ルイスを観たり考えたり


モーリス・ルイスの展示では「ヴェール」シリーズの第一室にもっとも長い時間居たし、もうこの部屋の記憶だけでも良いとさえ思ったくらいであった。とはいえ、ずいぶん長い時間、あれらの作品を観ていたにも関わらず、僕はその間中、いったい何を観ていたのだろうか。…最近よく思うのだが、僕はある作品を良いと思って、その作品の前に長い間とどまり続けているとき、いったい何を観ているのだろうかと思う。今の観かたで、本当に問題ないのだろうか?と、薄く不安を感じているところもある。昔より今の方が、作品を観る時間は極端に長くなったが、その分全体の把握力は低下した。基本的にすごく近いところで観すぎていると思う。


既に知っていることの力を借りて、今ここにある何かに対して、見る事の擬態で誤魔化す無礼と欺瞞を恥じるべきだし、そこまで言う以前に、マトモに見ればもっと単純に愉悦に満ちているのだから、そこに身を任せれば良いのだ、という言葉は、それはそれでたやすい。しかし、人が何に感動するのか?といったら、おそらくそれには二通りあって、なし崩しのなりふりかまわぬ拘泥に感動させられることもあれば、ある程度のところで切り上げるという事の、その切り上げ方に感動させられることもあるのだ。「見切る」という言い方がある。事の本質を見抜く、みたいな意味に使われるのだろうが、実際のところ、事の中に本質などないのだから、実は「見切る」は文字通り見るのを切断しているのだ。だから重点がおかれているのは見ることより切ることで、切る行為の冴えこそが問題とされている。


絵画の感動とは何か?といったら、それも一概に単純にはいえないだろうが、そこにもおそらくは二通りある。でも絵画が絵画である以上、それは「見切られたもの」「切り上げられたもの」であるのは間違いない。ルイスは意外と「切り上げ」の上手な作家なのではないか?と僕はそのとき、あえて悪意を込めて疑い深く観たりもしていたと思う。色彩もさることながら、形態に対する冴えもとても素晴らしいし、マチエルへ拘泥するときの程よい距離の取り方とか、アクセントの入れ方も、実に見事じゃないかと。とはいえ、そのように感じていたとき、その瞬間、僕はルイスの絵を「観て」いなかったのかもしれない、とは思う。(っていうか、しかし、本当に徹底的に観ているだけならブログなんて書けないという話であるよ。)


ルイスの絵のそばに居るあいだ、しばしば、なんとなく岡崎乾二郎の「ZERO THUMBNAIL」シリーズのことがふと思い浮かんできた。ルイスの作品の場合、どうやって描いてるのか?どこまで認識してたのか?把握の範囲がどの程度だったのか?どこまで意図的で、どこまで制御外なのか?みたいな事をかなり気にしてしまうのだが、どうも実際は、あの狭いアトリエ内で一応はキャンバスの全容は理解しつつ制作をしていたのだろうが、それでも本当にそれが全容なのか?というか、おそらく独りのルイスの目前にあったであろう、まだ乾燥する前のギラギラと光沢を帯びて光を反射させる水面のようなおびただしい量の顔料と溶剤の水溜りこそが、ルイスにとっての作品だったのだろうから、完成して木枠に貼られて展示されたそれらはまさに、さっきまでビクビクと動いていた魚が、既に死んで干からびて干物になったかのような印象の代物だったのではなかろうか?まあそれもこれも妄想でしかないけど。(奥さんにアトリエを見せなかったのは「ちょっと!こんなベタベタにしてどういうつもりなの?いくらなんでも酷すぎない??何しても構わないけどちゃんと掃除してよね!完全にキレイな状態まで戻してよね!!」とかウルサく小言めいて言われるのが嫌で嫌でたまらないから、そう言われる前に完璧に掃除して何事もないかのようにしておきたかったのではないか?と想像する。)


そういう事を過分に気にするのは僕個人のの問題なのかもしれないが、それはともかくそれを感じている間、なんとなく岡崎乾二郎の「ZERO THUMBNAIL」シリーズのことを思い出していて、あれはまさに、どうやって描いてるのか?どこまで認識してたのか?把握の範囲がどの程度だったのか?どこまで意図的で、どこまで制御外なのか?みたいな事が見事なまでに100%オープンになった作品だったという風に、記憶から呼び戻されてきたのだ。何しろ、絵画のフレーム全体を、トーストしたパンを持つようにして、親指と人ざし指と中指で支えて、そこに、まさに「バターを塗るように」して、絵の具を塗布したのだろうから…そんな絵画が、あったのだという事を、ルイスに見せたいような状況だと思った。ルイスの作品は、たとえば「アンファールド」シリーズなどでは、すごく微妙に、フレームのエッジに対する微妙に気になっている斜めからの流し目目線みたいな意識が感じられて、画面のエッジ部分が確固たる存在としてあってくれる事で成立したのだと思われたのだが、同じエッジの利用でも、「ZERO THUMBNAIL」シリーズのあたかもパンの香ばしく焼けた耳の部分に、バターナイフを強めにあててバターをこそぎ落とすみたいな、「描く」というよりは「なすりつける」みたいな、もはや場合によっては、真の主役である「パン」よりもバターナイフにバターが付着せず綺麗になるかどうかの方をよほど重要な問題だと思っているかのような、いやそこまで言うといい過ぎで、実際は絶対にパンの方に対する意識が捨て去られる事は無くて、ギリギリの瞬間でここぞというときの繊細極まりない配慮に満ちた手つきそのものなので、その目線の違いというか、その態度というか印象の違いがふたつ浮かび上がってくるかのようであった。


Rhythm is Rhythm で、Color is Colorで、でもそれをつなぎあわせる事の出来る何かの手触りがMixである。Jeff Millsの「Purpose Maker」というアルバムを聴きながら、京成線で佐倉へと向かった。Purpose Maker…「目的をつくる」これこそが、重要なのだ。「The Bells」を久々に聴いて、我ながら狼狽するほど深い感動をおぼえた。佐倉から美術館まではバスに乗った。バスに乗ってる間はBeach boysのベスト盤を聴いていた。秋の佐倉にはCalifornia Girlsが良く似合う。Surfin' Safariが空間に満ち溢れてゆく。。…この前も思ったのだけど、川村記念美術館に行くバスに乗ってるとき、途中に見える景色で、QVCという超巨大なショッピングセンターみたいな建物があって、その巨大な白い壁に大きく「QVC Distribution Center」という風にデカデカと書かれていて、その「Distribution Center」というグレーのゴシック体文字のあまりのデカサに、何ともいえない感銘を受けてしまうのだった。