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2007-01-31

白くまピース


白くまピース ~日本初・人工哺育の全記録~ [DVD]


理由もなくそこに居て、腕を齧ったりカーテンにしがみ付こうとしてころんとひっくり返ったり、ヨタヨタと這い寄ってきて膝の辺りにすり寄ってみたり、確かに、白くまピースのかわいさは疾走する。涙は追いつけない。涙の内に玩弄するには可愛らし過ぎる。意味や文脈や理由から離れて屹立していて、自分の喜びとか悲しみとか、そういうこちらの都合による感情とも全く切れていて、こちらに全く無関心で気にも止めていなくて。…要するに、僕がどこまでいっても受動的にしか関われない対象で、そう。でもかわいい。…いつの日か直に触れ合うことができる日が来ると信じているけれど、でもあくまでもその直前までにおいてだけ、かわいい。


白くまピースとか、犬とかネコとかはかわいくてかわいくて、いてもたってもいられない。だから、僕はもうたまらず、傍らの妻にやにわに抱きついてじっと硬直してみたり、急に身を翻して宙を切り裂くように横っ飛びで後ろの冷蔵庫に逆さにしがみ付いたり、そのまま夜のとばりが降りて星がまたたきはじめた頃、天井を伝ってゆっくりと再びテレビ画面の前に戻って来たり、そんな風にいつでもこの僕を少しばかりクレイジーにさせてしまう。マジそれより他、なす術がないくらいの気持ち…。でも、たとえば僕が、テレビ画面内のかわいい女子とか、現実世界の街を歩き過ぎ行く生身の体をもつ女子とか、そういうのを見て「かわいい」と思ってしまう心とは何か?


偶像的立位置にいてくれるキャラクターを崇め奉る事は、楽しい気分になれる。現実の風景の中で、思わず追ってしまう目線から逃れるように、しぐさとか残り香とか笑い声とか靴音の残響音だけを残して、一瞬で跡形も無く消えさる誰とも知らぬ人のイメージが、まだ現実の空間に余韻を残しているのも、楽しい気分になれる。多分、もっとも楽しい瞬間というのは、登場したばかりの、余計な物語を伴わない一枚岩のイメージの効果が効いてるときで、そういう時、たとえばそういう女性はもう光り輝くようにかわいい。その後、延命というか「食ってかなきゃ」いけなくなったとき、どうしても物語とかがくっついて来て途端に輝きを失う事が避けられないのだけれど。


「無垢」という概念など幻想に過ぎないと思いながらも、でもそのようなかわいいものたちが鮮度を保っていられるのが、ほんの僅かな一瞬であることは間違いなく、要するにその一瞬の状態を「無垢」と呼ぶのだとすれば、それなら、かわいいものたちの無垢なる瞬間を逃したくないなあと思うし、何とかこの手に収めて置けないものかとも思う。


ちなみに、こないだNHKで再放送した白くまピースの録画には失敗した。エンコーダで動画保存しようとしたら、マシン起動後20分くらいハングしやがった。セキュリティソフトのせいだろうか?マジで本当にWindowsってカスみたいなOSだ氏ねや。セキュリティソフトを無事に動かすためだけにこの世に存在しているような、存在自体が倒錯したOSで、もう、この際一式全部、窓から投げ捨てたくなる感じである。…結局ピースがちょっと成長して、どうにもあんまりかわいくなくなってきた頃に復活。その後、終了まで録画した。

2007-01-30

作品の展示をやるようだ


随分時間が掛かってしまったが、やっと作品を展示することにした。まだ先の話ですが個展をやるのです。場所は銀座のギャラリー現で、6月18日から5days。こうして美術の現場のとば口に立ちまして、やっと僕もまごうことなき「美術の人」第一歩な「新しい人」ですわ。セカンドカミン!レザリクショ!ほんとうのキャリアのスタートですわ!などと一時的に密かに盛り上がってみた。


会社員で、結婚もしています。制作は一時期やめてたんですが、やっぱまた描き始めたんです。個展は10年ぶりです。とか言ったら、まあ…10年もしてから又やろうなんてよく思ったわねー。と半ば呆れ顔で言われた。確かにそうだ。すいません…


作品写真のファイルを見て頂いたのだが、ページを開くや否や「あらー…まあすごい」とか困惑とも苦笑ともつかぬ感じで仰られて、なんだかすごいコダワリなのね。等のお言葉をいただく。…これがもう、何年ぶりかで直接僕の耳に届いた、自作についての実に久しぶりの「外部」からの言葉で、そのこと自体になんだかくらっと眩暈を覚える。


貸しギャラリーに行って、作品見せて、会期とか諸々の話をして、と、それだけの事なのに「美術の現場にコミットした」感の、超久々な新鮮さにアてられた感じで立ち去った。…でその後、やっぱ俺の作品は良い悪い以前に、相当「痛い」シロモノなんではないか?僕は実のところ、かなり基礎的なすごい浅瀬なところで大いなる勘違いをしてるんではないのか?というような悪い予感がモクモクと立ち上っても来たのだが、それはあるいは事実なのかもしれないのだが…しかし毒にも薬にもならないよりは「痛い」方がまだいいだろ?とも思って覚悟を決める。


…まあでも、つまらない話だけど「君もついに【美術】にログイン!」という感じがあって…ってお前はこないだ美大に入学したばっかりか?って言われそうだが、実際ほぼそれに近い気分ではある。こういうのって幻想だよなあと思う。実際は、どこにもログインなんてしてない。別に何にも接続してないのだ。というかこんな事、35歳にもなって書く内容じゃない…。まあでもこういうのが久々なので、懐かしさ半分で、なんか面白い気分なのだ。昔、若かりし頃、何よりも恐れ、ゼッタイに拒否したかったのが、そういう風に何かに接続してしまう自分の運命であった事(それが気に食わない→そうではない別の何かなら良かっただけだが)も昨日の事のように思い出す。


まあでも今、性懲りも無く、いい年こいて再び描き始めてしまった僕は、もはや自分や自分を取り巻く状況に関して、あのときのように恐れることは無いだろう。長い年月を経た僕にもし「成長」と呼べるような変化の跡が残っているのだとすれば、それは昔のように恐れることが無い(恐れる心を失ってしまった)という事だけだと思われる。


なんかおびただしい数の水着の老若男女が、縦横無尽に泳ぎまくってる果てしない大海原があって、ついに僕も海パン一丁になって、そこに入水するって感じで、この美術に纏わる夥しい行為の集積の一部に、僕も再び加わっていくのであって、多分このまま波間に揉まれて、僕という存在も見えなくなり、消えてなくなってしまうのかも知れないが、まあ僕は単純に、僕が良いと今まで感じたり、これからも感じ続けるであろう何かを、これまでのように無かったことにせず、確かめ確かめ、今までもこれからも、残された時間描き続けるというだけの事なので、その端緒となればさいわい。

2007-01-28

ヘルタースケルター」 --ヘヴィ・メタルと世紀末のアメリカ-- 椹木野衣


f:id:Ryo-ta:20070129014119j:image:w120


ヘルタースケルター ヘヴィ・メタルと世紀末のアメリカはトレヴィル/リブロポートより出版された、「椹木野衣 俊英の第二評論集」(帯より)である。刊行は1992年。


当時読んで夢中になったし多大な影響を受けた…というか、圧倒的に面白い物語の魅力にやられたというべきで、いつもそうだが、椹木野衣氏の書くものは実に面白い。最近のヤツでも、「戦争と万博」という著作なんかは驚くべき論旨展開で、まるで下山ケースとか松本清張の社会派推理物を読んでいるようで、こういう面白さというのはやっぱ良いよなあと思う。最近出たヤツは未読だがいずれ読む。


椹木著作は刊行と同期してほぼ大体読んで来た私が、超僭越ながら申し上げますと、僕のオールタイムフェイバリットイッシューとしては、この「ヘルタースケルター」と「テクノデリック」で、「日本・現代・美術」以降はまた別途考える必要があるのかなと思うが、とりあえず、このヘルタースケルターは何故か今、入手できないような感じなのだろうか?少なくともアマゾンには出てこないようだ。何故だろう?


まあしかし、この本には当時感動させられた。この本のあとがきには、こんなことが書いてある。


幼少の頃から、ヘヴィ・メタル・サウンドに魅せられてきた。


あの、マーシャルのアンプをフル・アップで駆動したときのシステムの悲鳴は、そのような悲鳴を、言語にあげさせることはできないだろうかと、ことあるたびごとに考えさせてきた。


しかし、そのようなことは、いうまでもなく不可能である。それに、そのような方法を小説や詩に求めるにしては、あまりにも恥を知りすぎていた。



当時の僕を、深く傷つけた言葉だ…というのは大げさだが、でもああ。と思った事は確かだ。なぜならあの当時、90年代初頭に20歳を少し越えたくらいの僕が、唯一重要に感じていたものも、やはりシステムをフル・アップさせたときの悲鳴に他ならなかったからだと思う。


しかし、そのような何かを再現させるために「表現者」として取り組む行為を、高みから「恥を知り過ぎている私には出来ない」と言われてしまうと、若い愚かな若者にとってはこれ以上無いほどの抑止力として受け止めてしまうのだと…。まあその意味では僕も確かに「恥を知る」人間の一人だったのかもしれないが、もっと簡単に言えば「凡庸な人」だったという事であるなあ…っていうか、そんな思い出話はともかく、この「ヘルタースケルター」では、実に面白い工夫で、サウンド・システムに纏わる雑学が「物語」として構築されている。そう。すごい面白い物語なのだ。確かに「荒くれる悲鳴」ではなく、統治されて使い古された物語が今更のように展開され、それがいいんです。たとえば「電気の愚者」と題されたギターに纏わる言及がすごく良い。


…もともと、通常のままではアンサンブルさえ成立しないほどの致命的なまでの音量の乏しさと、ピアノのように単純な身体行為が発音と直結する訳でない特性ゆえ、左手と右手の行為が有機的に連携しなければ楽器として機能せず、そのアーティキュレーション制御から外れた場合、ただガサガサした微かなノイズしか出力できないような操作性の悪さとの、二重の致命傷と言って良い程の貧しさを背負った楽器「ギター」は、それゆえオーケストラを構成する一員からもはじき出される宿命を背負わなければならなかったのだが、その特性をそのままにアンプリファイズされるや否や、今度はオーケストラセット一式とも対等に渡り合う事が出来る程の音量を獲得する。が、その代償として同時に鳴り止まぬハウリングをも抱える事になり、あたかも小声でぼそぼそと囁くしかできなかった少女が一転、いくら咎めてもぶん殴っても叫ぶのをやめないようなヒステリーの大女に変貌してしまうような事態を引き起こす。しかし、その引き裂かれた特性をそのままに、更なる改造行為は飽くことなく続き、処置の上に処置が上塗り重ねられ、集音用ピックアップの一部が蝋付けされ、矯正と改造を繰り返され、傷だらけでギブスだらけの肉体へと更なる変貌を遂げる。こうしてエレキギターがその原初の姿を現し、楽器のモンスターへと変貌していく過程を「デレク・ベイリー」と「ジミ・ヘンドリクス」の両者の軌跡を記述する事でドラマティックに浮かび上がらせていく。・・・この物語仕立てがマジで本当に素晴らしい。

2007-01-27

「Smilin'Days,Summer Holiday」fishmans


Neo Yankees’Holiday    ’98.12.28男達の別れ



Smilin'Days,Summer Holiday は、Neo Yankee's Holidayの3曲目に収録されており、このアルバム全体の推進方向性を決定付けるような位置に置かれている。ある種の高揚感を伴って広がっていくような旋律を持ち、訴えかけるようなリズムを持つ、要所要所に物悲しいミュートトランペット的なSEが挿入され、曲全体を儚い刹那の夢のように聴かせる。


同曲のライブバージョンが 男達の別れ(Live Album)にも収録されているが、総合的にはこちらのテイクの方が圧倒的に優れているといえるだろう。ライブ後半において空間をもう一度加熱・加速させるかのように演奏される。個人的にはこの曲がドライブしていく瞬間が、アルバム全体の中における白眉と思う。


というか、おそらく僕は今、Neo Yankee's Holidayに収録されているSmilin'Days,Summer Holiday という曲が最高です。と書きたいだけである。というか、正確に言えば、その文字をタイプしたいだけでしたと言っても過言ではない。そういう事をきっかけにして、大体僕の場合は文章を書いていることが多いかもしれない。そういうモティベーションは、どこからやってくるのか?


つまり、Smilin'Days,Summer Holiday という曲について何かを書きたいという気持ちがあるが、それ以前にSmilin'Days,Summer Holiday と記述するだけで喜びが胸に沸いてくる程なので、その喜びの感じを書くべきかもしれないとも思う。


何かを書きたいというのは、その曲の魅力を解析し、文字で魅力の内訳を再確認したい。という欲望という事だが、それは「その曲」を語れる。語る対象として捉えることが出来る。という思いが前提になる。


でも、Smilin'Days,Summer Holiday とその曲の名前をとりあえず書いてみて、それをもう一度見返してみる事で、その魅力を別のやり方で再召喚させる事に、既に成功してしまったようにも思える。で、もうそのように書いたのだから、それだけで良いではないか?とも少し思う。では、それ以上書くのは何故か?それ以上書くことで、何か新たな発見があると本当に見積もれるのか?Neo Yankee's Holidayに収録されているSmilin'Days,Summer Holiday という曲の魅力について、実は何も今更僕がここに書く必要など、まったくないのだ。それは既に語りつくされている筈だ。むしろSmilin'Days,Summer Holiday とその曲の名前をとりあえず書いただけの状態に限りなく近い振る舞いこそが、もっとも正確なのではないか?しかし、こういう文章を書いたり絵を描いたりというのを、僕は100%人のためだけにやってるのではなく、むしろかなり自分の為にやってる事だと思われるので、というより自分の喜びの感覚に基づいてやっている所が多いと思うので、そういう書く行為自体から得られるこの感覚だけは手に入れたいというのがある。


話は少し脱線するが、自分の喜びの感覚に基づいて何かをする。といった部分と、自分の例えば怒りとか悲しみと呼ぶべき感覚に基づいて何かをする。といった部分もあるのか無いのか?といった事を、ここ数日考えている。僕はむしろ昔(十代から二十代半ば位まで)、自分の喜びの感覚に基づいて絵を描くとか、そういうのが全くピンとこない人であった。そういう出自の人なのが僕なのであるが、閑話休題。


Smilin'Days,Summer Holidayというような曲のタイトルというのは、その言葉のイメージとか、音楽そのものとか、複数の意味が色々複雑に絡み合うので、こういう話だとわかりづらい。例えばSmilin'Days,Summer Holidayではなく、目の前に7、8本のチューリップの束があって、そのチューリップの絵を描くという事に置き換えた場合はどうか?


そのチューリップの花束から受ける印象について描きたいという気持ちがあるが、それ以前にチューリップの花束を描いているだけで喜びが胸に沸いてくる程なので、その喜びの感じを書くべきかもしれないとも思う。


あるいは


チューリップの花束を描きたいという気持ちがあるが、それ以前にチューリップの花束を描いているという事実だけで喜びが胸に沸いてくる程なので、その喜びの感じを書くべきかもしれないとも思う。


とかであろうか?なんかまとまらないので、このまま今日は終了!!


あと全く無関係な話だが、今日テレビでやってたトリビアの泉の中で、色々な乗り物に乗って流鏑馬に挑戦するというのをやっていたが、あれの中での「サイドカーに乗って流鏑馬」と「競艇ボートに乗って流鏑馬」の余りのかっこよさに超・痺れた。

2007-01-25

土から生まれるもの|コレクションがむすぶ生命と大地 -東京オペラシティ-


展示されている作品群の中から、小川待子インスタレーションとか、崔恩景や尹亨根の絵画に癒される。崔恩景の絵は昔からすごい好き。李禹煥も良い。


しかし癒されるって…。鑑賞者としてなんというだらしない姿勢のことばしょう!?と思うが、その時はそのような感覚でいたのだから仕方が無い。でもちょっとみっともない。


作り手と受け手がまったくそっぽを向いたままの場所の真ん中にいきなり作品をどーんと持ってきても、それだけでは美術は、生まれないのかもしれない。そこが美術館であれば、とかどこそこであれば、とかの場所なども関係ない。すごく単純に言うと、やはり人間間の共犯関係のようなものがないと駄目なのかもしれない。


であるから僕のように、只会場へ行って、ぽーっと好きな作品を観て「癒された」とか言って帰ってくるのは、美術鑑賞としては、あんまり宜しくないのかもしれない。


何も「もっと積極的に作家や関係者とコミュニケーションしたほうが良い」とか「積極的に美術を仕掛ける側にボランティア参加する」とか「積極的に美術に関する歴史やなんかの文献で感覚の裏付け補強に勤しむ」とか、そういう事を推奨したい訳ではない。・・・というか、これらの事って、実はあんまり美術と関係ないのかもしれない。過去の歴史を参照したいっていう意欲だけはすごい重要だけど。


そうではなく、やはり誰かが何か、やってる事とかやられた事とかを、全身の感覚で感じようとする時の、心構えを最大限に敏感にしておく事!っていう感じなのかなあと思う。少なくとも描き手は自分の作品を「これ最高」と思ってる訳で、それを不特定多数に提示するっていうのは、すごいサービスだし「愛」の行為なんだし(?)。


だから、作家は基本的に「愛」の人だと信じた上で作品に向き合うとき、前述の僕みたいに、ただ「癒された」っていうのは、作品を単に癒しツールに矮小化してるだけなのかもしれない。とはいえ、いずれにせよ矮小化しなくては、人は作品を鑑賞できないのだから、それは仕方が無いことなのだけれど、それでも僕みたいに「癒された」なんていうのはあまりにもタカを括り過ぎの態度であって、ちょっと芸が無さ過ぎだしシャレがわからな過ぎだし、そういうんじゃ人生は豊かにならないのかなあと思う。


まあ、単に人との出会いもそうで、初対面での社交辞令的挨拶の後、如何なる面白い時間と空間が展開するか?については、両者の相互補完とか配慮とか防御心とか、そういうのが干渉しあって何かが出来ていくという、そんな諸々の共犯行為が決めるのであるから、そういう部分は人-人も、人-美術もある程度似ている。

2007-01-23

「Live Beck!」Jeff Beck (Reprise)


ライヴ・ベック!


しつこいようだがまた性懲りも無くジェフベックのライブアルバムについて書くのだが、…まあこの実況録音盤を最初から普通に聴いて、これではあまりにもギターがやかましすぎるのではないか?プレイヤーそれぞれのコミュニケーションによって生成されるアンサンブルが醸し出す筈のニュアンスとか、そういうテイストを全体を通じて致命的なまでに欠いていて、あたかもリハーサルのような演奏が延々続いており、これはクオリティとしてはマニア向けの域を出ない代物と言わざるを得ないのではないか?という感想が出てくるのは全く無理も無い話しで、そうかもしれませんなと深くうなずける部分もあるのだが、しかし僕はこのアルバムを聴いていると、やはりジェフベックというミュージシャンの魅力の尽きる所まさにここにしかないのでは在るまいかとの思いを更に確かなものにしてしまうのである。


何でも良いのだが、試しに6曲目に収録されているScatterbrain に耳を傾けてみよう。変態的変拍子リフから成るギター小僧垂涎の超絶技巧的運指練習にうってつけなナンバーであり、オリジナルテイクがブロウ・バイ・ブロウに収録されているのは周知の通りであるが、ここで行われている演奏は、オリジナル曲がもつ神経症的緻密さで構築されたあの感じを再現させる事が目的とされている訳では全く無いようだ。かといって、全く別の可能性に挑戦が試みられている訳でもない。その変拍子フレーズが、ほとんど投げやりと言って差し支えないほどのぶっきら棒さで弾き倒される感じというのは、なんと言うか、一言で言えば「全部台無し」な感じなのである。


しかし、この「全部台無し」な感じの独自な喜ばしさが迸っている。と言ったらまた伝わりにくいのかも知れぬが如何な物なのだろう?決して自虐とかそういう悦楽の事ではない。元々こうあるべき。という原曲の固定イメージがあるのだが、その理想形に近づく努力としてのライブ再演。という枠から逃れる事に成功しているように聴こえるという事。更に、逃れた事で別の価値となるのでもなく単に「全部台無し」な感じなのであるが、逆説的にギターという楽器を使って、ある曲のイメージを現前させる事のすべてのカラクリが露になっている感じがする。という事。とでも言ったら良いか?


…要するに、こういう事で良いのだろう?要するに、大雑把に掻い摘めば、君らが喜んでくれる感じというのは、こういう事だろう?ここですごい微妙にこんな感じで上手くやれば、拍手喝采だろう?ほんの少しでも上手くいかなければ、ちょっと歯がゆいような砂を噛むような思いだろう?と、細かく細かく聴く者に問い質して来るような感じ。しかし決してタカを括った甘い見積もりではなく、その判断力だけで納得させられてしまうような質の違いを感じさせる感じ…などというと、また例によって筆の走りすぎだろうか…。しかし、こういう異常に細かく観者にアプローチしてくるのが、ジャンルを問わず優れたクリエイターというものなのかもしれない。であるから、ここでの演奏というのは、極論すれば結果的に、演奏の完成度とか、全体の印象とか、雰囲気といったものが、あまり問題ならないような孤立した演奏なのであり、こうなると別にどのようにいい加減に演奏されてしまっても質が揺るがないような所まで行き着いてる感じがあるのだ。こうなって来ると、繰り返すがそれこそ「全部台無し」な感じであればあるほど、その内側で質を支えている骨格が感じられて、益々独自な喜ばしさが迸ってしまう。という訳だ。

2007-01-22

蕩尽と私(テスト)


…たとえば金とか資源とか人の命とかそういう諸々を国家がその存亡を賭けある重大な局面でここぞという瞬間に湯水の如く紙切れの如く注ぎ込み蕩尽する所業を戦争と呼ぶのだとすれば、人間ひとりひとりも、ここぞという瞬間に自分の持ち駒すべてをフル稼働させ、金・時間・体力その他リソースすべて、勝負時のある局面で湯水の如く紙切れの如く注ぎ込み突撃を繰り返し屍の山を築くまで蕩尽する事もある。人それを何と呼ぶ?それはひとりの戦争。人間一人の総力戦であり蕩尽の未帰還突入である。


健康で文化的な最低限度の生活と呼ばれることもある何らかの幻想を見続ける為の所業に引き裂かれながら、それでも着々と戦争準備は完遂に向け進む。睡眠確保の必要と作業継続を優先させる必要を計りにかけ、あと何が必要なのかを朦朧とした意識下で算出し、今まで積み重ねてこれまでの担保にして来たモノ達をもう一度目の前に晒し、振り返り、それらを丸ごと信頼し、なおも自らの奥底に信仰心が常駐している事を確かめる。


このまま跡形も無く使い果たされ、消えてなくなってしまうであろうそれら一切とは何か??と言ったら、汚れ、疲労し、眠り、起きて貪り、再び活動を開始する肉体の営みであり、鎧戸を開かれ明るみに引きずり出され撒き散らされ、泥水に濡れたり炎が移ってめらめらしたり踏み躙られたりするカネであり、ただ頭上を過ぎ行く太陽と月の行き来であるとか過ぎ行き繰り返される季節の往来であるとか、それらを感受する切なく甘美な私だけの思い出であり、このまま年老いて人生の終焉を迎える事をぼんやり承認したときの捺印の跡である。


そして、瞬時に惜しみなく使い果たされた後の虚空が示すのは、それまで微かな期待と安心を含有しつつ営まれてきた筈の貯蓄計画とかやりくりプランとか老後の安心とか、そんな人生設計への復讐だとか唾棄だとか嘲笑だとかではなく、満足とか落胆とか希望とか後悔だとかでもなく、現実に残るのは爽やかなほど白けた、全くの空っぽだけなのかもしれないのだけれど。


それでも全ての伽藍が崩れ落ち身も心も根絶やしとなる悪夢に魘され忍び寄る暗い不安に落ち込まないよう、やれる事はすべてやり八方手を尽くす。二の腕に注射針をぶら下げたまま大きく見開いた目で首を左右にぶんぶん振りつつ未だ未完了の箇所を探す。出撃前夜、手の内はすべてオープンにする。酒保は開放され無礼講となり、過去の蓄積もその他の屑も塵芥に至るまで再召集され、正直もう自分の中で価値付けの対象ですらない欠片だったり何かだったり、そういうのもとりあえず全て動員され、そういう奴等すべて、あらゆるものに等しく「最期の死に場所」を与えてやる。


人間一人の戦争はセコイものだが同時に楽しいものだ。僕は国家や人民間で勃発するあらゆる戦争に反対すると同時に、どこかの誰かに拠って果敢に挑まれ現在なおも交戦中である筈の世界を相手取ったたった一人の戦争行為に限りなく共感しエールを贈りつつ、願わくば自らの所業もそのようであればと思う。…って、しかしなんでこんな文章になったのか?

2007-01-20

「モオツァルト・無常という事」 小林秀雄


モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)



僕は、星が輝き、雪が消え残った夜道を歩いていた。何故、あの夢を破る様な笛の音や太鼓の音が、いつまでも耳に残るのであろうか。夢はまさしく破られたのではあるまいか。白い袖が翻り、金色の冠がきらめき、中将姫は、未だ眼の前を舞っている様子であった。それは快感の持続をいう様なものとは、何か全く違ったものの様に思われた。あれは一体何んだったのだろうか、何んと名づけたらよいのだろう、笛の音と一緒にツッツッと動き出したあの二つの真っ白な足袋は。いや、世阿弥は、はっきり「当麻」と名付けた筈だ。してみると、自分は信じているのかな、世阿弥という人物を、世阿弥という詩魂を。突然浮かんだこの考えは、僕を驚かした。 「当麻」より


小林秀雄の文章はいつも、こんな風に作品を観て感じている俺。というノリで、作品があって、それを観て感動している俺がいて、それら全体を別の場所から見てるもう一人の俺が、これを書いている。といういわば自意識の軌跡という感じだがしかし、それでは書き方の問題なのか?そんなこともないだろう。多かれ少なかれ、文章を書けば必ずこのようになる。ビョークやジェフベックについて書きたいと思っていくら書いても、その試みはやはり、それを語る人を説明する事にしかならない。


「無常という事」でも、「一言芳談抄」という書物の一節を読んで驚くほど生々しくたちあがって来た感覚を、今はもはやそのように感じることができないと書かれている。そして、それが一体どのような心の動きであったのかを「何を書くのか判然としないままに描き始めて」文字を重ね…


ただある充ち足りた時間があったことを思い出してるだけだ。自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間が。無論、今はうまく思い出しているわけではないのだが、あの時は、実に巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか。そうかも知れぬ。そんな気もする。


などと言う。…そのように思い出さなければ駄目なのだと語られるものが、一体何なのか、僕には今のところ正直さっぱり判らない。ただいずれにせよ、こういう観て感じた事を突き詰めていくと、モノの質なんか問えなくなるような事になってしまうのだろうか?。仮にそうだとしたら、そこまで行くのは素晴らしいことなのだろうか?幸福なことだろうか?でも今、自分が幸福ではないと感じるのであれば、やはりそれをめざすのが、最善の事なのだろうか。というか、そういうのはもっと「ものすごい人達」が抱える問題なのではないのか?


モノが大事なのだ。作品が良いのが大前提だ。みたいな言葉も、それを支える根拠がどこかにある以上、その実質を問われてしまうだろうし、与えられた空間でできるだけ適切に空気読む事がひたすら強迫観念的に目指されているのが、この世界の実像なのだから、それに向かって飽くなき努力を続けるなんていうのも、あまりにも虚無的でタカを括った自己完結過剰で、耐えられない。…というか、まあそんな事より、僕はとりあえずまだまだ書生の気分でなるべく本を読んだり色々するようにしてれば良いのだが。


そもそも「無常という事」を読むより先に、坂口安吾の「教祖の文学」を高校生くらいで読んじゃうと、ああ小林秀雄より坂口安吾の方がワイルドでいいんだな。とか阿呆みたいに思い込んだりしたものだが、今は坂口安吾って、そんな高校生の頃の自分になんか到底理解できないよな。かなりわかり難い。難解だ、と、ちょっと思う。


まあつべこべ言わずに引き続き、黙って黙々と読みます。

2007-01-19

メガマック


メガマックとかいうのが新発売されたのは知っていた。先週末、電車の中吊り広告にでかい写真広告がぶら下がっていた。それを見て、その写真イメージの、ハンバーグが二重になっていてなんかものすごい重なっている印象のぶ厚い何かが、僕の内面に感受された。妻が「あんなのどうやって食べるのかね」みたいな事を言って、そのときは僕も「どうかね」みたいに適当にレスポンスしたような記憶がある。


この時点で、多分全然、僕の意識下に上がってくるほどのインパクトはなかったのだと思う。その筈なのだけれど、でも無意識下には洗っても落ちない程の強靭さで、あたかも生渇きのコンクリートに切っ先鋭き刃物で名前を刻むが如くに、僕の不揮発性メモリにメガマックは刻印されたに違いないのであった。


さらに運命の悪戯か、会社で軽い雑談が風の便りのように僕の耳に届く…マクドナルドのサイト落ちたらしいね。え!?落ちてないでしょ混み合ってるみたいな?メガマックすごいらしいね。サーバふーふー言ってるとか言ってないとか…。これ完全に噂で真偽の程は知らぬがサイトにつながり難い瞬間があったのは事実らしく、そうかメガマックがいま巷で猛り狂っているのかと頭の片隅でぼんやり認識したりもした。


でさっき会社の帰りにふらふら駅前のマックに吸い寄せられ思わず持ち帰りでメガマックくださいと言ったら店員の子がすいませんメガマック一日限定何個かでもう無いんですもうしわけありませーんと、もうこれ以上最高のセリフを言ったことがありませんってくらいの嬉々としたテンションで言われて、じゃあいいよ邪魔したな!っつって煮えくり返る腹を抑えつつ一目散に帰ってきて今これを執筆中である。畜生!!この内容を登録する!!!!…ああ!とりあえず俺いまものすごく大衆消費社会の申し子の気分だ。久々の感覚なのだが、なぜか知らぬが、社会にコミットした!感が、軽く火照るように体内に残っている…。知らぬ間に隠しようが無いほど欲望を煽られちゃって煽られちゃって、もはやメガマック喰らう以外の選択肢があり得ない受動的主体でしかなくなっちゃってやばい!ああ一度でいいから食ってみたいよーメガマック喰いたいよー。

2007-01-18

「Live Beck!」Jeff Beck と「Post Live」Björk


ライヴ・ベック!     Post Live


ジェフベックのライブ盤を聴きつつ、新しいとはどういうことか。を考える。ジェフベックのサウンドというのは、もう昔から何にも変わっていない。ズズタン・ズズタンに合わせて弾きまくってるだけである。あるいはズッタン・ズッタンだったり、ズンガダッカ・ズンガダッカだったりするくらいのもので、その上で弾きまくってるという部分は一緒である。しかし常にとてつもなくフレッシュで目が覚めるようなサウンドとはこういう事を言うのだという感じ。ギターの音が出ていないときと出ているときの違いを、途轍もない断絶として捉えており、かつその事を事実として冷徹に認識しており、それを知った上で弾いたり弾かなかったりしているとしか思えない。その変わり目の、通常なら気づけない程のかすかな境界線を鮮やかに捉え、それまでの静謐から、轟音の濁流へと一挙に空間を変貌させてしまうようなプレイだ。ここで聞かれるプレイは、あまりにもラフで無防備で、所謂集中力を高めきった渾身の演奏。というイメージからは程遠いのであるが、それだからなおさら、演奏者が自分の音楽で捉えて置かなければならない最低限のポイントが、あからさまになっているかのように聴こえてくるのだ。


しかしこのように、「良い」と思った音楽の、自分が感じた印象とか有様を一生懸命言葉に置き換えようとして頑張るというのは空しい気もするが、きっと何かの良い修行になっているのだろう。しかし難しいのは、大体こういう感じでモノを言いたいときの常套句が脳内候補に上がってきて、これとこれの組み合わせで説明としてもっともらしい言葉になりそう。とかいう小賢しい計算を、どうしてもしてしまう事であるが、それだとそもそも書く理由であったはずの、最初の名づけ難い感覚を言語化する目的が遂行されないから駄目なのだ。書く事自体が目的で書いているわけではないのだから。その点に妥協なしで続けるのは、とても大変な事であるが、ある程度連続して何か書く場合、どっちかっていうと、妥協したい心との葛藤が一番大変かもしれない。


だから後で読んで、何が書いてあるのかよくわからない事は自分にとっては、悪いことではないと言える。まず自分最優先の文章。自分以外の人にとっては何の役にもたたない文字列の羅列かもしれなくても気にしない。再度、同じパターンで再チャレンジする時の素材ともなるだろうし、まあ深く考えても仕方が無いので気楽にやるが、それでも楽な方へ妥協しないようには心がけたい。


ジェフベックについては、古いフォーマット上で常に新しい何かを生成する。という意味の事を、まず最初に説明して定義付けたいと思った。この文章の最初のところで! …それで、ジェフベックとは別の、全く新しいフォーマットで常に過去の何かを再現させようとするような、そういうミュージシャンの事例と対比させたいと目論んだのであった。この文章全体で。それが今日の文章の概要だ。


しかし、ある意味これも小細工でありおそらく妥協の産物なのである。・・・というか、そんな大げさに言うほどの話じゃない稚拙な遊びではないか。でもこの幼い目論みを成立させたい為だけに、ふたつの音楽を召還して来ているのでは?と自らを怪しむ。そもそもこれらの音楽は、このような語られ方が相応しいのか?とか、いい様に都合よく語られてベックもビョークも気の毒だ。でもこんな風に語られてこれがblogの素敵なトコロだ、とか、そういう考え方をすると深みに嵌るのでやめた方が良い。マジで実際こんな事書いていて、一体何の意味があるのか?といつか根本的に問わねばならない事にもなる日が来るだろうけれど…。


…まあ、それはともかく、ビョークのライブ盤を聴きつつ、新しいとはどういうことか。を考える。…しかし当初目論んだ、ジェフベックとの対比というアイデアに、今、現時点で、既にかなり白けた気分しか持てない自分がいるので、ここは方針変更して「ビョーク」と書き込んだことで今たまたま思い浮かんできた雑多な思いを踏み台にして、気が済むまでビョークに纏わる内容をこれから書く事にした。


シュガーキューブスの時代から、ビョークは歌手として突出しており唯一無比でありモンスターのようであった。ソロデビュー盤のアルバムジャケットはヤケに可愛かったが、あれがこの女性の本性だなんて誰も思わなかった。それを裏付けてくれるかのように、その後リリースされていったセカンド以降のアルバムでのジャケットにあしらわれたビョークのポートレートは、手にとるのが憚られるくらい怖いものになって行った。


モンスターとしての歌手ビョークは、実のところ、それほど技術としての歌唱表現に幅がある歌い手ではない。非常に限定された、いくつかの技法の組み合わせで世の中渡ってるに過ぎないとさえ言える。ただそのひとつひとつの技が持つパワーの突出感がすごいのだ。


しかし、その幅の無さとか展開しない感じは、この歌手が本来自分の声だけで可能な限りを表現しようとする志向ではない事を物語っている。類まれな歌の力でシーンに登場してきたビョークだが、そのボイススペックの範囲内でパラメータを調節して、さまざまな音楽世界を構築しようとは考えていない。そうではなく、自分の声と関係し干渉し合うような、全く別種のバックトラックを常に必要とするのである。ビョークの声は制御されるべきものではない。ビョークがイメージするサウンドとは、みずからの歌と、作りこまれたサウンドクリエイティングとの関係に拠って生じたプラスアルファに他ならない。その声は、常に刷新され続ける最新鋭サウンドを猛り狂わせるための燃料のように降り注ぐだろう…。


そのような相互補完的関係を築くために、90年代半ば以降のビョークは、常に最先端のサウンドクリエイターを従えて仕事をしていた。自分の歌の土台となるバックトラックに、常に新しいフォーマットを必要とした。セルフプロデュースとなって以降も、サウンドクオリティの先進性に妥協を許さない姿勢は不変である。


なるほどなるほど。思いつきと勢いで調子にのって勢いづいて書いたけど、なかなかの発見だ。確かにビョークの芸風は元々単調だ。なんかもっともらしい感じにビョークについて書けたかもしれない。…っていうか、こういう話はともかく、ヴェスパタイン以降のビョークのアルバムって本当に気持ち悪くて嫌だ。あとダンサー・イン・ザ・ダークという映画をはじめて観たときは参った。あの後、一ヶ月くらいうなされて安眠できなかった。それにあのマシュー・バーニーと組んだときのアルバムなんか、iTunesでシャッフルしていて掛かると最悪で、変な細菌に感染しないうちに慌ててスキップする事になる。なんであんな気持ち悪い音楽を作るのかな。。あんなの重くて溜まらんよな。。日本でいえばACOもそうだけど、女性+エレクトロニカ=お化け屋敷という式が一時期成立してたよな…。


あと、この文章の下にあるヤツが、かなり早くから書かれてた結論部で、今となっては全然、上の部分と接合しないが、やれば接合するかもしれない。まあこれは脳内で接合された事にしておいても良いだろう。音楽のエンディングもそうだが、要するに終わったことさえ判れば、それで役目は完了なのだから。


古いフォーマットで演奏するジェフベックは、常にその見慣れた古ぼけた土台の上で、生まれたばかりの如く新鮮であり続ける事が必要なのであり、新しいフォーマットで歌うビョークは、常に刷新され、新鮮ではあるがその分荒涼とした空間をそれでも信じて、一定の音波を送信し続ける事が必要なのだ。

2007-01-17

紅白におけるDJ OZMAさんの件


DJ OZMAが紅白のパフォーマンスについてブログに書いていたのを読んだのだが、元不良的フレーバーが濃厚に漂った文章で、僕なんか読んで普通に、おお!いいねーと思ってしまったのだが。…っていうか、僕はDJ OZMAさんの音楽を聴いた事がなく、紅白も見ていなかったし、問題のパフォーマンスも未見なので(さっきyoutubeでみた)、本来この話にものすごく無縁な人ですけど、でも、あれーそうなんだ…と思ったのはネットで見る限り、このブログ内容に対する反応にネガティブなものがやけに多いことで、僕が適当にネットの情報をみたら、たまたまそんな意見ばっかり目に付いただけで、実は、賛同やDJ OZMAいいね!みたいな意見もいっぱいあるのかもしれないが、僕が取り急ぎ軽くざっと見た範囲ではとりあえず失望した。


【 DJ OZMAいいよね!ブログとか元不良的フレーバーが濃厚に漂った文章でいいよね!っていうかこの一連の騒ぎがどうとか以前にそもそもNHKとかマジうざいんだけど!頼みもしねーのにのこのこやって来て受信料払えとか督促とかバカじゃないの?つまらねーテレビばっかやる癖にさ。ケチ臭いチョロマカシばっかやってる癖にさ。自分らのそのヘン超スルーで、ちょとクレーム来ただけでキャーキャー過剰に反応しやがって低俗だの何だのエラそうにぬかしやがって使い辛いとか何とかナニサマだおまえ。事なかれ主義で結果オーライで臭いものに蓋して定年まで息を潜めて机に貼り付いてる醜いハゲのチビで年収だけは高いおっさんの巣窟に納める金なんかビタ一文ないっつーの。妻子ともども血祭りにあげたろうーか。社屋もろとも更地にしてぺんぺん草も生えねーようにしてやろかい。つーかそれ以前に年末ごろごろしやがって食い散らかしやがって家族揃って阿呆面下げて紅白なんか見やがってたまたま画面にハダカだかなんだかが出たくらいの事で子供の目線やら自分の対面やらが気になって気になっていたたまれなくなって見てられねーくらいみっともなく狼狽しやがって、何これ許せない!とか言って一転嬉々としてテレビ局にクレーム電話掛けてるアホ全員そこ並べ横から一気に乳首切り落としてやろうかゴルァ!】…みたいな意見がいっぱいあるのかと思って期待してたのだがそうでも無く、ちょっと残念であった。

2007-01-14

雪の結晶の核


大気中の微粒子を核として雪が結晶していくように、作品を生成しようと思ったらまず、雪の核である大気中の微粒子にあたるようなものを、目の前の画面上に見つけてしまう事が最優先かもしれない。それ以後は、それを核にして「絵を描く行為」を繰り返し、結晶させていく事で絵画になってしまうかもしれない。


それぞれの作者が、それぞれ大気中の微粒子を見つけ、それを起点に指定して、そこから作品を展開し続けていく。その展開の過程を、鑑賞者は鑑賞するのだが、鑑賞者は展開の過程に興味があっても、多分もともと起点となった大気中の微粒子がどんな粒子だったのか?について、それほど興味がない。それを重要視する人もいるが、それはあくまでもきっかけに過ぎないから。


野田哲也展「日記」という展覧会を観たのだが、これらの作品というのが、一点一点それぞれ「うはー」と声が出るほど無茶苦茶かっこいい。すげーかっこいいのである。野田哲也氏の作品は昔から色んな場所で何度も観てるが、それでも改めて観て、やっぱ超・かっこいい!と言わざるを得ない。カッコいいイメージ好きな人は上野芸大美術館でどうぞ。


…という事で観ながらうっとりしていながらも、しかしこれらの作品が生成していく元になった、大気中の微粒子にあたるもの「核」が何なのか?が気になっていた。作品のテーマは「日記」であり、ゆっくりと流れて来た時間の中で、家族や周囲を取り巻く環境が何の衒いもなく確かな技術と感覚で美しく定着され続けてきて今、ここに結集しているのだが、しかしそれって本当だろうか?という軽い引っかかり。家族とかそれに纏わる物語と、これらの作品から受ける絵画的な感覚との乖離を、どうしても感じてしまう。


勿論、前述したように、もともと起点となった大気中の微粒子がどんな粒子だったのか?については絵画の質を決定する要素ではない。問題はあくまでも結晶していく過程ではある。とにかくカットされてきたイメージの、画面上での定着され方がハンパなくカッコよくて、…版画とか写真って、上手く言えないが、最終的には仕上がりの瞬間を自分の手元から手放してしまう訳で、その手放して自然の摂理に従った結果として現れたものが作品であるという、そういう距離感が作者にとっても鑑賞者にとっても、ものすごく気持ち良いのだと思うし、これらの作品もその意味で完璧といって良い結果が陳列されていて、もうそれで全く問題ないという事なのだが、…とはいえ、モティーフとされているイメージが、あくまでも作品を生成するためだけに召還されているように、見えないことも無いと思った。…ただ、なんというか、これは僕の少し性格の悪さが、そう感じさせてる所もあるとは思うが、だってこれではやはり、余りにもカッコよすぎる。という感じだからだろう。もう一歩行って、やり過ぎてしまった(取り返しの付かない失敗の)感じが、全くないから。

2007-01-13

見る/見られる、など


WEBカメラとかTV電話などというものがあるが、あれは嫌なものだ。長時間、自分の顔を被写体として晒しておく事に抵抗を感じない人は、あまりいないだろう。僕はほとんど使用した事がないのだが、あれで会議とかをやってる人のモニタ画面を見ると、みなカメラの角度を微妙に調節して、自分の顔が大体上半分、つまり鼻梁の真ん中あたりまで映るくらいにしておいて、顔全体が映るようにはしていないのである。なので、4つくらいの画面に映っている人それぞれが、みんな顔の上半分だけしか映っていなかったりして、なかなか変な感じなのだが、気持ちはワリとよくわかるのである。


さらにオフィスならともかく、自宅からあんなので他人と通信しないといけないなんていうのは、かなり嫌なことだと思われる。文字情報としての個人情報なんかより遥かにたくさんの事を、背景の映像が伝えてしまうだろう。後ろに白い幕でも貼っとくとか考えた方が良いだろう。恐ろしいことだ。。っていうか、やはりWEBカメラとかTV電話というのは、その特質上、エロ産業に大きく貢献できるのではないか?具体的にどうするのかはさっぱり考えが無いけど、この映してしまう感じが剥き出しのツールは、それだけでエロい。女性の部屋をずっとWEB配信してるようなサービスはあったように記憶してるが、それではあまり面白くない。やっぱ自分自身を不特定多数にずっと配信してこそ、このツールの効果を最大限に引出せると思われる。見せられる方は最悪だが…。マゾテロリズム。


…というか、ホラー映画なんかだといきなりモニタ画面に幽霊が映る。なんていうのはよくある訳だ。アレは見てる方は恐怖だが、見られてる側は、多分かなりいい気分なのだろう。ああみられちゃった。みたいな。


カメラ目線の幽霊と、カメラを意識していない幽霊ならどちらが怖いか?という問いは、ヌードグラビアの同種を較べてどちらの方がイヤラシイか?という問いと同じで、どちらも見る/見られることに対する、その人の意識というか感覚を現すのかもしれない。

2007-01-10

Do Loop Vol.2


Bluesのスリーコード進行とか、C→F→Gとかの流れが人に感じさせるものは「起承転結」と大体、同じようなものである。始まって、基本があって、変種があって、結果また基本に戻って…。みたいな。そのような最小単位の物語性を含有しながら、かつ、ループ感も強く感じさせるという…。スリーコード進行の演奏というのは、そのような、同一の物語が微妙に形を変えつつ、果てしなくどこまでも続いてしまうような演奏である。


そもそも曲がアイドリングをはじめ、ゆっくりと滑り出し、徐々に速度を上げていくときの感覚も、始まって、基本があって、変種があって、結果また基本に戻って…。みたいな立ち上がりかたをする。…最初はバスドラムの規則的連打で、ハイハットの硬質な刻みが重なっていって、最後タムとスネアで厚みを増したリズムが完成していくという、そういう始まり方で「始まった事」が告げられ、今、リズムの只中にいて通常滑空モードに入ったビートの持続的な気持ちよさという物が中心にあるが、そこの変種として若干強度を落としたり音のバランス的に偏ったようなバリエーションが横槍的に挿入されていく事もあるだろうけど、でも最後は、ずいぶん勿体つけたりなんかするものの、かなり劇的な演出で、結局の基本パターンに戻って、それでMAXレベルでエンディングまで…。っていうのが、普通に気持ちいいパターンとしてある。


…更に上記の例えから駒が出る感じだが、クルマが地面を走るときもそうで、エンジンをかけて走り出した。タイヤと路面との摩擦がクルマを押し進める。クルマが旋回を開始する。タイヤと路面との摩擦にもう一方からの力が加わる。クルマが旋回終了する。また元通りの力配分が戻り、制御に拠って失われた当初のエネルギーを取り戻す試みが急いで行われ、回復すると引き続きタイヤと路面との摩擦がクルマを押し進める。といった運動の軌跡の反復が、強い魅力、というか、クルマが人を夢中にさせる力の根本にあると思われる。(限られた直線を走って着順を競うドラッグレースは「旋回する」替わりに「停止する」事の厄介さを代替要素として持っているのかも)


そういえばこの前近くの公園の、前方に広がっているだだっ広い空間に僕がいて、芝生の緑と土色の斑になっていて、所々西日が木陰を射抜いて差し込んでいる景色の中、落ち葉が積み重なってふわふわとした感触の地面を歩いたとき、とても気持ちが良かった。あのときは、すぐ何か、音楽が始まるとか、絵が描かれるとか、車が走り出すとか、そういう期待感が裏でスタンバイしているような、不思議な喜ばしさがあるものである。グルーブし出す事の待ちきれなさ。とでもいった感じですかね!

2007-01-09

Do Loop Vol.1


ドラえもんの漫画入門みたいなのを小学生くらいのとき読んだものだが、そこで4コマ漫画の基本概念みたいな事で「起承転結」というのが紹介されていて、そういう言葉を初めて知った。始まり→継続中→転換した→結果はこれ!みたいなヤツだ。


「起承転結」の「結」をどう捉えるか?は重要だ。「結」は起承転までのすべてを説明し、意味付け、最終的な理解に至らせるための超特権的役割を持つオブジェクトと考えるのはやめたいと思う。所謂「オチ」としての役割から開放してあげるという事。「結」が持つ関係性の強度は、その他の各種オブジェクトが持つ関係性のそれと同一でなければならない。そうでないと等しく並んだ4つのコマである意味がない。…むしろ「結」は嗜好として「起」に滑らかに繋がっていく事が望ましいと考えられるべきもので、その循環性を担う意味において重要なのではないだろうか?と思われる。


テクノミュージックでは、一旦ブレイクして、またどーん!と盛り上げるみたいなパターンがよくあるけど、これは最もシンプルだが受容していてきもちいいモノだ。こういうのには同一のリズムがずーっと、心臓の鼓動の如くかすかに通低している事が肝心で、その基盤上でサウンドの様々なバリエーションを揺らめかせる事で、強弱とか調子とか物語的な意味合いを生成させる事が可能になる。なのでこれも始まり→継続→転換→結果!みたいな4こま漫画の基本構造と同じようなもの。と、言えるといえば言えると思う。かつ、所謂「オチ」としてのエンディングは存在せず、てしなくどこまでも続いてしまうような、ある力の偏りが生じる。これがグルーブである。グルーブとは、果てしなく続く4コマ漫画のようなものである。(ただし4コマ漫画集のような、複数の物語の束のようなものではない。そうではなくて循環するひとつの物語としての4コマ漫画のようなものである。そういう4コマ漫画は既に存在するよ!と言われるかもしれないが、そういう既に存在してる4コマ漫画は、循環する事を目的として構成されている時点で駄目である。ここで試みられている循環4コマ漫画のイメージとは、循環するつもりなど無いのに、自らが持つ力によって図らずも循環としてしか現れないような4コマ漫画なのであり、そういう4コマ漫画は実際には多分存在せず、やはりむしろ音楽などの方にそれらしいイメージが多く存在すると言える)

2007-01-08

死の雰囲気、というか気分。ライフスタイル


昨年の12月20日を過ぎたあたりで、青島幸男氏が亡くなったとの記事。女優の岸田今日子が亡くなったとの記事も同日の同じ紙面に掲載されていた。その数日後、死刑囚4人に対して死刑執行が行われたとの記事が掲載されていて、さらにその翌日、ジェームスブラウンが亡くなったとの記事が掲載されていた。そして30日にサダムフセイン処刑との記事が掲載されていた。いずれも僕自身の、ばたばたと慌しい毎日の上を通り過ぎていった情報であったのだが、ああなんだか、死の雰囲気が濃い感じ。というか、気分だなあ。と感じていたような記憶がある。


合計8名のうち「著名人」が3名、「犯罪者」が5名(内、1名は「著名人かつ犯罪者」)。死因に関しては、「著名人」は病死であり、「犯罪者」は刑死である。…などと、こうして並べて記載しても何の意味もないのであるが、とにかく自分が何度でも確認しなければならない事は、目の前にある現実の空間に自分とか他の人がいることの圧倒的な独自の重さというか、そういう事である。それは気持ちを持ち続けていないと、すぐ手から滑り落ちて、どこかに消え去ってしまうので、そういう事に敏感でいたい。などと何度でも思いたい。


面白い文章を読んだりしたときは、全身の血液が入れ替わったような、湧き上がって来るような気持ちのよい精神的快感がある。まあこんな事ばっかり書いてると(すぐ身体的快楽に例えると)なんか肉体派な人っぽいのでアレだが、まあ普段の生活というのは歩いたり立ったり座ったりしているので、モノの考え方もそういうのと切り離せないのだから、やはり精神的快感は大事なのだろう。そういう活力が、自らの「ライフスタイル」を支えるのだ。


「ライフスタイル」は、自らチョイスした「スタイル」である。つまり如何なるチョイスであれ既存のフレームな訳だが、誰でも最初はすべて、そこからしか始められない。しかし、そのうち突出した能力をもつ特異な一部の勢力が現れる。その勢力はスタイルを食い破るだろう。あたかもミツバチが刺すような…。あたかも自分の描いたイメージに興奮してしまい、描画が継続できなくなってしまう愚かな漫画家のような…。ミツバチは刺したら死んでしまうのだが、いつか、死なないミツバチも現れるかもしれない。…とこれは単なる妄想。

2007-01-06

家に居ます(雨)


一日中、家に居たのだが、午前中早い時間に一回、午後に二回と、宅急便やら何かの業者やらが家に来て、玄関の先に立ってるその配達員さんの肩とかがひどく濡れていたり、受け取った荷物にかなり激しく雨跡が残っているんで、ああかなり強い降りの雨なのだろうなと思う。家に居るだけで、窓の外とか無関心でいるので全然気付かない。


そのうち妻が買い物に行くと行って外出し、少しして帰って来たので、けっこう降ってるの?と聞いたら、ううんそうでもないよ。と言う。でも傘はしっかりと濡れている。やっぱりそれなりに、しっかり降っているのだろうなと思う。窓の外を見ると、ガラス窓は曇っていて、その向こうに濡れて真っ黒にぎらついてるアスファルト路面と湿気を含んだ空気に煙った向こう側の景色が見えて、おお雨だな、と今更のように驚いた。

2007-01-05

せつないよね。でもカワイイ!


おかいもの…おかいもの…と歌うクマの、とてつもなくかわいいCMがある。あれは二匹が並んで踊るやつとか、マラカスを振るやつとか、コサックダンスするやつとか、スピードスケートするやつとか、色々と種類があるのだが、でもどれもかわいい。


ああいうかわいいものをイメージして「うはーこれかわいいよなー」とか想像してそれを描いて、そいで世間にも「あれかわいいよね」とか言われるのって、すごい良い事(成功)ってことなんだろうけど、でも本当は、そのかわいさを突き抜けて、OtherSideに行かなければいけないのであって、誰かがブレイクオンスルーするのを、みんな待ってるんだと思う。かわいくてかわいくて、思わず突き抜けてしまうという…。


っていうか、面白くないねー!!(怒)。今日も、書くことは、笑うくらい全く、ない。


猫とかかわいい。家に貼る今年のカレンダーは猫のみいちゃんカレンダーになってしまった。妻が選んだのである。でもまあ、僕も反対はしなかった。実家にはものすごくボロボロの、もうくたばる寸前のビーグル犬がいるのだが、これもボロイ故になかなか切なカワイイ。写真を公開しようかと一瞬思ったがやめさせて頂く。もう寝る。

2007-01-02

年始めの様子


気忙しい感じで毎日が過ぎて行き、なす術もないという感じの年末であった。なんというか、時間の流れの速さがすごいことになっているなあと思う。…などと今更のように書いてるのは馬鹿馬鹿しいが、生活をしてると、そのことばかり思う。


で、年が明けて、今月は先月よりもゆとりがあると良いのだが、たぶん、ものすごくゆとりがある状況でもないだろうなあと思う。というか、先月の残件から手を付けることになるのだろうなあ。と思う。引き続きの連絡をして、そのあと謹賀新年と軽く挨拶して、すべてがまたゆっくりと稼動していくだろう。


正月休みは完全な休みにならない可能性があったのだが、今のところ平穏に過ぎてる。4日にはなんかありそうな気がする。。家にいても、パソコン周辺は散らかっていてあまり近寄りたくない。テレビの画面内はこの世の阿呆らしい下らなさが猛り狂っている状況で観たくもないし音が聞こえてくるだけで腹が立つ。外出すると人混みがすごい。何もかもすり減らしていくようなすごい雑踏。マフラーの柄。コートの化繊の表面。話し声。福袋。上りエスカレーター…。


年末から年始にかけて暴飲暴食中。早いうちから飲み始めるので、普段ならビールを飲む時間あたりになると、飲み疲れてるので却ってジンジャーエールとかお茶とかスポーツ飲料とかばっか飲んでる。コーヒーも美味い。でも風呂から出るとまた缶ビールを開ける。


先週、ある方から大量に頂いた牡蠣が美味かったが、受け取りが指定日の翌日になってしまい若干怖かったので、3等分して、ひとつはオリーブオイルで焼き、ひとつはしめじと共にボイルで蒸し焼きにして、残りは土手鍋の具材にした。いずれも一晩で喰らい尽くす。跡形もなく体内で消化されたが体調は問題ない。準備中に殻をこじ開けまくっていたら、手に細かい切り傷をいっぱい作ってしまって、今は、その傷跡しか残っていない。

2007-01-01

パソコンの環境掃除


今、家にパソコンが3台あって、そのうち1台が生活においてほぼ常用しているメインPCで、もう1台が仕事関連環境を整えてある真面目なマシンで、もう1台は数年前まで使っていて今は収納の奥にしまい込んでる古いマシンである。


で、やっぱりメインのPCは使い倒してるので、いろいろと細かく自分仕様になっていて使い易いのである。しかしここ数ヶ月でどうも調子が宜しくなかったため、機会を見つけてOSレベルのクリーンアップしたいなーと考えていた。(ってか、久々にゲームがやりたくなって、そういう事する環境として整理したかったのもある。数年ぶりにグラフィックカードとか買ってしまった。4,500円の安いヤツだけどそれで充分)


で、正月休みになった。チャンスってことで、大晦日前日よりサクッと環境掃除を開始した。半日で終わる筈だった。…なんかものすごく大変だった。実は各デバイス等のハードウェアレベルで、どうにも年老いてしまっているご老体である事が実感された。リカバーCDをなかなか読んでくれなくて、40分くらい挿入&イジェクトを繰り返したりして、一時はもうすべてサヨナラかと思った。。でもとりあえず終了した。でも、一応ある地点まで復活したけど、なんかすごい駄目ーな感じのパソコンになった。今と較べたら、触らない方が3倍マシだった気がする。


でも長年使ってきたマシンである。仕事マシンとか旧マシンなんかとは比べ物にならないほど、手を掛けている筈である。もっとマトモに動いてくれ。そんな聞き分けのない事じゃ駄目だよ。。となだめつつ各操作を行うがやっぱなぜか駄目ーな感じで、かつ動かしたかったゲームソフトが動かなくて、新年早々であるが怒り狂う。


で結局、やらせたい事の半分くらいを仕事用マシンに移行して、かつ不足する項目については旧マシンの機能からその仕事マシンに移植してあげたりして、結局メインのPCでやらせたかった「仕事」をお役御免にしてあげ、仕事用マシンに別の「仕事」もさせるようにした。


現在、意外なことに古いマシンの機能が実によく働いていて(捨てるつもりだったのに!)、おかげで仕事マシン上のソフトウェアは快適に動作してる。愛着とやらが簡単に代替されてしまい、本来一番働くべきPCだけが、図らずも馬脚を露呈してる感じ。でもこいつもやれば出来る子だって事は僕が良くわかってる。ちょっと育て方を間違っただけの筈なんで、また時間があるとき診てあげます。いつのことやら。。でもマトモに動くパソコンっていいもんだなー。


…なんて思っていたらその久々のゲーム体験に30分くらいでサクッと飽きてきた。でも後始末がまた面倒くさい。ってかなんでこんな無駄な事してるのか。まあいいのか正月だし

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