同窓会


先週末、小学校六年のときの同窓会があった。全部で三十人くらい集まって、ほとんどが約三十年ぶりに会う人たちばかりである。三十年ぶりなんていうのは実質的には初対面と同じである。名前と顔の面影で、ああ、あの人だとわかって、向こうも思い出して、会話もそれなりにあるけど、かなりおそるおそるというか、お互いに、探り探りというか、ほんとうにかすかな記憶でしか共有していないのに、妙に仲良い風な感じで話す。同窓会だからそういう風に話すべきというセオリーに従ってるような、お互いに気遣いしつつという意味では、まったく大人の社交飲み会で、気疲れもするが、まあ面白くもあるという。


でも酒が入ってくればみんな安心して次第に気が大きくなってきて、後は笑い声ばかりになる。かなり面白かったけど、でも改めて、ああやっぱここは田舎なんだなあと思った。実は、それまで自分の地元をそれほど田舎じゃないと思っていた。都心から離れているけど、いわゆるベッドタウンで、東京勤務の人々の寝床で、昔ながらの先住民も少なくて、だから感覚的には地元意識とか持ってないのかと思っていたのだが、でもそうでもないんだなというのが、今回印象的だったこと。


まあ、家業を継いだり、地元に勤めてたり、自営で商売してる人もいるし、家族がいて、結婚して子供を小学校に通わせてたりしたら、そりゃ地域に根ざすのも当然といえば当然だ。じつに、当たり前。と思って、まあ、なんというか、やれやれ面白かったけど飲みすぎてくたびれた…という思いで帰ってきたのだが、でも数日経って、色々思い出すと、やっぱり同窓会って、すごく面白いものだとも思うのだ。たぶん小学校のときの同級生って、結局みんな過去の記憶の中の登場人物なので、そういう人たちと現実に直接あっても、どこにでもいるような現実の人間なのは当たり前で、でも後になって思い出すと、過去の記憶と程好く溶け合って滲みあってきて、あの人があの人だという事実それ自体がものすごく面白いと思ってしまう。要するに、過去を振り返って思い出すことで、はじめてそこに焦点があう人々と、ある現実の夜に再会した。だからその再会もまた、後になって思い出すしかない、という感じなのだ。そうして考えていながら、なんだかとてもたのしい思い出に新しい色合いが増えたようにさえ感じてしまうのだ。ほんとうにみんな今を生きているのに、みんな死人のようで、死人との再会のようだった。思い出の中にしか存在してないのだから。たしかに顔を見合わせて「あ!お前坂中??」とか言われる瞬間、相手は幽霊を見たような顔をしている。


たぶん三十年前の自分を思い出してあげないと、駄目なのだ。降霊術というか、過去の自分を呼び起こす術を使って。同窓会なんて、今の自分には、ほとんど何の意味も無い。それは三十年前の自分に教えてあげたかった事なのだ。早く、教えてあげないといけない。だから、その当時の自分に何とか教えてあげたい。子供の頃の自分に届けたい。お前は、三十年後に、同窓会をやるよ、と。


お前はこの後、何十年も生きて、やがて四十歳になるよ。そしてあいつもそうだ、彼女もそうだよ。お前がいつも一緒に遊んでいたあいつは、三十年後には、笑顔を浮かべて僕の前に座っていて、なにやら居心地が悪そうな、余所余所しい態度でビールを飲んでいるよ。…そんなこと、想像もできないだろう。そんな時間が訪れるなんて、まったく理解できないだろうな。


小学生の頃、結局一度も話をしなかった相手とも、三十年経ってお前は、当たり前のように話をするのだ。でも、それがほとんど初めての会話だということを、なんだかお前がわざわざ気付かせてくれるかのようなのだ。そんな風に思ったので、だからこうして、僕はお前に話しているのだ。こうして、やっと初めて、あの人とも話をする事ができたよと。三十年かかって。やっとだ。どうやら相手は、そんな事に少しも気付いてないようなのだけれども。


やがて四十歳になるお前は、そうやって如何にもなもっともらしい態度で、誰彼と挨拶して、如何にもふつうにその場を楽しんでいるようだったよ。まったく想像もできないようなことだと思うが、今、お前のいるその世界は、あと三十年後も経てば、この居酒屋の一角に凝縮されてしまうのだよ。いつか、みんながこの店にいるよ。いまお前がわからないまま抱えている何もかも、全部の答えが、ここに用意されているよ。だからお前は、今そこで、仮にたった一人だったとしても、そのことで何も悲しんだり恐れたりする事は無いよ。…結局、何もかも、みんな帳消しだよ。