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Ryota Sakanaka
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2017-02-22

きょうの料理


今後の食事は、どうするのか。


今の、かなり節制気味な摂取量を、今後も続けるのか。


まじか。


まあ、、いいけど。


三合以上、飲酒する日を週に三日以内とする。そして、一日の飲酒量一合以下あるいはまったく飲酒しない日を週に三日程度。


そして「お茶の日」を制定する。上記三日のうちから割り当てる。


腕に装着している活動量計測機が、前提として、あまり正確にカロリー消費を検知していない、と思われる。検知の根拠がよくわからない。あくまでも参考というか、その嗜好性および傾向性を考慮した上で使うしかないかなと感じている。


30分歩く

30分泳ぐ

この二つを、ほぼ同等評価、か、泳ぐ方を若干高評価される。もっと高評価すべきではないかと感じるが。

しかし


60分歩いただけでは、前者に劣ることが最近判明した。なぜだ。そのロジックが謎。


とりあえず、いまのツールで活動量計測を継続するなら、水泳はするべき。


でも深夜残業発生日などの活動量を、いかに確保するのか。これはこれで考える。


ロギングツールを、もっと高スペックな製品に替えるか?という考えもある。misfit shineは、水泳で泳いだ距離を記録するにはすごく便利なので、記録にだけ使って、運動量計測は別の計り方も検討してもいいかも。


結局、何を評価するのか?は、活動量ツールの仕組みに因るみたいだ。というか、体重計だってそうだ。横浜のジムに設置してあるやつと地元のジムに設置してあるやつと自宅のやつと、合計三つの体重計で体重を計ってることになるが、横浜と地元は同じ系列のジムなのに、体重計は自宅用よりももっと大きくて性能も同等なのだろうけれども、それぞれ別メーカーの別機種が設置されている。ジムのやつも自宅のやつも体脂肪からBMIまで表示するやつだが、計ると、それぞれかなり体重計自体の個体差がある、としか思えない。


自分の体重が日々微量で前後するのは当然だが、定点観測してると基準自体が違うのがわかる。横浜はちょっと軽めに表示して、地元と自宅のはちょっと重めに表示してる感じだ。増減をグラフ化すると折れ線の様子は一緒なので、初期セッティングの差、というか初期状態での差異かもしれない。結局どれが正確なのかはわからないので、三つの数値から浮かび上がるぼやっとした中間的な値を、大体の値と見なしている。まあ、正確な値よりも推移の方を気にするので、値それ自体はどうでもいい。絶対に越えなければいけない目標ラインがあるわけでもないので。


ただし、運動量計測だと、さすがに一日あたりの目標量はなるべく正確に設定できた方がいいような気はする。それにやはり、かなりの心拍数向上をともなった運動とかなら、それなりにカロリー消費が行われたものと見なしてほしいように思う。せめて有酸素的なトライアルか無酸素的かの評価だけでもやってほしいのだが、そういうのって難しいのか?睡眠時間の計測もそうだ。浅い/深いだけでは分析対象としてはやや物足りない気がする。


あとは、摂取量のロギングだが、これは当初からとくにやろうと思ってなかったし、今も乗り気ではないし、ツールに期待もしてない。要するに食べ物の写真を撮る→DBに問い合せてカロリー等のデータを取得→個人データを必要に応じて編集、という流れなのかと思うが、けっこう面倒くさい。まあ始めたらそれなりに面白いかもしれないが、正確な入力は自動ではほぼ無理じゃないの?という気がしてならない。でもinとout双方やるのが一番だというのはわかる。やってもいいかな、という気も、書きながら考えてたら、今急にしてきた。良いツールがあれば。それ次第というところだ。


こんなことを続けていて、何がしたいのか?どこへ向かおうとしているのか、について、最近よく考えている。べつに、すばらしいボディを手に入れたいわけでもないし、何をどうしたいわけでもない。ただ、なんとなく、乗りかかった船の勢いが、まだ続いているだけだ。でも、去年までのように、あればあっただけ、欲望のままに飲み食いする毎日を続けることは、どうやらできないみたいだということはわかったので、だからそれへの対策だろうな、とは思う。


しかし、その対策をして、だから何だというのか。それで、健康状態を維持して、それが一体何になるのか。長生きが、できるというのか。仮にそうだとして、長生きすることのどこに価値を置くのか。


80歳や90歳まで生きるのは当たり前の世の中になってきた。だからそのへんまで生きる、生きたい、ということなのかな。いや、まじか。そこまでするか?60歳だと短い、70歳でも、まだ若いかね。そうなのかな。どうなの?


人って、年齢を生きるわけではないよね。むしろ、飲みたいだけ飲んで食いたいだけ食ってもいいのだろうね。


Eさんが言ってた言葉。「そういえばさあ、去年の秋頃、なんとなく背中のへんが鈍く痛くなったことがあって、今はぜんぜん治っちゃったけども、あれってもし今も同じように飲み食いしてたら、きっと今も痛いだろうなあと思う。何が痛かったのか、よくわからないけど。」


「あのままもう二年も三年も飲んだら、そのまま何かの病気になるのかもしれない。」


檀一雄の晩年、うろおぼえで、ちょっと嘘というあk思い違いもあるかもしれないけれども、たしか最期は肝臓がやばくて、雑誌の撮影のために記者の前でワイン飲んで笑ってポーズして、記者が帰ったら、身体が痛くて立ってられないくらいで、…だったらしい。それと同じようになったかもしれないな。自分の肝臓をフォアグラにしちゃって。


でも、仮に自分もそうなったとして、あえて不遜を承知で言えば、それって不幸なのかな?とも思う。それで、死んでも、ぜんぜんいいじゃんと。


じゃあ、どんな死に方なら、満足なのか?老衰で往生なら最高なのか?それって本当なの?


むしろ、食べて飲んで死ぬなら、いいよね。でも最初にそれがわかって飲み食いできるかと言うと、それは難しいっていう話なのだろうかね。


まあ、いいか。

2017-02-20

春前


今日は、プールは空いてたし、更衣室も空いていたけど、ロビーはやたら人がいた。なんなのか、よくわからない。すぐ施設を出たら、雨はやんでた。風は、かなりある。そのまま駅まで歩いた。ホームで電車を待つ間、ペットボトルの水をぐいぐい飲んだ。寒いといえば寒いかもしれない、しかし真冬ではないくらいの気温。電車のダイヤは大幅に混乱していた。明日からまた、気温下がるらしい。気温が高まってくると、ああ、冬も良かったなあ、極寒のなかで、うろうろしたり酒のんだりするのは、楽しいよなあとか思うので、季節がいつまでも冬のままなら、それはそれでいいかも、とも思うのだが、でもやっぱり暖かくなってほしいというか、暖かくなるというのは、それ自体で、ひとつの恩寵というか、ひとつの救いではある。人類の幸福、的な数少ないイベントのひとつではあるだろう。


土曜日に、二重橋前の美術館で「ナビ派展」を観た。2010年のオルセー展に来てた作品の一部が再来日しているという感の展覧会だが、ボナール、ヴュイヤールはやはりすばらしく、正直あまりナビ派というカテゴリーに歴史考察的側面を除けば今更意味があるのか疑問なのだが、とりあえず良いものは良い。山田正亮のあとだから、目がそれとのつながりを見たくなってしまう。画面があって、絵の具が置かれる。置かれる箇所は、イメージをあらわしているし、物質というか存在をあらわし、光をあらわしてもいる。しかし同時にそれが、絵の具そのものであることをも主張する。絵の具としての質感と色だ。


まあ、また時間のあるときに書きましょう。

2017-02-18

マタギ


図書館で、なんとなく柳田國男の「山の人生」を手にとって読んでいた。最初のほうに、八郎潟の八郎の話が出てくるけれども、それで、ぼんやりと子供の頃に読んだ「八郎」という絵本を思い出した。ああ、あったなあ。あの本、子供の頃、あれ、嫌いだったな、と思った。「八郎」と、あの「三コ」。どちらも、嫌いだった。蛇蝎のごとく嫌ったと云っても良い。あの二冊は、本棚のどこにしまうか、いつも考えたものだ。本棚で、それらと隣り合う本が可哀想なので、できるだけ端の方の、どうでもいいような本に紛れて置いておくようにしているくらいだった。


何十年ぶりに思い出して、しかしその場で、スマホで検索してしまうと、そんな本くらい、平気で情報として出てきてしまうからすごい。子供の思い出とか、そんなんじゃないね。昨日の出来事と変わらない。情報によれば、「八郎」も「三コ」も、作者は斎藤隆介。そうか「ベロ出しチョンマ」もこの作者か。まあ、自己犠牲的なやつで、などというと酷い説明だが、そういう、いわば僕らの世代の、昔の絵本だな。


要するに滝平二郎の絵が、子供の頃は、すごく嫌いだったのだ。絵というか版画だ。こういう感じが、理屈じゃなくて嫌だった。おかげで、木版的なもの全般が、嫌いだったかもしれない。なんなの?この、如何にもなヘタウマ的な味わいを楽しもうみたいな、朴訥さ、愚鈍さ、大雑把さ、鷹揚さを、無条件、無批判に、美徳と決め付けて何の不安もなく平然としていられるような図太さ、図々しさは、こんなの、ぜったいに耐えられないな、と、当時の自分の気持ちを、今の自分が代弁してあげるとすれば、大体そんな感じだろう。今でも、その感覚はまだ身体の中に残っているような気もするが、でも、今はもう、嫌いとか好きとか、そういう視点では受け取ることができなくなっている。というか「八郎」も「三コ」も、今読んだらけっこういいんじゃないかという気がする。絵も含めてそう思う。それはすでに、あらかじめ動作するようになっている別の感覚機能が、そう感じさせるのだろう。


というか「山の人生」である。ある意味、むしろいきなりこれを、小学生のときから読めば良かったのだ。ぜったいに、読めなかったと思うけど。すべての語句が、少なくとも小学生には、何の理解にも至らないだろうし、あまりにも、難しすぎる。たぶんニュアンス的にさえ理解することさえ出来ないと思われるのは、「**の人生」が、この世界の下に複数あり、自分と「秋田の山村のマタギ」が、共に存在するというイメージを具体的に掴む、というか、マタギの存在すること、その気配を感じる、というところだ。きっと、どうしてもわからない。それこそを、わかりたいのだが。

2017-02-17

浄化


なんだかんだ言って体重は先週くらいからついに当初の目標を下回った。すごい。五年前とほぼ変わらないところまで来た。自分の実感としても、とくに上半身が軽くなったような気がする。階段は意図的に駆け足で上り下りしたりするが、やはり身体が軽く疲労感も快感がある。このままの状態を維持できたら一番だが、たぶん難しいだろう。でも少なくとも4月くらいまでは維持したい。そして、そのあと実は、献血をやってみようと思っている。いま自分は、献血に目をつけているのだ。まったくのオカルトであり根拠一切なしの思い込みなのだが、献血によって血液を浄化させることができるのではないかと考えているのだ。ちょっとだけ入れ替え。ぜったいに効果ありそう。なぜか、そうとしか思えない。しかし、身体に針を刺すのはおそろしい。健康診断の採血にすら、かなり慄いているのに、献血なんて何百CC抜かれると思ってるのか。そんな恐ろしいことが、この僕にできるはずがないのだ、本来なら。でも、今はちょっと、一日の始終ドーパミンが出てて馬鹿な人に近くなっているので、この勢いで献血行為も一回体験してしまいたいという気持ちもある。春のアヴァンチュール。いや、献血はぜったいに、何かあるような気がする。そういうわけで、社会貢献精神含有率0%、自分都合な理由100%で近日中、まあ春以降で計画しているのです。

2017-02-16

皿の上


今日、猟師さんが店に持ってきてくれた、鹿のすごく新鮮な状態の内蔵がある、とのことでそれをオーダーした。白い皿の上、赤褐色というより赤黒い、こんもりとした塊だった。ハツと、レバーと、あとどこかとどこか、忘れたけど全五種類くらい。表面の様子が、まさに焼き上がった直後の感じ。非常にシンプルに、塩と胡椒だけでローストされたもの。脇にイタリアンパセリとオリーブオイルとハーブなど調合した複雑な香りと味わいのマスタードが添えてある。もし間違えると口の中を切るくらい切れ味の鋭いナイフを肉にあてると、濃い赤ワインのような液体が溢れ出す。まさに血のソースだ。白い皿の上に鮮やか過ぎて、思わずちょっと引いてしまうような色。熱の香ばしさと、血と肉だった。どこまでも原始的な営みだからこそ、ワインを添える。ワインを、がぶがぶと飲むのだ。皿の上の、さっきまで生きていたものへ。


どうやって、店まで運ばれてきたのだろうか?店の人に聞けばよかった。血まみれで、袋に入ってるのだろうか。箱などに入れられて、ドライアイスかなんかで冷やされた状態で、急いで納品されるのだろうか。だから、たぶんきっと、その数時間前とか十数時間前に、殺されたのだ。殺されて、捌かれた。皮を剥がれて、ナイフの切り込みが入って、湯気を上らせながら、内臓も肉も、手際よく部位ごとに切り分けられていったのか。


その少し前に、撃たれたのか。倒れて、地面に伏した。撃たれたとき、カッと目を見開いただろうか。焼けるようで、やられた!と思って、その場所が、今という時間が、取り返しの付かないようになったのを感じた。瞬時に身体の半分くらい、無くなったみたいだった。地面の方が近付いてきた。土が冷たい。土の匂い。子供の頃に嗅いだ匂いだ。色々とありましたけれども、今日、ついに殺されました。どうぞ食べるがいい。召し上がって下さい。あなたが私を食べているのがわかる。ここが、あなたの口の中ですか。やわらかい滑りと生暖かさに包まれているのがわかる。しだいにこまかくばらばらにされながら、あなたの歯が噛み、舌がうごめき、喉が飲み込もうとするのがわかる。こうして、いつまで感じていればいいのか。いつか、意識を失うかしら。眠りに落ちるようにして、私の、生きることが終わるかしら。

2017-02-15

濱口作品


濱口竜介作品「ハッピーアワー」「親密さ」「PASSION」が先日、日本映画専門チャンネルで続けて放映されたのを録画してあって、どの作品も長いので少しずつ観ている。「ハッピーアワー」と「親密さ」は去年公開時に見て以来の、これで二度目の鑑賞で、「PASSION」は初見。


人間同士は、その関係において、揉め事、問題、トラブルを起こす。そして、これらの映画は人間同士の揉め事、問題、トラブルが発生して、はじめてその世界が生まれたと思いたいくらいの世界が構築されていると言える。


人間なら誰でも人と意見が合わなかったり色々あるのは当然だが、これらの映画では、その揉め事の部分だけを切り取ってきて、無理やり一本の話につなぎ合わせたかのような印象すら感じられる。


その唐突さというか、抽象性というか、世界を成立させるための、あからさまと言っても良いような出来事の連鎖やつながりに具合に、今回観なおしてみてある種の違和感を一番感じたのが「ハッピーアワー」だ。一年ぶりに観て、こんなにイビツな話だったっけ?といまさら驚いてしまった。


ただし、おそらくそのイビツさは意図的に仕掛けられたものだろうと観ながら感じている。画面上での登場人物たちを観ていて、こういう感覚はやはりあまり感じたことの無いものだな、とは思う。


映画の登場人物に共感するとか、感情移入するとか、そういうのは一体どういう心の動きなのかと、今更のように不思議になる。


「役者が演技している」という事を知らずに映画を観ている人はきわめて少ないわけで、ほとんどの人が、それを演技だと知っている。にも関わらず、共感したり感情移入するというのは、少なくともそのときだけ、観客は「役者が演技している」様子を見ているわけではなくて、別の何かを見ているのだろうが、「ハッピーアワー」の役者たちはその意味で、観客に従来の意味での共感や感情移入を許してくれないようなところがある。


ただ、それは演技が稚拙だから、それによってスムーズな共感に進めないからではない。演技の巧拙は関係ないというか、おそらく演技の巧拙など、わからないというか、判断できない。


そうではなく「ハッピーアワー」の世界は、何かもっと図々しいのだ。イビツさをそのままに、これをそのまま受け入れろと強制するような何かがあるのだ。


それぞれの問題や悩みをかかえた女性の友達同士四人が、それぞれの自分の考えに基づいて、今の場所を良しとせずに変化していくような話だ。


ディベート劇と言いたいような側面もある。とにかくどの人物も喋る。理屈っぽいわけではないのだが、曖昧なものをそのまま受け流すようなところが極端に少ない。とにかくやたらと生真面目なのだ。人物それぞれ個性もばらばらに色づけされているが、生真面目さは全員共通するし、物事の捉え方や進め方なども判で押したように一緒な感じだ。そういうところも、すごく抽象的。二回観るとはっきり感じるけど、この関係というか、この人たちで成り立ってる世界全体、現実っぽい自然さがあるようでいて、ほとんど無い。お悩み相談室の再現VTRの、デラックス版とさえ言えるかもしれない。


というか、おそらくは本気で作られた、お悩み問題再現VTRなのだ。本気、というのは何かというと、お悩みという一般化されていて共有されきったある種の問題のかたちをした形骸を、演技する生身の役者を使って、本来ならきわめて結果の見えにくい、予測のできない方法によって試す、というようなことで、いわばおそろしくありきたりなことをおそろしく不安定な方法で再現するというようなことになり、するとそこに不思議と、映画というものがもつ固有の魔力が、それら全体を包んでいるようにも思えて、たぶん「ハッピーアワー」という作品の強さはそこにあるのではとも思う。


ただし自分としては「ハッピーアワー」は二度目で少し印象が変わった。最初に思ったほどの作品では、なかったかも、という感じ。前述と矛盾するようだが、やっぱり物語がやや暗くてありきたりすぎるというか、これだとあまりにも演技者の演技しか観る物がない感じになってしまう気がした。


逆に初見で「これは…」と思わなくもなかった「親密さ」だが、こっちは二度目の鑑賞で一度目よりも良いものに感じられた。やはり大きな物語の枠として、近隣国の戦争とそれに世相が影響されていく過程が色濃く描かれているのが大きいと思う。この(捉え方によっては、なんとも薄っぺらい効果にしかならないかもしれないような)設定が、四時間掛けて繰り返される登場人物=役者たちの、生々しさと生硬さの強烈な融合とも言うべき振る舞いと不思議な融合をみせて、とても独特な味わいを残す。


「親密さ」の登場人物たちも、あきれるほど見事なまでに、生真面目というか性格に遊びがないというか、それでいてけっこう感情的だし、自己陶酔的だし、とにかく単なる若くて痛い人たちばかりで、その登場人物たちによって演じられる劇中劇も、やはりまたどこかの若者たちの、どうしようもなく色々上手くいかないことで、それらが入れ子状態になって、やはりゴツゴツとした演技実験のような、自然さと不自然さの中間地帯の緊張感を維持し続けつつ進むのだが、しかしそれらを、流れていく時間が大きく包んでいって、それぞれがやがて、関係も個人の固執も思いも希望も、それぞれほどけてばらばらになって、たぶん消えてしまうという、そのことが最後にいたって、危険なまでの肯定感で描き出されているように感じられた。いやもちろん、「俺はたしかにそれを見ていた、それをおぼえている」というメッセージは伝わってくるのだが、でもそれは二人の思い出的な小さな枠の中で儚いがゆえにキレイなのであって、これ、結論としては、ある意味最悪なのに、なんだろうこのキレイな終わり方は、このビシッと決まって終われた感じは、いったい何だろうと感じながら、たぶん「まあ、こういうもんだよな。人なんて、こうだよね。」という反動的納得感が、自分の中に強かったからだと思うが、ここにはやはり、ある種の感動はあると思った。


そして先ほど、京都発、三宅さんの動画を見た。・・ああ、神々の姿だ…。思わず笑ったが、声の響いている空間の気配というか、その場の匂いのようなものが感じ取れるように思えて、何度かくり返し見た。

2017-02-14

Carre de chocolat


バレンタインデーのチョコレートはどれもこれも総じて甘すぎる。昨今は高カカオ製品が流行していて、僕も最近は、Carre de chocolat。これを午前に一枚(4.8g)、午後に一枚か二枚、食べる。カカオ70%と88%と二つ机上に置いてあって、その都度、どちらかを選んで手に取る。透明なガラス容器の中で、チョコレートが次第に内側にへばりついて、攪拌されるごとにどろりとしたかたまりが横へ横へと広がって擦れて溶けていく。今、体内がチョコレートの色に染まっている。それは便器の中の大便と見分けがつかない。個室で、水の流れを見下ろしている。外で女の声が聞こえる。「必要以上に、何かに対して、あれやだこれやだって言うのも、それはそれで何かに囚われてるのよ。でもそれが悪いわけじゃないけど。やっぱり、何かには囚われてるのよ。」

2017-02-13

電話認証


女性の声でプッシュキーに自動応答する音声ガイドにしたがい、肩に受話器を挟んで電話を操作した。音声が途切れて呼び出し音が鳴ったあと、別の声の女性が話し始めた。自動音声の続きかそうでないのか一瞬わからなくて、しばらく黙っていた。やや沈黙の後、向こうが困ってるような様子が感じ取れたので「すいません。認証をしたいのですが…」と話した。話す自分の声が、思ったよりもぼそぼそと歯切れが悪かった。先方は「はい、かしこまりました。」と応えた。人間だった。人間のオペレーターとやり取りするとは思ってなかった。画面にインストールIDが表示されてるかを聞かれて、表示されてない、どのように表示させるのかわからない、と応えた。方法を教わり、現れた50文字以上もある長い番号を口頭で伝えた。この製品はどのような形態でのご購入でしょうか、と聞かれて、形態はわかりませんと応えた。どのようにご購入されたかわかりませんか。と聞かれて、購入は私じゃなくて会社なんです。管轄部署の管理下なので、購入形態とか、ちょっとわからないんですが、と答えた。ほんとうは調べればわかることなのだが、面倒くさかったのでそう答えた。また少し間が空いた後、ではとりあえずこちらで確認して、再度電話しましょうか、と言うと、あ、それではこのあと、もう一度お電話いただいたら、番号の1、2と進んで、そのまま自動音声にしたがってインストールIDを入力してください。運がよければ、そのまま確認IDが表示されますが、そうでなければ、またオペレーターにつながります。ひとまず、その方法でお試しいただけますか。と案内されたので、はい。わかりました。1、2ですね。と言って、どうもありがとうございました。と言って終話した。運が良ければ、というのは、正規製品なら、という事だろうか?と思いながら、再度電話をかけて、1、2と進んだ。インストールIDを入力してしばらく待つと、確認IDとして6桁が8つ。合計48桁の数字が発行された。一字ずつ慎重に入力して登録ボタンを押したらすぐ、認証に成功しましたと表示された。自動応答が、楽でいいと思った。

2017-02-12

冬物


生わさびを買った。小さめで、安かった。家でおろしたら、やや水分が多い感じで、いまいちかと思ったが、一本全部すりおろしてしまって、食べたらまあ、香りも味わいも悪くはなかった。


砥石を買った。うちのけっこう昔から使ってる包丁を研いでみた。もっと早く買っておけば良かった。研いで使って、また研いで、無くなるまで使えばいいのだ。鉛筆と一緒だ。そこそこふつうに切れるようになったので嬉しい。


安物のブルゴーニュが美味いわけないなんてわかっているのだが、二本ともニューワールドだとさすがに安全牌過ぎる気がするので一本はついフランス産を買ってしまう。。でもやっぱりさほど美味くない。なんなのか。ばかか。


中古のスーツを買った。古着のスーツを着るというのは、なんとなく人の仕事を引き継いだような気になるものだな。僕は仕事ってこの歳になっても未だになんとなく半分芝居みたいに思ってるところがあるから、他人の中古を引き継ぐのは楽しいし嫌いじゃない。


十何年前に買ったスーツはしばらく履けなかったのが、最近体重が落ちてウエスト周りもやや昔に近づいたので、わりと普通に履けるようになった。でも昔のスーツだと形が古臭くていまさら着れないんだよなあと思っていたのだけれども、あらためて着てみたらそれほどでもないように思えたのでこれも着れるシリーズに加えた。


髪を切った。10:00から美容院を予約していたので、あわてて出掛けた。10:00は早かった。着いたら、店内もまだ始まったばかり感が漂っていた。一日が始まったばかり、みたいな。


快晴。しかし寒い。光は透明。しかし、真冬だ。


夜は満月。異様に光っていた。昨日も、満月だった。今日か昨日のどちらかが満月。


いま、林檎が食べたいな。林檎は美味いとても。


今日、日向ぼっこしていた人たち。

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2017-02-11

板橋


巣鴨から都営三田線に乗り換え。日は差しているが、寒い。高島平駅で降りて、あれ、板橋区立美術館に行くときって、西高島平駅で降りなかったっけ?間違えたね、そうだった、となるが、今日は赤塚植物園が目的で来ているので、まあ美術館でも植物園でも、方角および距離はほぼ一緒なのだが、高島平から歩いてもさほどでもないので歩く。


これが、あの有名な高島平団地か。高層団地と下層のショッピング地帯と人々の群像。なかなか圧巻の光景。ガンダムのスペースコロニーのセリフを呟きたくなる。「その人類の第二の故郷で、人々は子を産み、育て、そして死んでいった。」


赤塚公園を抜けて、赤塚植物園へ。たしか去年、いや一昨年の十二月に来て以来だ。前も今回も、なぜわざわざ、こうして真冬の何もない時季にここに来るのかだが、そうじゃないのよ、今の時季の冬芽がいいのよ、とは妻の弁であるため従う。ほとんど枯れ野原というか、死の谷というか、色のない世界というか、そんな冬の植物園であり、寒さも強烈で、手足の体温はほぼ奪い取られ感覚を亡くしてただただ寒さを感じ続けるだけの存在と化しているようだったが、寒々とした草木もよくみるとたしかにかすかな変化はあるもので、というかほぼ意地というか極限状況で倒錯しただけかもしれないが、梅も咲いてないからこそありがたく、冬芽も硬く身をすぼめているからこそ見応えがあるように思えてくるから不思議だ。


園内の一角には植えられた草木にちなんだ万葉集の句が添えられている箇所があり、これらを読みながら歩いていると、おそろしいほどの勢いで身体から熱が奪い取られていき、芯から冷え込んで、冬の空気と身体がある意味一体化したような感覚になるというか、感覚を失って痺れたような状態が意識の三分の一くらいまで来るというか、冷気が物質として肌の上を這うというか、手も足も末端はほぼ無感覚というか、とにかくなにしろ寒いのだが、それはそれで、まあ、僕も年をとったのかもしれないが、そういう冷え切った状況を、必ずしもいやだとは思っておらず、はい、私もすっかり冷たくなって、普段より少しは物に近づくことができましたから、さしあたり今は冷たい物体同士、しずかに相対しましょうというような気持ちのままで、だまって延々と園内を回遊するばかりだった。


赤塚植物園を出た後、ついでということで駅方面へ戻って反対側にある熱帯環境植物園にも行く。ここもこれはこれで面白かった。しかし板橋区は子供が多いな。たまたまですかね。子供の声ばかり聴こえてきた感じ。ウツボカズラ、ヒスイカズラ、コドモカズラだな。オートパイロットな食虫生物たち。


熱帯環境植物園を出てから、新河岸と呼ばれる地域の方へ歩いた。寒い。冷凍庫の中みたいな冷たさ。きれいな夕焼けで、空は晴れていて、風もないが、寒い。手前の新河岸川を越えると防波堤の土手の壁が視界を遮っている。それを昇ると、荒川である。四方、何もない、この世の遮りがオールクリアになった全方位ゼロ空間が広がる。雑木林の隙間の向こうに見える川の上を、ボート練習の船がすーっと高速で進んでいく。あとは枯れ野と空。さっぱりした。


駅前に戻って、熱燗2合×2+1でフィニッシュした。

2017-02-10

MM21


会社を出て歩き出す。思ったより寒い。路面が濡れている。濡れたまま、冷たく固まろうとしている?そして、あ、白い粉。舞っている。ひとつかふたつ。もっとそれ以上ちらちらと、ゆっくり降り落ちてくる。傘はないし、かまわず歩くことにする。横浜まで三十分かけて歩くのも最近の習慣になった。歩きながら、みなとみらいという場所の酷さというか、貧相さをつくづく実感する日々だ。というかこれは場所とはいえない場所だ。これは少なくとも、外ではない。単なるオフィススペースの延長というか、居室というか、エリアというか、工事中区画というか、そういう場所だ。たぶんここには、過去の歴史がなくて、だから他人の記憶の痕跡がない。それだと、歩いていても空間内を移動してる感じがしないものなのか。そういうものなのかもしれない。というか、これこそがほんものの、均質化された抽象空間なのかな。とにかくぜんぜん面白くなくて、これだけ移動しても、これだけ面白くないという事実そのものが、かえって面白いのかもしれないとさえ思う。高級車の販売店がいっぱい並んでいるが、こんな場所でほんとうに物欲を保てるのか、何千万円とかの支払いのモチベーションを維持できるのか、私の象徴世界イメージを支えられるのか、他人事ながら心配になる。払うに値する何も見えない。埋め立てただけの地面にプレハブ立ての小屋があって、その中に置いてある高級車と自分のお金とを、交換するのか。すごい。子供のお店屋さんごっこみたいだ。まあ、自分がそんな人間と全然無縁だからそう思うだけだろうけど。

2017-02-09

同胞


じつはジムのプールで泳ぐにも社会性が必要。毎日のように泳いでいると、同じ時間にそこに集う人を、なんとなくわかってくる。25メートルのコースがいくつかのコースロープで区切られていて、そのうち一つか二つが「ある程度止まらずに泳ぐ方用」コースで、もうひとつかふたつ「25メートルずつ泳ぐ方用」コースで、いずれも住人はある程度固定メンバーと化している。空いてるときは、コースに自分ひとりしかいないこともわりとあるし、多くても一コースあたり三人とかそのくらいだ。とはいえ、それでも一人でないならそれなりに相手に気を使う。べつに勝手にやっててもいいけど、一応お互い気をつかい合いましょうみたいな方がいい。結局、通勤電車とか公道を運転するときと一緒である。まあ、当然といえば当然だ。マナーとかルールって要するにマナーやルールを意識してますよアピールをすればいいだけで、立ち飲み屋ですらそうだからな。まあ人間はもともとそういう生き物なのだ。唐突なようだけれども、今後の世の中、このままどんどん状況が悪くなったら、彼らと共闘することも想像しておこう。公共の場からはじまる大きな社会変革のチャンスが、あるのかもしれない。フィットネスクラブのロングコースで泳いでた人たち、速い人もいれば遅い人もいましたけど、じつは彼らも組織なんです。ええ、一枚岩なんですよ。互いに無言で、何のやり取りもなさそうに見えますけれども、あれで彼らは、夜になると命がけで、血を流しながら、互いを深め合っているんです。

2017-02-08

脱水とテクノ


子供の頃、はじめて脱水した洗濯物に触れて、たいへん驚いたのを今でもよくおぼえている。さっきまで水に浸かっていたはずのものが、やや湿ってるだけくらいなまでに水分が飛び、モノによってはほとんど乾いていると言っても良い状態だったので、これはすごい、信じられない!と驚愕した。ここまで乾いてるなら、なぜこのあと物干しに干さなければいけないのか、本気で疑問に感じた。遠心力で、水分を弾き飛ばすとは、なんたることだろうか。布の隙間に入った水の粒が、遠心力に負けて次々と外側へ吹き飛ばされていく。その結果、布は、ある程度乾くのである。完全にではないが、だいたい乾く。化学繊維とかの肌理の細かい質の衣類なら、触ってみて濡れているかどうか判然としないくらいには、水分を除外できてしまうのだ。ほとんど奇跡か魔法みたいだ、これをはじめて考えた人間は誰なの?とんでもない大発明じゃないか!と思った。雑巾を硬く絞っても、これほどまでには水気を取り除けない。それなら絞るのではなく振り回せばいいだなんて、遠心力で水分を飛ばすだなんて、よく思いついたものだ。そんな発想、ふつう無理、そんなの、馬鹿じゃないかと思うが、現実の目の前でその結果が、ここに事実として存在しているのだ。人間が知恵をはぐくむ力は侮れないと思った。


これを書きながらぼんやりと思い出したが、子供の頃、同じくらいに驚かされた発明といえば、やはりビデオゲームという事になるだろう。ただしそこで記憶に残っているのは、ファミリーコンピュータ以前のまだ原始的と言っても良いようなブロック崩しゲームとかテニスゲームとかの家庭用テレビゲーム機のことである。何に驚いたのかと言うと、まずテレビに繋ぐというところだ。裏側に配線して、ゲーム機の電源をオンにすると、いきなりテレビ画面にゲーム映像を映ったときの衝撃はたいへんなものだった。あれはある意味、神聖にして侵すべからずな領域に対して、ついに第一歩を踏み出してしまった感があった。そして、テレビゲームをしながら過ごす時間がはじまって、そのときの、あの独特の漫然とした感じ、まったく取りつく島のない、よるべない、どこまでも果てしなく続いてしまう、見も蓋もなく素で投げ出されてしまった何か、たぶん退屈という言葉ではどこか言い足りない、もっと異なる何かを含んだ新しい退屈さというか、新しい生活というか、とにかく、その時間。今まで一度も経験したことのない、そんな時間の流れ方、まさに初体験と呼びたいような鮮烈な体験であったように思う。ブロック崩しゲームなら、ボールがラケットに当たる音と、ボールがブロックに当たる音以外は、完全な静寂である。それが延々、何時間でも続く。あれがテクノ初体験です、と言っても間違いじゃないかもしれない。テクノ、そうだあれはつまり、テクノだ。始まりも終わりも、手元のスイッチ操作だけの問題で、だからそこには果てがない。そうなのか、果ての無いループ感、エンドレスなシークエンスパターンというのは、じつは受動的な内容ではなく、手元にON/OFFのスイッチがある能動的な内容において、はじめて出現するものだったのか。自分が操作権限を握っている状況において、はじめて制御不能に感じられるくらいの無限ループ的時間性が実現するっていうのは、なんかすごい逆説的だ。でも、それってすごい重要かもしれない。そこではじめて、作品の概念も変えられたのだ。生まれてはじめて自分で作って、すると、これほどまでに果てしなくなる、という事実を知ったのだ。

2017-02-07

湯気


日曜日の朝の、快晴だった。ヒヨドリ、メジロが常緑樹の枝葉を揺らしている。駅まで歩く途中、餅つきをやっていた。


餅つきやったことある?と聞かれて、たぶん無い、と答える。子供の頃から、餅つきをやりたいと思ったことがない。餅つきをしている人たちを見ているのは、好きだったかもしれない。とは言っても、臼と杵で共同作業してる姿ではなく、その脇でモクモクと真っ白い湯気を立てている鍋や釜の前ではたらく人を見てるのが好きだった。


冬の寒空の下で煮炊きをすると、湯気の白さがまぶしいほど立って、ああいうのがなぜ、子供の頃好きだったのか、よくわからない。今もなんとなく嫌いではない。冬のいい感じ。


北杜夫「楡家の人びと」の冒頭の場面の鮮烈さ。炊き上がって湯気をもうもうと立てる真っ白な米と、伊助爺さんの黒く汚れた着物。白と黒、光と影、冬の冷たさと熱さ、乾燥と湿気、それぞれが同時にめまぐるしくぶつかり合う。まさに冬の日差しのように強烈な眩しさで、一瞬目が見えなくなる。そして、暗い森の影、湯気に隠れた先の…。

2017-02-06

契約


朝日新聞は、もう購読をやめたいと何年も前から、下手すると十何年前から思っている。でも未だにやめられないのは、販売店の人に、すいません新聞もうやめます。と言い出し辛いからである、未だに金を払って購読している理由は、突き詰めると、ほんとうに、その一点だけだと思われる。(http://d.hatena.ne.jp/Ryo-ta/20140514/)


と、2014年の5月に書いてから月日は流れて、一昨日、ついに新聞をやめた。


新聞はあいかわらず、ちっとも読んでない。ほとんど忘れてるというか意識してない。それで何週かに一度、溜まった古新聞をまとめて紐で結わえて、重たい束を手にぶら下げて外に捨てるとか、なぜこんな無意味に面倒なことを続けているのかと思って、つに先日、やめようと思い立った。販売店に電話。契約終了のおねがいを伝えた。半年契約なので3月まで。


しかし、断るというのは嫌なものだ。販売店に罪は無いのに…。「ずいぶん長く続けていただいて・・・何かありましたか?ああ、そう、そうですか・・。もう今後も、読まれないですかね?ええ、そうですか。はい。わかりました。残念ですが、そのように処理させていただきますので、はい。はい…」予想していたことだが、やり取りが終わって電話を切ったら、ひどく落胆、気落ちしている自分がいた。その後、小一時間、心の重さは続いた。(会話の途中で心が折れて他の新聞なら取りますとかつい口走らなくて良かった。)


その後、気を取り直して美容院に電話したら、今日も明日も忙しいから無理、来週にして、と言われて、電話の向こうにおどおどとした声で謝りつつ了承した。(うそです。でも来週にされたのは本当。)


誰もが少しずつ、傷ついていて、いろいろ上手くいかない。

2017-02-05

透明


健康診断再検査の結果届く。それを一瞥して、やがて外出。山田正亮展(二回目)鑑賞。がっつりと、閉館まで入り浸る。へろへろに疲れたが、やはり最高だった。WorkCの100番台までとそれ以降の差異、そこに生成した変容とか、WorkDの200番台半ばまでの静謐なうつくしさを重点的に感じ取ったり(WorkE以降の残念な痕跡をあらためて確認したり)しながら過ごしたつもり。このあと図録など見返しながらこのあともう少し反芻したい。雨の降ったり降らなかったりな、寒いけどまあそれなりな、どっちつかずの日。浅草橋で食事後、秋葉原まで歩く途中の空が、20:30頃なのに、まるで朝方の三時半とか四時前くらいな、ぼんやりと薄明るい妙な色をしているのを見ながら、酔った頭をもたげてふらふらと歩いた。


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今、youtubeを見てると、何を見ててもすぐサチモスのPVにつながってしまうような感じで、本屋の音楽雑誌の表紙もみんなそうだし、ほんとうにものすごい勢いだなと思う。数日前にsongsというテレビにceroが出ていたのを見たら、演奏しているメンバーの一人がクラックラックスのボーカルの人だと妻が言っていた。サチモスはともかく、ceroもけっこう楽曲的だし、やっぱりあの手の感じは、ものんくるもヤセイコレクティブも、作り手の生息地域は、お互いぜんぜん無関係というわけではないのではないか。ある意味すごい狭い世界なのかもしれないな、などと想像する。


で、そのままyoutubeをだらだらクルージングしていて、星野源がナンバーガールの「透明少女」をカバーしているのを見た。へー、、そうなのか。。いや、星野源。まったく聴いてなくてまったく知らないのだけれども。そういうやり方のカバーは、あえてそうやってみると、なるほどそう聞こえるのか。・・それにしても、昔のナンバーガールの演奏を、今や一年に一回か二回くらいしか聴かないけど、聴くたびにこれは、ほとんどキリストというか、救世主、九十年代ってこれがあったから持ちこたえられたんじゃないの?みたいな、そのくらいギリギリな、崩壊寸前で奇跡が起きて世界が救われたみたいな、そのくらいの出来事に感じると言ったら大袈裟か。まあ僕は、このバンドはほぼリアルタイムで聴いてはいないけれどもそれはあんまり大きな問題ではなく。で、そのあと橋本愛という人(あまちゃんに出てた人)が、ナンバーガール愛を語っている音声が流れてきて、それを聴いて、へー、、これは。たまたまでも、こんなのを聴いたら、それこそ「萌え」、だね。こういうの、昔なら考えられなかったな。いや、現実いくらでもあったことのはずなのだけれども。「萌え」って、要するに本当はいくらでもありえたことを、そうだよ当然でしょ、と云って平然とそのままに晒しているような感じに対して言うのかもしれないな。いや、男子の勝手な性愛的妄想であっても、その内訳にそういう要素が作用しているというか、そうだよそうだよ、俺の思ってた世界ではたしかにそうだった、みたいな。いや、だから「世界が平和になってほしい」とか「誰もが幸せになってほしい」とか、そういうことを「私の思ったとおりの世界になってほしい」とは明確にはっきり区別付けるために、まず私はどうすればいいのか、みたいな、一番最初の、根源の地元の家の周囲半径数メートル圏内からはじまる第一の問題において、まずはさしあたり、ひとつの鋭い解決案としての、突如としてうかびあがる、透明少女なイメージ、みたいな。

2017-02-04

吉祥寺、和式


図書館に向かう途中で、蝋梅の香りが漂ってきたので見回すと見事なやつが咲いていた。木の近くに立ち止まっていたら、黒い猫がこちらに向かってぐんぐん近づいてきて、僕の足に体を触れるように行き過ぎた後、立ち止まって振り返りこちらを見上げている。なんだお前は。こっちは蝋梅のにおい嗅いでるんだから邪魔するなよと言ったら、しばらくこちらを無言で見ていて、やがて少し離れて余所を向いていたが、少し場所を移動したら、しばらくするとまた近づいてきた。なんなの、君、なんで来るのよ。ちょっと邪魔しないでよ、と言ったら、向こうもやや不服そうというか、なんか手応えのないやつだなあという感じでこちらを見ている。じゃあね、もう行くから。邪魔して悪かったなと言ってその場を立ち去る。猫はしばらく横を向いていたが、少しして再びこちらを見た。退屈そうな無表情だった。



吉祥寺のA-thingsで「"Things" never die. It only changes its form. Kenjiro Okazaki paintings +」を観る。いつものことながら、ほとんど、物体が宙に浮かんでいるかのような、冬の晴天に浮かぶ雲のような、内実のない歓び、みたいな、ただ観るしかないような時間。画廊を出て、百年に寄って本を見て、そのあと喫茶店で紅茶を。ぼく紅茶最近はまってます、という感じだが、こういう店は見事なまでに客も従業員も店内百パーセント女性客な感じで、なぜ女性はいつもこういう狭い空間内の狭い席にこじんまり座ってじっとしてるのが好きなのか、などと思うけどそれは偏見か。まあ僕も立ち飲み屋などで他人と肩を触れ合うとかならとくに嫌ではない。


秋葉原へ移動してヨドバシでイヤホンを片っ端から視聴して、まあこんなもんでしょといいう感じのやつを買った。どうせまた壊れるしそこそこ安いやつ。そういえば吉祥寺の鞄店でたまたまダレスバッグを見かけて、そしたら猛烈に物欲が沸き、けっこうな値段だけどまあいいかと思って買う寸前まで来たが、まあ待ていったん冷静に考えようと思って店を出て、ネットの情報など見ていて、メーカーのサイトで商品紹介や説明など一通り読んでみたら、なぜか一気に醒めてしまって購入意欲があとかたもなく消えてしまった。例えが悪いけどほとんど射精後に匹敵する程のすごい落差。やはり情報というやつはとくにネットに載ってるような程度のがとくに人を萎えさせるのか。さっきもネットでまた色々と見ていたのだが、なんかだめだ。いやなら買わなきゃいいのだが、でも必要なら買わなきゃいけない。


そういえば今思い出したが、汚い話で恐縮だが、図書館でトイレの個室を利用したとき、洋式と和式があって、少し考えたのちあえて久々に和式にしてみた。自分のような年齢の世代なら、幼少時は和式が当たり前に存在していたのだが、最近はほぼ使用機会が皆無である。ただ和式がいいのは、身体がまったく設備に触れないじゃないですか。その点だけはやはり今でも良いと思えるのだけれども、でも久々にその姿勢を維持したら実にたいへんだった。足への負荷が半端じゃない。下手するとそのまま転倒しかねない。子供の頃は、まったく余裕でいつまでもその格好のままでいられたものだが、今は完全に苦しい。五分ともたない。というか排泄の感覚そのものに、本当にこれでいいのか、これで正しいやり方なのか的な、得体の知れぬ不安感さえ加わってくる。谷崎の「陰影礼賛」なんかに感じられる厠で過ごす時間への強い拘りと愛着などは、あれは大前提として和式スタイルの姿勢を一定時間以上維持できてはじめて実感できる訳なので、今の僕はもはやそれを失った。それが不可能な身体になってしまったのだと知る。

2017-02-03

飲酒


今日はOKにして、飲んで、うちに帰ってからも飲んで、さっきまで飲んでいました。たいへん、けっこうな状況でございます。で、もう寝るかな、と思って、歯を磨いたのだけれども、酒飲んでて、飲み終わって、歯を磨く時ほど、せつなくてかなしい瞬間って、なかなかないと思うけどどうだろう。もう、ぜんぜん真逆の、まったく別の味わいだからな。さっきまでのあれは、一体なんだったの??と、大真面目で問いただしたいくらいには、別の何かだからな。でも、まあ、別といえば別だし、一緒と言えば、一緒かもしれない。酒好きなら、ずーっと酒を飲んでるし、歯磨き好きなら、ずーっと歯磨き粉をなめてるというだけのことだな。どっちもどっちだな。それにしても、今日は何グラム飲んだのか。糖質およびカロリーで、どのくらいか、ちゃんと報告準備できてるのか。1日15グラムの高カカオチョコレートで善玉コレステロール増やすし大丈夫かな。赤ワインならポリフェノールのおかげで少しは血圧抑制効果も、あるはずだし。うん。きっと大丈夫。。いい感じでいけてるはず。あわよくばちょっと減量してるかもですよ。いやそれはないわ。きっちり有酸素運動の習慣化、それにはまず、ウォーキングがオススメだ。

2017-02-02

深い眠り


iPhoneに記録されている睡眠中の状態を見ると、最近、深い眠りの割合が多くなってきた。以前は総睡眠時間の1/3以下くらいだったのに、最近は半分以上は深い。どうやって計っているのかよくわからないのだが、どうもレム/ノンレム状態を感知しているわけではなさそうだ。腕時計のような装置ではさすがにそれはわからないだろうから。たぶん単なる動きを独自に評価しているだけなのだと思うが、最近はたしかに睡眠中の動きが少なくなったと自分でも思う。なぜなら、いつもなら掛け布団の下の毛布やらタオルケットやらは、かならず夜の間に蹴っとばして足元の方か脇の方へ外れて追いやられてしまうのが当たり前だったのに、最近はそれがない。それこそ、布団に入った直後と同じ姿勢のまま朝になって起きるような感じで、当然掛け布団もその下の毛布類も、ほぼ乱れてない。つまり睡眠中ほぼ動きがなかったと思って良い。でも、それが何だと言うのか。

2017-02-01

Fourges Et Sabres


https://www.youtube.com/watch?v=JfdpQr1yiZI


これ、超いいわ。Vinylほしいな…。今日は唐突にlucianoばかり聴いてた。「Live @ Weetamix」は上記よりも、もっと馬鹿で凶暴でいつまでも聴き終われない。ウィトゲンシュタイン「青色本」を読みながら、ものすごくいい感じにシンクロした。完璧にばかな音楽。でかい声で朗読したくなる。

2017-01-31

cero


三宅さんがプッシュしていたceroの「Obscure Ride」をツタヤで借りて聴いた。…これは、たしかにFishmansの正統な後継者というのも頷けるし、それに加えて、D'Angelo以降でなければありえなかったようなニュアンスも、そこはかとなくしかし確実に含有されるあたり、やっぱり今なんだなあ、と感じさせる。ゆったりとしたHipHop愛が深く漂い、テンション高い瞬間でもリラックスして気を許して聴いていられる感じだ。そして昨日の今日なので、ドラムとかのニュアンスにまだ敏感なので、すごく手に取るように演奏を聴き取り感じ取ろうとしてしまう。しかし、日本のグループ、色々たくさんあって面白いなあと思う。今まで知らなかったし。いろいろライブも行ってみたいのがいくつか思い浮かぶ。(しかし、絶妙なタイミングでさっきイヤホンが断線したっぽい。また買うのか。一年に一個買う感じだな…。)

2017-01-30

ヤセイコレクティブ


青山bluenote東京でヤセイコレクティブ with special guest マーク・ジュリアナ 1st set。昨日ネットで見て、こんなのやってるよ、じゃあ行くか、となって予約してから、アルバム(Lights)をAppleMusicで初めて聴いたりなど、まさに、昨日までぜんぜん知りませんでした今日が初対面です、という感じで。マーク・ジュリアナが出るから、というのはもちろんだが、なんとなく、面白いかも、と思ったので。直感で。


じつに素晴らしい、たのしい、血湧き肉踊るというか、身体を動かさずにはいられないというか、とにかく楽しすぎるライブであった。演奏が始まった直後からめちゃめちゃいい感じ。何か得体の知れない、何か音がしてるだけで、ただワクワクする。こんな風に楽しいのは、ほんとうに久しぶりだ。これはもう、バンドという組織体の素朴な良さ。それだけでしかないがゆえの、計り知れない力だ。何人かが、集まって、なんだかよくわからない大掛かりな、紐のいっぱいぶら下がった機材をその場に持ち寄って、電気を入れて、みんなでいっせいに音を出すという、ほとんど幼児的と言ってもいいくらい単純な、しかしこれ以上ないくらい強力なやり方。まあ、すごく単純に、これってジャズじゃん、これって最良の意味でのジャズだよね、と言ってしまっても良いのかもしれない。まあでも、なんと呼んでもいいのだ。演奏しながら、すごい高揚で、客がじょじょに浮ついてきて、演奏者の顔が恍惚で歪んできて、口元がだらしなく笑いのかたちに崩れてきてしまって、両足がばたばたと落ち着かなくて、前のめりに、ぐいぐいと、すぐ先のその時間一瞬一瞬を食って食って先へ進もうとする、みんながそれを無言で、ものすごいテンションで一緒になって進む、そのマジックである。そうそう、そうなのよ。結局こういうことでいいのよ、と、ひたすら肯定感しか無いようなひとときだった。


生ドラムに、ギター、ベース、キーボード。しかしギターとベースは手元にも足元にも各種エフェクターが並んでいて、生音の割合は全体の半分以下という印象、ではあるが、プログラミングな印象はまったくない。むしろ、愚直なまでに生演奏。電子音による生音というか、物の質感をもった電子音というか、言葉だけだと意味がわからないというか伝える気の欠けた言い方になってしまうが、つまりは音のあの感じ、というのはライブでしか味わえないものだと、今更ながら思った。


後半マーク・ジュリアナが登場してからは、一見かなり慎ましいというか、バンドを尊重した感じであまり目立つことはしないけれども、ほんのちょっとの事がもの凄くて、プレイし始めると、まさにその時間すべてが、それ一色に染まるというか、それにしてもこのドラマーはなんという、この独特の、この人でしかない、異常なタイム感。キック一発だけでも、空間に物理的な刻みを入れてくるかのような、ほとんど物自体みたいな、あの音の粒はいったい何なのかという感じだった。それこそ、もしかしたらそのへんに捨ててある空き缶叩いただけでも、あの空間と質感を作ってしまうのではないだろうかと思わせるくらいの。。

2017-01-29

ダージリンセカンドフラッシュ


男性はこっちに座りなさい、女性が奥ね。荷物はここに置きなさい、と、インド人の店主に言われたとおりに着席する。やがてメニューと十軟種類もの茶葉が入ったサンプル箱を持ってきてくれて、ファーストフラッシュは時期的に一年くらい前だからやや古くてお勧めしない、セカンドの方が良いかもしれない、ほかにもいろいろあるから選びなさい、と早口で言って去っていく。まったく意味がわからないので、メニューに書かれた説明を読んだりサンプルの香りを嗅いだりいて、やはりよくわからないし、メニューからこれとこれみたいに、適当に言いなりで注文したら、キラキラに輝く銀製盆に同じく銀製のポットと茶漉し器と、扁平に近いくらいひらいた形状のティーカップが供された。こっちは40秒後に、こっちは50秒後に注ぎなさいと言うので、だいたいそのくらい待ってからカップに注いだ。まあ、紅茶だな。こちらがダージリン。こちらがアッサムのオレンジペコ。こっちは二杯目からはミルクを入れても良い。どちらかと言うとダージリンの方が爽やかで好きかもしれない。それにしても、でかいポットだ。1リットルくらい入ってるんじゃないか?カップは小さいので、注いでもわりとすぐ飲んでしまうのだが、飲んで、注ぎいれて、また飲んで、また注ぎ入れて、それを何度繰り返しても、ポットの中が一向に減ったように思えない。上蓋を取って中を見ようと思うが、ポット全体がかなり熱くて手で触れない。かなり時間が経っても熱いままで、まあこれは、腰をすえてじっくり飲むしかないな、まあ、別にすべて飲み干さなければいけないわけでもないしなと思って、でも結局、ほとんど飲みきってしまった。会計して、店を出て、しばらく腹の中が重くて体全体が紅茶に浸りきったようになっていた。もうしばらく紅茶は、飲みたくないかもしれないと思った。ちょっと体を傾けたら、口から逆流してくるかもしれなかった。紅茶に悪酔いしているかのようだった。はじめての感覚的経験だった。

2017-01-28

海水、ビオ


浜離宮恩賜庭園。水際まで行くと、海水の濃厚な匂いがして、ああ海沿いだなと思う。水上バス乗り場に人がたくさん集まっていて、停泊している船に順次乗り込んでいく。やがて船がゆっくりと岸辺を離れて、後ろ向きにゆっくり進んで、少し方向転換すると、汽笛を二回か三回鳴らして、すーっと前進を始める。その様子を見ている。こういうときはなぜか必ずそうなのだろうが、船上の客がこちらに向けて手を振っている。仕方がなく、というか、それが形式上そうするのだろうということで、こちらも手を振り返す。ばかばかしくていいね。船が遠ざかっていく。石積みの海岸壁にはびっしりと貝や水蘚が貼り付いていて、それを波が揺れながら洗っている。水は汚れていて清らかな景色ではまったくないが、しかし海水である。海水は好きだ。潮の傍にいたいという気持ちがある。海水に関しては、僕は信じる気持ちがあるかもしれないとも思う。神社にお参りもしないし、何かに手を合わせたいとも礼拝したいとも思わないが、海水に対してはそうでもない。いや、拝みたいとは思わないが。まあしかし海沿いはいい。助かるような気がする。


久々の店で夕食。帰ってから、ビオディナミ農法についてあらためて調べる。そうなのか、これほどまでに、筋金入りなのか・・と、今更のように認識する。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E8%BE%B2%E6%B3%95)こうなって来ると、自分は百パーセントそれに共感できるわけではないかも、とも思うのだが、まあ、それはそれだ。共感しようがしまいが、美味しいものは美味しい。ビオは僕は、嫌いではない。飲めば、へーっ、なるほど面白い、と思う。これはこれだ。

2017-01-27

皿の上


新橋の喫茶店で簡単な昼食を摂りながら、向かいの壁にすごく凡庸なイラスト風の絵が掛かっているのを見ていた。長いドレスを着た女性が暗闇の空間内にひっそりと座っている絵で、画面中央よりやや左よりに、右を向いた頭部から上半身への塊が置かれて、下半身は画面の下方向に流れ去るように、つまり極端に長いドレスの裾が広がるように右下へ流れていって身体の向きと同方向の脚部を暗示しつつ、反対側へもそれと同程度のボリュームで別の布の広がりが為されていて、大きめの広がりと小さめの広がりが画面全体に程よく配置されて画面全体の構成を支えているといった感じのもので、皿の上のものを食べながらそれをぼけーっと見ながら、学生の頃に絵を描いていたときの感触をぼんやりと思い出していた。この絵の三分の二くらい無ければ良かったのになあ、真面目は罪だな、真面目だから、こうして罪が反復されるんだな、それに加担したことになってしまうんだな、結局、あそこまで描ききってしまう前に、いつも最高にいい部分があらわれているのに、それをみすみす逃していたよなあ、などとそのときの感覚をやけにリアルに思い出していた。ほんとうは、凡庸な絵とかくだらない絵とか、そういうのは別になくて、あらゆる絵が潜在的にはいちばん良かった瞬間を隠しもっているのだけれども、それをその場で止められないというのが現実、ああ、そうそう、もっとこの過程のぜんぜん手前によい部分があったはずだったよなあ、でもそれを当時はっきりと信じることさえできれば、その孤独には価値があっただろう、自分の力をもっと信じたかったなあ、などと、なんだかよくわからないことを考えながら一人で納得しながら、皿の上のものをパンでぬぐっている。

2017-01-26

たまご


サブウェイのサンドイッチは「たまご」なら軽いんじゃない?と思ったけど、食べてみるとこれもけっこうボリュームある。あとやっぱりけっこう食べにくいというか、ぼろぼろこぼれて、もっと楽に食えるようになってるといいな。食べ終わってから、さーっと泳いだ。さーっと、ではなく、けっこう真剣に。というか、泳ぐのは当然真剣だ。適当に流して泳ぐということはしない。きっちりとやろうとしている。わかりやすい目標を目の前にぶら下げられると、俄然やる気を出す。今はみんなそう。僕もまさにそうだ。時間リミット内でこまめにトライ&エラー、電車の中吊りも、みんなそんなのばっかりだ。最小の費用で最大の効果なのね。合理的だし視認性がよいのだ。でも長期計画ではないのだ。これも世間一般皆そうだ。儲かったらさらに投資する以外の選択肢なし。車輪の回転する様子をじっと真剣に見ているけど、自分の今いる場所がその車輪が支える荷台の上だとは気づいてない。いや気づいている。自分が乗ってるんだよ、だから見てて面白いんだよ、と言う。そうかなあ、自分が乗ってるって認識ある?と聞く。そのあと議論になって喧嘩みたいになる。

2017-01-25


寒さの中ひたすら歩く。歩くか。歩けるか。靴の裏側、足の裏、靴底の厚みをはっきりと感じている。ずっと歩いていることで足の裏の縦に鈍い痛みがあり、まるで自分の身体の一部と融合というか凍結して一瞬溶けたと同時にくっついてしまった冷たい外気と濡れた路面。会社の打ち合わせで遅くなって、それでも今日も泳ごうとしている。肺の奥から喉を伝って、声混じりにため息をついてみる。何度かやる。泳ごうとして、泳ぐと、ああ、泳いでいると思う。なぜか、と思う。腕と足がそれぞれしっかりと水を捉えているのが感じられるかどうか。体の奥の深い場所から発熱しはじめて動作中は感じられないが後からいやというほど体内全体が体温上昇しているのに無理やり服を着せておもてに出して家に帰すように自分を追い立てられるか。家で豆腐と春菊と芹がぐつぐつと煮えているのを食べただけなのに、でもちょっと食べ過ぎじゃないか、いやこれくらいでちょうど良かった。芹は美味いな。バランスよく消化にいいものでお願いします。

2017-01-24

Endorphin Machine


筋トレすればたいていのことは解決するみたいな話も、深く同意できるというか、水泳もそうだけれども実際運動すると驚くほど気分がさっぱりするし、高揚するし、最高にキマればほとんどへらへら笑いたくなるほどだ。運動によって分泌される快楽物質のパワーははかり知れない。小さな悩みだの気に掛かることだのはほぼ雲消霧散してしまうと言っても過言ではない。でも不思議なことにそのような刺激にはいつか慣れてしまう。快楽に対して、いつか飽きてしまうのはなぜなのか。飽きるというのは不思議だ。快楽が、分泌されなくなるのか、分泌されているけど、それを感じ取る部分が従来の動作をしなくなるのか。いずれにせよそれは内的にはトラブルなのだろうか?それとも仕様なのか?仕様だとしたら何を防ぐために?反復を忌避するためだろうか?泳ぐことにも少しずつ飽きてきているが、それを認めないためにとくに後半は最後の力を振り絞って頑張ったりする。そうこうしているうちに、泳距離もさらに伸びてきて、おそらくスピードも速くなってきているし、疲労感も前より少なくなってきている。そしていよいよ運動効果が目減りしてくる。だからどう頑張っても、はじめの頃には戻れない。いや、戻る方法がたった一つだけある。それは、水泳なんかやめてしまうことだ。やめて、またいつもの不摂生に戻れば…。

2017-01-23

サムサ


これぞ寒さだと思わず言いたくなる。緩さはどこにもない。徹頭徹尾妥協のなく全身を包むものが内側の熱を一気に奪っていく。いや、これほどとは思わなかったな、驚いたね、と思わず口をついて出る。これでもまだ極寒地域よりはずいぶんまし、日本人は冬の本当の寒さを知らないね、とロシアの人なら言うのだろうけれども、日本の四季もほんとうに不思議だね、とも言う。ついこの前まであんなに蒸し暑かったのに、今日のこんな夜なんか想像もできないほどだったのに。まったく同じ場所の空間を今はこれだけの寒さが占めているのだからほとんど現実とは思えない。とはいえ暗い街灯がぽつぽつと灯るだけの夜道の傍らの水路には時折灯りを反射させながらやわらかい音を立てて黒い水がひたすら流れているのだから、この水の冷たさは如何ほどか、この水さえ凍るほどの寒ささえ現実にはありうる、想像の限界、想像されうる苦痛の限界の想像だ。半分気を失いつつ地の果ての広がり、ロシアの湿地帯を行く。

2017-01-22

御苑/SUBWAY


不調のPCは、結局初期化した。しかし時間が掛かる。なぜ僕は、というか我々は、ファイルコピーが進行するPCの様子を、ただじーっと見ていたくなってしまうのか。進捗状況をパーセンテージで示されると、その進む様子をじっと見つめてしまって、いったいそこに何を感じ取ろうとしているのか。


今日は終日在宅で過ごすかと思ってたが、あまりにもすばらしい晴天なので出掛けた。昼の三時過ぎ頃、新宿御苑に着く。公園脇のレストランやカフェはどのテラス席にも客がいる。たしかに今日はそういう天気だ。新宿御苑大温室にはじめて入った。ずっと水の音がすると思ったら人工の滝の音だった。見物している人々のざわめきと滝の音が、多湿な密閉空間内に響いてリバーヴが掛かったようになっていて、音だけ聞いてると、なんかものすごくダヴィというか、かなりカッコいいライブ盤の、曲がはじまる直前のタイミングがそのまま延々引き伸ばされてるような雰囲気だった。前にいるカップルの後頭部から背中から足元まで、やたら色々と細かい塵芥が付いていて一瞬何事かと思ったけど、なるほど二人で芝生に寝転んでたのだとわかった。


やや日が翳り始めた公園の芝生が黄金色に光っていた。その上を人々が、座り込んだり寝そべったり、ぽつんぽつんと点在して、その場に長い影を落としている。巨大な桜の木が光を受けて濃いなめらかな陰影のコントラストだけの何かとして立っている。いつものことながら、公園の不思議を感じた。ここにいる無数の人々はなぜ、今ここにこうしているのかと。そんなところに居てもまるで無意味じゃないか。しかし人間たるもの、常に目的や行き先をかかえている訳でもなく、非機能的に、無意味に、説明不可なまま、その場に座って、ぐったりと休んだり居眠りするものなのだ。まるで、そのことを生まれて初めて知ったかのような僕が、ついしげしげと目の前の景色を見つめてしまう。全員まじめか?本当は演技してるんじゃないのか?と思うくらい、誰もが何の脈絡ももたず、いきなり配置されたような、その唐突さはほとんど不条理劇の舞台めいていた。ある意味、天国的な、彼方の景色というか、この世から離脱した場所、語りえぬ場所の景色、という感じでもある。もし今日が人類最期の日で、皆がこうして夕日を見ながら芝生に寝そべったりしつつ、それぞれ静かに最期の時間を過ごすのだとしたら、もしこの景色がそれだとしたら、なかなか感動的に思えなくもなかったが、むしろそういう想像の時点で安っぽいようにも思えて、それよりは今見えているこの現実のままで、これが本当にありふれた出来事としての人類最期、とも思いたいようなものだった。蝋梅が花を咲かせていて、他にも早咲きの梅もいくつか。蝋梅は、風下に移動して寒さを我慢していると、嗅覚の奥にふっとあの香りを運んでくる。そこに佇みながら、花にせよ、飲酒にせよ、やっぱり一月や二月の極寒のなかでそれらにふれるのが、もっとも味わい深いものなのかもしれないなあ…などと思ってハッとして、我ながらそれが、なんという如何にもな、紋切り型な、風情ありすぎな、侘び寂び趣味っぽい、風流を気取った恥ずかしい感じ、いやいや、ぜんぜんそんなつもりじゃないんですけど、、な考え方だろうか、との思いが交差して内心取り乱した。


公園を出て新宿ツタヤへ。ツタヤはどうもあの建物のフロア全部(5F〜8F)がCDレンタルだけになってしまったようだ。DVDとかは歌舞伎町の別の建物に移動して2月からオープンらしい。エレベーターを待つのが面倒なので、毎度のごとく8Fまで登山する。借りたいものを探してると階段を下りたり上ったりするので、この店は本当に、店内にいるあいだずーっと有酸素運動してるようなものだ。下山後、向かいの紀伊国屋にも再登山する。疲れて、すっかり暗くなって、ちょうどいい時間だし、夕食はどこで食うかと考えたのだけれども、結局、家に帰ることにした。なんだつまんないなあ、と思って、でもそのときふと、サンドイッチをワインで、あんまり芳醇じゃない安い赤で粗野に食う。それがいい、その組み合わせは最高だ・・と、俄然心が躍り始めたので、サンドイッチを買おうと、そうだ駅前のサブウェイでテイクアウトしよう、ということにした。サブウェイって今まで一度しか行ったことがなくて、しかも前回のことはまったくおぼえてないので、注文方法などを事前にウェブで見たりして、それで最寄駅前の店で注文すると、かわいい女性スタッフがニコニコしながら作ってくれるのだけれども、やり方が、けっこうワイルドというか、大雑把というか、へえ、すごいなあ、脇からいっぱいはみ出してるけど、それでOKなの?そうかあ、いいねえ、すごいねえ、と思った。なんか、想像してたよりもずっしりと重くて、ガッツリとボリュームもあって、味わいもはっきりとわかりやすい食い物だった。いやいや、ちょっとこれ、こんなの二つも食べられないかも、というくらいの。まあ、こんなもんか。サブウェイ、よかった。まあまあだった。