Hatena::ブログ(Diary)

R.S.N

about
カレンダー
2006 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2007 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2008 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2009 | 01 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2010 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2011 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2012 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2013 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2014 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2015 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2016 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2017 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2018 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 |
過去の記事一覧
Bookmark
日記の検索

カウンター
 | 

2014-05-30

今日は、あのことを書こうと、かなりはっきりと考えがあったのだが、今現在、それをきれいさっぱり忘れた。したがって何も書くことはない。しかも、もう午前三時になろうとしているようだし。


ちなみに、唐突に何を言い出すのか、という話ではあるが、三年前のこの日についてだが、これは何を云ってるのかというと、つまり、映画のロケに立ち会っていたのだ。それで、麻生久美子をものすごく間近で見たのだった。間近というか、ほんのすぐ前にいて、こっちをぎょろっと見たので、僕はかなり焦って、あたふたした思いで思わず視線を逸らし目を伏せてしまったという、そういう記憶がある。じつに鮮烈な思い出だ。こんな緊張感は、中学生のとき以来。というほどで、ほんとうにあれにはびびった。しかし当時、「失恋の思い」とか書いている自分もたいがい凄い。

2014-05-29

私(足立区)は、京浜東北線(北区)に乗って、横浜(横浜市西区)に来た。上原さん(渋谷区)も後からやってきて、昨夜の残り香(中目黒〜祐天寺)を運んできたように思った。これで江さんが来れば、平和島(大田区)、向島(墨田区)まで一気に混ざり合い、渾然となって、いつものあの感じが元通りになる見込みを抱いていた。それでみんな、何をするでもなく、何も云わず、ただゆっくりと坐って待っていた。

2014-05-28

忙しい日々がひと段落したかも。今日は早くねるかも。なんとなく疲労感がどろっとして来た。まだ週半ば…。


鷺。去年の十一月ごろ。


f:id:Ryo-ta:20140529003422j:image

2014-05-27

今日はジグソーパズルをやらない。それだけで、それだけでこんなに時間にゆとりが。明日は、どこかでゆっくり酒でも呑もうと思ってたのに、夜まで打ち合わせの予約が入ってがっくり。


f:id:Ryo-ta:20140528003956j:image

2014-05-26

f:id:Ryo-ta:20140527014226j:image:w1024

f:id:Ryo-ta:20140527014225j:image:w1024

f:id:Ryo-ta:20140527014224j:image:w1024

2014-05-25

先週、風景写真のジグソーパズルをやって、今日も一時間ばかりやった。…最近、遠くの緑や街並みを見ているとき、どうもジグソーパズルに見えてくることがある。ジグソーパズルというのは正直、なかなか面白いところがある。視覚的な知覚に、何か小さな支障をきたしてしまっている。現実の景色を見るときの、ここまででOKのしきい値がくるってしまっている気がする。


新宿で「ハーグ派展」。観たのは昨日だが。久々に、絵画を観たという満足感があった。そして、ジグソーパズルの影響も少しあったかもしれないが、画面のある領域にのせられた色面、空をあらわす分厚い乳白色の絵の具の層。海の色、空の色としての青。影としての褐色、黒。絵の具によって、その物質によって、いったんそのように空間を抑えて安定させ、場をつなぎとめて、画面を成り立たせる、それだから、ようやく観ていて安心できる、というようなことを考えていた。


たとえば、自分の家から図書館まで行くために、とぼとぼと荒川沿いを歩いているとき、いつもそうだが、近景に視界を遮蔽するモノが無くて、自分の周囲にひたすら景色がひろがるばかりの情況には、いつも軽くショックを受ける。足元の地面、土手の下り坂、その向こうに広がる雑木林、川岸、水面、映り込む景色と空、向こう岸、そのさらに先の芝生と土手、その向こうの街並み、住宅と建物。さらにその向こう…。どこまでも広がっていて、とにかく巨大で、果てがない。視界の限界として、ある一定以上の距離から先のものは見えなくなってしまうが、それも見えなくなるというよりも、空気の層が密になりグレーっぽい淡色に紛れて霞んでいるようにして見えているので、そこに情報が無いという状態ではない。だから、基本的には無限に景色があるような現れ方になっている。


それらの、目に見えるさまざまなものの真上に、一様に空が蔽っている。すべてが一枚の屋根の下の出来事だが、広がりが無限なので、そのときに軽い恐怖さえ感じる。高所恐怖症的な感覚に近い。あまりの広大な空間の中で、自分を支える取っ掛かりの無さが知覚されて、そのことへの不安が生まれる。数十メートルかもう少し先の川に、いきなり自分が落ちてしまうことは決してないのに、それもありうるような自分の場所への頼りなさが生まれる。


このような、とりとめのないのが現実的な空間のはずだが、一つ一つの物象に気持ちをつなぎ止めるようにしてみている限り、不安からは自由でいられるだけだ。絵画も、基本的にはそのようにして出来ていて、絵を観ているというよりは、その各部分を観ているから、本質的不安から逃れて安心できるのだ。


ジグソーパズルにも、似たようなことを感じさせるところがある。見えないほどの遠景というのは存在しない。全部見えているのだ。このグレー一色の1ピースとして存在する。近景も遠景もかんぜんに等価で、おなじサイズの集積にすぎない。しかし、ずたずたのばらばらなのだ。絶望的な不安からスタートだ。しかしきっかけを発見して、場の確保と安定にいたる。


あと、船というモティーフに、あらためてすごく興味をもった。「ハーグ派展」での船の絵に多かったのは、干潮で水のなくなってしまった地面に船だけが残されてしまったような情景で、虚しく船底を晒して、どうすることもできないような状態で、その場にとどまっている船たちである。


船というのは、水に浮かんでいるにせよ、陸上に打ち上げられているにせよ、自分の力で進んでいけるような感じに欠けていて、情況に翻弄されているだけというか、上下左右に揺さぶられながら可能な範囲で進むなり方向転換するなりするだけの、細長いお碗というか紡錘形の何かで、その上の部分には甲板とかマストとか、別のレベルの景色が広がっていて、全体的に面白いのだ。ターナーなんかの、驚異的自然の表現みたいな、そういう目的に利用するに便利だ。しかし、ハーグ派の船はまるで翻弄されておらず、置物のようにじっとしているだけというのは面白い。


船はやはり、前世紀以前の乗り物としては代表的だし。絵画のモティーフとしての飛行機や車では、そのような乗り物の本格的な登場が二十世紀以降なので、なかなか絵画のモティーフにはならないというか、絵画の問題がすでに別のことになってしまったから、というところだ。しかし、昔から僕は思っているのだが、飛行機や車の絵はもっと見てみたい。

2014-05-24

何をどこまでそうだったら、それでいいのか。であれば、それでそうだというのか。まあ、まあそうで、比べ物にならない、くらべものにならないほどの、くらべものに、ならないほどの、あまりりすな、あまりにもひどい、あまりにも、あんまりな、この愛のこの僕の、あふれるおもいの、さいのかわらの、その一点に、集まった集中した、こわれる、こわれものの、壊れて乞われて来たのに。で、だからお互いに。今まで美味いと思っていたものが、美味いのではなくて単にしょっぱいだけだった、気付いた、そうだと思って、麺をすする音の問題の、今や世界中で、ハーグ派。活動拠点の地図、ワインの生産地みたいな、フランスとそれ以外とどちらがいいのか、早く帰れという意味か。なんで女ってああなのか。腹が立つ、むかつく。


さて、それでは、私は、(私をメアリイ・ビートンとでも、メアリイ・シートンとでも、メアリイカーマイケルとでも、或はお好きなどんな名前でもお呼び下さい。--名前など、たいして重要なことではありません。)一、二週間前の十月の晴れた日、思案に暮れて川岸に坐っていました。先に申し上げた女性と小説という題目、あらゆる種類の偏見と激しい感情をかき立てる題目について何らかの結論を出さねばならないという首輪をつけられて、私は頭をうなだれていました。私の左右では金色と真紅の茂みが焔の色で輝いているばかりか、焔の熱で燃えているようにさえ見えました。向こう岸では柳が肩に髪をたらして、果てることのない嘆きの涙にくれていました。川は空や橋や燃えるような木を好きなだけ映し出し、大学生の漕ぐボートがその映し出された影をかき乱していくと、それはまた、何者も通らなかったかのように、元通りに寄せ集まるのでした。こういう場所では一日中坐って思索にふけっていられましょう。(「自分だけの部屋」ヴァージニア・ウルフ

2014-05-23

仕事が終わったので、皆でお疲れ様会をした。金曜夜なので店全体がにぎやか。気が付けば、僕の周囲の人たちも一世代若くなってしまって、自分だけが変わってない。いやいやいや、自分も年取ってるのだ。自分だけ変わってないわけがない。でも変わってないようにも思う。やってること自体が変わってないからか。でもある意味、皆、変わりすぎるのだ。一箇所に留まって全部を見て、あとはまあ、適当に…と思えなくて、とにかく生真面目すぎて、腰が軽すぎるのだ。不安で一箇所に留まっていられない。いいから、適当にやってじっくりとしてればいいじゃん、と言うけど、なかなかそのニュアンスは伝えるのが難しい。適当でいいよ、と云ってる訳ではないのだ。

2014-05-22

朝は素晴らしい五月の晴天でした。正午を前にして、少し曇り空となりました。この時点で、傘を持って歩いている通行人は多数いました。


午後を過ぎて、すっかり空が暗くなりました。傘をさして歩いている方も、ちらほら見受けられます。


夕方、本日の反省会を開催するために地下一階の店に入店して、五分か十分ほど経過しました。「この音、雨の音ですか?」「まさか!」それは、雨でした。入店前に、雨に降られなかったのは幸運でした。地下から見上げたら、ものすごい雨の線が無数に走っていて、とんでもなく強烈な雨脚に驚きました。


一時間半ほどいまして、お会計いたしました。明日の方向付け準備結果に現時点で洩れ抜け等見受けられないことを確認しました。


電車で、上野まで行きました。


日暮里まで行きました。


さらに最寄り駅の綾瀬までお酒を。三十分程度です。

2014-05-21

明日は一年で一番面倒くさい二日間の一日目だけど、朝ちょっとゆっくりだからとりあえず嬉しい。でも、こんなことを何年もやっていて、たぶん自分が主担当になって既に五年目だから、もうすでに五回も経験したのに、いまだに準備不足というのが、情けない。準備すればするほど、上手く闘える気がしない。悪い予感の方が勝っている。でもまあ、それはそれだ。ボクシングで、前半は打たれることを覚悟しているようなものだ。そのままKOの可能性もあるけど、それはそれだ、みたいなものだ。ボクシングで、負ける可能性の高い試合前日って嫌だろうなあ。殴られまくる覚悟を決めてる状態って、死の覚悟に近いような気もする。

2014-05-20

今週と来週では世界がまるで違うだろう…というくらい、今週はテンパっているのだが、でも今更何かできるわけでもないので、別に忙しいわけではない。でも遅くまで会社にいて、各種資料を見直したりしている。まあ、今月はしょうがない。ところで今日は断食すれば良かった。チャンスだったのに、結局食べてしまった。

2014-05-19

ドアを開けて、次に来る人のためにわざと扉を大きく押し広げて、入口が大きく開いた状態のまま通り過ぎる。次の人も、ゆっくり閉まろうとするドアを手で止めて、さらに手で押し広げて、ドアが大きく開いた状態のままにして通り過ぎる。やがて、開いていたドアがゆっくりと動いて、あと少しで閉まろうとしている。あと少しで閉まる。そのとき、人が来た。ドアに近づいてきた。ドアを開けようとする。取っ手を握ろうとする。力を入れる。それと同時に、どーんと音がした。ドアが今、閉まった音である。鉄の鍵が掛かった状態である。その、施錠されて静止したドアの取っ手を取って、引いても動かないので、レバーを下に押し込んで、あらためて引く。内側からであれば、開くドアなのだ。そして、またドアが、開いた。あっさりと開く。腕力でぐっと引く。ドアが、大きく開いた。内部の棚はシンプル、というか質素なものだ。ちらっと後ろをみて、誰かが後から来るようなら、わざと大きく、ドアを開け広げた状態にして、そのまま立ち去る。次の人が閉まりかけるドアをキャッチして、また開いて、通り過ぎていく。次の人も、次の人も、通り過ぎていく。やがて、人が途絶えると、ようやくドアがゆっくりと閉じてきて、どーんと音がする。ドアが閉まった。このドアは、閉まっているとき以外は大抵開いているようだ。

2014-05-18

The Rolling StonesのJigsaw Puzzleは勿論好きな曲だ。高校生のときにはじめて聴きましてね。この詩には、ほんとうに驚いた。悪魔を憐れむ歌よりもこっちの方が好きなくらいだ。まあ、Beggars Banquetとか、Let It Bleedとかは、当時の自分にとってはひたすら神々しい、真理に近いような輝きを放つ作品であった。


しかし、実際にJigsaw Puzzleをやるのは、生まれてはじめてだ。昨日、酔っ払って買って帰ってきたやつだ。横浜風景の1000ピース。今日箱を開けてざーっと広げてみて、午前十一時からはじめて、そのまま止まらなくなって、四、五時間くらい休みなくやり続ける。


最初にざっと色でわけていく。端のピースは端へ寄せておく。そのうち、わかりやすいあたりから組み合わせていく。1ピースをじっと見つめて、パッケージ写真のどこらへんかを真剣に探して、組み合わせていく。


f:id:Ryo-ta:20140519004759j:image:w800


こんなに集中したのは、久しぶり。とりあえずやめて、立ち上がったら、頭も目も痛いし体中がばきばきで、あちこちで血行障害が起きていて、散々なコンディションになっていた。


f:id:Ryo-ta:20140519004800j:image:w800


この私が、まさかこんな風に休みを使ってしまうとは、こんな日が来るとは予想だにしなかった。まったく無為な時間を…。


f:id:Ryo-ta:20140519004758j:image:w800


しかも、完成に近づけば近づくほど、つまらなくなって行きそうな感じがして、ぼんやりと憂鬱な気分にさせてくれる。

2014-05-17

僕は好き嫌いがあまりなくて、大体何でも食べられるのだが、最近それが劣等感のような感じに思われてきた。何でも食べる、というのは、やはり、ほめられたものではないのだと思う。最近読んでる塚本邦雄の「異国美味帖」という本の中の西瓜についての文章。西瓜が大嫌いで、匂いだけで食欲を喪失する、ということらしい。


まず第一に西瓜の匂い(臭い)。青臭いというより腥(なまぐさ)い。それも植物のにおいではなくて、一種の金属臭である。場末の旋盤工場の削り屑の臭いに近い。刃物を砥ぎつつある砥石のねとねとした泥の臭いにも似ている。経験はないが、殿様蛙を解剖したらそんな臭いを発するかもしれない。そう思うだけで、一瞬嘔吐を催し、西瓜の紅は流血のイメージしか喚起しない。緑と赤の色の対比・照応が愚劣で、それが嫌悪の一つだ。

(塚本邦雄「異国美味帖」99〜100ページ)


嫌いな食べ物の話をしているだけなのに、なんと鮮やかで、鋭敏で、鋭く切り込んでくるような言葉なのだろうか。こういうのを読むと、特定の食べ物を嫌う、というのが、とてつもなく優雅で批評意識に富んだ、感覚に対して品性のあるまっとうな態度に思えてきて、別段毛嫌いできる食物など思い浮かばない自分に、あらためて大きな欠落感・不足感を感じてしまう。要するに自分の、味わうという感覚の鈍さ、才覚のなさ、その凡庸さをまざまざと思い知らされるという感じなのだ。それにしても、西瓜の臭いから始まって、金属臭→旋盤工場の削り屑→砥石→泥→殿様蛙を解剖…って、このめくるめくようなイメージの連鎖って、ほとんど至福のひとときとなんら変わりないんじゃないのか。


しかし、やはり食べ物も、過去の記憶へ遡行するための手段なのだろう。皆が、絵でも音楽でも文章でも、食事でも旅行でも、過去の記憶に会いに行く。東京は、文化的な都市なのかどうなのか。…文化的な豊かさとは、つまり過去へのアクセス数が大量にあるということなのか。人間が一人一人、クローズした環境内でそれぞれ何かを思い出して陶酔したり、あるいはゲッとなって吐き気を催したりしているのが、レストランなのか。

2014-05-15

日本大通り駅の二番出口を出て振り向くと、煌々と横浜スタジアムのナイターの照明が光っているのが見える。その光の強烈さは、思わず光源に吸い寄せられる羽虫の気分がわかるほどだ。野球観戦の経験は、生まれてから今までで一度か二度ある。実家が埼玉なので西武球場(まだ西武ドームではなかった)に行ったのだ。小学生の頃である。誰かに連れて行かれたので、何を観たのか、何が面白かったのか、あるいはつまらなかったのか、今や何も、さっぱりおぼえてない。


僕は今まで、プロ野球に興味を持ったことは一度もなく、したがって何とかスタジアムに行きたいと思ったこともないのだが、最近ちょっと行きたいような気がしなくもない。それはスポーツとしての野球を観戦したいということではなくて、遠くで誰かが何かしているのを、観客席から見たいという、かなりぼやっとした興味というか欲望が芽生えてきたからだ。なんでそんなことを思うようになったかというと、週末に歩いて図書館まで行くとき、途中で千住新橋を渡るのだが、そのとき橋の下は荒川が悠々と流れていて、両岸には芝生と野球場が整備されていて、よく草野球をやっていて、それを上から見下ろしながら歩きながら、もしかしてこの距離感というのは、何とかスタジアムで観客席からプロ野球を見ているのと、スケール的にはあまり変わらないのだろうか?と思ったのがきっかけだった。


よくコンサートなんかでも、東京ドームだとステージ上の人間なんか、豆粒くらいにしか見えないなどと言うけど、それはたしかにそうだが、でも日本武道館という場所は、これもそれなりにでかいけど、あれはあれで、なんというか、ひじょうに程好い距離があり、しかも二階席なんかだと、まさに橋の上から下でやっていることを見下ろしているような感じがあって、ああいう距離感で、照らし出されたステージに立って何かよくわからないことをしているひとりの人間を見ているというのは、たしかにとても面白いことだ。そういう絶妙な距離感でのコンサートもいいだろうし、でもやっぱり野球だ。プロ野球の距離感がどうだったのか、どんな感じだったのかを思い出したい。でも、実際に行ったらすぐ飽きるかな。でも飽きたらすぐに出て、近くの店に行けばいいじゃないか。


でも、僕が毎日働いているオフィスもかなり広くて、あれば一体何平米あるのか、さっぱりわからないけど、端から端まで歩いたら早足でもおそらくニ、三分かかるくらいで、フロア全体でおそらく百五十人かそこらが働いている。そういう場所だと遠くの人はかなり遠くて、一番遠いと見えないくらいである。それも最初のうちはすごいなと思っていたけど、最近はさすがに慣れてしまったが。


見晴らしの良い場所、っていうのはいいね、っていう話はあるなあ、と思うが、それにしても富士山という山は、実際この季節はくっきり見えることは少ないけど、見えたときにいつも、あ、富士山ってこんなに高いのか、と誰もが思うほど、まさに頭一つ突き抜けている。たぶん周りの山が相対的に低すぎるから、あれだけ歴然とした差になってしまっているのだが、それにしても高い。どちらかというと浮かんでいるようなイメージだ。

2014-05-14

朝日新聞は、もう購読をやめたいと何年も前から、下手すると十何年前から思っている。でも未だにやめられないのは、販売店の人に、すいません新聞もうやめます。と言い出し辛いからである、未だに金を払って購読している理由は、突き詰めると、ほんとうに、その一点だけだと思われる。


だから朝日新聞が、いつも家にあるから、さすがにたまに読むけど、ほとんど読むところが無いのはまだ良いとして、たまに、読んでものすごく腹の立つ記事があったりするから困る。こういうものに、なぜ金を払っているのか、その不条理感をひしひしと感じざるを得ない瞬間だが、こういう瞬間に出くわすたびに、これで仕舞いだ、もう終わろうと思うのだが、それでも販売店に電話して、もうやめますの一言が言えないのだ。なにしろ、たまに新聞がポストに届いてないときがあって、それは配達員の配り忘れなのか、あるいは不道徳な者が通りがかりにすっと引き抜いて行ったのか、それはわからないけれど、とにかくその日の朝刊が無い、ということがごくたまにあって、仕方がないから販売店に電話をすると、そういうときの販売店さんは、実に迅速丁寧な、完璧なレスポンスで、速攻でその日の朝刊を届けてくれるのである。たしかに販売店はウチからそれほど離れてないから、すぐ来れるのだけれど、でも電話してすぐ対応してくれたら嬉しいじゃないですか。それに、最近はもう銀行振り込みにしてしまったからそういうことはないけど、しばらく前までは半年に一度、販売店が契約更新のお願いにウチの玄関まで来て、そのとき洗剤だのサラダ油だの、そんなのもう、いらないよ、と言いたくなるものばかりを、山のように抱えて来るのである。で、はい、じゃあもう半年契約します、と言うと、使いッ走りみたいな若い子が、もう狂喜乱舞みたいに喜んで、ありがとうございますありがとうございますと何度もくりかえして、もういらないと言ってるのに、両手から零れ落ちそうなほど大量の洗剤パックを玄関の前に置いていくのである。


と、まあ、そんな感じなので、朝日新聞をなお僕が購読している唯一の理由は、販売店の彼らの事を思うと後ろめたくてやめられないから、というその一点に尽きるのだが、ところで先月終わりくらいから、朝日新聞で夏目漱石の「こころ」が、なぜか再連載中である。百年前の連載時と同じ体裁で、今、平日だけ毎日連載しているのである。


これをとりあえず、毎日読んでいるのだが、やっぱり「こころ」は面白いねえ、という感じである、僕は昔から、新聞連載小説を毎日読むのはかなり苦手で、最初から最後まで連載と同時に読み始めて読み終えた作品など、ほぼ皆無と言ってもいいくらいだが、今回の「こころ」は、今日で十八回目になるけど、まだ読んでいて、このペースが実に良い感じに感じられる。なんだかんだ云って、今読んでる、色々なものより、何よりも「こころ」が面白い。とさえ言えるかもしれない。それもそれで、どうなのかと思うが、やはり漱石、面白いですね。

2014-05-13

誰もいなくなったオフィスで一人で仕事をしてると、結局ずるずるといつまでも居てしまって、思ってた時間を大幅にオーバーしてしまう。こういうのはかなり久しぶりなのだが、この独特の居心地のよさ。行く先の電気を着けないと真っ暗ってとこが、また良くって、窓の外は夜の街並みでクルマが行き交っていて人が歩いていて、静寂の薄暗い居室内からそれをたまに見ながら発光するモニタに目を戻すと眩しいみたいな、なんだか、何年も前から、こんなことばっかりやってるのだなあと、今更のように遠い目になる。


ウチの会社はまた増床したらしく、新しいフロアができていて、新しいとまず入口から入って、どこがどうなってるのかわからないのが楽しい。右と左とあって、右手奥に歩いていくと、急にもう一個ドアがあって、そこは入口とは別の認証キーになっているようで、自分のIDを登録してもらって、中に入ったら、明るい室内の中央に雑然と機器類が置かれていて仕事している何人かがまだ残っていたので、少し雑談してからまた出る。また真っ暗な通路になって、周囲にやたらと光るものがあるのを通り過ぎて出口を出る。


皆が、色々なことを考えているが、僕は不真面目なので、誰の話もあんまり真面目には聞いてないのかもしれないとは思う。誰にでも、うんうん、そうだねえとしか言ってない。それでも、会社全体がこう薄暗くて、この時間になっても、こうしてところどころ光っているのだから、なかなか簡単ではないさ。そう簡単に結論は出せない。しかし我ながら、何やってるかなあとは思う。

2014-05-12

昨日は休日出勤で、朝の八時にはオフィスにいて、ものすごく眠くて、人もいないし、仕事は任せてしまっていて、することがなくて、午前中だけでうんざりして、午後になってしばらくして終わったけど、そういうのときの、この、信じられないほどの中途半端な、どうすることもできないような宙吊りの時間をもてあましまくって、横浜を去り、東京でかろうじて少し酒をのむも、抵抗むなしく五時か六時に帰宅してしまう。そしてあとは、カーテンを開けたり、また引いたり、ソファーで横になって、本を開いて、そのまま案の定うとうとして、気が付けば暗くなっていて、またカーテンを引いて、夕食のあと早めに寝る。


比較的しっかりと睡眠をとった朝の目覚めらしくすっきりとした気分で起きて、出かけて電車に乗って、京浜東北線で速めに座れて、今日はいい感じだなと思ったら、数秒後に寝た。気付いたら目的地で、結局良いも悪いもない。帰りも川崎から座ったら、そのまま何かに吸い付くかのように寝て、終点まで。とにかく、寝る寝る寝る、本当に、勝つか負けるかだ。

2014-05-10

荒川を見ながら、北千住の図書館に寄って、そのまま柳原千草園まで歩く。新緑がまぶしい。川の流れは相変わらずだが風が吹くたびに細かく刻むようなさざなみの、まるでスパンコールがきらめくかのようにきらきらと光る。鈍く重く空気の層がゆっくりと姿勢を変えるので風がふき木々の音が反響する。


アジを四尾買ってきて、一尾はなめろう、一尾は刺身、一尾は塩焼き。恥ずかしながら何を隠そう私は魚を三枚におろすという営為を、今日はじめて実体験した。…まあ、どうにかできたことはできたけど、これはおそらく、たぶん、同じことをもっと手早く、魚に触っている時間をもっと極端に短くして、魚の皮膚に人間の手の油脂ができるだけつけないような気持ちで、さっさとやるべきなんだろうなとは思った。なにしろ今のやり方では遅すぎで、自分で自分があとでこれを食べるのかと思うと、なんとなく気が塞がってしまうほどだ。もっと全然誰にも触られてないような感じのままで食えれば最高なんでしょうね。でも、面倒くさいことだ。もし明日の夜から、仕事から帰ってきてから同じようにこれをやるか?と言ったら、いやー、ちょっとめんどくさいかも、とは思う。

2014-05-09

ほんとうにすいません。眠すぎる。僕も眠いけど、スタッフ達も悲惨な環境下で寝に入っている。寒さ、飢え、それらをなるべく早急に、一時間でも早く対応できるように、相手は世界の冠たる日本の軽自動車業界トップで、つまり一台一台の品質を背負って。


それで、出す贈り物が何か、…これは、書くっていうレベルじゃない…。せっかく、同じ部署にいる人が言っていた話、ほとんど全部忘れてるから。それが、日曜日朝には、みんな暖かく電源を宿して、あとはただ無言で帰るだけ、でしょう。でもチームのため、国家のために頑張る、とか?それをついに、あからさまに言うような組織になっていくのかもしれないし。

2014-05-08

一月ごろの荒川沿い。今と較べると、空気がしゃきっとしていて、遠くまでよく見える感じだ。今なんか、かなり天気がよくても、遠くの山などまるで見えない。

f:id:Ryo-ta:20140509012618j:image:w1024


f:id:Ryo-ta:20140509012617j:image:w1024

2014-05-07

子供の頃、ブロックを組んで作った自動車やら飛行機やら、あるいは段ボールだの厚紙なのをハサミとノリで切って貼って作った自動車やら飛行機やら、子供の扱える素材は大体そういう、扱いやすいか脆くて加工しやすいものばかりなので、そういうもので無理やり大きなものを作るので、大抵は持ち上げると自重でひしゃげたり曲がったりして、ちょっと乱暴に扱うとばらばらになってしまったり、とにかく強度不足であることがほとんどだ。なぜ子供の作るものは、すべて強度不足なのか。なぜ子供の作るものは、自分の重さに負けそうになって、ぐったりと地面に伏しているばかりなのか。これは、今の自分にとっても、きわめてアクチュアルな問題かもしれない。なにしろ僕だって、もし何か作ったら、いまだに、大抵は強度不足で自重に負けそうな、へなへなと頼りない感じのものばかりになるからだ。

2014-05-06

昨日、食べすぎ飲みすぎで、起きてからもぐったりしていて、一瞬風邪引いたかも?と思ったけど気のせいだった。先日から一転、天気はこのうえなくどんよりしていて暗い。気温も低い。夕方から自転車で買い物に出た。自転車は走ってると、かん、かん、かん、と、たぶんチェーンがカバーの内側に当たってる音が鳴っていてなとなく気になる。ぼろい自転車だ。何年も外に出しっぱなしだから錆びだらけだし、でもすいすいと快適に走る。クリーニングに出したスーツ三着と妻の冬のコートを受け取って、夕食の食材を買って、すべて前カゴの中に入れて、入りきらないものを上に乗せて走ったら、前輪の重さがものすごいことになって、超・危険運転でふらふらしながら帰った。しかしウチの周辺一帯はほとんど坂道がなくて平坦なので、たぶん自転車移動には向いた地域だ。ふらふらとハンドルを操作しながら帰宅。


よく考えたら、連休が終わったのか!?でも、出掛けたし、久しぶりに二人で食事もしたし一日中家にいたりもしたし、なかなかいい休みだったのではないでしょうか。でも明日から忙しいから、微妙に気が滅入る。

2014-05-05

何かが軋む音がして、地震かも、と思って目を覚ましたら、妻も起きて、地震?というので、そうだな、と言ったら、まるでその一連の会話に対する返事のように、ぐらぐらと盛大に揺れ出した。食器がぶつかり合う、鐘の音のような音が聴こえてきて、しばらく続いた。五時なので、それなりに眠くて、できれば大したことでなく済んでほしいと思っていて、ニュースも見たいが、テレビのボタンを押すこともできずに、しばらくしたら、もういいだろうと思って、そのまま寝る体勢に戻った。その後、八時か九時に起きた。


横光利一の「蠅」を読む。途中で、ああ、これ読んだことあるわ!と思い出した。たぶん中学か高校の教科書に載っていたのだ。読み進めていくうちに、クライマックスの部分を急に思い出した。わー、懐かしいと急に思った。「蠅」は面白いけど、これはやや狙いすぎというか、今読んでもさすがに、まあこういう感じね、と思うような小説だとは思う。さすがに、小説の試みも以後、様々に為されてきた歴史があるので、ここに来て今、こういうのをいきなり新鮮に読むのは難しい。


「機械」これは、面白い。おー!面白い!!と思った。これは、所謂傑作とか歴史体名作とか、そういう類ではなくて、単にひたすら面白い小片。という感想に尽きるだろう。今、この作品を読んで、その内容に笑わない人がいるだろうか?そのくらい「機械」は面白い。というか、主人公が面白すぎる。筒井康隆の未発表の初期作品です、とか言われたら、信じてしまいそうだ。バカバカしさの飽和状態がある種のカタルシスを生んで、ガッツリした満足感のある印象を残す。


「機械」。これは、登場人物の面白さに尽きると思う。心理描写がひたすら織り上げられていって、誰が誰を信じていいのか、誰が誰を疑っているのかみたいな、ややこしい絡みの部分は、ほとんど重要には思われない。何しろ主人公の、存在を支えてくれるイデオロギー不在というのか、目先の値を読み込んで適切な行動を取ろうとするだけのきわめて無意志的、悲感情的な態度が徹底していて、まずはそこに、本作品を読むだけの理由になりうる磁力が、未だに働いているように思われる。


梶井基次郎の「檸檬」、久々に読む。これも昔、高校の教科書に載っていて、そのときはじめて読んで以来だ。当時は、浅はかな高校生の自分にとって、梶井基次郎というのは、なんとも自己陶酔的というか自分世界内で幸せになりすぎな、ただのイマジネーション坊やにしか思わなかったのだが、でも今読むとさすがにいいですね。檸檬を売ってる八百屋の様子を描写したところなど、本当に素晴らしい。


ブリヤ・サヴァラン「美味礼賛」も読み始める。…これは…すごい。なんだこの本は?という感じ。でもまだおそらく全体の六分の一くらい。ゆっくり行きましょう。

2014-05-04

高幡不動金剛寺から山道へ入っていくと、それが都立多摩自然公園で、かなりの勾配を上り続けるのは息が切れるが、しばらく行くとすぐに日野市の住宅街へ抜けることができる。山の上の、まさに閑静な住宅地という感じで、比較的整然と道路が碁盤の目状に敷設されているのだが、道の先を見ると、見下ろすという感じで下界が下に広がっていて、今自分の立ち位置の標高の高さがわかる。このあたり一帯の住人が、下界を見下ろしながら暮らしているような感じである。下界まで、まっすぐに道が下りていて、もし自転車で下ったらペダルを一漕ぎもせずに、数百メートルか一キロ近い先まで、ものすごいスピードで下まで下りていけるはずだ。そのかわり逆にその勾配をペダルを漕いで戻ってくるのはほぼ不可能ではないかとも思われる。自動車が坂を上ってくる場合なら、その様子が遠くから見えるわけではなくて、あまりにも急な勾配のため、坂の途中から急に自動車が視界に現れる、という感じになる。おそらく交通法規を無視したスピードで走れば、カー・アクションの映画みたいに、ぴょーんと道路から軽くジャンプしながらクルマが現れるようなシーンが撮れそうである。


その住宅地を抜けると、今度は多摩動物公園の敷地傍に至る。このあたり一帯が広大な雑木林であり、動物園の敷地沿いにフェンスが設置されていて、その周囲を散策できるようになっている。適度なアップダウンがあり、コナラ、クヌギなどが多く生息する自然のままの森の中を進む。フェンスの向こうは動物園で、動物の鳴き声など聴こえてくるが、覗き込むと、ものすごい入園者の数で、フェンスの向こうとこちらの人口密度の違いがものすごい。何かの動物が見える?と聞かれて、人間しかいない。と答える。誰もいない森の中の、フェンスに遮られたすぐ向こうで、カップル・家族連れなど人々が色とりどりに地面を覆い尽くす程の勢いでレジャーシートを広げて昼食を摂っているのは、かなりシュールである。


さらに歩くと、旧多摩テック跡地へ。背の高いフェンスで遮られて、草ぼうぼうの駐車場や時間の止まった廃墟感が漂っている、土建屋やデベロッパー的つわものどもの夢の跡的・古戦場的な、ものさびしい路を進む。集合住宅のように整然と墓石の並んだ、線香がとてもいい香りの墓地を脇目に、さらに歩くとやがて東京薬科大学脇を抜けて平山城址公園に至る。平山城址公園自体は、これもかなり自然状態の森林が多く、歩くルートはかなり整備されているが所謂近代公園的なものではなくて自然公園という感じだ。多摩地区は基本的にどこもそうだがアップダウンが多いので、公園も平面的に広がるような空間ではなくて上下を見上げたり見下ろしたりすることが多いのが印象的だ。もちろんそういう空間を移動するから体力消耗も激しい。


平山季重神社を経由して平山城址公園駅まで辿りついて終了。約三時間の散策です。


五月の晴天で、ずっとTシャツ一枚で過ごした。軽く汗ばむ程度でほぼ快適。そして、この季節の森の中を半袖一枚で歩いていると、ほんとうに沢山の小さな虫だの葉っぱだの花粉だの塵だの蜘蛛の巣だのが、風や空気と一緒になって渾然となって、始終顔や首元や腕にからみついていて、もう空気そのものがほとんど初夏の粘り気をともなったゼリー状のものになって、ただ歩いているだけで森の中の浮遊物にどんどん身体が汚れていくのがわかった。風呂入りたいなあと思いながら歩いたけど、それほど不快だったわけではなく、むしろよかった。尺取虫や蟻はちょっと立ち止まってみれば足元にもシャツにも体中のどこにでもいた。途中、多摩動物園を抜けたあたりの見晴らしのいい丘みたいな場所で持参した弁当を食べたとき、こぼれたごはん粒を蟻が見つけて運んでいく様子を見ていて、その運動の速度といい、スケール感といい、障壁を乗り越えたり重さを支えたりするパワーといい、もう何から何までが人間と異なっている蟻という生態の運動性能に今更のようにびっくりした。変なたとえだが、人間が縦横10メートルの重さ500キロくらいの荷物を抱えて、ぐいぐいと時速100キロくらいのスピードで走って、10分くらいで足立区から台東区あたりまで移動したような感じだろうか。いや、そうではなくて、動きの切れ目が違うというのか、流れが違うのだ。見る、持ち上げる、移動する、障害物を乗り越える、といった一連の動作が、一つながりのスムーズな流れでできているのではなくて、まるでコマ送りのようになされる感じなのだ。つまり、見る、と、持ち上げる、のと間が存在していない。次のシーンでは、すでに持ち上げているし、その次のシーンでは、すでに乗り越えている、という感じに近い。どうも異様に細かい単位で、瞬間瞬間に、空間移動しているかのようなのだ。人間が秒間60フレームのシームレスであるなら、蟻は12フレームくらいしかなく、しかしフレーム間はテレポート移動ということになる。


あと、そういえば今日もヘビを見た。今日はほとんど見たとは言えないくらい微妙。ガサッと音がして、茂みに逃げ込むときの、その尻尾のようなものだけ。もしかしたら見てなくて、その音を勝手に「見た」に変換している可能性もあるが、しかし視覚イメージも一応記憶内に残存しているので、見たということにする。僕が先頭で歩いていてもとくに何も出てこないが、妻が先頭で歩くときは、なぜかヘビもトカゲも出てくるし、上から毛虫が糸にぶらさがってすーっと降りて来たりもした。なぜ、そういうのばかりが出てくるのか、出るならネコやうさぎに出てきてほしいとのことだが、それはさすがに難しいのでは、と言う。ネコか、うさぎか、きょんでもいい。と言うので、ああ、そういえば前に、きょんっていたねえ、と言う。

2014-05-03

横光利一「上海」。舞台は1925年の上海で、その強烈な風景を観光的に楽しんでいるという部分もあるが、主人公参木、友人の甲谷らの、だらしなくて無目的で享楽的で、厭世的で自己中心的な日々の生活や内面が、他意なくさらさらっとした筆致で、その他トルコ風呂湯女のお杉、踊り子の宮子、中国人の工女であり共産主義活動家の芳秋蘭、など、それぞれの視点からマルチアングル的に綴られていく。場面の切り替わりも、語り手に意志があるのか無いのかよくわからないような、しかし一定のリズムで朴訥として簡潔に、しかし鋭い風景描写や比喩を随所に散りばめながら話が進んでいく。これがなぜか、全体として大変魅力のある感じで、けっこう面白く最後まで読んでしまった。途中、ちょっと飽きたりする箇所もあるにはあるが、それも含めて全体的には面白いと思える本。


基本的に、登場する男は、実にいい気な人たちばかりである。仕事、金、女がほとんどで、でも日々があきたりなくて、自分とはいったい何なのか悩んでいて、とくに参木は面白いやつで、とにかく自分が上海にいるというだけで、その肉体がそこにある以上、それは日本の領土である、と思うのだ。「俺の身体は領土なんだ。」こういうのって、実にしょうもない考え方だけど、なんか、わかるわーと思って笑ってしまう。


参木にしろ、甲谷にしろ、自分を支えている基盤に、その当時の日本、欧米列強に負けじと多方面で頑張ってる日本の姿がぼんやりとあって、今自分がここにこうしている理由はなぜかを色々と考えたり人と話したりしながら、後付けの理屈をああでもないこうでもないと考えて悩むのだが、甲谷はともかく参木はじつに悩むのが好きなやつで、結論を出したくなくて、ゆえに女性との関係も自分に決断を下せなくて、かなり色々な美女から好かれてモテるやつなのに、どの女からの誘いも結局断って、でも最後は結局いいかげんに…みたいな、こうして思い出して書いてるだけで、今更ながら実にばかばかしいのだが、でもそれはそれで、こういういい気な悩み方、生き方を許容してくれるのが、結局はその当時のたまたまありえた政治経済情勢下のことでしかなかったというのは、人の事を笑ってられない、自分もまさに他人事ではないなあ、と思いながら読んだ。あらゆることは、すべて今と何も変わらない。というのと、あらゆることはすべて消えていく、というのと、その両方の手触り、という感じか。


終盤は革命(というか、五・三〇事件)が勃発して、登場人物たちは皆それぞれほとんどそれまでの地位も金も失くすか危うい情況にまで追いつめられ命の危機にまでさらされる。物語が終わって、その後の彼らがどうなったかはわからないが、おそらくいつかは、死んでしまっただろう。この終盤はなかなか凄いけど、でもこういう物語でなくても、ただひたすらダラダラと前半部分が最後まで続いてくれても良かったのだけど。

2014-05-02

超久々にAsh Ra TempelのInventions For Electric GuitarよりPluralisを聴く。素晴らしい、としか云いようの無い覚醒的シーケンスパターンの中にうごめいているギターの音を聴き続けていると、ギターという楽器の不思議さが今更のように実感される。弦を弾いて出る音が、増幅されて延々消えずに持続し続けるというのがElectric Guitarの特徴で、こういう楽器でソロを演奏するというのは、やはりアルトサックスでソロを演奏するのとは意味合いが違ってくる。演奏者というレベルを越えて、楽器の成り立ちの部分を検証するみたいなことになってくる。この、どこまで行っても物語を形成できない不思議な楽器はいったい何なのか。20世紀になって、こういう楽器ははじめて生まれたのだ。すなわち、人間が仮にしばらく放置しておいても、通電している限り勝手に音を出し続けている楽器。つまり、最初から自分で自動演奏していて、しかし自分でも開始も終了もできない楽器。…しかしなぜ日本人はこうも、受け身で傍観者的なタイプが多いのか。こんなのでは、本当に我が社の製品が目標ラインに触れることができるのか、甚だ心許ないよ。さあ飲もう。飲むしかない。君だって少しは飲めるんだろう?さあさあ、もっと頼みなさい。もっとたくさんついで、そう、あなたも。そしたらそうだ。みんなで乾杯だ。はーい。よしよし。乾杯。そうそう。感パーい。乾杯乾杯。いや、めでたいね。やっと会えたじゃない。君いま何年生?へーそうなの。今度旅行行こうね。うん。よし今度温泉行こう。だってさっき、行くっていったじゃん。うん。まあいいや。気をつけてね。じゃあみんなもっとこっちに寄って。そうそう。ぐっと前に詰めて詰めて。偉い人は前のほうに後から遅れて来るのね。それが原因?それはわからないね。まあ、うん。まあ我々アングラ芝居人には関係ないけど。

2014-05-01

今日で五月だと思うと、あーぁ…という思い。毎年そうだけど、五月は面倒くさい仕事がある。今日から納期まであと二十日ばかりしかない。そう思うと心底うんざり。そしてこのうんざり感から、しょうがないからその気持ちを引きずりながら、温い空気の中を身体をぐっと進めて、神田川の脇を抜けて、もやっとした空気を押しのけてガード下の路地の奥に入って、まだ夕方の光がかすかに差し込んでくる店の入口脇の席で、早くから飲み始めるか、お客さん、前にいつ来ましたっけ?去年でしたっけ?どういう話しましたっけ?あー!思い出しました。あー、思い出しました。お帰りですか。ありがとうございました。また来年ですか?という気持ちにつながってくる。それだと、ああなるほど今年も確かに夏が来るのかとしみじみ実感。

 |