読む


十月も終わってしまう。今日は十月三十一日である。十月に入ってから、自由な時間がごっそりとなくなってしまって、ここに何かを書いてる時間も全然ない。これはもう、どうしようもない。なるべく日を空けずに日記らしく毎日書きたいと思っていたが、現実の日数との差がこれほどになると、もはや追いつく事はほぼ不可能であり、よしんばいまから何とか十数日分だか二重数日分だかを一気に書く事ができたからといって、それが本来の日記を書いた事になるかと言ったらそれも違うだろうとも思うし、たとえば小学生が最後の一日二日で書きなぐった夏休みの日記四十日分に感じられる、あの頃のあの季節特有の乾いた陽気さと投げやりさと破れかぶれな感じと浮ついた感じの、各ページ一行か二行の、あとは真っ白な余白のそのまま夏の日差しを吸い込んだままみたいな空気めいた何かでも感じさせる事ができるのであればそれは書いてみても面白いかもしれないけど、まあほぼ無理だろう。いや実はそれに近いことが書きたかったのかもしれないのだが。毎日書いて積み重ねることが物理的に無理になってしまったけど、ある地点で半月とか一ヶ月とかいうスパンを記憶から浮かび上がらせて、それをちゃんと自分にとって切実なあの半月とか一ヶ月として文章で書くような挑戦をしてみようか、みたいな。そういうたくらみを自分に仕掛けたかったのかもしれないのだが。でも書きたいと思う内容がいつでもまだ書けていない十月の半月とか一ヶ月についてである保証はまったくないのだ。書いておかなきゃという義務の感情と、書きたいと思う衝動とは全然違う。実際に書くときは前者に背中を押されて書くのだが、書いてるうちに後者のドライブに乗っかっていくのだ。


まあ、でも書く時間はほんとうになくなった。数日書かないと、書き方を忘れる。それだけでなく、空いた時間を書く時間として上手く使うこともできなくなってくる。書こうと思えばいまから一時間かそこら書けるなあと思えるようなぽっかりと空いた時間の中で、それでスムーズにすんなりと書き始められるわけでは全然ないのだ。そんなもの、いきなり書くかとか言って書く気になんてまったくならない。なんでそんな、面倒臭いことしなきゃならないんだと思う。当たり前のことだ。意味もよくわからないような、自分で読み返しても、なんだかなあと思うような、ただだらだら長い文章を毎日毎日、けっこうな時間を使って、睡眠時間をけずってまで書くなんて、こんなばかげた事は無い。当たり前の事だが。だから、多少時間があっても、その時間も書かない。で、翌日からまたひたすら忙しくって、何も書かない。言葉がぷかぷかと浮かび上がってきて、ああこれらを組み合わせたい。構成したい。色々いじくりまわして推敲して読み直す事に没入して時間を忘れて我を忘れたい、と思う事は、しょっちゅうあるのだが。でもそれは書いてるのではなくて、書いている事を想像しているだけだ。思う事と実際にそういう状態の時間を過ごすことも、これまた全然別のことだ。そう、思う事と実践することのあいだには、大きなひらきがある。


ぼんやりしたり考え事をしたり、という事とは別の、おそらくいまの僕に可能な、数少ない実践とは、読むことであろう。その気になれば、それを毎日でも。それならばと思ってわりと本をひたすら読んでいる。基本的に、空いてる時間はほぼすべて読書にあてている感じ。平日も休日も読む。休日は一日くらいは外出もするが。でも外出理由は大抵、本を買いにいくのだが。それにしても面白いもので、通勤の行きや帰りに電車の中で本を読むときの集中力というか、ことばひとつに反応する感度は、自分でも結構すごく敏感なものがある気がする。これは不思議だ。休みの日などに家でリラックスしているときのほうが、かえって読めないのだ。


本を読めてるときは「本が読めてる」とさえ思っていない。ただ、読めているという感覚に全身がつつまれている。自分が身体の側から本の側に半ば以上ひきわたされてるような感覚。


本を開いたとき、まず自分がなんと言う作家のなんという本を読もうとしているのか、一瞬忘れてしまっている状態のまま、最初の一言二言、一行二行を、すっと読み始める事のできるときがある。そのときの、言葉がことばのままで、すっと自分の内側にしみこんでいくときの感じ。あるいは強い抵抗感と摩擦のきしりを上げながらも、それをそれとしてぐっとうちがわに抱きかかえて、ぎこちないながらも何度もまさぐってそのありようをいつまでも探ることができてしまっているときの感じ。そういう感じに、自分が仕上がっているときの読書は、すごく良いのだ。だからなるべくそういうときに歯ごたえのあるものを読んで、自分の可能な限り良いコンディションでしっかりと味わいたいと思うのだ。


休みの日などひとまとまりの時間がぼわっとあって、そのあいだずっと本を読んでいて良いような状況のときは、かえって前述したような感じで本の内容を読むのが難しいことが多い。大量に確保されている安定した時間の中で心身が程好くリラックスしているというとき、本の内容というのは端的に異物で、それを受け入れることを心身はとりあえず拒絶するもののようだ。それが拒絶しなくなってきて、本に集中しはじめると、まあ読めるは読めるのだが、それでもやはりある確保された安定したフレームの中で読むことが外側からちゃんと囲われて守られた状態で読んでいることを甘んじて受け入れている、という感覚はどこかにあってそれを気にしないでいられることはやはりないのだ。一日の膨大な時間をゆっくりと際限なくいつまでも読書に使い、それに浸っているということの妙な不自然さ、その時間そのものの不自然さが気になってしまうというのは、サラリーマンである自分に特有の感覚なのかもしれないが、それにしても朝のあの劣悪な満員電車の中でこそ、おそろしく新鮮な気分で目が活字を追うというのは、なんともへそ曲がりというか、変態的というか、いかにも勤め人的な倒錯ともいえるのだろう。