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2015-11-30

印刷


ちょっと、印刷したいなと思って、でもプリンタはかなり昔に、捨てちゃったから、そういうときはセブンイレブンのネットプリントが便利ですよねと思って、印刷物を登録しようと思ったら、百枚以上は受け付けてくれないことがわかって、じゃあ、どうしようと思って調べたら、今プリンタの一番安い機種だと、アマゾンで三千円切るくらいの値段で売ってるのを知って、まじか!と思って、思わず買ってしまった。安い、が、でも、大丈夫なのかしら。さあ、どうなんでしょうか。

2015-11-29

JIMI


「JIMI:栄光への軌跡」をDVDで。エクスペリエンスがデビューする前後の66年〜67年を背景に、当時ロンドンにいた、ジミヘンやリンダ・キースやキャシー・エッチンガムやチャス・チャンドラー達のことが、けっこうゆっくりとしたテンポで描かれる。音楽映画の要素が薄いので、聴いて盛り上がるような映画でもなく、伝記映画として対象に対してちゃんと距離を保ってますよという感じ。というか、ジミ本人にはあまり踏み込まず、近くにいた女性たちを通して色々と映画に厚みを加えたかったということかもしれない。しかしリンダ・キース役のイモージェン・プーツという女優はちょっと誰が見ても容姿がきれい過ぎる感じで、もうちょっとおバカさんな雰囲気の人のほうが良かったような気もするが(実際のリンダ・キースがどういう感じの人だったのかは別として)。


日が短いので、一日があっというまに終わった。

2015-11-28

スズカケノキ


一年ぶりに、小石川植物園に行く。でもなぜ小石川植物園に行くのか?妻が行こうというからだけれど、でも、いや、それだけではなはず。もう何回も行ってる。また今年も、この季節だし、それなら行こうかと思うのだが、何をしに行くのかは、よくわからないのだが、それもいつものことだ。とにかく行けば、行ってからそこをうろうろとするのだ。それに、行く途中、電車の中で本を読むのだ。そのことを、意外と意識している。本を読む目的で外出していて、外出先の場所や催しが何なのか、現地まで行ってあらためて思い出したりすることもある。しかしそういうときに、植物園は、ことに小石川植物園は良いのだ。さすがに、年一度か二度は来るだけの事はある。そもそも、植物園の手前にある播磨坂がなかなか良いのだが、今日は冬の入口にある、ふと気の抜けたような、風もなく穏やかな、晴れ間の日の光が音もなくただ降り注いでいるだけの、まったく無意味に何でもない微温的な時間のなかを歩いているだけで、まったくこういう休日を過ごしていると、自分がほんとうに虐げられた者たちの犠牲の上でのうのうと生きているのをぼやっと悪い予感のように感じながら、ぎっしりとした大気を壊しながら歩き進むだけだ。それは下らないことで、今こうしているさなかにも、昨日のやり取りを請けて今日も引き続き仕事をしているだろうという連中がいるということを想像しているからだが、それはそれで、僕はこうして冬の入口の大気のなかにいるのは、それはそれで、あれはあれなのか、そう思って、それがこうして僕を含む何もかもを支えているのだと思って、その場所で努力せよと言い捨てて、僕は、今日、小石川植物園の、小石川植物園の、入口を抜けて、上り坂を上がって、この木々らのありさまを。そしてようやく植物園に来てはじめて、あたりを見回して、ゆっくりと歩いて、スズカケノキの、目の前にそれが立っているのを見たら、去年も見たことを思い出して、それにしても、と思って、いつまでもぼんやりと鑑賞しているしかないような、とにかくこの木は、言葉を無くした状態でぼーっと見ていることしかできず、その大きさと形状、肌合いを、現実のものとは思えない何か、いや、こうして現実に在る以上、それが現実なのだが、だとしたらこの場所が、いつもの空間ではないと考えたほうが良いのかもしれず、いずれにせよここでかりに写真を撮っても、おそらくそれはは何の役にも立たず、目の前にスズカケノキがただ在るだけで、たぶんこれは、むしろ思い切って、木というよりも、鯨とかその類の、巨大な海の生物と思った方がいい。またはここが、海底と思っても良いかもしれない。そのくらい思わないと立ち去れない。とにかく、この木は生き物で、とくに上の方へ行けば、もはや人間の想像をはるかに越える領域の出来事を、その場にもたらしている。それは人間にはまったく手の届かない領域で、木が昔から自分の都合で、勝手にそうしていることらしかった。日本に、明治時代に、はじめてやってきたスズカケノキであるが、彼自身にとっては、そんなことは、大して問題にするほどの価値も無いように思われた。

2015-11-27

STAR WARS


18日になったら、映画館に行くんですよ、と言うので、あ、そうなんですか?スター・ウォーズもう来月からやるんだ?と、それをはじめて知る。そうなのか、もう公開なのか。早いな。でも僕は個人的には、少なくとも今のスター・ウォーズは全然興味ない。「子供の頃はねー。とにかくジェダイまでは夢中でしたけどね。ジェダイは、小学生の頃、映画館で僕は観ていますよ。あれは、もう、映画館出るときにはすでに人生変わった後ってくらい、超・衝撃でしたね。」たしかにジェダイは、まさにそうだった。スターウォーズはジェダイの復讐(今はジェダイの帰還と言うらしい。それもさっき、はじめて知った。)までしか知らなくて、それ以降に作られた三作もたぶん観ていると思うけど、内容は完全に忘れてしまった。


しかし、それでもスター・ウォーズの話題でわいわい喋ってると、すごく時間が「もつ」のは不思議だ。みんな、目を輝かせるのがわかる。みんな、ほんとうにそれが、大好きだな。ある場において、たとえば、同席している女性を、とりあえず、置いてきぼりにしたければ、そういう雰囲気にしたければ、その手の話をはじめるのがいちばんだ。

2015-11-26

Exit Music


その曲名、よく思いついたね、と言いたくなる曲名。というか、曲のタイトルに、何とかmusicとか、何とかsongとか、何とか曲とか、何とか歌とか、小説のタイトルに、何とか小説とか、何とか話とか、映画のタイトルが、何とか映画とか、それって…。自分のやってることの、たとえば自分の仕事内容が、何とか何とか仕事、とか、あなたの趣味は?と聴かれて、少女趣味です、みたいな、あるいは、家族構成は?と聴かれて、核家族です、とか。好きな音楽は?行進曲です、とか。

2015-11-25

原節子


帰宅して、食事しながらついているテレビをなんとなく見てたら、ニュース速報で原節子が95才で死去というテロップが流れる。あ、ついに、これを見てしまった。という気持ちと、あ、ではそれまで存命だったのか、という気持ちが半ばした。原節子が死去、というニュースを、いつかどこかで目にする日がくるかもしれないと、はっきり考えた事はないけれども、しかし頭のどこかにはそれが全く無かったとは言えず、さっきふいにそれが実現してしまって、しかしそれでむしろ、それまで僕が生きていた世界は、あの原節子も同時に生きている世界だった、ということの方が、なぜか不思議なことのように思えてしまう。


先日DVDで観た「秋日和」のラストシーンは、娘が嫁いだので今まで二人で暮らしていたアパートに今日から一人暮らしとなった原節子が、寂しそうに一人ぼっちで寝床に座って、何かを思いながら俯いているシーンであった。しかし、その後何十年も、そのアパートに独りで暮らしていた…わけではもちろん無いのだけれども、その後もたしかに、どこかで暮らしていたのである。


1920年生まれで、1962年頃に引退だから、その後の時間の方が、女優の時間よりもずっと長かったわけだし、僕のうまれてから今までもその中にすっぽりと納まってしまう。つくづく人生は長いとも思うが、もちろんそんなことはなく、あっというまに何十年も経ってしまうということは、実感としてよくわかっている。

2015-11-24

冬の前


忙しいから、けっこうくたくたになって、会社を出る。そうすると、あれ?っていうくらい寒い。おれ、来るとき、この格好だったっけ?と思うくらい。薄手のコート一枚羽織ってちょうどいいくらいの寒さ。クイーンズの手前が猛烈なイルミネーションで、子供が嬉しそうに歩いてるけど、寒くて厳しい夜だ。風もわりとある。燗酒〜。コップで〜。とか言いたくなる。でもこれでもまだ始まってもいないんだからなあ。

2015-11-23

Dday


今日は保坂和志「残響」、カフカ「城」、桜井哲夫「占領下パリの思想家たち」、ベケット「モロイ」、稲垣足穂「ライト兄弟に始まる」を回し読む。夜から「残響」だけにして、先ほど読了。


ベケットは、レジスタンス活動したのか。正直自分は、戦時下のフランスが一番恐い。コインの裏か表かで絞首刑が決まる瞬間を、いつも想像してしまう。ドリュ・ラ・ロッシェルとか、サルトルとか、サン=テグジュペリとか、あいつは立派だけど、あいつはダメだとか、そんなことをいったい誰が、どの口が言えようか。僕が戦争が恐ろしいのは、こういうのが一番恐ろしいと思うのだ。


そのようなモヤモヤとした、忸怩たる、割り切れなさをもって「モロイ」に向かうと、なぜかあの展開されている混沌の下、一層か二層いつもよりも奥へと入っていけるように思うのだ。

2015-11-22

dvdDay


ホン・サンス「自由が丘で」、珈琲時光のDVDに付いていた仏ドキュメンタリー番組「Metro Lumiere」、小津安二郎「秋日和」、ポール・トーマス・アンダーソンインヒアレント・ヴァイス」と観た。


「秋日和」でウィスキーが飲みたくなったので買いに行った。

2015-11-21

Turn! Turn! Turn!


今日もしつこく、咳が出た。咳が出るだけのことで、そのほか風邪らしい症状はいっさいないので、実質すでに健康体のはずだが、しかし咳をしてるだけでまごうことなき風邪の病人という感じになってしまうところが皮肉である。図書館に行って、買い物して帰っただけ。天気は晴れで、秋の雲がうすく帯状に重なって空の三分の一にへばりついている。会社のメールで面倒くさそうなのが一通来ていた。そういえば三連休なのか。いろいろと伸ばし伸ばしにしていたことも取り掛からなければ。別に大したことじゃなくて、久々の人に連絡するとか、重ねっぱなしで壁に立て掛けたまま何年も経つ荷物をもう一度ほぐして一個一個確認しないと、とか。


さっきTurn! Turn! Turn!を聴いて祝杯。

2015-11-20


今週は週明けから今日にかけて、全身のだるさ、熱っぽさ、こわばりと全関節の痛み、ハナ、喉、咳…と、風邪のあらゆる症状を、五日間で一巡した感がある。だから、週末を迎えると同時に、きれいに快復か、と思ってたら、現時点でまだ咳が止まらないのは、予想を裏切って我ながら落胆の情況である。せめて、この咳さえ治まれば、というところである。今、ここにこうしているときも、ちょっと気を許すと、げほげほへほ、と自分の意志に関係なく咳が出てくるのだが、あえて咳をしないようにじっと我慢をしたとすると、それがどうなるかというと、喉の奥から凄まじい勢いでうようよした痒みのようなくすぐったさのような気味の悪い感触が上がってきて、それが喉を執拗に上下するので、そのたびに喉がたまらず身悶えして苦しむ。それでも咳を我慢していると、ついにこらえ切れなくなった喉の奥が勝手に自分で自分を震わせて、喉そのものの声を出し始める。そうなると僕は自分は黙っているのに、口の中の、喉元の奥の方から勝手に他人の声で、ううーとか、ああぁーとか、ふざけたような言い方で喋り始めるのだ。ここまで来ると、これを自分の意志で止めさせることはできない。もう止め処も無く、ううーとか、ああぁーとか、ひぃーとか、自分ではない誰かの嘆きの声で唸り続けてしまう。それを止めるには、げほげほげほ、と咳込んで、全部、粉々に撒き散らしてしまうしかない。まったく、咳は厄介でございます。

2015-11-19

プロペラ機


高校一年生の男子らしい。脇腹を厚さ二ミリの鋼板が覆っていて、頭部に付いたプロペラが回るので前進する。停まりたいと思っても、それはそれなりに一苦労らしい。時速十キロくらいで、遠めに見る限りは、低空滑空のように移動している。芝生をずるずると、爪先が擦っている。空から紐で引きずられるように、進んでいる。あのまま、駅の改札をどうやって抜けるのかと思って見ていた。駅に着いて、こともなげにICカードをタッチして構内へ入った。こういうのって、思っているよりも全然普通のことなんだなと今更のように思った。ホームへの階段もずるずると、ヒモに引っ張られるようにして、両足をだらっとのばしたまま、つま先を階段にばたばたと当てながら昇って行く。壊れるところを見たいものだが、機械って、その瞬間が見たいと思うと、不思議なくらい、なかなか壊れないんだよね。

2015-11-18

逃げる


なんか、現実として、いま、すでに戦争になったのかも、、という感じがする。戦争になったら、とにかくなるべく上手くやって、危険から遠ざかりながら、生き延びていかなければならないし、そう思い続けるためのモチベーションを上げ続けなければいけない。地震のあとだって、こんなことでいいのかなあと思いながら、結局だらだらと日常を続けたし、戦争になっても大体同じかもしれないけど、逃げることは、考えないといけない。でも、そもそも戦争から逃げることなんてできるだろうか。もし逃げるという行為が、実現できるのだとしたら、それはほとんど訳のわからない、他人には何してるんだかよくわからない謎の行為の連続みたいな感じになるのではなかろうか。よくわからないけど、なにしろ必要なのはモチベーションだ。前からわかっていたけど、わからないふりをしてやり過ごしたかったのだけれど、ほんとうは私はもっとバカな人にならなければいけないはずなのだ。それを適当にしてサボってるのだ。

2015-11-17

砂とスコッチ


松本零士「戦場まんがシリーズ」全9巻を、ヤフオクで思わず買ってしまったのが今日届いた。小学生のときに読んで印象的だった「砂とスコッチ」をふいに思い出して、なぜかむしょうに再読したくなったから。


大量のスコッチを積載していたイギリスの補給機が過重量で砂漠に墜落して、あたり一面にスコッチの瓶が散乱する。生き残った二人のイギリス兵が、後半不時着するドイツ兵のメッサーシュミットの燃料タンクにスコッチを入れて飛行機を動かして砂漠を脱出しようとする話。


僕はスコッチというものを、これではじめて知ったのだった。きっと、信じられないくらい、美味いものなのだろうと想像したものだ。


何十年ぶりかに再読したが、…まあ、これはさすがに荒唐無稽すぎるというか、今読んでも、まあ、こんなもんかという感じだったが、でも松本零士の絵は好きだ。好きというか、ほとんど原体験的なものだ。


しかし「戦場まんがシリーズ」は当時は戦争礼賛だとかなんとか言われたようだが、とりいそぎ数編読んでみて、どの話にも共通するのは、ちょっと戦時下とは思えないような、一応軍人であるはずの各登場人物たちの、異様にだらだらして、けじめもしまりもない、止まった時間の感覚というか、停滞感、待機の状態、することが無くてひたすらぼんやりしているだけの時間、みたいな、そういう空気が強くあり、これは「戦場」的な世界とはまた別の、松本零士的世界(70年代的世界?)の、もうひとつの独特な特長だと思う。

2015-11-16

ひいた


今朝から、今年もっとも本格的な風邪に突入した。何も思わず、煩わず、流れに身を任せて行きます。寝ます。

2015-11-15

珈琲時光


ホウ・シャオシェンの「珈琲時光」をDVDで観る。先月観にいった「黒衣の刺客」とは、似ているようで全然違う映画。別人が作ったかのように違う。「黒衣の刺客」は、ホウ・シャオシェンの面白さとは違うかもしれない。リー・ピンビンを観る面白さはあるが。


珈琲時光」をはじめて観たのはおそらく八、九年前くらいだが、この映画でロケ撮影されている場所のほとんどが、僕たちがここ十年近くひたすらウロウロしている場所ばかりで、もちろん僕はこの映画の登場人物のような生活をしているわけではないし喫茶店にしょっちゅう立ち寄るわけでもないのだが、それでもこの映画に出てくるさまざまな場所が、まさに近所という感覚があるので、なんだかまるで自分たちが、これまで十年近くかけてずっとこの映画のイメージを実際に歩きながらひたすら確認し続けていたかのような不思議な感覚におちいった。


これは、驚かされるのは、編集で余分な箇所をそぎ落とすやり方がすごく徹底していて、ほとんどあと一歩で意味不明というくらいの、全容としてはものすごく荒く削り出した、いや、大雑把に組み合わせた、だけの、ごろんと放り出された何かの塊り、のような雰囲気をもつ映画なのだが、こういった、ばさばさと編集していくのと同じようなやり方は、小説を書くときでも可能なのだろうか。


ある程度大量に書いて、それをつなぎ合わせて、余計だと感じたら切るという。それは小説の技法でも、モンタージュとか、カットアップとかの手法はあるだろうし、それは可能か不可能かではなく、やり方次第なのだろうけど。でも「書かれた一連のもの」を編集でつなぎ合わせていって、たとえば断章形式としてあらわす場合と、とりあえず一個の物語にしたいという場合とで、どのような違いがあるか。というか、僕の興味は、ばらばらのそれらを、それをとりあえず一個の物語にしようとしたときにどうなるか?ということで、その場合はやはり、映画のショットとショットがいきなり接合される暴力的な衝撃と同等のものが、接続のときに生じなければいけないのかなと思う。つまり一個の物語にしようという不自然で無理を強引に押し通そうと、力でねじ伏せようとする手付きが、部分的に露呈してしまうような感じなのかなと思う。その手付きの出し方によっては如何にも嫌らしい感じになるだろう。しかし、強引でも下手でもいいし、繋がってなくてもいいのだが、それでも何かの感触が、ボワッと出てくれないものかな、とは思う。

2015-11-14

室内


一日、とくに何もしていません。ちょっと読書したり、書くものを書いたりしていた。


聴いてたのはこれら。


●MARK GUILIANA 「Family First」

D

MARK GUILIANA のリーダーアルバムで、はじめて面白いと思った。一曲目が素晴らしい。


DCPRGフランツ・カフカの南アメリカ」

D

素晴らしい。超、いいじゃないか。どうなってるんだ。勢いあって、エモいし、踊って騒ぎたくなる。


●ROMARE「PROJECTIONS」

D

素晴らしい。手応えすごい。この手の音楽はむしろ繊細さとかかすかな余韻みたいな部分への配慮が、異常なほどだ。

2015-11-13


美味しいと感じるというのは、つまり、それを食べていいのだ、それを食べるべきだ、という意味の信号を感受しているのか。


たとえば、蟹を食べて美味しいなら、死んだ蟹から、それを感受しているのか。


しかし、蟹はおそらく、自分自身が、そのような味だということを知らないだろうし、自分が食べられて、それが美味しいと感じられていることを生前、一度たりとも想像しなかった。


というか、蟹の味とは、蟹が決めるものではなく、たとえば鮫が蟹を食べたときの味と、人間が蟹を食べたときの味は、おそらく異なる。


人間の味も、おそらく鮫が人間を食べたときと、人間が人間を食べたときでは、味は違うと考えた方が良さそうに思われる。


鮫と人間とで、蟹は美味いよね。(いや、そうでもないでしょ、俺らはしょうがないから食べてるけど、人間ってああいうの好きなの?)とか、話が出来たら良いが、それも難しい。


この場合、味とは「食べ続けよ」を意味する信号というレベルに落ちていると考えた方が良いと思われるが、それでも食物が一つ一つ違った固有性をもつのは不思議だ。蟹の味は、蟹以外では味わえないし、野菜もそうだ。それが単に美味いか不味いか、ということではなく、それが蟹なのか蝦なのか魚なのか肉なのか野菜なのか、という違いと、美味いか不味いかということが、ある計算式を通した結果が、口内で感じている味覚というものだ。


とにかく、自分自身が自分で、どんな味なのかを知ることはできないというのは、もしかすると、自分が自分の死後を知ることができない、というのと、微妙に似ている。死ぬことが、もしわかったら、そのとき自分の肉体の味を客観的にわかるということになるのか。そして、美味しくなくて、これだったら、わざわざ好んで食べに行こうとは思いませんけどね、みたいな感じだろうか。


動物たちは自分自身の肉の、歯ごたえや味わいについて、どのくらい知っているのだろうか。

2015-11-12

ミライ


桜木町の駅から野毛に行く途中の地下のベンチに、人が座っていた。


その姿を見て、一瞬あれ?と思った。しげしげと見た。深めに帽子を被って、やや厚手の、外歩き風というか身軽そうで防寒にも優れていそうな上着を着て座っている。服装だけだとわからないが、その横顔を見るとおそらく60代後半から70代くらいの女性である。


その座り方なのか、背筋の伸び方というのか、足の揃え方というのか、横顔のまなざす視線の位置というのか、そういった、単体では言いがたいような諸々のいくつもの要素が、おもしろいくらい、自分の妻に似ていて、一瞬、目が釘付けになった。


完全に、お婆さんなので、もちろんそれは、妻ではない。しかし、見れば見るほどそこに、妻が座っているように見えるのだ。


ある意味、他人が、しかも相当年配な、お婆さんが、自分が歩いているこの場所の、すぐ前のベンチでなぜか唐突にも、自分の妻のモノマネをしているのを、出し抜けに目撃してしまったかのようでもあった。そして、そうそう!ウチのアイツは、こんな感じなんですよ!まさにそう。似てる!!と、言おうと思えば言えるような。


わりと普通に歩き去った。あまりしげしげ見るのもアレだというのもあるが、まあ、そういうこともあるだろうとも思ったので。


しかし、おそろしいことだよ。なんだか三十年後が急に見えたような気がした。


もちろん、そのおばあさんは一人だった。連れはいなかった、と思う。(トイレに行ってたのかもしれないが。。)

2015-11-11

一方通行


夜になって、なつかしい人たちと会う。特定業界の中小企業に勤めていると、人の流動が激しいので、その手の飲み会というのは大抵、プチ同窓会というか、なつかしのあの人たちと再会みたいな感じに、どうしてもなる。まあ、同窓会でもあり、ふつうに営業の場でもあって、全体的に人手不足な、業界の昨今である。それまで幼い雰囲気だった女子が、ちょっとしゅっとした感じになって、まあいわゆるキレイ目な雰囲気に変わっていて、それで私はもう、これから右肩上がりで、幸せにならないといけないので、このまま一方通行ですから!!とか言ってるのが僕の隣だったので面白かった。

2015-11-10

ZERO


仕事が、緊張する。もしかすると、ヤバイかもしれない。最初にprojectに割り当たるidがあって、そのあとincidentがinsertされるときに、自分のsidとprojectのsidが同一なら、incident側もprojectと同一idをもつように作られてるはずなんだけど、ざっと確認して、全然紐付いてない。たぶんincident側sidが正しく読み込まれてないのよ。だからそれ、最初から言ってんじゃん。でもしょうがない。また同じこと言って、あーあ、もう、だるいなあ。超テンション下がるわ。もう来週から断食するわマジで。


なぜか急に「ZERO LANDMINE」を聴きたくなって聴いた。何しろイントロのKraftWerkがすばらしすぎる。単に数秒ボイスがジョワジョワ…ってだけだが…。


D

2015-11-09

イザベラ


ウィークデイになるとテンションがた落ちですから、昨日まで勢いに任せて読んでいた本も、もう読めなくなる。

大して面白くないし、これでもう放擲かも。

仕事は楽しいですよ。べたーっとした流れの、ある意味、超スローでダークな、どファンク。どシンコペーション。

だらだらといつまでも拘泥したい。

臭くてダサいベース。

ドロドロと続いて、長い。

2015-11-08

JUNKO ONISHI TRIO featuring GERALD CANNON & KARRIEM RIGGINS


Blue Note東京で大西順子トリオ。金曜日の夜に公演を知って、どうする?行く?行こうか、と行って、急遽行くことにした。しかし、我々夫婦はライブと言ったら、大西順子「だけ」しか行かないじゃないか。この世の中にはもっとたくさんの音楽があるのに、どうして他に対しては消極的なのかと思う。これを機にもっといろいろと食指を伸ばさないといけない。


何年ぶりかに観たステージは、あっさり始まってあっさり終わった。ゴリゴリの力押しな印象ではなく、リラックスした感じの、ゆとりの展開。どの曲も終始良かったけど「バロック」の曲がとりわけすばらしい。この演者は、ここに聴こえて来る、この、こういう音楽、このフレージング、このニュアンスを、ほんとうに心から愛していて身も心も捧げた人の、そういう演奏ですね、というのをあらためて感じた。たとえば60年代のミンガスのような、音楽であると同時に演劇的でもありチンドン屋的でもありコラージュ的でもあり胡散臭いコケ脅し的催事でもあるような、さまざまな要素が矢継ぎ早に組み合わされてごった煮的に一曲に乗っかっていく中で、この重さ、複雑さ、混濁、分裂、の混ざり合いの、ちょっとやそっとでは、わかった気にさせないような、楽曲の重厚な凄み。そういう音楽全体にスケールの大きさがあって堂々としていて、以前だったらガッツンガッツンと盛り上げて行きそうなところも、そうではなく目まぐるしく転調する楽曲構成として聴かせ、より複雑な次元の音楽として響かせていくような感じ。とはいえ、全編緊張につつまれた演奏というわけでもなく、単純に楽しいジャズ全開で、終始ノリノリで、血湧き肉踊る感じで、面白かった。

2015-11-07


一日ほぼ在宅。PCの前でキーボードを叩き続ける。Apple Musicはすごくて、音楽のことを考えたときには、とりあえず検索する癖をつけないと、ふと油断すると、すでに聴けるものをわざわざ買ってしまうことになりかねない。でも、こうして何でも聴けてしまうなんて、これでいいのかなという気持にもなるが…。


寒いだろうと思って一枚多く羽織って外に出て、図書館に先週返し忘れた本を返して、駅前に向かってる途中で妻から用事はもう済んだと電話。あと十分くらいで駅に着くから伝えて、歩いているうちに体温が上がってきて、やはり着なければ良かったと思う。妻と会って、近くで今日の食材を買い物する。帰りは空がもう薄暗くなっていたが時刻は五時にもなっていなかった。野菜と茸と鶏肉を香草と一緒にオーブンで焼いた。

2015-11-06

三十代


なったばかりの自分の三十代がまだあまりにも新鮮で、ここ数年の、今の会社に入ってからここまでの時間がまだとても、それまでは何も、だから会社員のスーツが包み込んで、買った靴が私の歩行を私は私の移動をはっきりと今を掴めて、なんの根拠もなく適当な気持ちでこちらに飛び込んで私がキャッチしてあげて抱きかかえることができて、二重化した私同士がこうしてしっかりと身体を重ねあっていれば他人任せの川の流れにしたがってどこまでも流れて行ってしまっていいんだという自信が生まれた。

2015-11-05


では十日に、と約束をして、十日が来週の火曜日だと気付いて慌てふためく。もっと、あと十日くらいは先のことだと思っていた。


明日はもう金曜日。ずるずると予定より遅れているのかもしれないが、危険の目も出るかもしれないが、それも心々ですから。

2015-11-04

エールエル


夜の打ち合わせまで、二時間くらいの空き時間が出来たので、喫茶店で、マグカップに入ったコーヒーを飲みながら待っていた。こんな時間に、酒を摂取せずに、じっとしていること自体が、異様な新鮮な体験だった。電車に乗ってるときと同じように、ひたすら生あくびばかり出た。そして、コーヒーが、どうしても僕には、こういう味は、美味しくない。コーヒーじゃないものにすればいいのだろうけど、いつも、考える前につい注文してしまう。せめて、メニューになにか、果物かなにかでも、あればいいのに、と思った。梨とか、林檎とか、無花果とか、柿とか、蜜柑とかでもいいし、そんなもの。別に、新鮮でなくても、美味しくなくてもいいから、美味しいかどうかわかりませんけど、と言って、出すようなもの。デザートじゃなくて果物がいい。あるいは、トコロテンとか、ちょっとささっと、さっぱりしたものがあるといいのに。そういう、何かちょっとしたもの。味噌汁とか。味噌汁くらいは、何種類かくらい常に置いてあればいいいのに、と思う。

2015-11-03

北区


すばらしい晴天だったけれども、むしろちょっと曇ってほしいという気持ちもなくはない。眩しくて疲れるんだよね。千住新橋を渡って、しつこく何枚も川の写真を撮ったが、ほぼ無駄なことをした。鴨と鯉、鳩、犬、猫、図書館で本を返す。都電荒川線に乗る。混んでる。人間の子供、お父さん、お母さん、お爺ちゃん、北区飛鳥山博物館、渋沢史料館、晩香廬、青淵文庫など観る。子爵渋沢栄一閣下、恥ずかしながら、存じ上げませんでした。こんなに偉い人だったとは。もう偉すぎて偉すぎて、ほとんど神様のように偉かった。

2015-11-02

寒い日


皆が、今日は寒い日だ、びっくりする、いよいよ冬だ、と口にするにうってつけの日。でもじつはさほどの寒さでもない。雨脚が強かったので、それは過酷だったけれども、気温自体はまだマシな方だ。むしろこれくらいの季節がずっと続いてほしい。薄暗いままで何日も何日も経って、モノの色が褪せてしまうような日々。うっすらと肌寒くて、それでもかろうじて外のベンチに腰掛けていても耐えられるくらいの寒さ。

2015-11-01


前方の高い堤防が視界を遮っている。

公園はなだらかな上り勾配をなし、歩きながら堤防の端まで辿りつくと、その先に多摩湖がある。

こうして、湖があるという状態をどうあらわせばいいのか。

水は大量で広い。僕はこころがせまい。

いきなり水が、理解を越えるほどたくさんあって、視界の先まで水である。全部、水だらけ。

一度、砂漠に行ってみたい。日本で砂漠を見たいなら、砂丘にいくしかないか。あとは海とか湖に行くしかないか。

近いうちにボートを出す。

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