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2013-04-30

昨日は出勤して、そのあと、色々とばたばたして、結局酔っ払って寝てしまった。もう今日は時間もないし、細かい事はまた後日書こう。しかし毎晩、よく呑むことだ。

2013-04-28

水元公園に行って、木のかげにシートを敷いて横になって、空を背景にした木の幹のかたち、葉のかたちを見ていたり、安いワイン飲んでサンドイッチを食べたりしながら本を読んで、そのあと居眠りした。


起きてから水生植物園まで歩いた。湿った黒い土と細かい枯れ枝や葉が一箇所に集まって水に浮かんでいるのをしげしげと眺める。土と水の境目は、まさに交通空間という感じがする。ゴミや屑や残骸が溜まるし、草も苔も水と外の境界にあって、上からじっと見ていると、どこかの都市を飛行機から見下ろしているみたい。


大きな池の一面にスイレンの葉が波紋のように浮かんでいる。太陽の光を反射して水と葉に色の差がなくなって、水がレリーフ状に葉の形を浮き彫りにされているようにみえる。池の真ん中辺に、一羽の水鳥が、植物みたいにすっと静止している。じっと、斜め下を見ている。何か、水の中に動くものを見つめているのか、あるいは何か、凄くショックな出来事でもあって呆然としているのか。


これから青々と繁盛していこうとする植物達もいれば、蓮の葉が朽ちて水のところどころから突き出てくの字に曲がっていて、廃墟のようにもなっていたし、植物は植物で、今の自分の過程に忙しそうだ。皆がいっせいに育ったり枯れたりするわけでもなく、枯れるのもいれば育つのもいて、そのおかげで、池や水際はいつもあれほど賑やかで汚らしい。湿地というのはそう簡単にキレイなものを見せてくれるわけではないが、いつでも見るべきものがある。

2013-04-27

木曜日の夜は新橋で飲んでいた。新橋良かった。まだよくわかっていない品川・新橋方面への道がすこしひらいた。昨日の夜は横浜で飲んでて、始発の京浜東北線に乗り込んだ数名、凄まじい眠気と戦いながら、横浜から、自分の降りるべき駅までを、眠り込まずにそれぞれ降りるというのは、これはとてつもなく難しいことだが何とかやり遂げようと互いに励ましあいながら、座席に座ってお互いの顔を見合わせながら、それでも一分後には全員が死んでしまったが、でも各自その都度、どうにか息をふき返し、無事に、一人、また一人と下車に成功していき、最終的に、その電車の座席には誰もいなくなった。土曜日の朝は始まってから既に数時間が経過している。


僕は六時ごろに家に着いて、風呂に入ってから寝て、十時半くらいに起きてしまったが、そのあと結局またうとうとしていて、二時くらいにまた起きた。それから買い物に出かけた。もう三時半か四時くらいになっていた。素晴らしい快晴の日で、うわあ、今日は気持ちいくらい、こんないい天気を棒に振ったといいながら、近くのスーパーまで歩く。夕食のあと、ふたたび寝る。0時ごろにまた起きる。ウェブを見たりしていたら、今はもう既に朝の四時半。また今日も、いい天気らしい。たぶんピクニックシートと本と水筒をもって公園に行くかも。あと映画も見たい。あと夕食はどうするかまだ決まってない。明後日は出勤するけど、たぶん早く終わるから、そのあとも夕食をどうするか考えなきゃ。

2013-04-25

一昨日は深夜までトラブルが発生して未明に解消してその日はやむなく泊まりになって、それでしょうがないからわーいといって飲みに行ってしまったから、結局朝までろくに眠れなくて、それで朝からずっと凄く眠い一日だったのに、その日の夜にはまた、約束の軽目の飲み会にちょっと出て、それで眠さのピークで帰ってきてわりとすぐ寝て、今朝はようやくふつうに出勤して、それでまた、いい按配に人からメールで誘われたので、今日も飲んで、明日も前からの約束があるので、月曜は中華街だったし、今週はきれいに全部飲み会で、泊まりもあって、なんだか、ばかに元気な人みたいと、そう言われた。

2013-04-24

昨日ろくに寝てないので今も眠すぎる。もう寝るってことで。

2013-04-22

夜は会社の人たちと中華街でごはん。中華街はすごくひさびさ。メニューの品数の膨大さを前にして、男性はわりとあっさり、面倒くさくて適当に頼んでしまって後はどうでも良いという態度を取りがちなのに対して、女性は結構しっかりと見るし、何を食べるかを考える。僕もそのときは女性の側に立つ。これだけ色々あるなら、メニューを熟読して、注文まで二十分くらい考えてもいいのではないかとさえ思う。肉や、魚や、野菜の名称を字面で見て、想像するだけで、忙しく脳内演算が稼動しっぱなしになる。・・・やがて注文した品々が、運ばれてくる。皆がおずおずと小皿に取り分けはじめる。スパイスの効いた、しっかりとした味の、中華料理というものはそれと一緒にある酒の役割も色々、千差万別だなと思う。紹興酒という、普段はまず、飲もうとは思わない類の酒が、このときだけはたしかにちゃんとした役割を担っていると感じる。唐辛子、生姜、山椒、胡椒の香り高さ。食べ終えられたあとの、しっかりとしたソースに塗れた各皿たち。夥しい数の料理の取り分けられて食されて空になった汚れた小皿が重ねられていき、下げられてはまた新しい小皿が追加され、取り分けてまた食べて、順番に順番に。・・・で、順番に順番にを、またこの次の、今日注文に至らなかった料理にまで、次や次の次にまで続けるのが大切なのだと思うが、なかなか同じ店に再訪しないものだ。

2013-04-21

今日も冬のように寒い。映画を見に行ったりしようと思っていたけど、一日家にいた。読書で過ごす。途中で買い物に出たが、手がかじかむほどの寒さ。しかし、真冬とは何かが違う。もっと分厚いコートを着ても良いはずなのだが、いつもの薄いコートで歩いていて、とくに問題ない。暖かい冬と寒い春というのは、たと気温が同じだったとしても受ける感覚としては違うものだ。


春なら春の食べ物を食べたいとは思う。今なら、ふきのとうとか、たらの芽とか、タケノコとかがおいしそうだ。でも、ふきのとうとか、けっこう高い。すごく高いわけではないけど、なんとなく、手を出しづらいような値段に感じる。あと、タケノコは、どうも出来不出来がよくわからないというか、やはり、わりと高いし、そのわりには、食べられるところが少ないというか、それに茹でるのもけっこう面倒くさいし、まあふつうのスーパーで買っても、なかなか満足できるようなおいしいのには出会えないような気がして、そういう意味では、なんとなく買いづらい。やっぱり、できれば外で食べるのがいいと思ってしまうのだが、その季節ごとのタイミングで行けば、それなりにちゃんと、そのときの食材での料理が出てくるはずで、だからもっと外食したほうがいいと思っているのだが、外食すると酒を飲むので、相当高くつくので、それはまあ、困るといえば困る。


休日の、今日食べるものを買い物して帰ってきて、夕方になったら風呂に入って、そのあと食事の支度をはじめて、という、今まで何度となく繰り返されてきたこのパターンは、きっとこのあとの人生においても、ずっとひきつづき、繰り返されることだろう。ぼくにとってそれは、手放したくないものであり、いまの生活は、これを維持していくためにあると云っても、きっと過言ではないのだろう。


ブログを書こうとするとき「あー面倒くさいなあ」といつも思っているが、書き始めて、なんとなく、するすると書き連ねているときの感じの、たぶん快感と言ってもよい様なある種の感じが、じょじょに高まっていくときは、書く人なら誰でもあるのだろうが、やはり不思議な高揚感だ。この、自分の意志ではなく、外側から何かに操作されているかのような、不思議な不自由さの愉悦感はいったい何なのだろうか。これはけっして、自分個人の力が自由に動かせていることの快感ではない。むしろ、自分自身の限界的な、外側の枠の内側に、自分が始終触れているような、それでも直接は触れてこない不思議な意志のようなものに上から引っ張りあげられるような感覚がずっと続いて、誰の意志ともわからないままに、何かが書き連ねられていくのを、黙ってほとんどぼんやりと傍観しているような感じだ。今日もそうだし、いつも、しょうもないことばかり書いているとは思うが、たしかに書いている内容はしょうもないのだが、それ以前の、言葉を書いて組み上げていくときの、特有の感覚のことをここでは言っている。


人の文章を読んでいても、最近はほとんど、じつにどうでもいいこと、と言うと失礼だが、もう書き出しの一行目から二行目とか、「今日は○○に行って、そしたらこれこれで、あこうでああで・・・」みたいな箇所とかだけで、けっこう、ハッとするというか、「そういう言い方でもいいのか!成り立つのか!!」と驚いたりする事も多い。とくに、すごく乱暴に省略してある、というか単にぱぱぱっと書いてあるようなものが、すごく新鮮な驚きを感じさせてくれることが多い。

2013-04-20

この半月で、渋谷に三回も来ている。今日は寒くて雨も降るような日だったので、渋谷にしては、少し人混みも少なかったかもしれない。電車も空いていた。今日来た理由は、先週買っためがねをとりにきたため。


ヒカリエにはじめて入った。イベントスペースで「渋谷ヒカリエ開業1周年記念特別建築展」という小規模な展示をやっていて、そうか、この建物は元々東急文化会館だった跡地にできたものだったのかと今更知った。と言っても僕は昔から渋谷には馴染みが薄く、東急文化会館の記憶もほとんど無いのだが、たぶんパンテオンとか渋谷東急とかの映画館には一度か二度は来てるのだろう。


めがねをかけると、とにかくまだ視界が歪んでいるというか不安定というか、近くや足元を見下ろしたときの違和感が強烈で、階段や段差が、どうしてもおそるおそるの動きになってしまう。歩いていて、自分の身長が十センチは高くなったような感じというか、十センチくらいの高下駄を履いて歩いているような錯覚があって、いつもよりかなり高い位置から周りを見下ろしている感じになる。正直、ふつうに歩くだけでもかなり恐い。


駅や人通りの多いところにいるときだとまず、近くではなく遠くの人の顔が目に入ってくるところが今までとまったく違う新鮮な経験である。たくさんの人が行き来するところで、他人とすれ違うとき、たぶん意識のどこかで「人らしき何か」というレベルでの認識はふっと浮かんで、視界から消えたらまもなく消去されるのだと思うが、それが今までの距離感とは全然ちがうところで「人らしき何か」を感じていて、なんというか、自分がここに歩いているはずなのに、別の場所から見ている感じになるというか。しかし、遠くを見たときのクリアさはすごい。とにかく、明るさが違う。ものがはっきり見えるというのは、単純にすべてが明るいということのようだ。どんよりした曇り空の一日だったのに、そのグレーやしっとりと雨に濡れた木々の沈んだ色自体がビビッドに輝いている。


簡単に言えば、とにかく、近い場所が、とても不安定で何をするのもおぼつかなくて、ちょっと遠くが、すごく認識しやすくなったという状態。それにともない、これまでの自分の存在も多少うすいというか、はんぶん浮かんでいるような感覚だ。


まあ普段の生活ではまだ、それほどめがねが必要なことはなさそうで、たぶん仕事で打ち合わせのとき壁に投影されたプロジェクターの映像を見るとか、駅のホームで遠くにある発車時刻の案内板を見るとか、その程度か。でも楽しみなのは、映画館でめがねで見たらどうかということだ。いま裸眼でも字幕が読めないとかそういうことはないので、単に映像のクリアさがどうかというだけだが、いややはり、この現実世界の浮遊感が強いうちに映画の世界は見ておきたい。明日行こう。

2013-04-19

久々に湯島のデリーでカシミールカレーを食べる。これを、かつての自分はくりかえしくりかえし、今までいったい何食、食べたことか。三年か四年くらいのあいだ、週に少なくとも二回、多くて四回は通って、つねにカシミール(ホット)を注文し続けたので、のべ数百食はいただいていることになろう。勤務地が変わってから、ごくたまにしか来れなくなり、前に来たのはたぶん一年以上前か、もしかすると二年以上前かもしれない。正直、すごく食べたいという思いよりも、あれってどんなんだっけ?という興味のほうが強い。で、食べたらまさに文字通り相変わらずで、これを食べていても懐かしいという感情はまるで湧いてこず、むしろ三年前とか四年前などという時間が、あっというまに帳消しになるというか、今があのときでもまったく不思議ではないという、これまでの時間の経過がまるで無かったことになる感が物凄かった。しかし、これはうまいけど、うまいというよりはほとんど依存系食品だなという感じ。食べて、ぷはーとなって、しばらくしたらまた、あれ食べなきゃと中枢の方から欲望指令が出るようになっているのだ。そのスイッチがまったく使われなくなっていて埃をかぶっているのをはじめて発見した。でもまあ、もうしばらくいいかな。やっぱりこれは、若者の食べ物だよなあ。

2013-04-18

西日暮里駅にはいったい、何百匹、何千匹のねずみいるのか気になる。人が、ぼんやり突っ立っているその背後を、当たり前のように、さささっと駆け抜けていく黒いかたまり。ねずみは、迫力がある。何か、見てはいけないものを見たような気になる。カラスとか、ゴキブリとかとは違う、もっと根本的にまがまがしい、忌まわしい、悪魔の側に属する、決して触れてはいけない禁忌の領域に属する、そういう生き物の感じがする。しかしそれが、あの西日暮里駅においては、とんでもな大胆さで、ホームのあちことを、人の足元を縫うようにして、縦横無尽に、得体の知れぬ、真っ黒な物体物自体が、うろちょろと走り回っている。いや、それは言い過ぎだ。さすがに人の足元までは来ない。しかし、ほんとうに背後をさささーっと走り去っていくのだ。なんというか、唖然としてしまう。よくある映画のワンシーンかと思ってしまうほどだ。さすがにねずみとは、仲良くできないだろうし、何せ、気持ち悪い。いたたまれないような気分になってくる。とはいえ為すすべなくきょろきょろして、どうにも、まず自分の衛生面保全と足元の厳重チェックと、いったいどうしてこんなことになってしまったのかの反芻に待ち時間を費やさざるを得ないが、ニ、三分で次の電車が来るから、それに乗り込む。人間以外のものが乗り込んでこないか、つい足元を見てしまう。それが見える前に、人に押されて、前後の背中や腹に密着する。すごく混んでいる。

2013-04-17

1995年に、ニューヨークに旅行した。あれからもう、18年にもなるのだ。海外旅行はそのときが初めてだったが、現地に行って、そして帰ってきて、結果的に何がいちばん印象に残っているのかといえば、ある特定の場所とか特定の何かがどうとかいうことよりも、まず何よりも、ニューヨークと呼ばれる場所が実在している、という認識である。これは強力だった。とにかく、ニューヨークにいるときは、自分はニューヨークにいるので、その同じときに、日本が、いまここと同時に存在しているはずだというのが、理屈ではわかっても実感としてはわからない。今ここ、は今ここでしかないとしか思えない。そして帰国すると、今度はもう、ニューヨークが消えてしまったかのように感じられる。今も、この瞬間、この自分が立つこの場所と同時に、つい数日前までいたあの場所が同時に存在しているというのが、ちょっと時間としてはまるでわからない。それはほとんどせつない夢のようなものとしか思えない。しかし、そのまま感傷に浸ることもできない。そういう風に浸るほど、まぼろしの世界というわけでもないのだ。「現実的」には、ニューヨークは常にある。飛行機で十何時間飛べば、数日前に離陸したJFK空港に、また同じように戻ることができるだろう。その気になれば、明日か明後日には、またあの場所に行く。行くことができるというか、その場所がちゃんとある、ということ。このことは、想像してすぐにほとんど、僕の気を遠くさせた。自分の今いる場所、その中での自分の振る舞いや想像や努力というものが、いきなり小さな枠に収まったこじんまりとしたものとして一挙に相対化されて、その場所から浮遊しているかのような自分が、何か途方も無い空虚につつまれているような思いがしたものだ。今ここで生きている自分と同時に存在しているニューヨークがあり、そこにはあのスーパーマーケットやあの喫茶店があり、レジで働いている中国人や南米系の人々がいて、彼らは今日も、ひょっとすると今この瞬間も、何日か前と同じように働いているのかもしれないと。しかし、それを想像するだけでほとんど、僕は高いところからまっ逆さまに落ちるような、まったくの不安と恐怖を感じたものだ。彼らが実在していて、今この僕のいるこの場所と何の齟齬も無く、当たり前のように何か普段の生活をしている。それが同時平行的に進んでいる。それはもう、世界の神秘としかいいようがないとさえ思えた。世界の神秘、いや、神秘そのものである世界の生々しい触感をはじめて感じたということだ。

2013-04-16

高校一年の数学は「基礎解析」で、二年から文型コースと理系コースに分かれて、理系コースを選ぶと数学は微分積分を学ぶことになる。文型コースを選んでしまうと、それっきり、もう数学を学ぶことは、なくなる。僕は文型コースを選択して、というか美術大学に行きたいだけだったので、ほとんど学校の勉強は必要最低限度かそれ以下しかやらなかったのだが、今思うと、数学の微分積分は話だけでも聞いておきたかった。テストとかに出されたらと思うと、ああやっぱりやりたくない、やらなくて良かったと、今だに思うのだが、そういうことを一旦カッコに括れば、やはり未知の魅力に満ちた世界だっただろうなあという、何の根拠もないただの思い込みからの憧れめいたものがある。

2013-04-15

先日聴いていたリヴィング・カラーが、トレイシーチャップマンのTalkin' About a Revolutionをカバーして演奏していた。おお、とても懐かしい。そして、この曲はそんなに好きじゃなかったけど、こうして聴くと、やはりなかなか。そして、Fast Carが聴きたくなる。この曲は好きだった。超感傷的。うたわれてる世界は重苦しく絶望的なのに。しかし80年代の日本の高校生が、勝手に共感するというのがばかばかしくも面白い。Fast Carだなんて、タイトルがいいね。若い頃には、こういうのが、とくにいいと思ってしまうのだ。逃げよう逃げよう、ここ以外のどこでもいいから。きっとどうにかなるから。とか、そういう感じの。

2013-04-14

今日は何もしていない。一日家にいただけ。旅行でも行くかと言って、色々調べ物などをしていて、でもいつものことながら、そうやって主にネットでぐずぐずと調べていると、なんとなく行く気がそがれてくるというか、なぜ旅行のことをネットで調べると、なんとなくやる気がなくなってしまうのか。旅行のこともそうだし、レストランとかもそうだ。ネットだとじつに面白くない。これは不思議なことだ。たぶん旅行というのは、いきあたりばったりというか、なんとなく勢いと惰性で、えいやーと言って行ってしまって、その場で行き先を決めて、その場で食事する店も決めて、あと適当な宿をとって泊まって過ごせばそれがいちばん。というたぐいのものなのかもしれない。それを最初からごちゃごちゃと調べ物して、ネットの良くないところとして、いやネットが悪いのかネットを使ってる人が悪いのかそれはともかくいずれにせよ、まだみたことも触ったこともない、手元にも目前にもありもしない対象に対して、やたらとあれとこれやらそれと較べてどうかみたいな、横の比較ばかりをやりやすいようになっていて、家の中でそんなことばっかりやっていたら、それは行く前から嫌になるのはあたりまえでしたね。だからちょっと一旦また考え直そう。でも、行かない訳じゃない。行くことは行こう。それは決まった。だから、大したことじゃなくて、ただ、食事と酒と風呂だけ、何とかしたい。さすがにそれだけは・・・それだけは・・・。あと、願わくば、晴れた日なら夜空を・・・。夜空を見上げたい。星がいっぱい出ている空を見て、星座早見盤と見較べたい。(それもできれば、酒をのみながら・・・)

2013-04-13

ポプラの、独特の光沢をもつ葉が茂り始めて、昼間の光を受けて木全体が電飾を付けたみたいにきらきらと明滅しているのを見上げる。クスノキの落葉する葉と新しい葉の褐色と緑色の割合は少しずつ緑が増えてくる。桜は花が散ったあとの寒々しくみっともない一時期がようやく終わって、がくをポロポロと地面に落としながら若々しい緑色が浮かぶように広がりだす。この時期の新緑が勢いづく感じには毎年のことながら目を見張る。伸び、うねり、絡み、堆積して、そこからまた伸びる。今まさに動いていることそのものを見ているようなものだ。ハナミズキの花もやはり去年のように咲く。


渋谷に行って、めがね屋でめがねをみた。だいたい、アレかアレを買おうと思っていたのだけど、もう一度よくよく見てみたら、どうも自分に似合ってるとも思えなくて、結局、まるで想定していなかったようなかたちのヤツを買った。結構ふつうというか、まあ、こんなもんでしょ、というようなヤツ。遠いところがよく見えるためのめがねなので、普段はたぶんあまりかけないと思うが、映画や美術の展覧会などではかなり使うだろう。視力検査をして、度数を決めて、何枚かの調整用レンズが重ねられた仮めがねをかけて、最初は少し浮遊感があると思いますけど、そのまましばらくかけていて下さいといわれて、店のなかを見回しながら歩いたら、たしかに一瞬すごい酩酊感というか、まっすぐに歩くのも難しいようなふわふわ感を味わって面白かった。これはこれで、あまり慣れたくないので、やはりたまにかけてこの違和感を楽しみたいと思った。そして確かに遠くがよく見えることは見えるが、まあこんなものか、という感じでもある。遠くというか、遠くにいる人の顔をやたらと見てしまう。遠くにいる人の顔の細かいところまで見えるというのが、かなり新たな発見という感じだ。


ヒカリエというところに行ってみようかと思ったのだけれど、建物はわかるけど行き方がわからないというか、駅からどうやってあのビルに入れば良いのかわからず、面倒くさくなってヒカリエはやめて、渋谷区ふれあい植物センターまで歩くことにした。渋谷はいつも異常なまでの人混みだが、渋谷川を脇を入って川沿いに歩くと、ほとんど一人か二人としかすれ違わないくらい閑散としている。駅からほんの少ししかはなれてない時点での、この極端さには驚く。その後しばらく歩いて植物園の建物に着いて、百円を払うと、今、ヒスイカズラが咲いていますよと教えてもらう。ヒスイカズラってなんだろうと思う。


ムッとするような熱帯雨林的湿度の中、水びたしにされて水滴にまみれた南国的な植物たちが生い茂っている。日本にふつうに生息してはいないような植物が多い。見ていて、シダ類・苔類がすごくいい。僕はそういえば昔、中学生の頃は苔・シダが好きだった。今の好きと昔の好きは違うのだが。やはり、苔はいい。じっと見ていても飽きない。とてもきれいだ。というか、植物をみているのは絵をみているのと似ている。むしろ絵が、植物に似ている。これはなぜだろうか。絵は、ふつうに描くと、というか、絵というもののうえにあらわれる運動のパターンとして、どうしても植物の生息するときに似てしまうのだろうか。動きとして、絵のできる流れと、植物の育つ流れは、共通する形態感があるように思われる。苔の密集感や、葉の茂って展開する感じや、つぼみから花が開いてそのまま花弁が下に垂れ下がる感じなど、何もかも絵の動きに重なるとしか思えない。


クスノキの葉はいつもそうだが、短い縦ストロークの筆触で描かれた絵のように見えるが、あれなど、クスノキを絵に描くとすればセザンヌの筆触のように細かい縦のストロークを使うしかないと思わせるが、そう考えている人間の考えをクスノキの方が先取りしているかのようにさえ感じる。しかしクスノキは内側から育つだけで外側から自分を描かないし、自分が外からどう見えているか知らないだろう。植物と絵の場合、その知らなさにおいて、どうしても植物の方が強く、絵は外から見たことを知ってしまっている限界のなかで存在を主張するしかなく、絵の場合はどうしても、絵は自分というものがどういう絵かを知っていることになり、そこに、いや、私は知らない、と感じさせるようなものだと、それがかえって、植物が内側から独自の法則にしたがって育っていることに近づくことになるのかもしれない。独自の法則でありながら、これは植物という類であると思わせるような在り方であること。


ところで絵を描くとき、たとえば植物のようになってしまうことはあったとしても、人体のようになってしまうことはないのだろう。というか、人体も植物的フォルムの寄せ集めでできているともいえて、その意味では人体を形態としてそれなりにとらえようとすれば、結局は植物とクロスするようなことになってしまうかもしれない。人体の場合はだから形態・パーツとしてとらえると結局植物の一部みたいになってあまり面白くなくなってしまう。それに水や土との密接な関係性がわかりやすくは見えないので、余計にそれ単体としての退屈さが見えてしまう。それだから衣服、あるいは道具や居住空間との関係性に活路を見出したいようなことも思う。


ヒスイカズラは冗談のような青紫の、メノウとかエメラルドのような色の、プラスティックのように嘘臭く軽薄な、しかしその花の単位がいくつも折り重なって小さなバナナ状にぶら下っていて、全体的には異様としか云いようの無い姿でそこにあった。フィリピンの一部の原生林にしか生息していないのだそうな。

2013-04-12

金曜日の夜で嬉しい。ああ、この後ディスクユニオン行って、そして、どこかで何か飲もうかなあ、久しぶりに、湯島まで移動して--と、上野界隈の景色を頭の中に想像した。中央通に差し掛かるまでの道をずっと歩いていく。夜の繁華街である。信号を渡って、御徒町の近くまで来ると、人通りが多くなって歩きにくくなる。右に行くか、左か。真っ直ぐ行って仲御徒町の先まで行くか。久々にこのへんに来たなあ、などと想像のなかで歩き回る。


結局は、ユニオンを出たあとすぐ帰った。店は混んでいて活気がある。レコード屋に活気があるのはいいものだ。あと、新御茶ノ水の駅から階段を降りて改札まで行く途中のところが物凄く変わっていて、いきなり広く吹き抜けになっていて見上げると外の景色と夜空が見えている。周囲に新しいお店がいくつも出来ている。新御茶ノ水の駅とは思えない。というか、いきなりここまで大規模に変わると、駅周辺の全体的な地理感をまるで想像できなくなってしまった。よく、それまで建っていた家が急に壊されて跡形もなくなった後、その家で遮られていた向こう側の景色がとてつもない違和感で目の前にあらわれているときの感じというか。いや自分の長年住みなれた家が、立て替えとかで壊されて、見慣れた部屋から先の景色が壁ではなく外の景色になってしまっていて、自分のいつもいたこの場所と、外のこの木がたったの1メートルくらいしか距離として離れてなかったことに気付いたというか、いやむしろ距離の感覚が強烈に揺らいで、自分のもっていた距離感覚と空間感覚がまったく麻痺する感じというか。自動車が壊れてドアが外れてしまって中の乗車人員の身体が丸出しに見えてしまっているときの感じというか。駅のベンチで鞄の口をおおきく開けて探し物をしている人を見たとき、その鞄の中身が、何がどういう配置と順序で入っているかまで全部外から見えてしまっている感じというか。イカの胴体に包丁を入れて目の下のところをぐっと指で押さえると真っ黒なスミが出て目玉が二つ押し出されてあとは胴体に入っている塩ビ版のようなうすい甲羅みたいなやつがすーっと抜けたときの感じというか。

2013-04-11

ばたばたと忙しい毎日で、御茶ノ水でCDを買いたいのに、なかなか早めに会社を出られない。なぜか今日は久々にリヴィング・カラーを聴いた。ヴァーノン・リードのものすごいギター。弾いてますねーという感じ。こういうハードロックみたいな音楽が面白いのは、それぞれが何やってるのか、かなりはっきりと聴こえるからだろう。音圧が高いだけでギターとベースとドラムだけのスカスカな構造が、かえって楽曲の組織論というか、演者による合奏形式の楽しさの中心みたいなものを感じさせるというか。


昨日と今日はわりと肌寒い。でも今くらいが、丁度良いのだろう。また暑くなってきたら、それはそれで、嫌なものなのだよなあ。そして、もう眠い。かなり限界近くに来た。

2013-04-09

夜の7時になる前に一度外に出た。まだ完全に暗くなっていない、透明度の低い、青くふっくらとした空。格子状に黄色く光る高層ビルの、輪郭に食い込むように青い色が侵食してきている。歩行者用信号の広範囲にひろがる黄緑色の点滅が、液体がこぼれているみたいに目の端でちかちかと瞬いて、向かいの入口の奥からそわそわとした気分が気体になって放出されてくる。春の季節の、これから夜になる気配の期待が高まっている。

2013-04-08

「探求II」を再読。面白い・・・。しかし今日も働く。資本制の下で賃労働をします。そして夜には酒を飲む、と。

2013-04-06

午後から天気が崩れるらしいから、早いうちに買い物しておこうと言って、正午過ぎに、歩いて10分くらい先のスーパーまで行く途中でいきなり雨に降られた。でもその後すぐにやんで、結局そのあとしばらくして本格的に降り始めたので、外出したタイミングが悪いというか、運が悪い。

2013-04-05

横浜方面に常駐しているので、自分が在籍している会社の人たちと顔を合わせる機会が、最近はあまりないのだが、今日は宴会の日だったので、久々に大勢の人に会う。自分なんかはもはや完全にアウェーな人間かと思っているが、それでもああいう場にいればそれなりに知り合いもいて、久々に話す人も多く、それなりにけっこう楽しい時間で、約束していたラーメン会には集合時間に間に合わなかったけど、でも逆に間に合わなくて良かった。あれで最初にラーメンを食べていたら、喰い過ぎどころではない。異常である。最近は毎月、人と出会って、初対面の挨拶をしているが、その機会ごとに、相手に対して、必ず酒は好きか?を聞く。酒が好きな人をメモしておきたい。できれば東京、神奈川、埼玉、千葉、拠点ごとに、誰がいる彼がいると、都度ストックされていれば最高。

2013-04-04

行きと帰りで違う本を持ってたほうがいい。朝だと、まったくすんなり読めるのに、帰りが、どうも気が散っていて、朝まで読んでいた箇所から、その続きとしてスムーズに入れないことが多い。かなり前の方から読み直して大きく助走をつけて、かなり時間をかけてようやく入っていく。でも2冊や3冊鞄に入れていても、結局1冊しか読まないことが多い。どっちにしろ、いろいろと思うので、こんなことを書くだけむだ。

2013-04-03

今日は業務都合で久しぶりに終日秋葉原にいたので楽しみだったのに、朝から酷い雨でがっくりして、午後から雨はあがって、夜になったけどそのまま帰っただけで、別に何も楽しいこともなかった。まあ、最初からべつに楽しいことなんかないんだけどね。北千住に寄って買ったサンセールを家で飲んだらたいへんおいしかった。なので、まあ今日はオーケーとしよう。

2013-04-02

ハナズオウ。すぐそこに咲いてるのは、たしかにそうかもねえ。写真で見ても、よくわからないが。濃い色だ。ハナズオウの紫も、桜のピンクも、やまぶきの黄色も、ユキヤナギの白ですら、濃い色をしている。今日は一日雨で、久々にずっと無色だったが。

2013-04-01

DJ KOZE の新しいアルバム「Amygdala」を今iTunesで試聴しているけど、これいいなあ。

よく民俗音楽なんかの、延々続くリフレインを心地よく感じるというのはなぜなのか。単なるエキゾチシズムだけではない何かに惹かれているのだと思うが。

昔、まだ中学生の頃、親の実家で法事のときに御詠歌を詠まれて、それがすごく新鮮に感じられた。これはかっこいいじゃん、と思ったものだ。

でも日本的な音楽って、だいたい御詠歌みたいに、言葉の意味ひとつひとつを引き伸ばして、一個の音が一個の節になるようにして、それをひたすら繋げていくような作り方をされていることが多い気がする。楽曲が作られるというよりは、一個一個を最小の音楽単位にしてそれらを適宜つなぎ合わせている感じ。

だから、所謂リズムってものはあまり生まれてこない。むしろどこまでもリズムを拒否するというか、どこまでもエンドポイントを引き伸ばすというか、息継ぎのタイミングが絶対にその場その場で単体で置かれるので、繰り返しなのにループしないというか。

DJ KOZE のアルバムとなんの関係もない話だが、テクノは元々そういう、音楽のかなり原初的な部分がある意味むき出しになっているところがあるので、聴いていて昔の懐かしいことを思い出したりすることはよくある。

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