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2014-03-31

今、朝の六時四十分。あと十五分で、出かけないといけないのだが…。


なんだったのか。昨日は。なぜ、あれほど飲んだのか。


そして、帰ってきて、すぐ寝たらしい。さっき起きて、超すっきりしている。


妻は、普通だ。怒ってない。


なんなのか。何がなんだか、さっぱりおぼえてない。


さわやかだ。そして不可解だ。


いま、いったいどこにいるのか。家か。これから出勤だ。


すべて謎だ。ほとんどカフカだ。


まあ、いいか。果物を食べたらさっぱりしておいしかった。


今日って火曜日か…。

2014-03-30

読んでいるブログが色々と多数ある。全部で何個あるのだろうか。インターネットにつながって、ブログという手段が、これだけ世の中に浸透してから、もう何年も経つ。


僕のおぼえている限り、日本でブログという言葉が聞かれ始めたのは、今からもう十年以上も前だと思う。インターネットにおけるこれまでの様々なサービスと同様、ブログも海外からそれはまず「仕組み」として紹介されたのだと思う。すなわち、インターネット上に散らばる価値あるリソースをあとで少しでも効率的に有効活用するために、個人発信の情報も組織単位の情報も、全部をある程度、同じような規格に沿ったひとまとまりの一個のコンテンツとしてウェブにアップすればいいじゃないか、つまり今までのように閉鎖的なメーリングリストや得体の知れないBBSなんかに書き散らすんじゃなくて、それぞれが自分のサイトに、一つの記事(アーティクル)として情報をアップする。一つのアーティクルは必ず一意に特定可能な住所を持っている(パーマリンク)。記事はアップされると同時に登録先にフィードを配信するので従来のメーリングリスト同様に更新情報の取得は容易だ。そして、それがもし有効だと思えば、他人はそれを自分のブログからリンク(トラックバック)する。こうして様々な場所にあるアーティクルがトラックバック同士でつながっていって、まとまった知の連携網がうまれる。検索性向上のためにカテゴリ化タグ化も大いに可能だ。こういうやりかたの方が、一アーティクルの管理もしやすいし、責任の所在もはっきりするし、何よりもウェブの特性をもっともよく活用できていてスマートだ。だからブログで重要なのは、ブログタイトルを掲げたサイトの単位ではなくて、あくまでも各リンクを持ったアーティクルの有効性、それで決まる。これぞ、ネット上で個人がなんとかやっていけるための、かなり素敵な方法なんじゃないか、みたいな、当初「ブログ」という聞き慣れない言葉にはぼやっとだけど、そういう期待感が貼り付いていたたように記憶する。


今僕の使ってるRSSリーダーに登録されている、フィードを吐くサイトの全登録数でいったら、おそらく二百件とか、もしかするとそれ以上あると思うが、まあせいぜいその程度だとも言える。もちろんそれらのすべてを読んでいるわけではなくて、わりと頻繁に追加したり消したりする。とはいえ、消していいと思うものは常に少なく、ある時期に来たらまた読み始めたり、逆に読まなくなったり、それでも結構長い年月、それらの膨大なリストは保持されていて、おそらく僕は自分のフィードリストを編集する分量自体は、そういう情報をヘビーに使うユーザーから較べると何十分の一か何百分の一に過ぎなくて、自分のリストはいつまでも変わらないのに、登録先のブログの方がいつの間にか消えてしまうような場合がほとんどである。そのことに何ヶ月も経ってから気付いて、それでもフィード自体は残っているなら、登録先が消えてしまってもやはり消去することなく残してあるので、自分の手元の方が現実よりも過去を保持し続けて膨らみ続けている。だから僕の場合は、常に最新のアーティクルを取得しまくるアクティブなフィードゲッター、という感じではなくて、むしろ既に消えてしまったアーティクルをいつまでも後生大事に抱え続けていたい引きこもり的収集家という感じなのだろうか。しかし、それはそれで、ブログ的な仕組みに見事にかなった、じつにブログ文化の理想の実現ではないかという気もする。


ブログを書く、というとき、技術者が仲間に向けてtipsをリリースするとか、実業家が今日飲んだワインの銘柄を書くとか、活動家が声明を出すとか、僕が今日の出来事を書くとか、色々あるわけだが、これはいったい、今やどういう動機に基づいているのか。それを今更のように考えたりもする。もちろん書き手個々の人間は、それがブログであってブログの歴史がどうとか、そんなことは考えてないというのは当然なのだが、しかし、今やブログというのは、いったい何なのだろうか。


おそらくかつて夢見られたような、人まとまりのテキストが分節やいいかげんな単位ごとにばらばらずたずたになって拡散するとか、あっちとこっちが何の脈絡もなくつながったり切れたりとか、そういうことは、おそらくは起きなくて、ハイパーリンクは単なるハイパーリンクでしかないし、どこかにいきなり想像もつかないようなものがあらわれるということは、もうない。というか、そういうことは今まで一度も起こってない。


インターネットはどうして、全体がこれほどまでに個人の日記帳みたいなものになったのだろうか。こんなことが、九十年代に予想できただろうか?今や、みんながプライベートな日記帳を共有しているようなものだ。あなたの書くことと私の書くことは、だいたい同じだと皆が認め合ったからこそ、この事態が実現したのだろうか。…この言い方はまるで、現状批判のような感じに読めるが、そんなつもりはないのだ。他人の部屋のにおい、炊事場や洗面所の感じ、簡単に済ませる食事、玄関を出て目の前にひろがる風景、それらが何もかもが、誰かの記憶として自分の過去に直結してしまう今の情況を、少なくとも僕は、十何年か前にはまったく予想できなかった。今嗅いでいるこの匂いの、なんというおそるべき個人的な、それでいて誰のものでもあるような、得体の知れぬ匂いだろうか。


まさか、こんな日々が来るとは、ほんとうに思わなかったという感じだ。

2014-03-28

まさに期末的な飲み会が二日連続で、また行きましょう、また飲みましょうが大シュプレヒコールになってこだまする感じで、しかしそれも一時のことというのは例年通りである。まあ、会社員だと今生の別れが日常茶飯事であり、戦争中ならみんな兵隊で、死んじゃう人、生きる人、別の生を生きる人、それぞれなのはあたりまえ。溜池山王はぎらぎらとしていて魅力的。これは楽しそうな場所だねと思って、しかもかなり遅くなっても帰りやすくてなお良かった。

2014-03-26

三月末だと、色々と変化の時季で、うちの妻も今ちょうどそんな時期で、毎日大変そうで、それ以外でも自分の職場の周囲なんかでも、がやがやとしてるし、夜は夜で、別れと出会いの、様々な飲み会がいっぱいあって、如何にも期末なムードであるが、僕は今日は、また一人で食事だったけど、最近じつに、ひとりで外食するのがやみつきになるほど好きになってしまって、これから30分後に一人で行くと電話して向かって、到着して席について、本日の傾向と対策を決めて待って、そのとき乃至その後の、この手持ち無沙汰感、このアウェー感、この気を使われないと辛いし気を使われると鬱陶しいという、絶妙な距離感の難しさ、あたりが、むしろ今は一々面白い。というか、ある意味言いすぎで、まあ、ほぼ、ちょいちょい適度に話もしながら良い感じで弛緩して、ははははとか笑いながら、まずまず快適に過ごしていて、むしろ一瞬、急に放置されるくらいの感じのときに、ある種の独特の旨味が、こういう場においてはあるとも言える。おー、今俺は何を、、という風の吹く感じ。これがむしろいいのだ。周囲を見渡して、手元を見て、おー、おれは今、何か過去へと遡行しているかのような。…そして周囲のこいつら全員過去の人々だろ、墓の下だろ、みたいな、意味不明な妄想が働きつつ、ぼやっと、グラスを持つ手の位置を変えてみたり、おしぼりで手を拭いてみたり・・・ 妻が忙しいと、こうして夫は一人で飯を食うことになるのだが、是非妻にも合流してほしいと思っているのだが、それはなぜか思ったよりも俄然難しいらしく、だから今日もこうして一人なのである。僕を入れたら二人である。くどいようだが、友達が少ない。それでも、やがてメインが出てくる。出てくれば、夢中になるだけだ。食べ終われば、食後酒の遊びがまた長くなる。三月末で、早い桜はもう咲いているのだという。例えば店の前の桜はもう葉桜に近いのだという。そんなばかなことがあるかと思うが、早咲きの桜で先週がピークだったのだそうで、店を出て皆で終わりかけの夜の木を見た。そうしたら、たまたま通りかかったタクシーが停車してドアが開いた。違う違うと言ったら、ああ、違いますかと言って走り去った。あれに乗ったとしたらどこへ行くのか、もう腹一杯過ぎて、残念ながら何の想像力的余地も見出せない。

2014-03-25

草木ががやがやと、まさにがやがやと、かたちのギザギザと緑色の部分と影の部分と、その境目のところの


線のあるところの向こうに、ぎっしりと、がやがやとうわっと、その重なるところの


一枚目と奥の方の、折り重なって、最初から渾然と、とにかくがやっと、うわっと、その隙間もあるかなしか、においたつような、ささくれだって、かすれて、こすれあって、むんむんと、ざわめき、揺れあう感じに、茎のひょろっと、幹の茎の、表面のなめらかに、土の、温度の循環の、粘りの、樹脂の姿勢の


地面の水分の、膨らみ始めの、吹き零れる寸前の


育つ過程の、ふっくらとした手触りの、鼻の奥で滞留する過去のにおいの


シートの下の、腐った土の、たちのぼる香りの、ざらざらとした触感の、それら一切の、一挙にスタートしたあとの非同期の進行が

2014-03-24

最近の車が凄いという話を聞いた。現場の人と話をしていて、いわゆるハイブリッドカーをその人の両親が買って、先週末にちょっと乗ってみたら、けっこうすごいのだという。


スタートは、電気でエンジンが回るので、何の反応もなく、クルマが動き始めるらしい。電機とガソリンのハイブリッドだが、電気はブレーキング時に充電されているらしい。


高速など、長距離を一定速度で走るような情況なら、あらかじめそのように指定すれば、一定速度を保ったまま、走行中、足をアクセルから離してしまうことも可能らしい。80kmなら勾配だろうが平坦なコースだろうが、ずっと一定の速度を維持したまま、それこそハンドルしか持ってない状態でも運転できるらしい。


左折しようとしてウィンカーを出したとき、もし左後方にクルマやバイクなどいたら、運転席およびドアミラー付近のわかりやすい箇所にアラートランプが点滅してドライバーの注意を促すらしい。


あと、キーを挿すところがないらしい。自分の内ポケットかどこかにキーが入っていると、クルマが勝手にそれを検知して、それでスイッチを押せば、エンジンが掛かるのだそうだ。とりあえずこの話に一番、未来を感じた。未来の車は、キーを挿さないで、スイッチを押せば走るのか!と。クルマも、そうなってはもう、もはやクルマではないな。


ほかにも色々聞いたけど、もうかなり忘れた。

2014-03-23

最近は、書くのが面倒くさいと思う日が全体の半分かそれ以上である。というか、はっきり言えば、昔から書くのが面倒くさくないことなど、ないのである。そもそも書く前に、書くのが面倒くさくないと思う人は、この世に存在するのだろうか?書く前に、それが面倒くさくない、と思う人、というのは、つまり、朝起きて、これから歯を磨いて着替えて会社に行くのが面倒くさくない、そういう人と一緒である。たとえば、水曜日の夜の七時から飲み会の約束があって、あー今週水曜飲み会だなあ、と思っていて、それで水曜日の夜になってしまって、さあこれから行くか、今から50分発の快速で行けばジャストだな、と思いながら、会社を出て、エスカレーターを降りながら、あーあ、面倒くさいなあ。と思わないということだ。そう思わない人と一緒ということである。あるいは、ツタヤに寄ってDVDを借りてきました。家に帰ってきて、その袋からDVDを出して、テレビの電源を入れて盤面をDVDプレイヤーのトレイに置いて再生ボタンを押して、本編が始まるまで少し待っていて、テレビの光が暗い部屋をぼんやりと青白く照らしていているときに、ああ、これからここで、二時間もこれを観ながら、こうしているのは面倒くさいなあと、思わないのと一緒のことである。美術館に来てチケット売り場で、一般二枚です、と告げて金を支払って、入口は向かって右手でございます、会場は二階と地下一階でございます、常設展をご覧になる際は再度チケットをご提示くださいませ、とか言われて、それを受け取るときの、ああやれやれ、これからフロア上から下まで全部か、常設は飛ばしたいけど結局全部観るんだよね、とか思って、それを面倒くさいと思わないのと一緒のことだ。メニューはこちらがドリンクのメニューで、本日グラスはこちらでご用意いたしております。お料理はこちらが本日のおすすめでございます。また後ほどお伺いしに参ります、と言われて、さて組立てをどうやって、何を飲んで何をどの順番で取るのが正解だろうかとメニューを両手で持って顔を近づけて思いを巡らせながら、それを面倒くさいと思わないのと一緒のことである。


結局、書き始めてしばらくすると、たまに面白いときがあるので、それが面白い部分ではあるが、書く前に、書き始めたら面白いかもしれないからとは、なかなか思えない。そんなことがやる気につながるものでもないのだ。だから、ほぼいつも面倒くさい。で、書き始めてしばらくして、面白くなってくればそれでいいけど、実際のところ、書いてもつまらないことがほとんどなので、そういうときは、ほんとうに情けなくも虚しい気分になるし、ああ僕はこの世で一番の愚か者である、との自覚にさいなまれるし、色々と良くないことばかりなので、トータルで考えると、まるで良いことがない、と云っても過言ではない。しかも、たかがブログだし。たかがブログで、そんなばかなことを言ってるのも、ほとんどもの凄いばかだ。ばかが計り知れないレベルに達している。


まあ、そんなことはどうでもいい。本題に入るが、先ほど、たまたまテレビを付けたらタランティーノの「パルプ・フィクション」がやっていた。BSやCSで「パルプ・フィクション」はよく見かける映画プログラムである。もうたぶん五、六回は見たかもしれない。もちろん全編ではなくて、たまたま途中から見始めてしばらく見るという感じになる。で、ここ何回か、おそらく数年間のうちで三回か四回は見ていると思うけど、僕がたまたまテレビを付けると、必ずユマ・サーマンとトラボルタがステージでツイストを披露するシーンの手前から始まる。それで、そのシーンを見て、直後にユマ・サーマンがヘロインで死にかけるシーンになって…というシーンまで見る。で、そのあとチャンネルを変えるかテレビを消すかして、またしばらくしてテレビを付けると、今度はほぼラスト近くの、トラボルタとサミュエル・L・ジャクソンが車を洗ってTシャツに着替えて朝飯を食いに行って、そこでティム・ロスたちを遭遇する場面になる。これも必ずで、過去に数回同じパターンなのだ。つまり僕は「パルプ・フィクション」を過去数回見ているが、ブルース・ウィリスをここ数年、一度もみかけてないのだ。今日もそうだったことで、つまり僕の記憶の中では「パルプ・フィクション」にブルース・ウィリスは出演してないというか、存在してないような感じがするというか。


まあ、そんなことはかなりどうでもいい。「パルプ・フィクション」を途中で止めたらドラマ「軍師 官兵衛」がやっていて、官兵衛役の岡田准一、奥さんは中谷美紀である。岡田准一が息子を織田信長に人質に出そうと中谷美紀に相談すると、中谷は、絶対に嫌です、と反対するのである。そのとき、中谷美紀は、毅然とした態度と表情で、しかし大きな瞳には涙がいっぱいに溜まっているのである。ああ…こういう演技。。なんて素晴らしい、見事な演技なのかと思って、ほんとうに面倒くさい思いに満たされてしまう。もっと、役者にも色々な人がいていいと思うのだがどうなのか。・・・安土桃山時代なんて、ほとんどろくなもんじゃないというか、ヒトなんてものは苔や水草と同等な時代なんだから、むしろ、そういう安らぎを感じたいというか、中谷美紀では、どう見てもぜったいに安土桃山時代の苔ではないし、その片鱗も感じられないというか。


さて、「パルプ・フィクション」でトラボルタが銃を誤射して色々とまずい情況になり、それを解決するべくハーヴェイ・カイテル演じるウルフいう名前の「掃除屋」が派遣される。ハーヴェイ・カイテルは一時間四十分の時間制限内で、二人に車を掃除させて、服を着替えさせるだけなのだが、最終的には周囲も、そしてこの映画を観ている我々も、このハーヴェイ・カイテルのことを、なんだかやたらと仕事の出来る、とてつもなく優秀で凄いヒトのように思ってしまうが、実際のところどうなのか。でもたぶん世の中的にはそういう人こそが物事をまとめる力量のある人材という価値になるらしく、僕なんかは会社員生活をやっていて、他人に会う機会もたまにあるけど、ぜひ一度くらいこういう優秀なヒトに出会ってみたいと常々思っているけど、というか自分がそういう胡散臭い人間ならよかったけど、残念ながらそのうつわではなかったが、ちなみに、胡散臭いやつというのは、中小企業界隈には多くて、その意味ではまあ、つまらなくはないけど、でも胡散臭いやつの九割は、まったく素人芸人並につまらないやつで、驚きの欠片も感じさせてくれないもので、最初から性格にも資質にも顔にも似合わないことを大根芝居でやってるようなヤツばかりで、むしろそういう連中となるべく同じ空気を吸わないように生きていくことを考えないといけないんだな、と感じさせてくれるようなことばかりである。そうじゃなくて、もっと僕の想像している良いテイストなテキトーな感じの人というのがいるのだけど、なかなか現実にはいなくて、とくに最近の世の中では、そういうタイプは仮にいても相当肩身の狭い思いをしないといけないのかもしれないが。


でも、つまらないねえ。テレビなんてちっとも面白くない。前にも書いたけど、テレビに出てくる京都の有名な寺の坊さんって、どいつもこいつも、なぜあれほど悪人顔なのか?と思うのと似ているかもしれないけど、テレビに映ってる相撲の中継で、土俵の向こう側に座ってる観客の連中って、着飾った中年女や汚いおっさんとか、如何にもなバラバラな感じの一連のあの人たちって、一度一人一人、きちんと職務質問した方がいいのではないかと思う。ちょっとでもおかしかったらすぐ拘留して家宅捜査でもいい。ちゃんと調べたら、ほんとうに、嫌になってしまうような話がいっぱい出てくるのではないか。もう、うんざりだ、バカバカしくて相撲中継なんてやってられないよと、誰もが思うはずだ。


でも今日って、本当に三連休だったのだろうか。本当に三日も休んだっけ?


ウチなんか、昨日も今日も夕食がサンドウィッチだったのだが、サンドウィッチというのは馬鹿にしたものではなくて、これはかなりおいしいのだ。いったい、パンにバターを塗って、マスタードを塗って、思い思いに肉・魚介類・野菜・玉子、などの具材を載せて、塩や胡椒や各種スパイス類で味を調えて、手で掴んでそのまま口に運んで、それが美味くないわけがないではないか。まったくちょっと想像すればわかることだろうに、なぜそれほど疑り深いのかと思う。


明日からまた読み始める本の候補をいくつか選んだ。でも春になったら、もう暖かくて本なんか読んでる場合じゃないかも。へらへら笑いながらごーごーと走る電車の中で、窓の外を見ているだけかもしれないが大丈夫か。窓の外で卒業式がやっているのが、さーっと流れて行くのを、あー、とか言いながら横目で見ながら…。あ、テレビゲームがしたい!!そう思った。古いゲームがしたい。会社の隣にいるSさんは、前の日にゲームして、翌日そのゲームの続きをすると、ゲームの主人公が前日とはまるで別の、とんでもない場所にいて、まったくわけのわからない境遇に追い込まれていることがあって、それは日中に四歳の息子が勝手に続きをやっているかららしいが、とにかくゲーム世界の中の自分は毎日二重人格というか、はっと気付くとそれまで自分が何をしてたのかさっぱりわからないという情況からゲームの続きを始めるしかないという毎日だそうだ。そういう話を聞くと僕は思わず、もっと昔のゲームの方が良かったなあと思ってしまう。

2014-03-22

昨日の朝、五時起きで出かけて夜の十時かそこらに帰ってきたので、今日になってもまだ朝方リズムの余韻が残っていて、昨日もそうだったけど、今このときも、この時間になってしまうと相当眠くて、こんなこと書いているのも嫌になるくらいに、なかなかのかったるさである。もちろん平日は毎日朝起きて会社に行く生活なのだから、今に限らず前から基本的には朝方だが、でも厳密には無理して朝に身体を起こしているだけだし、夜もいつまでもだらだらと夜更かししがちなので、ほんとうはそれほどストレートに朝方ではない。だから昨日みたいに五時起きなんてことを一度でもしてしまうと、大した時間のずれではないはずなのに思いのほか身体への影響がある。いま両手足も含めた全身が眠気に浸っている感じだ。普段は要するに、夜更かしして朝無理やり起きていると云っても、そのリズムがもう出来てしまっているから、眠気や睡眠不足の不快感とかも、毎日のリズムのなかで馴化されて、寝不足や不快、というよりはある種のパターンに丸め込まれた寝不足や不快さの再現表現というか信号みたいなものになってしまっているのだ。だから今感じているような、まだパターン化されていない本物の眠気は、普段はあまり感じない類のものだ。まあでも、どっちにしても電車で座ったら結局寝てしまうのだからどっちも一緒といえば一緒であるが。


しかし昨日も今日も天気は晴朗で風強しという如何にも三月的天候と言える。去年の今頃もそうだったと思わせるような、暑さ寒さの混ざり合いで、身体への負荷がややあるやつだ。一見おだやかそうでありながらその実不整脈とか呼吸困難に気をつけたい感じの三月的な荒い天候だ。咲きかけた沈丁花、あるいは鮮やかな黄色のミモザを見かけた。真っ青な空が眩しく日の光の路面や白い壁への反射も眩しく目を開けづらく視界が狭くなる。昨日は一日中車に乗っていたけど、車内であの太陽に照らされていると汗ばむほどの暑さで、窓を開けたり空調して、おそろしく気持ちの良い冷気を浴びたりしていた。九十九里浜の波飛沫が岩に当たって砕けてそれが風に吹かれて細かく白い微粒子のように飛散していた。海沿いを離れると、いきなり田園が地平線のかなたまで続いているような景色があらわれた。まったくこれが千葉だ。関東地方の王者である。


今日は松涛美術館で「ハイレッド・センター」直接行動の軌跡を観て、吉祥寺A-thingsで岡粼乾二郎「B-things and C-things at A-things」を観た。そのあと本屋とかでまた色々と買って、わりとさっと帰った。どちらも会場内に入ると、室内外で明るさの差が大きくて目が慣れるまで一分くらいかかった。ハイレッド・センターはあらためて見返していて、時代が60年代だったことを思うと、これはやはり凄いなと思った。よく知らないけどたぶん60年代というのは、じつはこういう感じの時代では、ぜんぜんなかったのではないか、と思うのだけれど、それをとにかく、無意味性にせよ軽さにせよスピード感にせよ、よくぞ、この感じでやれたものだと思った。でも当時の千円札事件関連も含めて雑誌等に残っているような文章がほぼつまらない感じだが、むしろその感じで「理解」されていたのかもしれない。


しかし、ハイレッド・センターに限らず、昔も今もたぶん「直接行動」というのは若者的律儀さ、生真面目さそのものの具現化だなと感じさせられる。いわば、自分から自分へ向けた愛というか、そういうものが確かな支えになっていることの幸福さを感じる。…でも実に、それがなければ、作品なんてものは出来ないし、他人に対する思いとか、優しさとか慮りといった感情も生じないからな。


自分をこんなものだろうと低く見積もってやってるような人は、一見慎ましいようでいて、実のところ情勢が怪しくなるとその手の人間は、真っ先に他人に対して手を抜くのだ。自戒を込めて、そう思いますね。


吉祥寺では、岡粼乾二郎の絵の上手さに今更ながら驚いて、面白くてずっとみてしまった。

2014-03-20

明日は友達何人かと一緒に、朝早くから出かけてレンタカーを借りて千葉近辺をうろうろするらしい。目的がぼやっとしているので、おそらく一日ぼやぼやとした感じで過ぎるんだろうなあ。。と想像するだけで、今からなんとなくだるい気になってきてしまう。。しかも、異様に早朝から集合するのは、いったいなぜなのか?どういう目論見なのか??が、まず解せないのだが、でももう、仕方が無い。もう寝ないとそろそろやばい。なんだかなあ、ほんとうに面白いんだろうねえ。ずーっと睡眠不足で、どろーっとした気分の、ぐだぐだした一日になるような気がするけど・・まあ、それはそれでいいのか。それはそれで幸せかもしれないけどなあ。

2014-03-19

昨日よりは少し肌寒い。薄手のコートを開けて着ていると若干寒さをきつく感じる。子供の頃の夜の、特別な感じをを、なぜか思い出しながら歩いている。お店の看板の光のぜんぶが宙に浮いているようで、それらがぜんぶが、手を伸ばせばそこにあるような近さにあって、とても安らぐような感じがしたものだ。温く気温のゆるむ季節にいかにも思い出してしまいそうな記憶の断片である。

2014-03-18

この前、友人たちと一緒にやっている美術同好会で、メンバーの一人が描いたタマネギの絵。これは個人的に、ものすごく衝撃的で、思わず声を上げてしまった。これはもう、タマネギとしか、いいようがなくて、でも同時にまるで、宇宙に浮かぶ孤高の惑星みたいじゃないか。


「このタマネギ、皮って、ほんとうにこういうふうだったの?」「そう。ここだけ剥けてました。」「これ、すごい!!!」


「こっちが上でいいの?」「そうです。こっち向きです。」


これは、僕はすごい好きでした。


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2014-03-16

春の陽気となった今日だが、出かけたのは午後四時を過ぎてからだったが、ツタヤで借りたものをポストに返却して、クリーニング屋にスーツを取りに行って、食材を買い物したときに、ほとんど真横の方から放出されているみたいな、西日の光線を浴び続ける。その光線に透かされた空気の層内にたくさんの靄や塵や細かい飛翔物がめいめい自由に動き回っているが見えた。あたたかい海のなかの、その濁った水の中をかき分けるようにして、人々が行き交っている。公園の芝生では気の早いことにシートを広げて宴会していて、楽しそうな表情で向き合って口元から蟹のようにあわを吹き、子供たちの乗り捨てた自転車は折り重なって倒れていてすでに藻が薄っすらと表面を覆い始めていて、犬は息苦しさが嫌で先を急ぎたくて必死に飼い主を引っ張っている。地上から数百メートルもの高さがあってずっしりと重い空気の堆積は一人一人が簡単におしつぶされてあっというまに薄さ一ミリくらいのセンベイになってもおかしくは無いはずだが、あまりにも光が直接差し込んでくるし、上下に移動する細かい塵の動きが面白いし、何よりも全身に感じる温度と気流のなめらかさが心地よすぎて、嬉しい気持ちで自由に動き回りながら、ほとんどの時間は本来の情況を忘れたままで過ごせている。

2014-03-15

千葉にとって、地政学的な重要拠点といえば、浦安、舞浜等の有名拠点と並んで、海浜幕張もその筆頭に挙がる。地域産業、観光、畜産、外交、軍事における最重要拠点として今では全国にその名を轟かせていると云っても過言ではない。


新松戸で降りて、ホームを歩く。武蔵野線乗り換え口が、どうもはっきりとわからないのは毎度のことである。ここでは焦らず、案内板を見て、幕張、舞浜方面のホームへ上る。


階段を上ってはじめて、この駅の場合は、思った方向を遮るようにして、別のホームが右から左へのびているので、ああ、ここはそうだった、そうだったと気付くのだが、常磐線と武蔵野線の線路が、空中で、十字に交差していて、その空中交差が、上下感覚を微妙に麻痺させて、武蔵野線のホームにいる連中はみんなどことなく夢うつつである。


武蔵野線で東船橋から京葉線に乗り換えるのだが、このあたり前後もほんとうに凄い。まず、人が多い。死にたくなるくらい嫌な混み方だ。そして、車窓の風景が、もの凄い。


千葉というのは、本当に凄い。木々一本一本からして、千葉の感じがする。とにかく、その荒涼とした具合が半端ではない。京葉線の、習志野か海浜幕張にいたるまでの景色を見ていて、これはちょっと、さすがに酷いと思った。子供が思いつきで適当に描いた絵のような感じがある。やる気は、おそらくまったく無いくせに、ちょっとしたことでやる気あるフリするから、全体的にまた調子が狂って、何もかもが、わやになって、なにしろ風景もぜんぶ変だし、川も公園も繁華街もあるけどみんな演劇部の高校生の芝居の書き割りそのものという感じで、道路に書かれた車線や横断歩道の線すら、指定業者ではなくどこかいかがわしいよくわからないだ団体に手によるものではないかという感じがする。すべてのヴァルルが、狂っているというか、横断歩道の白線の白の鮮やかさが廻りと較べてもおかしいというか、ふいに現れる運河みたいな水路に、たくさんのヨットが停泊していて、その全体的な景観の、もの凄く、とってつけた感とか、その後のビルの佇まいとか、周辺の微妙な感じとか…。なにしろ、これぞ千葉だなと思う。埼玉頭とはまた違う疲労感。このだるい感じ。イオンモールにおる蔦屋書店とか未来屋書店を見た。

2014-03-14

朝、テレビを付けたらマラソン中継がやっていて、先頭集団に日本人選手二人を含む合計五人が固まって走っていた。残り十キロを切って、さあいよいよこれからというときだが、どうも見ていて気になるのだが、その日本人選手のうちの一人を、僕は知っている人のような気がしてならない。ふだん、マラソンなどまったく興味がないし、どんな選手が今活躍しているのかもまったく無知なのだが、それにしても、あの走っている女性の顔は、見覚えがある。それも、テレビで見たことがあるとか、そういうことではなくて、自分の生活圏内で、いつかどこかで、確実に同じ時と場所を共有しているはずの人に違いないと思われる。会社の、同じフロアでどこか近くの部署にいる人だろうか。しかしいったい、そんなことがありうるのだろうか。僕の勤めている会社の同じフロアで働いていて、しかしその実体は世界レベルのアスリートだというのか。いくらなんでも、それはないだろう。では、だとしたら誰なのか。ぼんやりとテレビの画面を見続けていたら、ふいにその選手が、走りながら、こちらを見た。あまりにも僕が見すぎたせいかもしれないが、向こうもこちらに気が付いたのだ。ヤバイと思って目を逸らそうとしたが、そんなことをしても意味がないので、平静を装って、なおも見ていた。向こうも見ている。ずっとこちらを見ているのだ。そして、次第にその選手は、先頭集団から遅れだした。あー、遅れ始めましたね、という実況の声が聴こえる。遅れたというか、しかしそれは、遅れたのではなく進路を変えたのだ。おそらくそうだった。なぜならその女性のフォームにあまり疲労感は感じられず、相変わらず活発なストライドで、集団から離れて、そのままやや斜め上を見上げた感じで、ぐいぐいとべつのお方角へ速度を上げ始めたからだ。さっきまで路上を走っていたのに、いよいよその女性はテレビ画面のこちら側を目指して、あっという間に大きくなってきた。まばたきもせず、僕をしっかりと見据えたまま、あれよあれよというまにテレビの画面に胸から上くらいの大きさに大映しになって、あっという間に、顔一面のクローズアップになった。テレビの裏側が汗と暑い呼気でぼんやりと曇ったと思ったら、色温度が勝手に変わって、画面全体が青一色になった。妻が、あ、この人私、大学のテニスサークルで一緒だったけど、でもこの前の同窓会に来れなかった人だ、と言う。

2014-03-13

とりとめのない時間。いつ終わるとも知れない時間。日々はおそらくそういうことの連続であるはずだが、それを昼と夜に区切って、夜なら六時から九時までとか、ラストオーダーのあとしばらくの余韻とか、そういう風にあえてわざとらしく区切る。区切ることで、どうにか成立することは多い。世の中の仕組みのもっとも基本的なところとして、外部的な条件を利用して時間を区切ることができるというのがある。世の中の仕組みをいっさい利用しないのであれば、時間を区切る行為はすべて自分がやらなければいけなくなる。これは、あたりまえと思う人もいるだろうが、時間を区切る行為を外注している人は相当な数いるので、これをすべて自前となると、相当な混乱が予想される。ほかにも、落としどころとか、切り上げどころとか、そういうのがすべて、世の中の仕組み的には、基本プランの中に全部入ってるので、無意識なら何も考えなくていいのだけど、全部自分でやるなら、全部自分で取り仕切る必要がある。生きる、において、全部の時間を区切り、〆の機微、落としどころに切り上げどころ、何もかもするのは、あまりにも大変だ。でもやれないことはない。自分の過去を元手にするのだ。それだけを元手にやっていることが感じられれば、それはちゃんと鈍く光るようなものになるはず。でも普通はしない。お任せで、時間で予約を入れるのだ。それが皆にとって安心だから。

2014-03-12

もうこんな時間になってしまいました。今日も不本意な店で食事となってしまった。もう少し色々なタイミングがずれていたら、もっと違った展開になっていたはずなのに、かなり残念。でもすこし春の予感。

2014-03-11

階段の下から、誰か上がってくる。子供くらいの背丈の、つるっとした白いお面をかぶって、こちらを目指して上がってくるものがいた。もう、すぐ傍にいた。目の前にいた。ははあ、これが、幽霊ですね。ついに幽霊を見た。というか、実際に会った。今までありえないと思っていたことが、ありえてしまった瞬間なのか。今が?


いやいや、まだ違う。よくわからないのだが、でも、恐ろしい。あっという間に、鋼のような恐怖が立ち昇ってきて、凄まじいスピードで外から悪寒に取り巻かれて、がちがちに身体をこわばらせて、恐ろしくて、何も見えず、事態を確かめることもできず、冷静さは思わず笑いがこみあげるほど瞬時に蒸発した。下手な芸人のコントみたいな無様さで、がくがくと足が勝手に動いて、つんのめるような勢いでその場から逃げた。今来たばかりの、鉄製のドアの前で、後ろを振り向いてみる余裕もなく、全身を、硬い緊張が貫いていて、自分の身体が、大きな不安の入った柔らかい容器のように頼りなくて、今にも何か巨大なものに圧し掛かられるのではないかというどす黒い不安を必死に振り解きながら、冷静に、落ち着いて、ぐっと力を込めてドアノブを引いて、細く開いたすき間の向こうに身体を滑り込ませた。暖かい空気に包まれて、安堵が広がる。元の明るい体育館に戻った。電気が付いていて、昼間のように明るい。後ろ手でドアを、背中でぐっと体重をかけて閉めた。逃げたのだ。助かった。幽霊はもう、この鉄のドアの向こうだけにしかいない。これでいいのだ。幽霊には蓋をしておけばいいのだ。でもドアのノブから手を離す気にならない。話したらすぐに、またこちらへ来そうだ。来たら困る。でもずっとこうしているわけにも行かないので、誰かを電話で呼ぶか。でも余計なことをすると、また変なことになりそうだしなあ。もし母親なんか呼んだら、またあれが、急に、変なものになりそうな気がしてならない。

2014-03-10

一昨日、八王子に行ったとき、まだ路肩に雪がけっこうたくさん残っていて、おぉ・・・と驚いた。昨日降ったのか?と思ったが、かなり汚れた雪だったので、いやそうではなく、先週かもっと前の雪がまだ残っているのだろうと思った。どうも今年は、例年と較べてもかなり寒いような気がする。今日の朝など、玄関のドアを開けたらいきなり、猛烈な風の吹きつける、ちょっと呆気にとられるような寒さだった。なんだか、世の中厳しい。という感想である。でも、これであたたかくなってしまったら、結局また、何もかもが元も子もなくなるとも言える。何のことだか、わからないだろうが、自分にもわからない。でもそういう感じだというのは、誰でも感じている。皆が今のうちに何とか早く、、と思っているようだ。

2014-03-09

グレッチェン・パーラトの「バタフライ」イントロを頭の中で何度も反芻しているうちに、ああハンコックの旋律だな、じつに新主流派だな、これがまさに、新主流派。との思いでいっぱいになって、それは勿論僕のいいかげんな思いつきだが、とにかくそんな適当な理由で、新主流派で検索したら、「ウェイン・ショーターの部屋」というウェブサイトを見つけて、これが、ものすごくおもしろいので、そのままひたすら読むことになってしまう。ウェイン・ショーターについて徹底的に考察したサイトだが、やはりひとつのテーマに対して、このくらいの分量と密度で検討が積み重ねられていると、もの凄い読み応えと説得力がある。おそらくウェイン・ショーターに関してこれだけの質をもつテキストは、ウェブや書籍を通じても、他にはどこにもないのではなかろうか(よく知らずに言ってますが)。一人のミュージシャンの仕事を丹念に聴き込み、解析していくことで、いわゆるジャズの音楽的変遷、バップからモード、新主流派、そしてコルトレーンマイルス・デイビスの仕事、といったところにまで大きく話の射程が広がっていくわけで、最終的には50年代末〜70年代のジャズが最も過激に変化していった時期全般を中心とした、テーマごと、あるいはアルバム作品ごとの、世間一般に流通している通り一遍の物語にきわめて細かいレベルで突っ込みを入れまくった、ある一個人のきわめて鋭く独自でおもしろい考察、といった感じで、読んでいていくつも驚きや発見があって、たいへん興奮させられた。


ジャズ・メッセンジャーズの一時期のアルバムや、マイルスの一時期のアルバムが、実質的にはショーターのリーダーアルバムなのだという指摘とか、すごい驚きだ。正直、これを読んで以降の、60年代マイルスの音源を聴くときの感触が、もはや自分の中で変わってしまうだろう。いわゆる決定的な文章に触れてしまった衝撃のあと、あらためて作品に触れるとき、その強い影響から逃れられなくなっている自分を意識せざるを得ないような、面白い批評を読んでごく稀に経験するあの感じだ。メッセンジャーズの諸作品などは未聴なのだが、すぐにでも聴きたくなる。それにショーターとコルトレーンとのあいだには相互に強い影響関係があって、コルトレーンの60年代前半のインパルス諸作品こそ、これぞ「新主流派」的なものの完成であって、それにはショーターの存在が極めて重要だったという話(新主流派って、何だろう?)など、かなり驚きの説だが、たしかに凄く面白い(つまり強烈なリアリティというか、確かな手触りを感じさせる論旨で)読んでいて大喜びしてしまう。


サイト全体かなりボリュームがあるので、まだ全部読めてないけど、このサイトはしばらく読み耽ることになりそうだ。

2014-03-08

東京造形大学 CS-lab にて「組立-展開」対話企画 自己教育としての美術 を聴講。造形大には昔、たしかまだ学生の頃、学園祭に行ったことがある。たぶん今から二十年以上前のこと。それがこの場所のこの建物なのか、そうじゃないのかもよくわからないが。。


上田和彦さんはそれにしても、組立の「対話」音源でもそうだが、相変わらず声の良さが素晴らしくて、かつ完璧なBPMに固定した語りのグルーブに酔う。原田裕規さんの理知的で繊細で、言葉を探しながらとても丁寧に盤上に駒を置いていくような語りも良かった。しかし、若いのに、なんと聡明なことか。。


とはいえ僕が、行きの電車の中でもそんな感じだったのだけれど、前夜の飲みすぎ・寝不足のせいか、どうも集中力に欠けていて、話を聞いていたり聞いていたなかったり、ぼやぼやとした時間を過ごしていた。聞いているのか、考え事してるのか、わからないような感じなので、この先は当日のレポートでもなんでもない内容である。


原田さんの、心霊写真をサンプリングして作品として提示、いうのは、おもしろそうと思った。しかし、作品としてのフレームに入る/入らないの、不確かな緊張感として見るというより、やはり心霊写真として、しげしげと見たいと思ってしまうのは、我ながらどうなのかという。。


たとえば「なぜ山に登るのか?」「そこに山があるからです。」みたいな話の、その「感じ」はもう、われわれは充分に知っている訳だが、しかしそれは別として、あらためて、なぜ私は山に登るのか?という問いに、今はすでに妥当な回答が確定済み、というわけでは全然ない。むしろ、昔と何も変わらず、今もそれは謎である。これだけ毎週末ごとに何万人もの人が山に登るというのに、なぜ山に登るのか?という問いは相変わらず回答受付中なのである。これはおそらく、この先も延々謎のままである。じっさい、山に登るなんて、不可解な怪しい行為である。なぜなのかさっぱりわからない。健康とか自然とか、すべて後付けの言い訳に過ぎない。「なぜ山に登るのか?」には今もまだ答えがない。


ただし、山の頂上から見下ろした景色が、みたいなことと同じなのかどうかはひとまず置くとしても、たしかにいつの時代にも、めっちゃ、いけてる作品というのは、たしかにある。これはいいわ、と思えるもの。ああ、これだね、という。そういうのはだから、現代の社会システムとかの範疇で分析するのはかなり難しい。その良さとは、どこまでも過去参照の行為に近いのだと思われる。その参照範囲が、芸術はおそろしく広いので、社会的には危険なスコープをもつ側面がある。


じっさい、芸術・・・。世間一般に、いや美術というものに関わる作り手受け手、双方たとえば、あの作品がいいとか、あの作品がダサいとか、あれはイケてるとか許しがたいとか、あれにはうんざりとか悪くないとか、あのシーンは今アツいとか、あれは笑えるとかあの女はエロいとか、そういう話を、芸術はときとして、しないわけにはいかない。芸術に取り組むにあたって、少なくともこういう態度はいけない。こうなったら最悪、とか、こういう風にやるべきとか、そういうことを考えないわけにはいかない。…芸術、芸術…。


しかし、いけてる作品というのは何か。


芸術について、人間が考えるとき、たとえば「芸術を滅ぼすにはどうすれば良いのか」を考えるとか、そんなときなら、人間という単位をまず頭で立てて、それに対する芸術、という構成に、どうしてもなってしまいがちだ。これがどうしても、なかなか苦しいように感じる。


結局は、人の社会フレーム内における生き方、正しき生、適切な社会性、人間の生き方問題に還元するような考え方になってしまう。どうしても、それは人のやることなので、人が人の価値判断基準で考えるしかないからだ。作品の正当性とか、問いへの不徹底性を問題視するような考え方は、作品を断罪して同時に、作者を断罪する。お前の取り組み方や行為は問題がある、間違っている。という話になる。


社会という概念の構成要素と、芸術という概念の構成要素の違いの甚だしさというのに、まずはがっくりくるっていうのが、あるよなあと思う。


でも、そういうのも含めて、どうでもいいことのような気もする。それも含めて、どんどん土地は埋め立てられて、また新しい建物が立って、また別のところが壊されて、野ざらしになったと思ったら、結局またあたりまえのように別のものが建つ。


それは、とても虚しいことだが、でもその建物に、また週末になったら出かける。そういうのをやめないといけないので、その意味での芸術は、どんどんやめてしまわないといけない。ダイエットのために色々な食材を試すのではなく、単に食べないで痩せる。これから死ぬまで一日何カロリーしか摂らないと決めてしまわないといけない。


そんなことをぼやぼやと頭の中で勝手に考えていると、なんとなく気が滅入る。

2014-03-07

日比谷線の日比谷から、千代田線に乗り換えるときの通路が一番懐かしかった。一年半ぶりくらいか。横浜から東横線ではなく、新宿湘南ラインで恵比寿まで行ってから中目黒まで戻るルートをとった。久々の中目黒。久々といってもそれまでほとんど、どこの店に行ったわけでもないし、別に何の記憶もないはずで、せいぜいちょっとツタヤに行ったくらいのものだが、それでも、かつての時間から今までの経過を感じさせた。ああ、過去の記憶だなあと思った。なぜかそうやって、勝手に過去の愛着めいたものが生成するのはまったく不思議だ。まあ岩場に貝がびっしりとついてしまうようなものか。エゾ鹿のロースト!寒いうちに食べることが出来てよかった。


ファレル・ウィリアムスの新譜で、今や世界中が楽しんでいるのか。僕も買おうと思うけど、いつどこで買おうか。

http://24hoursofhappy.com/

2014-03-06

今日は風が強すぎて寒さもすごくて最悪・・・という感じ。何事もなく無事に週末が来ますと良いですが。

2014-03-05

今日は雨だし風も強いし最悪・・・という感じだが、寒さの芯のところに微妙なほころびというか、ほどけてくずれたようなところがあって、そのせいで寒さが身体にあまり苦痛ではない。もしかするともう、べたついた空気の、妙に馴れ馴れしいようなふわっとしたにおいの季節がくるのか。朝玄関を出て、その空気がまとわりついてくると、思わず失笑してしまうような、あの風の粘り気と香り。もしそうだとすればまた、なるべく川沿いや水溜りの傍にいたくなりそうだ。酒も別の種類を買っておかないと。

2014-03-04

この前NHK特集でやっていた、イヌイットのアザラシ漁のシーンを思い出す。アザラシの皮をぱーっと剥いで、腹をさーっと裂いて、ふわーっとかすかな湯気が立って、濃い赤にまみれた臓物が溢れ出してくる。一部の部位をそのまま手でつまんで食べている。どんなものだろうか。あたたかさ以外に、何か味わいがあるのだろうか。あたたかさがそのまま味わいと一緒だろうか。自分の体の内側の味と、かわらない味わいのものを口にしているのだろうか。自分の内側の味って…?

2014-03-03

一昨日の、そういえば絵を描くのも久しぶりだったけど、やはりあれだけ集中するのも、最近はあまり経験に無いことだ。集中するというのは、つまり緊張するということでもあり、それだけ不安を感じていて、失敗にビビッてもいて、ほんの一瞬のなかに、細かい失望と急速な立ち直りをくりかえしていて、とにかく何時間かのあいだ、やたらと目まぐるしいものだ。人間、何十年か生きてしまうと、もうある程度予測がつくので、どんなに力んでも無駄なものは無駄なので、最初からあきらめもつくのが普通なのだけれど、おもしろいことに、絵の場合は、意外と僕はあきらめが悪いらしい。ただ、ことわっておくと、僕は自分が絵をマトモに描けるとは、いまやまったく思ってなくて、むしろもうほぼ、あきらめていて、なぜかと言うとそれはもう、自分の手が描くものが、もういくらやってもロクなことをしないからだが、それでもなぜか、久々に描くと、まるで物乞いする幼児の如く、けなげなほど侘しく緊張しながら絵に向かっている自分がいるのだから、なんとも笑えるというか、かわいそうというか、ちょっと行って抱きしめてあげたくなるというか、そんな何とも切ない感じである。でも、まだそれだけ好きな気持ちが残ってるってことかもしれないわね、みたいな、スナックでカウンター越しにママさんに言われて、馬鹿言うな、そんなんじゃないぜ、と躍起になって否定みたいな、そういう感じの、まさに腐れ縁の感じがすごい。絵は…昔はさすがに、二十代の頃とかは、人並みに、それなりに思いつめたりもしたけど、でも、まあ、どうなんでしょうね。こればっかりは、人間一人の意志ではどうしようもないことなんじゃないでしょうかね。

2014-03-02

昨日みんなでタイ料理食べてたとき、なんだか忘れたけどカニ料理を殻ごと無理やりばりばりと噛み砕いていたら、なんか、がりっとやって、それから今日も、かすかに奥歯に滲みるような鈍い痛みが…。気になるといえば気になるけど、まあ、さほどでもないので気にしない。


今日は起きたら午前十一時過ぎだった。こんなに寝たのは久しぶり。しかも、簡単に食事したあと、またうとうとし始めて、気付いたら三時過ぎ。こんなに寝たのは、ほんとうに久しぶり。夕方から風呂にはいって、酒を飲んで、食べて、酒飲んで、こんな感じで、またこのあと寝て、それをくりかえして行ったら、いつか霜降り肉みたいに、全身の筋肉に白く細く波のような、きれいなサシが入るだろうか。自分の二の腕や胸や腹に触ってみる。酒を飲んだあとでは、どの部位も、とても柔らかくなっていていい感じだ。いまなら刃物もすっと入って、さーっと楽にバラせるはずだ。まだ母乳しか飲んだことがない子羊はとてつもなく美味しいらしいし、日本の高級な肉牛なんて、快適な環境でひたすら特殊な餌で育っていて、ほとんど改造生物に近い。これからは、人間も、肉としてなるべくおいしくなりたいという欲望が出てきてもおかしくない。あなたより私のほうがぜったいにおいしい、という矜持も、ありうるかもしれぬ。

2014-03-01

友達たちと午後から会って、美術同好会をやって、日が暮れてから晩餐会をする。解散して、家でもまだだらだらと飲んでいて、こうしてうっとりとした時間の浪費を、いつまでも続けていて、何かおもしろかった本を思い出して読み直したり、昔の笑い話を思い出したりして声を出して笑う。部屋のなかをうろうろとほっつき歩く。昔からその癖があって、高校生のとき母親から犬みたいに何うろうろしてんのよと言われたことがある。画面全体が青一色の絵とかって、何がいいんですか、という問いに対して、通り一遍ではない何か、納得できるような言い方で答えられないものかと思って色々と考える。上手い言い方、自分の腑に落ちる言い方、ではなくて、何かもっと、対象に対して一緒になれるような、その必要性をまず感じてくれるような言い方は、ないものか。ある内容の説明のために言葉を投下するのではなく、言葉そのものからWe Belong Togetherな属性に置き換えることができないのか。そういうとき、世界には色々あって、その中の一つとして、そういうのもあるよね、という客観中立的な言い方が必ずしも正しいわけではなくて、自分の本気の信仰を話さなければいけないのだ。それはもう、これしかないんだから、という、そういう僕に聴くなら、それはそうだよと。でもそういう僕、と言ってる時点で、もはや世界には色々、の部分が含まれている。だからもっと、僕たちはもっと、一緒に、つまりWe Belong Togetherとして、言葉の属性に加えられないか。宇宙人からみたら、地球にはシステムがいくつかあって、その末端に無数の有機体が貼りついているように見えたとしても、その有機体の連携、結晶として芸術があるのかもしれないけど、それはさすがに今、炒め物のハーブの香りを楽しんでいる我々にとって、宇宙人並みに想像の外側だ。今日は春だと思いこんで薄着で外出したのだけれど大変寒くて、でも何とかなったのは結果的には寒さも柔らぎはじめているということか。しばらくしたらまた会って遊ぶし、しばらくすると半年でも一年でも疎遠になってしまう。

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