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2012-10-31

開高健の「珠玉」という小説は、ちょっとこれは…どうにもキレてなくてイマイチ、と思ってひとまず途中で読むのをやめてしまったのだが、最初の方の、下記の部分はすごく好き。まあ、なんかいかにもな感じだが、それでもここに、僕が酒を飲みたくなる理由というものが見事に書かれてる、と思ってしまう。「研ぎたてのナイフの刃のような一杯」・・・そうなんだよ、ドライ・マティーニって、まさにそういう感じなんだよ、と思ってしまう。あるいは、ついこういう文章であらわしたくなってしまうような、あの酒が、いかにもそれ特有の味わいと香りをしているということでもあるだろう。

バーテンダーの内村は初老の薄髪頭を傾けてマーティニを作りにかかる。氷を白のヴェルモットで洗い、お余りをいさぎよく捨てる。ヴェルモットの薄膜で氷片を包むという形である。それを手早く水夫用のどっしりしたグラスに入れ、あらかじめ瓶ごと冷蔵庫で冷やしてあったジンを注ぎ、レモンの一片をひねってあるかないかぐらいの香りをつける。すると、研ぎたてのナイフの刃のような一杯になる。一日の後味をしみじみと聞ける一杯になる。

開高健「掌のなかの海」16頁

朝から明滅しつづけてあぶりたてる青い火は一杯のマーティニで消えるものではなく、むしろ、いよいよ深く沈んで炎のない熾火のようにどこか手のとどかないところでくすぶりつづける。けれど、それはそうだとしても、最初の一杯の冷えきった滴がひとつ、ふたつところがり落ちていくうちに、あくまでも見せかけとはわかっていながらもなかなかの出来と感じられる中和がじわじわとひろがって、無為の苦痛をやわらげてくれる。

同21頁

2012-10-29

 「辻静雄コレクション3」を読んでいて、あまりにもおいしそうでおいしそうで、ほとんど気絶しそうになる。これは大げさに言ってるわけではない。読んでいると実際に、意識が薄くなってきて、今立っている場所がどこなのかわからなくなるくらいに酩酊してしまう。この世の天国が描写されているように感じられてしまって、ほとんど空腹が突き抜けて、今いきなりこの手で犯罪をおかしてしまいそうな予感さえおぼえる。

 どこを開いて読んでも全部気が狂うが、とりあえず適当に開いてちょっと読んだだけで、これはもう・・・万死に値する。とにかく全編が、まあ自分などには、一生縁のないようなレストランや料理で、そういうのがそれこそまさに夢のようにいっぱい出てきて、ほんとうになんとも、感無量の思いである。


 食事はコンフィ・ドワConfit d'oieから始まった。(…)鵞鳥をその脂でゆっくりと煮上げてから、皮をパリパリに焼き、にんにく入りのじゃがいものソテーと共に出される料理なのだが、つくり方がフランスの本当の田舎風なので手がこんでいる。ボルドー近く、ランド地方の名物だから、つくり方にうるさい人が口を出したら、きりがない。

 血抜きをして羽根をむしり、ちょっと火であぶってから、先ず、つめたくなるのを待つ。それから、徐に背中へ、頭の方から下に向けて、深い切れ目を入れて、だいたい四つ割りのように、切り分けてしまう。

 こまかいところまで説明すると、この切り分ける時に必ず、骨に肉がついているようにしておく。さもないと、あとで火を通した時に肉が縮んでしまうのだ。さて、ここで粗塩をびっしりと塗り込んで、四日間くらい瀬戸物の壷に入れてしまっておく。

 四日待ったら、肉の生を塩漬けみたいにしておいたものだから、少し、臭い。くさったような匂いが出てくる。この塩を全部きれいにふきとって、それから次のような脂の中で、一時間近く煮込むのだ。

 この脂が問題なのだ。先ず鍋に豚の脂肪のこまかくきざんだものと鵞鳥を掃除したときに残った脂を一緒に入れる。鍋の底に、水を少し加えて、ガーゼのようなものに、にんにく、丁字、粒胡椒などをくるんだのを入れて弱火で、よくかきまわしながら、脂肪を七割がた溶かしていくのだ。

 ここで、初めて四つ割りにした鵞鳥が入る。一時間煮込んで、中まで火が通ったら、鵞鳥は取り出して冷ましておく。残った脂は一度こしてから、強火にかけてぐらぐらいわす。というのは、こうすると鍋の表面に泡が上がってくるからだ。この泡は塩そのものなので、これを取り去っておく。この脂に充分火が通ったかどうかを確かめるためには、脂の色がブロンドになったかどうか、見たらよいという。

 さて、仕上げは内側に釉薬をかけて焼いた陶器の中にとりあえずこの溶けた脂を半分くらいまでうまるように注ぎいれて冷まし、ドロッとしたところへ、骨つきの鵞鳥を入れることになる。こうして、肉が器の内側に直接あたらないようにするわけである。

 どっぷりと鵞鳥が冷め加減の脂の中へ鎮座ましましたところで、あとの残りの脂を注ぎ入れて、それから二日間脂の中でお休み戴き、そのあいだに出てきたすき間にもう一度脂を注いでかたまるのを待つという趣向である。このあと硫酸紙のようなものでびっちりと表面を覆うように蓋をして、陽の当たらない暗いひんやりとしたところで保存しておくというわけである。

 これは、あたためなおしてもよいし、つめたいまま食べることもできる。

 ワインは、地酒でいこうと気取るなら、砂地で育ったブドウからとれる文字通り"砂のワイン"ヴァン・デ・サーブルVin des Sablesをとってみるのも悪くはない。


辻静雄コレクション3「ヨーロッパ一等旅行」29〜31頁

2012-10-28

 肌寒い。しかしこの肌寒さがいいのだ。今も窓を空けている。冷たい空気は、冷たい飲み物のように快適で、目の覚めるような思いだ。

 西日暮里に着いたのがたしか既に夕方の五時過ぎで、その時点で空は夜の一歩手前の薄い膜がかかった濃い青色で、雨も降っていて、空気は幾分か湿気を含んではいるがしっとりと冷えていて、この冷たさが、秋の夜の手前の時間特有のものらしさだった。とてつもなく巨大な満月が出ていて、僕はそれを見上げたが、妻は別のものを見ていた。という記憶があったが、それは間違いで、それはさっき見た映画の中の出来事だった。

 東京駅の地下でのオー・メドック・ド・ジスクール2008年とラ・ピエレレのシャブリ2009年を買う。あと、お弁当を買う。持ち帰って家で食べるには、東京駅の地下がいまもっとも色々なおいしそうなものがあって楽しい。

 それにしても渋谷の人込にはいつものことながら辟易とする。

 ユーロスペースという映画館に行ったのはこれがはじめてなのか。前に、ここに来た記憶にない。地図を見ながら、どうもおかしいと思いながら辿りついたのだった。以前カサヴェテスを観に来てから、半年も経ってないのに、なぜこれほどきれいさっぱり記憶から欠落するのかと思って、よくよく調べてみたら、カサヴェテスを見たのはイメ−ジフォーラムだったようだ。ふたつがひとつに、混同していたようだ。もし地図を見ずに以前の記憶で歩いていたら、まるで別の方向に歩くことになって、確実に上映時間に間に合わなかっただろうから、危ないところだった。しかし、ユーロスペースがはじめてということはないと思うが、来た記憶はない。十年以上前なら来てるのかもしれないが。

 ロベール・ブレッソン「白夜」をみたいと言ったのは妻で、僕はあまりよくわかってなくて、わりとどうでも良かったのだが、妻に付き合って観に来た。観終わって、これは観ることができた歓びをかみしめるというような思いだった。そして愚かなことに僕は、この映画をブレッソンという映画監督の新作映画だと思い込んで観ていて、終映後にポスターをみて1971年の作品だということをはじめて知って、たいへん驚愕した。

 「白夜」をみて、これが少し昔の映画であると気付かないというのは、これはいくらなんでも、鈍いというか、いったい何をみているのか、我が認識能力を疑う、いうより他ないような気もするのだが、まじめに見ている間中ずっと、気を確かにしっかりと、これは「今の」映画だと思っていた。主人公が操作する、あの旧式なカセットレコーダーをみているにも関わらず、その「今」を疑わなかった。自分でも不思議である。

 映画館を出て、ポスターの表記を確認して、本当にこれが1971年の作品だというのら、なおさら物凄いではないかと、まず最初にそう思ってしまった。

 最初から最後まで、なにしろ、きれあじの凄まじさが、ほとんど圧倒的である。媚を含んだ空気など微塵もない、徹底して孤独な、毅然としたたたずまいの、作品が作品であることにまったく妥協しない強さ。そういうものに、姿勢を正すような思いにもなり、同時に、完全にくつろいだ、このまま上映時間の間中、これに身を任かせていれば良いのだという深く沁みこむような歓びがわくのも感じた。

 しかし、その良さとは一体なにか。映画を、僕はそう好きではないのだ、と、映画を観ながら何度か思っていた。セーヌ川を屋形船が煌々と電気を照らしながらゆっくり進むシーンを僕はじっくり最後まで観た。それを観ながら、これがいい、というのは一体、何がいいのかと、ほんの一瞬でもそう考えていた。これがいいと思わなかったら、これは良くないではないか。そう思うか思わないか、いや、そう思うもっと手前の問題ではないか、良いとか悪いのと、そういうのはじつは、あまり重要ではなく、この神経の張り詰めたような物事の切り分け方、出来事の並べ方、音楽の立ち上がる瞬間と断ち切る瞬間、その余韻、明るみと暗さの重なり、色の問題、質感の問題、それらすべての繊細かつ大胆な混ざり合い、そういう流れそのものを、目の前にやり過ごすということの、一体なにを「良い」と名指すのか。良いなどとは間違っても言葉に出来ないものを観ていると、それをはじめに認めなければそれ以上にはいかないのではないか。

 それにしても、あのようなうつくしい光線の当たってるヌードを見たのは一体いつ以来なのか。ぼんやりと記憶の奥から浮かび上がってきたのは、学生時代に、午前中のヌード部屋でモデルがポーズをしていたときの時間で、自然光を受けて直立しているヌードモデルの肌の感じであった。人間の肌にあたる光と、その陰翳のやわらかさ。僕はこのようなやわらかな光の強弱を昔から知っていて、だからこそそれは視覚的なものをはるかにこえた強い記憶の切迫感を伴って迫ってくるので、あまりにも鮮烈で、思わず息をのむようなものだった。

 全編、色のうつくしさ、それだけで充分だといいたくなる。

 出かけたのは昼過ぎだった。前日は久々の友人七名と会合。これだけ集まると、割り勘で色々なワインを飲めるのが良いと思って、シャブリ、サンセール、メルキュレー、何だか忘れたけど最後もう一本。それでも七人もいると全然あっという間で、ただテイスティングしているだけみたいでつまらない。しかもけっこう高くついた。全体の平均年齢がやや若いと、年長の自分はどうしても総額を少し気にしないといけない立場でもあり、あんまり無鉄砲に注文を続けるわけにも行かず、なかなか難しいものである。

 外で食事するとき、夫婦二人で、白赤各一本空けるというのはそれなりに大変なことで、やれば飲めるが毎回だとしんどくもあり、だからと言って白は重厚に終わって後半の赤が軽いグラスワインではまったく尻すぼみで、だったらでは五人や六人とかそれ以上だとどうかと言えば、全員がワイン好きなら話が別だが、そうでもなければワイン攻めは高く付いてあまり良いことにはならない。だとするとベストは三人で、食事とワインで、白赤各一本で、その後さらにやや強めの酒もいただきつつ終えることができるのでベストに近い。こうなったら、誰かを加えるしかないか。

 土曜日の二時に公園口に集合した。少し早めに行って、ベンチに座って「サラサーテの盤」を読む。一時五十分頃に読み終わった。 

久々の上野動物園ではパンダを見て、鷲、鷹、ミミズク、コンドルを見て、テナガサルを見て、ゴリラ、ホッキョクグマ、アザラシ、夜の森の生物、ペンギン、ニホンザル、ゾウ、ツル、ハシビロコウ、フラミンゴ、爬虫類。蛇の表皮を見て、それがそのまま鞄になったときのことを想像した。金色の金属を取り付けてあるところを。そのとき、同行していた女性が、後ろからワニに抱きつかれて水槽に引きずり込まれた。ワニは先月三十歳になったばかりのその女性を羽交い絞めにしたまま後ろ足で飛び跳ねながら遠ざかり、やがて自分の寝床に潜ってしまって見えなくなった。伝説は本当だったのだ。

 しかし、前にもそう思ったのだが、やはりヘビクイワシは、僕が好きな鳥なのだ。なぜなら、黒いスパッツを穿いていて、いつも檻の前にいて、すごく自己顕示欲が強い感じなのに、表情は妙に媚びたような、自分のあどけなさ、はかない可愛さをちゃんと理解して振舞っているような、そういう如何にもわかっているかのような態度が、なんとも久しぶりに会った、いつ会ってもほんとうにこの人は変わらないなあと思ってしまうような、そういう人の感じがするからだ。目は合わさないのに、常にこちらを意識して振舞っている。いつもいつも、何も変わらず、何十年経ってもそのままなのだ。

 肌寒い日だったが、この二日間、雨が本気になって降ってくることはついになかったので、これは恩恵といえる。

・・・金甌日の夜もそういえば飲んだのだった。久しぶりの祐天寺。ワインはフィリップ ド メリー シャブリとミュスカデ・セーブル・エ・メーヌ・ロイヤルオイスター。牡蠣をむさぼり喰った。

 これで、ようやく思いが晴れた。いつもの短い週末のはじまりだった。

 トピックとしてはやはり、「サラサーテの盤」読了、ということであろう。これはしかし、今までこれを読んでいなかったとは、まったく自分は何もものを知らないので、我ながら呆れてしまう。そもそも前述のとおり、ブレッソンという映画監督の事だってほぼまったく知らないままというのも、いくらなんでも酷い話だ。僕の場合、そんなのは、いくらでもある。こういうのが育ちの悪さではあるが、まあこれから色々楽しいと思えばやはりそっちの方が楽しみである。いつまで経っても旨い酒が旨いということである。

 ツィゴイネルワイゼンサラサーテ、と聞いて、ユーチューブでそれを聴いて、思わず全身が硬直していまうような強烈な演奏で、その名残が身体にずっと残っていて、それで店で二本目のワインにサンセールを注文したのだった。サラサーテとサンセール。ものすごく関係がないが、サと字数と発語の感じで。

 ロベール・ブレッソン「白夜」の、音楽のあの驚くべき切れ味の鋭さ。始まり方と終わり方。それだけではっきりとざらつきを感じるかのような手つき。作品は常に手に触れず視覚や聴覚で感じ取るものだが、物質の扱い方だけでそこにありありと手に触れた感じと痛覚や苦味のような神経の反応を幻想させる。あるいは麻薬的に陶酔させる。

 さあ十一月だ。まだまだ引き続き、怯まずに行こう。

2012-10-26

さあ、これから、書くか。

(ため息)

まじかよ。ああ、まじだ。

うそだろ。

・・・目の前のカレンダーが、まだ7月8月のままだった。今気付いたので書いておく。

めくらないと。でもめくったら、あの絵じゃなくなってしまうのか。それだとどうなのか。

一ヶ月や二ヶ月でめくってもいいと思えるような絵だとつまらないということだ。見たい絵を、月日に関係なく見ていたいのだ。

まあでも、めくって捨てた。

新しい絵はどんなかと思ったら、新しい月は、絵がなくて白紙だった。来月以降もないみたいで、真っ白のままだ。

夫婦だとワイン二本は相当大変だが、男三人だと余裕過ぎておそらく三本でも足りないようだった。

祐天寺の駅のホームはコンクリートのだだっ広い殺風景さで、人気のない魚市場とか豚が一匹もいない養豚場のような感じがする。

駅が元々、昔はどこも大体こんな感じだったのだろうという面影が残っているような駅だと言える。

十九時四分。

降り立って改札を抜けて、しばらく散歩してみる。

久々の東口。前に来てから一年は経ってないが、半年以上が経っているはず。狭い駅前。前方に広がる空間も狭く感じる。小さな町。

ワインは、まあ何でもいいやと思って、冷蔵してある安いシャブリとミュスカデ・セーヴル・エ・メーヌを買う。

男三人で、次にはどこの店に行こうかを検討する。僕が、次はあの肉料理にしようと提案した。ただし、若干高い。酒も含めたら、あまりにも凄い高級価格になってしまうだろう。

でも皆、その気になってくれている。すごい。では、本当にいつか行こう、年末までに行こうという話になった。

店で、おおいに飲み食いして、揚々と店を後にして

それで、そのあと、電車から、転落か。

まだ意識不明の重態だ。

夜明けまでには皆が駆けつけることだろう。

まったく、大変なことに、なってしまった。

というのは嘘で、普通だ。

つまらない。ああつまらない。

酸もミネラルもしっかりとしているのがいい。口内で爆発するような抵抗感を感じさせてくれ。

まったく、なんでもかんでも、腹におさまってしまうものだな。

塩。やっぱり塩が決めてだな。

塩でいただこう。ほんとうに、塩でいただいていこう。これからは、すべての塩に気付こう。

では僕、もう行こう。

2012-10-25

お茶は福寿園のなんとかを飲んでいる。先週まで、それとは別のいいかげんなどうでもいいような安いのを飲んでいて、これがあまりにもいまいちだったので、こないだようやくなくなってくれて、それでやっと、あたらしいなんとかいうお茶を買うことができた。お茶もおいしいのはじつに香りが高くて、朝飲むとそれだけで口内から鼻の奥から頭の後頭部の方にまでお茶の香りが満ちるかのようで心地よい。もともと埼玉の実家はお茶の産地で、近所に製茶所の直営販売店などもあり、家にあるお茶は基本的においしいものだったが、当時はお茶などありがたくもなんともなかったので、味わいだの香りだのもどうでも良かったのだが、最近はやっぱり香りが大事で、それが無いとつまらないように思ってしまう。まあ、なんというお茶の銘柄なのかはよくわからなくて、またそういうところにまでこだわり始めると色々うるさくなるので、今のところそれはどうでもいいと思っている。とりあえず百グラムで千円以上するやつなら、だいたいみんなおいしいと思うその程度。もしその値段でおいしくなかったら頭にくる。

2012-10-22

ご不在連絡票

お届けに参りましたがご不在でした。

今回お届けのお荷物は

眠さがもう、すぐそこまで来ている。

2012-10-21

横浜ベイという名前の酒はないのか。なんとなく、ありそうじゃん。

横浜というと、酒っぽいのだ、でも毎日横浜にいるけど、あまり酒っぽくないな。

中学二年のとき、ジャスミンのお茶、という言葉をはじめて知った。

ジャスミンのお茶を知ったのではなく、その言葉を知ったということ。

そういう風に成立する、という現実を、はじめて知ったということだ。

現実を知るとは、つまり、横浜ベイという曲が終わって、レコードを裏返して針を落とすと、そこに海辺のワインディング・ロードという曲が始まるときの、その感じを知る。ということなのだ。

中学のときというとほとんどすべてが、そういう現実を知ったことの記憶ばかりだ。

それにしても、RCサクセションの「ハートのACE」というアルバムは、今聴くと、ほんとうに音がしょぼい。

もし当時のラジカセで聴いても、今持ってる再生装置で聴くのと変わらないだろう。

その意味では、もうこのようにしか再生できない。もう二度と今までのようには見えない。

仲井戸麗市のGloryDayは、数年に一度、聴きたくなって、これを聴きたくて今でもたまに仕方なく「ハートのACE」を聴くことになる。

レゲエのリズム。ジャマイカからやってきた。イギリスへ。ドイツへ。アメリカへ。船便直輸入。赤道を何度かくぐって。

しかし聴いても聴いても、この曲は、何を言っているのかさっぱり、はっきりとは掴めないのだ。

曲や詞のことではなく、どうも、何を言っているのかを聴く気が、そもそも自分にあるのか、そこが判然としない。

でも数年に一度の頻度で、性懲りもなく、また聴きたくなるのはどういうわけか。何年経っても、かわらずじっと、何を言っているのかを、ひそかに気にしているということなのか。

夜中にたずねて、君を起こしたくて、車を飛ばした、という最後の部分にいたる理由を知りたいと思っているのか、だとして、それでも何度聴いても、ほとんど、理路整然とした話が導き出されるわけでもないようだ。マトモに聴くべき言葉なのかもわからない。

RCサクセション「ハートのACE」85年11月発表。

しかし、暗いアルバムだな。曇天の、冬の光をほとんど通さない分厚い雲の下で薄暗い部屋の中でストーブの赤い光りを見ている。

山のふもとで犬と暮らしている、みたいな、こういう昔作った曲も平然と順々にアルバムに入れていくから、アルバムの中に異なる時代の異なるものが無節操に詰め込まれて渾然となって、得体の知れない全体的な雰囲気をまとう。

それにしても、昨日も今日も二日とも、からっとした天気で良かったな。

先週とはうってかわって、さわやかな秋の空でした。

昨日は丸の内でシャルダン展をみた。これは良かった。

二重橋前で降りて1で出たけど、3の出口から出る方が近かった。先々週の記憶があって勘違いした。

レンブラントみたいな、茶褐色の画面全体にして、静物なら静物の、個々の、描くべきところを描いていって、あたえられた箇所に場を作っていくのだな。

17世紀オランダ風の、もう誰もが好きな、おいしい料理はおいしいように、油彩画の素晴らしく調味された味わいの、実に、よろこばしい。館内は比較的空いてるのが不思議。なんで空いているのだろうか。

むかし、高校生のとき、石膏デッサンの講評会で、先生が「お前の絵は、旅してねーんだよ、なんで、旅しねーんだよ、お前の絵は、ここに溜まった黒のトーンが、ここで、びたっと止まっちゃってるんだよ、この黒い塊はなんだよ、そうじゃねーだろ、この黒はもっと、さーっとこっちに行って、さーっとこっちに広がっていって、もっと呼吸して、もっともっと、いっぱい旅しねーとダメだろう。画面いっぱいに、旅するんだよー」云われたのは僕ではなく、誰か他の人。その人の絵は僕はすごく好きだった。好きというか、ああこの人は力のある人だなと思っていた。上手い下手ではない、何か違う感じ。はっきりとした匂いがあるというか、頑ななものがあるという感じ。繊細さとか、壊れやすさとか、そういうのはじつは意外と、頑なさからうまれる。そういうタイプだったはず。たぶん若いときにはよくある話。

シャルダンの静物画を見ているとき、その昔の記憶が蘇って来た。旅ね、そうねえ。と思って、苦笑した。

かたちは旅する。絵画ではいつもそうだ。かたちは、その場に固定することがない。

静物画が、このあとなぜ、セザンヌの地点にまで行ってしまうのか。18世紀に描かれた静物画を見るとき、セザンヌのことを思い浮かべないでいるのは難しい。というか、潜在的な、セザンヌを探す旅になってしまって、そうではない旅程を計画するのが難しい。

なぜ事物は、振動しはじめて、一秒もその場に固着しないのか。なぜ今、目の前にあるその形は、ほかとの関係を良好なものとせず、醜く歪みねじれようとするのか。なぜかたちはかたちであることから逃れよう逃れようと、そのことしか頭にないかのようなのか。

シャルダンや、レンブラントは画面の中で、いったい何を生かすために、何を犠牲にせざるを得なかったのかを考えていた。シャルダンの静物に多く見られるモティーフのブドウ。その果実を見ながら、ここに起こっていることは何なのかと。まるで画面そのものを、その場で直接煮沸させて、ぶくぶくと泡立たせて、湯気を立てて沸騰させているかのような、事物というよりは出来事としての、記録といっても視覚的なものではなくて、温度センサーとか天気図レーダーのような、あまりにも暫定的な、一秒後にはまったく成り立たないような、そのような場に備えた、そのような認識の必要性を促すような、茶褐色の画面の中の出来事のマナイタの上のような、まったくよるべなき革命前夜のパリの画面内空間。

買った本は、ジュネの葬儀、すっかり嵌っている開高健のずばり東京、クロードシモンの路面電車をちょっと立ち読みしたが、買わなかった。カネを温存した。またいずれ。買ったワインはオー・ド・プジョーメドック。ムルソーのシャルドネ。ラロッシュのシャブリ。食事は家。

カネを使いすぎだ。みずほダイレクトに申し込む。いくら入っていくら出てるのか、ちゃんと見るようにする。

2012-10-18

 涼しい。というか、肌寒い。肌寒さとは、こういう感じだったかと思い出す。上着を着て歩くこの感触がよみがえる。雨が降るが、雨が降るものだ。この季節なら。雨が降るほど如何にも十月らしい。

 内田百けんの「サラサーテの盤」を読む。すごくて、ニ、三行ごとに止まって、その場で唸ってしまう。読んで興奮するとか、緊張するとか、胸が高鳴るとか、そういうことではなく、なぜかかなり冷静に読んでいるのだが、何しろ、自分のそれまで考えてきた色々なこと、というか、ああ、それは僕が前から見ていたものだよ、と思わず言いたくなるようなことが、驚くほどほとんど、すべてここに書いてあった、などと思ってしまうような印象で、ある一行に出くわすと、じゃあその先をどうする?という思いで、もしも僕ならどうするだろう、という思いも含めて、期待を膨らませて、じっくりと読んでしまう。でも、そう思いながらも、味わい深さというか、真の魅力ともいうべき部分はほんの些細なところに宿っていて、なにしろ風景描写ならびに自然環境から受ける印象の記述が、その場で虚空に突き放されたような、とんでもない冷ややかな感触で直接肌に触れるように立ちあらわれるので、毎度ながら、たった今、読み終えた一行の方に素晴らしいものが多々あって、それを振り返っているのにも、時間をつかってしまう。

2012-10-16

むしろ、こうしてPCの前にいる時間すらない方が良いのだ。そのほうが堂々と書かないままで済ますことができるからだ。困るのは、今このときのように、普通にPCの前にいて、その気があれば、5分でも10分でも、ちょっとその気になりさえすれば、なんでもいいから、とりあえず、何かは書けるでしょう?と仮に云われたとしてもなかなか反論できないような、こういう、すべてが終わる直前の、この中途半端な、こういう瞬間なのだ。こういうときにはっきりと、いや、今日は何も書きません、今日はもう寝ます。あるいは別のことします。と、そういう決断を下すのが、もっとも難しい。

2012-10-15

冷えた空気。キンモクセイの香りが鼻と口から嫌でも入ってくる。睡眠不足で、朝の電車で眠っている。明日もそうかもしれない。もう早く寝よう。と言いながら既にこの時間だ。一昨日買ったシャブリを飲んでいる。ほんとうにおいしい。とっくに夕食は済んだのに、ワインだけをまだ、意地汚く少しずつ飲んでいる。早く寝た方がいい。いつも電車は新橋を過ぎたあたりで乗客がごそっと降りる。座るとすぐに眠る。三十分くらい眠る。桜木町で降りる。冷えた空気。そこを通るたびに、キンモクセイの香り。

2012-10-14

目が覚めると、薄暗かった。家の中も暗く、外も暗い。日のささない一日らしかった。肌寒かった。横になったまま薄い掛け物を身体に掛けなおして、枕元を手探りして、昨晩眠るまで読んでいた本が伏せてあるのを拾って、その続きを読み始めた。開いたページも朝の光をほとんど反射せずに薄暗い色をして、中の活字がぼやけて沈んでいた。一時間ばかりそうして本を読んでいた。起き上がってコーヒーを淹れた。マグカップの中が、影のように底なしの暗さで、目の前に来て急に白い湯気がゆらめいた。部屋全体が薄暗いが、照明を点けようとは思わず、このままじっとしている方が良かった。このように薄暗い日が好きなのだと思った。薄暗さが、もののように纏い付く感じだった。雨も降ったりやんだりしたらしいが、部屋の中にいるぶんには静かで外の様子に気がつかないほど、全体が薄暗すぎる日中だった。ひきつづき本を読んでいたが、読むというのも面倒なことではあった。集中し続けることなど、面倒にきまっている。そもそも、はじめから本を読みたいと思っているわけではなく、昨日まで知らなかったことをを知りたいと思っているわけでもなかった。新しいことを知りたいから、本を読んでいる訳ではなくて、薄暗い箇所に光を当てて、内訳や構造をみたいからということでもなく、読んでいると、そこにはじめて、自分の興味があるのを発見することがあって、それで仕方がなく、というか、しいて言えばそうかもしれない。しかしそれとも違う。はっきりしていることとしては、とにかく読んでみるまで、何が出てくるかはわからないので、そこは何かが出てくるまで、ある程度根気よく、待つことは待つ。そこだけは、なるべく緊張して待つ。しかしある意味それだけで、それ以外は何の努力もなければ誠実さもない。ほんのかすかなものを拾うためだけに、かなりの時間を使って、大量の時間を浪費している。それが、読むということだ。毎回、出来事が起きるたび、それが、私の時間の無駄という、そこに自分特有の経験の記憶、自分の過去というか、固有性があって、読んで感じられた出来事とは、その私の上での出来事であることを痛感する。他人が何と言おうが、自分がそのように感じてしまって、自分にとっての過去にそのような事件がおきてしまったことを、自分なりに確認する。なぜ、そういうことになってしまったのか?それが、この作品ということそのものだったのか?これを読んで、今、そのようなことになってしまった自分とは、一体何なのか?それを、またさらに本を読みながら考えて探り続けるということでもある。なぜ自分は、こうして今までもこれからも、ずっとひたすらに、間違い続けているのか?ということでもある。こうしてひたすら、間違い続けていること自体に、偏差としての自分の特長みたいなものがあらわれているとして、しかしやがて、ゆっくりとしたスピードでいつかはそれも是正されていって、小さなでこぼこがやがて削られていき、こうして余剰は、少しずつ消えていくし、不純な部分はろ過されて、本が読まれたということだけ残っているような、かつて二人が暮らしていた、いまは誰もいない薄暗い部屋になるのかとも思う。

2012-10-13

今日の、外を歩いているときの、気温や日差しの過ごしやすさ。とくに夕方以降の、日が落ちてからの、ほんとうならもっと底冷えするような冷たく尖った大気が肌を刺すはずが、不思議とあたたかみがふわりと地面から昇ってくるような、まったく涼しくて乾燥しているのに、身体が冷えることも乾燥することもなく、ほんの少しだけぬくもりをたたえた薄手のタオルケットに全身を包まれたまま、力を緩めた状態でふわふわと歩いているような感じで、これはほんとうに、おそらく一年のうちでも、今くらいしか味わえない感触だろうなと思いながら歩いた。なぜか足立区は、今日が花火大会をやっていて、雷のような破裂音が聞こえてきて、時折遠くの空が明るく光り、位置によっては、ばばっと滑らかに開いた明るい光の輪が、空に広がるのが見える。自分の後ろで、男女が「あー花火。」「あー花火やってる」「あーー」と感嘆の声。ほんとうに無防備な、ただひたすらあーっと驚いて、力なくため息のように漏らされた声。情けないような可愛いような、それだけの声。「あーー花火。」花火が見えるというだけで、今が十月という現実はかなり後方に下がってしまって目立たなくなり、どうにも夏らしさの記憶が妙な居心地の悪さで、はっきりと間違った感じで気まずく再生されてしまって、今この瞬間の、秋の如何にもな、さらさらと冷たくも快適な感触とはまったくそぐわないようなこの目の前のすべてというように思えて、むしろあの光は、遠くのパチンコ屋のネオンか何かだと思い込んでおいた方がまだ納得の安定を得られて凌げるようにも思う。

2012-10-12

迅速に逃げ支度をしてオフィスを退去。このあとの食事の格好を整える。目星の目をつけて置いた、いくつかの店先に電話する。近場は巡る。人影はまばらで、街並みは死滅しているにも関わらず、予約状況は盛況で、どの店も塞がっている。金曜日の夜らしい。華やかな喧騒に包まれている。むかついて電話応対の後を邪険にしてぶっきらぼうに切る。ダメな店はスルーで、まさに今、金曜のよるだというのに、なぜか、空席がほとんどで、しかしあと三十分後には、客入りだけなら、次の瞬間にはどうなってるかわからないような、そういう店があれば、そそくさ入店する。一人でもいいですかね?どうぞどうぞ。これって、生牡蠣ですか?じゃあこれ。これ下さい。牡蠣を食う。食いながら、少しずつ客が店内に埋まり始めるのを、ぼやっとみている。店員の声の調子を聴くともなく聴いている。「お前、どう思ってんだよ。」「今期の選挙出ないのかよ?」「来期でもその次でもいいけど、じっさいやる気ないのかよ?どうなのよ?」よし、やってやろうじゃないか、という気になる。ついに決意した。立候補だ。

2012-10-11

牡蠣が食べたい。なぜそう思うのですか。ミネラル類のせいです。亜鉛などを含んでいます。自然そのままの香り高さ。牡蠣という食物を、はるか昔から、これほど多くの人が好んで食べてきたという事実に、私は驚かされる。これを人類は、私の生まれるもっと前の、何百年も何千年も前の、はるか大昔から、好んで食べてきた。欧州で生食されてきた数少ない食物のひとつ。登場から今に至るまで、ずっと第一線で活躍してきている。牡蠣。そう。これほど複雑な味わいの食物が、これほど広く、大昔から、万人に受け入れられているなんて。牡蠣料理。その古典的であり、原理的な姿。牡蠣を食べれば、それで人間が欲する味覚、香り、歯触り、舌触り、滋味、抵抗感などのほとんどすべてを体験できるはず。土に近づきたい。鉄分を口にほおばりたい。石を噛み砕きたい。炭の匂いを吸い込みたい。牡蠣それは、まるで、ぬめりをもった塩のようでもあり、かつて生命を有していた土のようでもあり、時間を逆行してきた鉱物のようでもあり、あるひとかたまりとして、かろうじて形象化した海水のようでもある。海水に含まれているカルシウム、マグネシウム、ナトリウム、カリウム、鉄分、石灰。それらすべての、お祭りのように海水にたゆたいながら、柔らかい牡蠣の身を少しずつ形成し、表面に沁み込んでいく、口に含んですぐ鼻の奥を通って頭頂まで突き上げるような、その香ばしさ。

2012-10-10

  1. 天気は晴れ。けっこう気温が高くて、歩いていると汗ばむくらい。平日の午前中の電車の中。
  2. 春先から夏あたりまで通院していた病院から電話があって、支払いが少し残っているらしいので、金を払うため、ひさしぶりに、その駅に降り立ち、病院までの道を歩く。
  3. 会計して病院を出た後、平日の日中にしか開店していないそば屋があって、ひさしぶりにそれが食べたいと思って、秋葉原に移動。秋葉原勤務のときは週に三回とか四回、この店のそばを食べていた。これが、普段食べられなくなると禁断症状が出て、こういう、平日に休暇みたいな場合は、こうしてわざわざ、食べに行くのである。まあ、食べ終わると、こうしてわざわざ、来るほどのものでもないような気がするのも、いつもの事である。
  4. そして、食べ終えて店を出た時点で、まだ午前中である。
  5. 今日はなぜか、このままうろうろしないで、じたばたもしないで、かといって、真っ直ぐに家にも帰らずに、今のまま、普通に、どこか外にとどまるという、一日をかけた実験をするつもりなのである。家の中にいるのでもなく、目的があって外を移動するのでもなく、外にいるという事だ。
  6. 本数冊と、キーボードを鞄に入れている。それで一人で、一日を過ごそうという試みだ。
  7. とどまって、ある程度まとまって、何か読む。あるいは、何か書く。ということだ。
  8. まずは秋葉原から上野まで歩いた。一時間くらいかけてゆっくりと移動した。この時点で、もう、ちょっとまずいと思う。散歩が目的ではないのだ。散歩とか移動が目的になって、そのために時間が流れていくのでは、だめなのだ。
  9. 今のまま、普通に、早くとどまる場所を見つけないといけない。
  10. そう思うと、今度はとどまる場所を見つける、という目的が、いきなり前にせりあがってきてしまう。これも駄目だ。そのためにうろうろと徘徊する。それでは失敗なのだ。
  11. 昔、上野勤務の時代に昼食後によく行っていた喫茶店に、久々に入った。美味しくもまずくもない安いコーヒーを出すチェーン店である。店内をみると、当時(三、四年前)にいた従業員が、まだ変わらずに働いていた。へえ、と思って、驚いた。別に知り合いでもなんでもないので、声をかけたりすることもないが、お互いにはっきりと互いをわかったのではないかという予感。でも、三、四年くらいなら、普通にいるものか。上野の繁華街の中心あたりは、やはり店も出来たり無くなったりの回転が激しく、三、四年くらい続いていると、かなり長続きしている印象ではある。もっとよく行ってたもう一軒の店は、既になくなってるし。
  12. で、そこでコーヒーを飲む。さて、ここに今日はずっと、とどまれるか。
  13. そのまま、三十分で出てしまった。やはりなんとなく、無理なのである。三十分でも、かなり頑張った方だ。
  14. そのあと、やはり上野勤務の時代に毎日のように行ってたコンビニに立ち寄る。ここに入るのも、三、四年ぶりのはずだ。店に入ったら、いきなり、ものすごい懐かしさというか、眠っていた記憶がいくつも呼び出されてきて、たじろいだ。また、ここでもやはり店員が、一人は知らないがもう一人は、ああこの人あの人だ、と感じさせられる、過去の記憶がふっとかたちになって現れたような感じでレジカウンターの向こうにいた。
  15. そして、やはりこれはこれでまずいのだと思った。これだと、単なるノスタルジーに浸った、感傷的な行動ということになってしまう。そういう気分を味わうのが目的になってしまうので、それはやはり、それで違うのだ。
  16. 上野にいるのは、上野をよくわかっているからである。なおも移動を続ける。とどまるための移動を。
  17. その頃、よく夕方から夜にかけて、オフィスを出て一息つきに来ていた小さな公園があって、そこに向かう。適当なベンチに腰をかけて、あたりを見回す。
  18. …やはり、とどまれないと思う。ここにじっとしているしかない状況が来るまでは、ここにじっとしていることができないと感じる。
  19. ここに強制的に居なければいけないような事態というのも、人生には充分に考えられるのだとは思う。しかしそれを今日あえてやるのが目的ではない。まだもっと、自然にとどまる必要がある。
  20. これは家の中ではない場所で、家に居るのと限りなく近い状況に自分を置く実験なのだ。
  21. また移動。とぼとぼ歩いて、不忍池のほとりまで移動。…やはり一々、移動時間がかかる。もう午後を過ぎている。かなり歩いてしまった。これだとほとんど、散歩がメインになってしまっている。今のところ、早くも既に結果が良くない状態だ。とにかく早くこうではないモードにならなければ。
  22. 不忍池もやはり、難しい場所だ。ベンチはあり、人も集っている。人が無目的に、いやそれぞれの目的を不可視の状態にしたまま、思い思いに集う事のできる場であることはたしかだ。
  23. しかし、そういう場でやはり、今の自分は、そこに居られないと感じてしまう。ここも駄目だと思う。ベンチに座りもしなかった。座れるベンチを見出す事さえできない。
  24. また移動。そのまま歩いて、上野公園に入っていった。…かなり疲れてきた。これだけ疲労してしまっている時点で、壊滅的に実験失敗である。これでは完全に、外出して疲れた。というだけの結果になってしまう。
  25. 公園の噴水がある場所に来て驚く。上野公園って、今はこんな状態になっているのかと。
  26. 博物館を正面に見据えて、左右にスターバックスとあともう一つ別のカフェがあって、それぞれ人がいっぱいいる。カフェは店内とテラス席と両方あって、テラスは今日みたいな日だととても快適そうだ。
  27. とりあえず、店に入る。5分くらい待って、席に通された。
  28. やはりというか、まあとりあえずと思って、ビールを注文する。ぐっと飲み干すのではなく、少しずつ、口元を湿らすように飲む。とくに美味くもなく、座っていることの安心感や落ち着きもない。
  29. 日差しと少し冷たい微風が、身体に気持ち良い。しばらくぼーっとするしかないように思う。しかし、しばらくぼーっとした後は、もうぼーっとできなくなる。
  30. 仕方がなく(本当に、仕方がなく)本を取り出して読み始める。ロブ・グリエ「もどってきた鏡」。先日ちょっと読んで、最初の書き出しに何か面白さを感じていて、続きを読むつもりで持参したもの。
  31. 面白いと思う。読み進む。
  32. そしたら、30分かそこらで、飽きが来た。というか、集中力が切れる。気付くと、目が字を追ってなくなっている。意識が完全に、別にいってる。まだ三ページくらいしか読んでない。
  33. 別の本を取り出す。開高健の短編「玉、砕ける」を読む。これも素晴らしい書き出し。
  34. ところがまたもや、半ページで、やはりだめ。冒頭がすごく素晴らしいのはわかる。しかしそこから、読んでる自分が別の流れに渡れなくて、そこで落ちてしまう感じ。
  35. 現時点で、着席してから、一時間ちょっと経過している。とどまるという事のはっきりとした困難さとの戦いになる。
  36. 動きたくなってくる。移動したいのだ。なぜそう思うのか。わからないが、とにかく移動したい。移動さえすれば良いのだと思っている。なぜ、そう思うのか。ずっと昔から、そういう風にばかり、考えてしまうのだ。いったい、なぜなのか。とどまるのだ。今日はそのための実験なのだ。とにかく、とどまるのだ。今、頑張らないと駄目だ。そう思って耐えようとする。
  37. そうだ。ビールをもうひとつ、注文すれば良いのだ。一杯を今まで、一時間かけて飲んだ。だからもう一杯を、もう一時間かけて飲めば、それだけまだ、とどまることになるではないか。
  38. …しかし、こんなまずいものを、もうひとつ注文する意味がわからない。
  39. もう、何もいらない。
  40. なぜなのか。なぜなのか。
  41. 葛藤のあと、立ちあがってしまう。レジに向かう。会計をしてしまった。また移動する。…もちろん次の目的地はある。あるのだ。
  42. 西郷隆盛像のほとりに来た。最終到達地点のはずだった。
  43. ここにも、たくさんの人がいる。ジャンパーにジャージ姿の老人が、さっきから僕の近くを落ち着き無くふらふらと行ったり来たりしている。若い人も中年もいる。このまま僕もここにいようと思う。
  44. しかし、ダメだ。寒いのだ。日が暮れかけてきて、しっかりと空気が冷えてきていた。ジャージ姿の老人もブツブツと小さな声で独り言を言っているのだ。寒いなあ、ちくしょう、寒いなあ、そう繰り返しているのだ。
  45. ここにもとどまれない。そう思うと、なぜか安心するのだ。まだ移動しなければいけないというのが、助かるのだ。目的を与えられて、いそいそと歩く。こんな時間になって、もう日が暮れてきたとしても、目的がほしいのだ。
  46. 湯島駅まで歩く。出口傍らの喫茶店に入った。またコーヒー。
  47. 妻から連絡が来る。今いる場所を教えたら、五分くらいであらわれた。ふたりで店を出て、御徒町駅まで歩き、山手線で池袋に向かった。吊革に掴まって立っている自分の全身を、かなり深い疲労が包んでいる。
  48. 池袋に到着。時間は6時前。
  49. 池袋に来た理由は柴崎友香×qp×古谷利裕トークイベントのため。7時半からだから、まだ時間がある。一時間くらい待たないとだめ。
  50. ジュンク堂の向かいの喫茶店へ。またコーヒーを注文。腰掛けたら、全身の疲労感がじわっと滲み出してくるようで、思わず深いため息が洩れる。
  51. 喫煙席のスペースが大きい店だと思う。池袋って、若い学生が多いからだろうか。学生ってやはり、喫煙者が多いのだろうか。最近は、そうでもないのか。そういえばさっき公園にいたときも、誰かの吸うタバコのにおいが、すーっと風に運ばれてきていたのを思い出す。
  52. 冷たい秋の風に、タバコの煙がのって、香ばしい香りが鼻の奥に燻る。
  53. 7時を過ぎたのでジュンク堂に行く。本棚の前で、本を見るでもなく、ただぼーっとする。
  54. 7時半になって、イベント始まる。拍手で迎えられた。
  55. 会場の椅子は古めかしい木の椅子だった。背凭れが大きく傾いていて背中が楽だ。しかし、固い椅子で、今日は座っているだけで疲労が蓄積する。
  56. 古谷さんが自作について、撮ったときの事などの話をされている。それを聞きながら、ふっと気持ちよくなってきて、一瞬意識を失いそうになる。
  57. せり上がる斜面と、光と影。
  58. 柴崎友香さんの公園のパノラマ写真を見たときは、スーラの絵を思い出した。しかしスーラの「グランド・ジャット島の日曜日の午後」は、みなほぼ一方方向を見ているので、厳密には似てない(ちなみにこの絵はいつも、僕に葛飾区の水元公園を思い起こさせる)。人やモノが、あっちこっちを向いてるという意味では、ルノワールのムーラン・ド・ラ・ギャレット的か。しかし、あの絵では椅子があまりたくさんないから、また違う。写真では、置かれている椅子の背凭れの方向が、それぞれ、ばらばらに点在していて、それが良かった。
  59. イベントが終わって、立ち上がった。ややふらついた。
  60. 今日はしかし、ほんとうに疲れた。ものも云いたくないほど、疲れた。
  61. 今すぐにでも、横になって眠りたい。
  62. 明日仕事なんて信じられない。
  63. 実験は失敗した。しかしこの経験を、価値あるものとしなければ。
  64. 子供の頃、朝から晩まで、一日中遊んでいて、夜になってへとへとになって帰ってきたときの感じを思い出す。全身がへろへろで、全身が埃と外の匂いにまみれていて、鼻の中も口の中も、どろどろの埃と土と砂と塵芥だらけ。
  65. 帰りのバスの中で、公団住宅のぼんやり室内の明かりを写しだしているそれぞれの窓をぼんやり見つめていながら、qpさんがイベントで言っていたことを思いだしていた。「こんな場面、ふつうに出くわすことができるものですか?写真に撮れるものですか?」という質問に「いや、撮れますよ。」と、当然のように答えていて、そりゃあ無理でしょ普通。と、そのときは思ったのだが、こうしてぼんやり、他人の家の窓を見ていると、予想外なことに、意外と窓の向こうに人やモノは、目的や流れのよくわからないまま、それなりに色々と動いていて、もし今、カメラを持っていたとして、このままここで、あの窓を狙って、三十秒も待ってみたとしたら、それこそ普通に「何だよくわからないけど変な瞬間」というのは、当たり前のように目の前を訪れる可能性が、決して少なくないものかもしれないと、そのときは実に納得できるような予感を感じた気がした。
  66. そういえば、iPhone5はたしかにパノラマ写真の機能が付いていた。まだ試してないが。
  67. 家に着いて、まずは一言つぶやいてしまった。歴史上、もっとも手垢に塗れた、例の言葉を発した。
  68. 「やっぱり家が、いちばんだなー!」
  69. 風呂に入ったら、生き返った。蘇生したような思い。すべてがみずみずしく甦った。
  70. 軽く食事して、昨日のプィィ・フュイッセの残りを飲む。これが残っていてくれたおかげで、ひとつの命が救われた。
  71. 一口飲んで、香りが鼻腔を上がってきて、そのまま呼吸を止めた。琥珀色の液体を無心に見つめた。

2012-10-08

 快晴。光は多いが、空気が冷えていて、かすかな金木犀の香り。褐色と赤と緑色が絶妙のバランスで混ざりながら朽ち始めるハナミズキの葉。

 千代田線の乃木坂駅で降りて、改札を出てエスカレーターを昇り、美術館入口までの板張り通路を歩いて、館内に入って、再びエスカレーターで二階へ上り、国立新美術館 企画展示室2Eへ。「与えられた形象―辰野登恵子/柴田敏雄」

 辰野登恵子の初期作品から最新作までをまとめて観ることができて、ことに八十年代の作品がまず、絵としての格調の高さが文句なしに良くて、一瞬で辰野登恵子作品だとわかる、あのリフレインされる、装飾文様のような三本線と花柄のパターン。

 とにかくあれを、発明して実現したことが、まず凄い。それだけでほぼ、もう始まって五分で勝利が、確定したようなものではないか。

 形態と色調と質感との調和の度合いが、そのスピードといい粘りといい手離れのよさといい、もんくのつけようがないレベルで結晶していて、ほとんど呆れるくらいの、良い絵画っぷり。八十年代。

 続けてみていくと、画面上で発生するあらゆる出来事を、ぐっとスローダウンさせて、できればほぼ止めてしまうような仕事のように思え、良い絵画として成り立った事物と周囲も含めて一旦止めて、編成の見直しをして、いつの間にか不可視状態になっていた要素も一旦全部その場の出来事として、隠しようのないものとして、再びあからさまに描きなおされていくような、それまでから遡行していくような。

 人を落ち着かせる作用のあまり感じられない、きんきんした色調と、どこまでも未完な印象を与える形態のきめ方と、ぼやっとした内側から照らしてくるような光の滲みかた。

 止まっていることを前提とするのではなく、まっとうに描きながら、あたりまえのように止めてしまおうとする、というか。ほとんど台無し感の、一歩手前に踏みとどまるというのか、いや踏みとどまる意志さえ止めてしまおうとして、最終的にどうにもならない地点で糸一本で成り立たせるというのか。

 目指される着地点が、80年代と90年代と00年代で、それぞれ大きく違うと感じられ、それぞれ連続しているとも進化しているとも断定できない感じで、むしろ十年ごとに、期待を背負って、堂々とニューアルバムがリリースされるような、ブラン・ニュー・プランの提示がなされていて、アート・プレゼンス、という感じで、これからのイメージをうたって、その場の人々を導いていくような、凛々しく格好良いアートの姿を思わせ、しかし00年代のシリーズなど、ほんとうにこれで成り立っているのか、正直僕にはよくわからんとも思う。

 それでもみていて深く、しみじみ、良いと思ってしまえて、でもじつは絵の中心にあるものから目をそらして、自分の気に入った箇所だけをみて、それでいい気分になっているだけかも、と、自分を疑う気持ちにもなる。とにかくキレイな箇所があるのでそこに留まっていたく、そうしていればいつまででも、みていられる。

 これだけまとめて辰野登恵子の作品をみたのがはじめてだったので、70年代のストライプの作品も初見だったのだが、すごく良くて、活動の初期から圧倒的に突出していたのだーー…と思う。

 オアゾの丸善で開高健ロマネ・コンティ・千九三五年」、幸田文「黒い裾」、ロブ・グリエ「覗く人」を買う。ワインを二本買う。東京駅丸の内口の駅前が、記念写真撮っていたり集まっていたり、ものすごい人だかり。

 帰ってきて、茄子、牛肉、その他惣菜など買う。夕方の五時半の空の色が、夜の一歩手前の色になっている。

2012-10-07

のっそりとした雲と、水分の少なくはじいたような雲、それぞれ色は薄灰色と白で、空の水色と調和のとれた色合いが豊かである。スーパーの食品売り場のグレープフルーツが98円で、三つ買う。鮮魚売り場のさんまが158円と今日は高かった。しかし今日はさんまを買う予定ではなかった。さんまが、頭とはらわたを取られて、透明なビニールを敷かれた青い箱の中の氷水に折り重なって沈んでいる。さんまの身体の膨らみと艶。夜の東京上空をゆっくりと回遊するB29の機体のようにギラギラと輝いていて、切り落とされた頭の断面に浮かぶ濃い赤の血液。さんまなど、青魚の血液の色の濃さは、それが、流れている血液が人間と同じものだと感じさせられ、赤という色の、たとえば葡萄の赤ともまた少し違ったような、血液としての、赤の色。それは絵の具の赤とも違っていて、ウィキペディアによると、朱色とは元来は天然赤色顔料辰砂の色であるが、血液のような、鉱物ではない赤こそが、赤のイメージにより近いように思える。はじめて油絵の具のヴァーミリオンを買ったのは高校生のときだが、小さなチューブが1700円くらいだった記憶がある。昔は、ヴァーミリオンという色をあまりよく理解できなかった記憶がある。高価な色だが、どう使うかわからない。朱色は、血液の色ではない。血液の赤は、乾けば別の何かに変わってしまうような、今たまたまそうである色で、必ず水分を豊富に含んでいる必要があった。絵の具に、そのような流動性を思い浮かべてしまい、目の前の安定をありがたく思わないというのは、やはり絵画を冷静に作る素養が不足していたからである。豆腐が88円の当店推奨価格である。二丁買う。生のイワシを買いたかったが、なかったので丸干しを買う。イワシの身体の膨らみ。ステンレスタンクのような下腹の出っ張り。その内側に盛られたアンバー系の色合い。イワシのはらわたの苦味を想像してみる。強烈な塩味、えぐみ、その色をなめると、そういう味がするわけではない。絵の具をなめてみた事はあるか。子供の頃は皆、絵の具を食べていたものだ。友達の笑った顔の、その口の中はしばしば鮮やかに青や黄色や緑色が踊っていた。アラビアガムの味なら誰でも知っている。子供の時点で、絵の具はおいしくないものだと、ちゃんとわかっているのだ。だから間違いは起きないのだ。レモンイエローには、果物の味も香りもない。朱色に甘味はない。グレープフルーツに親指をぐっと突っ込んで、皮を剥いて、極小の霧のようになった柑橘系の香りの成分があたりに広がって、あらわれたルビー色の果肉に、さらに指を食い込ませて二つに引き裂くとき、その赤さを、いつも体内のように感じる。粒立ちと内皮が果肉からきれいに離れるかどうかを気にする。ばりばりと音を立てて、果肉が震えながら薄皮より引き剥がされていく。手ぜんたいが果汁に濡れる。取れた果肉の房を、皿に寝かせて、また次の房を引き剥がす。赤い実が横たわっていく。三つ分を全部剥いて、皿に山盛りにする。

2012-10-06

酒を飲みながら、気が向くとカウンターに背を向けて、グラスを持ったまま路上にふらふらと出てあたりを見回しているのは、とてもいい気分だ。戻ると料理の皿が、目の前に生々しく照明を浴びてきらきらと光っていて、冷えたワインのボトルに細かい水滴がいっぱい付いていて、それをいつでも、それに背中を向ければ外の夜があり、車道をタクシーやトラックが行き交っていて、そのどちらにも居るというのか、その中間のところに居るのがとてもいい。昔からこうして、外で酒を飲んでいながら、店の内側と外側の中間の場所にいるのが、どうしても好きだ。客船に乗って、身を乗り出して外の海を見ながら、手や足をぶらぶらさせているように、店に掴まっているような気分だ。うっかり手を離したら、そのまま、まっさかさまに海に落ちる。そう思って、ひやっとしながら酒を飲んでいる。鼻の通りを気にする。鼻からすーっと息を吸って、液体を口に含み、広がるものを捉えようとする。あらゆる匂いを吸う。内側なら内側の、外にいれば、外の匂いを吸う。それもまた、自分の身体を外に投げ出している。別のこととことをつなごうとする。香りも感じているのは恐らく一種類に過ぎないはずで、しかしだからこそ次々と別の香りを吸い込んで、ほんの数分前や数秒前そのものが混乱するような冒険の記憶を、履歴を逆になめていってそのようであったということにされて、また振り返って外を見て夜の景色を視界に入れて、異なるもののもっと立体的な組み合わせをと思う。

2012-10-04

若い子達に誘われたので、仕事の帰りに浜松町で降りて、個人的にはまったく関心も興味もないような催事をやってる会場で待ち合わせた。そこでチケットを買ったら、このあと、とんでもない長蛇の列の最後尾に並んで、ひたすら順番を待たなければいけないということをその場で知って、いきなりうんざりして、来たことを激しく後悔して、よっぽどこの場で、俺並ぶのだけはカンベン、とか、ごめん急用ができた、とか言って、とっとと帰ろうかとも思ったのだが、いまさらそれも雰囲気悪くするし、誘ってくれた子にも悪いので、まあ今日は我慢だと思って、顔はにこやかにして、みんなと一緒に素直に並んでたら、そんな自分を嘲笑うかのように、しばらくすると雷鳴が鳴り響き豪雨に襲われた。想像を絶する強烈な雨脚で、それが延々、三十分以上も続いた。傘を持っていてもずぶ濡れ。傘を持ってない人の姿はもう、目も当てられないありさま。女性なんか、全身ずぶぬれの、裸の上に半透明の布を纏ったみたいなことになっていて、この後どうするの?っていうような惨状を呈しており、ほんとうに、あれなんで今、俺はこんな場所いるのろう?とマジメに自分自身に問いただしたくなるような、つくづく、ろくでもないことになってしまったのだが、さすがにここまで来ると、まあわりとどうでもいい気分で開き直っていて、それに、人とわいわい喋ってるぶんには、まあそれなりに適当な気分で時間も過ぎるので、それにしても見渡すと、右も左もじつに若者ばかりで、学生とか社会人何年目みたいな、やっぱこの手の催しは、完全に若者の世界なんだなあと思った。ぜんぜんおっさんを見かけないような、最近こういう場自体がかなり珍しく思って、ちょっと面白かった。そしてなんというか、みんな、とても大人しく、整然としていて、バカ騒ぎしている人も見かけない。すごい雨で怒ってる人とか、イラついてる人とかもいなそう。少なくとも、こういう場に来るんだから、行列するとか、黙って待つとか、そういう行為自体に抵抗はないのか、あるいは、行列してでも俺はっていう熱い思いがあるのか。ゴミとかもそのへんに捨ててないし、マナーも良いし、へらへら周囲に甘えた感じとか、調子に乗ってる感じも、ほとんどない。華やかさも色気もない。静かな集中力だけが、豪雨の中でも消えずに燻っている。みんな、地味で生真面目に、いまここで為すべきことをする、それを目的として、それだけのために、黙々としてここにいる感じ。つけ麺に、ここまで夢中になれるものか。

2012-10-02

しかし、さっきは超受けた。丁度いまごろの時間に、仕掛けたバッチが動いているはず。二段構えにしたので、朝には終わっているはず。なんで、こんなことしてるんだろうっていう思いもあるけど、それはそれで、とりあえず動かさないといけないので。帰るときは、居室の隅にある扇風機を止めて帰る。忘れずに扇風機止めて帰れよ、って、本気の、それをしなければこの世が終わるくらいの真剣さで云いに来る人がいる。それを云われると、何よりも扇風機を早く止めなきゃっていう気にさせられる。あれを止めなきゃあれを止めなきゃ。夜もうなされるくらいの一大事で止める。いや冗談抜きに扇風機止めるのも立派な仕事である。本気でそう思えるかどうかにかかっている。

2012-10-01

もっと一ヶ月全体を見通して、大きくスケジューリングしてみなよ。細かいことにとらわれないで、何が目的なのか、今からやって、来月までにどうなってなきゃいけないのか、そのためには、何をして、何をする余地を事前に確保しておかなきゃいけないのか、ってとこまで、できるだけ頭の中で想像して、大きく線を引いてみなよ。それができて、そっからはじめて、じゃあ目の前の作業始めようかって、言えるようになるんでしょ?そこに何の意味があるのか、自分にも人にも、ちゃんとわかってもらえるようにしないとだめでしょ?だから、今日はこっちは置いといて、明日の午前中までに、自分のやるべきことを箇条書きにするとか、一旦落ち着いて、もう一度整理してごらんよ。一個ずつ書き出してさ。それをやるために、どう時間を使っていくのか、明日のお昼前に、もう一度それを説明してみてよ。自分のタスクを、受身じゃなく、自分で管理するのね。難しいことに手が届くようになるためには、それが大切だから、あらためて、ちょっとじっくり考えてみたほうがいいよ。


今日の月の明るさがすごい!照らされて、周囲の空一面が、コバルトブルーに染まっていた。

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