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2018-09-08

ブログ移転のおしらせ


はてなダイアリー終了は来年とかでそんなに慌てる必要ないし、しばらくこのままで構わないと思っていたのだが、先日ためしに移行を試したら完了してしまった(三千何百だかある記事が一日半くらい)。だから成り行きで、ここでの更新は今日でストップすることにした。2006年から始めてついに今日が最後。


東京は晴れ、暑い。ツタヤでDVD返却。みずほ銀行はまたATM休止。電車の冷房が強すぎる。図書館の冷房が弱く感じる。たまにはちゃんとしたコーヒーを飲もうと駅に戻る途中の喫茶店へ。いつもどおり本日のサービス珈琲を注文したらダッチコーヒーで、もっとすっきりしたヤツにすればよかった。駅前の食品売り場、先週いきなりがくんと百円以下に下がっていた秋刀魚が今週は倍近くまで値上がっている。しかし今年は秋刀魚ばかり食べている。秋刀魚にかぎらず今年はいつになく同じものばかり連続して食べている。あと素麺もよく食べた。売り場に並んでる梨は、豊水ばかりになった。しかし美味しい。独特の酸味が、季節ですねという感じ。


明日付け以降は、はてなブログに書く。引き続き、よろしくお願い申し上げます。

https://ryo-ta.hatenadiary.com/

2018-09-07


飲み会の女性7〜8人と自分の上司含む男性3人が、好きな漫画・アニメの話で死ぬほど盛り上がって話している。後から後から作品名が出てきて、あれはどうで、これはどうで、私はあれよりもなんとかのこれ系なので、こっちのヤツは全部見てます。あたしは何とかは昔は見てました。今は何とか系のやつだけです。あーそれって何とかと同系列ですよね、はいはいはい知ってます昔は好きでした、自分も春から観始めました、そうですそうです、いいですよねー私全部持ってます、そういう感じの宴が延々続いて場が醒めることもなくたいへん結構な雰囲気のなか、僕だけが蚊帳の外だった。誰かが何かのコンテンツの話をしていて、自分がその作品のことをまるでわからなくて、自分以外の人間は全員わかっている状況というのが、たぶんマジで生まれてはじめての経験だったかもしれない。話題に入れなかったことよりも、みんながそういう面白さの中に生きているということを、こちらがまるで想像もできてないという事実に驚いた。うわーそうか俺もついにここまで浮き上がってしまったのかと思った。でもこれはこれで楽だとも思った。人の言いたいことを理解できないというのは楽だ。

2018-09-06

フルタイムライフ


柴咲友香「フルタイムライフ」、主人公視点と三人称視点が混ざり合いながら、関心が常に変わり見る対象や思うこともころころと移り変わる感じがよくわかる。するーっと読めてしまうので、地文も会話文もそれだけで出来てなくて互いに入れ子状になっているというか対話しながら目は別のところを見ていたり、誰かの声を聴きながら目の前の何かを見ている(その見ている先のことが、信じがたいほどどうでもいいことだったりする)ことに、なかなか気づきにくい。そのあまりの「普通さ」が、逆に驚くべきことだと思うが、しかし現実に生きているとはそういうことで、それが見事に文章化されていて、これは今や柴崎友香作品においてほぼ確定的な評価済みの特徴なのだろうと思うが、今更ながら僕もあらためてそれがわかった。


のんびりした、危機感のない会社、古い体質、旧態依然

生産性向上とかコスト管理とかは活発じゃない

たぶんわりと大企業、そこそこ安定した資本と売上高と取引先、全国にある工場と支社

音楽やってる人、カフェに集まる人々、若い人たち、自由業、自営業、無職、アートや音楽、デザイン

カフェでたまにいてなぜか惹かれてしまう謎の男

社内報、ボロイ社内冊子の編集も楽しいがクリエイティブっぽくないから同世代に引け目を感じる

製造業、機械、物理システムの魅力、工場好き

展示会、コンパニオンとか宴会のおじさん的世界

女性たちだけののんびりとした雰囲気、午後まったり、残業なし

テレビと通販、美味しいもの情報

よその会社の、ぜんぜん仕事してない感じ、バイトより全然楽そう。

派遣された女性の緊張感、世間を渡っていくためのキャリアとスキルを磨くこと


会社で働くということを書くということで、少なくともこれだけの要素が渾然となって、その他もっと細かく様々な断片も散りばめつつ小説が進んでいく。失恋や出会いもある。すごい、なんという強靭かつ正確なデッサン力だろうかと思う。

2018-09-05

十年後


柴崎友香「きょうのできごと 十年後」を読む。制約のようなものをあえて取っ払って、かなり自由になんでもやっているような感じだ。三十歳過ぎのけいとと真紀に、中沢の経営する店、夜のパーティーの賑わい、酒と料理、DJとライブ、美女の歌手、渋いメルセデス・ベンツ、深夜ファミレス、自動車炎上と、それこそ、映画化されたらとても華やかなものになりそうだ。けいとと真紀の酔っ払い方が正しく三十代女性っぽい。たしかに、飲み会などではこれくらいの年齢の女性がいちばんかしましい(偏見)。全体的にお祭りっぽいというか、映画の最後に全登場人物が出てくるような、ぱーっとした小説のように感じた。


友達の友達と、その日限りの、あるいは数年限定の付き合いが生まれるって、昔はあったよなあと思う。というか、今もたまにある。地元の友人たちが集まる忘年会に顔を出すと、初対面の人は必ずいると言っても良い。でも、それでもこの年になると、初対面で出会いということ自体が若い頃のそれとは違ってしまっている。一緒に蟹を食いに行った山田とか、今どうしてるのかなあ、とか思う(それは小説の中の話)。

2018-09-04

Culture Club


数年に一度、カルチャー・クラブ (Culture Club) を聴きたくなる病を発症する。しかし古い。流行ってたのは今から三十五年ほど前。中学一年生だった自分の、洋楽初体験である。友人のYとMはデュラン・デュランに夢中で、僕もたしかに「ザ・リフレックス」という曲の異様なカッコよさ(イエスのロンリーハートもそうだが初期のサンプラーを聴くことができる)には驚いたが、YとMへの対抗意識も少しははたらいたのか、自分は別の「ニューロマ」グループへ傾倒し…まあ、当時YとMとはそれなりに仲良くしていて中学生あたりから背伸びしたくなる子とそういうのに無頓着な子が分かれはじめるが、彼らはもろに前者で、自分もできればそちらへ付きたいと思うような自意識をもっていた。いや、そんなことよりも当時の自分は本気でボーイ・ジョージがカッコいいと思っていた。今で言うところのLGBT的なことも全く知らず、それどころか思春期前後の基本的性知識もまだあやふやだった時期に、ああいうキャラクターに心を奪われていた訳だが、まあ子供の思い込みなんて今も昔もそんなもの、というかこれこそが70年代以降の洋楽ロックを支えた日本女子達のマインドで、僕もそれを引き継いだのだ、とか何とか。


カルチャー・クラブの楽曲が今でも聴くに耐えるものかどうかは人にもよるだろうが、僕はなぜかいつまでも好きで、それはやはりサウンドの根底にソウルとレゲエっぽさが濃厚に含まれているからだろう。レゲエに特有の、一拍目に鋭いハットの刻みが入って後明るさを保ちながらユラユラ下降していく感じ。レゲエの良さはアルコールが身体に沁みていく良さに似ている。曲も歌もファミレスのように安っぽいけどむしろそのくらいの方が良いと思うときもある。とくに夏だと効く。ボーイ・ジョージのボーカルはこれも嫌な人は嫌だろうが僕は嫌いではない。けして上手くはなくて高音は鼻で歌ってごまかしてるみたいな頼りない感じだけどむしろそこがいい。アルバム単位で聴いていた記憶はあまりない。カラー・バイ・ナンバーズのA面の最後がChanging Every Dayのフェイドアウトで終わっていく感じだけは今もおぼえているけど、カルチャー・クラブならやはりベスト盤とかのヒット曲単位での記憶になる。


Do You Really Want To Hurt Me

まさに真の名曲だと思う。この曲って本当にこのバンドの曲なんだろうか?もっと古くて有名なレゲエのスタンダード曲のカバーなんじゃないのか?と本気で疑ったことがある。

https://www.youtube.com/watch?v=2nXGPZaTKik


Time (Clock Of The Heart)

まあ曲としては何の変哲もないとも言えるが、自分の中では外せないスロー名曲

https://www.youtube.com/watch?v=8tI1_KlO6xI


Black Money

カルチャー・クラブにはサポートメンバーでバックコーラスの黒人女性がいて、ボーイ・ジョージとコーラスの掛け合いはこのバンドの大きな魅力だと思う。ソウル感がいい。

https://www.youtube.com/watch?v=cCYqevUUE8w


The War Song

このイントロだけで、中学一年生の時空にずるずると引き戻されそうになる。

https://www.youtube.com/watch?v=GBd5W9IA7n0

2018-09-03

できごと


「きょうのできごと」「きょうのできごとの、つづきのできごと」とつづけて読んで、著者の、登場人物たちとその世界への愛というか、あの京都の夜、前後のだらだらと続く日々をいつまでも終わらせたくなくて、ただひたすらこの人たちとの時間を長引かせていつくしみたいと思っているのが、伝わってくる感じがする。書き続けているかぎりは、彼らの世界がまだ消えないという。


各章ごとに語る主体の人物が入れ替わるが、意外に男の話である。中西、かわち、正道、西山や坂本たちの、男友達の小説としても読める。男っていうのはこうじゃねーよとか言いそうな人もいるけど、いやいや、こうだよというか、たぶんこの人たちがいたんだよ実際、と言いたくなる。


「B面」で映画撮影の現場を見学している原作者(作者)が登場人物として出てくるところが「公園に行かないか? 火曜日に」の感触に似ているが、その物語の終わりの頃にふと姿をあらわすのがけいとで、けいとは今そこで撮影している映画の登場人物が、元々はけいと自身であることを知らないだろうし、目の前の相手がその映画の原作者だということは知っているが、その人が小説の登場人物として、はじめて自分を生み出した、ということは知らない。


それ以前に、そんなことはありえない?…いや、ありえる。この世界に「フィクションの子」でない人間がいるだろうか?けいとは十年後に、映画の配給会社で働いている。それはこの撮影現場で知り合ったスタッフと、その後もメールなどでやり取りを続けているうちにできた縁を辿ったと「きょうのできごと十年後」に書かれている。フィクションだから実在しない人と思うのは間違っている。フィクションの登場人物も確実に実在している、いやフィクションの登場人物だからこそ実在する、そう思って読んで良いとおもった。

2018-09-02

きょうのみたもの


買い物に行く途中、通りかかった中学校の校舎から、吹奏楽の練習をしている音が漏れ聴こえてきた。ヴァイオリン、フルート、コントラバスなど管弦楽器たちの音が、演奏の準備でそれぞれ勝手に音を出している。この低音から高音までバランスよく役割分担された楽器たちの、それぞれの音の断片がばらばらと脈絡なく聴こえてくるだけで、ちょっと背筋がぞくっと来るほど良かった。たぶん休日の昼過ぎの曇り空の下を買い物の途中で、ふいに予想もしなかった音が聴こえたからだと思うが、管弦、すばらしいなと思った。



先日妻が買ってきたユリイカ濱口竜介特集を読んでいたら、濱口監督が俳優の東出昌大に、撮影の前に成瀬の「乱れ雲」と「乱れる」を観るように指示していたことを知る。あ!だからこの前、自宅でその二つのDVDを観たのか…とわかった。観たいと言ったのは妻である。あれを観たとかこれを読んだとかあそこへ行ったとか、僕はこのブログに色々書いているが、実を言うと何を観るか?何を読むか?何を観に行くか?については、自分ではなく妻の希望にしたがっていることが意外に多い。映画の公開日やテレビの放映日や本の出版日など、そういう情報は僕はあまり把握できないので、妻のサジェストに従ったり、作品チョイスや今日出掛ける先を妻が決めることはここ数年でかなり多くなった。そうなると、なぜその作品なのか?とか、いくつか続けて観る何らかの理由とか、そういうのを事後的に知ることも多くなり、それはそれで面白いところもある。


「予兆-散歩する侵略者-」をDVDで観る。これも妻が観たいと言ったのだが、理由は「寝ても覚めても」に出てた東出昌大が「宇宙人役」で出ているからか、なるほどですね。 夏帆染谷将太が演じる夫婦の住む家が緑色を基調とした面白い内部で、暗いのか明るいのかよくわからない光の諧調がすごく複雑で印象に残る。全編通じて夏帆はすごくしゃんとしていて大活躍する。最後は拳銃で相手をやっつける。夫の染谷将太は少し頼りなくて、右腕の苦痛に悲鳴を上げる声がやたらと大きくて耳に残る。ガイドの人たちは総じて自分の人間的な弱さのようなものを突かれてそれに疲弊したようになっているので、映画を観ているこちらも心が少し暗く陰鬱な思いになる。東出昌大は「寝ても覚めても」もそうだったけど、とにかく背が大きいのがすごい。こういうデカイ男を映画で観るのは久しぶりだ。染谷将太夏帆より少し背が高いくらいなので、東出のデカサがより際立つ。長いコートを着たりするとじつに雰囲気が出る。

2018-09-01

寝ても覚めても


MOVIX亀有で濱口竜介寝ても覚めても」を観る。以下、物語内容に盛大に触れる。原作の小説もそうだが、この話はストーリーをあらかじめ知らないままで体験した方が楽しいと思うので、観る/読む予定の人は以下を読まないことをお勧めする。自分が原作を読んだのはもう八年くらい前だが、かなり鮮烈な(古典的メロドラマ形式の)物語なのでよくおぼえているが、映画の前に再読はしてない。それでも映画が始まってすぐに「小説ではなくて映画だ。」と思う。映画というのは、カメラが、各登場人物を撮影するものだ。冒頭で、死ぬほど楽しそうに付き合ってる麦と朝子が出てくるが、そうか朝子は外から見たとき、そんな風に楽しかったのかと思う。


朝子を演じる唐田えりかが素晴らしかった。ある意味最初から最後まで、この人の表情を見て何かを感じ取るしかない作品という側面もある。


朝子以外の登場人物たちは、とてもいい人たちという感じだ。性格が良いというよりも、書割のように明快でわかりやすい。岡崎は気持ちのいいやつだ。大阪で、朝子が麦と大恋愛中のとき、春代は敏感なアンテナで朝子に「あの男はやめといた方がいい」と忠告する。麦が去って、東京に来た朝子とマヤの家で、マヤとクッシーが初対面で喧嘩して仲直りするシーンはまさに濱口作品の真骨頂である。亮介もことあるごとに完璧に空気を読めて的確なふるまいが出来る人物だ。


これらの登場人物に囲まれている主人公の朝子だけが、不明瞭な、その内面を容易に推測できないような無表情を貫いているように感じられる。あの朝子を、外側から見たら、こうなるのかと思う。


震災が来る前くらいまでは、朝子が何を考えているのかが亮平にはいまいちわからない。映画の観客側としては、朝子と麦との過去を知っているにしても、心が揺れ動いている朝子の内面がわかるというわけではなく、いきなり亮平に別れの電話をしてくるとか、ちょっと理解し辛いと言った方が近い。朝子も葛藤しているのだろうけど、葛藤の中身は描かれないし、いつもの寂しげな無表情だけしか見えない。しかし朝子もしだいに変わっていくかのように見える。抑制されてはいるが、朝子が自分自身の考えを言葉にし始めるシーンが少しずつ出てくる。


ここまでで、最初の麦と大恋愛中の朝子、失恋して東京に来た朝子、亮平に心を開きつつある朝子と、朝子の演じ方に三つの段階が生じているのを感じている。しかし、三つ目の朝子にこれまでの鬱屈が消えた爽快さを感じるほどではない。朝子の表情や振る舞いが、最初の頃とそれほど強いコントラストを見せるわけではない。朝子自身の言葉にしても、唐田えりかという役者の表情や仕草や喋り方には(他の登場人物とくらべて)明快さやわかりやすさが強く出てこない。そんな朝子が最後まで、この感じのままで行ったという印象を受けた。それが、この映画の質だと思った。朝子は変わらない、というか、変わったか変わらないかわからない。だから亮平が最後に「お前のこと信じられない」と言うのが、正しい認識とも言えて、たぶんあの二人は、あのあと上手くやっていくのではないか、とも思われる。


原作の小説では、衝撃の「裏切り」が実行されてからラストに至るまでは、罪悪感と快感の高密度で混ざり合う強い緊張をたたえた瞬間の、ついにやってしまったなあというヒリヒリとする感覚に満ちていて物凄いのだが、あれは例えば宮沢賢治よだかの星」の最後でよだかが空に上っていくときの、もはや良いとか悪いの倫理を飛び越えて語る側もそれを安定した場所から冷静に描写できる地盤を失って、すべてがドロドロになったまま速度だけがリミット切れてぶっ飛んでいくような、小説ならではの迫力が読者の心をわしづかみにするのと同じような作用が働いていたと思うのだが、ああいうのは、映画で同じような再現を試みても無理なのだと思う。やるなら「カッコーの巣の上で」や「汚れた血」とか、あるいは「2001年宇宙の旅」のラストみたいなことに、なってしまうのだろうか。でも本作はもっと落ちついた知的な感じの映画的操作で仕上げられたという感じだった。(再会後の春代がプチ整形していること、元気だった岡崎がALSの病に掛かっていること、岡崎の母親が最初と最後変わらず"あの感じ"であることが、作品の他の何の要素と響くことなのかが、自分は気が付けていない

2018-08-31

きょうのできごと


柴崎友香「きょうのできごと」を読む。「ジャームッシュ以降の作家」で保坂和志は「彼は現在を生きる私たちが、未来に希望を持っていないことを『ストレンジャー〜』によって、はっきりと見せてしまった。未来に希望がないとしたら、「あるのは絶望だけだ」というのは、『ストレンジャー〜』以前の考え方で、私たちは未来に対して希望も持っていないけれど絶望も感じていない。」と書いた。実際は最初からそうだったはずなのに、なぜかそうじゃないとされていたものを、ある人が「いやいや、じつはこうでしょ、みんな気づこうよ。」と言って、それはたしかにそうだった。誰もが認めざるを得なかったということ、すぐれた芸術はだいたいそんな、何か新たな発見というよりは、誰もがそうじゃないと思ってることを、いや、そうでしょとシンプルに指摘するだけみたいなものが多い。「きょうのできごと」に書かれているのは、深夜のドライブとか友達の家の引っ越しパーティーとか以前の、その場にいる一人の視点から描くときの、言葉によるいちいちのあらわれかたそのものという感じだ。というか小説のタイトルは「きょうのできごと」ではあるが、ここにはもはやできごとすらないというか、現実に生きていると、出来事というかたまりは存在しないのと同じで、小説なのに出来事とかエピソードではないもので作られているという感じなのだ。たとえば「楽しさ」だとか「待つ」とか、現実に感じられるその時間のようななめらかな質感。それをこれみよがしに技巧的にやるのではなく、じつに当たり前の感じで水が流れるように作り出している。僕が「きょうのできごと」をはじめて読んだのは、それほど昔ではない。今から十年も経ってないと思う。しかし当初はまさに"良さがよくわからない"という感想だったように思う。ということで、もっとも基本となる部分を再履修している状態。

2018-08-30

ジャームッシュ以降


柴崎友香「公園へ行かないか? 火曜日に」を一昨日読み終わって、いろいろと自分なりに感想をまとめていて、それが予想以上に難しくて、いや、今にはじまったことではないのだが自分は常に柴崎友香について何か言う自信がないというか、どうも思ったことを表現できるぴったりした言葉が見つからないといつも思っていて、本作もすごく面白かったのに、そのことについて考え直していこうとしてもなかなか難しいと思って、無駄に言葉を書いては捨てるばかりで、それでもなんとなくもっともらしく、(最初やたらと長くなったものを思い切り削っていってシンプルにして)けっこう短めで、あまり大げさではないがそれなりに自分で納得できる程度の感じにはできたかもしれないと思って、それをここにアップしようとしたのだが、アップする前に保坂和志が書いた「ジャームッシュ以降の作家」という柴咲友香論を久々にもう一度読もうと思って、「きょうのできごと」の解説を読んだら、今更だが、これはすごいなと思って、その解説もすごいのだが、柴崎友香が、やはりとんでもなくすごいなと、今更のように感じ入ってしまい、そのまま「きょうのできごと」を再読し始めてしまった。なんというか、これがデビュー作ってとてつもないことだなと。そして…アップしようと思ってた文章は当然ボツにした。


保坂和志ジャームッシュ以降の作家」はここで読める。

http://www.k-hosaka.com/nonbook/jarmush.html

2018-08-29


真夜中、痒みで目が覚めた。蚊にやられたのだ。両足に何箇所も…

久々に冷房切って窓を開けていたのが災いした。網戸は閉まっていた筈だが何らかの方法で侵入に成功したのか

蚊にやられるとは、今シーズン初。いや数年ぶりじゃないか

そんなことないか。しかしこれだけ大量に被弾するのは珍しい

蚊にしてみたら大変な戦果を上げたことになる。仮に一匹だけの仕業だとすれば、仲間の元へ帰還したらほとんど英雄扱いだろう。

吸い取った液体で身体をぱんぱんに膨らませて、ヨロヨロと低空飛行する後ろ姿

時既に遅しではあるが、起きて戸棚の引き出しを探り、奥から出してきた蚊取り線香をただちに配備・着火した

もしまだ近くに潜伏しているようなら、せめてこれで息の根を止めてやりたい

しかし、いつも思うけど、効果あるのだろうか。蚊取り線香って…。

ほんとうにこれで、蚊が落ちるんですかね?そんな光景を、一度も見たことないけど。

2018-08-28

靴を脱ぐ


美術作品で、靴を脱いで作品内に入って体験するとか、ああいった鑑賞形式が若干苦手である。なぜなら靴を脱ぐのが面倒くさいからだ。僕は靴は、紐靴しか所有してないのだ。ただし鑑賞方法がその作品の質に関わるのだから、その作品を体験するために必要な鑑賞方法が規定されることは尊重するし、そういう作品を否定したり批判する気は一切無い。現にそういった作品でとても好きなものも過去にたくさんあった。靴を脱ぐのは嫌だけど、靴を脱いでこのスペース内で自由にご鑑賞下さい的なやつは、わりと好きだ。座ったり寝そべったりできるタイプのやつ。じーっと体育座りしてる人とか、完全に居眠りしてる人もいるような場。そういう場で寝そべったりしていることの身体的・気分的な新鮮さというのは嫌いではない。


でも靴を脱ぐなんて面倒くさい、とは思うのである。というか、それを知って「え?脱ぐの?」と思う瞬間がいや。じつは面倒くさいだけじゃなくて、観る側のこちらにそこまでさせるのか…と思ってしまうのだ。こういうことの極端な事例としては、演劇で演者が観客に話しかけるような形式とか、観客参加型とか、オノ・ヨーコ的なやつとか、そういうことになるのだろうか。作品鑑賞に際して靴を脱いでる時点で、その手の形式に少し入り込んでると思うのだ。


映画館に行って暗闇の中で椅子に座るとか、掛かってる絵の前に立つとか、柵に寄りかかってステージの演奏を聴くとか、そういう範囲内で可能なことだけにしていただきたいと、どうもそのように思っているらしいのだ。


もちろん、靴を脱いで下駄箱に預けさせて鍵を渡すチェーン系列に多い居酒屋も嫌いだが、それはまた別の話。


柴崎友香「ニューオーリンズの幽霊たち」(「公園へ行かないか? 火曜日に」所収)では、ワシントン州第二次世界大戦をテーマにした博物館に主人公が訪れて、そこですごいアトラクション仕立ての展示物を体験する。入口で当時の従軍兵士の名前が掲示され、その人のプロフィールや戦場での経緯を参照することができるとか、潜水艦の操舵室を模した内部に入ってあたかも自分が潜水艦の乗務員であるかのように潜望鏡で敵艦の様子を覗いたりできる。(自身が乗り込んでいる当の潜水艦が最終的に沈没してしまうことで、そのプログラムは終了する。)


柴崎作品の柴崎的な主人公は、そのような形式の展示に対してとくに批判も肯定も表明せず、やや戸惑いながらも、それを素直に受けいれて体験しているのだが、読んでるこちらとしては、これは、こういう形式では、ちょっと勘弁してほしいなあと思う。この作品のその箇所を読んだら、おそらくそう思う人は、多いのではないかと思う。


でもこれは博物館として「疑似体験」の「臨場感」を高めるために作られた装置なのだろう。(別料金を払って体験できるオプションのようだ。)そもそも博物館というのは、そういう場所なのだろうか?「疑似体験」の「臨場感」を高める必要がある場所なのだろうか…と考えてみて…そういう場所でないとは、断言できないかもしれない…と思った。むしろ博物館というのは、突き詰めれば、疑似体験するための場所なのかもしれない。展示物をより理解できるように、展示方法を改善すること。アーカイブ化とか研究も大事だが、利用者とのインターフェイスを向上させることも、博物館の使命の一つではあるだろうから、少なくともこれからの博物館は、多かれ少なかれ、そのようになっていくのかもしれない…とも思った。


その体験が貴重ではないとか、嘘臭いとか、つまらなそうとか、そういう事を言いたいわけではない。でもそれはそれとして「いや、そこまではしたくないのよ」といった気分というものがある。博物館のアトラクション化と、作品鑑賞時の靴脱ぎは、ぜんぜん違う話ではあるのだが、そこは、似ていませんかと思う。

2018-08-27

休み明け


四連休した週明け。出勤して「まだ心が、ぜんぜん仕事にひらこうとしません」と周囲に伝える。何をするにも、周囲を戸惑わせて不可解な思いにさせるのもかまわず、ため息まじりで俯いてしょんぼりした態度を崩さない。まだ半分家にいるような感覚が新鮮で面白いので、しばらくこのまま数日間くらい、仕事の面を半分ばかり閉じて業務の時間を過ごせないかなと思う。それにしてもたかが四連休くらいで、そこまで日常との落差をおぼえるものかと思うが、前半は台風の風だし後半は真夏の炎天下だし、つくづく変な休暇の日々だった。

2018-08-26

在宅


いくらなんでも暑過ぎるだろうという事で終日在宅、というかもはや屋内避難。前日に続けて昼から飲酒しつつ窓の外の狂ったような光の降り注ぐ様子を見ていた。CSで放送した濱口竜介「永遠に君を愛す」を観る。濱口竜介らしいきわめて強烈な事前配置の雰囲気に満ちた図式的演技実験的な雰囲気の作品だった。


続けて三宅唱「THE COCKPIT」を観る。まったく前情報も前知識もなく観たのだが、ヒップホップ・アーティストOMSBとBimの創作の現場を捉えたドキュメンタリー作品で、かなり面白かった。じつは僕は日本語ラップについて音楽の中でもあまり聴かないジャンルというかやや苦手ジャンルだったりもするのだが、OMSBは菊地成孔関連で何度かステージパフォーマンスも見たことある数少ない日本語ラッパーでもある。ひたすらサンプラーを叩いてバックトラックを作っている様子を撮影した映像がえんえん続いて、何度も何度も録りなおしするところも、そうそう、音楽作るってこうだよなあ、昼も夜もなく、ひたすら同じことばかり何度も何度も、何百回も何千回もこうやって聴いては試してを繰り返して作るんだよなあ…と思いながら、彼らの、ラッパーとしての感覚の生々しさが肌身に感じられて、こういう感じを見ていられるのはとても楽しい。


夜になって、陸上競技アジア大会の百メートル決勝を見る。ついに日本選手の公式九秒台が出たか(追記:桐生 祥秀が2017年に日本人初の公式9秒台を出しています。)と思ったら、何と山県亮太自己ベストタイの十秒フラットで三位。真面目な話、何か目に見えない障壁というか、「別に明確な理由はないけど、けして越えられない壁」というのは、この世に実在するのではないかと思わされるような結果だった。技術開発とか学問や研究とかも、最先端の分野でしのぎを削ってる人々たちだけに見える、あと少しのはずがどうしても越えることの出来ない山の頂きの部分というのが、あるのだろうなあと…。多くの飛行機乗りを犠牲にしてきたスタンレー山脈の魔女が笑うみたいな…。しかし走り終わった選手当人のさっぱりした表情を見たら救われる思いがしたというか、ここまでギリギリに張り詰めた状態で決勝まで残って最後は自己ベストタイで終わるのだからほぼ完璧な積み上げかたであって、後悔の余地などまったく無いだろうとも思うが、でもやはり、悔しいのだろうなあとも思う。そして9秒91で勝利した中国の選手の、スタートからゴールまでの完全無欠な完璧さも凄かった。一番というのは、これほど完璧なものかと…。

2018-08-25

ナムル


いくらなんでも暑過ぎるだろうという事で終日在宅。妻が借りてきたツイン・ピークスのファーストシーズンを延々と観続けている。僕は画面を見るともなくソファーに一日中ぐったりしていた。昼間からモヤシのナムルを肴にしてビールを飲んでいた。こうしてモヤシのナムルを箸で取って口に運ぶとき、ちょっと首を突き出してそれを口で受けようとするとき、ああ僕は、まるで韓国や台湾の映画に登場人物のように、今食べ物を摂取しているぞと思った。先日ホテルの夕食でスープを口に運ぶときとはまるで違う。体の姿勢も受容れようとする口元もまるで違う所作をしている。食卓で背中を丸めて、椀を手に持って、箸を使ってかきこむように口へ運ぶ。それが韓国や台湾などのアジア映画に出てくる食事シーンだ。古い日本映画だと、韓国や台湾映画とはまた少し違う。小津映画でラーメンを食べるシーンは多いが、彼らの背中の丸め方はやはり少し違う、というか古い日本映画で登場人物がもろに食物を口に運ぶシーンはあまり無いのではないか。高峰秀子がブドウを立ったまま食べたり、杉村春子が用意したスイカを皆で食べたりするシーンはあったかもしれないし、飲み会のシーンも多いが、彼らは大抵の場合猪口を口に運ぶだけであとは談笑しているか楽しげに唱和しているか、単に卓上や相手を見つめているだけで、ほとんど食べ物には箸をつけてなかったのではないか。食べるシーンならやはり韓国や台湾の映画という感じがする。食べて、噛んで、飲み込んで、咀嚼しながらもその合間に喋る。箸で相手を指して、やたらと賑やかに喋る。映画だなあと思う。ナムルのモヤシ一本一本はひょろっと長くて、それを箸で掴むと短めの麺のような様子なので、口に運ぶときに、つい体がそれを受け取ろうとする。それはコンソスープとは違う。それは食べ物の違いというよりも、映画の違いだと思う。思い浮かぶ登場人物の仕草の違いだ。

2018-08-24

箱根day2


起床して、みたび温泉へ。雨は止んでいる。しかし風が台風の雰囲気をたっぷりと含んでいる。昨日から度々iPhoneで気圧をチェックしているのだが、箱根湯元から仙石原方面に行くにしたがって気圧が急激に下がっていき、今まで見た事もない930hphを下回る世界へと進んだ。どの程度正確なのかわからないが、標高も700M以上と示されている。山の中にいるのだと思う。台風じゃなくてもこのあたりはこうなのだ。朝食を済ませてチェックアウトして箱根湿性花園へ向かう。この時期のしかもこんな天候の植物園に来るような、もの好きな人は少ない。窓口でチケットを切るおじさんも、なんでこの二人はわざわざこんな日に、と言いたげな訝しげな表情をしている。寂しいというより不気味で恐怖感をおぼえるような雰囲気の、無人の園内を傘を挿しながら周遊する。風の又三郎的な、いやもっと熱帯的な、高速移動する低気圧のもたらすドッドドッドド、ドッドドッドド、というスピーカーを叩いたような風の音と古いシンセサイザーから漏れるノイズのようなシャーっという音が始終響き続けていて、湿地に育つ自分の背丈ほどもある笹やその他の植物たちが、猛烈な勢いで一斉に身をよじるかのように風に煽られて右へ左へありとあらゆる方向へ振り回され続けている。この、普段の天候下であれば地味としか言いようのない人工湿原区域を僕は昔から訪れるのが好きで、妙なことにこの場所を歩いて移動するとき僕はある種の抽象表現主義の絵画を観ているのと同等な感触を身に受けている感じがする。今日の湿原は強い風に吹き曝されて密生する植物たちがあっちを向いたりこっちを向いたりしているのだが、それらはある力が加えられた痕跡をそのまま空間内に残して定着されているようにも見える。単純に言えば、それがある筆触というか筆跡のワンストロークのようでもある。自分の身体に対して平面的な存在感が視覚を通じて距離を縮めてくるときの迫力というか、空間の物質性がそのまま迫ってくるような迫力というか、とにかくそのようなインパクトを見ている気がする。しかも遠景の山の尾根は霧で完全に隠れていて、箱根で天候が良くないとかならず霧が出るが、僕はじつを言うと天候不順の箱根は好きで、なぜなら霧が好きだからである。霧は冗談のように景色の奥行きを消してしまって、今ここの限定された区域だけを問題にする。元々の我々夫婦の天候運の悪さで、ここ十数年のうちに何度か訪れた箱根はそのうちの半数とまでは言わないがそれに近い回数の天候が不順で、おかげでそのたびに霧を充分堪能できたのだったが、今回のように前日から翌日午前中まで延々降り続けてなおも降り止まないのはさすがに珍しい。まあ台風の影響だから仕方ない。せめて真夜中にさっと雲が切れて霧も晴れて、そのときだけ異様にクリアな星空が見えてくれたりしたら言う事ないのだが、今回それはかなわない。それどころか日中なのに薄暗く、ふと見たら幽霊が忽然と立っててもおかしくないような無人の夏草の原野である。気温は二十℃を少し越えるくらいで、冷たい飲み物を摂取したいとは思わない涼しさで、それもまあ快適と言えば快適だが、夏が完全に死に絶えたことの寂しさはある。後の旅程は省くが、今日の箱根はケーブルカーもロープウェイも芦ノ湖遊覧船もすべて運休で、人もまばらで、まるで大きな災害などで避難勧告が発令された後みたいな、ある意味すばらしい景色ばかりでおおむね満足した。夕方には帰宅。気圧も標高も元に戻って、最寄り駅に降り立った途端、何この暑さは!?と誰彼構わず襟首掴んで問いただしたくなるレベルの暑さと湿度に包まれた。東京地方に台風の影響は皆無だったのだろうか。ほんとうにうんざりさせられる暑さ。霧と薄暗い空と雨は、どこへ消えたのか。たったの一泊しただけだが、戻ってきたら間違えて熱帯雨林の国に来てしまったかのようだ。

2018-08-23

箱根day1


DVD返却のためツタヤまで歩いてまた駅に戻る。箱根湯本行きロマンスカーの発車時刻まで、あと一時間ほどある。朝の九時を過ぎたばかりの駅構内は通勤客同士の殺気だった雰囲気がようやく薄れ始めてはいるが、人の行き交いは相変わらず激しく混雑しており、そして暑かった。猛烈な暑さで、今歩いた数十メートルだけで虚脱感につつまれて呆然となった。開店したばかりでがら空きのドーナッツショップに避難して発車時間を待った。窓の外はまさに炎天下の、無音のまま白く燃えているような光の洪水である。


発車時刻となり動き出したロマンスカーは特急とはいえメトロの線路を走っていて窓の外も真っ暗、所要時間も千代田線と一緒である。代々木上原に着く頃ようやく地上に出て旅行らしくなる。本日の朝食兼昼食としてあらかじめ買ったサンドイッチ各種と白ワインの入った保冷水筒を出す。このワイン、自分基準ではけっこう高価なやつである。ふだんなかなか開栓する機会もないし、こんなときなら丁度良かろうとおもって今朝水筒に移し換えて持参した。一口飲んで、え?!となった。まさか、まさか、ついに僕にもそれが当たったのか?ブショネ?傷んでる?もう逝っちゃってる?と思った。そういえば朝、抜いたコルクは下三分の一くらい液体が浸み込んでいて保存状態が危ういようにも思えたのだが、器に注がれた液体は、まず色がウィスキーのような琥珀色と化しており、香りも味わいもなかなか微妙である。複雑といえば聞えが良いが、もはや雑味が勝っていると考えた方がこれはよくないか、しかし飲めたものではないと断言できるほどでもなくて、ますます混乱して悩む。かなり個性的だが、これはこれで、アリかもしれないとも思えなくもない。ヴィンテージは2005年。取り急ぎスマホにて同銘柄を調べたかぎり、やはりというか自然派の生産者で、数年間かけて強烈に熟成させる製法ではあるらしいので、果たしてこれがその成果なのか不幸なる失敗の残滓なのかはわからないが、まあ自然派というのは得てしてこういうもの、リスクを含むもの、自然派ファンならむしろこういうのをこそ喜ぶかもしれないものなど思いを巡らせつつ、最終的に、これはこれと納得した上で大人しく最後までいただくことに決めた。しかし自然派、とくにイタリアのやつが危ない、などというと素人風情がと怒られそうだが、でも今後はもう手を出さないようにしたい。というか自然派に詳しいあの人に飲んでみてほしい、ご意見を聞いてみたい…などと誰かの顔を思い浮かべたりした。


そうこうしているうちに、電車は箱根湯本に到着する直前、気付くと窓ガラスに雨があたりはじめて、やがて驚くような強い雨脚へと変わった。電車全体が水没したかの如くずぶ濡れになっているのが車内からわかった。予報どおり、台風の影響下に近付くようにと、我々が自らわざわざ突き進んでいるのだった。空はどんよりと分厚く雲に覆われ、景色全体がモノトーンになって、あれほど炎天の猛暑だった朝までの時間は、まるで夢だったかのように思われた。


しばらくして雨脚は弱まったものの箱根湯本からバスに乗ってからもずっと雨で、鬱蒼とした木々の下、蛇行する道路をゆっくりとなぞるように走るバスでポーラ美術館へ向かった。企画展はオディロン・ルドンで、正直あまり興味ないけど、まあ観ればそれなりに楽しいだろうとの予想通り、けっこう面白がってじっくりと時間をかけて館内を歩き回ることになった。ルドンの描くキャラクターっぽいモチーフにはほぼ興味ないのだが、何しろこの画家はまず色彩を色彩のままでは済まさずにある種の質を確保させるまでの工程を重ねて強い主張にまで昇華させるかのようで、版画の黒も黒としての存在感を強烈に主張するまで磨き上げられているし、パステルも顔料がほとんど物質的と言いたいくらいの定着で跳ね返すような強靭な発色だし、タブローも一見ゆるい雰囲気だけでまとめてしまうようでありながらも、よくよく見ると外側から厳しく形を攻めていたり、地塗り段階からいきなり中間層を飛ばして花弁としての色飛沫を躍動的に散りばめさせたりと、色々なアイデアで画面を活気付けようとしているのがわかる。色の趣味においても、特徴的な青、紫から橙、黄、赤へとバランス良く配色されているようでありながら、ルドンの場合なぜかあの独特なルドンとしか言いようのない色空間を成立させていて、どのような仕組みが動作しているのか、よくよく見ていると不思議に思われる。受け取りようによっては甘過ぎる印象とも言えるが、異なるアプローチの作品で突然垣間見せる、異様に精緻でシャープな形態把握力が、一見そのまま流れさってしまいそうな甘い画面においてもしっかり歯止めとして効いている感がある。というか形態の出し方についてはこれが同じ画家かと思うほどいくつか異なる捉え方を併せ持つ画家なのだな、と思った。


わりとくたびれてホテルに着いてさっそく温泉へ。雨はまだ降っていて、露天風呂は跳ね返ってくる雨の飛沫のおかげで、じっと湯船に浸かっているのも難しい。これまで訪れたなかでも一番の雨になったと思う。例によって入浴客は少ないのでニホンザルの如くいつまでも裸のまま、雨を避けて立ち昇る湯煙に身を晒していた。


このホテルに来たのは数年ぶりで、しかし食事もいつもの如くで、オードブル後のスープが運ばれるのをみて、先日DVDで観た「永遠の語らい」の船上レストランでの食事シーンを思い出した。各国の女性たちがお喋りに嵩じる中、スープ皿が運ばれてきて、女性たちの話を興味深げな表情で聞いているジョン・マルコヴィッチは、語り続ける相手に視線を合わせたまま、卓上のスプーンを取り上げ、さりげなくスープ皿に浸して口元へ運びつつ、場の話を中断させないようにさりげなく食事をはじめるのだった。あのスープの飲みかた。欧米の人たちの食器の扱い方は、上手下手ではなくて当然の所作という感じで…などと言いながら、ジョン・マルコヴィッチ風の仕草と表情でスープを飲むこの私をやって遊んだ。スープ用のスプーンは小ぶりで底もしっかりと深くて、ことさら意識しなくても、その掬った液体を口に運ぶのは比較的容易でしょう、わざわざ背を丸めて口を突き出すような仕草をする必要はありませんよ、などと向かいの席の相手に説明してあげている箱根のジョン・マルコヴィッチ。…そして、雨は一向に止む気配がない。降水量がすごいことになってやしないか。盛大に降り続く夜の雨を窓ガラス越しに見て水音を聞きながらの食事を終えて、部屋に戻ってふたたび温泉へ。いつものことながらほぼ無人。たまに誰か来る。老人が多い。しばらくすると、すぐ出て行ってしまう。まあ、自分が長風呂過ぎるのだ。タオルに包んだiPhoneでウェブを巡回したりして小一時間ばかり。雨の音はなおも続いている。寝る前にテレビを付けて天気予報を確認する。天候は明日も変わらない見込み。

2018-08-22

クリスタ・ベル


夜の会議はほぼ予想通り長引き、場所もお店に変わる。注文された料理の皿が思いのほか大きかったので、妻に連絡して夕食は取らなくて済みそうと伝える。これで今晩は帰りも遅くなりツイン・ピークスの8枚目を観ないまま就寝になるだろうから、明日返して再度借りなければいけない。それにしてもFBI女性捜査官を演じるクリスタ・ベルが魅力的で、その人が画面に出てくるのが僕は嬉しい。人の話を黙って相槌を打ちながら聞いてるようなシーンばかりだが、それでよろしい。そして明日から夏季休暇だが、いつものことながら引き継ぎ不足の心配感は頭から離れない。とはいえこういうぼんやりとした不安感にも慣れたといえば慣れたが。

2018-08-21

わかれ道


三宅さんが自分の文章に触れてくれているのを読むと、おお…!と嬉しく思う。自分の書いたものは、大抵の場合、これで良いのか悪いのか、自分では判断がつかない。これは書く人なら、おそらく誰でも多かれ少なかれそうだろうと思われる。実現させたいイメージへの希求が強いほど、やればやるほど、むしろわからなくなるようなものだろう。まずはとにかく色々と読んで自分の反応を観察するしかない。


樋口一葉「わかれ道」を読む。当時の書き言葉ではあるが、ある種の好ましいリズム感というか、ノリが感じられる。あ、これいい、と思える導入部をもつように感じられる。たとえば幸田文「流れる」をはじめて読んだときの、あ…と軽く息をのむような感触に似ているとも言える。


わりと調子の良い、軽いノリでテンポよく話が進むので、結末がなおさら切なく、下記のような一節もものがなしく味わい深い。


「あゝ詰らない面白くない、己れは本当に何と言ふのだらう、いろ/\の人がちょつと好い顔を見せて直様つまらない事になつてしまふのだ、傘屋の先のお老婆さんも能い人であつたし、紺屋のお絹さんといふ縮れつ毛の人も可愛がつてくれたのだけれど、お老婆さんは中風で死ぬし、お絹さんはお嫁に行くを厭やがつて裏の井戸へ飛込んでしまつた、お前は不人情で己れを捨てゝ行し、最う何も彼もつまらない、」

2018-08-20

舞姫


森鴎外「舞姫」を読む。まさにロマン小説、悲劇ここにあり…といった感じ。日本の明治時代の小説であるから、日本人とドイツ人がドイツ語でやり取りしていたであろう対話も、当然のことながら日本の書き言葉の当時における優雅な文体に変換されているわけだが、たとえば仮に豊太郎とエリスやその家族との対話がすべてドイツ語で書かれていて、豊太郎と相沢ら日本人との対話のみ日本語で書かれていたら、それは、僕には読めないものになる。もっともこの作品の雅文調の文体でも、ところどころ意味を取りづらいし、注釈も参照するし、少なくとも今の言葉と同じようなスピードと理解度で読解することはできない。ことに日本では明治以前と以降ならびに戦後において大きな書き言葉の制度変更が生じたというのは水村美苗の著作でも詳細に語られていたが、同じ日本語のはずなのに年月を経ることで次第に言葉がわからなくなっていくという事実には、今更ながら驚くし、日本だととくに百何十年前でかなり読みづらいし、旧仮名遣いだってそうだ。もちろん公用語が変わってしまう国家もあるし、英語を積極的に使う、あるいは使わざるを得ない国家もある。書き言葉の使用条件はそれだけ揺らぎのはげしいもので、それは作品を受け取る際の条件の揺らぎでもある。「舞姫」は1890年(明治23年)の作品で、その年号だけ聞くと僕などはなんとなく竹橋の近代美術館の常設フロアを思い浮かべてしまうのだが、ちょうどその頃にフランスで洋画を学んだのが黒田清輝である。森鴎外黒田清輝、人物として後に明治政府から立派な肩書きをもらうところは似ているが、作品に何ら関連性もない。むしろ同世代なのに、近代絵画と近代小説ではこうも違ったか、との思いを持つ。黒田は欧州を移入することに心血を注いだだろうし、森は自らの母国語を欧州フォーマット上で動作させるための変換作業に心血を注いだのだと言えるだろうか。

2018-08-19

ツイン・ピークス


午前中ツタヤに行って、ストッパー外して、スーパーでちょっと買い物してすぐ帰ってくる。「ツイン・ピークス リミテッド・イベント・シリーズ」DVDを観始めたのは正午過ぎからで、とりあえず今日はここまでと鑑賞を終えたときは23時というとんでもないロングラン鑑賞になってしまった。DVDの五枚目つまり十話まで観たので、残るはあと四枚。いちど観始めてしまうとこうなる可能性は高い。しかし十時間もぶっ続けだと最初の方をどうしても思い出せなくなる。思い出せることもあるけど、絶対忘れてしまっただろうなと感じる部分も多い。長いようであっという間でほんとうに十話も観たのかしらと訝しく感じたりもする。画面を観ながら、これまでのすべてが自分の過去の思い出みたいになってくる。前半出てた人が久しぶりに出てくると嬉しく思う。FBIの人たちのパートはおおむね楽しい。リンチ自身が声のでかい、とてもいい感じの役をやってる。FBIの女性捜査官はかなり魅力的だが、あれはクリスタ・ベルというリンチお気に入りの歌手のカメオ出演らしい。


しかし、今更ながら本当に幼稚な、被害妄想をそのまま肥大化させたような、人を見た目だけでこうだと決め付けて、女は常に誘惑的で、男女はすきあらば抱き合うし、悪いやつはどこまでも徹底的に邪悪で芯から腐りきっていて、残虐さや汚わいや不潔やグロテスクが好きで、荒廃した郊外、貧困、治安は最悪で、鬱屈と暴力に魅了されていて、ほんとうにどうしようもない、陰鬱で、意味不明で、煮え切らない笑いと残虐な描写に満ちていて、しかしゆったりとしたテンポで、おだやかに、と言いたいくらいの雰囲気で作品が進んでいく。そして、それを観るのを途中でやめられない。


登場人物たちは、とにかく何かを見ている。人と人、あるいは人とモノとの、切替しの映像をいったい何百回何千回見させられるのかと思うほどだ。何十秒もじーっと、思わせぶりに、何かを感じさせるように、ひたすらそれ。それを見ている表情。またそれ。そこまでやるからには、何かがあるだろうと思うが、とくに何もない。驚愕の表情、しかし本当に驚愕しているのか、かすかに疑いたくなるような何か。妙に間延びした時間、やり取りそのもののぎこちなさ、しかし、やはり何もない。ジーっと二、三人でその場に居て、何か言いたいわけでもなく気まずさに耐えてるわけでもなく、ただの一分くらいの時間がだらーっと出てきたり、そんなシーンがひたすら続く。しかし全体的にはとても親しみやすい、気軽に観ていられるような雰囲気に満ちてもいる。笑うところも多い。しかし、笑ってていいのかと思ってしまいもする。もはや細かい事をくどくど言っても仕方がないような、もはや誰にも止められない突き詰めきったパワーで構築されているのは感じる。これは徹底的であることにおいて比類ないものの一つであることはたしかだ。もはや黙って身をゆだねるしかないという感じだ。

2018-08-18

晩夏?


幸水という梨は美味しい。果実の美味しさの不思議を感じさせる。幸水以外の梨にはあまり興味ない。あまり安くないけど、店頭にあるうちに食べたい。


秋刀魚もそろそろ季節到来だが、一尾四百円とかまだ異常に高い。でも高いうちに無理して一度くらいは食べてみてもいいかもしれない。あれもシーズン中、一度か二度目くらいまでが美味しく思えて、次第に飽きてくるというか、すっかり安くなった頃になると、さんざん食べて今年はもう結構とか思ったりする。


夏は終わったかもしれない。しかし晩夏と言うのか、日差しはそこそこ強い。


郵便局へ行って、帰りに柳原千草園に寄ったら、この時期の植物の、なんと見所のないことかと鼻白む思い。勢いとか精力とかまるで感じさせない、だらっと項垂れるばかりの、色の抜けたような、だらしなく身体の力を抜いた薄緑色の雑殖物たちという感じだ。サルスベリだけが孤独にがんばって華やかさを演じている。園内ほぼ無人、ふだんよく見かける猫もまったくいない。


伊勢志摩の港町には、猫がわんさかいる。いつ行ってもそうだ。東京ではおそらく今や絶滅寸前であろうノラ猫が、かの町にはあちこちにいて、路地の奥や塀の上などに我が物顔で寝そべりたむろしている。適当に歩いていると猫を見かけないことはまずありえない。あのくらい猫の存在が当たり前だと、かの町の人々は猫のことなどまるで気にしてないし、相手にもしてない。天日干しされた魚を狙ってくる猫を追い払うくらいだ。とはいえ、Sの家の飼い猫はふつうに家族で可愛がられているのだが、僕もS宅に滞在中その猫も外をうろついてるノラ猫たちも、とくに何の思いもなく見ては通り過ぎるだけだった。そしてそのくらいの猫への興味の度合いで、昔は普通だったなあと思う。僕の埼玉の実家でも猫を飼っていたのだが、そのときもそうだった。家にいて、それが当たり前なのだ。そのへんを散歩していて、猫がいると立ち止まっていつまでも見ているなんて、昔だったら考えられないようなことだ。でも我々夫婦も含めてそういう人は多い。猫がいるだけで頭を撫でるための順番待ちが出来てたりする(我々はさすがにそこまではしない)。たぶん東京近郊の猫だけが、そんな風に人間から見られて一方的な思いを担わされているのかもしれない。外にいる猫に触りたいとか、追いかけたいとか、本来はものすごく暇で気が向いたときにならするかもしれないという程度のことだろう。でも単に我々夫婦が、その生活として、ものすごく暇で気が向いたときにならするかもしれないことばかり毎日しているということなのかもしれない。そう考えると、それはそれで納得されるものもある。


途中、古本屋で「ドリュウ・ラ・ロシェル―日記1939‐1945」を見つける。かなり迷って、結局買った。いつ読むのかは、わからないが…。


ツタヤで「ツイン・ピークス リミテッド・イベント・シリーズ」DVDを八枚借りる(全八枚だと思いこんでいたのだが、全九枚だった。)。DVDを借りるときは客がセルフサービスで処理するのだが、久々だったこともあり、うっかり処理が一工程抜けてしまった、そのことに帰宅してから気付いた。バーコードをスキャンして、泊数を設定して、現金で支払いして、袋に入れて、そのまま持ち帰ってしまった。つまり、ディスクに付いてる黒いストッパーを外してないのだった。これだとDVDのケースが開けられない。何かに引っ掛けるとか、外す方法がないか試したがダメそうだ。ツタヤに電話したら、もう一度来店しないとダメとのこと。残念ながら鑑賞は明日以降となる。


(もし今日から観ることが出来ていたならば、八枚を二日で観終えてしまっただろうことは、我々の翌日の状況を知る今となっては簡単に予想できるが、このときはまだそう思ってない。)

2018-08-17

川崎


川崎駅周辺に良い店があるのかぜんぜん知らないのだが、待ち合わせがそこになったので仕方がない。しかも金曜の夜なのに集まってから店を探すなんて、その時点で少し投げやりな感じになる。Eさんが入るといっつもそうなる。自分が誘うくせに自分が来れない事も今まで何度かあったし、困った人である。主体性とか決断力とか、まるで感じさせないし、自分で決めないくせに何かはしたいという、いっつもそういう感じで、つい思わず、ぺーんと背中を叩いてちょっとー男でしょーしっかりしなさいよーとか学級委員の女子の口調で言いたくなる。とりあえず先に来たKさんと二人で店を探しにcinecittaの方まで歩く。お店はたくさんあるようだし空席もあるので難民にはならずに済みそう。テラス席が気持ちよさそうな店に入る。なんだか従業員が少なすぎるのか、最初の一杯目が来て以降まるで注文を取りに来なくて、呼んでも来なくて、店内さほど混んでないけど、もしかして店側はかなりパニくってるというか、ちょっと営業が崩壊してる感じだったので、遅れたEが来た時点で店を出る。会計がドリンク二杯分しかないのでレシートを見た従業員がちょっと不思議そうな顔をしていた。まあ、喫茶店で待っていたようなものだ。すぐ近くのまた似たような店に入る。また生牡蠣ですいませんけど、僕が居るとこればっかりになる。何席あるのかやたらとでかい店。来月か再来月に皆で日帰り旅行しようという計画案を練るというのが今夜の会の趣旨。正直、立案メンバーに僕を入れてくれなくてもかまわなかったのだが、というかその旅行、僕は実をいうとさほど乗り気ではないというかちょっと面倒くさいかもとの思いもあるのだが、その場でそういうことは言いづらいので一応前向きな態度を保つ。まあ行ったら行ったでいつものような感じだからいいけど。

2018-08-16

くされたまご


朝の電車はまだ空いている。いつもこうだといいのにね。日本近代短篇小説選 明治篇1の嵯峨の屋おむろ「くされたまご」、明治二十二年。なぜこういうのが、現代の街の景色や行きかう女性を見る視点とあまり変わらないものに感じられるのか、とても不思議だ。主人公の宗教家(キリスト教教師?)女性の、清楚ではっとするような美しさの印象で登場しながら、年下の少年をやや誘惑気味に誘い、知り合いと一緒にダラダラと自堕落な遊びに耽る、スキャンダラスな実態を暴く社会告発的な側面をもつ小説らしいが、百何十年も前に交わされた登場人物たちの様子や会話から立ち上がってくる感触が、日本近代小説の、まだ始まったばかりの手探りの感じも相まってとても生々しい。

2018-08-15

施餓鬼


十時になったので寺へ向かう。施餓鬼供養はじまる。前日とはすこし趣の違った、しかしやはり和太鼓のトライバルなオープニングテーマが奏でられる。別にマイクも何もない生音だが、しかし意外とけっこう音がいいのだ。空間全体に食い込むような乾いた感じの強い中低音で、装飾的な色気はない分ストイックな気持ちよさがある。坊さんが七人編成でお経の合唱、水向け、焼香。水向けするのも何十年ぶりだろうかと思う。夏だな、と思う。20分くらいで終わる。これで波切に訪れて参加すべき予定行事は全部終了した。亮太、よう来たなあ、あんたがここに来れて、それがいちばんの親孝行やぞ、ほんまになあ、あんたほんとうによう来たなあ、ほんとうに良かったわあ、等々、皆さん喜んで下さってなによりであった。お土産に干物と大量のあおさをいただく。もう見た目だけではっきりとわかる、東京のスーパーとか通販で買うあおさとは、まるで質が違う。これは絶対美味いやつだとわかり感激する。もらってばかりいないで、これからはちゃんとお金出して買おう。もっとも出来は季節にも左右されるらしい。二月が狙い目だとか。


12:30の鵜方発に乗りたいのに、切符売り場で僕の前のおばさんが買った切符が違うとか何とかわけのわからないゴネ方をしていて、売り場は一つなので僕の後ろに長蛇の列になってしまい、次が順番だった僕は発車時刻五分を切った時点で気が気ではない。もしこれに乗れなかったならば、四時過ぎに名古屋発の新幹線はキャンセルせざるを得ないが、今日はUターンラッシュのピークで指定席の買い直しなどまず不可能。見えるのは地獄しかないというところまで追い込まれる。ようやく窓口を離れたおばさんの後で猛スピードでチケットを買ってホームまでダッシュする。乗ろうとする電車が丁度ホームへすべりこんできた。ギリギリセーフだったが、ビールも何も買えなかったじゃないか。これから二時間、飲まず食わずだ。あのババア、などと怨みが脳内を渦巻く。とりあえず名古屋は予定通り出発できたが、しかし混んでいる電車はいやだ。何もする気にならない。ただじっとしたまま読書。図書館で借りた日本近代短篇小説選 明治篇1の坪内逍遥「細君」。六時頃に東京着。ちょうど仕事が終わった妻と待ち合わせる。突如生牡蠣を食いたくなって八重洲地下街に寄り道する。どろーっと疲れているが身体の内側だけさっぱりと洗われたような気分になる。しかし明日からまた仕事だなんて信じられないな。

2018-08-14

大念仏


正午を過ぎて新横浜駅発の新幹線で名古屋、そういえば途中で富士山を見るのを忘れてた。近鉄特急で鵜方、四時過ぎに到着。波切の大念仏やってるところまでお願いしますとタクシーの運転手に行き先を告げたら、は?と返される。大念仏知らないのか!と驚いたが、まあ、それが普通かもしれない。たぶん魚市場の傍です、そこまでお願いしますと告げる。現地が見えてきて、車がいっぱい停まっていて、のぼりや灯る提灯が風に揺れているのが見える。ああ、たくさんいますなあ、やってますなあと運転手が言う。


車を降りて、すぐ親戚のKさんを見つける。EさんもNさんも、Sもいる。皆さん揃っている。大念仏をこうして見るのは子供のとき以来だ。遺族としての参加はもちろんはじめて。Sの父親が亡くなったときにも見ているだろうけど、あれはまだ小学生か中学生の頃。大念仏とはこの地域で昔から行われている盆の行事で、その年に故人を送った遺族は、盆踊りのようにやぐらを取り囲んで、唐傘を挿してゆっくりとその場を周回する。やぐらでは和太鼓と金物的な打楽器によるきわめてミニマルでトライバルなリズムパターンが延々と奏でられる。一、二分ごとに、何々家の何々さんのために、とアナウンスされ、また同じリズムが続く。場を周回する遺族が挿す唐傘には周囲にすだれのような薄紙が貼り渡され、傘内側には故人の遺品や記念の物品などが、まるで夜店の商品みたいに糸で括り付けられてぶら下げられている。唐傘を持つ人と、その背後で持つ人の背中を団扇で扇いでいる人、家族ごとに数人単位で、ひたすらぐるぐると回り続けるのである。僕が子供の頃は、夕闇の中を内側からぼおっと光の灯ったいくつもの唐傘がゆっくりと中空を移動し続けているのがいつまでも終わらず、あの頃はその年亡くなった故人の遺族ほとんどが唐傘を持って参加していたのだろうが、最近は唐傘をもついわゆる本念仏の参加者はピーク時の三分の一かそれ以下らしく、回る傘の数もわりと寂しい。かく言う僕も唐傘は持たない所謂送り念仏での参加であり、この場所に来ることが早い段階でわかっていたならあるいは本念仏参加もあっただろうが、直前まで都合の調整が必要だったこともあり今回のかたちとなった。


空が夕暮れから夜へ移る合間の頃になって二時間近く続いた念仏は終了。世話人のNさんに挨拶して、皆さんに御礼を言って、本日宿泊させていただくSの家へ。たまたま帰省した長男のTさんご夫妻にも久々にお会いする。あらかじめ送付しておいた幾つかの酒で飲み会となる。前にも何度か書いたがこの家の三兄弟に幼少時の僕は多大な影響を受けており、こういった場で彼らの話を聞いているのはまさに自分のルーツを遡るような体験で、ことに酔いが回ってきて喋りが加速し始めたときの彼らのものの言い方や論理の取り回し方や結論のつけ方など、ああそうなのだ、こういう感じ、これこそが坂中家だと実感されるようなものだ。要するにけっこう理屈っぽくてややペシミスティックで韜晦的な、半笑い、皮肉、メタ視点、しかし語ること自体への熱は持続されている、そんな如何にもな自己顕示欲の発露のさせ方、つまり性格悪くてさっぱりしたところが少ない…とここまで書くと悪く言いすぎで、こういう説明の仕方になってしまうところがある種の「症状」なのだろうが、でもそうなんだよねえ、これが自分の基盤にあるのねと納得する。


それにしてもTさんも見た目は若く見えるけどたしか僕より六つ年上だし、会社でも偉くなってしまって、社会的地位も充分に立派な人と言って差し支えない感じだが、この人が高校とか大学時代に作っていたSF同人誌とか、ハインライン「宇宙の戦士」のパワードスーツを模して描いたイラストに、当時小学生だった僕がどれほどの衝撃を受けたかというのは計り知れない。もちろん所謂「ぬえ版パワードスーツ」(wikipedia)の強い影響下にあった絵だけど、当時の自分にとってはTさんの絵の方がよほど強烈なショックだった。八十年代というとき、チラシの裏でもノートの1ページでも、とにかくそこに、パワードスーツでもエイリアンでも美少女でも何でも描き込まれている、しかも非常に大雑把に、しかし素早く、ぎっしりと詰め込まれていて、それは単なる収納であり参照用のリンクであり、それらの渾然となった様が何かを象徴することもなく、大量の文庫本に作家ごとの統一感もない。「Dr.スランプ」の人々はペンギン村に暮らしていたが、あの村のはずれには砂漠が広がっていたのではなかっただろうか。彼らのうちのある者は砂漠をスターウォーズのスピーダーバイクでやって来た。どのくらいの距離を移動したのかわからないが、僕もそのような砂漠地帯で、砂漠の真ん中にぽつんとあるカフェのような場所で生活したかった。そういうライフスタイルの予感というか憧れというか、いずれそうなるという期待のような心のありかたが、すなわち八十年代ということであった。


今、Tさんが取り組んでいる仕事について色々と聞いた。立派な会社の立派な人が大きなやりがいのある仕事をしているという感じで、はー…すごいなあとこちらは感心するばかりだが、それにしても年月を経て、こんな時間の流れをたどることになったとは、まったく驚くべきことだなあと、自分は性懲りもなくひたすら過去と現在を行き来しながら感慨をあらたにしている。話しているTさんを見ていて、何の脈絡もなく唐突に、たぶんきっとこの人、現政権支持なんだろうなあとか思う。(根拠全く無し、こちらの勝手な推測。)論理とか合理とか機械化とか整理とか工学的な要素だけで考えた場合、それはそれで、仕方ないことなのかもしれないな、とか思う。少なくとも論理性の完遂=幸福を信仰できるならば、なあ。


深夜、やがてTさんもSも眠ってしまって、なぜかTさんの奥さんが起きてきて、奥さんと僕と二人で延々お喋りとなった。三兄弟、それぞれの妻たち。この人たちとも近年ずいぶん話す機会が増えた。Tさんが結婚したのは二十五年以上前のはずで、しかし結婚後もこの奥さんとこれだけたくさん話をした記憶はまったくない。まったく、気が遠くなるようなことだと思う。妻が話す夫についてというのは、その夫が自分の身内だとか親戚だとかだと、間接的に自分のことを言われているような感じがするというか、そこまで行かなくても、ほんの少しずれた世界なら自分に該当するのかもしれない言葉を他人のものとして聞いているような不思議さがある。お盆の帰省先でしか会うことのない親戚の奥さんの話、という距離感もまた絶妙。時計を見たら三時を過ぎていて、そろそろ寝ましょうか、となった。

2018-08-13

過ごす


日中は強く雨が降っていたらしいが、いつものことながら会社を出る頃はすでに夜の手前なので、その日の天気がどのように展開したから今の路面や空の様子がこうなのかがわからない。時計が進むのはわかるというだけだ。日中ずっと室内で仕事をしているのは、日中ずっと寝ているのと同じようなものだ。それでもまあ、日中ずっと天気の様子を見続けるのも、それなりにつらいことだというのもわかる。まあ、どちらにしても、楽ではないのだ。

2018-08-12

死ぬ三本


オリヴェイラ永遠の語らい」をDVDで。船旅の映画。波止場で白いハンカチを振って出航を見送る人々。ポルトガル人で歴史学者の母親と七歳の娘。景色を見ながら遥か昔の歴史や神話のお話をしている。海原に浮かぶ客船。舳先が波を切る。寄航先で港に横付けされて、タラップが下ろされる。階段を下りて下船する乗客たち。高級車を降りて乗船する乗客。握手を求められ、サインをねだられる有名人。歴史学者の母親は若くてうつくしい。マルセイユの魚市場、ギリシャの遺跡、エジプトのスフィンクスとピラミッドが一望できるあのテラス席は、地球上でもっとも最高級の景観を誇る二人掛けテーブルではないだろうか。地中海から紅海へ巡る船旅。たぶん人としてこの世界に生まれてきて、これを知っているのと知ってないのとで、何かが違うのだと思わされる景色たちである。でも、そう思う一方で、これらぜんぶ、僕に関係ないことだなーとも思っている。後半の会食シーンでは、船長と三人の女性たちがテーブルを囲む。フランス人、イタリア人、ギリシャ人、アメリカ人が、それぞれ自分らの母国語で会話し合う有名なシーンである。自らの母国語つまり自分に親しい、自分のもっとも自然に使える言語をお互い使いながら、同時に相手の言葉も理解できている。歴史学者の母親と娘が、そのテーブルに招かれる。母親は娘とはギリシャ語で話をしているが、フランス語と英語もできる。しかしギリシャ語はわからない。三人の女性たちもポルトガル語はわからない。ブラジル滞在暦のある船長だけはポルトガル語をかろうじて解するが、場の会話は英語となる。やがて促されたギリシャ人の歌手は、立ち上がってレストランをゆっくりと歩き回りながら、アカペラで故郷のうたを朗々とうたう。うつくしくて素晴らしかったあの昔はどこへ行ったの?というような内容の歌。ラストも有名だが、船はテロリストの仕掛けた時限爆弾によって破壊される。逃げ遅れたポルトガル人親子の様子を驚きの表情で見る船長の顔。


成瀬「乱れる」をDVDで。観たのは十数年ぶり二度目。これは僕の中で、成瀬作品の中でもことに衝撃を受けた記憶があり、それゆえ二度目を観るのが何かためらわれる思いではあった。観てみると、そうか、うーん。たしかに凄いが、作品としては「乱れ雲」の方が良いかもしれないとも思った。ただし加山雄三は、「乱れ雲」も素晴らしいが「乱れる」の方がさらに高みの達していると思った。加山雄三という俳優に可能と思われる魅力のほぼ全てが出し切れているのではないかと思う。高峰秀子の前でちょっとふざけたり軽口を叩いたり酔っ払って電話をかけてきたり、あの手の甘ったれた若い男の魅力が全開で完璧すぎる。男の主人公にとって都合の良いヒロイン像というのはたくさんあるだろうけど、よろめき葛藤する女にとって都合の良い男脇役の、これは最高峰だと思う。しかし二度目に観た「乱れる」が一度目と較べて衝撃度が少ないのは当たり前かもしれない。なぜなら山梨へ向かう二人の汽車旅の途中、高峰秀子が、あの台詞を言うということを、すでにわかって観ているからだ。あれをはじめて観たときは、ほんとうに驚いたというか、その展開に驚いたのではなくて(展開ははじめからある程度予想がつく)、じっと座って加山の寝顔を見ている高峰の、その表情というか、覚悟とか決意のようなもののあらわれかたにうたれるのだ。あれはある意味、ラストシーンよりも衝撃である。というか、あの衝撃とラストシーンの高峰の顔。あの二つの顔は、対になっているのだ。こうして書いていると、やっぱりとてつもない傑作じゃないかとの思いが沸き起こってくる。


ルイ・マル「鬼火」をDVDで。はじめて観た。当時のパリの街並みのロケ撮影がすごくて、おお、、と思いながら観てしまう。…「乱れる」を観ているときも思ったけど、もう年齢が若くないから、いや自分自身も相応に、細かくずる賢くやってきたからかもしれないが、たとえば未亡人である高峰が夫の実家から円満に出て行くことを期待してる姉や母親たちとか、それなりに悪役っぽい演出なので、昔なら観ていて苛立ったりムカついたりしただろうけど、今だと、まあそりゃそうかもな、無理もないわなあとか、政治的にどのあたりが最善の妥協点かなとか、そんなことの方が気になってしまうし、「鬼火」主人公演じるモーリス・ロネを取り巻く幾人もの知り合い、友人たちについても、彼ら一人一人はまるで悪意なく善意の第三者ばかりで、その存在自体に何の瑕疵もない。この主人公の苦悩はあたえられた条件をすべて受容れられないことにあって、政治や調停によって自らを世界に歩み寄らせることそのものを拒否しており、世界そのものを否定していて…浅墓かもしれないが、まず思い浮かぶのは太宰とか織田作とか無頼派みたいなメンタリティだが、こういうのは戦後間もない時代に特有のものなのだろうか。逆に今の時代だと、あまり観られることのない、観る意義を感じにくい作品ではないかと思う。むしろ今の時代に、こういう感じでいられる(苦しみに耐え続ける)ことは貴重だと思う。


今日観た三本、ぜんぶ最後に人が死ぬ映画だった…。

2018-08-11


北千住駅から図書館まで歩く途中、住宅地を抜けていくとき、たまに路地の奥にネコがいることがあって、そういうときはこちらも立ち止まってネコをじっと見つめて、ネコの方もこちらをじっと見つめて、双方にらみ合いの膠着状態になることも多く、この前もかなり長時間、しつこくにらみ合いを続けていた。で、ふと背後に何か気配を感じたので、その方向を振り返ると、宅急便のトラックがゆっくりと僕らの前に近付いてきていて、運転しているお兄さんがしきりに手を「すいません!すいません!」の拝むしぐさでこちらに向けている。あ、あっと思って端に寄ったら、トラックはゆっくりとその路地へ入っていった。つまり僕たちがトラックの進行方向を邪魔していたのだが、おそらく僕らは、わりと長々その場に立ち止まっていたはずなので、つまりその間、あの運転手の人はクラクションも鳴らさず声も出さず、トラックのエンジン音もことさら上げることなく、こちらが自分に気付くのを待っていたのだと思われ、それは、ものすごく心の優しい人だと思った。仕事中で忙しいだろうに、我々のような見るからに無目的な二人を、音も立てずにわざわざ待つだなんて、どれだけ心優しくて余裕をもった人格なのかと思って、遠ざかるトラックを見ながらしばし呆然とした。

2018-08-10

発砲


刑事が部下に指示する。しばらく泳がせろ、部下ははり込む。自分は何もしらず、いつものように横浜駅西口へ。人混みを縫って歩いて、いつものジムへ行く。いつものように汗を流す。というか、泳ぐ。背中に押し付けられる銃口の先。金魚すくいの網がやぶけて、中学生男子の夢やぶれて、金曜日夜の夜は更けて、グラス内の発泡が、ふつふつと沸いては消える。