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2016-05-31

六月


パンドラの箱を空けると、もの凄く大変なことになるけれども、最後に、箱の底に、希望が残っている、というしょうもないオチです。

それで、空けちゃいましたね。昨日から今日にかけて、君は。

えらい事になってますね。

ああ、六月かあ。未曾有の六月が、来ますね。

そう、来ますねえ。

2016-05-29

双眼鏡


最近の妻の手元には、ルーペとか双眼鏡とかの光学製品がやけに揃っており、それらを用いて何やら観察をしたいと云うので、完全に夏と言って差し支えない日差しの下、水元公園に向かう。


双眼鏡というのは覗いてみると、上手く見えるように使うのは、けっこうむずかしいもので、単に目に押し当てるだけではうまく見えず、二重になって、ぼやけてギラギラとした視界がぶれぶれになるのを安定させられなくて、一瞬見えたと思ったら睫毛が邪魔をするのか黒っぽい遮蔽物がちらついて急に遮られたりして、普通に前方を見るだけのことだけでも、なかなか苦労する。まるで、立体画像を上手く見ることができない時のように、まず普通に見えるようになるまでのあいだ、しばらく難儀する。


しかし目とレンズとの距離や、持ち方など少しずつ工夫して、ゆっくりと見えてくるポイントを探していると、ある時ふっと、視界が整理される。すると、たちまち双眼鏡で見たときの独特のイメージが立ちあらわれる。


つまり、まず暗闇だけの世界があり、そこに自分がいる。目の前に、だいたい自分の身長が余裕ですっぽり入る位の直径をもつ正円の穴が、忽然と空いたようになる。そして、その穴の向こうに、光にあふれた眩いばかりの景色が広がっている。その景色は、ふだん肉眼で見ているのよりも数倍以上巨大なスケールで存在してある。


その状態で、上部にあるピントのツマミをくるくると回して、近くの対象を見たければそれへ、遠くの対象を見たければそれへ合わせる。水辺に、アオサギとカワウが、群れて休んでいる。正直、鳥をズームで見て、何が面白いのだろう?と思っていたのだが、いつまで見ていても飽きない。それどころか、けっこう興奮する。鳥が面白いというよりも、双眼鏡の視覚世界が面白い。杭の上で、あるいは岸辺で、まるで模型のように静止している。拡大された彼らは、大雑把なイメージであることをやめて、全体像でありながら同時にディテールとして、その両方を両立させながら、静謐にその場所にいる。拡大された景色は、事物の拡大であると同時に、光自体も拡大されているようなのだ。だから、ただ、そこに在るというだけのことが、まるで絵画のようなあっけないフィクションとしての、奇跡的なものに感じられる。


そのようにしてひとしきり見て、満足したのでビールを飲んで持参の酒を飲んで、そのまま気付くとグーグー眠っていた。起きたら夕方だった、ので、帰宅。

2016-05-28

土曜


土曜日は休日なのである。土曜日が休日であるということを、土曜日になると、かみ締めるのだ。それを寝ながら。


で、午後になって上野まで、カラヴァッジョ展。美術館入口まで来て、切符売り場にちょっと並んでる様子を見て、やっぱ入るのをやめようか、となる。さすがに、いくらなんで弱すぎる。カラヴァッジョ展を観に来て、事前に引き返すのが、これでもう二度目か三度目である。でもなんとなくやっぱり、並ぶ、というか、近づくのが、嫌なのね。で、六月の十何日かまでなので、さすがに終わるまでには観にくるはずだがどうか。カラヴァッジョなんて、いまさら別にね…とも思うのだが、でもたぶん観たらそれなりに、やっぱり盛り上がるようにも思う。っていうか、さすがに、あのバッカスは観ておきたいと思ってしまう。


神保町で本屋をうろつく。本を物色しているというよりは、じっと耐えているような時間。何に耐えているのかは、よくわからない。購入欲とかではない。なにか、よくわからない、むだに気負って、流れに逆らって、頼りない石に掴まっているような感じ。


日が暮れてくる頃に、岩本町まで歩いた先の店で飲んで帰宅。素材感。香りの良さ。お店、がんばれ。お店は、商売は、ただひたすら、がんばれ。


フランクル「夜と霧」を、じつはまだ読んでない。読むのに気合というか覚悟が必要だと、ばかみたいに思い込んでいる。五十歳になるまでに、読もうと思っていると、今日なぜかふいに口にした。さすがに、そのくらいまでには、読もうと思うのだが、でも別に、来月あたりから読み始めるのかもわからないのだし、別にわざわざリミットを定める意味もないのだが、でもさすがにこのまま五十歳過ぎたらさすがに駄目なんじゃないかと、なんとなく思ったのでそう口にした。でもまた気が変わるかもしれないが。

2016-05-27

夏鹿


赤紫色の、うつくしい断面。ナイフの刃を受けて、かすかに抵抗しながら、あっさりと小片になる。口に運ばれる。ワインに流し込まれる。またワインを…ワインを、がぶがぶと飲む。見よ、まるでワインが水のようだ。脂の多い魚に山葵がまったく辛くないかのように、とはちょっと違うけど、まるでそんな風にして、芳醇な肉と一緒だと赤ワインがまるで水のように体内に流れ落ちてしまって、際限なくいくらでも呷ってしまう。今日は良かった。最初から最後の皿まで好調だった。

2016-05-26

羽生と佐藤


僕は羽生善治と同い年で、しかも生まれも同じ埼玉県のほとんど近所が出身地だからね、と言ったら、羽生善治って、誰ですか?と言われた。うわ、そうなの、羽生知らないの。まあ、そうか、そういうこともあるよね、いや、たしかに、むしろ知るわけないのか…とも思った。それで、そのあと、佐藤健って、ほんとうにかっこいいよね、テレビでも映画でも、観てると、男から見ても惚れ惚れするね、と言ったら、そうですかぁ、まあ、佐藤健が好きな男性って、多いですよねーと言われた。まあ、そうか、そうなのか、えー、そうなの?…と思った。そしてのち、全体的に不愉快な気分のまま、さよならを言う。


※実際は羽生が僕より一歳年上。かつ僕は育ちが埼玉だが出身は三重。

2016-05-23


少し、口ごもった。幾つかのタイミングを、外した。ああ、昔みたいに、また元通りな感じがした。それでもやがて、独りよがりなぬくもりが戻ってくると、またふたたび何もかもが上手くいくために出来ているはずの空間が立ち上がって来て、ほどなく何の心配もなくなってしまう。雨も上がったね、もう夏かな、うん、もう夏だよ、ざわざわとした声、雑踏に車の通り過ぎる音、草の育つ気配、雲間から月、黄色に染めたような、雲まで浸潤するかのような、その滲み。湿度、雨上がりの、アスファルトの路面の。夏日間近の。

2016-05-22

表す


いま、少しずつ北杜夫「楡家の人びと」を読んでおります。あと谷崎潤一郎細雪」も少しずつ読んでおります。何年か前に途中まで読んでそのままになっておりまして、もう忘れちゃったので、今になってまた最初から読んでいる次第でございまして、まことにすみません。


それにしても昨日観た「5つ数えれば君の夢」で宇佐美を慕う都の、おどろくべき愛の告白シーンには、じつに痺れた。すごい歪んだ愛の完成を夢見る、まるでナチの狂信者がヒトラーに直接語るかのような、狂った母親が子に語るような、忌まわしさ全開感がすばらしいのだが、でもこういうのも、もはや歴史的なのか。大奥でもいいし、没落貴族でもいいし、第三帝国司令部でもいいし、なんでもいいけど、すべては終わったことだからこそ、ここまでしないと今や表せないのか。


蚊に刺された。ので、蚊取り線香をつけた。マッチで火を付けるというのも最近はたまにしかやらないことで、鼻を突く匂いとともに燃える火がもの珍しいように思えて、木の軸を伝って火が指のすぐ先に来るまでいつまでも見ていようとする。

2016-05-21

「5つ数えれば君の夢」と「緑の光線


山戸結希「5つ数えれば君の夢」をDVDで。これは…ものすごかった。午前中に見たのだが、午前0時を過ぎた今の時点で思い出して、まだじわじわと来るものがある。完全に頭のおかしい、本気でキレまくった作品と言って過言ではない。なるほど、モノをつくるならここまでやれということなのか。ここまで徹底すれば、普通なら溶け合わないものが、ああしてずるずると溶解して、渾然となって、得体の知れない何かが浮かび上がってくるのか。でもそれと引き換えに、あのようなある種、眼をそむけずにはいられないような何かにもなるのか。今、作るなら、ここまでしなければいけないのか。…マジか。正直、自分の好みの世界を構成する種々のアイテムと、この作品の各要素は、あまりにもかけはなれていて、ほんらいなら僕がこの映画を観る理由は何も無い。まさに僕と「関係なさ過ぎる」はずなのに、今時点で不可逆的な何かを感じてしまっている。


映画の素晴らしさ・・・とは、それは、映画が素晴らしい、ということを言おうとする映画が素晴らしいのだ、と言って良いのか。音楽でも絵画でも、そうなのだろうか。


映画なんてもう、いいよどうでも、という映画が素晴らしい場合は、その場合はどうしてもその「作家性」みたいなものがタテマエにあって、いわば映画を「横に観る」のではなくて「縦に観る」場合にだけ、「映画なんてもうどうでもいい」という映画を作れる。そもそも「横に観る」映画は、この世に映画というものが存在することを知らない、映画が存在しない世界を描いているのが前提だから。


「5つ数えれば君の夢」もそうで、映画的な、かつての、素晴らしかったたくさんの何かを今リバイバルさせようと、もし試みたとしたら、それがあそこまでグロテスクかつお笑い的なものになってしまう、というのが、真剣な迫力として響いていて、なんというか、ぐうの音も出ないというか、ちょっと目の覚めるような思いがした。


ロメール緑の光線」をVHSで。これは、もうこのままでいい。ひたすら観てるだけ。楽しむだけ。なんか、身につまされる。フランスのヴァカンスはいいね。二週間も三週間もあって、主役の子は一人だから手持ち無沙汰で可哀想なのである。デルフィーヌが、バカなの。バカな子だから、思わず、笑っちゃうのだ。なんか、いいなあ、僕みたいだ。もう、すごいの。この映画は。どうでもいいわ!と百回くらい、つっこみたくなる。ほんとうに時間が、もう映画のなかに流れてる時間が、もうほんとうにすごい。なんだこの、果てのない血流の止まってしまったままの、どこまでも続く、永遠の時間は。波が打ち寄せては引いて、それ以上何もないのか。うつくしい浜辺もさることながら、ほとんどどうでもいい、なんでもない新緑の風景、景色って結局、空気で、その空気を吸ってたように思えると、いつまでも忘れられなくなる。


「5つ数えれば君の夢」も、「緑の光線」も、たぶんまた、いつかもう一度観るだろうけれども、再見したい理由が全く違うところが面白い。

2016-05-20

Her


her/世界でひとつの彼女」をDVDで観た。漫然とした退屈さが薄いベールになって何枚か重なっているのを、ぼやーっと観ているかのような印象。なんかもっと、一人で外食でもすればいいのに、立ち飲み屋にでもいけよと思った。でも主人公は、なんとなく酒が嫌いそうな人だった。酒も食事も身体の遊びだと思うがどうか。前の奥さんがキレイな人だった。

2016-05-19

教師


蓮實重彦三島賞受賞の記者会見の映像を見た。映っていたのは、作家というよりも、教育者の姿そのものという感じで、ああ、教師っていうのは常に、こうなんだなあと、なぜか不思議な感動が沸き起こってくるのを感じた。僕は、昔、子供の頃は、教師みたいな職業なら自分に向いていると、勝手に思い込んでいたけれども、それは大間違いだったということを若いうちに知った。大昔に一年だけ、とある高校で非常勤講師をやったことがあって、そのときにこれは、俺には無理だと思い知った。教師というのは、まさにパフォーマーで、存在がパフォーマティブであることが前提で、そして自分はそのようには存在していないのだというのを痛感したものだ。教師とか役者とかお笑い芸人とか、まさに才能だと思う。仮想化した自分を動作させ続ける才能、みたいな。

2016-05-18

成長


録画してあった「天使か悪魔か 羽生善治人工知能を探る」を観た。ブロック崩しゲームに勝て、という指示を与えられた人工知能が、おろおろとゲームをして、ひたすらミスをし続けていて、たまたま、まぐれでボールがブロックを崩して、それが得点になったら、それにハッとして、少しずつコツを掴みはじめて、ブロックを打つラケットがぶるぶると興奮に打ち震えているような挙動を示しはじめて、次第にミスが少なくなっていき、最後はほぼ完璧なプレイを繰り返すまでになるのを見ていたら、九年前に死んだ、実家の犬を思い出した・・・。まあ、あの犬はかなりバカだったので、どちらかというと最初から最後まで「ぶるぶると興奮に打ち震えている」だけ、みたいな生涯だったと思うが。。


他にも、トヨタの自動車の模型が狭いところをいっぱい走り回っていて、最初はお互いぶつかり合ってまるでダメだったのが、お互いがお互いを避けるパターンを学習し始めると、あっというまにスムーズにひょいひょいと相手を牽制しつつ走り回れるようになるとか、ああ学習って、惨めだなあ、でもこうして、頭が良くなって、人からほめられて、それが嬉しくて、ますますがんばって、いつしか偉くなって、立派な人生を歩むのだなあと思って、感慨もひとしおな気分になる。そして、やっぱり家の犬を思い出しました。ほめられると、うれしくてうれしくてね。


それにひきかえ、猫はやっぱりすごい。あれはもう、生き物の進化の最終形態なのだろう。最初から、出来上がっている。何の契約もなしに、我々の前に姿をあらわした。いっさいの承認を求めず、成長なんて、ちゃんちゃらおかしい。どこまでも孤独に、どこまでも気高く、どこまでもひたすら、ごろごろ寝そべってるだけ。

2016-05-17

Charlie Parker(1990)


煙草を吸う。血管が収縮する。ぼんやりする。手が震える。力が入らない。チャーリー・パーカー「Cool Blues」今日は、暑かった。僕の今日一日の色としては、なかなか良かった。「Parker's Mood」みんなと、お別れだ。いよいよ、暑い夏が来た。なにも、僕を、おびやかすな。僕は、行くだろう。僕は、確信をたずさえて、これからやっていくだろうか。そう、言い切るだろうか。


やたらと音楽を垂れ流している。煙草を吸ってる。暑い日。日記を読み返していた。すごく正直に書いてる。これ以上何も書く事は無い。ちょっと大げさだ。いや、やっぱり大げさすぎる。じつは、ウンザリしている。もし正直に書けば、一日二行も書かない。


明日、約束した場所に行って、初めてだけれど、一回は行って、それで失望して、またやり直したい。ばかだ。相当やばい。ふざけている。ふざけるって、どういうこと?まわりに誰もいないのに、ふざけていられるだろうか?なんとなく、もしかしたら、まわりに誰もいないのに、ふざけているのだけではないか?


「laura」だ。

2016-05-16

19


不定休である。

「ソドムに美はあるだろうか」

「毒蛇が毒蛇を食うだけさ」

「酒を飲んで騒ぐ」。なんてバカバカしいのだろう!


もっと落ち着こう。何を描きたいのかを整理しよう。僕のここ数日をもっとよく思い出せ。僕はここ数日うまくやっていた。午前中、クロッキー。午後、授業なしで、そういう一日は、よくできていた。ぼくは、19歳になっていた。


あたりまえの、真面目な生活をしないとダメ。しっかりと学校へ行って、はっきりとした意識をもって、通わねばならない。

2016-05-15

砂丘


群像に載っていた新人文学賞受賞作「ジニのパズル」を妻が読んだらしく、僕にも読めというので、何となく読み始めたら、最初は「ふーん、どうだろうねー?」とか思いながらも、ぐいぐいと直線的な筆致で面白く、最後まで読んでしまった。抵抗と蹉跌とその後、の構成順序が並べ替えられているのが、なかなかいい感じだった。それで、読み終わった余韻のまま、何となく何か、映画を観るとしたらどれかと考えて、アントニオーニ「砂丘」を観た。冒頭での、学生運動のシーンとか不動産デベロッパーの大企業のシーンとか、始まってすぐに、ばたばたっと描かれて、急に飛行場が出てきて、逃亡するマーク・フレシェットが乗り込んだ軽飛行機のプロペラが回って、あれよあれよという間に離陸してしまって、空撮された砂漠が続き、ダリア・ハルプリンの乗った、砂漠の一本道を走る乗用車と、悪ふざけのように交わりあい、やがて二人が砂漠をだらだらと一緒に散歩して、寝そべって、だらーっとした時間が流れていくのが、ひたすら続く。中盤からはもう、徹底的に映画的な世界しかない。ひとしきり時間を過ごしたあと、ふたたびマーク・フレシェットは冒頭の世界に戻って、ふたたびプロペラ機がゆらゆらと飛ぶ。そして終盤へ。…ふわふわと飛ぶ飛行機を、あるいは二人が戯れている砂漠の景色が、すごくゆったりと、たっぷりと、だらーっと撮影されていて、それを観ているだけで楽しい。だいたい、そういう感じの映画ではないか、と予想して観てみたら、だいたいそんな感じの映画だった…などと、思いたかったのかもしれないが、作品とは結局、はじまるとその世界だけでいっぱいになって、やがて、その世界だけで閉じる。だから、そう易々と別の何かと繋がるようなことはない。結局「ジニのパズル」の主役の子は、この映画の世界へと、逃れられるわけではなかった。オレゴン州カリフォルニア州だから、空間に限ってだけは、隣合ってると言えるのだけれども。

2016-05-14

朽ちる


朝、ワイングラスを漂白してくれたのか。なるほど道理で。


シャツも綻びてくる。ベルトもひび割れる。靴紐は何度買いなおすのか。グラスも汚れてくるし、鞄も廃れてくるし、スラックスも、鍵入れも財布もだ。


ボロくなるのが良いと、昔は思っていた。古びていくことの風合いとか味わいとか、そういうのが好きだったし、今でもそうかもしれないが、さすがに最近は、何もかもがボロくなっていくので、ちょっと閉口している。手元の何もかもが、ここまで古びてしまうのかと思って、すこし無言になってしまう。そのまま、しばらく手を施す気になれずにいる。


朽ちる、という現象を知らないから、憧れのようにそれを口にしていただけだったのだと思う。でもそれを今や、まのあたりにしているわけだ。


京急電鉄の沿線に住みたいなんて、思ったりもしたのね。だって、潮風にさらされて、街並みが全部荒れてざらついた雰囲気があるじゃない。あれが好きで、私はたまにあのへんに遊びにいくと、ただ電車が駅にとまるたびに胸がわくわくした。


観光客でいられるうちが華だね。塩が侵食していくまでの時間を丸ごと背負うとなると、これはまた別の話。


ボロい。ボロいな。横浜駅のホームに立つ。砂のようなものが手に付いて、何かがほどけたような予感がして、見ると金具の留めガネが外れていて、スラックスが脱げて、膝まで落ちていた。シリンダーのような、二本の白い太股をまっすぐにして立っていた。周囲の女たちは生真面目に不愉快そうな顔で、男たちはなぜか同類を庇うようにしていて。


ただただ、涼しかった。

2016-05-13

青い体験


さっき、テレビを付けたら、1973年のイタリア映画「青い体験」がやっていたので、つい、最後まで観てしまった。僕の世代の男性ならほぼ誰でも知ってると思われるエロ・コメディ映画である。


何十年ぶりに観て、モロに谷崎ではないかというのが第一印象。谷崎原作の映画なんて、じつはほとんど観てないけど、でも少なくとも「卍」とかよりも、「青い体験」の方がよっぽど谷崎的ではないかと思う。まあ、最後に主役の子が「最終段階」まで行ってしまうというところにおいて、「成就」の具現化において、中空に掲げられたはずのそういったものは皆、落っこちてしまうのだが、少なくともそれまでの展開は秀逸に、律儀なまでに谷崎的。


子供の頃、この主役の子供(アレッサンドロ・モモ)の顔が、ほんとうに嫌いだったのを思い出す。この煮えきらないくせに、権力を傘に着て、やりたいことをやるという、卑劣かつ愚劣かつゴミのような、まさに虫唾の走る、拷問刑にふさわしいヤツだと思っていたのは僕が中学生くらいのときである。残酷なことは嫌いだけど、残酷な目に合わせてやりたいヤツがこの世に存在するというのも当時の自分においてはまた、否定できぬ真理であった。


アレッサンドロ・モモという人。今はじめて知ったけど、1974年に交通事故で、17歳で亡くなってるんですね。

2016-05-12

Depth


Play Stationのソフトウェア「Depth」。1996年。当時は、ゲームばっかりやっていた。ことにこれは、本当にさんざん、やりました。ある意味、もの凄い影響を受けた、とも言える。なつかしくていつまでも聴いてしまう。かなり時間をかけて、精巧に作り上げて、それを聴いて、ああ、これを誰かに聴かせたいと思ったのを思い出す。まだインターネットが、今ほど普及していなかったときだ。では当時、もしこのデータをやり取りできていたら?というのは、やはり愚問な気がする。最初から、データをやり取りできる時代の音ではないのね。そういうことができない時代の質感があるのね。でも僕も、もう少し年をとったら、時代とか起源とか、どうでもよくなると思う。というか、すでいどうでもいいのだけれども、惰性でそう言ってるだけ。


D

2016-05-11

Curtis Mayfield


ニ三日前から、Curtis Mayfieldばかり。「Live in Europe」1987年。素晴らしすぎて死ぬ。R&Bとかのカテゴリー下にCurtis がいるのではなく、最初から猛烈な勢いでCurtisの音楽があって、その流れの過程で、あるときにはじめてR&Bと呼ばせていただけるような要素が生まれたのではないか、とさえ思ってしまう。もう、この歌唱はもはや、そのままで、まったく別の何事かのようだ。


D

「Live in Europe」の音源となったステージ。


D

かなり昔。圧倒的に素晴らしい演奏。神がかってる。

2016-05-10

寝るために


日曜日の夜になると、なぜ眠れなくなるのか。眠るイメージで、かなり手前から準備しているのに、いざ眠ろうとしても、失敗する。失敗すると悲惨で、しばらく足掻いたのち、結局iPhoneを光らせて、ひたすらネットを閲覧したりしているうちに、午前二時とか三時とかになる。そういえば、電車の中で、眠れなくなるときもある。ってことはふだん眠れるのか?と言うと、そのとおりなのだが、あるとき急に、眠れなくなるときもある。昨日の朝がそうだった。すなわち、日曜夜の異常な睡眠不足の翌朝、電車の座席に座っているのに、なぜか眠れないのだった。電車で眠れない体質になったのかと思ったら、その日の帰りの電車では、死体のように眠った。今日も、朝も帰りも、まあまあ寝た。そして、今の時間に就寝すると、かなり良くて、今まさにここがポイントな時間に差し掛かっている。さて、ここからどのくらいで、あの箇所まで移動できるかだ。

2016-05-09


だめだ。なぜか昨日から、狂ったように自分が二十代まで暮らした埼玉の実家周辺について、ネットで検索しまくっていて、地元の誰とも知れぬ誰かのブログとか、何十年も前のゴミのような情報とかを、ひたすら漁っている。何を考えているのか、自分でもよくわからない。唐突にも、それをマコンドの邑のように妄想している感もあり。何なのだいったい。

2016-05-08

カルメンという名の女


金曜日に新宿のツタヤで借りてきた「カルメンという名の女」を観る。銃撃戦とか裁判とか、人をなめたような、ふざけきったような場面がいっぱい。こういうのを観ていると、銀行強盗なんてそんなに難しいことではないのだなと思えてくる。いや、実際にやるのは難しいけれども、銀行強盗をするということ全体を、想像してみるのが、ぐっと簡単になる。たとえば僕が明日、急に映画を撮ることになったしたら、登場人物にはまず銀行強盗をやらせてみたらどうだろう?とか、そういう発想を容易にしてくれるような力がある。だからつまり、それ以前に僕が明日、急に映画を撮ることになるという唐突な想像を、平気で喚起させてしまうというところに、それが証明されている。映画は全編にわたり弦楽四重奏団ベートーヴェンを演奏していて、そうなのこれがベートーヴェンなの、けっこういいねえ、と思って、しかしやはり海辺の別荘のシーンが、ひときわ印象的であった。


男は、すごいぐにゃぐにゃした、二枚目の、気の弱そうな、なさけないヤツで、女はシレッとした感じの、気の強そうな、付き合いとしては接しづらそうな、別に何をどうとか、なんとも思ってないようなヤツ。ほとんど動物的というか、昆虫的というか、神経直結な行動が断続的に続く。この一貫性のない、キレたような、勝手に塞ぎこむような、いつものゴダール的な女である。こんな女が、本当に実在するのかというと、実際は映画だから、こんな男もいないし、こんな女もいないし、こんな関係もなくて、でもそこから組み上がっていて、そこから始められることがあるのだと、僕の若い時は、それがまったくわからなかった、というより、納得できなかったものだ。でも今思えば、それはそれで良かった。納得できたって、だから何?というだけだ。何十年も経って、今観て、ああなるほどねと思って、でもある意味、そんなの知らないよ、俺に関係ないわと思っていて、それで良かったのだ。だから僕の場合は、それはそれで良かった。ああ、じゃあそれで、べつに良かったんだな、と思った。それはそれで、また別の道があって、それを進んだのだ。


夕暮れから翌日の朝までの時間、薄暗い室内の窓際に佇む。弱い光を受けて、横顔の輪郭線をぼんやりと浮かび上がらせる。それが、まろやかで、はかなく、うつくしく、まさに、そのためにいる、とも言えるような女だ。しかし、それだけではなく、最初から最後まで、すごくじたばたして、最後は死ぬ。死ぬ間際、同じ問いをふたたびくりかえす。相手は無表情にこたえる。「お嬢様、わかりません。」「お嬢様、それは暁です。」残された、何事かのやり取り。


暗闇の中で、ぶつぶつと、つぶやく二人の声。波の打ち寄せる音。夜から朝へと時間が経過する。朝方の光。たっぷりした、のっぺりした水の量感。波打ち際のライン。横の線と斜めの線の交差。水の果てしなさ。その汲めども尽きぬ重さ。深さである。いつまでも、のたのたと、寄せては返す。


ところでこの映画は、二十何年前にも一度観ている…はずだったのだが、まったく記憶になかった。おそらくこれが初見だ。所見?いや、そうとは思えないのだけれども…。じゃあ僕が「カルメンという名の女」だと思っていた、あのいくつかのイメージは、いったい何なのか?確かに、実在する映画なのだが…。

2016-05-05

「JLG/自画像」


些細さをそのままに留め置く。余計な要素を排除して、必要なそれだけで仕上げる繊細。というのは実際、それを生かすためには、かなりの図太さとか大胆さとか倣岸さを必要とする。人間同士がお互いのために空気を読むみたいなのは、繊細ということとは違う。むしろ、そういう空気を無視しないと、そのようには生かせないし、それに気付けない。


電気スタンドの赤っぽい光と、窓からの薄暗い光だけの室内。夜明け前か日没直前くらいの暗さ。遠くのモニターで何かの映画が再生されていて、その周囲は闇に沈んでいる。


いつものことながら、おそらく自然光だけの光で撮影された画面が、気が遠くなるような美しさ。


影の部分はどこまでも暗く、部屋の中だと、ほとんど真っ暗になっていて、たとえば「パッション」で絵画をセット内で実際に再現させようとするシーンでは、ああやって照明を作ることで何にせよカラヴァッジオ的なロマン派的な絵に近くなるが、単純に自然光だけの光で室内を撮ると、どれだけ陰影が強くてもそのようにはならず、全体がざらざらとした質感を伴うグレーのノイズを含んだようなものになる。それで、室内と外との境界も少し曖昧になって、逆にひとつの世界の手触りがはっきりとしてくる。「パッション」でもスタジオ内の光と工場や外を撮影している光があまりにも違って、外に出ると本当に外に出たかのように心がすっとしたものだ。


ぼそぼそと喋るゴダール本人の声。書斎があり、仕事場があり、外の景色があって、湖のほとりがあって、雪に覆われた森の中の道がある。アシスタントがいる。客が来る。


湖の波打ち際。ざぶざぶと波が押し寄せている。水際を波が洗っては引き、洗っては引く。


黒っぽい、冬の格好をした、帽子を被った中年男性がとぼとぼと雪道を歩く。


曇天である。遠くにかすかな夕日の残滓。


登場人物の気分に付き合っているのか、まったく無関係に別のものを見ているのか、よくわからない。映画だし、喋ってる相手の話は、一応聞いている。感情の変化に気付けるくらいには。


重要なのは何か。どうすれば良いのか。今、取り掛かってる仕事があって、乗り越えなければいけない問題や、厄介ごとや、折衝ごとがある。その「私」を観る。


映画監督が登場する映画って、ほかに何があるだろうか。フェリーニの「8 1/2」とか、トリュフォーの「アメリカの夜」とか、仕掛中の仕事に追われてイライラする人が主人公のやつ。もっと何か無かっただろうか。


そしてテニスを!こういうシーンを入れるから、皆が、ゴダールのファンになってしまうのか。だからその「私」を、皆が心配するし、元気になってくれると嬉しい。ああ、良かった。これを観て良かった、と思う。約束を思い出す。希望の言葉を言ってほしい。日々の怒りと苛つきに耐えつつ、仕事を続けてほしいと。


ちなみにこれを書いてる今日の日中は、気がおかしくなるほどの、五月の初夏の晴天であった。光はぶっ飛んでいて、影の黒は、あまりのボリューム感で、ほぼ物質化していた。サトザクラの木が突っ立っていて、その影がまるで、木が吐瀉しているかのように芝生を盛大に真っ黒に汚していた。


そんな気の狂ったような光の狂騒の中、部屋のカーテンを閉めて、これを観ることこそ正しい選択。


夏かあ…。

2016-05-04

ゴダールのマリア


ゴダールのマリア」を。マリアの処女懐胎が主題。


ロメールにせよ、ゴダールの本作にせよ、観終わって思わず、途方に暮れてしまうのが、作品の根底に横たわる、性愛的欲望の濃厚さというか、つまりはエロ目線の貪欲さ、執拗さみたいなものに対してだ。色々と、ごちゃごちゃ、相変わらず理屈こねてるけど、結局「もしかして、実を言うと、君たちは、バカなのか…?」と、正面から問いたくなるくらいな、いったいなぜそれほどまでに、この人たちは自らの欲望を、平然と肯定してしまえているのか。そうできてしまって、そのように撮影して、映画としてしまえるのか。これほどまでに、視線としての性愛的なものを、平然と取り扱ってしまえることへの、ものすごく素朴な驚きというものが、まずある。


一昨日に観たロメールから最初に感じさせられたものの、無意識な戸惑いをともなって、そのときは言葉に出来なかったモヤモヤとした何かが、以降のここ数日、何本かの映画を観て、まさか、それはそうなの?そんなことなの?えー、やっぱりそうなんだ!みたいな感じで、事後的に、形になった見えてきたような感じ。


それは逆に、普段の自分が如何に、性愛的なものを生活下の制度内に統治・馴化して生きているのかということでもある。だから急に観てもわからないのだ。男性の欲望に裏打ちされた視線さえも、すでに自分の中で、そのようなものではない。たぶん今より若いときでさえ、すでにそのようなものではなかった。結局は、飼い慣らして、ろ過した水道水のようなものにしている。インフラ処理のように扱うしかない。たぶんそれが男性の仕事なのだ。


まったく…見ることの厳しさである。ミリアム・ルーセルの、何たるうつくしさであろうか。それを、本当にわかっているのか?わかっている、ような気はするのですが…。にもかかわらず…。


観終わって、ああ、また、ゴダールが終わったと思って、その歓びの芯のところに、ぼやっとした疲労が。男性的な欲望的な、濃い視線があって、その対象であるマリーが自らの懐妊に対して身体を晒しつつ深く内省していく、その内面の黒々とした、得体の知れないドロッとした、ちょっと眼をそむけたくなるような何かがあって、幾度目かの満月を見て、あ、っというまに、あっけなく子供が生まれて(笑)、あら、良かったじゃないと思って、しかし俯いて子供をだく女の、ああ、この有無を言わさぬ迫力…と思って、僕なんかはただ、その表面をするすると滑るように観ているだけしかできないかもしれないと、やや自らの限界が予感されたかのような。しかし、もちろんそんな濃厚さと鮮烈なコントラストをなして、人間から離れたかのような景色そのもののような--光が光を見ているかのような--視線ならぬ視線のようなショットがちりばめられて、そこに何か、泣きたくなるような、かなしみがある、というのが、ゴダールなのだと思うけれども。


(観たのはVHSからで、所々、ものすごく大量にボカシが入って作品を汚損させているので、これはいつか、ちゃんとした版で再見したい。)

2016-05-03

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この連休は夫婦共に風邪の影響をモロに受けてまともに外出も出来ないので、(じつは)まだ観たことない作品を観てしまいましょうの会、ということで、ジャン=リュック・ゴダール「パッション」と、ロバート・アルドリッチカリフォルニア・ドールズ」。どちらも、素晴らしかった!


ゴダールの作品を観終わったときには、だいたい「観た」とか言ってる場合じゃない、という気持ちにさせられる。何しろ観終わったら、対象がもう、その場にいないようなものだ。うすのろな自分がここで、感想だのをだらだらといつまでも何を言ってても無駄だ、という気になる。


それが良いことだとは思わないが、ゴダールは「とりあえず」今観られるものは何もかも全部観てしまいたい、文献関連も「とりあえず」全部読んでしまいたい、と思いたくなるとしたら、その気持ちはわかる。「とりあえず」やれるだけのことはやってしまって、それからどうすれば良いのか考えたい、という気になる。


ゴダールの作品は、それを観たときに、それが仮に「すごかった」としても、同じ姿勢のまま、なるべく平然とやり過ごしたくなる。それをせず、素直に嬉しさ全開で「すごかった」とか無防備に喋ってると、つまりそれは走る電車から降りてしまったようなもので、あっという間に相手はどこかへ消え去ってしまって跡形もなく、気付いたらすでに置き去りになった自分がいるだけだ。だから何しろ始まってから終わるまでは、どうしても飢えた野良犬のような、食べ物が落ちるのを必死に待ってる乞食のような態度になってしまう。


カリフォルニア・ドールズ」は、噂どおり、二人とも本当に美人だし、本当に試合のシーンが凄かった。最初の試合のシーンから興奮させられた。もし劇場内でこれを観たら、いてもたってもいられなくなって思わず嬌声を上げて立ち上がってスクリーンに拍手する自分(まず、ありえない)を、思わず想像してしまって、それでさらに興奮する。


明日は天気が悪そうだから、ひきつづき、観てない映画の会になるかも。でももし妻の風邪が快復したら、外に遊びに行くなり食事なりがいいのだけれども。。

2016-05-02

ロメール


帰宅、食事後、エリック・ロメールクレールの膝」を観る。昨日観た「海辺のポーリーヌ」もそうだが、なんかほとんど、いきなり水浴図、みたいな、天国的な、人の形をした神様のような者たちが、勝手に、わいわいと楽しんでやっているのを観てるだけみたいな、近いようで相当遠い出来事のような、夏休みとか長い休暇だとしても、これほど永遠的な時間が、現実にありうるだろうかと思うような、…これはまだちょっと、言葉に上手く出来ない感じ。古いVHSの画像なので画質はかなり劣化しているが、そんなことは些細な事に思えるほど、冒頭から度々出て来るモーターボートが素晴らしく、湖と遠景の山々が素晴らしく、降る光の質が素晴らしく、景色の中の人物たちも、ほとんど光と物質の一部みたいになって存在していて、ひたすらえんえんと、どうでもいいようなお喋りが止まらず、あっちへ行ったりこっちへ消えたり、性愛・欲望といったモチーフで、物語が進んではいくが、それが主題であるようには感じられず、ただひたすら、愚かしいほどな、人の形をした何物かの、単純な動きと言葉とが展開されているのを、なぜか飽きもせずにひたすら眺め続けている感じである。そして「海辺のポーリーヌ」もそうだったけど、本作も終わり方がカッコいいですね。

2016-05-01

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一日中ゲホゲホゴホゲホと咽るばかり。今日がいったいどんな天気だったのか、まるでわからなかった。家でひたすらDVDを。エリック・ロメール海辺のポーリーヌ」、エリア・カザン「波止場」、カエターノ・ヴェローゾのライブ「ノイチス・ド・ノルチ・ライヴ」(途中まで)、ジガ・ヴェルトフ集団(ゴダール)「万事快調」と。


カエターノ・ヴェローゾのあまりにもうつくしい立ち振る舞いと表情を見ていたら、やはりカラヴァッジオの絵を観にいくべきな気がしてきた。そして、さっき観終わったゴダールがものすごくて、一瞬だけ元気を取り戻した。

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