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2015-09-30

「遠い触覚」刊行記念対談


昨日、仕事帰りに池袋まで行って、ジュンク堂保坂和志×西川アサキのトークを聴く。コミュニケーションというのは、お互い共有できる枠の中で通じ合うようなことではなくて、何の共有形式もないのに、一人だけ、声の大きいヤツがいて、なぜかそいつの言ってることが、どこか相手先に伝わってしまうような、みたいな話(かなり意訳というか、そんな意味のこと)が、最初の方にあって、それ以降も、基本的に両者の違いが明確な感じに思えて、保坂和志と西川アサキのそれぞれすごくわかりやすい特徴的な部分がよくわかって、ある意味まるで折り合わないけれども、いつもとはちょっと違う保坂氏のトークが聴けたという感じで面白かった。


やっぱり、記憶の奥底の、性欲と不可分の根源的本能みたいな部分の、さらにその向こう側を…とか思うと、もうそこはすでに、解脱とか禅とか、悟りとか、そういう世界になってしまうのだとして、そして、爬虫類とか、虫とか、ネコとかの脳に行ってしまうのだとして、それはそれでも、たしかに、、と思うが、しかしやはり人間が爬虫類の前で爬虫類の真似をしているような、そういうハマッた情況になってしまうのを想像をしている時点では、まだそれを考える域に達していないのか。微動だにしないワニをじーっと見て、そういえばその話のとき、自分はアリのことを思い出していた。アリのスピード感と運搬能力も、たぶん人間の感覚で感じ取るのは無理で、あれもあれでまた、別の時間と空間のなかに生きている有機体だと思う…とか何とか。で、身体は丈夫であるのはたしかにきわめて重要。車もパソコンも動きが快調でなければつらい。でも身体のスペックは、本当にばらばらだ。かなしくなるほど、皆が別の乗り物に乗っているのだ。でもそれでもなお、食べるとか、飲むとか、出すとか、そういうのを死に近い行為と位置づけて、そこからでも、そのあたりに近づけないか、とか。


最近、ここ数日、古谷さんの偽日記のかなり初期の方を読み返した影響で、自閉症について考えてることが多い。もっと自閉しないといけないように思う、というか、自閉した内側にもっと何かがあるような気がして、その方向を想像すると、今より少し気分が明るくなるような気がするのだ。

2015-09-28

Midnight Lightning


会社を出て、ツタヤに寄るが、何も借りずに帰る。今月中有効のCDレンタル半額券を持っているので、なんでもいいから借りればいいのに、結局やっぱりいいやと思ってしまった。明日も明後日もツタヤには寄れないから、これで半額は終りだが、まあそれはそれでいい。ここ最近、レンタル屋とか中古屋で何を探してるのかといううと、ジミヘンのワイト島のライブで演奏した「Midnight Lightning」という曲で、この曲はもともと「ワイト島のジミ・ヘンドリックス」という古いレコードの一曲目に収録されていたのだけど、その後CD時代になって「Isle Of Wight」というアルバムではカットされてしまって、そのままずっと僕は聴いてなかったのだが、最近「Blue Wild Angel: Live at the Isle of Wight」というタイトルのパッケージで、このワイト島のライブはコンプリートされており、それに収録されているらしいので、とりあえず僕としては、「Blue Wild Angel」か、昔の「ワイト島のジミ・ヘンドリックス」が手に入ればいいと思っている。


正直、ワイト島のライブは、僕は全然良いと思わない。超テンション低いし、ギターも音が出てないし、良い所が見つからないという感じだが、さすがに「Midnight Lightning」だけは…これは、もう超初期の頃に聴いたので、別格というか、完璧なものに思っていて、さらにしかも、もう何十年も聴いてないので、ますます再聴時の期待が高まるのである。つまり「Midnight Lightning」は、他にもいくつか録音はあるのだけど、このワイト島のやつは、僕にとっては特別なのだ。でもワイト島ライブ自体は、僕にとっては大して価値がないのだ。


最近、ジャニスジョップリンの「Cheap Thrill」とか、すごく聴きたいと思うことが多い。(Youtubeに無かったので…)これもたぶん、高校生のとき以来、まったく聴いてないかもしれない。とくに一曲目と二曲目を、あの始まりの感じを、超・聴きたい。いや、サマータイム以外の曲を全部、久々に聴きたい。


ちなみに今、ワイト島のジミ・ヘンドリックスについて昔書いた記事を見つけた。(>>)そんなに、悪い演奏じゃないそうです。

2015-09-27

愛しきは、女 ラ・バランス


ずいぶん前にVHSを買ってあったのをやっと今日観た。この映画が日本で公開されたのは一九八四年。僕が元々、一人で映画館に行って映画を観るようになったのもちょうどその頃の、中学二年生くらいのときで、当時何かの映画を観たときにこの映画の予告編がやっていて、ものすごく観たいと思ったのに、観に行かなかったのだ。それを約三十年経って、ついに今日ようやく観ましたという。


あたりまえだが、ナタリー・バイの姿が、まさに中学生時代の僕が観たときの姿そのままだ。服を脱がされて、細い上半身があらわになり、そのままベッドに倒れこむシーンを見たときの衝撃が、まるで昨日のことのようである(笑)。個人的にはナタリー・バイだけ観ていられれば幸せであるが、ヒモのチンピラ役のフィリップ・レオタールや、刑事役のリシャール・ベリなど、犯罪アクションものの役者の顔として、どいつもこいつもロクデナシ的な外見が完璧過ぎて素晴らしい。あとギャング側もそうだけどむしろ警察側の連中が全員腐りきってるというか、まあ、ナタリー・バイとフィリップ・レオタールの追い詰められていく悲壮感をあらわすためなのだけれど、それでもあのおっさん最後派手に死んでくれないかなと思ってたのに死ななかったのでむかついたりとか、全体的にかなり面白かった。傑作でした。


ちなみに自分が今までで一番映画好きだった(映画が特別なものと思っていた、映画というシステムそのものへの偏愛があった)のが、中学校のときで、高校生くらいになったらその熱は冷めたというか、映画というものを人並みにしか思わなくなったように記憶する。しかし、いわゆる「名作」とか「重要な作家の作品」とかを体験するのは高校生以降だ。でもそれは結局、それを「名作」とか「重要な作家の作品」だと思って観ているので、本当はその時点でもう「死んでる」わけで、そうじゃない、中学生当時の気持ちをずっと持ち続けることができれば、僕は本当に映画好きな人生を歩めただろうけど、結果的には、そうじゃなかったなあと思う。


中学生のときは、映画の作家性などというものなど、想像したこともない。ほんとうに毎回毎回、じつにしょうもないものばっかり観ていた。なぜなら、いくつもいくつも公開される映画のほとんどがしょうもないものばかりで、こっちはそれを事前に選ぶような知識もゆとりも無いし、単なるカンで、何の疑問も感じず観てるだけなんだから。観終わってからも、それを面白いとかしょうもないとか、そんな感想を思う余裕すらないのだ。なにしろ内容以前に、映画を観てるだけで興奮しているのだから、実に簡単で安上がりな坊やだったのだ。


でも、しょうもない映画もあれば、しょうもなくない映画もあって、傑作とか名作もあるだろうし、素晴らしい作家性にあふれた映画もあるだろうけど、でも、今でも思うけど、いいとか悪いとか、そもそも映画の作家性とか、そんなにありがたいものなのだろうか?そんな特定の人間のことなんか、どうでもよくないか?暗いところで映画がワーッとやってるだけで充分ではないかという。


…というか、本当ならそうやって、映画がワーッとやってるのを浴び続けているうちに、一本か二本くらい「とんでもないこと」を体験して、そこから事後的に作家性みたいなものを見出すということなのだろう。ということは結局、僕が中学生のときに「とんでもないこと」に出会えなかった、というだけのことか。

2015-09-26


薄暗い曇空の日で、こういう日がちょうど良くて最近は好きだ。Tシャツの上に薄手のカーディガンを引っ掛けて出掛ける。暑くもなく寒くもない。そして薄暗いし、路面がじめっと半分濡れている。公園の土も雑草たちも重たく水を含んで黒い。歩く分には、それくらいでちょうど良い。濡れた床に直接腰を下ろすとか、地べたに寝そべるのだったら嫌だけど、そうじゃないなら、これくらいでいい。買い物して帰宅。六時半ですでに暗闇に近い。今日はまだ満月ではないと言って空を見ると、聞いていたのかと思うようなタイミングで急に雲間から曇りガラスの向こう側の室内灯みたいなぼやっとした月があらわれる。ネコがやる気なさそうに寝転んで遠くを見ていて、近寄っても逃げず、身体を横たえてこちらに無防備な横腹を見せていて、触られてもあまり嫌がらないが、目を薄く開けたまま、視線の先はさほど変わらない。

2015-09-25

送別会の季節


昨日は飲み過ぎて眠る。今日ももう眠る。ふとしたときに、ことあるごとに、かわいそうな、村中鳴海のことを思い出す。かわいそうな誰かという存在の代表。ああいう女性を、僕が良いとかタイプだとか思わないが、そういう話とは別に、しかし自分の場所とは切れた領域で、気付けばいつもひとりで、冗談を言ったつもりでふと顔を覗き込んだら黙って泣いていたような、かわいそうな存在の誰かの、その記憶というかおそらく過去に実在した出来事。あれからどこへ行ってしまったのか。

2015-09-23

未明の闘争


読了。終わった!さあ、これで自由なのだが、では次に何を?と言えば、「未明の闘争」をまだ読みたいというか、その状態に心身がすでに出来上がっているので、今ならまだ、追加であれば、かなり受け入れられるのだが、作品自体が、たった今終わってしまったので、それならそれに近いもので何かもっと、続きを捜し求めたいような気分も、火種がしつこく消えないようにして続いているが、そういう続きというのはないので、小説はこれでおしまいです。あとはもう忘れていくしかない。


とりあえず、全体でどこが一番良かったか?を確認するためにでも、もう一度ざっと読み返そうかしらとも思うが、それにしても村中鳴海が最後どうなったのかなんて、べつに気になるだろうか?涙が止まらなくて、それで終りだ。オールマン・ブラザーズ・バンドの箇所も、トレンチタウンの下りの部分も好きだ。むしろあの章で終り、というのでも有りだろうが、そのあとさらに続くところが、もわっとした過去に反芻していく欲望的な記憶の、その感傷だけで終わらせず、村中鳴海が、なんであれだけイラつくのかお前は、という余韻だけで終わらせないところが手ごわいというか、まだ長くてうんざりもしつつ、でもついに終盤、ペテロのように、コンちゃんがついに我々の近くまで来る。マーちゃん、コンちゃん、お母さん、美人ちゃんが。


最後の最後まで来て、ああ、こういう終りだったっけ、と思って、雑誌の連載時の方も読み返してみたら、やはり同じだった。何かもっと違う印象で記憶していた。しかし、さすがにこれだけ長いから、最後に出てくる「友達」というのも、ほとんど納得するしかないような、こんな登場人物あるか、というような感じで存在している。…まあ、なにしろ読み終わってよかった、ほっとしている。

2015-09-22

EDEN


新宿シネマカリテで「EDEN」観る。淡々と、二十年。一九九ニ年からはじまって、ニ○一三年まで描いてしまうところがすごい。というか、この主人公と僕はだいたい同い年で、もちろん僕はこの主人公の生き方とほぼ何の共通性も無いのだが、それでもさすがに、この時間の流れ方がもう、なんとも恐ろしいような複雑な気分で見るしかない。


とはいえ描写には抑制が効いており、いわゆる感情・共感主導の作品ではなく、観ていることの高揚とか興奮も、音楽映画であるにも関わらず音楽を聴く楽しさも、ほとんどないと言って良いかもしれない。いや、さすがにそれは言い過ぎで、あの曲やこの曲や、ハウス好きやガラージュ好きなら嬉しくなるような曲がいっぱい掛かるのだけれども、それでもそれはあくまでも背景色という位置付けで、少なくとも上映中はずっと音楽を聴いて楽しもうよ、という映画ではなかった。


なんというか、年取るっていうことの凡庸さというか、諸々のつまらなさというか、まあはっきり言って、この映画は、全体的にはさほど面白くないとうのは間違いないのだけれども、その淡々とした手つきで、クソ凡庸な、面白くなさの、そのありふれた、どうしようもなく紋切り型なかたちにまとめて落としていく意志というか、これをそのように記録し、定着させなければならないという、映画そのものをそのようにまとめようとして、それを実践した意志に対しては、強く共感するし、尊敬に値すると思う。こういう意志をもって撮られた映画というのは見応えがあるし、地味だが、とても大事にしたい作品。


しかし二十年なんて、一瞬の夢みたいなものだな。というかたぶん、二十年なんて大した時間ではないのではないだろうか。おそろしいことだ。これを観て、じつは、誰もがそれを「こんなの、大した時間ではないんじゃないの?」と思うのでは?今から、いまさらのように追加注文で、少なくとも、もう十五年くらいオーダーしちゃったとしても、べつに何とかなるのでは…?

2015-09-21

親密


「未明の闘争」をはじめて読んだとき、ブンとピルル、という名前の付け方がすばらしいと思った。ブンとピルル。すごくいい名前だ。


考えるという行為。たとえば、何年も何十年も、考えている人を撮影して、そのフィルムを何十倍速かで再生したら、子供のような無いものねだりをする様子に見えたらどうか。あるいは、泣き喚いたり怒り狂ってるように見えたとしたらどうか。つまり考えるという行為がむしろ、激怒を何倍にも引き伸ばした状態にして、それを何度もくりかえして、その感情の中に留まろうとすることだとしたら。


愛する者を失って、私は自分の明るさや快活さや楽観性の全部の元がなくなり、今後もう二度と朝の明るい目覚めはこないし、楽しく笑うこともない人間だ。


ベンチで膝枕をされて真横になった景色を見ている。それは、今流れているものを見ている。そして過去の記憶のだらだらと溢れていくのを見ている。


人間がもし認知症になったら、過去さえもなくなるのか。しかし認知症になってもすべてが消えるわけではないのだが、あれとあれが確実に消えたということだけはわかり、それがあまりにも悲しいことだし、辛い。


誰かと会うときなど、この年になるとさすがに、その場所に対して親密さをつくりに行くという気持ちが少しだけはある。共同制作で、その場をつくろうということで、そしてたぶんお互いにその場でつくられた親密さは、終りの時間が来たらその場に置いて帰宅するつもりで最初からそこに集まる。その場がとてもいい時間だったとしても、よっぽどのことがないかぎりは、当初の思いの通りそれを置いて帰ることがほとんどだ。しかし帰宅途中やその翌日など、その場所に置いてきたそれについて思い出して、やっぱりあれは、なかなか良かったじゃないか、すごくよい出来だったのじゃないかと、なつかしさやせつない寂しさと共に思い出す。でもだからと言って、やっぱり持ち帰ればよかったとは思わないのだ。


若いときだと決してそんなことはなく、その場でつくってその場限りで持ち帰らずに去るだなんて、そんなばかばかしいことは一切しない。そもそも、何をつくる気も無いし何を共同作業する気も一切なく、湯水のように他人と会って平然としているし、翌日になって関係の網の目のなかにいたり、また別の関係に絡んだりして、自分や他人のいくら傷つこうがまるで想像範囲の外だ。だから馬鹿だと言うのだしだから若いヤツが嫌いなのだが、今こうしておっかなびっくりな態度でいると、もう既に自分が杖を突いて歩いているじいさんに近いのだと思う。

2015-09-20

千葉の人


Aの家に集まる。千葉郊外。待ち合わせ場所の駅前がすごく静かで、店舗もまばらで、人の気配もなく、ロータリーに面した角の一等地も空き家で、なかなかの寂れ具合だ。ほんとうに何もなく、コンビニに寄るか牛丼屋に寄るしかないという雰囲気だ。一本の広い道が遠くまで走っている両側にはまばらにファミレスやドラッグストアの看板が点在している。ただいつ見ても思うけど、美容院という業態だけは、これだけは都心も郊外も変わらないというか、どれだけ周囲が寂れていても、美容院だけは我関せずの態度で営業しているように見える。実際不思議に思うのだけれども、回りが寂れまくっているのに、美容院だけが都内にある店舗と同じような、まったく同じようなネーミングセンスと外装センスと内装インテリア関連までも含めて同センスの、たぶん同コストパフォーマンスで同価値基準な、まさに揺ぎ無く如何にもな雰囲気を醸し出しつつ元気に営業しているように見えるのはいったい何なのか。美容院の、あのビルのテナントスペースに壁からドアから窓から、なんか如何にもそれらしい感じに作る方式というか、ああいう施工様式というのは、きっとおそらく昔から確固たる確立された何かがあって、効率的で短納期でさっと仕上がるすばらしいプロセスがきっとあるのだろうと思う。郊外において実感させられる、美容院業界の体力というもの。そのメカニズム。ちょっと待ってくれ、まったく何も知らないのにそこまで当てずっぽうに書くものだろうか。


国道356線と、その周辺。道の古さ。ひび割れたアスファルト。曲がりくねる狭い一車線。家々の古さ。歩道を歩く老人。川沿い。土手の勾配。家々、想像した広がりの外側に存在する人々の、その住まいと家族と自家用車。薄型テレビとPS4のリモコン。電車の踏み切り。新興住宅地。中学校のフェンスの緑色の網。錆びたシャッターの商店街。絵の具がこぼれたような彼岸花の赤色と斜面にへばりつくような墓地と、木々と雑木林。見渡す限りの田畑、その向こうの山々。誰もいないようにも見えるけど、さばくの真ん中に忽然とそびえるかのような巨大ショッピングセンターと周辺施設と駐車場と整備予定の空き地からなる広大な領域の広がり。まるでバチカン市国みたいな、城壁に囲まれた国家内国家のような、しかも領域内に入ればどこも黒山の人だかり。


千葉である。人が、屋根の下にはぎっしりで、田畑のひろがる夕日の下には誰もいない。静かな場所でも油断ならない。

2015-09-19

友人の家


A家のご実家で、Aと、Aのご主人と、Aの子供二人(三歳と八ヶ月)と、Aのお母さん。妻と僕と、友人B。妻とAとBは大学時代の同級生、僕と友人Aは同地元で小学生時代から知り合いで母上にも何度かお会いしたことがあり、そもそも妻と知り合ったきっかけもAの仲介でだった。AとAのご主人の結婚は六年前くらいで、僕は二人が結婚してからAのご主人と知り合ったが、共通の知り合いはいる。友人Bと僕は初対面ではないがちゃんと話したのは今日がはじめて。BとAのご主人の共通の趣味はトライアスロン。皆、酒を飲まないので僕も飲まない。こうして皆でわいわいと過ごしていながら、自分の体内にアルコールがまったく摂取されていない状態を意識するのはとても不思議な感じ。延々と再生され続ける終わらないレコードのように三歳の子と八ヶ月の子の泣き声や喜びはしゃぐ声。A夫妻と母上がそれをあやして抱っこしてごはんをあげて寝かせて遊んであげての合間に女性三人が中心の話が、妻とAとBの生活それぞれの違い、互いの、あなたはそうで、あなたはこうで、わたしは今こう、でも後姿と歩き方ですぐわかった、この前会って元気だったよ、たくさん食べてね、残すと勿体ないからこれも取ってね、でも最近階段のぼると息切れするのよ、男の人の食べ物の好みは保守的、お母さんが作ってくれるから、さいきん物忘れがひどくて、神経衰弱ってなんだっけ、そこから説明?モノをよく落っことすのね、今は音信不通になっちゃった、フルマラソンは三ヶ月くらい練習すれば完走ならできる、いつもそうやってずっと立ち上がりたくて何かに掴まって、左上の顔が私で下のちっちゃい虫みたいなのがお兄さんだって、泥に触るのが嫌いなのね、姪から親戚がほしいって言われた、でもあのときは若いからできたんだよ、急須の蓋閉めて少し蒸らさないと美味しくないんじゃない?感受性豊かなのよ、帰りに、かにやに寄ってけばいいじゃない、やっと涼しくなったね、日が短くなった、コテンと寝ちゃったのね、秋の虫の声ね、

2015-09-18

尾久


はっとして目を覚ましたら、見たことのない駅に停車中である。「ここ、どこ!?」と思って案内板を見ると、尾久と書かれている。「尾久?尾久ってどこ?栃木県かしら」と思って一瞬絶望に打ちひしがれたが、とにかく情報収集を、、と思って調べたら、何のことはなくて上野の次で、たった一駅乗り過ごしただけだった。それにしても、尾久なんてはじめて聞いた。「寝てたら乗り過ごした。今、尾久。これから戻る。」と妻にメールしたら「尾久ってどこ?」と返事が。尾久は北区だ。でも実感が湧かない。ほんとうに実在する場所なのか、一夜明けても、まだ心のどこかにあやふやな思いがある。

2015-09-17

Some Girls


「未明の闘争」ほとんどけじめなくだらしなく、女性らしきぼやっとした想像的存在のかたわらでくつろぎながら想像が動き回ってるような雰囲気が延々と続く。そもそも真夜中にアキちゃんが訪ねてくる時点でものすごく妙な気がするし、アキちゃん=篠島=幽霊説もありかとも思うが、続けて妻の紗織との初対面にシーンにおける紗織の苛立ち、さらに唐突な隣人三池さんの娘さんの登場があって、不倫の山本さんの話があらわれ、そして村中鳴海が出てきて、これら女性たちのこちらをまるで見ない勝手な行動と苛立ちの醸し出す佇まいがあって、その匂いだけが残るようで、なにしろ、すべて真夜中からはじまっていて、いったいこれらの女たちは別々の人間なのか、それとも何かがばらばらになってるだけなのか。なにしろひたすらズルズルな心地よさだ。小説の主人公というのは、女を登場させるためなら、ひたすらモテてもかまわないということだとも言えるし、いや、それは嫌だと、そのあたりにこだわってしまうと、泥リアリズムになって泥のようになるのだろう。


女がいっぱい出てくると、ストーンズの「Some Girls」を思い浮かべてしまう。でもこの曲の歌詞は、対訳で読んでみてさほど面白いものではない。僕が勝手に思っている「Some Girls」という曲の魅力と較べると数段劣っている。では僕が勝手に思っている「Some Girls」という曲とは何なのか?ということだが、さすがにそれは、音楽だし、しかも想像上のことなので、まったく説明不可能である。

2015-09-15

たべすぎ


食べ放題だから行こうとYが言うので六本木に行くが、結局満員で入れなくて、その場で他の店を探して、正直食べ放題なんか食べたくないので、その展開は嬉しかったけど、Yが相手ならどの店がいいとか何が食いたいとか余計なことは言わず、言われるがままなので、六本木なのに超安い店だというので、おお、そこでいいよ行こう行こうと言って、行って、そのあと店の窓から見下したところにある店が、あれも美味そうだと言って、そうでもないでしょとか言って、でも結局そこに行った。完全にたべすぎ。たぶん僕は、六本木交差点に行ったのは生まれて初めてのはず。あのROPPONGIと書いてあるヤツをはじめて肉眼で見た。

2015-09-14

おじさん


一生懸命説得したい、というか、なんとかして自分の考えを伝えたいと思うような、目上のおじさんなんて、一人もいないからね。


みんな、死んじゃったからですか、生きてる人は皆、ダメですか。


なんで生きてる人は、みんなダメな感じなのかが、不思議だけど。


でもそれはあなたが、なんとかして説得したいと思うような強い思いを、ほんとうは持っていないからでしょ?だから、そういうおじさんにも出会わないし、いつのまにか、あなたがそういう、どうでもいいおじさんの仲間入りをする、ほんのすぐ手前にいるんじゃないの?


なるほどなるほど。でも僕は若い人から何も頼まれ事はしないから。


しますよしますよ。若い人はすぐに来ますよ。それはそういうものです。あなただってよくご存知でしょう?


僕は嫌だな。僕は嫌だ。僕は逃げるよ。そんなのは、冗談じゃないな。耐えられないよ。


いまさら遅いです。いまさら遅いです。お金だって必要なんです。ひきつづき、しっかりやって下さい。もっともらしくすることが、あなたの仕事ですよ。ほら、おろしたばかりのシャツに着替えて、しゃんとしなさい。はたらきなさい。


居てほしい人ほど、今ここにはいないね。死んでほしい人ほど、死なないのにね。


あなただって、その後者の行列の最後尾に並ぶんでしょう?私はどっちでも、いいのよ。でもあなた、もう後が無い自覚はあるのよね?だったら、もうちょっと性根を入れて、今抱えてることをなるべくきれいに引き継げるようにしたらどうなの?皆さん、しっかりやってくれてるじゃないの。皆さん、とてもいい人たちばかりよ。あなた、これであなたが失敗したら、それはあなたが全部の責任を背負うのよ。あの可愛い若い皆さんの人生も含めて全部よ。


お前は大げさだね。わかったわかった。でも、お前の思ってるのと、俺の仕事はちょっと違うんだけどね。でもまあいいや。わかった。俺は買い物に行くよ。買いたいものは何だっけ。あとでメールしてくれればいいや。もう俺はいくから。自転車で行くから。いや歩くか。歩く歩く。ふらふら散歩しながら、マルエツまでゆっくり歩くから。


雨が降るかもしれませんよ。あんまりのんびり歩いていると。


雨の降らないうちにだな。わかった。雨の降らないうちに。僕はー。帰るよー。


燃えないゴミお願いね。

2015-09-13


夕方五時ごろ、少しだけ夕焼けが。前見たときほどではないが、それでも鮮やかな色彩が、唐突に空の一部を染めていた。ベランダに出て、写真を撮ったりもしたけど、でも夕焼けってやっぱり視覚的というより体感的なものだなと思う。自分を含む全体が色につつまれるから夕焼けなので、空の色だけの問題ではないんだなと思う。そのオレンジ色の独特な感じ。ありえないような、あなたやわたし皆に降り注いで、体内までその色に染まったみたいな、雨のように降る色。


昨日もそうだったけど、西日に少しずつ季節の変化があらわれている。沈む手前の太陽の光が、ほぼ真横から物体のように目にとどく。前方の何をみてもその光が目に入るが、眩しいというよりも目にうっとうしいと思う程度だが、以前よりももっと真っ直ぐにやわらかく、すっと届く。


子供の自転車が大きく旋回して遠ざかる。犬が振り向きながら自分を追い越す。


春菊が高かった。

2015-09-12

Exhibitionist 2


Jeff Mills「Exhibitionist 2」DVDをざっと観た。最近のJeff Millsをそれほど熱心に聴いてなかったので、このDVDへの期待も薄かったのだが、観たら、これは良かった。まさに、必見である。Jeff Millsのようなミュージシャンにとって、プレイしている映像というのは、やはりたいへん説得力があるというか、自分のやってることを明確に伝えることの出来る強烈な手法だ、いうこととも言えるだろう。というか凄い音楽の作り手が、音だけでなく「見た目」においてもどれだけ凄いのか?という問題は昔も今も変わらず残っていると思う。


そもそもクラブミュージックというのが、本来その成り立ちとか生成過程への興味を持ちにくいもののはずで、なぜならそれは基本的な前提として「終りの引き延ばし」を最大目的とした営みだからで、だからそれはつまりクリエイティブな仕事というよりはメンテナンス的な仕事というか、保守運用的な属性をもつ仕事だからなのだと思う。


デザイナーや画家や小説家が作品を作る過程を追ったドキュメント映像と、消防士や医者やインフラ監視担当者の仕事を追ったドキュメント映像があったとしたら、クラブミュージックのDJの仕事の映像は、後者に近いのではないかと思う。というか本来そうであるべきだろうと思う。


Jeff Millsが2006年にリリースした「Exhibitionist」は、まさにそういう内容だったように僕は認識している。DJという登場人物の仕事を端的に示した、あれば画期的な映像であり、超人的・神業的な保守運用の仕事、すなわち今このテンション、を、いつまでも持続させるための果てしないチャレンジ、という大きな目的をはじめからもたず、むしろ動きながらそれを生成する(Purposemaker!!)営為の、とてつもなく鮮やかな具現化だと思うし、今でもしばしば観返してしまうほどだ。


そして、さて約10年ぶりの「Exhibitionist 2」であるが、前述を踏まえあえて一言で言うと、DJよりはクリエイターとしてのJeff Millsにスコープを定めた作品という印象である。


DVDの1枚目ではいつもながらのDJプレイ(Exhibitionist Mix 1 part 1)が収録されていて、これが冒頭から予想外に素晴らしいのだが、これが後半(Exhibitionist Mix 1 part 2)になると、歓喜の領域へと上がる。TR-909を使った、まさに「ブラック・マシン・ミュージック」(©野田 努) の根源的な何かをまざまざと見ているような気になり、ほとんど言葉を失う。


DVDの2枚目の(Exhibitionist Mix 3 TR-909 Workout)もそうで、このTR-909というドラムマシンが、Jeff Millsにとって如何に重要かという、いや重要というよりもこの機材こそがJeff Millsそのものであって、人なのか機材なのかほぼ判別不明という領域にまで、これは達しているといえよう。


いや、おそらくこれは、いつまでもたっても古い機材ばかり使っていて、いつまでたっても同じような音楽ばかり作ってるだけの、べつにどうこう騒ぐような音楽でもないのでは?単なる過去の遺産なのでは?と思う人もいるのではないかとも思うが、でもこれはきっと、そうではないのだ。これが今の最新の音楽としてリリースされていることに、大きな意味があると僕には思えてならない。これは重要な作品である。


DVDの2枚目の(Exhibitionist Mix 2 featuring Skeeto Valdez)はどうか。ドラマーとの即興セッションらしいが、アンサンブル、というよりは、聴き較べているような、映像の、表情の穏やかさとは裏腹に、お互いが異様なほど牽制しあっているような、不思議な印象のMixである。驚かされるのは生ドラムセットの音が過激なまでに調整されており、中低音だけでシンバル系の音はほとんどオミットされているに等しいような処理が施されていることだ。ミルズの909のサンプル音よりも、ドラムのライドやクラッシュの音の方が小さいというのは異常な感じがするが、それはそれで、そういう意図を感じる。Skeeto Valdezのプレイは、このように設定された世界の中では、ほとんど人間というやわらかい生き物が織り成すとらえどころのない有機的なサウンドの一纏り、というように聴こえてくる。いや、そのソロプレイそのものは興奮させられるようなものだが、しかしこのセット内に組み込まれることでちょっと前例の無いような異化効果をこうむってしまって、ひじょうに面白いことになったと思う。人によっては(こんなセッション、失敗では?)とも思うかもしれないが、僕はそうは思わなかった。


DVDの2枚目の(Exhibitionist Studio Mix)、これはまさにクリエイターとしてのJeff Millsそのものを映像に収めたということになろう。おそらく自室で、床に機材を並べてひたすら作曲していくJeff Mills本人を捉えている。TR-909と、TB-303と、シンセと、シーケンサーと、ミキサーと、あと何か一個か二個。たぶん大変シンプルな機材構成だと思う。これほどシンプルで、こんな単純な手法を、俺はもう二十年以上やってるんだぞ、ということなのだと思う。


しかしJeff MillsのDJプレイでの、あのミキサーのイコライザーやフェーダーを操る指使いのせせこましい感じとうか、ちょんちょんちょん、ちょんちょんと指で少しずつ叩いてフェーダーを下げていったり、クリッ、クリッ、クリッ、クリッ、クリッ、、ちょんちょんちょんとツマミをいじったりしている、あの異様な操作方法は、ほんとうに凄いというか、凄いと思うけど、あれ、ほんとうに意味あるのか?という気持ちも少しは感じる。とくにイコライザーのいじり方の細かさはすごい。あれ、たぶん聴いている音の細かさが自分の十倍くらいの解像度で聴いてると思う。そうじゃなければあれほど頻繁にいじる必要ないと思うし。でも思う思うと、いきなり出し抜けにガッ!とフェーダー下げて真空の無音を作ったり。あのへんはいつまで経っても、何年経っても、やられたー!となって興奮するわけだが。


で、(Exhibitionist Studio Mix)でJeff Millsが、まさにクリエイターとしての…ということでもあるとは思うが、正直クリエイター的なんていうことよりも、たぶんこの作品の中でもっともJeff MillsJeff Millsである凄みを感じさせるのは、やはりTR-909を使い倒しているシーンなのだろうと思う。909のハンドクラップ音をすさまじい指さばきでフェード操作しているJeff Millsと較べたら、自室のスタジオで床に座ってツマミをいじくって作曲してるJeff Millsは、まるで楽器屋で買ったばかりの機材を、実家の二階の自分の部屋に並べてプロデューサー気取りの田舎の高校生のようである。でも、Jeff Mills本人のコメントで、貧乏な時代にそうやって作曲していたから、今でもこのスタイルに慣れているのだそうで、それを聞いたらなんとも微笑ましい気持ちになった。

2015-09-10

Cloud Library Music


昨日買ったばかりのCD3枚をiTunesから取り込んだのに、1枚しかiPhoneに入らなくて、おかしいなと思ってたら、iCloud ミュージックライブラリが有効になっていたので、その1枚はCDからiTunesを経由して入ったのではなく、最初からApple Musicにあっただけ。(だから別に買わなくても良かったじゃん…)というのが判明して、かなりムカついて、今日は帰りの電車の中でいろいろ調べた。


Apple Musicは月額980円で音楽何でも(Apple Musicにある音源なら)聴き放題というサービスで、わりといいかも、と思っていたのだけど、このサービスを使う場合、曲をオフラインで再生できるようにダウンロードしたいのだが、そうなると普通のローカルにあるライブラリではなくて、iCloud ミュージックライブラリに音源データを格納しなければいけないのだが、これをONにすると、Apple Musicのデータも、自分の手持ちのデータも、等しくすべて入っていくのだが、最大25000曲の制限があったり、それを使い始めると、あらたにCDをインポートしようとしてもできなかったり、かなり苦しい仕様である。今、自分のiTunesには30000曲強入ってるので、まあ、最大20000曲くらいに抑えて、というのは、まだ許せるかもしれないが、CDから追加できないのは、さすがに厳しすぎる。


しかしApple Musicは、まあ、その底力はたしかに凄い。別に、今まで聴いてきたPC内の音源は、今後増えていくものも含めて、もう別の携帯再生装置とかで聴くようにして、iPhoneはもうApple Musicの世界だけで使えば良いのかも?という気もする。


今後、どっちがいいのか悩む。でもさしあたり今日は、買ったCDを聴けるようにした。


・・・間違えたみたい。ライブラリを適当な数にすれば、新たなCDもインポートできるってことか。そのかわり勝手にエンコードされると。でもそれでもいいかも。こんどヒマなときにやるかも。

2015-09-09

降る


雨である。帰りが遅い。時間がない。しかし電車は走る。明日も。明後日も走れよ。雨も降れよ。買ったCDが届いたけど聴くこともできない。iPhoneに取り込むことさえできない。いや、できてた。忘れてた。

2015-09-08

旅行


雨ばっかりだな。でも雨でいいや。そうやってずっと降ってな。働いてんだよ。もうだめ、疲れた。休みたい感じかも。着地点見えないし、きゃーきゃー煩いこと毎日言われるし。まあ、なんとかなるか。なんとかならなくても、なんとかなるようになるか。どうだか。もう今後は、しばらく、ぼんやりした時間をほしいな。なんか、この現場って長くなればなるほど忙しくなるのな。普通逆だと思うけどな。まあ、いいことでもあるかもだけど、でも疲れるな。え?うん。旅行ね。行きたいとも思わないけど、無理やりでも旅行でもした方がいいのかもね。旅行も最近ワンパターンだけど、でもそれはそれでいいから、やっぱりどっか行くのがいいのかもね。かたちとしてね。昔は、二拍とか三泊とか普通だったけど、ここ十年くらい一泊旅行だけだね。それ以上だと疲れるしな。別に二拍してもいいけどな。でも一泊でも充分だけどね。まあいずれにせよどっかいく?でも、なんか面倒くさいよね。

2015-09-07

素人


仕事は、月曜の朝から煽られて煽られて、きわめて不快ながらも、こうしてやたらとケツを叩かれる感じは、妙になつかしい。こんな言い方だと、なにがあろうと泰然自若、というか、傲然と構えてる感じに、思われるかもしれないけど、そうではなくて、超・てんてこまいで、あたふたとして、申し訳ございませんから始まるメールを打ちまくって、打ち合わせでも何処を見てるんだかわからないようなだらしない態度で、相当ひどいありさまである。それは、相手が客だから、しょうがない。サラリーマンもいろいろなのです、客商売なのです、サービス業なのです。でも明日以降も憂鬱だ。というか、時間がなさ過ぎる。…ここ一ヶ月くらいかけてまとめていた文章をざーっと読み返して、これはやはり、単なる素人だと思った。これは、はずかしい。目の行き届いて無い、直すところがいっぱい。どうやら、これからが本番らしい。

2015-09-06

郊外の


都心から電車で一時間も乗って、降りた駅の周囲をふらふらと見渡しながら歩いていると、これは寂れているというより、日曜の午後にしては人がほとんどいないことの方が、如何にも郊外という感じがした。駅前なのにとても静かでものの動きが少ない。ロータリーから、広くて真っ直ぐな道が伸びていて、それが数百メートルほど先で国道に交差するのが見える。その両側には商業施設や店舗が並んでいる、というか、点在している。歩いていると、空き家も多いし、取り壊されて土地だけになっている場所も多い。取り壊しの途中で放置されたような建物もある。なんとなく全体的に、西部劇に出てくる寂れた町のセットを歩いているような感じもする。しかし意外な一角から新興の分譲住宅が広がっているのを見かけたりもする。静かだが、老人も若い人も歩いているのとすれ違う。高校生もいる。車の行き来もある。でもやはり、全体的に静かだ。道が、広すぎるからかもしれない。ここから自分の実家までは、歩いてニ、三十分というところだ。だから昔は、数え切れないくらい何度もこのあたりを歩いているはずである。しかしこうして、久々にその雰囲気を味わっていると、自分も東京に住んで、もうそれなりに長い時間が経ったのだといまさらのように思う。それでもたかだか十数年だけど、今見ているこんな雰囲気のことを、すでにすっかり忘れている。東京と言っても僕の今の住まいなんかはかなり田舎に近いが、それでもさすがにこの雰囲気は無い。今住んでる場所の方が、良くも悪くも、もっと様々な、うごめいているものの気配があると、あらためて実感される。でも僕の物心ついてから二十代の終りくらいまで、僕を取り囲んでいた環境は、まさにこの感じだったわけで、たしかにこうだったかもしれないとも思う。

2015-09-05

六時


昨日は大切な話もしたかもしれないけど、僕も酷いから、酔って喋ったり聞いたりしても、あとでほとんどおぼえていないというのがある。今日も一日在宅。夜の六時頃から買い物に出ただけ。しかし、この季節の六時という時間のキレイさに目をみはる。ちょうど空が青から黒に変わる時間。景色全体が室内のような。細かい光が車のボディや店の看板に全部反射して一々きらきらしていた。すみずみまでよく見えるのに、すべてが一様に沈もうとしていた。いままで何度も前を通り過ぎたことのある通りの店なのに、窓の大きい店はどの店もかなり魅力的に見えた。あれなら、皿の上で、油がきらきらしながら、口元まで油で光りながら、座って飲みながら、窓の外が暗くなっていくのを見られるのなら、きっといいだろう。しかし、ほんの数分だけのことだ。

2015-09-04

洋梨のシャルロット


テレビを見ていたら、お菓子を作っていた。


ボウルに何かと何かを入れて、粘りが出て、ヘラにへばりついたまま形が変わらないくらいの固さになるまでずっと掻き混ぜて、というか、あわ立てていた。それとは別に、鍋に火をかけて、また別の何かをあたためながら掻き混ぜて溶かしていた。それを大体八十三度くらいまでの目安であたため、そのあとで最初にあわ立てたものに四分の一くらい加え、きれいに混ざったようなら、残り全部をくわえて、ひきつづき掻き混ぜる。そのとき、ボウルの下には氷水を入れて、温度を冷やしながら混ぜ続ける。


そんな工程が延々続き、なんて面倒くさいのだろうか、こんな面倒くさいことをするなんて、ほとんど理解しがたいと思った。お菓子作りが好きな人は、もう年がら年中、こんなことばっかりやっているのだろうけど、よくよく考えると、これはもの凄いことだ。あれだけ手間をかけて、あれだけ面倒臭い工程を重ねて、たかだかあれだけの、僕なんかは正直、ぜんぜん食べたいと思わないような、あんな、ちまちまとしたものを作るのである。それはもちろん、僕が甘いものにそれほど興味が無いから、そういうことを言うのだが、でもそれにしても、労力に比して報われる要素があまりにも少ない。信じられない。ほとんど無償の奉仕活動に近いのではないかと思った。


それこそフランス料理とかもそうで、ちゃんとした料理は、もう気が遠くなるような工程でできあがるものだ。コンソメスープなんかを一から作ってるような店など、ほぼ狂気の沙汰と言っても良いかもしれない。


まあ、あれだけの手間をかけて作って、出来上がって、それを供したら数秒でぺロッと食べられてしまったり、あるいはいつまでたっても手を付けてくれなくてテーブル上に置かれたまま次第に室温に馴染んで駄目になってしまったり、手塩にかけて作られた可愛い作品たちの辿る運命を思うと、かなしいものがある。作り手と受け手の間に広がるこの絶対格差。僕なんかに食べられてしまうお菓子ほど不幸な存在もないだろう。いったいなぜこの子はこの世に生まれてきたのかと問いたいくらいだ。


高校生の頃、美術の予備校に通っていて、授業中は皆で何時間も黙って絵を描いているのだが、あるとき、ちょっと集中力が途切れて、ふと周りを見回して、当然周囲もモチーフを囲んで同じように絵を描いていて、そのとき向かいにいた女の子が、俯いていくつかの絵の具の瓶を逆さにしてパレット上に絵の具を出してそれをナイフで混ぜて調合しているのが見えた。残り少なくなった絵の具を、瓶の底を叩いて最後まで出そうとしている。パレット上に絵の具がぽたぽたと落ちる。それをナイフで集めて、混ぜる。


それを見ていて、突然ものすごい空虚感におそわれたのを思い出す。あれ、ここで我々はいったい、何をやっているのかと。自分も、向かいのあの女もだ。これはいったい何なのか。ああして、瓶の底を叩いて、絵の具を混ぜて、また画面に置いて、また俯いて、絵の具を出して…。まったく、お菓子作りが無償の奉仕だとしたら、絵を描くのは狂人のボール遊びみたいなものかもしれない、というか。


空虚というより、その女のことが、どこまでもかなしい存在に感じられたというか、ほとんど絶対の孤独の中にいる一人の人間を見たというのか、何か得体の知れない、今、僕は、ものすごくかわいそうな人を、目の前に見ていると思った。この、救いようのない、かわいそうな感じは、いったい何なのかと思って、しばらく呆然とした。


しかし、手間の割には報われないから、と思っていたわけではなかった。それを面倒くさいとか、手間が掛かってる、というような意識は別になかった。

2015-09-03

いつの日にか、一億の人間が


オフコースの「一億の夜を越えて」が、こんな歌だったとは。


もっと、全然そうじゃないと思っていた。いきなり目隠ししてアクセルを踏み込んで自殺してしまえ、俺だけ、飛ぶぞ、夜の海に、的な、その、暗黒な疾走な感じを、歌ってる歌だと、完全に勝手な思い込みで、そう思っていた。


まあ、そんなわけがない。今、ふと思い出して聴いてみて、歌詞を確認したら、なんか全然、思ってたのと違うし、普通に単なる、俺はやるぜ的な、普通の歌に過ぎなかった。


まあ、オフコースだし、そんなこと、冷静に考えたら、すぐわかることではあるが、でも子供の頃の思い込みというのはすごいし、むしろずっと、そう思い込んでいたほうが良かったかもしれない。


いくつもの靴を はきすてた

いくつもの星が 流れた

いつの日か 一億の人間を

誰かが嘲った

いいさ。いいさ。向こう側へ

突き抜ける。向こう側へ

あいつがイッてる、あいつがイッてる

彼女はハイになって

毎週、日々、毎時…

向こう側へ

ハッハッハッハッハッ!!

2015-09-02

ルビー


ぐずついた、どんよりとした、さえない天気だけど、むしろむし暑い。むしろむし暑さのなかに、まだ少しは、八月的な何かが混ざっているような気配もある。そりゃそうだ。まだ九月になったばかりで、例年ならまだ酷暑の日々でもおかしくない。でも個人的にはこのまま、このままどこまでも薄暗く陰気な雰囲気になっていただきたい。夜もどんよりとしていて、それでよろしい。でも今夜はグレープフルーツ(ルビー)の、冷蔵庫の中でちょっと悪くなってしまったような色をした月が、夜空に出ていた。少し欠けたかたちで。

2015-09-01

Janet


まあ、三十過ぎの女が、唐突にこれだと、あまりにも渋すぎはわかってます。はい、指摘される前に自分で言います。でも今日は違います。ていうか、今年は、これじゃないです。もっと、かわいいのを聴いてます。私は個人的には、もう春から夏にかけてずっとJanet Jacksonです。もう、ずっとJanet Jacksonです。私は今日はそれで推します。


最初はレンタルで借りたベスト盤一枚を聴いてたらハマッて、すぐ物足りなくなって、中古レコード屋で結局全部のアルバムを入手して、Janet Jacksonの中古盤、全部安いんで。


でもJanet Jacksonはかわいいです。いまさらですが、かわいいです。声のかわいさと、歌い方ですね。それと音ですね。豪華だし、きらきらしていて、充実してる感じで、やっぱりJanet Jacksonは、ほんとうにすごいし、えらい。かわいいです。


声が人の声に聴こえないような、そういうところがいいです。なんか非人間です。温か味ゼロです。


曲がすごく豪華で、がーんと全体が、すごくちゃんと、よくわからない、ニセモノっぽい、安いのか高いのか、価値が良いのか悪いのか、まあ、ニュアンスなので、伝わらないです。Janet Jacksonのそれは、ほんとうに音のシャワーですね。ジャム・アンド・ルイス本当に天才ですから。

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