R.S.N

about
カレンダー
2006 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2007 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2008 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2009 | 01 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2010 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2011 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2012 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2013 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2014 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2015 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2016 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2017 | 01 | 02 | 03 |
過去の記事一覧
Bookmark
日記の検索

カウンター
 

2017-03-28

休前日


厄介な案件が控えているその前日つまり明日は有給消化で、そんな休み方だと、どっちかといえば気が疲れるくらいだが、それでも休みは休み。天気が良ければいいのだけれども。水筒に酒を入れて外出したい。しかし明日休みだというだけで今夜が金曜日の夜としか思えない。どうしてもそう感じてしまう。さっき妻が、どういう意図があるのか謎だが、録画してあったタモリ倶楽部を再生していて、それでますます週末感に拍車が掛かる。もう今週は二週分合併版と思っていた方が、かえってすっきりするくらいだ。

2017-03-27

テン・イヤーズ・アフター


送別会があるのを忘れていた。いつもどおり、横浜で泳いで、着替えた後やや急いで電車で上野に移動した。


会社が前のビルにあったとき、この辺は、毎日通っていた場所だった。町並み的には、秋葉原よりもこのへんの方が、落ち着いていてよほどいいかんじである。十年たっても、あまり変わらない。いや店とかはほぼすべて変わっているのだが、雰囲気そのものは変わってない。


十年前、もしかしたら、それ以上である。


送別される人も、今や、そこそこ古い人だ。歴史ありだ。しかし、僕の方が、彼より古い。これが信じられないのだが、今や僕は、誰よりも古い。まさに上から数えた方が早い人間になってしまった。


この人が入社してきたときのこともおぼえている。そんなに昔のことじゃないような気もする。けれどもほんとうなの?、などと言うまでもない。そりゃそうだ。しかしこの人も、そんなに印象が変わらなかった。


変わってはいるのだろうけれども、雰囲気そのものは。


十年ぶりにその道を歩いているとき、すれ違う人々は、十年前の人々じゃないというのは本当だろうか?彼らはここを、懐かしいとは思ってないのか?思ってないならなおさら、彼らは僕にとっては景色と同一だ。だとしたら、やはり彼らは十年前の景色そのものだ。だから、そうか。今この現実を生きていることと、十年前の景色として存在することは、矛盾しないのか。だとしたら僕もすでにそうなのか。

2017-03-26

バンド


冷たい雨がずっと降り続く一日、だが外出。買い物しましょうと人混みの中をうろうろしたのだが最近はもう服とか見ててもいっさい面白くないので、たちまちのうちにダルい疲労感につつまれて嫌になってきたので、適当に入った似非パリのカフェ風な如何にもな内装の店内で安酒といいかげんな感じの値段だけはご立派なサンドイッチを注文して、こんなの家で5分で作れそうだなというくらいの、あまりにもチープな一皿を美味しくないワインで流し込んでいると、これってもしかしたら、一周回って実際にパリの観光地カフェで軽食取ってるのとほぼ変わらない体験かもと思った。


日が落ちてさらに寒くさらに雨が強風に乗って吹き荒れる空に向けて時折傘を風に奪われそうになりながらブルーモーション横浜。ここに来るのははじめて。やはりどうにもイマイチなフードメニューから注文したものをワインで流し込みつつ一時間ばかり待ってたら、ものんくるの演奏がはじまる。ものんくるはいいバンド。終わったら18:00過ぎ。外はさらに荒れていて大変な感じだったのでどこへ寄り道する気にもならずまっすぐ帰宅。とにかく今日は天候が酷かった。でも天候くらいに左右されてるようでは…。先が思いやられますよ…。パワー不足すぎるよ。ホンダエンジンかよ。


でも、バンドだな。やっぱり。バンドは、やってみて、ああこれはイケそうだ、とか、ああこれじゃだめそうだとか、そういうのって一瞬でビビっとくるものなのだろうか?たとえば、ローリング・ストーンズの彼らは、はじめて一緒にやったとき、ああこれはすげえ、これは行けるわとか、思ったのだろうか。バンドは、個々の上手い下手もあるだろうし、むしろ世間一般ではそういう尺度で測られがちだが、でも実際はもっと得体の知れないマジックというか、渾然とした音の世界というか質というか、そういうものがいきなり聳え立ってしまうような、そういう可能性を持つような組織体だろう。逆に、そういうマジックからは、最初から最後まで一切見放されながらも、律儀に真面目に何かを積み重ねていって、最後に成功したり、何事かを達成するようなバンドもあるだろう。それはそれで、とても魅力的な音だろう。バンドはそういう、色々な潜在性そのものとして常にある。別にこの人たちがずっと一生続けるわけではないけれども、すぐに解散できるほどの分業体制、ファンクション主義というわけでもない。そういう組織体の根本的な面白さなんだよなあ、などと思った。

2017-03-25

完治


https://twitter.com/katotadafumi/status/845599420750184449

このツイートを見て、昔読んだ絲山秋子の小説「作家の超然」の下記の箇所を思い出した。


「通常、頸部の大動脈と大静脈は寄り添っています」手術の説明の日、医師が最初に発したのはこんな言葉だった。

「そう、ちょうど倉渕さんのお兄さん夫婦のようにね」

おまえは振り向かなかったが、兄がきょろきょろとその辺りを見回しているのが気配でわかった。

「ところで今回の腫瘍は、喩えて言えば、そのご夫婦の真ん中に時子さんが居座って仲を裂こうとしているんですね。」

おまえは突然、胸を熱くする。

これは、物語だ。主治医は語ることができる人だったのだ。

皮膚を切り、末梢神経を切り、筋膜を切り、血管を押し広げて神経とその鞘にできた腫瘍を取り除く手術の説明は、暖炉の前や、真夏の木陰や、打ち解けた者同士が集まる小さなバーでの物語りのようにすすんでいった。


読んだ当時、この箇所が強く印象に残って、しかし理由はよくわからなかったのが、それが「完治がないなら作れば良い」という言葉で、「物語」とは「語る」とは何か?の説明として、あまりにも鮮やかにかんじられた。


病気は物理現象だし、治療は、あくまでも科学的な営みなのだろうから「完治がないなら作れば良い」は、おかしいのだ。にもかかわらず、そうだ、それしかない。人間がなんとか正気を保って生きていくっていうのは、要するにそういうことなのだ。それ以外の何物でも無いはずだと、やたらと力んで言い張りたくなる。


そうそう。ほんと、完治っていうのは、つくるものなのだ。


もちろん最初から作っちゃうのでは、ダメなのだ。それでは誰も騙せない。自分自身をも、騙せない。だからギリギリまで、科学的に、論理的に、徹頭徹尾、きっちりと真面目に、誰にも文句言わせないくらい、誰に対しても後ろめたさを感じないくらいに、ちゃんとやるのだ。でも最後の最後で、完治をつくる、


そこが、泣けるところなのよ。

2017-03-24

切子


図書館で本を返した。


人生の三分の一は寝ていて、もう三分の一は映画見たり本読んだり音楽聴いたり、テレビ見たりゲームしたり、残りは仕事してるのかな。あと、ごはん食べたり。家族や身内と共に生活している。一人暮らししてる人も、誰かと出会ったり、電話したりメールしたりしている。ぼんやり、考え事をしてる。だから、これらのどれも、現実ではないのだし、もっと非現実を続けていいはずなのね。さいきんどうも平日になると、昨日までのことと今とがブツ切れになりがちな気がする。もっと連続したいのだが…。


妻が送別の席でもらってきた切子ガラスの猪口がすごくきれい。酒を飲む器で、切子グラスが家にあるといいかもと前から思っていたのだが、高いし、買ってもどうせすぐ割るだろうし、まあいいかと思っていたのだが、やはりいいね。けっこう重みがあって、指の腹にしっとりと冷たく密着するガラスという物質の、厚みそのものに質感が感じられて、口内に運ぶ直前まで、中の液体をより研ぎ澄ませて送り届けてくれているような感じがするのだ。洗うのは恐いが、ワイングラスだって最近割ってないし、まあ大丈夫でしょう。あと贈り物はもう一つあって、あの超有名な、というかけっこうお高い吟醸酒が冷蔵庫にあって、うわすげえと思った。ていうか、最後の贈り物でこういうのをもらってくるあたり、酒好きが職場にバレ過ぎでしょと思うのだが、それでも結果的にはお手柄と言えよう。


たしかにこれは、美味しいですね。僕はでも、吟醸酒とか華やかな味わいの日本酒は、じつはふだんあまり好まないというか、もっと半値以下の辛口の本醸造酒の方がよっぽどいいじゃんとか思うのだが、でもこれはさすがに世間で話題になるだけのことはありますね。でものみやすいね。キチガイ水の輝き。注がれて注がれて、たちまちこの世から消えてしまった。


今朝見た夢。停車中のバスに乗っていると、車内アナウンスが流れる。何か変な、意味のわからない内容だったので、変だなと思っていると、どうもそれは、赤羽近辺のバス車内で流れる音声が、間違ってこのバス内に流れてしまったらしいということがわかる。なんだ、そんなことがあるのかと思っていると、運転手らしき人がバスに乗り込んできて、やけにはっきりした声で車内に向かって言う。


「ですね、では、そのようにしましょう。」


その直後、何か妙に嫌な予感がする。只ならぬ不安をおぼえる。思い切って決断する。立ち上がって下車した。外に出て、バスを見ていたら、扉が閉まって、バスが発車した。そのまま側壁に車体を擦りつけながら、前方の壁に衝突した。ゆっくりとバックして、また前進して、ふたたび壁に衝突した。側壁と車体の間に隙間が無いので、乗客は誰も降りられないはずだ。最悪だと思った。というか、もしかしたら、まだ妻がバスの中にいるんじゃなかっただろうかと思ってかなり焦る。


しばらくして、方向転換したバスが、僕の方に向き直って、そのまま近づいてきた。明らかに、僕に向かって来ていた。あ、どうしようと思う。右か左に逃げればいいのか、後ろへ走って逃げるか、どうしよう。隠れるいい場所があれば、それですぐに安全になる。でも何もなかったら、ひょっとするとこのまま逃げられないとしたら、最悪だ。モロに衝突されたら、それで死んでしまうのだろうか。でも、まだ何とか逃げられるんじゃないかと思っている。

2017-03-23

まよい


どこかへ寄るとして、店はどこがいいのか

何を飲みたいのか、何をどのくらい、どのくらいの時間

そのあいだ、黙っていたいのか、喋っていたいのか

沈静した時間、あるいはざわついて活気のある時間

どちらがいいのか、それをまず決めるなら

ほぼいつでも自分は、静かに黙っていたいのだが

しかし、いつもどおりの方を選んで、しかしそれはそれで

それが常に最善の選択、というわけでもないとは思っている。

とくに今日はそう思っている。

座って、黙って俯いていたいわけでもないし、

運ばれてくるグラスや皿をじっと見ていたいわけではないし、

目の前を漂うとりつくしまのない時間を、ぼんやりと眺めていたいわけでもない

そんなことを、したいわけではないのかもしれないが

しかしいつもそれを選ぶし、そういうことをしに行く。

これから行って、席に座ったら、そういうことをするだろうなと想像する。

それは楽しいことだが、楽しいと言っても、言うほどでもない、さほどでもない。

さほどでもないことを、あえてしようか、どうしようか、その迷いだ。

そうなのだ。迷いだ。

2017-03-22

ランダムフィッシュ


僕がこうなのは、それは日々、音楽をランダム再生していることが原因ではないのか。これは結構、重大な発見ではないのか。先々週、先週、今週と、自分というものが結局偶然に左右されるがままなのは、ランダムプレイに身を任せていて、そのことを疑いさえしないせいではないのか。次に何が再生されるかわからないだなんて。サブスクリプション方式だから、そもそも試聴しないで入手してしまうのも原因だろうが、でも原因なんてどうでもいい。今週はずっと「1 of 1」ばかりだ。そのことを言っているのだ。本当にこれが、望んでいたことなのか。このままこれからもずっとそれでいいのか。次の曲に身を任せ続けるのか。ほんとうにどうなっても知らないぞ?

2017-03-21

木の実


先週から、右手中指の爪が、まるで爪切りで中途半端に切って途中でつながってぶらぶらとぶら下ったままみたいになっていて、どうも右手中指の爪は、そんな風に勝手に欠けてしまうのが妙に癖になってしまったようで、カルシウムが足りないのかビタミンがすなのかストレスなのか年齢なのか知らないけれども最近そういうことはわりかし定期的に起こるようで、実際そうなってしまうと無理に切り取ってしまう、のだけれども、いつもそれができればいいのだが、それをすると、なかなか痛そうな結果になるかもしれないケースもあって、今回はまさにそんな感じなので、仕方がないのでそのまま数日放置して、やや伸びてきたところを後日一気に切除するという作戦に出た。


で、それまでは絆創膏でカバーしておくのだが、手を洗ったり顔を洗ったりするわけだから、絆創膏だけだと全然ダメで、その上からコーティングしないと、ということで、薬局で指サックを買って嵌めておくのだ。これはまあ、しとけばOKなのだけれども、これだととにかく、延々ひたすら、ゴムの匂いと共に、一日を生活しなければいけなくなる。ゴムの匂い。ほんとうに、ゴム臭である。なぜここまで、と思うくらい、ゴム臭だ。わりとイライラする。


それで、細かいことを色々と気にし始める。指先からすっぽりとはめているけど、指先の方に、少し空気が溜まっているのだ。これが、気になるのだ。もっとぴったり、密閉状態にしたいと誰もが思うはずだ。ああーなんでここにちょっと空気が入ってー!とか、キレそうになる。でも完璧には無理。だから、仕方がないので、ゴムの先に針で孔を空けたくなるのだ。で、空ける。カッターの先で、空けました。ブツッとね。ついにやった。やってやった、という気持ちになる。でも、それでどうなったか?というと、別に何も変わらなかった。指先は相変わらず空気が入ってたし、穴が空いたからそこから涼しい空気がそよそよと入ってくることもなかった。ほんとうに、笑っちゃうくらい、何も変わらなかった。これにはちょっと驚いたが、まあそんなものなのかもしれない。


今日はけっこう人から聞かれた。会社で、それ何?指に、何はめてんの?聞かれるたびに、爪の状態を説明した。それだとわかってくれるが、でも、所詮他人事なのだろうから、そんなの、とっとと爪切りで取っちゃえばいいじゃん、とか、平気で言われる。だったら、お前が同じ状態になったとき、俺が爪切りで取ってやるよ、思い切り乱暴に、グチャッっと、熟した木の実を?ぐみたいに切り取ってやろうかと思うが、その心をぐっと押し隠して、和やかさを保持する。

2017-03-20

恐怖分子


エドワード・ヤン「恐怖分子」をDVDで観る。一度観たはずだが、内容は完全に忘れていたので、初見と変わらない。幾つかの話が並行して進むが、そういったタイプの映画だと思って観ているのだが、どうもそういうことでもなく、一個一個の要素をそのまま不安定な場所に置いたままみたいにして、何とも不思議な感じで各物語が展開されていく。観終わった後であらためて、まず何がどうなって、その後で何が起きたのだっけ。それで結局、最後はああだったから、それはあの事と、それまでのことと、どう関係したのか、あるいは、それとこれとは別に何も関係しなかったのか、だとしたら、その事はそもそも何なのか、あのときのことは、あの後のことと、ほんとうに何の接点もないのか。いや待て、もう一度最初から思い出してみて…と、はじめから丁寧に思い返している。それが楽しい。


昔VHSから録画しておいた「牯嶺街少年殺人事件」を出してきて、前半までを観直す。字幕が、昨日の劇場では登場人物の名前が「小四」とか「小明」とか、漢字で表現されるのだが、ビデオの方だと「スー」とか「ミン」とかカタカナになるので、こっちの方がわかりやすいかも。というかさすがに二日続けて観てれば、とくにわからないことはない。

2017-03-19

牯嶺街少年殺人事件


風邪っぽい。が、もう席を買ってあるので出掛ける。角川シネマ有楽町で「牯嶺街少年殺人事件」。以前観たのは、十年も前のこと。この映画を当時、どんな風に受け止めたか、ほぼおぼえてないし、そもそも、あらすじレベルで忘れていたので、ほぼ初見と言って良い。


しかしまあ、疲れた。四時間座ってるのは、風邪引いてることを差し引いても相当な苦役であった。背中全体バキバキの状態で席から立ち上がった。風邪だが、とりあえず酒を飲みたいと思った。飲みながら、妻相手にまとまりのないことをべらべら喋った。


とにかく、出て来る役者が一人残らず全員いいということ、そんな、こんな子供たちが、こんな…という戸惑いと、いや、そりゃそうだ、まさにこうなのだ。これが現実なのだ。これでしかないのだ、という胸の高鳴りの伴う納得が、細かくせめぎ合うような感じだ。


小明という名の少女。あんな少女が、あれほど何もかもを、さまざまに捌いて、色々とわかった上で分配して、あれほど何もかもを抱え込んだまま、平然と澄まして歩いているということ…。それだけで、もうこの映画の計り知れなさ、おどろき、得体の知れなさのほぼすべてがあるというか、別に物語上、小明という少女に何かが起こったからとか、そういうことではなく、別に何もおきない。いや起きる。のだが、誰かがいました、その身の上に、何かが起きました、そういうことではなく、ただ単に、そのままでその人物がいるというその揺るがなさ。そこにこちらが、図らずも狼狽する。砂をかむような、胸の高鳴るような、そのようなこれが、現実、得体の知れぬ、はじめて感じた現実らしさというもの。


最初に滑頭とのやり取りから、次から次へと出て来るさまざまな人々の、ひたすらないがみ合い、小づき合い、牽制のし合い、闘争と調停、駆け引き、戦略、読み合い。


マジか?と云いたくなるような「ハニー」の立ち姿。暗闇、雨、幕末の闇討ちのような襲撃。たびたびあらわれる日本家屋と抜いた刀身。銃。


斬り、撃つ。殴る。走るわ逃げるわ、吊るし上げるわ、何もかもやる。…なにしろ誰が誰でどういう組織カテゴリーのどういう人だったのかほとんど整理できないまま、どばどばと展開していくのを見ているしかないのだが。


しかし歌う、歌えるのだ。ステージのシーンだけ、マジックが効いてる。おお、、と心がざわめく。せわしなく動き回り歌のパートだけ戻ってくる。


ギャング、ヤクザ、浪人の仇討ち、それらがある意味、年端も行かぬ子供たちによって、同じだけの真剣さで、いやもっと全然別の、任侠的とかの記憶をほのかに漂わせたまま、しかし本来落ち着けるはずの気持ちの行き場は欠落したまま、ただただ、ダラダラと水がこぼれてあふれて、それを見ているかのようにして、延々と時間が流れていって、最後はなにか、ああ取り返しのつかない時間の経過をみていた、それだけだったという、呆然としたものだけが残る、ということなのだ。


テープでもいいと言ってた。何度も巻き戻し、繰り返す。


試験に受かって、そうだ。昼間部に入ればいい…。


教会で待ってるお姉さん。キリスト。


なんか、高校時代を思い出すのだ。たぶんみんな僕の前に、三十年前に全員、実在していた人々だ。


まあ、もうしばらく色々と思い返して反復していましょう。

2017-03-18

桜前


花粉症の症状は僕の場合毎年春ではなく夏の終わり頃出てくるのだが、今日はなぜか調子が悪く鼻ばかりかむ。昨日割引で売ってたモモ肉でローストビーフを作ったらまあまあ上手くいった。しかし酒がどうも合わないというか美味しく感じなくて、安ワインだししょうがないけど、でもどうも独特な変な香りでこんなの全部飲めないかもとか思いながら食事して、終わったら眠くなってきて一時間くらい居眠りしてさっき起きた。そしたら微妙に、体内で風邪っぽい形が出来上がっているような。うーん…これは予想できなかった。とはいえ、まあ、まだ大した事無く治りそうな程度だ。ワインをもう一度飲んでみたらさっきほどヘンには思わないので味覚は回復したようだ。いや悪化したのかもしれないが。とりあえずふつうに過ごす。風呂に入って、今はふつうな気がする。今日は家で映画観たかったのに結局観なかった。買い物に出ただけだ。桜のつぼみがふくらんできた。それにしても外を歩いていると、どこを見ても桜の木があまりにも多すぎるな。

2017-03-17

忘れて


美味しいものなら、いったんそれを忘れないと。小説なら、いったん小説というものを忘れないと、哲学でも。小説。ほんとうに難しい。というのは、最初から小説というものが、この世に存在していると思ってしまうと、難しいのだ。そう思った状態で、あらためて、それそのものに出会うことの、なんという滑稽さか、と言うのだ。だってふつうは、そんなの、ありえなかったはずで、本来なら、まったく何もない白紙上に、君と僕、出会うはすのない二人だったのだ。哲学だって、最初からそういうのが、なぜか知らないけど、確固たる何かが、あらかじめちゃんとあると思って、それはさしずめ、ご両親が用意してくれてるみたいな、昔からおじいちゃんにかわいがられて育ったからみたいな、色々あるけれども、だからそれをあえて、なぜだか知らないけれども、何かの理由で、何かに駆られて、いざ、あらためて読むことの、何という倒錯、何という出来レース、何という不毛さだろうか。あらかじめ、人のしぐさを聴いて、そのとおりに身体を動かして、その予防策を聴くみたいな。いや、それならまだマシで、あらかじめ人のしぐさを自分の中に内面化してる時点でまだマシだが、たぶんそれ以前の、コスプレみたいな、ただの内輪受けな、狭い範囲の、何かへ開かれる可能性と不安を最初から排除して安心している、つまらない時間の浪費、課題提出の義務感だけでやり過ごそうとしている、それだけのことに過ぎないのだ。コスプレも、悪くはないのだけれども、でもそうじゃなくて、いったん忘れて、いったん別の時空で、それだな。そう。わたしは、わたしとしては、あなたの歯に、わたしの痛みを感じない、あなたの歯に、痛みを感じない。

2017-03-16

脅威と脆弱性


1.

「ゴンチャロフ、プチデザートアラモード。4個入り1036円。小行列だったけど並んだよ。そんなの生まれてはじめてだよ。大丸と松阪屋だけの特別なやつらしいよ。」


「いや、ええと、ちょっといいですか。なんか、朝、お返しの品を渡したとき、Aさんだけまだ出社してなかったから、Aさんの机に置いておいたじゃないですか。それで、あとでAさんが来て、何これ?みたいな感じだったので、お返しですよって言ったんですけど、ふーんみたいな、なんとなく腑に落ちないような顔してたんで、アレ、もしかしたらやべーかなって。やっぱり直接、手渡しで渡すべきなのかもしれなかったです、なんか女性って、難しいっすね。なんか、単に机の上にぽーんと置いて、それで終わり?みたいな、そんな感じに思われたみたいで、やー、難しいっすね、女性って、扱い面倒臭いっすよね、なんか、ああーやべーなあと思って、一応言っておこうと思って。」


「えー!?まじか。いやだなあ、、それ、僕がフォローする必要あるの?何それ、うわー何それめんどくさいなー。どうしようかなあ。」


「いやいや、これはもう、そのままスルーでOKです。自分がさっき話して、ふーんみたいな反応で、その一連のやり取りで終わりでOKです。なので、一応報告だけです。それで、そのままで大丈夫っす。」


「そうなの?じゃあいいのね?わかった。いやー、でも、厄介だなあ。でも、詰めの甘さってことかなあ、そういう落とし穴もあるのか。まいったなー。」


2.

会議中、知らない電話番号から携帯に着信した。ポケットの中でいつまでもしつこく震えている。とりあえず一旦見送ってから、番号をネットで調べたら、どうも都内の病院かららしい。直後に、また掛かってきた。うわ、しつこい、と思って、もしかすると身内の誰かに何かあったとか、そういうことの可能性を考えた。電話が切れた。廊下に出て、その番号へ掛け直した。


「はい。○○病院です。」

「すいません。いま、電話いただいたみたいなんですけど」

「はい。こちらに、どなたか入院されていますか?」

「いえ、ええと、ちなみにそちらは、どこにある病院ですか?」

「あ、すいません。都内の○○にある○○病院です。」

「・・・いや、とくに心当たりないですね。」

「あ、そうですか。とくにこちらから、ご連絡するようなお心当たりもないですよね。」

「・・・はい。そうですね…こちらは特に何も…」

「あー、…では、申し訳ございません、間違い電話かもしれません。じつは、この病院内のどこからお電話を差し上げたのか、ここからだとわからないんです。なので・・。」

「あ、わかりました。ではとくに何もなかったという事で、少し様子を見ようと思います。」

「はい。申し訳ございません。」


話の途中で考えながら、まあ、これはたぶんただの間違いだろうなと思って、少なくとも面倒事ではなくて良かった。ああ、何もなくて良かった。いくつかある面倒事の、一個が消えたことの、減った分の軽さのことを考えていた。


3.

「あ、さっきの件、あれすいません。やっぱり俺の勘違いだったかもです。なんかAさん、単に朝だから機嫌悪かっただけっぽいです。Aさん。たまに、あるんです。だからさっき話したとき、ぜんぜん問題なかったんで、だからOKです。心配いらないです。すいませんでした。」


「あ、そうなの?まじで?なら良かったけど。そうかー、でも、そういう落とし穴も、あるってことだよねー。詰めが甘いってことかなー、最後のフィニッシュのところで、全部台無しにする可能性も、あるってことだよなあ、いやあ、まじかあ。」


「ですねー。でも、面倒くさいですよねー、難しいですよねー、ですよねー。」


また荷物減、またその減った分の軽さのことを考えていた。もしかしたら、今荷物ゼロかもしれない、かもしれないと思っていた。


4.

また着信が。ポケットの中で震えている。また、いつまでもしつこい。見ると、非通知設定である。非通知設定には、反応しない。これが鉄則である、そうだっけ?誰かがそう言ってた気がする。とりあえず無視する。しかし、おどろくほどしつこく、何度も掛かってくる。こちらが受話するまで、やめないつもりなのか。数分おきに、ほとんど機械的に掛かってくる。それで思い浮かべるのは、やはりさっきの病院からの電話だ。もしかしたら用件の相手が、仕方なく別の電話端末でこちらに連絡を取ろうとしているのかもしれない。それにしても、なぜ非通知なのかという疑念はあるが、さすがにこのまま、延々無視し続けることもできないような気になってくる。だって、これじゃあ仕方がないでしょう。仕方がない。ということで、また廊下に出て、電話を受けた。受けたが、ひとまず何も言葉を発さず、しばらく黙っていた。電話の相手の声が聞こえた。


「…あれ?もしもし?もしもし?」

「…。」

「…えーっと、もしもし?あれ?もしもし?」

「…。」


このまま黙ってても、ただ、そのままの時間が続くだけだった。仕方がないので、最小限に応答。


「はい。」

「あ。…もしもし。」

「はい。」

「あ。……えーっと、すいません。…そちら…○○さんですか?」


間髪いれず応えた。


「違います。」

「あー、そうですか。間違えました。すいませーん。どうもー。」

「はーい。」


自分が「○○さん」じゃなくて良かった、と思っていて、あと、病院からじゃなくて良かった、とも思っていたかもしれないし、もう病院のことなど忘れていたかもしれない。そのまま電話が普通に終わっていくことが、不思議な気がしたけど、自分の最後の言葉「はーい。」は、あきらかに普通の間違い電話に対応する声になってしまっていた。それで良かったのか。いや、良くなかっただろうな。これできっと僕はどこかの誰かへ、何がしかの情報を提供したことになるのかもしれないのだな。この電話番号の先に人間がいる、男性の男で、声から推察するに中年の、そして名前は「○○さん」ではない。そういう人間だということを。それらの情報も資産。かすかな情報資産としての価値があるのかもしれず、現代を生きるならば常に情報の機密性を維持する心を無くす訳にはいかないのかもしれず、でも今日は、不吉なことばかり起こるから、仕方がなかった。そしてこれはこれで、きっと良かったのだ。だって、もうそれっきり、非通知の電話は来なくなったのだから。最小限の犠牲を払って、日常を取り戻したんだから、それで良かったのだ。


「ああ、それにしても、ほんとうに、こういう落とし穴もあるってことだよな。詰めが甘いんだな、最後のフィニッシュのところで、全部台無しにする可能性が、あるってことだよな。まいったなあ。」

2017-03-15

jordan rakei


東京丸の内のコットンクラブでjordan rakeiのライブ(2nd show)を観た。僕はコットンクラブは初。しかし記憶だとコットンクラブって六本木とかそのあたりに存在していたような気がしたけど、東京だったのか。新しいビルの中なので最近引っ越したのか。…と思って調べたらこの場所に2005年オープンだそうな。だったら僕が記憶してるあのライブハウスはいったいどこなのか。。と思ってさらに調べたけど、どれも違うような気がするけど、どうでもよくなってきたので調査終了。


jordan rakeiは去年の秋頃ラジオで知って、これはいいかもと思ってわりと繰り返し聴き、ライブの情報を知ったので予約したのだが、そのときはじめて本人の写真や情報を見たらオーストラリア出身の白人だった。なんとなく今風に淡白な、しかしややジャズ寄りというか、器楽的な変拍子多用系な腕の達者なバックバンドを率いてミクスチャー的なR&Bをやる黒人だとばかり思っていた。


で、実際に観たら、思ってた感じとは、違うと言えば違うが、同じと言えば同じな感じだった。けっこう、弾きながら歌うという、スタイル的意味でも音楽の内容的にも、ある意味シンガーソングライター的な人なのだなと思った。弾きながら歌うというのは、つまり歌ってる人のあらわしたいことを、歌う部分と弾く部分とが細かく分かれたり重なったりして二つの線が織り成すもの全体で表そうとする感じで、聴いているとそこには二つの方法を用いることでの、状況に応じた荷重の掛け方の違いというかバランス感覚みたいなものも感じさせるもので、楽器一つの表現力が限界という条件でソロ演奏するジャズとは、やはり少し違う。


バンドとしてはけっこう律儀な、普通というか、まあこんなもんか、というか、とくに何ともないような演奏で、繊細さとか目を見張るようなスリリングな瞬間とかは別に無く、でもそれはそれで、曲を普通にやりましたという感じだったし、jordan rakeiはやはり、演奏ということではなくソングライティング、曲自体がすごくいい曲ばかりだなと感じた。聴いたことの無い曲も何曲かあったがそれも良かった。

2017-03-14

てんぷら


家で揚げ物は、片付けや掃除が大変だし、油の匂いもあるし、色々面倒くさいので、なかなかやる気にならないが、スーパーに、ふきのとうとか、たらの芽とか、そういうのが出てくると、やはりやりたくなるので、昨日の夜はやった。それで、もうこれは、本当に美味しい、という話です。これは、子供には絶対わからないだろうなあ、大人の苦味だなあ。と言わざるを得ないふきのとう。舞茸、椎茸も、もちろんすばらしい。天ぷらは、揚げている途中の様子を、見ているだけでも楽しい。衣の内側を、油の粒子が駆け抜けていき、細かい泡が、具材のおもてがわを、右往左往、めまぐるしく循環して、今まさに食物に火が通り、ふかく熱されてやわらかく化学変合しているのが、わかる気がする。そしてそれが、確実に美味いだろうということまで、視覚的にわかる気がする。天ぷらという調理法は、もしかすると人類最強の発明かもしれない。油脂の旨み、衣の香ばしさと触感、中のふっくらとした柔らか味と温かさ、豊かな水分、そして食物そのものの味わい。それら全てが、ひとつも欠けることなく組み合わさり、調和し、シナジーを生み出す。もう云うことありませんね。かつそれらを、辛口の白ワインによって、まあまあと宥めて抑えて、躾けるかのように勢いを沈めるのだ。その存在が、まったき清澄な状態になるまで…。そして、さあ、これでお祭りはおしまい。今日から少なくとも冬までは、しばらく静かに暮らそうかとも思う。

2017-03-13

雪夫人絵図


昭和三十年代の小さな住宅のことを考えながら、溝口健二「雪夫人絵図」をDVDで。久々に溝口作品を観た。わりとこじんまりした感じながら、とても良かった。1950年(昭和25年)の作品。旧華族の木暮実千代が住まう別荘が舞台のお話なので「当時の日本人的な小さな住空間」は全く出てこない。横の線と縦の線で構成された日本家屋を背景にして、溝口健二に特有な、ずるずるずるっと横への移動、いや横というよりは、左から右にかけて、戸惑いながら、未知へ向かうかのようにして、やや斜め下の方へ、という感じの人物の動きが何度も出てくる。それにしても、この別荘は最高だ。あんなキレイに湖の見える旅館の部屋が、ほんとうにあるのか。泊まったらいったい、いくらするのか。始終金のことばかり気になる。芦ノ湖でのロケも最高。モーターボートのシーンすばらしい。京都とかでの養子婿の放蕩もいい感じ。木暮実千代もこの人ただのおバカさんかな?という感じもするけどいいぞ。そして終盤の、芦ノ湖山のホテル。すすきと霧。早朝の庭。木暮実千代がテラス席に腰掛けると、それに気付いた給仕が出てくる。何かお持ちしましょうと声を掛けて、一旦屋内に入って、お茶を持って戻ると、木暮実千代は既にいない。その一部始終を、俯瞰視点の遠い距離からカメラは観ているのだが、木暮実千代がどこへ消えたのかはわからない。すべてがこの世の出来事ではないみたいな、これは掛け値なしにすばらしいシーン。

2017-03-12

昭和三十年代住宅


今日何食べる?買い物に行きますか。軽く散歩しながらスーパーへ…と言って家を出て、いい天気だったし、結局ふらふらと適当に、四時間近く歩いた後で買い物して帰ってきた。たまたま見つけた葛飾区の博物館に寄ったら、昭和三十年代の、おそらく当時、葛飾区の町工場で働いてる階層が住まうような住居が再現されて展示されていた。展示会場内に住居そのものがあり、玄関から入って土間で靴を脱いで、式台を上がって家に上がる。四畳半の居間、隣に二畳の寝間、板の間の台所、奥に和式便所、間取りとしてはそれだけ。鏡台やら箪笥やら卓袱台やらが置いてあって、テレビやラジオや、台所には冷蔵庫もあり、それらは当時のこういった住居に暮らす一般家庭にて平均的に備わっていたことの説明というよりも単なる当時を髣髴させる展示用の品々として配置されてるだけだろうが、それはともかくなにしろ驚かされるのは家屋ぜんたいのスケール感に、だ。この部屋の小ささと、それぞれに手の届く距離感。とくにこの二畳分の寝間は…。身体を小さくして正座して背中を少し丸めて鏡台の前に座って、立ち上がって箪笥の中のものを出して、それでそのあと、布団を敷いてそれに入る、みたいな、そういうのを想像すると、すべての動きの少なさというか、ここに横たわったら、すべての壁と天井裏が自分のすぐ傍を包んでいるように感じるだろう。というか、二人並んで寝るのはきっと厳しいだろう。一人だけだとしても、ちょっと油断したら何かを蹴ったり倒したりしてしまいそうだ。でも日本人の平均的な身体サイズも、きっと昔は今よりも小さかったのだろうけれども…。いや、そうなのだ、狭いのではなくて、これがふつうのスケール感だったのだ。この中で、人がさっさと動いて、もっとも最適化されて生きていた。今見ると、おそろしく小さな、ほんとうに同じ日本人の生活かと思うような小ささだ。というか、じつはもう存在しないけど子供の頃に見た母の実家が、まさにそんな感じだったような気もして、ああそうそう、昔はこういうスケール感で生活していたはずと、まるで知らないはずの古い記憶が呼び起こされるようだった。今また、この小ささの中に暮らせと言われたら出来るだろうか。出来るようになりたい、かもしれない、と思った。玄関から裏手の土間まで住居のすべての住機能があらわになっていて、とてもコンパクトで、ほんとうに、小さいけれども精密な船の中にいるみたいだ。見れば見るほど、なんとなく、全てがすごく良く出来ているような感じもしてくるのだ。

2017-03-11

新橋


新橋は港区なので、ここは千代田区とも中央区とも違うのだ。港区なら夕方から皆が酒を飲み始めても良く、区の南端は崖になっていてその下はたぶん海原で、そこはたぶんもう、聴こえてくるのは波音だけのはずだ。会計して店を出たら六時か六時半くらいだったと思うが、まだ空がかすかに明るくて、おお…それが季節かと思った。目の先に古めかしい屋根の庇を隠すかのようにして忽然とあらわれた白木蓮だった。

2017-03-10

濁り


泳ぐにも気をつかう。間隔が重要。それぞれ遅い早いはどうしてもある。プールのコース内は片道一車線だから、早い人に譲るのだけれども、譲り方がけっこう難しい。端まで来たらターンせずちょっと待つ。すぐ後ろの相手がターンして先に行くのを見届けてから自分も行く。しかしそれが必ずしも上手くいかない。相手もこちらを先に行かそうとしたり、あるいは自分以外にももう一人立っていて壁が空いてなくてターンできないとか、色々ある。そもそも、延々泳ぎ続けたいのか、ざーっと泳いで休んで、またざーっと泳いでを繰り返したいのか、そのペースも人によって違う。各々が思い思いにテストランしているので、それぞれ気持ちよく譲り合いながら公共的にやりましょうというところだが、そんなに社交的な雰囲気はない。皆がスイムキャップかぶってゴーグルしてるから、お互い顔もよくわからないし、無表情、無感情で、なかなかコミュニケーション的空間とはいえない。ある意味通勤電車以上にディスコミニュケーション的に、皆が黙って勝手にやってる感じだ。でも僕も、もう三ヶ月以上ここに通ってる。なんとなく登場人物たちを識別できるようになっている。身体の体型と、水着の柄と形と、ちょっとしたしぐさで、なんとなくだ。そしてそれなりにその場に慣れてきて、身体全体を汚れに浸して、その水の濁りにすっかり馴染んで来ている。

2017-03-09

Coopers World


スクエアプッシャーの人がベースを弾いて四人でやってるバンドのライブ盤がいい感じ。昔懐かしい「Coopers World」とかを生演奏している。スクエアプッシャーは、90年代に登場してからずっと、生演奏したい未練をそのまま丸出しにしつつ変にこじらせてすねた感じで、妙な作品を出し続けて、二十年近くたってもいまだにその未練の波間に漂っているような感じがするが、べつに楽器は楽器で、生演奏か打ち込みかどっちかを選ばなければいけない義理などないのだから、そんなの好きにすればいいのだが、でも音というのは、それを好きにできないところが人間というもので、そのどちらかを選ばなければいけないのではないか的な、いやそれを選ぶとか以前に音そのもののずれていく有様を年月の流れとはまた別に感じながら深々とそそり立つゴーストと戦うというか耕すというか雑草を抜くというか、そういう作業に二十年を使い切る人生というのも、きっとあるのだろうなあとも思うが、スクエアプッシャーが実際にどうだったのかは知らないというか、じつはそれほど熱心に聴いてたわけではないのだが、でも単純に「Coopers World」をライブバージョンで聴けるのはふつうに嬉しい。これは昔、ほんとうに好きだった。はじめて聴いたときは、おおーと思ったものだ。

2017-03-08

ブロッコリー40th


ナルシシズムの最盛期なの。つまりもう腐敗、熟成じゃなくて、発酵でもなくて、もうダメなの、捨てる寸前なの。もう朽ちてるの。その味わいが四十代の男っていう感じがする。だから男は四十代から、四十男が一番いいみたいな、自分がもし女なら付き合うなら四十男がやっぱり。意味が重いっていうか臭みの部分、あるい最初から手馴れた適度な距離の取り方のできる使い勝手の良さ。臆病だからすぐ黙るし言う事聞くし初心者にも易しくてコントローラブルですからって顔に書いてある感じ。澱が渋くて口の中にイガイガが引っかかり過ぎる。フードプロセッサーにかけて、どのくらいの滑らかさなのか。でも手作り感溢れるポタージュだから嬉しいっていうことだと思う。のばして、味をととのえる。スープ。フランス語だ。煮込み料理だ。どろどろにしたやつ。面白いでしょ。こんな食べ方って、変わってるでしょ。身体が温まるね。食欲、増進増進。これからたくさん出てくるよ、胃が、広がったでしょ、ブロッコリー。国産じゃないけど、150円で表面がちょっと傷んでたけど買って良かった。良かったと思ってる。

2017-03-07

PIL


いきなりPILが再生されるとびびる。ランダムプレイしてると、たまにあるけど、今日は朝と帰りに、一度ずつ発生。本当にすごい。これがほんとうに、70〜80年初頭の音楽だろうか。当時、彼らはいったい、自分がどんな音楽をやっているのか、ほんとうにわかっていたのだろうか。そのありえなさについて、少しでも自覚があったのだろうか。・・・そりゃ、わかってたんでしょうけどね。それにしてもすごい。いや、これは、本人がわかってたと言っても、さすがに、こんな風には、誰もわかってなかったはずだ。きっとそう。絶対に、わかってなかったはず、というか無理。あらかじめわかれる類のものではないはず。とにかくなにしろLive In TokyoまでのPILはものすごい。ジャンルわけとか時代ごとに区切るとか、絶対無理。完全に切り離されて、空中に浮かんでいるような感じだ。今の音楽に混ざって再生されても、いまもっともエッジの効いた洗練された音に聴こえてしまうし、愚鈍に何々時代を説明する機能など、はじめからいっさい持ち合わせてない。ただひたすら、泣けてくるくらいのノイズと打ち込まれた製鉄のようなドラム。と、ベース。

2017-03-06

窓口


「おい、金が・・・」


だだっ広い空き地に埃が舞っている。風が出てきた。

時間は、いつもと変わらない速度でゆっくりと進んでいる。


「いま、正面の建物の脇にいるんだよ。まだ、準備できてないみたいだぞ。」

「あー、うんうん、ちょっと待ってて。」

「早く来てくれよ。」

「はーい。はいはい。」


晴れた、春の日だ。今日で決定的に、冬が終わったようだ。

まだ寒い日は明日以降もあるかもしれないが、それでも、たぶんもう冬じゃない。


「何時くらい?二時か三時なら大丈夫か?」

「いや、うーん。ちょっと難しいなあ。」

「え?駄目か。ちょっと、夕方になったら、人が来るんだよ。」

「え?そうなの?そりゃ困ったな…」

「なあ、持って来れそうか?なんとかなるか。」

「うーん、わかった。わかりました。ちょっと待ってて。」

「頼むな。うん、はいはい。よろしくな。」


一気に建物の外へ出た。思ったよりも肌寒く、目の前の交差点が小雨で煙っていた。

歩行者用信号が青に変わるまで、固まったように立ち尽くした。

寒さが、上着を着てない身体の内側にまでじょじょに浸透してくるようだった。

このまま十分か二十分経ったら、相当冷えるだろうなと思った。

そもそも、十分か二十分もの間、こうしてオフィスから離席していることが、

普段なら考えられないことだった。

どんなに遅くても、どうにかして五分以内に戻ろうと思った。

窓口が混んでないのを祈るしかない。

2017-03-05

巡回


昨日観た「ラ・ラ・ランド」は、はじめから終わりまで、自分としてはあまり楽しまない時間だったけど、今朝になって思い出したら、なんだかそれを観ていた時間が、やけに華やかな、皆が楽しそうにほとんど躁状態で大はしゃぎしている、二時間だけそんなパーティー会場にいたんだなあ、みたいな、ものすごく非日常なハレのひとときを、場違いながら自分も同席してたみたいな、そういう記憶が熱をもったまま一日分寝かされて所々断片化して、今や過ぎ去った過去の、無害で軽い心地よさをともなった思い出みたいになってしまったような、そういう不思議な余韻に浸っている自分がいた。


ただし、もう一回観たいかと言われたら、やはりそうでもないという感じではあるのだが。…たぶん、いかにも現代ハリウッド的な幕の内弁当な感じでものすごくぎっしりと要素が詰まっていて、二時間で猛烈におなかいっぱいになって、ある意味食当たりしてるのかもしれないが、でも他にも何か映画観たいモチベーションが上がるような感もあり、だから何なの?やっぱり好きなんじゃないの?と言われたら、いや、だから、そうではないんですけど・・・と歯切れの悪い態度になってしまう感じだ。


今日は終日家にいただけ。ちょっと買い物に出て、素晴らしい春の陽気の下、近くの梅園を見に行ったら、梅祭りと称して公園内が花見状態になっていた。出店とピクニックシートと人だかり。この天候なら、盛況になって当たり前だ。今日はまさに、完全に、決定的に春という感じ。どちら様もおめでとうございます。やれやれ、また時間は繰り返される。

2017-03-04

I am the Resurrection


すごく時間があったら、それを読むか?と言ったら、読まないね。たぶん。休日の夜の今、あらためて思う。そうそう。それが事実だ。それでもさっき、一行か二行、読んだだけで、まるで甘いものを口に入れたみたいに、抑えがたい滋味を感じただろう。ああ、いいなあ、小説読みたいなあと、思っただろう。お前は今、今の条件下で、だったら読むしかないんだよ。もう昔も未来もないよ。今の時間だよ。


「ラ・ラ・ランド」観た。これは、けっこう面白い、そう思いながら観ているのだけれども、ちょっと油断すると、もうスクリーン上の出来事を追うのが面倒くさくなってくるというか、ふと、どうでもよくなるというか、はじめから興味がなかったような気持ちになってしまうような、今観ている映画そのものに強い距離感を感じざるを得ないような、そんな浮ついた消極的モチベーションしか沸かない状態のままで二時間強を過ごしたのでけっこうくたびれた。でもこれは、すごくしっかりとした良い作品なのだと思う。野心的というか、やる気に満ち溢れている。若々しさ、ケレン味と深読みの効く細部。そういうことだ。主演女優は素晴らしく魅力的だが、彼女のクローズアップの表情はもう当分見なくてOKだ。男性も二軍落ちのヤサ男風だがスーツの肩がぴったりしていてとてもキレイだ。男も女も、若い子は本当にスタイルが服に合ってて気持ちがいい。映画観て観るところがそこだけというのもどうなのかという話だが。


iphoneは指紋認証の機能だけは、残念ながら復旧できなかったので、修理後はパスコードで使ってね、ということだったはずなのけれども、今日再起動したら、いきなり指紋認証復活してた。なんなのだ。でもまあいいけど。これでiPhone完全復旧。まあ修理費用も高かったけど。考えてみれば、ほんとうしょうもないことに金を使ってるわ。


壊れてしまった水道の蛇口の替わりのパーツを買う。高かった。映画一本分だった。高いなあ東急ハンズ。あと柴崎友香の新刊を買う。1ページ目だけでめっちゃ面白いそう、、なにこの異様な期待感は。あとイヤホンを買う。前よりさらに安いやつ。これで短命なら、今度は逆に高級品に行こう。あとは食材など買って帰る。


これで数日前からのエラーを一応すべてリカバリーしたはず。そうなのかな。しらない。どうでもいいや。どうぜあとからあとからとめどもなく壊れていくんだから。

2017-03-03

修理屋


朝になって、まったく電源も入らなくなりウンともスンとも言わなくなったiPhone を持って出社し、横浜周辺の修理屋を調べて、駅の改札脇にある公衆電話でそのうちの一軒に電話を入れた。


「すいません。iPhoneを水没させちゃったんですけど」

「はあ、なるほどですねー。わかりました。ご来店いただければ、拝見しますよ。」

「お店何時までですか?」

「八時まですが、過ぎても多少なら待ちます。」

「わかりました。たぶん20分くらいでお伺いできます。」

「お待ちしてます。でも、場所わかりますか?」

「一応、地図を紙に出したので、それを見ながら。」

「そうですか。わからなくなったらまた電話下さい。でも公衆電話探さないといけないから、ちょっと大変かな。

「まあ、なんとかします。」

「間違えないで下さいね。うち、ビルの五階ですからね。」

「わかりました。」


場所はすぐにわかった。雑居ビルというかマンションタイプの各部屋が店舗になっているような建物だ。それで他の階にも電話の修理屋が入ってるようで、なるほどビルの五階を強調したのはそれでか、と思った。


「ごめんください。さっき電話したものですが。」

「あーはいはい。どうぞ。」


靴を脱いでスリッパに履き替えた。狭いワンルームの間取りで内装がちょっとカッコいい風なカフェ風な体裁で、ゲスト用のソファと椅子があって、中央に木目の大きな作業机があって、それを挟むかたちで店主というか技術者の人がいる。一見年齢不詳だが、たぶん自分と同じくらいの年齢だろうか。服装が若いからわかりにくい。でも、若くはない。


「じゃあ早速見せて下さい。それで、どんな状況でどうなったのか、詳しく聞かせてくれませんか。」

「はい。昨日の夜遅くに、水没して、すぐに水を拭いて、それで中の水を出そうとして、本体をけっこう振りました。」

「ああー、それはむしろやるべきじゃないですね。やるべきじゃないことその一を、やっちゃいましたね。」

「はい。なんかそうみたいですね。で、さらにですね。もう一個やっちゃいけないことをしてるんですけど。そのままバックアップしようとして、iTunesに繋いで、それでも電源落ちちゃって、でもそのまま充電に繋いだまま朝まで置いといたんですよね。そしたら、朝になったら、そのまま死んでて。」

「わー、なんでそれやっちゃうんですか。まあ、はい。わかりました。ちょっと見てみます。」


昨日も書いたけど、ここ二年で修理屋を四回ほど利用した。Appleの正規店ではかなり杓子定規な対応しかしないので、データなど維持したければどうしても在野業者を利用することになるのだが、なんとなくこの、電話の修理業者界隈の人たちというのは、皆それぞれ一癖ある感じで、どの人も面白い雰囲気があるなあと、勝手に思っている。僕もIT業界なのでそれほど違った人種だとは思わないが、なんというか、僕は大雑把に言えば大手メーカーやSIyerなんかの傘下の下請け構造に従属した、もっとも典型的なIT土方を十数年もやっていて、それはもう、自分では自覚も出来ず、よくわからないが、第三者から見たらある意味絶望的なまでにコテコテな、公園のドバトのような灰色をしたサラリーマンなのだと思うのだが、そんな自分から見て、彼らは自分らと同じような感覚を持ちながらも自営業的でもあって、その中間的な、どっちつかずな雰囲気が、傍からみててなんとなくうらやましいような、ぼんやり魅力的に感じられるようなところがあると感じる。


いやいや、修理屋。さすがにそんな、楽な仕事なわけがない。一般客相手で、電話かかってきて、金の受取りして、色々言われるだろうし、めっちゃしんどいというか、大変な商売だろうとは理屈ではわかるのだが、なんか自由っぽく見えるし、なんかボーっとしてる感じがあって、そこがいいなあとか思う。これは完全に自分が勝手にそう思いたくて思ってるだけだ。別に真相とか知らなくて良いし、知りたくないのだ。勝手に勝手なイメージで思い込んでいたいだけ。ちなみにタクシーの運転手にも、ある種のうらやましさを感じることがある。公園の脇で車止めてぷかーっとタバコ吸ってる運転手のおっさんを羨望のまなざしで見てしまう。いやいや、タクシー絶対激務だし死ぬほど大変なはず。それは理屈ではわかっているのだが、でもなんとなく目の前の人物には、そのたたずまいの感じには、羨望を禁じえないという・・・


「どうです?治りそうですか?」

「まだ、わかりません。でもあなた、運がいいですよ。実は僕って、こんな感じなんです。」


傍らの冊子をぱらぱらと見せる。基盤の写真とかが、いっぱい貼ってある。


「意味わかります?僕、基盤までいじれるんですよ。たぶん、日本に三人くらいかな。」

「へー、そうなんですか。すごいなあ。」

「まあ、治る可能性は高いです。でも、いくら腕のいい医者でも、死んだ人は生き返らせることできないでしょ。それと同じです。死んでないことを祈ってください。」

「は、はい。承知しました。」


なんか、意味のわからない、中途半端な自己アピールで、ぜんぜん逆効果というか、いきなり胡散臭さのほうが、一挙に前面に出てきてしまった。難しいものだ。でもまあ、飛び込みで入った店だし、どんなものが出てきていくら掛かるのかは、そのときじゃないとわからないのだから、とりあえずお手並みを拝見しようじゃないか、という気になる。

2017-03-02

iphone水没


キッチンの水道の先に取り付けるタイプの、水がシャワー状に出るような口部分のパーツがある。あれは賃貸住宅なんかだと、自分で買ってきて利用している人は多いのではないかと思うけれども、ウチもそれが付いてるのだけれども、先日洗い物をしてたら、その器具の接続部分が割れていきなり脱落した。それで、フィルタの無くなった水道から生の勢いで水がどばどばと出て猛烈に跳ね返って、服の前部分が水浸しになるという惨事を招いた。あー、やれやれだな。こういう器具は、でもまあ壊れるのはしょうがない。でも水道にはこれが無いと、水勢の調節においては意外に不便であるため、なるべく早めに調達しないとなあ、でも昨日はイヤホン失くすし、ものを失うタイミングっていうのは重なるものなのかな、、などと思いつつiPhoneを胸ポケットに入れて、トイレに入って、ちょっと屈んだら、タイトルに記載の事態となった。こういうときこそ、あの言葉を言うんでしょ?なんて日だ!って。


で、とりあえず色々と、思いつくまま、自分なりに対処した。ひとしきりやった後、もう深夜だったので、とりあえず眠り、翌朝になり、あらためてiPhoneが水没したときの対処方法を調べてみたら…なんか、事後対策としては、絶対やるべきではないことを、残らず全てやってしまったような状況であることが判明した。なにしろ、機器をぽんぽんと何遍も揺すって中の水分を取ろうとしたし、電源を入れてバックアップしたり充電したりを試みて、そのまま充電ケーブルに繋いだままで、朝まで置いたのである。おかげで、まだ息をしてそうだったiPhoneが翌朝には完全に昏睡というか、電源ボタンを押してもまったく反応しない状態になっていた。


それで本日午後時点で、iPhoneは依然として起動不可状態のまま自分は会社で働いている。修理可能かはまったくわからず、このあと、退社してから修理屋に行って診てもらうという状況。


いったい、どうなってしまうのだろうか…。


…とか言って、いや、じつは現時点、つまりこれを書いてる3/2深夜時点で、すでに結果はわかっているのだが、もう時間がないというか、もう寝ないといけないので、続きは明日書くことにする。


それにしても、このiPhone6は、本当によく修理に出されるやつだ。…などと書くと、せっかく結果は明日のお楽しみみたいにしたにもかかわらず、今現在、自分の傍らに、すっかり元気なったiPhone6が飛び跳ねているかのような雰囲気になってしまうが、それはどうなのかは、やはり明日のお楽しみであるが、いやそんなことは別に誰も楽しみではないだろうが、それはともかく今までの電話会社との契約では自分はとくに意識していたわけでもないのだが故障時の保証には必ず入っていて、壊れたら補償範囲内で無償交換になるはずだったのだが、そんな権利は今まで一度も行使したことがなかったので、iPhone6契約の時点で、はじめてその契約をやめたのだ。そしたら、それ以降、二年で三回の修理となって、純正の店では高くつくので地元の在野の店に何度も駆け込んで野蛮な手術を繰り返したので、それで僕のiPhone6はすっかりたくましく野性味あふれる姿になってはいるのだが、結局今まで総額でいくら掛かったのか、もはや考えたくもないというレベルである。


で、今回またこれだから、ほんとうに嫌だ。なにしろ今週は、運勢が悪すぎる気がする。いくらなんでも、モノが、なくなりすぎる。不注意だから、そうかもしれないが、いや、そうじゃない。何か、そういう風が吹いているのだと思う。実は、くわしくは書けないが、これ以外にも、無くなりそうなものがある。契約という名の、ある何かが…。とにかく、なにしろ、今週は、運が悪いと思う。いくらなんでも早すぎて驚くけど、もしかすると今年の山場が来てるのではないかとすら思う。

2017-03-01

イヤホン紛失


イヤホンを失くしたのは昨日。気付いたら、なくなっていた。ジムの更衣室かなと思って、一旦戻ってフロントに聞いたけど、届いてないと言われて、あきらめて帰った。今日もフロントで聞いたが、やはり届いてないとのことで、紛失が確定した。買ったのは2月4日だから、使ったのは一ヶ月弱。なんたることだ。我ながら酷い。いくら安価なやつだと言っても、一ヶ月で使い捨てにして平然としていられるような領域の人ではない、というか、ばかばかしいというか、無駄すぎて阿呆らしい。これでまた、すぐにでも新しいものを買わなければ、とか云って、すぐ売り場に行く気には、さすがになれない。自分への戒めとして、今週末までは、イヤホン使用を禁止とする。週末になったら買いに行くだろうが、それまでは、水泳のときに使ってるウォークマンを装着することにしなさい。なんだ、そっちがあるなら、別にいいじゃないか、と言われるだろうが、水泳用ウォークマンだとiPhoneの中とは収録曲が違うから、それは、ぜんぜん違う。でも、仕方がないことだ。これで、しばらくがまんだ。こればっかりはもう、自分が悪いんだから。

2017-02-28

rations


子供の頃に乗った遊園地のフライング・パイレーツは怖かった。あれはマジで、なんでわざわざ、あんなものに乗らないといけないのか、意味がわからなかった。昔から怖いものは嫌いだった。極度に恐れていたと言って良い。怖いもの見たさな気持ちの、まるでない子供だった。


爆竹だの打ち上げ花火だのも、たぶんそれほど好きじゃなかった。やかましい音楽とかも、嫌いだったはずだ。しかしそういうのはなぜか、中学生くらいから好きになってくるから不思議なものだ。自転車で、すごいスピードで走るとか、雪が降ったらソリで遊ぶとか、そんなのも好きだった。スキーは一度しかやったことないが、好きな人に何が楽しいのか聞いたら、スピードだと言っていた。やはりスピードの出るものは、人は好きなのね。音楽もやたら速いものが好きな人って、いる。


でも高いところから落ちたいっていうのは、ないのだ。だからパラシュート降下とか、バンジージャンプとか、もちろん遊園地の絶叫マシンも、まるで乗りたくない。飛行機も乗りたくない。でも船なら、乗りたいのだ。船の甲板から海を見下ろしたい。これは、強く思う。とくに最近、よく思う。謎だ。


会社で、非常食が配られた。災害時等の対策として、五年間くらい保存のきく、レトルト製品の詰め合わせみたいなやつだが、普通に市販されてるレトルトとは違って、暖めずにそのまま開封して食べられるようなやつらしい。今回配布されたのは全部日本製のパッケージで、あまり非常食な感じがしないが、5年前に配布されたやつは外国製の如何にも非常食という感じだった。革靴でも入ってそうなずっしりと重い紙箱で、中には銀色のレトルトがいくつも入っている。半分は水の入った袋で、もう一個小さめの塊はぎゅっと小さく圧縮された毛布らしい。そして一番大きいやつがパン?だかクッキー?みたいな、固形でやたらと高カロリーに作られている食べ物らしい。


パッケージには太いゴシック体で「Emergency… rations」とか書いてあって、「レーション」という語句が、昔プレイステーションでその手の、戦争ゲームみたいなやつで拾ったアイテムにあったなあ、それで体力回復するやつだなあと、懐かしく思い出された。


こういうものは、美味しくないだろうけど、なぜか食べたくなる。宇宙食、などというものもそうだが、ちょっとだけ食べてみたいと思わせる。そう思わせるのはなぜなのか。今日は五年前の賞味期限切れる寸前のレーションを何人かで食べる会をその場で開催したのだが、結局ほとんど残ってしまった。でも、そんな状況で味見したって、美味しくないにきまっているのだ。こういうのは、全部シチュエーションで決まる。というか、食べ物なんてみんなそうだ。


レーションじゃなくても、ふつうのお弁当でもそうだ。弁当独特の美味しさというのは、あれはいったい何なのか。食物を運んできて、移動先でそれを食べると、異常なくらいに美味しく感じるというのは、人間が奥底にかかえている神秘的な感覚の妙と云えよう。

2017-02-27

トランスコピーライト


現代思想2017年2月号「特集=ビットコインとブロックチェーンの思想」を買って読んでいる。同時に、ウェブを検索して色々出てくるブロックチェーンに関する記事も適当にざーっと読んでいる。で、その過程でたまたま、ブロックチェーンとは直接関係ないようだが、まったく無関係でもないというか、履歴維持という考え方としては似てるような気がするトランスコピーライトの記事を読み、すごく面白かった。コピー&ペーストした情報はコピー元を特定できないという点について下記のように書かれているのが、ものすごく目からウロコだった。


これはシステム的な不備とも考えられますが、根本的にはOS側の不備と言えます。

 本来ならば、OSが、コピー&ペーストをしたときに「このデータは誰からコピーしたものか」というトレーサビリティ情報を保持し、ペーストした際にもそのメタデータを常に保存し続けるべきなのです。

https://wirelesswire.jp/2017/02/58969/


たしかに、これなら余計なものの振るい落とされた目的に対するシンプルかつエレガントな解答という感じがして、きっとこれが本来の正しい姿に違いないと思われ、すごく腑に落ちる。