愛のことしか考えずレズビアンを除外するのはゲイの論者が度々犯してきた誤りです。また、佐藤さんは女性がポルノに抵抗してきた経験を通して自身の話を理解してくれることを期待したのかもしれませんが、男性のポジションからそれを言うのは、虫のいい話でしょう。
  
「佐藤さんが想定している「同性愛者」は、おそらくゲイだけ」かどうかは、分かりませんが、メッセージを受け取る側が、そのように限定して理解する必要はないだろう、と僕は思います。佐藤さんの呼びかけに応答し、レズビアンの少年愛漫画・BL愛好家として、BLのホモフォビアを持ちうる構造とそれを超える可能性を示して見せたのは、溝口彰子さんだったわけですよね。
  
僕自身は、佐藤さんの主張が粗いものであるとしても、最終的にたどり着いた「問題は作品が再生産しうるホモフォビアであり、それは作品を批評することで明らかにしてゆかねばならない」という結論は、妥当だったのではないかと思います(だからこそ、ここでこの文章を引用したわけですが)。しかし、それを伝えるためには、通りすがりさんの仰るとおり、同じように問題のある女性同性愛表現やバイセクシュアル表現−さまざまなジェンダーの作り手による−の存在を指摘し、異性愛規範的な同性愛表現を批判的に可視化してゆこう(「誰でもやっているんだからいい」「こちらはあちらよりまし」というのではなく、それぞれの差異と問題点と可能性を明らかにして)、と訴えたほうが、生産性もあったし、「「(男でない)女なのに男のことを語っているのが気に入らない」だけというミソジニックな主張に還元されてしまう」ことも避けられたでしょう。
  
しかし、それを伝えることが出来ず、受け手に「女なのに男のことを語っているのが気に入らない」というミソジナスな暴力しか与えないのだとしたら、メッセージとして失敗していたといわねばならないのではないかと、僕は感じます。

>男性による男性同性愛についての言説(例えば、日ハム多田野選手を題材にした創作物など)があり、ノンケを含めた一部の層に好んで消費されているという事実をどう評価しているのか
  
2chやmixiである「TDNスレ」的なもののことでしょうか。「創作物」については知らないので、あの種の「ノリ」についての話に限定させていただきますが−

他のゲイがどう考えているのかは分かりませんが、僕個人はこの↓エントリ
http://d.hatena.ne.jp/Ry0TA/20080510/1210395849
で書いた、「同性愛者ではないことを確かめ合って異性愛社会の絆を深めるための『ホモネタ』の笑い」の発展形ではないか、と考えています。
もともとヘテロ男性は、「止めろよホモか?気持ち悪い」とか笑いながら、つまり「自分たちは同性愛者ではない」と確かめ合いながら、ベタベタいちゃつくのが好きなところがあると思います。TDNスレは、「これはネタ」という前提のもと、<わざとホモのふりをして>馴れ合いいちゃつきあうという、「異性愛者の馴れ合いのホモネタ」が行き着くところまで行き着いたもの、という印象を受けます(僕が見たのはごく一部なので、よく知っている人の印象とは違うかもしれませんが)。ホモフォビックな「ホモネタ」の最大のポイントは「自分たちはホモではない」でしたから、それを突き抜けてしまった「TDNスレ」ノリに初めて遭遇したときは、正直、呆気に取られたのを覚えています。
やっている人間の属性なんて分からないのだから、ゲイもノンケも女性も一緒に「しゃぶれよ」と言いあっていてもいい、一種アナーキーな雰囲気を感じないでもないのですが、「ホモはネタである」換言すれば「ネタとしてしか同性愛者の存在は許さない」という点で、けっきょく、従来の「ホモネタ」と寸毫変わるところはありません。僕のブログもネタに晒されてTDNたちが押し寄せたことがありましたが、僕のような「ガチホモ」「リアルゲイ」(嫌な言葉です)はあくまで「ネタ」「外部」であって、徹底して異性愛主義的です。
  
TDNスレにかぎらず、こうして「笑いのネタにされる」というのは、男性同性愛表象に負わされた顕著な傾向だと思います(むろん女性同性愛者も笑いの対象になっているのですが)。こちらで教えられたのですが、
http://h.hatena.ne.jp/nodada/9236563804103527278
http://h.hatena.ne.jp/nodada/9234100899579035263
最近ではニコニコ動画でも、ゲイビデオなどをリソースとして流用しながら「ホモネタ」で馴れ合う笑いは氾濫しているようですね。
マスメディアから発せられた言説や形のある作品は批判できるし、批判している当事者は多いですが、「ネタを笑う」という、わざと思考を停止した集団心理のようなものにどう対抗すればいいのかは、非常に難しいです。その種のネタに接するたび、顔を殴られるような心地がしますしね…
やおい・BL愛好の人たちには、思考を停止していない、異論に応答する人たちも決して少なくない、という点で、非常に救われるもの、(されたくもないかもしれませんが)感謝のようなものを、僕個人は感じていることを、付け加えておきます。

通りすがり通りすがり 2008/12/11 20:39 Ry0TA 様、「通りすがり」の女に丁寧なレスをありがとうございました。
やはり当事者の方からすればTDNスレはホモフォビックに受け取られるのですね。
勉強になりました。

> 「問題は作品が再生産しうるホモフォビアであり、それは作品を批評することで明らかにしてゆかねばならない」という結論は、妥当だったのではないかと思います
溝口彰子さんのことは寡聞にして知りませんでした。ご教示ありがとうございます。
ただ、ネットサーフィンで私が目にしたやおい/BLの是非に関する議論からは、ゲイが「当事者」であることを強調し、もしくはゲイでなくても「当事者」の代理として、「女は当事者でもないのに好き勝手にゲイに関する言説を生産してはならん」と高みから説教する感じなのに対し、やおい/BL愛好者は、何だか分からないけど、「当事者には(ゲイになり得ない女の自分は)言い返せない」という理由でとりあえず小さくなっていることが多いなー(もしくは「女は当事者でもないのに好き勝手にゲイに関する言説を生産してはならん」という論理を勝手に内面化する)という印象を受けました(溝口彰子さんは別かもしれませんが)。

> やおい・BL愛好の人たちには、思考を停止していない、異論に応答する人たちも決して少なくない、という点で、非常に救われるもの、(されたくもないかもしれませんが)感謝のようなものを、僕個人は感じていることを、付け加えておきます。

「当事者/当事者になり得ない」という非対称な立場を前提とせざるを得ない議論はフェアな議論なのでしょうか。
皮肉でも何でもないのですが、やおい/BLがホモフォビアを再生産する危険性を告発するなら、そしてTDNスレのような表現を、「同性愛者ではないことを確かめ合って異性愛社会の絆を深めるための『ホモネタ』の笑い」と捉えられるのなら、差別・偏見を助長するという点ではるかにやおい/BLより実害の大きい、男性によるゲイへの表象暴力はなぜやおい/BLに先んじて批評の対象にならないのでしょう?
前のレスを書き込むのと並行して、TDNスレに対するゲイの批評を見つけようとしましたが、見つけることはできませんでした(もっと探せばあるのかもしれませんが、ゲイによるやおい/BL批評よりははるかに見付けるのが難しい)。
情報の発信者が、異性愛男性よりいろんな意味で立場の弱い女性だからという理由で、ゲイがやおい/BLを優先して批評しているのではないことを祈ります(もちろん、やおい/BLを免罪しろと言いたいわけではありません)。
それとも、男性による「ホモネタ」は、やおい/BLと違って発信者が男性であるがゆえに「当事者になる可能性が否定できない」ため、ゲイという立場からの批評が難しいのでしょうか。

>TDNスレにかぎらず、こうして「笑いのネタにされる」というのは、男性同性愛表象に負わされた顕著な傾向だと思います
個人的には、レズビアンが笑いのネタにされるのは、男性と男性的価値観を内面化した女性の「女なのに女性的魅力に欠けるせいでせいで男性の所有物になれない」という嘲笑ゆえだと思います。
男性同性愛表象に関しては、近代以降、男性は搾取されるべき身体表現を存在の対象から除外されていたので、(解剖学的ではなく)イメージの消費というレベルで男性の身体を表現しようとすれば、まず男性を「受け役」にして「女性」に擬える必要があったのではないかと思います。その際、「攻め役」が女性であればよくある男性向きポルノの劣化コピーに間違えられる危険性が大きいので、自然、「受け役」と「攻め役」は男性同士の組み合わせに帰着してしまいます。そういった試みが思考停止した「ネタ」になってしまっているのは、「ネタ」ですら存在が許されない時代を経た現在が、過渡期だからと思います。思考停止することで社会全体が「ネタ」という形で男性の身体表現を消費することに慣れてしまえば、「受け役」と「攻め役」という関係性を経由しないでも、男性単体の身体表現が現在女性がされているのと同じようにあらゆる形で搾取される時代が来ると思います。そのころには、きっと男性同性愛表象の傾向にも多くのバリエーションができているのではないでしょうか。

Ry0TARy0TA 2008/12/13 18:17 >通りすがりさん、どうもです。
  
まず、お断りしておかなければならないのですが、僕はやおい・BLについて(ひとつの男性同性愛表象の問題として関心はありますが、)自分で論じている・議論に通じている人間ではありません(それは、僕のブログの傾向を見ていただければ分かると思いますが)。エントリに引用した佐藤雅樹さんのエッセイと、溝口彰子さんの2つの論文(2000年,2003年)は、個人的関心から読んだことがありますが、いずれも古いものです。石田仁さんの仕事は、人のブログの感想を読んだことはありますが、論文は読んだことありません。それ以外は、共感するクィア・ブロガー氏の1,2の百合・BL批評ブログを日頃読んでいるだけで、通りすがりさんが指摘する「ネットサーフィンで私が目にしたやおい/BLの是非に関する議論」が、具体的にどこで誰により行われている議論を指すのか、実は残念ながら分かっていません。「ゲイに関する言説を生産してはならん」とまで言われているというのは、それは正直呆れました。生産した言説の質を問うなら分かりますが。そんな無茶苦茶な暴論は無視して、もう少しまともなことを言っている人だけを相手にすればいいと思いますが。

しかしながら、僕にその問題を問いただされても、まともに答えることができる知識も力もないということを、まず、ご承知いただければと思います。それを前提として、とりあえず、いくつかの論点にレスさせていただきますが、より本質的な問題は、詳しくやおい・BL論を扱っているかたと議論していただいたほうが、はるかに生産的だと思います。すみません。

>「当事者/当事者になり得ない」という非対称な立場を前提とせざるを得ない議論はフェアな議論なのでしょうか。

当事者/非当事者のポジショナリティの差異は、確かにどんな場にも発生するでしょう。そして、女性や少数民族や障碍者や性的少数者など、マジョリティ/マイノリティの非対称性がセンシティヴな問題になりうる場合は、当事者の意見に関心が払われるのは大切なことだと、僕個人は考えます。しかし、それは議論において常に絶対ではないし、「当事者至上主義」を無意味に押し通そうとする主張は、批判されて当然だと思います。佐藤さんも、「当事者なら何でも自由に表現できるわけではない、問題はホモフォビアが表現されること」と言っていますが、僕ならばこの立場を支持します。

>差別・偏見を助長するという点ではるかにやおい/BLより実害の大きい、男性によるゲイへの表象暴力はなぜやおい/BLに先んじて批評の対象にならないのでしょう?

まず、これを確認しておきたいのですが、ゲイが日常的に格闘している男性同性愛表象の問題は、べつにTDNスレだけでもやおい・BLだけでもありません。「ホモネタの笑い」やその他のホモフォビックな同性愛表象(どんなジェンダーの作り手によるものでも)が浮上すると、何らかのかたちで批判や不満の表明を試みているゲイの論者や、個人のブロガーなどは数多くいます(ゲイブログを検索なさったとき、ごらんになったのではと思います)。そして、これは僕個人のヘタレな考えですが、2chのように無法状態でさまざまなフォビアが荒れ狂っている場は、どうしようもない、とも思います。日本社会のゼノフォビアや女性蔑視やホモフォビアを批判するために、本気で2chを変えようと思う人って、いるでしょうか?
けれど、マスメディアの言論や、商品として生み出される作品が性的少数者(男性同性愛者に限らず)を取り上げるとき、その表現に注目し、問題があれば異論も発することができる場を開いておく、それは大切なことだと思いますし、現にさまざまな当事者や、この問題に共感してくれる非当事者がやってきていることです。やおい・BLに関する議論は、あくまでその一部ではないでしょうか。そしてその中には、男性同性愛表象としてのやおい・BLが持つ可能性を評価する意見も、もちろんあります。

僕の見ているものと、通りすがりさんが見ているものが著しくズレている可能性もあり,もし理解できていなければその点申し訳ないのですが、「ゲイ」と言ってもそもそも均一の集団ではありません(共通するその固有のポジショナリティは、あると思いますが)。BLの男性同性愛表象について、妥当な意見・メッセージを発していると通りすがりさんが思われる場に注目し、それに与してゆくことが、「やおい/BLの是非に関する議論」のためにも、生産的なのではないでしょうか?

>情報の発信者が、異性愛男性よりいろんな意味で立場の弱い女性だからという理由で、ゲイがやおい/BLを優先して批評しているのではないことを祈ります

別に祈る必要はなく、そういう人がいたら、それを批判すればよいのではないでしょうか。そうすれば、批判する側も、不当にならない真っ当な批判を鍛えざるを得ない。それでようやく、意味のある議論が可能になると思います。それに、最初に言ったように、「女だからまかりならん」などという暴論を押しつけてくる人間は、そもそも相手にする必要ないと思います。

あと、後半の、「近代以降の男性表象」のお話について、通りすがりさんのご意見・ご指摘を、正しく理解できているか、分からないのですがー

僕は、近代以降の男性表象の歴史について、通りすがりさんのような知識はないので、なぜ「イメージの消費というレベルで男性の身体を表現」しようとすると「男性を「受け役」にして「女性」に擬える必要」があるのか、なぜ女性が「攻め役」になれば「よくある男性向きポルノの劣化コピーに間違えられる」のか、よく分かっていません。男性を女性にさまざまに奉仕する「攻め役」に仕立てる
表象もあれば、女性が「攻め役」になって男の身体を恣にするファンタジーの可能性もいくらでも広がっているのではないのか、と素朴に感じてしまいます。たとえば、SMのジェンダー・セクシュアリティを問わないアクティヴ/パッシヴの関係は、その豊かなリソースでしょう。SMに詳しいわけじゃありませんが、そこで築かれてきた美学は、少なくとも、「よくある男性向きポルノの劣化コピー」などではないのではと思います。

男同士の組み合わせを通して男性の身体表象を消費するのは、要するに、さまざまな嗜好の一つであって、それが好きな人にとっては「自然」に思える(つまり、自分にしっくりくる)、というだけなんじゃないか?ーと、僕は思います。むろん僕は女性でも、やおいBL愛好者でもなく、他者にとって大切な嗜好を軽々に語ってはいけないとは思いますが、「男同士の関係」が「自然な帰結」なのだと言ってしまっては、(おもに)女性が行っている男性表象消費がひじょうに多様であることが、説明できなくなってしまうと思うのですが。
むしろ、「同性同士の関係を消費する」ことを敢えて「自然の帰結」などと「説明せねばならない」(?)ということが、ある種の問題のように感じます。

>思考停止することで社会全体が「ネタ」という形で男性の身体表現を消費することに慣れてしまえば、「受け役」と「攻め役」という関係性を経由しないでも、男性単体の身体表現が現在女性がされているのと同じようにあらゆる形で搾取される時代が来ると思います。

僕が言った「思考停止」「ネタ」(TDNスレに示されるような)というのは、むしろヘテロ男性が同性愛対象となることへの恐怖としてのホモセクシュアル・パニックを回避する装置を考えていました。ですから、恐らく通りすがりさんが構想されているものと違う(通りすがりさんの意見を正しく理解できていない)かもしれません。僕はむしろ、ああした「思考停止」「ネタ」がある限り、ヘテロ男性が性的消費対象になることは、曖昧に笑いに誤摩化され、回避され続けるだろうと感じています。

僕が問題に感じるのは、今の男(異・同性愛者問わずですが、特にヘテロ男性)が性的な対象に置かれたときの耐性のなさ、なにより、恐怖の受け皿のなさです。たとえば、セクシュアルハラスメントや性的暴行を受けた男に対する救済措置の乏しさには、驚かされます(むろん、女性の救済措置も、十分にあるとは言い難いでしょうが)。異性からのセクハラに苦しめられても「いい目に遭って」と言われ、被レイプ体験さえネタにされてしまうのが今の男です。そういう恐怖の行き場のなさの一部が、過剰防衛のホモセクシュアル・パニックとして、ヒステリックな「ホモネタの笑い」として、ゲイ・バイ男性に降り掛かってくる。思考停止を止め、同性愛者の存在にも向き合い、「性的対象に(女性からもゲイ・バイからも)される恐怖」と共存する手だても含めて自分を捉えなおさないと、潜在的な恐れはいつまでたっても消えないだろうと思います。
むろん、それは男が自分で格闘する問題で、女性がわざわざ忖度してやる必要のないことですが。

ともあれ、べつに男性同性愛表象にかぎらず、また誰も搾取される必要はなく、さまざまな多様なジェンダー・セクシュアリティの表象が、いちいち大騒ぎをせずに当たり前になること、僕はそれを望んでいるし、そういう場は着実にーつまらない固定観念もまだ多いとはいえー広がっていると思います。
  
答えになっているかあまり自信がなく、見当違いのことを言っている可能性もありますが。それでは、コメントありがとうございました。

とおりすがりとおりすがり 2008/12/13 23:59 >まず、お断りしておかなければならないのですが、僕はやおい・BLについて(ひとつの男性同性愛表象の問題として関心はありますが、)自分で論じている・議論に通じている人間ではありません(それは、僕のブログの傾向を見ていただければ分かると思いますが)。
それほど関心のないやおい/BLトピックについて再三ご丁寧な返答をありがとうございます(それでなぜ「やおい・BL愛好の人たちには、思考を停止していない、異論に応答する人たちも決して少なくない、という点で、非常に救われるもの、(されたくもないかもしれませんが)感謝のようなものを、僕個人は感じている」とおっしゃるのかよく分かりませんが)。
私が参考にしたのは、このブログのコメント欄で交わされた議論やここに張られているブログが中心で、それほどご覧になったものと違うとは思いません。
同性愛者であっても、女性のセクシュアリティに無関心で生きていられるというのは、男性って恵まれた立場だなあと改めて思いました。
ゲイとフェミニズムとの(ついでにゲイとレズビアンとの)連帯が難しい訳が改めてわかった気がしました。
「ひとつの男性同性愛表象の問題として関心はあります」と言われても、その成果がゲイによるPCチェックやエイズネタの有無などにすぎないのではとても淋しいような気がします(やおい/BLの舞台は現代日本だけとは限りませんので)。やおい/BLをよくご存じないままPCチェックに励まれるうち、いつの間にか異性愛男性の「腐女子は自重しろ」「腐女子は巣に帰れ」(=女は同性愛表現、男性に対する性欲の表現を自粛しろ)という声に唱和して、家父長的なヘテロセクシズムに加担することになっていなければいいのですが。

>「ゲイに関する言説を生産してはならん」とまで言われているというのは、それは正直呆れました。
ええと、それは私がゲイの立場から、もしくはゲイを代弁する立場からのやおい/BLの批評を読んで勝手に受けたイメージです。自分では、そのように書いたつもりなのですが誤解を招く表現でしたら謝罪いたします。

>日本社会のゼノフォビアや女性蔑視やホモフォビアを批判するために、本気で2chを変えようと思う人って、いるでしょうか?
もちろん、2chでもTDNネタにステレオタイプにホモフォビックな反応を示す人はいます。だけど、個人的にTDNスレで興味深く感じたのは、従来の「ホモネタの笑い」やその他のホモフォビックな同性愛表象と違って、ホモフォビアのふりをして同性愛的ネタで馴れ合いそして、それを繰り返し、終着点がホモフォビアなのか同性愛なのかよく分からなくなってきているところです。TDNネタを持ち出したのは、そういう理由です。

>「ゲイ」と言ってもそもそも均一の集団ではありません(共通するその固有のポジショナリティは、あると思いますが)。
「個人的なことは政治的なことである」と誰かが言っていましたよね。個人的にも、その言葉に同意しております。

>BLの男性同性愛表象について、妥当な意見・メッセージを発していると通りすがりさんが思われる場に注目し、それに与してゆくことが、「やおい/BLの是非に関する議論」のためにも、生産的なのではないでしょうか?
これから私が勉強するうちに、思わず与したくなるようなゲイの人の手による妥当な意見・メッセージを見つけられることを祈っております。

>たとえば、SMのジェンダー・セクシュアリティを問わないアクティヴ/パッシヴの関係は、その豊かなリソースでしょう。SMに詳しいわけじゃありませんが、そこで築かれてきた美学は、少なくとも、「よくある男性向きポルノの劣化コピー」などではないのではと思います。
ポジショナリティの問題になるかもしれませんが、女の私にとってSMは「ジェンダー・セクシュアリティを問わないアクティヴ/パッシヴの関係」などではありません。なぜなら、「女王様」と男性の「奴隷」の関係はは金もしくは権力のある男の了承のもとで初めて成立するものだからです(巷に流布される女王様のイメージが若くて美しい人ばかりなのはなぜでしょうか(笑))。もちろん、私がSMの「美学」について不勉強なだけかもしれませんので、そうでない「女王様」がいらしたら教えていただきたいのですが。
個人的には、現代社会で女性の置かれた立場を考えると、男性を性的対象の位置に「引き摺り降ろす」攻め役の表象が女性では「いかにも」弱いです。やおい/BLはそういう意味で私にとって「説得力」があります。

>僕が問題に感じるのは、今の男(異・同性愛者問わずですが、特にヘテロ男性)が性的な対象に置かれたときの耐性のなさ、なにより、恐怖の受け皿のなさです。
卑近な例で恐縮ですが、「僕は男に同じことを自分がされてもセクハラだと思わないから」と言って女性へのセクハラを正当化しようとした男の後輩がいました。最低ですよね。
男性へのセクハラへの対応が制度的に貧弱であることももちろんですが、当の男性にも「自分がセクハラされている」ということについての認識が薄い、もしくは否認欲求が高いと思います。
当然ながら、その前提には「性的欲求の対象になるのは専ら(低い立場の)女の役目である」という社会的役割における男女の非対称性があります(そしてそれはもちろん女性が権力や経済力を持たないことと、コインの裏表の関係になってます)。
それを「むろん、それは男が自分で格闘する問題で、女性がわざわざ忖度してやる必要のないことですが。」と仰るのは、ある意味女性の立場を無視してはいらっしゃらないでしょうか。
性的な対象としての男女の非対称性を解消するには、やはり「男性も性的欲求の対象になりうる」という言説にまず、ヘテロゲイ問わず免疫ができる必要があると思います。今まで一般社会ではあまりにもそういう言説が弾圧されすぎました。
もしくはゲイコミュニティの中に囲い込まれていたのかもしれませんが、私はその辺は不勉強なので分かりません。それにゲイだって、一生「アクティヴ」な役の人は一生「自分も性的欲求の対象になりうる」認識とは無縁かもしれませんしね。

以上、フェミニズムに関する知識については釈迦に説法だったかもしれませんが、「女であること」という立場から感じたことをいろいろ申し上げさせていただきました。私も必要以上に「当事者性」を振りかざしすぎたかもしれません。
お付き合いありがとうございました。

Ry0TARy0TA 2008/12/15 09:39 >とおりすがりさん、どうもです。
  
>それほど関心のないやおい/BLトピックについて再三ご丁寧な返答をありがとうございます。
  
「応答責任」はありますし、コメントをいただけば、できる範囲でレスはいたしますよ。

>(それでなぜ「やおい・BL愛好の人たちには、思考を停止していない、異論に応答する人たちも決して少なくない、という点で、非常に救われるもの、(されたくもないかもしれませんが)感謝のようなものを、僕個人は感じている」とおっしゃるのかよく分かりませんが)

失礼しました。通りすがりさんとコメントを交わすのは今回が初めてなわけですから、ざっと僕個人の立ち位置を説明しておきますと:

積極的に男性同性愛表象を生産しているやおい/BLは、男性同性愛者として、僕も気になっています。ですから、「やおい論争」で知られる佐藤雅樹さんが、やおいの存在を否定したのではなく、表現を問題にしていたのだということを示すあまり知られていないエッセイ(当エントリ)や、BLは今ではゲイ・クィア男性読者も多く抱えているという海外ゲイサイトの記事の翻訳をウェブ上に置いて、僕なりの情報提供を試みるということは、やってみました。あと、映画評論家さんのブログエントリに反応して、「ホモソーシャル萌え」はほんとうに異性愛規範批判になるのか?という疑問も書いたことがあります(これらは、いずれも見ていただいたと思います)。
けれど僕自身は、BL作品はごくわずかしか読んだことがありません。また、前コメントで述べたように、やおい/BL論も古いものを2,3しか読んでいないので、やおい/BLおよびその議論がどんな現状にあるのかも知りません。よって、やおい/BL市場で生産される男性同性愛表象に対し、自分で何か言う力はないのですが、やおい・BL愛好者のあいだには、異性愛者として同性愛のステレオタイプ表現にセンシティヴであろうとする人や、クィア・バイセクシュアル当事者としてやおい/BLをクィアな作品と捉えてゆこうとする人などもいるのが嬉しい、と感じています。そういう意味で、「感謝の気持ちがある」のです。

>私が参考にしたのは、このブログのコメント欄で交わされた議論やここに張られているブログが中心で、それほどご覧になったものと違うとは思いません。
>同性愛者であっても、女性のセクシュアリティに無関心で生きていられるというのは、男性って恵まれた立場だなあと改めて思いました。
ゲイとフェミニズムとの(ついでにゲイとレズビアンとの)連帯が難しい訳が改めてわかった気がしました。

なるほど、僕のブログから受け取られた情報が、おもだったのですね。
僕のブログの内容やコメント欄のやり取りのみから、「ゲイ」全体を評価されるのは、やはり困る、とは、申し上げておきます。ウェブ上で活躍しているゲイ・アクティヴィストやブロガーには、女性(どんなセクシュアリティでも)からも評価されている人が、何人もいますので。
たとえば、(すでにごらんになっているかもしれませんが)ゲイジャパンニュースにリンクのあるブログからリンクを辿ると、「コミュニティ」系の(要するに政治的な)ネットゲイメディア言論の一端が伺えると思います(あくまで「一端」であってそれらに対する批判もあり、一色では決してないことをお断りしておきますが)。それらのなかに、通りすがりさんにとって注目に値する意見があることを、僕も祈っています。

しかし、僕のブログやリンクが発信しているものが、通りすがりさんのような女性ビューワーに「恵まれた立場だなあ」「(こんなゲイには)フェミニズムともレズビアンとも連帯できないはず」という印象を抱かせるものを持っているのだということ、これは、自分への批判として、重く受け止めたいと思います。批判をされる場合は、具体的にその部分を指摘していただかねば応答できませんが、通りすがりさんの上記の批判は、僕のブログやコメント欄が発信しているものから通りすがりさんが受けとった全体的な悪印象、抱いた不信感を告げようとしているのだろうと解釈しています(違ったら、申し訳ないですが…)。「(女性は)ゲイに関する言説を生産してはならん」という抑圧的な印象(そういう言説があるわけではなく、イメージ、とご指摘くださいましたが)を、僕のブログを通して受け取られたのだとしたら、通りすがりさんにそれだけの不信を抱かせるものが僕のブログにあったということで、それは看過できないことです。

ネットはすべての人に開かれていますから、自分のポジショナリティにセンシティヴに言葉を発しなければ、異なる立場の人に考えを伝えられないし、自分が属する立場(僕であれば「ゲイ」)の評判も落としえます。むろん僕はあくまで「僕」の立場でしか語れませんし、どんなゲイも「ゲイ」を代表する資格も義務もありませんが、自分のポジショナリティがいやおうなく自分に課す問題(それはジェンダーであったり、セクシュアリティであったり、エスニシティであったりしますが)には、自覚的でなければと思います。それは肝に銘じて、言葉を考えたいと思います。

>「ひとつの男性同性愛表象の問題として関心はあります」と言われても、その成果がゲイによるPCチェックやエイズネタの有無などにすぎないのではとても淋しいような気がします
  
具体的に、何を指しておられるのか…「"エイズネタ"の有無」というのは、もしかしたら、「はてなハイク」(このブログのサイドバーにブログパーツとして貼ってある)で上がっていた話題でしょうか?(このブログやコメント欄では、そんな話題は取り上げていないので)
あの話題(もしそうだとしたら)を、べつに僕が代表できるわけじゃないのですが(話をしていたのは殆どゲイじゃなかったし)…。ここではとりあえず、通りすがりさんが問題にされた僕の「ひとつの男性同性愛表象の問題としての関心」について、もう少し説明させて貰います。

「男性同性愛表象の問題」とはなにか、といっても、そもそも男性同性愛じたいもその表象も極めて多様だし、好きな人が好きなものを好きなように表現し楽しめばいいと、僕は思っています。ただ、気がかりなのは、そこでヘテロノーマティヴな現実社会の偏見やステレオタイプと結びついた表現が用いられないか、ということです。そしてそれは、個々の作品を批評、評価することで、指摘してゆく必要があると思います(それが、佐藤雅樹さんの主張だと、僕は解釈しています)。
たとえばHIV("エイズネタ")について言えば、別にBLがHIVを描く必要はありませんが、描いた作品があれば(HIVのことを気にしている人間には)気になりますし、それが社会のHIVへの偏見を反映していた場合は、それについての疑問がなんらかのかたちで(例えばブログや掲示板の感想・レビューなどで)発信されたほうがいいと、僕は思っています。HIVに対する偏見は、重要な社会問題だし、それが単にフィクションのための偏った描きかたなのだと識別できるほど、社会の認識はまだ深くないですから。いっぽう、正確な知識で、また固定観念や偏見に変化をもたらすような描写がなされていれば、作品として社会的価値も付与しうるでしょうし、そういう作品を生み出しうるBLの可能性が、確認できることになります(むろんそれは付加価値的なもので、BLがそういう可能性を持たねばならない、というわけではないのですが)。

「PC」も、関心がない人や非当事者には鬱陶しいだけの些細なことかもしれませんが、ある人びとのことを社会がどこまで理解しているかを示す、ひとつの指標です。
異性愛規範的で性的少数者に否定的な表現には疑問を呈し、社会の固定観念を変えるような表現は積極的に評価する。そうした批評が意識されることで、少しずつ性的少数者の表象が変わってゆくきっかけになる。そういう関心は、どんな表現物を見る/読むうえでも、少なくとも僕には、意味あることに思われています。もちろん、疑問視されるような表現はあってはいけない、撤収すべきだ、というのではなく、この部分はおかしい、と「異論も出しうる場が開かれて」いてほしい、ということです。

僕自身は、前述のように、BLを積極的に読む人間ではないので不可能ですが(自分の好きな作品については、いつか書けたらと思っていますが)、やおい/BLや百合などの作品を愛しながら(これが大切だと思います)、同性愛表象としての問題点にははっきり疑問を示すというスタンスの愛好家のレビューは好んで読んでいて、そのようなレビューが作品への1つの視点として認められればいいと願っています。その方々のレビューは、「PCチェックや"エイズネタ"の有無」だけではない、同性愛表象として優れた作品をやおい/BLや百合から発見する役割を果たしています。かれらの掲示板やコメント欄に、異性愛者女性・男性のBL、百合好きの人たちも一緒に集まり、「"女同士の愛は儚い"なんていい加減止めて欲しいね」「異性愛規範に引け目を感じてばかりいるゲイは飽き飽き」といった意見を交わしているのを見ると、ステレオタイプを脱した同性愛のイメージや認識がBLや百合から生まれてゆくのを知ることができて、嬉しいな、佐藤雅樹さんが呼びかけたことが、たぶん佐藤さんが予想もしなかったようなかたちで、いま実現しているんだな、と感じます。

石田仁さんがやっておられるようなやおい/BL論や他のゲイのやおい/BLに対する意見と,どの程度重なるか分かりませんが、僕が考えている「ひとつの男性同性愛表象の問題」としてのやおい/BLへの関心とは、こういったものです。
それ以外は、どんなジェンダー/セクシュアリティの人でも、好きな人が好きな表現を作り楽しむ(また自分の関心からさまざまに批評する)ことができるべきだし、僕も僕の好きな表現を(ゲイとしてもゲイであることを離れても)、楽しみ批評したいと思います。

>やおい/BLをよくご存じないままPCチェックに励まれるうち、いつの間にか異性愛男性の「腐女子は自重しろ」「腐女子は巣に帰れ」(=女は同性愛表現、男性に対する性欲の表現を自粛しろ)という声に唱和して、家父長的なヘテロセクシズムに加担することになっていなければいいのですが。

それはまったくその通りです。そんな批判は、また批判に晒されるべきだし、そもそも相手にされないでしょう。僕は、そういう的を外した不当な非難が、「異性愛規範に基づいた同性愛表象が生産されることへの批判」という本来の問題を矮小化してしまうことを恐れます。だからこそ、発言のポジショナリティに慎重になり、言わんとすることを正確に伝える言葉を選ばなければならないと思います。その意味で、僕のブログに対する通りすがりさんの厳しいご批判は、僕にとって大切なものでした。

長くなりすぎたので、あとはレスすべき点だけ−
>SMの「女王様」

僕が想像していたのは、レズビアン/サディストとして性のステレオタイプをラディカルに批判してきたパット・カリフィアでした。外見は知りませんが、カッコいい女王様のイメージというと、この人が思い浮かびます。
SMの例を出したのは、通りすがりさんの前のコメントの該当部分の主語がはっきりせず、男性身体表象は「『自然』同性関係に『帰着する』」と、やおい/BL以外の欲望のありようを消去してしまうような−また、それ自体多様でありそうなやおい/BLの欲望を、通りすがりさんの思想で一元化してしまうような−印象を与える表現になっていたのが、少し疑問に感じたからでした。失礼しました。

>「むろん、それは男が自分で格闘する問題で、女性がわざわざ忖度してやる必要のないことですが。」と仰るのは、ある意味女性の立場を無視してはいらっしゃらないでしょうか。

そのような印象を与えたなら、申し訳ありません。性的対象となることに馴れるためには、男は恐れや抵抗の感情をそれなりに処理したり言語化する必要があり、ために試行錯誤することでしょうが、それに女性が自身の欲望の表現や実現を邪魔される必要はない、という意味でした。男が(女性の)性的対象としての自分のありようを理解することは、女性の男に対する視線・欲望のありようを知ろうと努めることでもあるし、自分を女性が置かれてきた立場に重ねて捉えなおすことにもなるでしょう。女性の立場を無視し得るわけがありません。

>「女であること」という立場から感じたことをいろいろ申し上げさせていただきました。私も必要以上に「当事者性」を振りかざしすぎたかもしれません。
  
ある当事者として、そのポジショナリティが抱える問題に鈍感な非当事者に語りかけるというのは、大変な作業だと思います。僕が正しく理解できたかわかりませんが、大切な指摘も受けましたし、勉強になったと感じています。それでは、ありがとうございました。

通りすがり通りすがり 2008/12/16 00:23 Ry0TAさん、レスをありがとうございました。
公開しているブログなどがないためいつまでも名無しですみません。
こちらこそ、やり取りを通じて自分の中にあったもやもやしたものがいろいろと明確になったような気がします。
ご教示いただいたものは、後日是非参照したいです。


>なるほど、僕のブログから受け取られた情報が、おもだったのですね。

私の書き方が紛らわしかったですが、同性愛と性教育およびやおい・BLの関係についての議論を探しているうちに辿り着いたブログの一つがここでした。情報源としての責任のをこちらに全て負わせるつもりはありません。申し訳ありませんでした。


>僕のブログの内容やコメント欄のやり取りのみから、「ゲイ」全体を評価されるのは、やはり困る、とは、申し上げておきます。ウェブ上で活躍しているゲイ・アクティヴィストやブロガーには、女性(どんなセクシュアリティでも)からも評価されている人が、何人もいますので。

いろいろとご教示ありがとうございました。
こちらこそまだまだ勉強途中の身なので、「ゲイ」全体を評価するという大それたことはできませんが、どんなセクシュアリティからも評価されている方々が、例外なのかそうでないかは今後私が判断することと存じます。
他にもやおい・BLを論じてらっしゃるゲイの(と思われる)方のブログも少し拝見しましたが、それこそ言われるまでもなく「関わりたくない」レベルでミソジニー丸出しでいらっしゃいました。そういう方が主流でないことを祈っておりますが、まだ不安を拭い切れません。


>批判をされる場合は、具体的にその部分を指摘していただかねば応答できませんが、通りすがりさんの上記の批判は、僕のブログやコメント欄が発信しているものから通りすがりさんが受けとった全体的な悪印象、抱いた不信感を告げようとしているのだろうと解釈しています(違ったら、申し訳ないですが…)。

私の悪印象や不信感は「言及されていること」よりも「言及されていないこと」から生じているので、具体的な箇所を指摘しろと言われても困難なのですが、Ry0TAさんは仮にもやおい/BLのホモフォビアを論じていらっしゃる割には、一般社会のホモフォビアを前提としてやおい/BL文化が発展したという側面をあまりにもないがしろにしていらっしゃると思います。
男性同性愛表象は、「女のための、女による表現」にホモフォビックな男性が近寄らないようにするための一種の装置であり、それは一般社会で(一部のゲイを含めた)男性が言論のヘゲモニーを握っていることへの対策です(女性が言論の場でいかに女性というだけで男性に弾圧されてきたかは笙野頼子さんのエッセイでもお読みいただければすぐにおわかりかと思います)。つまり、やおい/BLは女性が男性による言論弾圧を逃れることのできる男子禁制の壮大な実験室みたいなものであり、女性にはそれが必要だったのです。
つまり、やおい/BLはヘテロセクシズムよりも家父長制の産物であり、故あって男子禁制である場に、ゲイであろうとそうでなかろうと男性が立ち入るならその辺を踏まえないと、男性であるというだけで言論の弾圧になりかねないということです。

Ry0TAさんのブログについてあえて重箱の隅をつつくようなことをするとすれば、上で挙げておられたエントリで、聖職者叙任の際に聖書の男性同性愛表象に触れながらルツとナオミのカップリング(笑)に言及がなかったことをご指摘されておられましたが、そもそもカトリック教会の聖職自体からほとんどの女性が疎外されているという事実はなぜご指摘にならなかったのでしょうか。そもそも聖職者叙任という時点で男しか問題になっていないのだから、わざわざ「男同士の問題」でアリバイのようにレズビアンを引き合いに出さなくてもいいじゃん、女をいいように使わなくてもいいじゃんよ、と私などは思ってしまいます。
ある対象を批評するとき、何を中心的トピックとするかは本人の自由です。ただ、Ry0TAさんは、もしかして異性愛中心主義者VS同性愛主義者の対立に拘泥するあまり、家父長制による男女の非対称性をお忘れになってはいませんか。異性愛中心主義と家父長制はコインの裏表のようにして女性を抑圧してきた、その産物がやおい/BLなのに、「異性愛規範に基づいた同性愛表象が生産されることへの批判」を、何の断りもなく本来の問題と言ってしまうのはあまりにも片手落ちにすぎませんか。
やおい/BLは「女のための、女による表現」だったのに、いつの間にか女は置き去りにされていて、結局ゲイは男のことしか見ていないように見えるという意味で、ゲイとフェミニズムの連帯は難しいとはこういうことを指すのだな、と実感した次第です。


>その方々のレビューは、「PCチェックや"エイズネタ"の有無」だけではない、同性愛表象として優れた作品をやおい/BLや百合から発見する役割を果たしています。

同性愛表象かどうかは置いておいて、やおい/BLがクィアな表現というお言葉には賛成です。
異性愛規範を引きうつした同性愛表象でも(最もRy0TAさんが唾棄すべき対象かもしれませんが)、同性愛という様式を経由した以上、もとの異性愛規範に何かしらのずれは生じていると思いますし。
そのような「様式的」な同性愛を独自読み換えることでゲイやバイ、レズビアンの人には、やはり腐女子という立場からでは限界のある解釈に、新しい可能性を示して欲しいものです。というより、PCチェックに留まらないそれだけのパワーを期待したいものです。


ついでにもしよろしければ(かつ未読であれば)、どうぞ。
・石田論文に対する批判
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/eiga-4.html
・腐女子と同性愛者の絡みが(いい意味で)面白かったマンガ
紺條夏生『妄想少女オタク系』第3巻
・女性の抑圧とやおい/BLについて
よしながふみ『あのひととここだけのおしゃべり』

Ry0TARy0TA 2008/12/18 00:39 >通りすがりさん、どうもです。

>いつまでも名無しですみません。

通りすがりや捨てハンを禁じるブログ・ポリシーはいまのところ掲げていませんから、どんなHNでもコメント可能です。気にしないで下さい。

>私の書き方が紛らわしかったですが、同性愛と性教育およびやおい・BLの関係についての議論を探しているうちに辿り着いたブログの一つがここでした。情報源としての責任のをこちらに全て負わせるつもりはありません。

ええと、こういうことを申し上げていいのか、自信がないのですが…
文字テキスト情報のみのやり取りでは、与えられた文字情報をそのまま受け取るしかありません。「ネットサーフィンで私が目にしたやおい/BLの是非に関する議論」について総体的印象を語られれば、通りすがりさんはやおい/BLに関する「ゲイまたは「当事者」代理の主張」なるものを相当渉猟されたうえでここに来ていると考えますし(基本、古い佐藤、溝口論文を2,3本読んだだけの僕には対応できない)、「このブログのコメント欄で交わされた議論やここに張られているブログが中心」と言われれば、僕のブログ(と僕のブログがカヴァーしている情報)が通りすがりさんの主要ソースであるからここで問うてきたのだ、と取るしかありません。僕は2回目のレスの段階で、自分が持っている情報源(とその限界)をそちらに伝えましたが、通りすがりさんが何に軸足を置いて、ご自分の意見を述べているのか、僕のブログにおいて何を問題にしているのか、分からないと、混乱するのですね…僕が頭悪いのが、一番問題なのかもしれませんが。

>やおい/BLのホモフォビアを論じていらっしゃる割には、一般社会のホモフォビアを前提としてやおい/BL文化が発展したという側面をあまりにもないがしろにしていらっしゃると思います。男性同性愛表象は、「女のための、女による表現」にホモフォビックな男性が近寄らないようにするための一種の装置であり、それは一般社会で(一部のゲイを含めた)男性が言論のヘゲモニーを握っていることへの対策です
>つまり、やおい/BLはヘテロセクシズムよりも家父長制の産物であり、故あって男子禁制である場に、ゲイであろうとそうでなかろうと男性が立ち入るならその辺を踏まえないと、男性であるというだけで言論の弾圧になりかねないということです。

まず、ちょっと確認したいのですが(これはブクマでも指摘を貰ったのですが)

>一般社会のホモフォビアを前提としてやおい/BL文化が発展
>「女のための、女による表現」にホモフォビックな男性が近寄らないようにするための一種の装置

という部分は、

>一般社会のミソジニーを前提としてやおい/BL文化が発展
>「女のための、女による表現」にミソジナスな男性が近寄らないようにするための一種の装置

ではないでしょうか?そうでないと、意味が繋がらないような気がするんですが(また僕がバカで理解できていないのかもしれないのですが)。

「女性が自ら表現する」ということの多くが、男性社会との格闘であったということには、まったく同意します。
そもそも、このエントリで引用した佐藤雅樹さんの「少女漫画とホモフォビア」は、「24年組」のような少女漫画家による少年愛表現が、「「男同士」というメタファーを用いることで,既成の価値基準にとらわれない関係を表現したい、という理由」で作られたことや、「男社会である編集者のおしつけるステレオタイプに辟易し」た作家たちの「女性解放的試み」であったということを重視しています。現在「少女漫画論」として流布している言説では、さして目新しい説ではないかもしれませんが、ゲイによるやおい/BL批評として1996年(12年前)に書かれたものとしては、かなり重要な指摘だったのではないでしょうか。佐藤さんがやおい/BLにそれなりに真摯に向き合おうとしたことを示す一端であり、そういう意味でも、彼の論は、いかに内容や情報は古くなっているとはいえ、ゲイの立場からのやおい/BLへの問いかけとして、見直すべき点が多いことが分かります。

対して、僕が佐藤さんの論を紹介する上で、そこを省いてしまったのは、大きな誤解を生むもとであり、僕の「ないがしろにしている」態度の表れであると批判を受けても、当然だと思います。この点は、深くお詫びしたいと思います。

謝罪させていただいたうえで、いまいちど確認しておきたいのは、佐藤雅樹さんが、女性作家が男性同性愛表象を通して表現する理由を理解し、(自身少女漫画ファンとして)その革新性をリスペクトしたうえで、その後、大きなジャンルとして発達したやおい/BLの男性同性愛表象が、「社会のホモフォビアを無自覚に表現し、結果再生産していないか」を問うた、ということです。
ホモフォビアに抵抗しながらミソジナスなゲイがうじゃうじゃいるように、「ミソジニーに抵抗すること」と「ホモフォビックであること(または、異性愛規範に縛られ同性愛を周縁化すること)」は容易に両立するし、家父長制に抵抗する人が、性的少数者の問題にまったく想像力を持たないヘテロセクシストであることも、珍しくはありません。このヘテロノーマティヴ社会では、同性愛(女性、男性問わず)の表象は、絶えず異性愛規範に回収され、周縁的に、ネガティヴに描かれる危険が高い。積極的に男性同性愛表象を生産・消費するやおい/BLも、その危険からは逃れ難い、ということになります。

>異性愛中心主義と家父長制はコインの裏表のようにして女性を抑圧してきた、その産物がやおい/BLなのに、「異性愛規範に基づいた同性愛表象が生産されることへの批判」を、何の断りもなく本来の問題と言ってしまうのはあまりにも片手落ちにすぎませんか。

と批判くださいましたが、まず、やおい/BLの存在そのものに、外部の人間が口を出すような「問題」など何もないと、僕は思います。むしろ、女性による表現の困難さという「問題」をあるていど解決したという点で、表現の歴史上、高く評価できるのでしょう。
しかし、その表現が、異性愛規範に基づくホモフォビアと結びついた場合は、「ひとつの同性愛表象の問題」として、それを問いたい。「表現の動機」ではなく、「表現の結果」がはらむ危険の可能性が、「問題」になっているのです。誤解を与える表現だったことはお詫びしますが、 「本来の問題」というのは、「(ゲイ、同性愛者の側から問う)本来の問題」という意味です。そこを、理解していただけるでしょうか。

表現の背後にどんな動機があろうと、まったく自由であり、人がなにかを表現しようとする切実な思いは、全幅の尊重がなされるべきです。それが他の手段では表現し得なかったものの表現であったら、なおさらです。

しかし、動機とは別に、「その表現がどんなものか」「どんな影響を与えうるか」には、最低限表現者や受け手は責任あるのではないか。

そして、このような佐藤雅樹さんの問いかけに応答するように、自らBL愛好者・レズビアンとして、BLがホモフォビア表現に陥るヘテロノーマティヴな構造を読み解き、それを脱することでやおい/BLがクィア・テキスト化する可能性を指摘したのが、溝口彰子さんの論文「ホモフォビックなホモ、愛ゆえのレイプ、そしてクィアなレズビアン」(2000)だったのだと思います。
女性のヘテロノーマティヴな欲望表現としての(「女性による女性のための」テキストであり、男性同性愛者のためのものではない)やおい/BLの男性同性愛表象が、男性同性愛者を他者化したホモフォビア表現を生み出す構造を孕みうることを明らかにしたうえで、それを脱してゆくBL作品の方向性に(自身、ホモフォビアに排除される同性愛者として)希望を見出す。やおい/BLのホモフォビアからの解放を構想したのがこの論文だと、僕は思っています。
この論文自体、もうかなり古いですし、溝口さんのBLのホモフォビア表現分析は、いま読むと概念面の甘さや大味さも、感じないでもありません。しかし、その目指したものは、とても生産的だったのではないかと、僕は思います。少なくとも、僕がいちゲイとして外部から、同性愛表象(男性同性愛に限らず)のひとつとしてのやおい/BLに(やおい/BLに限らずですが)持って欲しいなと期待するような方向性でした。
また逆に、溝口さんは、藤木由香里さんが自分の好きな羅川真里茂『ニューヨーク・ニューヨーク』を、ゲイ読者から支持されたことを理由に「リアルなゲイを描いている」と賞賛したのに対し、手厳しい批判をしています(「それは、誰の、どんな、「リアル」?:ヤオイの言説空間を整理するこころみ」2003)。「当事者」の「リアル」を自分にとっての「リアル」の裏づけにしてはならない、自分にとっての「リアル」もホモフォビアも自分で引き受けねば、というものでした。

と、かなりくだくだしくなってしまいましたが、僕が知っている「やおい/BL論」というのは、(再三繰り返しますが)この程度のものです。そして、僕はひとりのゲイとして、この考えかたに共感を覚えましたし、これらの問いかけが今でも顧られることを祈りながら、このエントリを書きました。

こうしたやおい/BL論の系譜や、リンクした小泉蜜さんの重厚なやおい論などを一種「当然の前提」として書いたので(溝口さんは、少なくとも名前は有名みたいですし)、通りすがりさんが見たとき、ゲイの僕の関心に偏った、やおい/BLのルーツに対する配慮に欠けた印象を、与えたことと思います。それは、申し訳なかったと思います。

そして、(またくどいですが、)これはあくまで僕個人の意見です。他のゲイがどうなのかは、知りません。なんらかの考えを持っている人もいるだろうし、何も考えていない人も多いだろうし、BLが好きで愛読している人も多いでしょう。立ち位置はさまざまで、どんな意見があるのか、僕には分かりません。それは、通りすがりさんがご自分で検証されることと思います。

そしてまた、こうした問いかけを、やおい/BL当事者の異性愛女性が、通りすがりさんご自身がどう捉えているのか、僕には分かりません。こうして「やおい/BL当事者」と「ゲイ」という立場で(あくまで僕らのポジショナリティの関係性がそうだ、というだけであって、僕らがそれぞれ「やおい/BL当事者」「ゲイ」を表象/代表するわけではありませんが)なんどかコメントをやり取りするなかで、通りすがりさんがこのブログに表われている「僕」という「ゲイ」に不信感を抱いていることは伝えて下さいましたし、それは切実に受け止めたいと思います。ですから、ここに書いたことも、「言論の弾圧」として、切り捨てられるかもしれません。それはまったく、通りすがりさんの自由です。

そもそも、石田仁さんは、やおい/BL論について、「「作品をよまずして語ろうとする」ことほど「おろかなことはない」」と言っています。ほんのわずかしかBLを読んでいない僕は、真っ先に語る資格を失います。
ですから、僕はそれこそ「祈る」だけです。そして、それに応じてくれる人たちー自分たちのファンタジーが現実と無縁でないことを意識する人たち、根気よくBLや百合に登場する”無意識のホモフォビア”を批評する人たちーに出会うたびに、嬉しいな、と「感謝する」んです。この問題について、僕に言えるのは、実のところ、それだけなのです。


あと、話がそれるかもしれませんが、「ルツ記」のエントリに対するご批判について、お答えしておきたいと思います。

>聖職者叙任の際に聖書の男性同性愛表象に触れながらルツとナオミのカップリング(笑)に言及がなかったことをご指摘されておられましたが、そもそもカトリック教会の聖職自体からほとんどの女性が疎外されているという事実はなぜご指摘にならなかったのでしょうか。そもそも聖職者叙任という時点で男しか問題に なっていないのだから、わざわざ「男同士の問題」でアリバイのようにレズビアンを引き合いに出さなくてもいいじゃん、女をいいように使わなくてもいいじゃんよ、と私などは思ってしまいます。

女性聖職者叙任はカトリック・プロテスタント問わずキリスト教会の大きな問題です(同時に、同性愛者聖職者叙任問題も)。しかし、リヴァプール司教の発言で問題となっているのは、聖職者だけではない、教会に自分のセクシュアリティを否定され、「自分自身」として教会に入ることを許されなかったすべてのジェンダーのカトリックの同性愛者のことではないでしょうか。
教会が同性愛に歩み寄る素振りを見せたが、「同性愛love between two people of the same gender」と言いながら、女性の名前が出てこない。ダヴィデと同じぐらいルツは有名なイコンなのに。
これが大きな問題なのは、エントリでも書いたように、何度も繰り返されてきた女性同性愛者の黙殺と不可視化という罪を、また繰り返しているからです。僕は、通りすがりさんがどんな女性か(シスジェンダーかトランスジェンダーか、ヘテロセクシュアルかバイセクシュアルかレズビアンかアセクシュアルか)存じ上げないですが、女性の立場から見た場合、司教の言葉に「男」の名前しか登場しないことは、異常に思われないですか?これは、聖職者叙任権の問題に劣らず、大きな性差別問題ではないですか?

「教会法と同性愛の議論」でダヴィデやヨハネが言及されただけで、「同性愛を認めた」と喜ぶゲイは多いでしょう。しかし、その鈍感さによってレズビアン・バイセクシュアル女性が存在を不可視化され、「異性愛主義と同性愛」の対立と和解が「男同士の問題」に堕してしまう。その「鈍感の暴力」は、「重箱の隅」 どころではないと思います。僕の考えでは、「男同士の問題」に「わざわざレズビアンを引き合いに出す」んじゃない、ここにレズビアンがいないことを看過すれば、教会と同性愛というクリスチャンの同性愛者には切実な問題が、ただの「男同士の問題」に堕すのです。
僕は男でありゲイであるから、そういう鈍感バカになる可能性を持っています。できうればそうなりたくないから、そんな鈍感バカを生み出しそうな言葉には、水をぶっ掛けておきたいと思います。ですから、僕は司教の言葉に「女同士の愛」がないことにこだわらざるをえません。それは、女性聖職者叙任問題を出さずとも、極めて重要な女性差別の問題だと、僕は思っています。

通りすがりさんがこのブログから受け取る悪印象・不信感という批判を、重く受け止める気持ちは変わりませんし、僕の書く文章が異なるジェンダーのポジションから見た場合、どのように映るかということは、これからもよく考えてゆきたいと思います。しかし、今回の批判については、上記のようにお答えしておきた いと思います。


何度も長文で煩わせて、申し訳ありませんでした。作品の紹介も、ありがとうございました。読んだものもありますし、よしながふみさんの本は、高い評判を聞いています。それでは。

通りすがり通りすがり 2008/12/18 16:30 >僕は2回目のレスの段階で、自分が持っている情報源(とその限界)をそちらに伝えましたが、通りすがりさんが何に軸足を置いて、ご自分の意見を述べているのか、僕のブログにおいて何を問題にしているのか、分からないと、混乱するのですね…僕が頭悪いのが、一番問題なのかもしれませんが。
えーと、私の頭が悪いだけなのかもしれませんので、ご自分をお責めになる必要はないと思います。
私はRy0TAさんがゲイ代表だとは今は思っておりませんし、Ry0TAさん「個人の」ご意見を伺えることをありがたく思っています。
ソースについてそこまで神経質になられる必要もないんではないでしょうか。
私だってRy0TAさんと比べて量的にそんなに沢山の評論を読んでいるわけではありませんし。
同じものを読んでも、例えば小泉蜜さんのサイトのテキストは私も日記まで含めて愛読させていただいておりますが、
Ry0TAさんと私では解釈は結構違っているようですしね(小泉さんのサイトは、やおい論を通した家父長制批判だと私は考えています)。
ここでの私の軸足は、基本的にこのエントリとその後とコメント欄におけるやり取りです。
しかし残念ながら、数度の丁寧なレスをいただいた後も、Ry0TAさんご自身の姿勢として異性愛規範を強調しすぎることで、巧妙にミソジニーや家父長制が不可視化されているという印象をぬぐいさることができませんでした。
私にとってゲイは二種類いて、ミソジナスなゲイとそうでないゲイです。
現代日本において基本的に男性はミソジニーを刷り込まれて育ちますから、ゲイだけがそこから除外されるわけではないのはよくご承知のことと思いますし、私もそう思ってます。
だから、私は女性としてゲイと話をするとき、基本的にそのゲイがどちらの種類か見当をつけてから話をできればと思います。
そうしないと話が通じないし、こちらへ同性愛者(=男性同性愛者)への配慮を求めながら、平気で女性の立場を配慮しない発言をすることに無駄にムカつかなければならないので。
その人がミソジナスなゲイだとしたら、「あーこの人は自分はヘテロの男よりは劣位におかれてると思ってるけど、女の立場までは降りてきたくない人なんだ、しょうがないよね、男と言うだけで立場を尊重してもらえるのが当たり前という教育を受けてきたんだから」と話が通じないのも、家父長制の問題点がスルーなのもあきらめもつくものです。
……前回のコメント投稿後、たまたま別のエントリを拝見して、Ry0TAさんが「女性にはなりたくない、大変そうだから」と仰っているのを読んで改めてトホホと思いましたが(傍から見ている人に「こんな生物には生まれ変わりたくない」って言われる女性ってどこまでかわいそうな存在なんでしょうね 泣笑)。

話がそれました。
私自身も昔サイトで作品を公開していたころ(その作品には同性愛者は出てきませんでしたが)、女性読者に「やおいやBLはいいけどゲイは気持ち悪い」と言われて、「お前、それはないだろ」と思った経験もあります。
彼女を無知な差別主義者と責めてしまうことは簡単ですが、彼女の反応をやはり家父長制の問題を抜きにして語るのはフェアではない気がします(今は彼女の「気持ち悪い」という言葉はミソジナスなゲイを想定したものではないかと漠然と考えています。「女のお前に、ゲイの何が分かる」という言葉を投げつけるようなゲイの)。


>>一般社会のホモフォビアを前提としてやおい/BL文化が発展
>>「女のための、女による表現」にホモフォビックな男性が近寄らないようにするための一種の装置

>という部分は、

>>一般社会のミソジニーを前提としてやおい/BL文化が発展
>>「女のための、女による表現」にミソジナスな男性が近寄らないようにするための一種の装置

>>ではないでしょうか?そうでないと、意味が繋がらないような気がするんですが(また僕がバカで理解できていないのかもしれないのですが)。

私は全然前者で意味が通じると考えてます。
というのも、「作者が何を意図して、誰に向けて書いたか」というのは「テキストをどう解釈しうるか」という読み手の自由の前には、二次的な問題だからです。
ホモフォビックな人は、まず男性同士のカップリングという記号に拒否反応を示して近寄ってきませんよね(その人たちは当然ゲイポルノも見ないはず)。
だからミソジナスでも、ホモフォビックではない人はやおい/BLの消費者になり得るということです(ゲイポルノも消費する可能性はある)。
マジョリティがホモフォビックである男性を「強制的に」排除するための装置、とでも言えば少しは分かりやすくなりますかね?
繰り返して言うと、「一般社会のホモフォビアを前提として発展したやおい/BL文化」という箇所が指しているのは、表現の「手段」としてのやおい/BLです。
同じくミソジニーとの戦いの産物である「百合」を含めていないことにご注意ください。
ご存知のように女性の百合愛好者に比べて男性の百合愛好者が珍しいかと言われると全然そんなことないですよね。
そういうことです。

>しかし、動機とは別に、「その表現がどんなものか」「どんな影響を与えうるか」には、最低限表現者や受け手は責任あるのではないか。
で、Ry0TAさん個人は「最低限の責任」として腐女子に何をして欲しいのですか?
巣に帰って欲しい、つまりクローゼットな存在になって欲しいのですか?(実際に、ゲイの人に批判されるからという理由を振りかざして、腐女子自体がコミュニティをクローゼットな方向へ誘導しようとする言説も見かけました)
恭順の証に、「NYNY」みたいな「模範作品」を差し出して欲しいのですか?
それとも慇懃な沈黙をもって迎えられたいのですか?
率直に言えば、家父長制批判を不十分にしか踏まえていない「やおい/BLの同性愛的表象には問題がある」という批評は、「男性同性愛表象のようなわけわからんものを愛好する腐女子キモい」というレトリックで腐女子を叩いてきた異性愛男性に新たに「正当性」という言い分を与えることで利用されてしまう気がします。
本気でゲイとして腐女子と対話したいなら、そういう差別的な異性愛男性を利するような戦略は賢くないと思うのですが、どうでしょうか。
私はいかなる表現も構造的に(ゲイ差別であれ女性差別であれ)差別を孕まないものはないと思っています。
私が期待するのは、いかにして全く差別を含まない表現をするかというきれいごとではなく、
そういう構造的差別を上手く飼いならしつつ(もっといい表現があるかもしれませんが)、表現や解釈の幅を広げようという試みです。

>女性聖職者叙任はカトリック・プロテスタント問わずキリスト教会の大きな問題です(同時に、同性愛者聖職者叙任問題も)。しかし、リヴァプール司教の発言で問題となっているのは、聖職者だけではない、教会に自分のセクシュアリティを否定され、「自分自身」として教会に入ることを許されなかったすべてのジェンダーのカトリックの同性愛者のことではないでしょうか。
あの、話がかみ合ってないような気がするのですが。
ここに書かれたことだけ読むと、まるでRy0TAさんにとって女性の存在が問題になるのは「同性愛に関わるときだけ」みたいな印象を受けかねません。
私なら、男性同性愛者の例しか挙げていない司教の発言には二重に問題だ、と指摘します。「男性同性愛の例として結局は男性のカップルしか挙げていない」ことが、?カトリック教会において女性が聖職につけないことの再確認になり、家父長制を強化・再生産しうる、?レズビアンの存在を無視し、不可視化したと。
私にとって?を指摘せずに?だけ問題にすることは男女平等を標榜する男性のただのアリバイ作りです。

はっきり言って、私のような女性から見れば異性愛規範VS同性愛の対立はほとんど男社会内部の問題です。それは、女性の身体という資源をめぐって争う男たちと、そのゲームで勝ち負けを決しようとしない男たちの対立ですから。レズビアンであろうとそうでなかろうと、女性は主体性を持ってその議論に参加することを、常に拒まれてきました(寡聞にして、レズビアンが、「男と女という資源をめぐって競合する存在だからけしからん」という批判は聞いたことがありません。「レズビアンは男の所有物になりたがらないからけしからん」という批判を聞くことがあっても)。女は、いつも置き去りです。いくら説明しても分かっていただけないのかもしれませんが。

通りすがり通りすがり 2008/12/20 00:37 コメントを投稿させていただいた後、「腐女子はゲイに対してどう振る舞うべきか」「なぜ話がかみ合わないのか」という問いについて考えるうち、結論らしきものが出て自己解決しました。
Ry0TAさんのご期待に添えているかどうかわかりませんが、ブログを借りて記事を書いたので、もしよろしければご覧ください。
http://blog.livedoor.jp/karpfen32/archives/00661.html
今まで長々とお付き合い下さりありがとうございました。
改めて、御礼申し上げます。

通りすがり改め、ゆんゆん

Ry0TARy0TA 2008/12/20 19:01 >通りすがりさん、どうもです。
ブログご開設おめでとうございます。クィア・スタディーズ関連のブログなんですね、これからも続けていかれそうでしたら、ご発展をお祈りしています。
通りすがりさん(ここでは、いちおうこのHNで)のご結論は、ここの前回のコメント(2008/12/18)からまたさらに先に進んでいますね。ここでは、やりとりを締めくくるために、前回の通りすがりさんのコメントで特に大切と思われる部分:

>家父長制批判を不十分にしか踏まえていない「やおい/BLの同性愛的表象には問題がある」という批評は、「男性同性愛表象のようなわけわからんものを愛好する腐女子キモい」というレトリックで腐女子を叩いてきた異性愛男性に新たに「正当性」という言い分を与えることで利用されてしまう気がします。
本気でゲイとして腐女子と対話したいなら、そういう差別的な異性愛男性を利するような戦略は賢くないと思うのですが、どうでしょうか。

に、応答しておきたいと思います。

※以下の内容は、混乱を避けるため、このコメント欄でのやりとりのテーマに限ること、通りすがりさん(ゆんゆんさん)の結論は、ゆんゆんさんのブログで詳しく述べられていることを、ご了承ください。でごらん下さい。

まず、
>Ry0TAさんがゲイ代表だとは今は思っておりませんし、Ry0TAさん「個人の」ご意見を伺えることをありがたく思っています。

ありがとうございました。自分の発言が「ゲイとして」どういう位置にあるのかなんて分からんですし(そんなこと、分かるものなのか?)、そう言っていただけるとホッとします。

>ソースについてそこまで神経質になられる必要もないんではないでしょうか。
>私だってRy0TAさんと比べて量的にそんなに沢山の評論を読んでいるわけではありませんし。

すみませんでした。文字情報のみのやり取りではお互いの依って立つところが分かりにくいし、「やおい/BL」という、僕には他者のものである事柄について話し合うとき、自分の意見が何に基づいているのか、また人が何を前提に語っているのかには、慎重にならざるをえないので…。

>同じものを読んでも、例えば小泉蜜さんのサイトのテキストは私も日記まで含めて愛読させていただいておりますが、Ry0TAさんと私では解釈は結構違っているようですしね(小泉さんのサイトは、やおい論を通した家父長制批判だと私は考えています)。

僕は、小泉蜜さんのやおい論について、解釈は述べていませんでした(「重厚なやおい論」とか抽象的なことを言ってましたが)。はじめて拝読したのは随分以前ですが「やおい少女」がなにゆえやおいを必要としたのか?という小泉さんの深い分析として、強い印象を受けました。「やおい論争」論は、素晴らしい貴重な「史料集」です。ただ、佐藤雅樹さんの最後のエッセイへの言及が欠けていたので、その情報提供をしたのが、このエントリです(ってことは、エントリ本文に書いてありました)。

>ここでの私の軸足は、基本的にこのエントリとその後とコメント欄におけるやり取りです。

了解です。あくまで、このエントリ+コメント欄の僕個人の考え(と、その限界)に関することとして、応答させていただきますが、

>残念ながら、数度の丁寧なレスをいただいた後も、Ry0TAさんご自身の姿勢として異性愛規範を強調しすぎることで、巧妙にミソジニーや家父長制が不可視化されているという印象をぬぐいさることができませんでした。

僕のエントリが「家父長制のひとつの結果としての『女性』の表現の困難」(と、いうとこれを本質主義的に固定しそうで、躊躇われますが)という問題への考察を欠いていた(元ネタの佐藤雅樹さんは,その点を重視していたのに)ことは、僕の浅さを示すものであり、その点は、反省したいと思っています。

しかし、クィア・スタディーズの「異性愛規範」は、家父長制・ミソジニーと深く関わっていますよね。「はっきり言って、私のような女性から見れば異性愛規範VS同性愛の対立はほとんど男社会内部の問題です。(前回コメント末尾部分)」とおっしゃいましたが、異性愛規範は同性愛とのみ「対立」するのではなく、「規範的異性愛(社会でヘゲモニーを得ている階級を再生産するための家庭内性愛)から逸脱する」すべての人間を排除しています。「家父長制に抑圧される女性」というフェミニズムの家父長制批判が逆に「家父長制」や「女性」を本質主義的に固定してしまうことへの批判がバトラーの問題提起・出発点のひとつだし、もっとも影響を与えたクィア批評といえば家父長制を支えるホモソーシャルな欲望(とミソジニーとホモフォビア)のシステムを暴いたセジウィック。異性愛規範の問題は、ジェンダー規範の問題と不可分なわけです(と半可通の僕が通りすがりさんに言うのは、恥ずかしいのですが)。

僕が外部から「腐女子」(とりあえず、やおい/BL当事者、という意味で使いますが)について云々するのは躊躇われるし、できれば避けたかったのですが、少なくとも「腐女子」を取り巻く困難は、すごく異性愛規範的に見えます。
通りすがりさんは、「(女性の表現)手段」としてのやおい/BLが

>ホモフォビックな人は、まず男性同士のカップリングという記号に拒否反応を示
して近寄ってこない(その人たちは当然ゲイポルノも見ないはず)。
>マジョリティがホモフォビックである男性を「強制的に」排除するための装置

だとおっしゃいましたが、「ホモフォビックな男性」は大人しく遠ざかっているどころか、「ホモ」「腐女子自重」あるいは「『男性同性愛表象のようなわけわからんものを愛好する腐女子キモい』というレトリック」でやかましく「腐女子」に絡んでいるように見えます。ホモフォビアを無自覚に内面化した人間(特に男)
が、むしろ異様に「ホモネタ」を好むということは、以前のやりとり(1回目のレス)でも話題に上りましたね。ホモフォビックなノンケ男はゲイビデオを鑑賞はしないでしょうが(そもそも必要ない)、「ネタ」にして面白がりハシャぐことは好みます。あくまで外部からの印象ですが、「腐女子」の人たちの周辺でも、同様のことが起きていないでしょうか。「腐女子の生態」を覗きたがる、やおい/BL(の、わざと突飛そうな部分だけ)を取り上げて大げさに騒ぐ…。「規範的異性愛に必要な文化規範」と異なることをやっている「腐女子」は、異性愛規範と激しい軋轢を起こし、いやおうなく異性愛規範から逸脱した存在、「クィア」になってしまっている。

通りすがりさんは、何度か「やおい/BLは…である」とご説明くださいました。が、人のいろいろ言うところでも、僕の印象でも、「やおい」「BL」の「意味」や「定義」や「なぜこれが必要か」なんて、人の数だけあるんじゃないか。「やおい」と「BL」は違うし「女性」と言うけど男もいるしトランスジェンダーもいるし、たぶん「やおい/BLとは…」と定義しようとしてもできない。でも、「異性愛規範もジェンダー規範も逸脱し」「目立ち」「奇異の目で見られ」「何となくネガティヴな意味づけをされ」「絶えず自己説明を要求され」「叩かれている」という点ではガッチリ共通している。家父長制批判を軽んじているとまた批判されそうですが、僕にはそう見えます。

(しかし、分かりません。やおい/BL内部では、通りすがりさんがおっしゃるように、これが「ホモフォビックである男性を「強制的に」排除」する装置として、有効に働いているのかもしれませんが…)

やおい/BLは、存在はクィアであり、こと担い手が「女性」であることで、激烈なまでのヘテロノーマティヴな軋轢に巻き込まれている。しかしいっぽう、その価値観は(溝口さんが指摘したように)ヘテロノーマティヴであり(すべてが、ではありませんが)、その表現行為を通じてヘテロノーマティヴな(男性)同性愛表象(※)を社会に送り出すあやうさを持っている。 (男性)同性愛者・クィアには気にならざるをえない点であり、そこに異性愛規範主義を目の当たりにすると、批判せざるをえない。
やおい/BLとその当事者を取り巻く困難はとても複雑だと、僕は感じています。
(※ 「同性愛関係」と社会規範との軋轢や家族との関係などを描く場合、それが及ぼす影響は男性同性愛のみに限りません)

で、

>率直に言えば、家父長制批判を不十分にしか踏まえていない「やおい/BLの同性愛的表象には問題がある」という批評は、「男性同性愛表象のようなわけわからんものを愛好する腐女子キモい」というレトリックで腐女子を叩いてきた異性愛男性に新たに「正当性」という言い分を与えることで利用されてしまう気がします。

という、肝心の問題ですが-―

まず、「やおい/BLの同性愛的表象(の存在そのもの)には問題がある」とは、僕は言っていないということを、もう一度、確認させてください。
浅学な僕には、「家父長制批判を踏まえる」ために通りすがりさんが想定している具体的なディシプリンがなんなのか、よく分かっていません。ですから、勝手に「僕「個人」の」「ヘテロノーマティヴィティ批判」で行ってしまいますが、

>で、Ry0TAさん個人は「最低限の責任」として腐女子に何をして欲しいのですか
>巣に帰って欲しい、つまりクローゼットな存在になって欲しいのですか?(実際に、ゲイの人に批判されるからという理由を振りかざして、腐女子自体がコミュニティをクローゼットな方向へ誘導しようとする言説も見かけました)
>恭順の証に、「NYNY」みたいな「模範作品」を差し出して欲しいのですか?
>それとも慇懃な沈黙をもって迎えられたいのですか?

僕が個人的に望むのは、「異性愛規範的で性的少数者に否定的な表現には疑問を呈し、社会の固定観念を変えるような表現は積極的に評価する。…(疑問視されるような表現は)この部分はおかしい、と「異論も出しうる場が開かれて」いてほしい」(3回目のレス)ということで、そしてこれはべつに、「やおい/BL」や「腐女子」だけに求めているわけではありません。
通りすがりさんが列挙したようなことは、これまでの長いレスで、1度も言っていません(「NYNY」云々というのは、もしかしたら溝口さんの2003論文についての説明の部分から類推されたのかもしれませんが、大分意味が違います)。
やおい/BLがクィア当事者にも面白い、社会のステレオタイプを覆すようなクィア表現も生み出すのは嬉しいですし、そういう可能性があることも、嬉しく思いますが、しかし既述のように「やおい/BLが、そういう可能性を持たねばならないわけではありません」(3回目のレス)。

ここで一度も上がらなかったこれらの問いを、なぜ通りすがりさんがするのか。
それが「ゲイ当事者や当事者「代理」」からのやおい/BL批判なのだと、「イメージ」として、漠然と抱かれている(誰が??どこから??どこに??)、少なくとも通りすがりさんは抱いている、そういうお話でしたよね。
もしそういう批判が、本当にあった場合は。
僕は、
「クィアな存在への異性愛規範的な抑圧・糾弾」と
「異性愛規範的な価値観が生み出すホモフォビックな表現へのクィアな批評」
は、厳密に区別しなければならないと思います。前者は批判にもなっていない、ただの男性至上主義的/異性愛規範的な支配のディスコースとして、批判(むしろ批評?)に晒されるべきでしょう。「腐女子叩き」をクィアする、というのは、おそらく大切な作業です。はてなダイアリーでは、id:nodadaさんがよくやっていますが。批判されるのはホモフォビックなノンケ男でも「腐女子」を奇異の目で見るノンケ女性でもゲイでも、変わりありません。
(むろん、「ヘテロノーマティヴィティから弾き出されたクィアである」というのは<動態>ですから、それで「やおい/BL」が<抑圧された被差別集団>として<聖域化>するわけじゃないし、抑圧のディスコースは、ちゃんと対象を捉えて論理的に批判しなければ意味がない。訴えたいことが妥当でも、論理が破綻していれば、正当な反論も矮小化されてしまいますから。)

ゲイがやおい/BLを批判・批評したいと思う場合も、これを忘れてはならないと、僕は思います。不当な表現に対するクィアな批判のつもりでヘテロノーマティヴな抑圧をやってしまったら、それは同じく批判されても仕方ありません。

>批判する側も、不当にならない真っ当な批判を鍛えざるを得ない。それでようやく、意味のある議論が可能になる(2回目のレス)

というのは、そういう意味です。だからこそ、「"糾弾"ではなく"批評"」と言った佐藤雅樹さんの論は、今でも評価できるのです。

そのうえで、作品の表現の質を自由に、それぞれの立場で批評することは可能でしょう。

>いかなる表現も構造的に(ゲイ差別であれ女性差別であれ)差別を孕まないものはないと思っています。

のだとしたら、表現における構造的差別を「可視化」できること、表現の中で無自覚に再生産されている差別的規範やステレオタイプへの批評が、自由であることが大切です。

異性愛規範もホモフォビアもシステムですから、「これは同性愛嫌悪的だ」「同性愛嫌悪的ではない」という評価は、明確な基準や線引きがあるわけではありません。ある異性愛物語の女性表象が、ある人には「共感できる物語」、ある人には「家父長的なステレオタイプ」に思えることは、ままあるでしょう。異性愛規範は誰もが内面化しています。どんな規範をどこまで受け入れるか、脱構築を望むかは、人それぞれ違う。あるヘテロ読者に異性愛規範的でホモフォビックに見える物語が、別のゲイには救いであることもある。表象の作用は複雑で、批評の方法もさまざまです(溝口彰子さんは「百合/レズ」映画を対象に「異性愛規範の批判」「クィア・リーディング」の2通りの手法を用いていましたが)。
フェミニズム批評は、表現における男性至上主義的規範を批判し、女性表象のステレオタイプの再生産に抗ってきたと思います。クィア批評(ジェンダーは問わず)も、同じです。要するに、どんな表現についても、批評は開かれているべきだという単純な事実であり、やおい/BLもその一つだ、というに過ぎません。そしてこれは、通りすがりさんがおっしゃる「表現や解釈の幅を広げる」ことと、結局、さして異ならないでしょう。

そのほか、色々ご批判はありましたが、2点だけ-―

>私自身も昔サイトで作品を公開していたころ(その作品には同性愛者は出てきませんでしたが)、女性読者に「やおいやBLはいいけどゲイは気持ち悪い」と言われて、「お前、それはないだろ」と思った経験もあります。彼女を無知な差別主義者と責めてしまうことは簡単ですが、彼女の反応をやはり家父長制の問題を抜きにして語るのはフェアではない気がします(今は彼女の「気持ち悪い」という言葉はミソジナスなゲイを想定したものではないかと漠然と考えています。「女のお前に、ゲイの何が分かる」という言葉を投げつけるようなゲイの)。

そうだったのかもしれませんね。
しかし、(僕は日本生まれ日本育ちの日本国籍人ですが、)日本でゼノフォビアに苦しんだ外国人が「日本人は気持ち悪い」と言ったとき、そう言いたい気持ちは理解でき、「日本人」として恥じる気持ちになっても、その言葉は受けいれられないだろうと思います。批判として届き得ないからです。
僕も、ホモフォビアを内面化した異性愛者の残酷さ、醜さに目眩がするほど腹が立ち、「ノンケは気持ち悪い!」と喉まで出掛かるような気分になっても、それは声にしません。叫んでしまうことはありますが、あとで後悔します。そんな破れかぶれの乱暴な罵倒は批判になり得ないし、むしろ僕が訴えたいことを矮小化してしまう。僕はそれはしたくありません。自分の怒りはもっと大切なものですから。
しかし、差別の構造と真剣に四つに組むのは疲れます。だから、通りすがりさんのように、「ミソジナス」「そうでない」の2種類にばんばんラベリングして切っていくのも、もちろんひとつの手だと思います。



あと、「ルツ記」エントリのご批判について-―

教会の同性愛の議論で女性同性愛が不可視化されることがそもそも教会の男女差別に根ざしていることは確かです。しかし、レズビアンの不可視化を女性聖職者叙任問題と一緒に論じなければならないという通りすがりさんの主張にも、僕は疑問が消えません。僕がこの「教会と女性同性愛者」にかかわるエントリを書いたとき頭にあったのは、レズビアンの牧師さん堀江有理さんの『「レズビアン」という生き方:キリ
スト教異性愛主義を問う』です。「異性愛規範VS同性愛」を「男同士の問題」に堕とす愚劣も、レズビアンの存在を「女性の問題」の下に一元化する暴力も、僕はこの本から学びました。

それでは、長い間、どうもありがとうございました。

ゆんゆんゆんゆん 2008/12/21 11:47 いつにも増して長いレス、どうもありがとうございました。
ブログ開設についても、お祝いのお言葉をありがとうございます。
ブログはいつまで続くか分かりませんが、とりあえず当面のエントリについては、もしよろしければ訂正すべき個所などご指摘ください。

批評の場はどんな形であれ誰にも開かれているし、現に「腐女子」ではない別の立場で作品を批評されている人はご紹介いただいたのだださんはじめ何人もいらっしゃる。
となると、このエントリというか、2008年に佐藤さんのエッセイを紹介する意味というのは、佐藤さんが1996年にしては進歩的であったとかそういうことでいいんでしょうかね。

「外部者」が作品を読まずに腐女子の態度ばかりを問題にしてきた、というのはノンケ男の腐女子叩きの構造と何ら変わらないので、個人的にはRy0TAさんが早くお気に入りの作品とそうでない作品を見つけて批評して「内部の人」になられることを望みます(Ry0TAさんにその気があればですが)。
男同士のカップルの物語というだけで読むのが耐えられない(それこそ生理的に受け付けない、というレベルで)ノンケ男に対し、Ry0TAさんはアドバンテージがあるわけですから。

他にもツッコミどころはいろいろとあるのですが、ルツ記のエントリに関して、言いたいことが伝わっていないようなので。
>しかし、レズビアンの不可視化を女性聖職者叙任問題と一緒に論じなければならないという通りすがりさんの主張にも、僕は疑問が消えません。
しかし、レズビアンの不可視化を男性同性愛者聖職者叙任問題と一緒に論じなければならないというRy0TAさんの主張にも、私は疑問が消えません。
>「異性愛規範VS同性愛」を「男同士の問題」に堕とす愚劣も、レズビアンの存在を「女性の問題」の下に一元化する暴力も、僕はこの本から学びました。
で、「ヘテロ女性に言及しないことが、ヘテロ女性の存在を無視していると思われる可能性」という愚は学ばれなかったわけですか?

Ry0TARy0TA 2009/01/28 01:49 >ゆんゆん(元・とおりすがり)さん、どうもです。
レスが恐ろしく遅くなってしまい、大変失礼しました。ここしばらく身辺が騒がしく、ブログにアクセスできるゆとりが殆どありませんでした。申し訳ありません。

いろいろご指摘を、ありがとうございます。

>もしよろしければ訂正すべき個所などご指摘ください。

リンクも張って下さっていますし、僕の考えはここに書いていますから興味のある人は見てくれると思いますが、ひとつ指摘させていただくなら、こだか和麻さんのインタビューが「こだかさんの作品はホモフォビックであると読みを限定した文脈で、自分の作品に含まれるホモフォビアをどう思うかと作者のこだか先生が問いただされている」というのは、僕のAfterEltonの翻訳エントリにはないですが、そうなんですか?僕はインタビューを引用した記事しか見ていないのですが(それではただ"How much connection do your stories have to gay culture?"と質問したことになってます)、良かったら、ゆんゆんさんが参照した情報源をリンクされたらいいんじゃないかと思いますが…

>このエントリというか、2008年に佐藤さんのエッセイを紹介する意味というのは、佐藤さんが1996年にしては進歩的であったとかそういうことでいいんでしょうかね。

佐藤さんがやおい論争で最終的に何を言ったかを紹介しておくため、ですね。「やおい論争」でもっとも参照されていると思われる小泉蜜さんのサイトでは、このエッセイは紹介されていないので、資料の補足です(と、いうことはエントリ本文に書いてあったか)。「やおい論争」は、nodadaさんが紹介されている藤本由香里さんのエッセイなどによって、現在のBL雑誌に紹介されることもあるわけですから。

>個人的にはRy0TAさんが早くお気に入りの作品とそうでない作品を見つけて批評して「内部の人」になられることを望みます(Ry0TAさんにその気があればですが)。

感想を書いてみたい好きな作品はあります。いつできるか分かりませんが… 

あと、ルツ記についてのエントリに関する議論については、独立で批判エントリを書いて下さったのですね。
とりあえず、混乱を避けるため、ここでのコメントに対してレスさせていただきます。

>レズビアンの不可視化を男性同性愛者聖職者叙任問題と一緒に論じなければならないというRy0TAさんの主張にも、私は疑問が消えません。

すみません。この問題についてのやりとりは、どうも話が噛み合ないと思っていたのですが、ゆんゆんさんは、(あくまで当該エントリのリヴァプール司教の記事の引用の部分にのみ特化して、)これは「聖職者叙任」の問題であるとして、議論していらしたわけですね?

当該のエントリは,「聖書に見いだされてきた同性愛者のイコン」が、キリスト教の文脈で同性愛を肯定的に語ろうとするレトリックでどう引用されているかを問題にしていたので、僕は、あくまでそれに則して応答していたわけです。このエントリの目的は、キリスト教徒の同性愛者が聖書に見いだしてきた女性同性愛・男性同性愛イメージをそれぞれ僕なりに(キリスト教徒ではありませんが)批評することであり(前者を評価し,後者を批判)、「同性間の愛」への言及で前者が切り落とされることを(偶然の問題ではなく、絶えず繰り返されている大きな問題として)指摘することにありました。ですから、問題にしているのは「同性愛」に関する「言説」であり、聖職者叙任問題自体ではありません。

しかし、その例として引用したリヴァプール司教の発言は、むろんゲイ聖職者叙任の問題の文脈で出てきたものですから、ゆんゆんさんが「これは聖職者叙任の問題」と考え、「ならば女性聖職者叙任の問題を考えるべきではないのか?」と思われるのは当然仕方ないと思いますし、ゆんゆんさんの意図が
「たとえ主眼が同性愛言説の問題にあろうと、教会の聖職者叙任問題に関わる発言を批判的に引用するなら、必ず女性聖職者叙任問題が言及されねばならない。それがなければ、女性が聖職者叙任から排除されている大きな問題が隠蔽されるのであり、極めて危険だ」
ということにあったのなら、それは頷けますし、同意します。
少し文章を考えてから、当該エントリに、追記としてゆんゆんさんのご批判を紹介しておこうと思います。

「ルツ記」エントリに関する独立のご批判のエントリには、ここではカバーし切れませんので、あとから応答エントリを書かせていただこうと思います。少し時間がかかると思いますが、お待ちください。

それでは、ありがとうございました。

ゆんゆんゆんゆん 2009/01/31 00:30 お忙しい中、レスをありがとうございます。最新エントリを拝見しました。個人的には家族の問題はRy0TAさんのおっしゃる全くそのとおりで、社会保障その他の負担における家族の役割を益々強化しようとする日本の某政党は全く持って愚かとしかいいようがないと常々考えております。私へのレスはどうぞお急ぎになられませんよう。

私のブログについてのご指摘ありがとうございます。該当箇所を修正しておきました。

>佐藤さんがやおい論争で最終的に何を言ったかを紹介しておくため、ですね。「やおい論争」でもっとも参照されていると思われる小泉蜜さんのサイトでは、このエッセイは紹介されていないので、資料の補足です(と、いうことはエントリ本文に書いてあったか)。「やおい論争」は、nodadaさんが紹介されている藤本由香里さんのエッセイなどによって、現在のBL雑誌に紹介されることもあるわけですから。

小泉さんのサイトが今ももっとも参照されているかどうかは私には分かりませんが、自分はBL/やおいそのものを知らないのに「やおい論争」に加わる人が多いのを憂慮しております。腐女子の一人として、「腐女子がゲイを差別してると聞いて飛んできますた」というレベルに留まりながら「やおい論」を繰り広げ、「腐女子ってこんなもの」と一方的に決め付け、そのイメージをブログなどを通じて発信し続ける人に(ゲイであろうとなかろうと)不信と怒りを抱き続けています。

>「たとえ主眼が同性愛言説の問題にあろうと、教会の聖職者叙任問題に関わる発言を批判的に引用するなら、必ず女性聖職者叙任問題が言及されねばならない。それがなければ、女性が聖職者叙任から排除されている大きな問題が隠蔽されるのであり、極めて危険だ」
本題に入る前に、弁解がましいかもしれませんが「あくまで当該エントリのリヴァプール司教の記事の引用の部分にのみ特化して」というのはちょっと不本意です。あの部分は確かに一部分ですが結論部分であり、全体の印象を左右するエントリの部分の要です。それはともかく、言説とエンパワメントの問題は切り離して論じるのが難しいですし(公権力による「お墨付き」の問題ならなおさら)、要するに、私は同じ同性愛者でもゲイとレズビアンでは抑圧は一様ではないということを言いたかったのです。ルツ記のエントリが当てはまるかどうかはともかく、男性のケースが女性にも当てはまるか十分吟味することなく男性同性愛「と」女性同性愛について語るのは、「同性愛」と言いつつ、実際にはゲイのことしか語ってないのと同じじゃないかと、「男性同性愛」に限定して語ればそこに女性が不在であることは十分分かるのにと、「同性愛」以外の問題についても安易に女性を引き合いに出す男性を見てよく思ってしまうのです。

Ry0TARy0TA 2009/02/04 01:31 >ゆんゆんさん、どうもです。
返事が遅くなって申し訳ありません。エントリも読んで下さって、ありがとうございます。

>社会保障その他の負担における家族の役割を益々強化しようとする日本の某政党は全く持って愚かとしかいいようがない

本当にその通りです。特に養護や介護はほぼ例外なく自動的に女性に負担がかけられている領域ですから、「家族の役割」が生む問題や犠牲をはっきり批判していかないと,ますます女性が追いつめられることになりかねません。

>小泉さんのサイトが今ももっとも参照されているかどうかは私には分かりませんが

90年代はじめに『ショワジール』誌上で行われた「やおい論争」(このエントリの佐藤雅樹さんのエッセイが関係している)に関しては、ですね。他にも参照されているソースがあるのかもしれませんが、エントリ注でも取り上げたように、小泉さんご自身が「私のサイトばかりを典拠にしないように」と苦言を呈しておられることから推測して、そう考えました。

>自分はBL/やおいそのものを知らないのに「やおい論争」に加わる人が多いのを憂慮しております。腐女子の一人として、「腐女子がゲイを差別してると聞いて飛んできますた」というレベルに留まりながら「やおい論」を繰り広げ、「腐女子ってこんなもの」と一方的に決め付け、そのイメージをブログなどを通じて発信し続ける人に(ゲイであろうとなかろうと)不信と怒りを抱き続けています。

(こちらの「やおい論争」は、やおいに関する議論一般を指しておられるのだと思いますが)「「腐女子ってこんなもの」と一方的に決め付ける」などという行為は、多岐・多様であろうやおい・BL文化とその当事者を一元化して表象するという点で極めて粗雑だし、「『腐女子』は『こんな』もの」というラベリングすることは、「有徴化→他者化」という暴力を孕んでいるという点で、大きな問題に思われます。そのような主張は、
「なぜ『腐女子ってこんなもの』と言えるのか?その『腐女子』は誰を指しているのか?適切な情報源と分析に基づいた上での発言か?それがないなら、何故そんなことを言うことができるのか?」
と批判的に問われるべきだし、それに答える責任があるでしょう。
最低限議論の前提として共有できる情報源なり分析なりを示せない印象批判は、無意味だし、何ももたらさないと、自戒をこめて思います。

>あの部分は確かに一部分ですが結論部分であり、全体の印象を左右するエントリの部分の要です。

すみませんでした。当該エントリは「女性同性愛のイコンとしてのルツ」イメージの僕が考える大切さ(そしてそれが男性中心の同性愛言説で不可視化されることへの批判)を書きたかったので、結論は「なにかが認められようとするとき、切り落とされるものが気にかかる」の部分だったのですが、エントリ自体が言葉足らずで、そうした意図を伝えることができていなかったと、反省しています。ゆんゆんさんの批判エントリに対する応答では、それを説明したいと思います。

>要するに、私は同じ同性愛者でもゲイとレズビアンでは抑圧は一様ではないということを言いたかったのです。

そのとおりです。だからこそ、強制異性愛社会でレズビアン・バイセクシュアル女性が置かれた状況の独自性や、レズビアン・バイセクシュアル女性を疎外するレスビアン嫌悪(レスボフォビア)は男性同性愛に対する嫌悪とどう違うのか、という問題が意識されねばならないし、「同性愛」を語る/批判する/擁護する言説で、
>「同性愛」と言いつつ、実際にはゲイのことしか語って
おらず、女性同性愛が無視・不可視化されるとき、「それは男性同性愛について語っているに過ぎない」「なぜ女性同性愛の存在を無にするのか?」と批判していかねばならないと思います。女性同性愛を取り巻く問題を可視化する/「同性愛」が多様であることを前提として共有する/「同性愛」言説の男性中心主義化に絶えず批判的であることが、必要です。最近、日本財団・笹川陽平氏のブログでの「同性愛」嫌悪的発言(http://blog.canpan.info/sasakawa/archive/1755)が問題になりましたが、彼の発言はまさに「「同性愛」と言いつつ、実際にはゲイのことしか語っていない」典型でした。が、それに対して「あなたの発言は同性愛嫌悪的なだけではなく、「同性愛」について語ったときに完全にレズビアン女性の存在を想定していない点で女性嫌悪的だ」ときちんと批判したのはマサキチトセさん(id:cmasak)だけでした。こうした批判の姿勢は、非当事者のみならず当事者にもまったく足りていません。僕がリヴァプール司教の発言を取り上げたのは、この文脈によります(取り上げ方が適切であったかは、いま自省していますが)。これについては、また改めてエントリで説明します。しばらくお待ちください。

ゆんゆんゆんゆん 2009/02/14 23:37 >本当にその通りです。特に養護や介護はほぼ例外なく自動的に女性に負担がかけられている領域ですから、「家族の役割」が生む問題や犠牲をはっきり批判していかないと,ますます女性が追いつめられることになりかねません。
重箱の隅をつつくようですが、介護は今や「女の問題」ではありません。
倒れた妻を夫が介護するケースなども多いですし、養護・介護は「女の仕事」というイメージを強化再生産されることでいたずらに養護・介護に従事する男性を不可視化されるようなことはなさいませんよう。

>「なぜ『腐女子ってこんなもの』と言えるのか?その『腐女子』は誰を指しているのか?適切な情報源と分析に基づいた上での発言か?それがないなら、何故そんなことを言うことができるのか?」
媒体の問題で、腐女子文化を総体的に論じるだけのデータ収集は人力では不可能でしょう。したがって、統計分析も言説分析も無理でしょう。
なのに、私の知る限りここ二年くらい「ゲイ差別」という文脈でやおい/BLを語る人たちは表面的な緻密さ(論者の誰がより正確か、とか議論としてかなりどうでもいい部分)にこだわりすぎて、その背後にある肝心の「どういうメカニズムでやおい/BLがゲイ差別になるのか」という点についてのロジックが脆弱すぎます。
そのせいか、(のだださんのようなゲイコミュニティに対して無条件のロイヤリティを示す必要がある人を除いて)ゲイやゲイの利益代弁者を自任する人にとっては、やおいとかBLとか腐女子とかはただ、「ゲイ差別的な日本社会」批判の切り口にすぎなくて、(Ry0TAさんも含めて)やおい/BLそのものには対して関心がないから、やおいとかBLとか腐女子とかは例えば「政治家の不適切発言」とかと置換可能なもので、一時期のブームが過ぎたらみんな飽きてどっか行ってしまうんじゃないかという印象があって、今はあきらめに似た気持ちでおります。それくらいの関心しかないなら、最初から構わないでくれというか。ま、ある属性を持つグループ一般の差別を告発したり、応答責任を問うたりするなら、その前にロジックの部分を整備してほしいというのが偽らざる気持ちでもありますが。
個人的には、「表象暴力論」に関わるうちに、(クィアな表現としてのやおい/BLの可能性はあきらめておりませんが)、セクマイのエンパワメントは自分が腐女子であるということと切り離して考えた方がいいのではないかと考えが変わりました。

>なぜ女性同性愛の存在を無にするのか?
どうせどの分野でも(共産主義者とか)女を不可視化する男たくさんはいるもので、レズビアンが不可視化されたからといって何を今更……、という気もします。ゲイだからといってノンケ男性と違ってミソジニーから逃れられるというものでもないと思いますし。それにゲイの皆さんだって件のリヴァプール司教みたいな保守反動の権化みたいな人に「認めて」もらって嬉しいのかな……と思ってしまいます。余計なお世話ですが。

Ry0TARy0TA 2009/04/05 23:41 >ゆんゆんさん、どうもです。お返事が非常に遅くなり、大変申し訳ありませんでした。しばらく、あまりに多忙だったので…
  
>重箱の隅をつつくようですが、介護は今や「女の問題」ではありません。
倒れた妻を夫が介護するケースなども多いですし、養護・介護は「女の仕事」というイメージを強化再生産されることでいたずらに養護・介護に従事する男性を不可視化されるようなことはなさいませんよう。
  
その通りですね、すみませんでした。僕はこれまでにいくつか見た家族介護の調査で、介護者の女性の比率が依然高かったことが頭にあったのですが、そうした調査もこの10年で介護者の性差が縮まりつつある・意識が変わりつつあると指摘していますし、
http://www.hitomachi.org/kaigo/kaigo1.2.htm(2000年)
http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/refer/200301_624/062401.pdf(2003年)
http://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/w-2008/zenbun/html/s1-2-3-02.html(2008年)
最近は、男性介護者の死亡リスクについての報道がありましたね。
男性介護者(僕自身そうなる可能性が高いので)の問題や、介護に影響を持つ家族関係・人間関係に絡むジェンダーの問題をどう解決するかという課題は、これから勉強していかなければならないと思っています…ご指摘ありがとうございました。
  
>腐女子文化を総体的に論じるだけのデータ収集は人力では不可能でしょう。したがって、統計分析も言説分析も無理でしょう。
  
例えばアンケートや、やおい/BLを愛好する人たちが自分たちで語ることによって、「腐女子文化」の「さまざまな側面」が明らかになる、ということはあるでしょうし、それは「腐女子文化」の面白さやユニークさを伝え、当事者も気づく、というきっかけになるかもしれません。
しかし、ゆんゆんさんの仰っていた「腐女子ってそんなもの」という主張は、一面的なステレオタイプや「解釈」を押しつけ、その多様性や、そもそもの人間としての対等性を無視しているという意味で、暴力的です。それは、民族的マイノリティや何らかの「病気」「障碍」を持つ人や性的少数者などに対してマジョリティが振るってきた権力と同じものであって、そうしたかたちの「批判」(それは批判ですらないと僕は思います)は、逆に批判されなければならない、というのが、僕が言いたかったことです。

>なのに、私の知る限りここ二年くらい「ゲイ差別」という文脈でやおい/BLを語る人たちは表面的な緻密さ(論者の誰がより正確か、とか議論としてかなりどうでもいい部分)にこだわりすぎて、その背後にある肝心の「どういうメカニズムでやおい/BLがゲイ差別になるのか」という点についてのロジックが脆弱すぎます。
  
「ここ二年ぐらい「ゲイ差別」という文脈でやおい/BLを語る人」が、誰の、どのような議論を指しているのか、僕には分かっていません。前のほうのレスで前提として述べたように、僕は紙媒体は佐藤雅樹さんと溝口彰子さんしか読んでいませんし、ウェブ上の批評もはてなサービスぐらいしか見てきていないと思うので。比較的最近id:nodadaさんとやり取りをしていたid:m-aboさんは、雑誌『JUNE』の元編集者(自身JUNE小説の書き手)という経験からだと思いますが、やおいについて多数エントリを書いており、「表象暴力」についても書かれていますね(あの人の「ゲイ差別性」という言葉の使いかたには,僕は疑問を感じますが)。id:lepantohさんのエントリも興味深く思いましたし、id:nodadaさんのレビューはよく読みますが、それぞれ異なる立場から発言をしていますし、それが「論者の誰がより正確か」という議論なのかどうか、僕には判断ができません。
けれど、「「どういうメカニズムでやおい/BLがゲイ差別になるのか」という点についてのロジック」について、きちんと具体的な作品分析に則して着手している人は、管見の限りですが、溝口彰子さんのあと、出ていないかもしれません(僕が知る限りですが)。しかも、溝口さんの仕事は「やおいをホモフォビアと決めつけた」というような誤解を受けている印象も受けます(ウィキペディアの「やおい」の項目などを見るとですが)…前にも述べましたが、どういう物語的欲望が結果としてホモフォビックな表現を生むのかという構造をケーススタディ的を示し、それを越えたクィアな表現を生み出すやおい/BLの可能性を打ち出すという、方向性としては興味深い論考だったと思うのですが。しかし、溝口さんの分析の方法や概念の用い方には、首をひねるような粗い部分もあります。こうした問題点ついては、id:rossmannさんが再評価と再批判の興味深い批評を書いておられます。
  
>(のだださんのようなゲイコミュニティに対して無条件のロイヤリティを示す必要がある人を除いて)ゲイやゲイの利益代弁者を自任する人にとっては、やおいとかBLとか腐女子とかはただ、「ゲイ差別的な日本社会」批判の切り口にすぎなくて、(Ry0TAさんも含めて)やおい/BLそのものには対して関心がないから、やおいとかBLとか腐女子とかは例えば「政治家の不適切発言」とかと置換可能なもので、一時期のブームが過ぎたらみんな飽きてどっか行ってしまうんじゃないかという印象があって、今はあきらめに似た気持ちでおります。
  
僕には、「政治家の不適切発言」を批判することは、とても重要なことに思えますね…それは、性差別や外国人差別など、政治家すら平気で口に出すほど根深く社会に浸透した差別構造を批判することですから。
ゆんゆんさんの仰る、「ゲイやゲイの利益代弁者を自任する人」が誰を指しているのか分かりませんが、もしそれがid:m-aboさんや石田仁さんや名指しされているnodadaさんのことなら、やおい文化に並走してきたらしいm-aboさんや、自身やおい/BLの愛読者であることを以前nodadaさんのブログでコメントしておられた記憶がある石田仁さんにとって、やおい/BLが「「ゲイ差別的な日本社会」批判の切り口にすぎない」のかどうか、「ブーム」なのか、よく分かりません(nodadaさんは、ご自身クィアとしてクィアを傷つける表現に自身も傷つけられるから、クィアを否定する表現を批判してこられたのだと僕は思いこんでいましたが、実はゲイコミュニティに忠誠心を持たざるを得ないからだったんでしょうか。nodadaさんのお考えは、ご本人にしか分かりませんけれど)。
  
また、やおい/BLが、ほかのあらゆる表現と同じように、ひとつの社会的差別構造の観点からの批判の対象であってなぜいけないのでしょうか。
たとえば、村上春樹の愛読者でない人が、フェミニズム批評の観点から村上春樹の作品のセクシズムや女性蔑視的性質を指摘したとして、それは不当な批評か、というと、むしろ必要で有益な批評だと僕なら思います。
たとえば、ヒップホップやレゲエは、音楽として高い創造性を持っており、アフリカン・アメリカンやジャマイカの抵抗の文化として発展したと言えます。しかし、それらの音楽がしばしば持つ女性蔑視や同性愛嫌悪的な表現は、絶えず批判されています。
そのような批判に対して、
「ヒップホップを愛していない、差別的だという部分しか見ていない、不当な批判だ。それぐらいの関心しかないなら構わないでくれ」
というヒップホップ/レゲエ・ファンもいるでしょうし、それは無論、ひとつの切実な立ち位置でしょう。
しかし、自分の愛する音楽が、別の局面で他に抑圧的な表現を含んでいることを真剣に受け止める人、また自分の好きな音楽が抑圧的な表現を含むことを感覚的に受けつけず、それとは違う表現を求める人もいる。
ゆんゆんさんが、後者のような人でないことはよく分かりましたし、それはそれでいいのではないですか?あなたは僕の言ったことを随分誤解されていますが、表現は別に「啓蒙」にも「エンパワメント」にも責務を負っていないと思います。しかし、社会に及ぼす力があり、その力により評価も受け,批判も受ける、ということです。
以前の僕のコメントを再引用しますが、

>たとえばHIV("エイズネタ")について言えば、別にBLがHIVを描く必要はありませんが、描いた作品があれば(HIVのことを気にしている人間には)気になりますし、それが社会のHIVへの偏見を反映していた場合は、それについての疑問がなんらかのかたちで(例えばブログや掲示板の感想・レビューなどで)発信されたほうがいいと、僕は思っています。HIVに対する偏見は、重要な社会問題だし、それが単にフィクションのための偏った描きかたなのだと識別できるほど、社会の認識はまだ深くないですから。いっぽう、正確な知識で、また固定観念や偏見に変化をもたらすような描写がなされていれば、作品として社会的価値も付与しうるでしょうし、そういう作品を生み出しうるBLの可能性が、確認できることになります(むろんそれは付加価値的なもので、BLがそういう可能性を持たねばならない、というわけではないのですが)。

僕が再々言ったことは、批評は開かれているし、なされた表現は様々な批評を受ける、ということです。でもそれにゆんゆんさんが興味ないなら、それでいいのではないですか?少なくとも、僕の考えは、そうです。他の方は知りませんが。

あと、「ルツ記」への批判についてですが、
  
>レズビアンが不可視化されたからといって何を今更……、という気もします。
  
今更…だから放置しておいて良いわけではありませんね。

>ゲイの皆さんだって件のリヴァプール司教みたいな保守反動の権化みたいな人に「認めて」もらって嬉しいのかな……と思ってしまいます。余計なお世話ですが。
  
僕はJames Jones師という人のことを知っているわけではないので、彼が「保守反動の権化」というべきなのかよく分かりません(ガーディアンの評では、「簡単に読めない人だ」とか言われてましたがhttp://www.guardian.co.uk/uk/2008/feb/08/gayrights.religion)。しかし、同性愛者の聖職者叙任に反対した彼が公式に謝罪を表明したことは、英国国教会がリベラルと保守の分裂で紛糾する中、意義ある変化の表れだったのだと思います。これは英国教会の問題に限らず、保守的な人びとが考えを変えることが、変化のためには必要なのですから。けれど、その評価すべき面にのみ気を取られて、「同性間の愛」についての発言に隠れた別の暴力性を見過ごしては、どうにもならない、というのが、当該エントリで僕が言いたかったことですね…
  
当該エントリには追記をしておきました。大変遅くなりましたが,申し訳ありません。
また、TB拝読いたしました。もう僕とは議論をされないとのことですが、取りあえず、批判エントリへの応答エントリまでは書くことにします…(個人的に多忙のため、まだ時間がかかりますが)。そちらからの応答は無用の内容にします。
それでは。

ゆんゆんゆんゆん 2009/04/06 01:40 出張お疲れ様でした。ご多忙のところ、丁寧なレスをありがとうございます。
>また、やおい/BLが、ほかのあらゆる表現と同じように、ひとつの社会的差別構造の観点からの批判の対象であってなぜいけないのでしょうか。
議論はしないと申し上げましたが、お読みいただいたエントリの趣旨をよく分かっていただけていないようなので。私が「差別」という観点からの批判の対象であってはいけないと主張していないことは、お手数ですが、私のブログを読み返していただければお分かりになると思います。ただ、論理が破綻しているような批判や、「ゲイ差別的」になりうるという指摘以外発展性のない議論はあまり有意義ではないと言っているだけです。(「表象暴力論」のようなものではない)有意義な議論なら、どのような観点のものからでもいくらでも受け入れたいとは思いますが。

>それは、民族的マイノリティや何らかの「病気」「障碍」を持つ人や性的少数者などに対してマジョリティが振るってきた権力と同じものであって、そうしたかたちの「批判」(それは批判ですらないと僕は思います)は、逆に批判されなければならない、というのが、僕が言いたかったことです。
そういう腐女子に対する「レッテル貼り」がノンケであろうとセクマイであろうと男性という社会的優位の立場の人たちからなされてきたこと自体が、私にとっては「セクマイに対する差別の告発」ではなく、(発言権のない「女」という存在をダシにした)「男性の仲間割れ」のような印象しか持てない一因でもあります(それに腐女子だってレズだったりバイだったりするし……)。
今は腐男子も多いと言われるかもしれませんが、彼らはあくまでも現時点ではマイノリティです(私も早く彼らがマイノリティでなくなることを祈っているのですが)。
セクシュアリティ以前に日常的にdoing female genderを強いられる私の立場からすれば、「腐女子であること」ということはゲイ差別性を超えたところにあるそのクイア性が、女性差別とも密接に結びついている切実な問題なのですが、ゲイ差別を超えた女性差別の部分について日常的にdoing male genderされているRy0TAさんに分かってくれというのはないものねだりなのかもしれませんね……。
……議論はしないと言っていたのに申し訳ありません。

>僕が再々言ったことは、批評は開かれているし、なされた表現は様々な批評を受ける、ということです。でもそれにゆんゆんさんが興味ないなら、それでいいのではないですか?少なくとも、僕の考えは、そうです。他の方は知りませんが。
「批評は開かれているし、なされた表現は様々な批評を受ける」ということに私が同意しているのは、今までのエントリをお読みいただければお分かりのことだと思います。ただ、自分が深くかかわっているものが、(ある場合には他の対象と比較して)「本質的な差別性」を告発されたとき、「興味がないならそれでいい」と開き直ることができますか? 「応答責任」を問われたとき、「興味がないならそれでいい」と開き直ることができますか?
Ry0TAさんは「ゲイは本質的に女性差別的な生物だ」と言われて、「自分が(そういう観点の議論には)興味ないからそれでいい」と言えますか?
私が、腐女子として「表象暴力論」で言われていた(る)のは、それと同じことです。
少なくとも、私の考えは、そうです(した)。他の方は知りませんが。

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