新宿武蔵野館ロベール・ブレッソン「やさしい女」を観る。ドミニク・サンダが、最初に死体として登場する。ベランダから身を投げて、路上に伏して、頭部に出血の跡。その後、自室ベッドに横たえられた、眠るような表情の死体である。真っ直ぐに身体を伸ばして、素足の先がベッドの柵から少し出るくらいの位置に寝かせられている。それを質屋を営むご主人が見下ろしながら、今までのことを回想するかたちで物語がはじまり、淡々とした約90分の間、自分としては、このわからなさというか、相手をわからない、ということそのものを観ているように感じていた。


結婚して、夫婦となってからも、考え方が違うというか、お互いに何を考えているかわからず、不和となり、疑いをもち、言い合ったり泣いたり病気になったりする。その妻の、顔、髪、コート、シャツ、スカート、手の指、足、靴、立ち姿、後姿、ソファに坐っている、ベッドに横たわり、床に座す、それらの姿ぜんぶを、結婚したのだから、男はその女のすべてのしぐさを、男はそもそもこの女と結婚した自分が、それらをすなわち相手の女を特権的に見ることができるもので、相手からのサインを自分がまず真っ先にキャッチできるもので、求めれば与えられ、それをわかり、相手もわかる。わかることもわからないこともきちんと整理できる。その前提が成立するもので、そういう納得できるフォーマットが与えられるものだと思っていたし、このような女の外見の、このようなしぐさのゆたかなあらわれが内面とぴったりくっついて、自分の妻が自分への応答を返してくれる、さまざまなよろこびやかなしみの反応として返してくれるはずだと期待していたはずである。なぜなら、それこそが夫婦になったということなのだろうから。結婚したなら、さすがにお互いの関係は近しくなり、親しさというものが満ちて、相手の表情を見て、相手の気持ちが伝わってきて、喜びにせよ怒りにせよ悲しみにせよ、お互いに伝達し合うことができて、そこに滋養のようなものがうまれて、夫婦であることで、とても心地の良い何かに満たされるはずじゃないのか。それがいわゆるありふれた意味での幸福というものではないのか。結婚した自分がそれを期待するのは当然じゃないか。


しかし、そうではなかった。どうも、そういうものではないようだ。相手の言葉の、それが何に掛かった、何を指して発されたものかも、それが意志を率直にあらわしているのか、その場を取り繕うために発されたに過ぎないのかもわからず、相手の表情を凝視しても、もちろん何もわからない。何を考えているのか。お前は気前が良すぎるし、本を読んでいるのが好きだし、姿が見えず、何をしているのかよくわからないことがある。美しい立ち姿。シャツのボタン、コートの裾、ふくらはぎに底の薄い靴。路上を歩いていく後姿。どこを見ているのかわからない視線。それらは全く隠されずに、おそろしいほどきれいにはっきりと、ひたすら目の前にあらわれる。しかし、わからない。もうイヤ。ウンザリ、と思ってるのか、私も悪いわね、と思っているのか、もうまったく別の、ぜんぜん違うことを考えているのか、この目の前の相手は、一体何なのか?これはもう、死んだら自分はどうなるのかがわからないのと同じレベルで、わからない。


映画全編通じて、音が鮮烈きわまりなくて、室内にいて窓の外から聞こえてくる街の喧騒の音とか、テレビ放映されたF1中継のエンジン音とか、ポータブルプレイヤーで再生されるジャズロックピアノ曲など、すべてがまるで空から降り注いでくるような感じなのだが、これらの音も何かにぴたっと貼り付いてない、ただ音だけであたりを漂っているだけのようで、何かをわかるための手がかりにもならない。


ブレッソン初のカラー作品なのだそうで、デジタル・リマスターの成果もあるのかもしれないが、夜の景色や、室内の光や、何よりもドミニク・サンダという人物、その人体に降り注ぐ光と色が息を呑むほどうつくしい。