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2015-04-29

土曜日に吉祥寺「百年」で観た、トヨダヒトシ「An Elephant’s Tail ―ゾウノシッポ」について。写真作品だが、撮影者本人が映写機を操作してスクリーンに投影するスライドショー形式の作品である。


暗闇の中で、投影された写真が数秒か十数秒ごとに、映写機の切替音と共に切り替わっていく。写真を観ているというよりは、映画を観ている感覚に近いが、しかしスライド投影がその場で作家本人の手で操作されるので、時間や切替タイミングに都度誤差が生じるという意味では、ライブとかパフォーマンス的な感じもする。とにかく写真をそのとき一回見て、スライドが切り替わったらそれは暗闇に消えてしまい、次の写真があらわれるということで、おそらく写真をある安定した器として漫然と眺めてしまっては見えないものをこの形式によって見せようとしていて、でも、この観ることに対してあえて限定を設け、よりよく観るために目隠しをするような感じというのはやはり映画的だなと思う。暗闇の中でスクリーンに投影されているから映画的というよりも、見るためにあえて遮り、制約するというところが映画的だと思う。


しかし、作品が撮影されたのは1992年〜97年頃までのニューヨークとあって、この数字の存在によって、今度は観ている作品の写真的性質が強く現れてくるように思った。ここで僕がそう感じた写真的性質とは何かというと、写真一枚一枚の、すべての写真には撮影日時がしっかりと貼り付いているというのか、ああ、その時代か、という感慨、記憶のアリバイとして振舞うことが宿命付けられているというメディア的性質のことで、僕がたまたま95年頃に一週間くらいニューヨークを観光旅行したことがあることがあるのだけど、だから90年代のニューヨークが、こんな風にも在ったのか、みたいな、まあそれはともかく、しかしそれは如何にも、漫然と何かの写真をみた自分が思いそうなことだ。年代や日時についても、ニューヨークという場所についても(そう書いてあるから、その文字に)反応している。それは写真というより、写真の属性に反応しているということに過ぎないが、しかしそれもやはり写真である。とはいえ、スクリーンに投影される写真一枚一枚に、何月何日にどこで撮られた、といったような説明が付いてるわけではなく、合間合間に作家本人の文章が映し出されるので、それが映画のようなイメージの切り替わりを観ているのに、そういった写真に向けられた情報の補完みたいな感じになるのだ。とても不思議な、あまり経験したことのないようなものを観ているという感じを受ける。


一歩間違うと、きわめて内省的で自己完結的なだけのものになってしまいそうなのに、けしてそうはならず、また結果的には、映画を観たという印象ではなく、やはり写真を観たという印象をもった。写真は、写真、それはおそらく、誰かにとっての過去、つまり誰かにとってのかけがえの無さで、それが定着したものだが、そのかけがえの無さは、もちろんその人個人の問題であって、他の誰もがそれぞれの過去、それぞれ別の記憶を、それぞれ固有に携えていて、年代や日時のキャプションを書き込んで頭の中に保管しているだろうが、それら一人一人の間には暗闇しか無いので、お互いにアクセス不可能なのは当然であるが、しかしその暗闇の感じ。というか、僕は本作を観ていて、この先はもう進めないという感触を受けて、それが不思議と、作品の強さとして感じられ、このような拒みの方法こそ好ましいとかそういうことではなく、最終的にその暗闇に行き詰る感じが、なぜか良かったのだ。

2015-04-27

最近、とくに平日はほんとうに時間がなくて、このブログも、ぱぱっと書き飛ばしてるだけである。まあ、しょうがない。自分のブログを書けないかわりに、人のブログも読めないし、何もわからないのである。こうして時間は、どんどんずれていくのだが、それでもかまわないのである。会社でも、ああー、もう間に合わない、もうこのぶんじゃ駄目かも、こんなことしてる場合じゃない、もう終りだ。ぜったいにあふれる。もう仕舞いだ。おわりだ。やになっちゃうなー、とか、さんざん一人でつぶやいた挙句、隣の子に、もう帰っていい?と聞くと、隣は、やっとかよ…という感じで、無言で頷くのである。そして私はすーっと帰ってしまうのだ。いつもである。それにしても、ここ一年か二年、かつてより、ずいぶん忙しくなったけど、いったいなぜなのか。思っていたようには行ってない。これは、ずいぶんな思い違いをしていたようだ。

2015-04-26

昨日はまず石神井公園に行って、公園を歩いて、そのあと 大泉学園に行って、牧野記念庭園に行って、漫画『ドミトリーともきんす』の住人 牧野富太郎 を観て、そのあと吉祥寺に移動して、【『季節の記憶(仮)』夏篇、『An Elephant’s Tail ―ゾウノシッポ』上映とトーク】に行く。それぞれの感想はまた後日記す。


本日は髪を切った。図書館の本を返した。横浜で友達夫婦と御飯を食べた。そういう機会がいままでじつに少ない我々夫婦だったので、実に新鮮な会であった。土日二日とも午前帰宅となる珍しい展開。

2015-04-24

駅のホーム。時間は時計を見ないと分からない。蛍光灯の色。臭気。踵の高い靴で、広がっている吐瀉物を平然と踏んで歩いていく女性。耳障りな放送の音。山手線の近づいてくるときの、短いヘビがのたくりながら近づいてきてやがてホームに滑り込んでくるのを観て、山手線の顔は最近流行りの形のメガネかけてるみたいな顔だなと思う。機械というのは定期的に若返るので、今の山手線なら年齢でいえば二十代後半〜三十前半というくらいに違いない。気付けば自分が、もう既に山手線よりも年上なんだろうなと思う。というか、自分より年上の機械なんてじつは現状ほとんど存在しない。自分もたまにアップグレードできたらいいな。外見もリッチデザインに変えますね。スマホの新機種みたいに、書き換える。むろん、昨日までのバックアップもある。でもアップグレードはした方が良い。しないとわからないことは多い。でも、ちなみにおそらくソフトウェアでもやはり、さすがに四十年前のがまだ動いてる、というのは無いだろう。でもソフトウェアだとなぜか年齢というものが無い気がする。年上も年下もないというか。でも人工知能の話はソフトウェアの話なのだろうけど。やっぱり今の技術ではコンピュータがコンピュータらしい動きを見られるのは凄い大学の研究室とかのことで、うちらの業界でコンピュータといったらまさにアレだから、年齢がどうとか、人間と同格とかありえない話になる。まだまだ、単なるピタゴラスイッチ的な用途にしか使ってないとも言える。in/outの遅さが人間から見たコンピュータのスピードのすべてだから、やっぱり今までmおこれからもしばらくは、コンピュータなんてまあ、所詮は…みたいな気持ちになりがちである。

2015-04-23

夜の10:30頃、品川の手前で東海道線が運転見合わせになって、そのまま何と1時間以上電車の中で待つことになった。運転再開したのが0:00前で、やれやれであるが、それにしても乗客の皆さんの大人しいことには驚く。いやもちろん僕も黙って大人しくしてるのだけど、これだけ長時間止まりっぱなしなら、さすがに1人くらい大騒ぎするおじさんとかいそうなものだが、いませんからね。皆、別段嫌そうでもなく、ただ淡々と待っている。二人連れとかは、小さな声で、参ったなーとか言いながら、やはり普通に待っている。


で、僕もひたすら、ただ単にぼけーっとしていただけだった。一時間ものあいだ、本も読まず、音楽も聴かず、ただ待つだけ。なんだろうこの時間、と思いながら。なぜか不思議と眠くならないし。いつもなら気絶の如く眠ること間違いなしなのに、いったい何なのか。無駄といえば無駄な時間。でも別に時間なんて、まあこんなものかとも言える。その場にたまたま居合わせた人々みんなで、単にぼけーっとした、という話かも。

2015-04-22

昔から読んでいたブログが認証制になったということで、メールを出して閲覧許可をお願いして、今日その返事をいただいた。ちょうど会社の午前中のバタバタしていたときで、ばたばたしてるし周囲はもたもたしてるし、いいかげんイラついてたときで、いいや、コンビニで水でも買ってくるかと思ってエレベーターで下のフロアまで降りる途中、iPhoneでメールをチェックしていたらそれに気付いて、エレベーターを降りてその場にじーっと立ち尽くして、いただいた返信を最初から最後まで読んだ。先方も自分のこのブログのことを知っていてくれていて、ほんとうにありがたいような、自分には勿体ないような言葉がたくさん書いてあって、読み終わってとりあえずiPhoneをポケットに閉まってコンビニで水を買って、またエレベーターホールへ戻りながら、バカなことに、なんか上空から、たくさんの光が自分に向かってまっすぐに降りてきているような感じになって、これは何なの、と思った。オフィスのフロアに戻ったら、さっきと変わらぬ情景が広がっているのに、もはやすべてが、視界があるいは自分の網膜、そのどちらかが漂白された後の世界になってしまった。しかしこれはいったい、何という喜びなのか。相手に対する深い感謝の気持ちを感じながらも、しかしこの喜びは、いったい何かと思う。なにを俺は、喜ばしいと思っているのかと。この何か、たくさんの光の穴が、上空に空いたような、万全な喜びの気持ちに説明がつかない。なにしろ、こうして何かを書いていることは、いったい誰にもどこにも届かないはずの、まったくよるべなき、無為で無意味なくりかえしに過ぎないのに、にもかかわらず、それがこの真っ白な何も見えないような、よくわからない空白の先の、得体の知れぬ何やらの、それが何なのかはわからないが、どうもそれが自分を含めた、何か束のような、太い方向性のようなものの一つに自分も含まれるらしいということが、だとすればそのままで嬉しいのだという、ほとんど理不尽で不条理な、この感情の根拠は何なのでしょうね?なぜこれほどまでに、何の確証もなく何の担保もないにも関わらず、いや、だからむしろなのか、なぜこれほど無償的で受容的な、まるで神様のご加護のような一方的な慈愛を感じるのか。壁の向こうに人の息づかいが感じられたとか、砂漠を彷徨って何日かぶりに他人の汗の匂いを嗅いだとか、そういう類の確からしさ、いわば認識の一番最初の部分にまつわるところだからなのだろうか。ありがとうございます。

2015-04-20

昨日飲み過ぎたようで、やたらとだるくてねむい一日。夜からは雨。電車の中で、眠りと濡れた傘と咳の音。

2015-04-19

髪を切ろうと思って予約して、時間になったので出かけたら、歩いてる途中で携帯に電話があり、「子供が急に調子悪くなって!ごめんなさい!どうしましょう!?」と連絡があって、あら!?じゃあもう帰る?じゃあお大事に!また電話するわ!と言って、急遽延期に。


まあ、仕事の靴三足を修理に出す目的もあったので、修理屋に行ったら、修理代総額一万円を越えるとのことで、えー!?まじですか。うわー、カード使えます?と聞いたら、失礼ながらこんな小汚い店なのに、普通に使えますよーと言われて、マジ?と思ったけど、まあいいや、となった。でも、金かかるな。靴もスーツももうボロボロだよ。


金曜日のコースメニューで一番美味しかったのは、ゴボウのポタージュ、今日家で作って一番おいしかったのは、ゴボウときのこのソテー。ゴボウ。春。つまり土。

2015-04-18

品川駅の京急ホームに到着した三崎口行きの快速電車が、見たことのないような真っ青な車体で、座席が乗り合い電車みたいなやつではなく特急電車のみたいにニ座席並んでるやつで、これ特急券とかなくても乗ってもいいのか?と思ったけど、乗っていいやつらしい。京急に乗るのはすごく久々だが、高架の、地上からかなり高い場所を走るので、見下ろされる景色がすごくて、ひたすら窓の外を眺めていた。


金沢八景駅の駅前は、新しいものばかりではなくわりと古い建物もあって、表面がざらざらになって剥離しかかっている様子とか、色が漂白されてしまって、看板の文字とかがかたちや輪郭だけ残っているのを見て、海沿いの建物の、潮風にあらわれて少し経年劣化したような、じょじょに朽ちていくときの風合いがいいねえと思う。とても、海沿いの街という感じがする。また、建物とかシーサイドラインの高架などが織り成す空間全体の無計画的な感じというかカオスっぽい様子も面白い。というか、僕が若い頃は、どの街の駅前も大体みんなこういう感じだった。


人と待ち合わせして、近くのダイエーで食材など買ってからシーサイドラインに乗る。この電車もすごい。ほとんど海の上を飛んでいるような景色が眼下に広がる。海の公園南口駅で下車して、ちょっとあるくと目の前はもう海。というか、干潮で、潮干狩りしている人間どもが水平線の近くまでびっしりと居る。まさに「人がゴミのようだ!」を地で行く。ほとんど黙示録的とも云えるような、ものすごい景観である。


会社の、自分とは別の部署が主催するBBQ大会に、親睦を図る目的で参加。仕事だろうが周りが初対面の人ばかりだろうが、晴れた日に外で飲食いしてるのは楽しいですわね、ということでした。夕方が近づいたので撤収。やや飲みすぎ。帰って早めに就寝した。

2015-04-17

ゆらめく炎


ピエール・ドリュ=ラ=ロシェル「ゆらめく炎」。つまらない、と言えばつまらない話だが、でもどっちかというと好きな作品だ。あまり長々と考えながら書く時間がないので、もういい加減にしか書かないけど、全編通じて、金、形態、物質に対する感受性の不思議な独特さが印象的。まさに「フォーマル」を信じることができなくなってしまった人の感覚だなと思うが、自殺をほのめかしながら未練たっぷりの大騒ぎ、な感もあり、あぁばかだな、とも思いながらも、自分の二十代の頃もぼんやり思い出す的な、極めてベタな共感レベルでも読んでしまえるという。もちろん両大戦間という時代背景を考慮すべきにせよ、そんなこと言っても、書いてあることはまあ、いつの時代も変わらないような事でしかないわな、とも思ってしまうのだが、でも重ねて云うけどどっちかというと好きな作品。


これを原作としたルイ・マルの映画「鬼火」は観てないのだが、サティの音楽が使われているとのことで、これは原作に対するある種の批評的行為というか、ある種乱暴なくらいの読み替え、リミックスではないかな、と想像する。というか、よく考えるとサティという音楽家についても、さらっと聴いたくらいのこと以上に、僕はあまりよく知らないなとも思う。というか十九世紀後半〜二十世紀を、ほんとうにちゃんとわかってないということなのだね。わかった気になってるだけで。

2015-04-16

タイトル


書くものに、タイトルをつけようとすると、まずタイトルを考える時間だけで、書くのと同じくらいの時間を使ってしまう。いやいや、これはいかんと思って、そういえば昔は本文を書いてから後でタイトルを決めてたではないかと思って、だったら最初は何も考えずに書けばよろしいと思うが、最後にタイトルを決めなければという思いが妙な強迫観念になって、なかなか書き出せないようなことになる。よく考えたら、そういうのが嫌でタイトルをつけるのをやめたんだったかなとも思う。でもやっぱりタイトルはいいものだ。タイトルマッチだ。毎回の出来レース。大人の仕事である。タイトルを冠してシレッっと行こう。

2015-04-15

悲鳴を上げたくなるほどすごい快晴の朝。地面はまだしっかりと濡れているのに、太陽の光がものすごい。道路を渡るときに、車が来ないかと思って振り返ったら、水に濡れた路面に光が反射して何も見えなかった。同じ晴れた日でも、今の時期の晴れは冬とはまるで違う質感をもっているのがわかる。

2015-04-14


ぼたぼたぼたぼたと、まるで夏の雨みたいに降っている。しかも、よく降る。


色彩が捉えどころなくどこまでも拡散していこうとするような在り方を、少なくとも20世紀前半を生きた人間でそのまま感受できた人間は決して多くないのかもしれない。ドイツ表現主義と呼ばれるような作品群なんかを観ると、このような様式が生まれてしまったことの必然性があったのだろうと思う。形態や境界線が曖昧になり、拡散して溶解するなどという事態が、ある種の人には、とんでもなくおそろしいことで、色彩だの抑揚だのを徹底的に抑圧しなければ、根底を保つことすら困難という判断基準があったのだと思う。そして実際、ドイツ表現主義はおそらく今でも充分にアクチュアルな側面があるのだ。

2015-04-13

でこぽん


でこぽんは美味しい。冬のうちから売っていたけれど、ようやく最近値段もこなれてきて、お求め安い価格になってきたので買ってきて食べるのだが、これがほんとうに美味しい。なんという甘味だろうかと呆気に取られるほどの美味さ。ただ単に甘ったるいだけなら、これほどさわがないけど、酸味と甘味の絶妙なバランスというか、ちょっと言葉で説明するのが難しいくらいの、おそろしく立体的で複雑な甘酸っぱさで、果実というのが、こんなに美味しいのは、はるか昔からそう定められているのだとしたら、これは人類にとって最大の恵みの一つであるなと。まあ、なにしろこれは美味しい。ほんとうに、でこぽんは自分がこんなに美味しいということを知って生まれ育ってきたのだろうか。己が身を喰われて、これほどまでに喜ばれるなんて、お前はこの世にみのることができて、ほんとうに良かったな、ということなのか、それともそれはもう、でこぽんにとっての生が終わった後の出来事に過ぎないのだろうか。

2015-04-12

散って落ちた桜の花びらが、雨に濡れた黒い地面や木々や草むらの葉に、ところまかわずやたらと大量に貼りついている。水で湿って黒ずんでいる全体の景色に、桜の花びらだけがところどころ、ぼやっと白く、女性の爪のようなかたちに点々としているので、まるで冗談みたいに、大雑把でいい加減な水玉模様を施したような、ひどくばからしい景色に見える。紫陽花の葉も犬が洋服を着せられたように、白い斑点にまみれていて、きたならしいような滑稽なような困った感じになっている。ところで山吹という花の「黄色」は、それにしても、何という大変なものだろうか。桜に混じって、ところどころ、吹き零れるかのごとく、だらしなくぼろぼろと地面や水面に「黄色」を落としているのだが、しかしあれは、色というよりも、形態の消失というか、陰影の拒否というか、発光の意志、発光するための方法の模索みたいなことではないだろうか。というか、色とは元々そのような性質のものではあるのだが、「黄色」はあらためて凄い。山吹は凄い。

2015-04-11

新宿武蔵野館でロベール・ブレッソン「やさしい女」を観る。ドミニク・サンダが、最初に死体として登場する。ベランダから身を投げて、路上に伏して、頭部に出血の跡。その後、自室ベッドに横たえられた、眠るような表情の死体である。真っ直ぐに身体を伸ばして、素足の先がベッドの柵から少し出るくらいの位置に寝かせられている。それを質屋を営むご主人が見下ろしながら、今までのことを回想するかたちで物語がはじまり、淡々とした約90分の間、自分としては、このわからなさというか、相手をわからない、ということそのものを観ているように感じていた。


結婚して、夫婦となってからも、考え方が違うというか、お互いに何を考えているかわからず、不和となり、疑いをもち、言い合ったり泣いたり病気になったりする。その妻の、顔、髪、コート、シャツ、スカート、手の指、足、靴、立ち姿、後姿、ソファに坐っている、ベッドに横たわり、床に座す、それらの姿ぜんぶを、結婚したのだから、男はその女のすべてのしぐさを、男はそもそもこの女と結婚した自分が、それらをすなわち相手の女を特権的に見ることができるもので、相手からのサインを自分がまず真っ先にキャッチできるもので、求めれば与えられ、それをわかり、相手もわかる。わかることもわからないこともきちんと整理できる。その前提が成立するもので、そういう納得できるフォーマットが与えられるものだと思っていたし、このような女の外見の、このようなしぐさのゆたかなあらわれが内面とぴったりくっついて、自分の妻が自分への応答を返してくれる、さまざまなよろこびやかなしみの反応として返してくれるはずだと期待していたはずである。なぜなら、それこそが夫婦になったということなのだろうから。結婚したなら、さすがにお互いの関係は近しくなり、親しさというものが満ちて、相手の表情を見て、相手の気持ちが伝わってきて、喜びにせよ怒りにせよ悲しみにせよ、お互いに伝達し合うことができて、そこに滋養のようなものがうまれて、夫婦であることで、とても心地の良い何かに満たされるはずじゃないのか。それがいわゆるありふれた意味での幸福というものではないのか。結婚した自分がそれを期待するのは当然じゃないか。


しかし、そうではなかった。どうも、そういうものではないようだ。相手の言葉の、それが何に掛かった、何を指して発されたものかも、それが意志を率直にあらわしているのか、その場を取り繕うために発されたに過ぎないのかもわからず、相手の表情を凝視しても、もちろん何もわからない。何を考えているのか。お前は気前が良すぎるし、本を読んでいるのが好きだし、姿が見えず、何をしているのかよくわからないことがある。美しい立ち姿。シャツのボタン、コートの裾、ふくらはぎに底の薄い靴。路上を歩いていく後姿。どこを見ているのかわからない視線。それらは全く隠されずに、おそろしいほどきれいにはっきりと、ひたすら目の前にあらわれる。しかし、わからない。もうイヤ。ウンザリ、と思ってるのか、私も悪いわね、と思っているのか、もうまったく別の、ぜんぜん違うことを考えているのか、この目の前の相手は、一体何なのか?これはもう、死んだら自分はどうなるのかがわからないのと同じレベルで、わからない。


映画全編通じて、音が鮮烈きわまりなくて、室内にいて窓の外から聞こえてくる街の喧騒の音とか、テレビ放映されたF1中継のエンジン音とか、ポータブルプレイヤーで再生されるジャズロックやピアノ曲など、すべてがまるで空から降り注いでくるような感じなのだが、これらの音も何かにぴたっと貼り付いてない、ただ音だけであたりを漂っているだけのようで、何かをわかるための手がかりにもならない。


ブレッソン初のカラー作品なのだそうで、デジタル・リマスターの成果もあるのかもしれないが、夜の景色や、室内の光や、何よりもドミニク・サンダという人物、その人体に降り注ぐ光と色が息を呑むほどうつくしい。

2015-04-10

昨日、気付かないうちに眠ってしまって、おかげで朝の目覚めはすっきりしていた。睡眠時間どの程度だったのかはわからない。たしか気付いたら四時。起きて、歯を磨いて、洗物などして、また寝たけど、眠れず、何時まで覚醒していたのか、ほぼ思い出せない。でも、もう二十分したら目覚ましアラームが鳴るなと思って、寝ようと思って、その直後意識が途切れたのはおぼえている。その前の、眠っていたのか起きていたのかわからない時間のことがわからない。

2015-04-08

恐ろしく寒いが、これでもまだ真冬ほどではないんだろうな、と思いながら帰ってきたけど、結果的には真冬並みだったようだ。明日は一ヶ月ぶりにマフラーして行くか。

2015-04-07

混みあってる電車のなか、僕の背後にいた女性たち二人か三人はずーっと押し黙っていて沈鬱な雰囲気さえ感じられたのだが、電車が北千住に着いてドアが開いたら、出し抜けにやたらと明るく突き抜けたような声で、あ!お疲れ様ー!お疲れ様でしたー!!と言い合ってだーっと電車を降りてそれぞれ散り散りになって去った。期の初めっぽいなあと思った。

2015-04-06

昨日布団に入ったのが一時過ぎで、そのあと、たまにそういうことがあるのだが、なかなか寝付けなくて、結局意識を失うことができたのはおそらく四時前くらい。起きたのは六時半くらいなので、二時間半くらいしか眠れなかった。


今日のお昼休みに、昨日の夜、二時間半くらいしか寝てないんだよーとぼやいていて、そういえばさあ、そいう、布団に入って眠ろうとしてるけど眠れないときって、しょうもないことばっか考えてしまうんだけど、昨日思ったのはさあ。この前、旅客機が墜落したじゃん?あれって、なぜ航空旅客機は、乗客の数分のパラシュートを用意しておかないのか?っていうことだよね。


あー!なるほど。それはでも、パラシュートがあっても、皆が上手くそれで地上に降り立つ訳ではないけど。


そう。でも、ないよりはまし。一人も生還できないより、たった一人でも、生還のチャンスがあった方がいい。


でもそれ、どうやって外に出ます?外に出るドアを開かないと。


本当にやばくなったら、屋根がばーん!と二つに開いて、皆が外に出て行けるようになる。


それは…。誰がどういう判断で開きますか?


バスの停留所ボタンみたいに、各客席に「天井を開く」ボタンが付いている。


えー!!?それで?


それを単に押しただけでは開かない。ほんとうの緊急事態のとき、これはもう、外に飛び出すしかないと思えるようなときに、乗客同士で連帯する。そして、今からこの機内の外へ行くことに合意する。カウントダウンして、同時に、自分の席の傍らにあるスイッチを押す。全乗客の九割を越える数の押下が、同時に起こった場合、飛行機の制御システムは、無条件で天井のハッチを全開にする。


うわー(笑)。それは恐い。でも、たまに飛行機の中に数人しか乗ってない場合もありますよね?そういうときはどうします?


あーー・・・それは、やばいね。


まあたしかに、そんなこと考え始めたら眠れなくなるかもですね。


もう御飯食べたから、眠さがこのあと遅いかかっってきて、きっと午後がやばいよ。

2015-04-05

桜が風で雨のように降ってくる。ああ、桜の中を歩いている自分だなと思っている。何も見ていないときに、着ているコートの黒い色が、あらためて黒さとして目に入ってくる。桜と黒を見る。ピンクと黒。この色。はて何やら過去の記憶が、と思って、これはもしや、何年か前に買った服の色の組み合わせか。そういえば当時、店の品揃えがすべてそんな色のパターンばかりだった。僕は店をふらふらしていて、黒とピンクばかりの、今思えばあんなつまらないものを買ってしまって、あのお金は勿体ない。色に酔っていい気分で金を払って、ばかでかい紙袋を下げて帰って。だらしなく欲望のままに消費するのは楽しいものだ。何かに仕えること。忠実であることの安心感。何年か前、それほど昔ではないが、でもやはりもう昔だ。これも思い出としての、かつて自分に作用していた何かだ。その意味も今は完全に漂白されて、白々とした黒とピンクが今ふいに再来した。おばけが出たように。おばけとは、実際こんな感じのものではないのか。お前、誰だっけ?と言いたくなるような。空と地上に境目のない灰色の日。

2015-04-04

会社主催の経営戦略・・・なんとかセミナーに参加。こういうのって、参加してみると思ったよりも面白いもので、少なくとも自分の中にそれまでまったく興味も知識もなかった分野方面の話を聞くのは単純に面白いというのはある。というか自分の年齢でその手の分野に今まで無関心だったというのが会社側的には極めて嘆かわしい事態なのだろうが。


僕の勤務先はIT系中小企業で、僕は入社してから既に15年余りが経つわけだが、で、当時と今とではほぼ百パーセントに近いくらい人員が入れ替わってしまったのだが、気付けば自分が、一人でぽつんと居て、周りは最近入った若い人だらけ。もちろん昔社にいて、さんざん付き合ってきた人々は、今は外の色々な場所に散らばっていて、新たな会社もいくつも出来たし、その人たちとも今でも付き合いもあるが、なぜ自分が今も今の会社にいるのかは、自分にもわからない。なんで?と言われたことも数知れず。その端的な理由はない、と思ったことは何度もあるが、しかし結果的にここにいるのは、僕は勝手な思い込みとして、8年前に死んだ先代社長に引っ張られているのではないかと思っている。これは完全にオカルト系の思い込みで、僕の中で、こういう思い込みが生じたのは生涯初かもしれない。その思い込みが消えたら、また別の方向性もあるのかもしれないとは思う。


まあでもよくよく考えると、僕はわりと論理・科学的思考ではなく因果というかこの世の摂理というか、説明できないような妙な力を信じてしまうような傾向はあったのかもしれない。今日悪いことがあったから、明日は何か逆の良いことがあるだろうとか。あれがおそらくその前の出来事と対になっているのだろうとか、そういう物事の因果性に子供の頃から妙にこだわるところがあったかもしれない。


しかし、この年になると、ああ結局死ぬんだ、しかも、死ぬときって苦しいし恐いし、それを味わうしかないんだ。じゃあ、子供より大人の方が全然しんどいじゃん、というのがわかってきて、その現実を知ることで、妙な思い込みの力が薄れたところはあるかもしれない。

2015-04-02

春らしいとはこの、席替えしたりクラス替えしたり部署異動したり新入学だの新入社だので、色々なことがゼロからで、お互いの顔を見るだけでも新鮮なのが、でも妙に落ち着かなくて、いつもの停滞の底の居心地の良さを誰もが密かになつかしがっているような、その安穏を喪失したことへの、根本的なものがなしさにつつまれているような、誰もがやや翳りを帯びた表情に無理した作り笑いを貼り付けて振舞っているかのような、なぜか不思議と塞ぎこんでしまいがちで、満席の居酒屋も帰りの通勤電車も不思議な憂鬱の色合いが蔓延しているような感じのこと

2015-04-01

http://sothis.blog.so-net.ne.jp/2015-04-01

こちらのブログで紹介されていたパフォーマンスがすげー!という感じ。路上ドラム。ほとんど圧倒的というか、素晴らしい。燃える。心拍数が上がり、血が沸く。モノが云えない。黙ってその場に立ち尽くすしかない。こんなの、仮にもし、桜木町の駅前とかでやってたら、もう終わるまでその場に固まったままで、終電が行ってしまってその日は帰れなくなってしまうだろう。まあ実際は、桜木町の駅前はいつもしょうもないのばっかりやっているので、いつも耳栓して改札まで急ぐだけだが。

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