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2013-05-31

五月は早かった。まだ、過ぎ去らないでほしい。寒くもなく暑くもない、絶妙な気温の日々がいとおしく、いつまでもこのままであってほしい。夜になると、この好ましい空気に触れたまま、ゆっくりと座って酒や食事ができたらいいなあと思うが、そんな店を探すのもなかなかたいへんで、そんなに悠長に街中をうろうろしてる時間もなくて、結局、家に帰ってきてから、窓をあけて風がすーっと入ってくるのを見ながら過ごしていると、意外とそれで、今その瞬間がかなり思い描いた理想に近いことに気付いたりもする。なにしろ、とくに夜からの、風と空気がほんとうにいい。なるべく身体が外に触れたままで、中のことをしているのが、この時期は一番正しい態度のようだ。なるべくそういう空間の下にいた方がいい。

2013-05-30

帰宅途中で買ったワインが、住んでいるマンションの玄関ドアを開けたと同時に、落として、パーンと軽快な音がして割れてしまった。外は雨。路面は濡れている。そこに、驚くほど大げさな、大量の赤い水溜りができて、一挙に、いい匂いが充満する。安物ワインなのに、こんな場所で、雨のなか、薫り高く存在感を主張していた。ついに誰にものまれることなく、下水に流れ去っていくのに…。しかし、酒が嫌いな人ならこれは耐えられないだろうと思うような、そういういい匂いが、激しくあたりにたちこめており、ビニール袋に入ったまま割れたので余計な破片や何か、掃除の手間もなく、とりあえず落ちたビニールを拾って、口をしばって不燃ごみに置き場に出せばいいだけで済んで、後処理はじつに簡単でよかったけど、でも、まるで殺人現場みたいな、この大きく広がった赤い水溜りは、いくら雨が降っていていずれ流されるとはいえ、さすがにこのままというわけにもいかないので、家から鍋に水をいっぱいに入れて再度玄関まで戻り、ざーっと流して掃除した。犯罪の証跡が、液体にまみれて下水に流れていくありさまをじーっと見つめる。これでも匂いはまだかすかに漂っているかもしれず、敏感な人なら気付くだろう。とりあえずそれで帰って、今夜ひとり、淋しい夜を過ごした。

2013-05-29

俳優の吉田栄作は、今44歳だそうで、さっきテレビに出てたのを見ていて、こんな人がもし目の前にいたら、あまりにカッコよくて見惚れるしかないだろうね、と妻に言ったら、妻はむかしから今まで、吉田栄作をいいと思ったことが一度もないのだそうで、へー、そうなの?でも、どう見てもかっこいいでしょ?ふつうにみとれてしまうと思うけどなあ。もし今、目の前にいたら、やっぱりカッコいいと思うでしょ?と言っても、いやー別に、みたいな、浮かぬ顔をしている。まったく人の好みは、さまざまだなあと思う。


だいだい、年配の男性でモテる系の人の良さが、いまいちピンと来ないことが多い。よくわかってないのだ。この前テレビでついにはじめて「にっぽん縦断 こころ旅」の火野正平を見たけど、「うーーん??」という感じ。そうなのか、これがいいのか?と疑問符が沸き起こる。こういうのは、ほんとうに難しいものだ。


「酒場放浪記」の吉田類は、お洒落だけどほとんど老人といいうか、ふつうに酔っ払っている状態がたまにテレビに映っているのが、これはすごいと思うことがあるけど、カッコいいとかとはまた別な気がする。「孤独のグルメ」の松重豊は、まさに松重豊で、まああんな人間は現実には存在しないが、しかしやはりここで書きのこしておくべきは「美しき酒呑みたち」の新井浩文で、新井浩文は、ほんとうに暗くて、じつにすばらしいのだが、…なんの話かわからなくなってきた。


声がいい、というのは、まさに男性の魅力のひとつだろうとは思う。声のよさとは、男性特有のもので、女性で声がいいとか悪いとかは、あまり話題にならない。声はたしかに、すごく重要。僕も声のいい人は好き。好きというか、話していて無意識にいいと思っている。ちなみに僕の声はほんとうにダメだ。iPhoneの動画に自分の声が入っているのをたまたま聞くと、じつになさけない思いがする。声のいい人がうらやましい。


僕は男性の魅力を、たぶんかなり年齢の若い女子の感覚で感じているのかもしれない。つまりそれだけ、夢見がちな思いで、男性に幻想を見ている。でももしかしたら僕に限らず、同性が同性の魅力について考えるときは、必ず少し実年齢よりも若い視点で、やや夢見がちに、考えてしまうものなのではないか。そこには自分の楽しい記憶や願望が入り込むのかもしれない。これが、同性ではなくて異性の魅力、という話になると、途端に現実的でとてもじゃないけど無防備に願望を入れ込むなんてできない、とう気持ちになって、それで余計に。


まあ、でも実際、もう見た目はどうでもいいんだよなあ、という気持ちも強い。女性だろうが男性だろうが、だいたいのパターンは見てるわけだし、あまりもう見た目が楽しい気分にさせてくれるようなものでもなくなった。そして、若い人との年齢の差をつくづく感じる今日この頃。

2013-05-28

カウンターの一番端の席に座っている。しばらくして、ぽつぽつと雨が降ってきた。店員が来て、小さな傘をくれた。挿すと直径50センチくらいしかない。こんな小さな傘をはじめてみた、と言ったら、それは自分の頭の上に挿すのではなく、手元が濡れないように挿すのだと、店員が言う。そう言われて、しばらく考えて、ああなるほど、と思う。要するに、手元の、飲み物などの、テーブルの周りを濡らさないようにと、くれた傘らしい。並んだボトルの間にうまく柄を差し込んで固定したら、自分の手前の空間だけ、見事に傘に守られた。グラスの中に水滴が入らないし、皿や食器も濡れないので、たしかに都合がいい。そういう自分は、さっきから頭の上にひたすら生暖かい雨がぽつぽつとあたり、髪はぺしゃんこで、額や頬からひっきりなしに水が流れ落ちていって、スーツの肩も足元も水でぐったりと重たく垂れ下がり、もはや手遅れと言って良いほどのずぶ濡れ状態になりつつあったが、でもこれはこれでたしかに、如何に自分がずぶ濡れであろうが、手元のものが濡れてなくてそのままちゃんとしている方がありがたいものなのだということがわかった。むしろ手元の品々を守るために、ここに座っている、そういうことなのらしい。

2013-05-27

波打ち際というか、水際。崖っ淵の席。カウンターだけの店。頭上には庇が突き出ている。コンクリートの床に、背凭れのない高い椅子が数脚並んでいる。すぐ後ろは、もう海だ。少し後ろにずれたら、椅子ごとまっ逆さまに海に落ちる。そういう店だ。蒸し暑いと言ってもよいほどの天気だが、夜の七時前には快適な微風が身体全体にあたる。風の方を向いて、前髪がぜんぶ後ろに流れて、目を細めて、顔ぜんたいで風を受けている。正面に向きなおって、グラスを口にはこんで、呼吸を液体の方へ向けて、しばらく一息かニ息吸い込んで吐いて、そのままグラスをあおる。口の中に、流れ込むもの。波打ち際。波の音がする。さっきからずっとだ。あたりがくらくなる。くらくらする。ゆらりと重心が後ろへいく。あまり仰け反ると、水に落ちる。椅子の足が、ぎりぎりのところにあって、あと数センチずれたら、ぐらっと傾いて、海に落ちるはずだ。とても気持ちいい。カーテンがふくらんでいる。風にあたるには、波打ち際にいるには、これからもそうするには、どうしたらいいのか。水に浸るぎりぎりのところで粘っていたい。椅子ごとぐらっと海へ落ちていく、その直前のところでカウンターの縁に掴まって耐えている。下から波の音が聴こえる。夏が来たなあ。また夏だ、夜になったらほんの束の間だけ、こうして波打ち際で粘っているのがお約束の季節が来たなあ。銀が海水の塩分にやられてざらざらと表面が白濁した色のスプーンが置いてある。カウンターの上も、塩と機械油のような何かで、べたべたしている。さっき注文したムール貝を蒸したものがそろそろ来るころだ。砂でざらざらとした皿の上の海水で蒸した強烈な磯の香りがやってくる。でもだめだ、もう落ちそうだ。カウンターを捉まえている指の握力がじょじょに力を失っていく。落ちたらそのあと、どうすればいいのか。着替えはできるのか。そのあと電車に乗って帰れるのだろうか。落ちないかもしれないが。今、いったい何時になったのか。あたりはさらにくらくなった。もう、ただの夜になったか。

2013-05-26

天気は午前中曇りで、午後になって良好、というかほとんど初夏。散歩というか電車に乗って、てきとうに。国分寺の殿ヶ谷戸庭園に行く。モッコク、モミジ、竹、松など、公園にありがちなケヤキやポプラやクスノキはない。庭園だから当然だが。意外にこじんまりとしていて30分も歩いてぐるっと一周してしまった。そのあと少し駅周辺を歩く。高校一、二年のときは国分寺、三年のときは三鷹の予備校に通っていたが、国分寺の駅前も何も、昔とはずいぶんかわってしまった。しかしかわってない建物や店もあり、その境目がけっこうあらあらしいというか、変わらずにいようとする抵抗感が地味にしぶとい感じ。まともな抵抗ではなく、面倒くせーからいいよこのままでーみたいな感じ。そういうほうがなるべくならいいのではないかと思うが、まあ、いうほど昔のことをおぼえているわけではないが、たしかここに本屋があって雑誌を立ち読みしてたとか、南口には古本屋があったとか、このへんにラーメン屋があったとか、友達とお好み焼き屋に入ったとか、そういう記憶だけがあり、それらの場所には今はもうまるで違う建物が建っていて記憶に紐付くようなものなど跡形もない。というか、じつはほとんど、記憶もない。といってもいいくらいだ。そもそも、僕の両親は、僕が生まれたばかりの一歳か二歳くらいのときに国分寺に住んでいたらしいが、あたりまえだがそんなことは実感できるわけもない。ところで殿ヶ谷戸庭園自体は昭和四十年とかそのあたりからあるようだが、少なくとも僕は高校生のときは殿ヶ谷戸庭園なんてまったく興味がなく、駅の南口を出て左手の方を歩いていたことは何度もあったが、そこで右に見えている緑などはまったく視界にも入ってなかっただろうから、殿ヶ谷戸庭園は今回、国分寺にはじめて発見した場所である。一応の目的としては、今日はそのために国分寺に来たわけだし。歩いていて、そのうち疲れてきたので、早めに地元に戻って買い物して家に帰った。僕は平気だったが、花粉が多いのか、街中にも電車の中にも、鼻が辛そうな人がたくさんいた。

2013-05-25

身体や心のことについて、いまのこの感覚。この私の心と身体の感覚とは、別の認識をもった時点で、ほとんど死んだようなものではないだろうか。ライプニッツとか、ベルクソンとか、いったいどうなると、あんな異常なことを考えつくのか。もちろんあまりよくわかっていないけど、それでも、それにしても、あまりにも異常だろ。ほんとうに、ああいうことを一度でも、「実感」として思ったのだろうか?いや、あれを「実感」というのが、ほとんど無理でしょ。あれをわかった時点で、ただちに死ぬような気がするのだが、そうでもないのか?そもそも、クオリアが平面Pの上にちらばっていて、それらは客観的に存在しているといわれると、それはすでにもう、僕の思ってたクオリアとは別のクオリアの話ですよね、とも思うが、いや、でもそれはそうなのだ、そもそも、そっちの方なので、と云われても。とはいえ、そのあと主観的なものは過去に、と云われて、そこがなんとなくぼやっと、ああそれはそうだと思わせるほんの少しの、それこそ「実感」があるようにも思われ、もはやその「実感」に、なんの意味があるのかさっぱりわからないが、でもモナドに窓がない、というのも、それを巡る延々とあるさまざまな話と並行して、やはりその窓のなさの「感じ」、暗さの「感じ」、その現実的な気配の「感じ」に、きわめて微弱ながらある種の「実感」を感じもしていて、それが、そのことを考えさせ続けるか細い力として、ずっと作用もしていて、理解というのも実感というのも共感とかでもいいが、それらにほとんど意味などなく、おおよそは、ああ、狂ってるなあと思っていて、繰り返すが、これってもしわかったらそれは、ほとんど死ぬこととかわらない、というような話であろうと思っている。

2013-05-22

今週末は晴れるといいのだが。晴れたらまた公園だな。のむものと食べるものと、レジャーシートと本と絵を描く道具も少し持っていくか。同じものを見ていても、それぞれの視点であるがゆえに、見ているものは少しずつ違うし、だから見ている人の数だけ、見ているものがあって、それらすべてが、ほんとうのことだ。見ているものもそうだし、見ている自分もそうだ。この自分。さっきもいた。しかしもう違う。もう忘れた。これを書いているいまの自分もそうだ。今がもうない。さっきの自分だ。公園にいた頃が、とても懐かしい。今から、約十五年前のことを思い出す。思いだすということは、つまり過去が、現在になるということだ。公園くらいしか、ほかにもう、行くところもなかった。今週末も、きっと行くだろう。

2013-05-20

何か、少しずつ自分がセコくなっていって、寛容さや余裕が、なくなってきた。そう思っている時点で、すでにもう、前とぜんぜん違う。昔は、自分に寛容さや余裕があるなどとは、思わなかった。寛容とか余裕以前のところで、勝手にやっていただけで、要するにみんな、遠いところの出来事だったのだ。だから、何に対しても、それほど何も思わなかっただけなのだ。今でも、そんな風にしていないといけない。いや、いけないというのは無理だ。でも、セコくてけち臭い感じは、なさけない。なさけなくないようにするには、何とかのようにする、あるいはしない、という風な考え方しかできないところが、すでに、どうにも違う。

2013-05-19

「男と女」をDVDにて

自動車の映画、という感じで楽しい

フォード・マスタング

車が走っているのを撮影すると、こうなるのだという、そういう

曇天、浜辺、街並み

よくカメラに収まったと思えるような、過去のある日その一日の様子そのもの

宝くじは買わない

どんなにお金があったって、今より幸せになれるはずがない

四百万円があたっても、今より幸せになれるはずがない

だって僕は、恋をしているから、なにもいらない

だって僕は、お金で買えないものをもらったんだ

夕方から予約した店にて食事

何度か来た店だが、あらためて、こういう主張の店なのだなと、強く感じられる内容

どんなにお金があったって、今より幸せになれるはずがないけど、でも、お金がなくなったら、もうのめない

だから、お金は必要ではある

だから、働かないと

どんなうわさも、手遅れなのさ。僕があの娘を、愛してしまったんだから

どんなうわさも、遅すぎるのさ

あの娘の次にこの僕が、あの娘を知ってる

うわさをたてる君よりも、僕のほうが知ってるのさ

2013-05-18

夕食をサンドウィッチにしようと決めて、レタスとトマトと、ベーコンとかオイルサーディンとか、チーズとか、惣菜のロースカツとかを買う。あとパン、マスタードとかを。


マスタードをしっかりと塗って、ソースもしっかり、塩、胡椒もしっかりと効かせて、野菜、玉子、肉など色々と挟んで、少し手で抑えて、それから食べると、挟んだものの味が、きれいにひとつに圧縮され、はっきりとした味わいになっていて、ちょっと意外なほど、簡単にちゃんとしたサンドウィッチの味になるので、これは、こういう食べ方の、元々発明したことが、すごかったのだろうなと思う。というか、発明というか、人間の発明はパンに挟むというところまでで、それが、こういう味わいをもたらすというのは、人間側の手柄ではなくて、必要に迫られて、とりあえず全部一緒くたに、ひとまとめにして挟んで、手で掴んで一気に食べたら、思いがけず、こういうおいしさが、はじめて出現した。ということであろう。機能美、というか、機能味、とでも云うべきものが。


テレビを見てたら、俳優の新井浩文がバーでカクテルをのんでるのが、ものすごくうまそうで、ジンベースの何かがのみたくなって困った。あの、酔いと目が覚めるのが、同時にやってくるような、すばらしい覚醒感を感じたい。

2013-05-17

週末の予定が、何にもないですと言うと、相手は、録画してないテレビがいっぱい溜まっているから、それを見ようかなと言う。でも、テレビ見るものないよね、と言って、2倍速で見ると早くていいですと言うので、いいなあウチのヤツだと1.3倍速しかなくて、1.3倍だと微妙に遅いから、2倍だといいなあと。でもあんまり見てないで、だいたいですぐ消しちゃいますけどね。へえ、そうかあ。でも、週末なあ、と、言う。ダンミツって見たことない。どんな人か知らないと言ったら、えー全然テレビ見てないんですかと言われる。いやーちょっとは見てるけどねえ。でも知らない。Janet JacksonのAlrightが頭の中に鳴り響いている。Janet JacksonのAlrightからBlack StreetのGood Lifeに繋がっていくことを想像している。

2013-05-15

昨日は寝てしまったし、今日も寝てしまった。

2013-05-13

拾得物受理通知書を持って警察に行って、失くした財布を十日ぶりに受取った。拾ってくださった方にあらためて御礼申し上げます。確認したら、中身はほぼすべて無事に揃っていたが、現金だけは、さくっと消えていた。これはもう予想通り。重要なカード類は、処置済みのため先日の時点で既にただの機密ゴミでしかなくなってしまったが、財布それ自体だけでも戻ってきてくれて嬉しい。しかし、長年使って、もっといい風合いの財布になった思っていたけど、別に高級で良質なものでもないし、よくよく見るとやっぱり十年経ってるだけのことはあって、けっこうくたびれているというか、まあ、ちょっとぼろい感じに見える。なんか、失くしてから想像上で過剰な美化が入っていたようで、現実は思ったほどでもなかった。こんなボロイ財布使い続けるより、やっぱり、これを機に、あたらしい財布買おうかという気持ちも、一瞬沸くが、そんな無駄遣いしている場合ではないので、当然のことながらひきつづきこれを使う。もうこれ以上余計なことをしない。早く何もかも元通りにして、いつもどおりにすること。

2013-05-12

ブログは、一日か二日書かないと、そのままいつまでも書かなくなるので、つまらないことでもいいから書いたほうがいいとは思うのだけど、じっさいにつまらないことを書いてしまうと、あとで腹が立つし、くよくよと後悔するので、いまさらだが厄介である。


で、なんだったっけ?


先週の水曜日は、午前中だけ会社を休んで、江東区の免許センターに行って失くした免許を再発行した。すべての身分証明書を失くした状態だったので、前日に会社に在籍証明書というのを書いてもらい、それを持って行った。この人はたしかにウチの会社に在籍しています、という証明書。会社の印鑑が押してある。これがいったい何を証明するのかと思うが、本人の名前と生年月日がわかればとりあえずはいいのである。再発行自体は一時間くらいで終わった。そのあと郵貯銀行にも行ってカード再発行を申し込んだら、郵貯銀行は通帳でも引き出しが出来るということを知って、その場でお金をおろした。財布紛失の対応として、一応これで、やるべきことはすべてやってしまった。


で、その日の夜、警察から拾得物受理通知書というハガキが届いた。


遅い…。一日遅いよ、と思った。これほどまでに「複雑な気持ち」というのはあまり感じたことがない。


でも、誰かが届けてくれたのだ。これは、驚くべきことだ。これを書いている今の時点で、まだ警察には行けてないので、届けられた財布が、外見内容共にどんな状態になってるのか、ぜんぜんわからないのだが、しかし誰かがそれを、警察に届けてくれたことは間違いないのだろう。


ほんとうに、なんて素晴らしい。神さまみたいに、素晴らしい人が、この世の中にはいるものだなあ、と、しみじみ感慨にひたる。


でも、そういえば二年前にiphoneを落としたときも、同じように警察に届けられたのだった。あそこに行くのは二年ぶり二回目。だから少なくとも、神さまみたいに素晴らしい人は、二人いたことになる。多い。そして、このわたしは、いくらなんでもモノを落としすぎる。


木曜日は、たしか江東区のピザ屋で飲み会。自分がバカに思われるだけなので、話す気はなかったけど、テーブルを囲んでしばらくしたら、結局、財布を落とした話をぺらぺらと喋ってしまう。


江東区の夜、春の夜。風が身体を包んだ。


金曜日はつまらない。どこにも寄らずに帰る。金曜日の夜はどこも混み過ぎだ。でも事前に電話入れるのも面倒くさいし、それでも良かったけど、ちょっとだけで帰りたかったのだ。でもそのちょっとだけの感じに、どうぞどうぞというムードの店は少ないのが、週末の夜である。


いつも暇そうな店が好きだ。気に入ってる店が混んでいると面白くない。でも大好きな店になぜか空席が多いと心配になってしまう。どちらにしろ勝手な思いに過ぎない。レストランが遵守するのはサービス、清潔さとある種の秩序で、客はそれを信じてリラックスし、それぞれが思い思いに、幸せになるしかない。このあともずっと、案内された末席で、その日の注文を組み立て続けたい。


そして来週末の店は予約した。誕生日おめでとうございます。


前々日に照明の電球が切れて、新しいのを買わないといけないのだが、もう白熱電球はお店に売ってない。しかもクリアタイプのやつなんてまったく見かけない。クリアタイプの白熱球の、ガラスのなかのフィラメントが見えているやつが、とても好きだ。部屋で使うなら、あれがいいのだが、もうこの世から無くなってしまうのか。と思ったらインターネットだとまだ買えるみたいだ。


で、ネットで白熱球25個セットを購入。価格はLEDの電球一個と大してかわらない。半年に一個使うとして、10年くらいは使えるだろうから、総寿命もだいたいかわらない。


しかし、25個セットって。なんか、玉子を買ったような感じがする。


今月に入ってからずっと読んでる本が、とても難しい。かなり丁寧にゆっくりと、十日近くかけて、やっと100ページくらい読んで、それでもわからないと感じるところが多く、正直これから先へ、読み進む気になれず、それまでの、気になる箇所を、何度も読み返している。しかし読み返しても、やはりわからない。


で、それならそれで、すっ飛ばしたり中断してもいいのだが、今はなぜか執拗にぐだぐだとこだわって留まっていて、それに絡んで土曜日は本屋で久しぶりに散財する。超、いろいろ、買ってしまった。こんなのいつ読むのか?というような、ヘビーなやつばかり。


でももう、いいや。もうあと半年か一年くらい、しばらくこの世界だ。もう何も言えなくなってもいい。行き詰ってしまってかまわない。そのことや、ある対象のことを考えると、ふわーっと気が遠くなってくる感じがある。そのときのことだけに気持ちを置いておきたい。


今日は買い物に出た。素晴らしい天気。そして風が吹いて、向こうから歩いてくる女性の洋服がはためき、スカートが踊って膝から上がふいにあらわれる。僕のシャツの裾も、下から大きく浮き上がって上下している。

2013-05-09

京急本線快特(青砥行)に乗ったら、品川に着いた時点で何両目か以降の車輌を切り離すのだという。そう云われて、今自分の乗ってる車輌が切り離される方なのか切り離す方なのかわからないまま、あっというまに品川まで来てしまい、焦って、あたりをきょろきょろ見回してたら、隣の車輌の乗客がわーっと皆降りて、連結部分を、駅員が俯いて何かしていて、そのあと、電車はふつうに出発して、隣の車輌は、その場におきざりになったので、我々の乗っていた車輌がたまたま、その切断面で、激しく血を滴らせて地面を汚しながら、次は泉岳寺、お出口は右側である。

2013-05-08

新橋。

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2013-05-07

照明に照らされた、ぶら下っているカードやレシートや手紙や何か。枯れた観葉植物の葉や、クリーニング屋のポイントカードや、JR東日本テレホンセンターの電話番号や、ほかにもいろいろ、干物のようにぶら下って、ゆらゆらと揺れている。部屋の中でここだけが、去年からかわってない感じがする。しょっちゅう色々と付けたり外されたりするから、もっとも変化に富んでるはずだが。

2013-05-06

古い服を捨てる。主にワイシャツが多い。けっこう思い切って捨てたので、クローゼット内に余裕が出た。そのまま、ついでに部屋の掃除を始めてしまう。その瞬間だけは、たたかいのように、徹底的にやる。ただしあらかじめ決めておいた箇所だけにとどめる。それ以上やると収集がつかなくなる。行為の意味を突き詰めることが必ずしも最善ではない。ほどほどにしておくのも大切。みんなが幸せになるために。そのあと、洗面所の水道の蛇口から水がぽたぽたと洩れてしまうのを一ヶ月くらい放っておいたのを、せっかくなので修理に取り組む。元栓を締めて、ドライバーでノブを外し、内側の金属部分を外して、中に納まっているゴムが付いた節水コマを取り替えます。もう今まで何度も調べたり器具を買ったりして経験を積んでいるので、手順はけっこうおぼえている。


しかし、上手くいかない。やり方は問題ないはずなのに、まだ洩れる。なぜなのか、わからない。何度か試したけど、最初よりむしろ悪化した感じである。仕方がないので、修理業者に電話したら、すぐに来てくれたが、今までのいきさつを話したら、えー!?そこまでやってもダメなんですか??と驚かれる。あー業者さんも同じ作業を想定して来たのかあ、と思って、やや期待の気持ちがかげる。


しかし5分もしないうちに、完了したというから見てみたら、確かに漏れが止まっている。どこが悪かったのか聞いたら、いやあ、ふつうにコマを取り替えただけなんですけどねえ、と。…ってことはつまり、やはり、僕のねじの閉めかたとかが悪かったってことですかね?と聞いたらら、いやあ、そんなことなかったですよ?ちゃんと締まってましたけど、なんでダメだったんでしょうね?コマのかたちかな?前に入ってたのと同じ形のを入れてみたら、一応ちゃんと洩れなくなりましたからね?でもさっき入れたやつのほうが、安いコマなんですけどね。でもお客さんこんなにたくさん、コマ買ったんですね。もったいないですから、また洩れるようになったら呼んで下さいね、これみんな、使わないともったいないですからね!じゃあどうもすいません、こちらにサインお願いします、と言って、業者は去っていった。…直って良かったけど、どうにも釈然としない気持ちが残る。


いつもの休日のとおり、夕方から早々と食事をはじめて、なぜか「アルプスの少女ハイジ」が、何時間もかけて延々放送していて、何となく見てただけなのに、なぜかこちらも意地になり、とにかくクララが立つまでは見ようということになってしまう。で、まあ最終的には、たぶん六時過ぎにはクララが歩いたのだが、その前に驚いたことがあって、ハイジとクララとペーターが遊んでいたら、突然夕立に襲われるシーンがあるのだが、ハイジかクララが「わー!雨だ!」と言ったら、それを見ている我々の部屋の外が、パッとカメラのフラッシュが焚かれたように光って、雷の音がとどろき、やがて外の世界に、激しい雨が降り出したのである。今年はじめてみる夕立。季節がはっきりと変わったのだと思った。


驚くべきことがもうひとつあった。ハイジたちが雨宿りをしていて、やがて雨が上がり、おじいさん達が助けに来て、でもすっかり空は晴れて、ああ良かったとなったとき、出し抜けにクララが「あ、見て!虹よ!」と叫んだ。空に虹が出ているシーンを見ながら、僕らも思わず窓の外をみたら、なんと信じがたいことに、まさに窓の外の、下から左上にかけて、きれいな円弧を描いて虹が出ていた。クララ!なんでわかるのか?と問うも、返事はない。


クララは立ち上がってから歩くまではしばらくかかるのだが、立つと、ハイジよりもペーターよりも背が大きく、身体も大柄である。


クララもきっとこれから、別の人生がはじまる。もうハイジやペーターとも、会う機会は少なくなり、やがてお互いを忘れることだろう。そして幾年もの年月がながれ、アルプスのことは、いつかどこかの、ぼんやりとした淡い夢のような記憶へとかわることだろう。

2013-05-05

MOVIX亀有で「リンカーン」を観る。19世紀のアメリカの感じ。見応えのある画面がたくさんあって満足した。ダニエル・デイ=ルイスはリンカーンにも見えるし、ダニエル・デイ=ルイスその本人にも見える。とくに声は、もろにダニエル・デイ=ルイス。当たり前だけど。見た目はしかし、リンカーンってこうだったのでは、とも思わせる。痩身で、やや猫背気味に座っている姿とか、ゆったりと立ち上がる姿は、やはりほーっと見惚れるようなものがある。国務長官役のデヴィッド・ストラザーンも良かった。トミー・リー・ジョーンズはどうしてもテレビCMで見慣れすぎているので、なんかダメだ。


とりあえず話の中心は、南北戦争末期において、奴隷制にまつわる憲法の改正案が下院にて可決されるか否かを巡るものである。いわば憲法改正への困難に立ち向かうスリルと緊張感である。この映画の中でのリンカーンはたぶん、個人として、人間の平等や自由についての理念を信じる存在として(かなり「立派」な「いい人」として)描かれていて、そのうえで、奴隷制法案改正のために、複雑怪奇な政治的情況において、さまざまな駆け引きや説得、策謀などを駆使して、どうにか危うい綱渡りをわたろうと頑張るのだが、しかしこれは「きれいごとを言うけど、結局生臭い駆け引きで物事は決まる。」というような単純な話ではなくて、むしろきれいごとも汚らしさも平気で共存してしまうような、今のこの場において、次の一手を可能にするために何が可能で、如何なる方法がありうるのか?ということについて、それこそ、きれいごとじゃなく、足掻くように探るということを、正面から泥臭く描こうとしているように感じられる。


…ところで、書き忘れていたが、一昨日(金曜日)は日中、小石川植物園に行ったのだった。この植物園はたいへん良かった。あまり時間がなくて、結局敷地内の半分しか見ることができなかったのだが、如何にも学術的に利用されている植物園の感じで、どの植物も植生されたものたち特有の佇まいが感じられる。シダ園および公開温室内の熱帯植物等を中心にみた。幹の太さにいったい樹齢何年なのかと驚くような樹木がいっぱいある。ハンカチノキも今ちょうど咲いている時期だったようで、ちり紙のような白い花(葉)が陽の光を浴びながらいくつもひらひらとしていた。

2013-05-04

木曜日も飲み会で、主賓の人と帰り道が一緒の方角だったので北千住で二時くらいまで二人で飲んで、そのあと別れて、僕はタクシーで帰ってきた。車が、千住新橋を渡ったあと、ちょっとみたことがないような道に入って、深夜の、人気の無いその道を車はほとんど一気に走って、えー、どこに行くつもりなんだと思ってみてたら、急に、家のすぐそばの道に出た。うわーすごい、こんな行き方あるんですねー!と言ったら、いや、ちょっと失敗したんだよ、料金から300円負けとくわ、と初老の運転手さんは言った。なんだかよくわからないけど、プロフェッショナル魂というやつか。。


最近は連日のんでいて、たぶん人並み以上にのんでも大丈夫な方なのだと思うが、一定量のんだ日の翌朝は「あーのみすぎた」と感じる。目覚めにある種の不快さはある。年を取ったからそう感じるのだろうと思う。のまない日もつくるべきだとも思うし、のまない日があったほうがのむ日が楽しいだろうとも思う。


しかし、連日のんでいる。金曜日ものんだ。しかもひとりで。


ひとりでのむ日もまた最近ふえてきた。4、5年前もよくひとりでのんでいた。立ち飲みの店で日本酒をのんでいた。当時はまだワインにほとんど興味がなく、日本酒がいちばんおいしいと思っていた。でも、味がどうとかそういう細かい話もどうでもよくて、あのときの方が、今よりもさっとのんでさっと帰っていたような気がする。今はワインばかりなので、店もワインバーばかり探してるけど、まあ、今でも細かいことにグダグダとこだわったりしたくない気持ちはあるので、どうでもいいという態度ではあるが、それでも原産国や地域やブドウ品種とかは、どうしても気にしてしまうし、あれとこれを較べたくなったり、そういうことがグダグダとあって、昔よりも今のほうがだらだらとだらしなく長時間のみつづけるようなことになりがちではある。


店も色々で、僕も地は愛想のない男であるが、相手の出方に適当にあわせるような事もしながら(本来は店が客に合わせるのだろうが、結局は店が試し打ちしてきた一球目に、それでいいですよと返すから、客が合わせることになる。)こちらの目的は単に飲みたいだけだということで、夕方になると口の中に唾液と一緒にワインの味が沸きあがってきてしまうから、仕方がないから来てるのだというだけで、金曜日の夕方もそうだった。…しかし、なんか変な店だったなー。


で、帰りに財布をなくした。十年ぶり二回目。この、ものを失くす習慣をなんとかしたい。あーあ、という感じ。情報セキュリティがどうとか、偉そうに会社で云うこともある人間のやることとは思えない。もし拾った方がいましたら僕まで連絡を下さい。財布をなくすと、とにかく面倒くさい。その日のうちにクレジットカードとかを停止して、そのあと、寝て、今日の朝に起きて、「あーのみすぎた」と感じる。そのあと、あれ、財布なくしたのは夢だったっけ?と思うが、残念ながらやっぱり現実でした。


ツタヤのカードやら細かいのも一々全部電話して停止して、警察に届けて、駅の忘れ物もしらべてもらったが、案の定行方わからず。まあたぶん盗られてすぐにゴミ箱に捨てられるとか、そんなことか。現金は幸い大した額じゃなかったし、カード類も手間がかかるけど止まったので、結局財布なくすと、一番もったいないというか一番痛手なのは、その財布それ自体を失うことだ。十年前もそうだった。十年使っていて、非常にいい感じだったのに、また新しいものを買って使わなければいけないなんて。


そして、財布をなくして、でも全然後悔もしてないし、ほとんど精神的なダメージを受けてない自分はどうだろう。やはりまだ、今後ものんで行こうという気がある自分もなかなかすごいし、これしきのことではまったく、びくともしませんという頼もしさがある。そうこなくちゃ、それでこそあなただ、とも思う。


でも妻が怒るので、あまり開き直れない。なにしろ、この連休中、僕は一文無しなので、何を買うにも、妻にたのむという、お母さんと一緒の小学生みたいな情況になっているのだ。


今日は警察とか駅に行ったあと、すごくいい天気だったので、妻と二人で公園を散歩した。ほとんど初夏のような陽気。ポプラや桜の葉の色のもえたつような濃さ。日の光につつまれて、そしたらなぜか、失ったことへの、妙なロマンティシズムに酔いはじめて、ああ僕はついに、何もかも失くしてしまったけど、これはむしろ、神様が僕に与えてくれたギフトかもしれない。今、ここにきてようやく僕も、ちゃんと真正面から芸術に向き合うことができるような、今はじめてその資格が与えられたかのような、そんな気がする。だから、今日から僕も、自分の力を信じて、このうつくしい世界をつよく感じて、何かを受け入れて、何かを返そうとする、そんな芸術者としての自分を、真っ直ぐにすこやかに、たちあげて行きたいと、すごく素直に思っているのだと、そんなふうに語った。妻は、ばかだなこのひとは、という顔をしておりました。


明日は映画を見に行く予定(妻のお金で)。

2013-05-02

月曜日に、一人で上野でのんでいたのはおぼえているが、二軒目にいったことはまったくおぼえてなかった。当日、家に帰ってきた自分が、二軒目の話をしていたらしく、そのことで発覚。でも別にいいのでは?


ほんとうに、のんだ当日のことを、覚えていないのが当たり前になってきて、それはやばいと思っている。


今日はまた桜木町、そしてぐっと離れて北千住。また後日続きの約束をする。


文章の場合、「この私」とか、「クオリア」を説明するのは、常に難しい。文章が、そういうものを指し示すことができるようには作られていないからだ。むしろ、「この私」は決して文章にあらわれない私、とでも言った方がいいかもしれない。


お金のない世の中がいいよねえ、などと、酔った席で口にしてみると、まず、そうだねえ、だったらまず、ブツブツ交換かもねえ、といいう話になる。あるいは、山に住む人と海に住む人がいたら、視線に交通が発生して、どうしても交換が起こって、お金もできてしまうと、すぐに言う人もいる。たしかにそうだよねえ、とか言いながら、そもそもなんでその話題を振ったのか、あまりよくおぼえてない。自給自足ってことですよねえ、みたいな話になると、いや、そうじゃなくて、もっと、お金もなくて交換もなくて、もっとぼやっとした感じで、ねえ…みたい話になり、いや、でもみんな働きすぎですよね、という話になって、だよね、もっと休んで、なんか適当にやるのがいいよね、みたいな話になってそのあとはまたひとしきり他人のはなし。

2013-05-01

数日前から、西川アサキ「魂と体、脳」を再読。ちょうど一年前に途中で挫折したので、最初から読み直しはじめた。先週のはじめに、「探求II」を読み終えてまだそれほど日が経ってないので、「単独性(この私)」についてのことが、頭の中に割とのこった状態で読み始めたので、クオリアというものに対して感じる質感が自分のなかに強くあり、そのせいで第一章から、一年前よりもぜんぜん面白い。おそろしくゆっくりだが、かなりエキサイティングに読み進めていけてる。というか、このモナドロジーというのは、ほとんど異常としか思えないのだが、この異常さを忘れてしまって読み進んでもあまり意味が無いのだろうと思う。とにかく、ものすごく異常なことを語っているので、文章は平易ながらところどころものすごく変としか思えない、というか、変としか思えないことをふつうに説明してしまって、それでしらーっと平然としているような箇所が多々あり、そういう迫力が物凄く、思わず笑いそうになる。…まあ実際、何度も行きつ戻りつしながら、それこそ自分で自分に語りかけながら読み進むしかない。どうなの?もう一回戻る?少しやめとく?などと思いながらおそるおそる進む。吉田健一の「三文紳士」も鞄に入れてあり、それを気分転換に読むこともある。時間と勢いがあれば、ある程度進んでしまうし、そうでもなければ、あるところでやめたり、また読み始めたりする。まだ40ページくらいしか読んでない。


…たとえば「視点」というものが、「たとえ自分のものでも常に推定されるしかない一種の他者だ。」などという言葉がでてきて、これは結構ショックだ。言われてみればたしかにそうで、これ以上他者な他者はないと云えるが、それにしても自分の視線すら他者とは、と思って唖然としてしまう。

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