「Smilin'Days,Summer Holiday」fishmans


Neo Yankees’Holiday    ’98.12.28男達の別れ



Smilin'Days,Summer Holiday は、Neo Yankee's Holidayの3曲目に収録されており、このアルバム全体の推進方向性を決定付けるような位置に置かれている。ある種の高揚感を伴って広がっていくような旋律を持ち、訴えかけるようなリズムを持つ、要所要所に物悲しいミュートトランペット的なSEが挿入され、曲全体を儚い刹那の夢のように聴かせる。


同曲のライブバージョンが 男達の別れ(Live Album)にも収録されているが、総合的にはこちらのテイクの方が圧倒的に優れているといえるだろう。ライブ後半において空間をもう一度加熱・加速させるかのように演奏される。個人的にはこの曲がドライブしていく瞬間が、アルバム全体の中における白眉と思う。


というか、おそらく僕は今、Neo Yankee's Holidayに収録されているSmilin'Days,Summer Holiday という曲が最高です。と書きたいだけである。というか、正確に言えば、その文字をタイプしたいだけでしたと言っても過言ではない。そういう事をきっかけにして、大体僕の場合は文章を書いていることが多いかもしれない。そういうモティベーションは、どこからやってくるのか?


つまり、Smilin'Days,Summer Holiday という曲について何かを書きたいという気持ちがあるが、それ以前にSmilin'Days,Summer Holiday と記述するだけで喜びが胸に沸いてくる程なので、その喜びの感じを書くべきかもしれないとも思う。


何かを書きたいというのは、その曲の魅力を解析し、文字で魅力の内訳を再確認したい。という欲望という事だが、それは「その曲」を語れる。語る対象として捉えることが出来る。という思いが前提になる。


でも、Smilin'Days,Summer Holiday とその曲の名前をとりあえず書いてみて、それをもう一度見返してみる事で、その魅力を別のやり方で再召喚させる事に、既に成功してしまったようにも思える。で、もうそのように書いたのだから、それだけで良いではないか?とも少し思う。では、それ以上書くのは何故か?それ以上書くことで、何か新たな発見があると本当に見積もれるのか?Neo Yankee's Holidayに収録されているSmilin'Days,Summer Holiday という曲の魅力について、実は何も今更僕がここに書く必要など、まったくないのだ。それは既に語りつくされている筈だ。むしろSmilin'Days,Summer Holiday とその曲の名前をとりあえず書いただけの状態に限りなく近い振る舞いこそが、もっとも正確なのではないか?しかし、こういう文章を書いたり絵を描いたりというのを、僕は100%人のためだけにやってるのではなく、むしろかなり自分の為にやってる事だと思われるので、というより自分の喜びの感覚に基づいてやっている所が多いと思うので、そういう書く行為自体から得られるこの感覚だけは手に入れたいというのがある。


話は少し脱線するが、自分の喜びの感覚に基づいて何かをする。といった部分と、自分の例えば怒りとか悲しみと呼ぶべき感覚に基づいて何かをする。といった部分もあるのか無いのか?といった事を、ここ数日考えている。僕はむしろ昔(十代から二十代半ば位まで)、自分の喜びの感覚に基づいて絵を描くとか、そういうのが全くピンとこない人であった。そういう出自の人なのが僕なのであるが、閑話休題


Smilin'Days,Summer Holidayというような曲のタイトルというのは、その言葉のイメージとか、音楽そのものとか、複数の意味が色々複雑に絡み合うので、こういう話だとわかりづらい。例えばSmilin'Days,Summer Holidayではなく、目の前に7、8本のチューリップの束があって、そのチューリップの絵を描くという事に置き換えた場合はどうか?


そのチューリップの花束から受ける印象について描きたいという気持ちがあるが、それ以前にチューリップの花束を描いているだけで喜びが胸に沸いてくる程なので、その喜びの感じを書くべきかもしれないとも思う。


あるいは


チューリップの花束を描きたいという気持ちがあるが、それ以前にチューリップの花束を描いているという事実だけで喜びが胸に沸いてくる程なので、その喜びの感じを書くべきかもしれないとも思う。


とかであろうか?なんかまとまらないので、このまま今日は終了!!


あと全く無関係な話だが、今日テレビでやってたトリビアの泉の中で、色々な乗り物に乗って流鏑馬に挑戦するというのをやっていたが、あれの中での「サイドカーに乗って流鏑馬」と「競艇ボートに乗って流鏑馬」の余りのかっこよさに超・痺れた。