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2017-04-30

能力


あまりにも天気がよくて、裸でぬるま湯のなかを進んでいるみたいだ。ここまで快楽的だと、かえって不機嫌になってくる。不機嫌でいるべきではないかという気になってくる。


町田の国際版画美術館で横尾忠則 HANGA JUNGLEを観る。関連イベントの『出張アトリエ会議』(横尾忠則保坂和志、磯粼憲一郎)も聴講した。ユリ・ゲラー…。


超能力がもしあったら、それはそれで、とても普通なことだ、超能力なんてない。もしあったら、それはただの能力だ、みたいな話を聞いたことも、あったかもしれない。ユリ・ゲラーはすごく金持ちだ、みたいな話が出ていたかもしれないが、なぜユリ・ゲラーが金持ちなのかは、想像だけど、あれだけテレビや本に出たら、それは金持ちに決まってるだろうと思うか、超能力があるんだから、それは金持ちに決まってるだろうと思うか、そこはずいぶん違う。


そもそも、我々の社会は超能力者を--そこで僕は超能力を空間的制限を他と共有しないで時間を生きる者ととりあえず定義しているが--を、想定しないで構築されている。だからこの世の全てのセキュリティ施策は、物理的にも人的にも、超能力者に対して有効ではない。ゆえに超能力者にとって、たとえばお金なんかは、そのへんに落ちているゴミや石と変わらない。その気があれば拾い上げることもできるし、必要なければ爪先で蹴飛ばして終わりだ。


しかし五月の気候はさすがに、超能力者にとってさえも気分がいいものだ。空間的制限がなく、すべてが同時にここであり、ここが同時にすべてでもあるような場にいたとしても、ここで感じた気分の良さについては、それを全的に肯定する。あと、酒も美味いと思う。月並みなようだが、それは格別なもの。


横尾忠則の話というのは、単なる交友関係として、池田満寿夫とかジャスパージョーンズとかラウシェンバーグとかサンタナとか関口宏とか由美かおるとかユリ・ゲラーとか、次から次へと当たり前のように普通に出てくるので、聞いてるとちょっと時空間超越な感じがしてくる。


「関口宏って、そんなに昔からテレビに出てるんだ!五十年前とか?そんな時代から?今朝のテレビにも出てましたよ?」


あのときもいたし、今もいるというのは、なぜかそれだけでおかしい。長く生きるというのはそれだけでほとんど超能力的な感じもする。時間や空間と身体との境目が緩くなってくるのだろうか。

2017-04-29

Thank You for Talkin' to Me, Africa


Sly & The Family Stoneには、「Thank You (Falettinme Be Mice Elf Agin)」という曲があって、さらに、「Thank You for Talkin' to Me, Africa」という曲があって、どちらも同じ曲だけれども前者のテンポをグッと落として只ならぬ雰囲気になっているのが後者という感じなのだけれども、僕が大昔にはじめて聴いたのは「There's a Riot Goin' On」の最後に収録されている後者のほうで、この曲はやっぱりすごく特別な感じが強くて、未だに「本気で聴いてしまう部分」が大量に残っているような感じがする。それを言ったら「There's a Riot Goin' On」全体に言えることだろうが。たしか、かなりスカスカな、打ち込み主体のアルバムだったよなあ・・などと思って久々に聴いたが、思ったよりもそのような感じはしなくて、とくにキーボードの仕事が素晴らしいように思った。そしてやはり、「Thank You for Talkin' to Me, Africa」が…。これはほんとうに形容しがたい。ほとんどふざけているとしか思えないというか、本気で壊れてしまっているというか、こういう凄味は、なかなかふつうは出ないはずのものだろう。聴いていて、前者「Thank You…」の感じが頭の中で重なってくるとき、その違いに胸の中が空になって血の気が引くような不安をおぼえるほどなのだ。

2017-04-28

come


今週はプリンスの「Come」ばかり繰り返し聴いていた。このアルバムはすごく好きだ。これ、はじめて聴いたのはいつだったのか。発売されてすぐではなかったと思うが、そんなに後になってから聴いたわけでもない。94年頃にリリースされてる。95年には聴いてるだろうな。90年代後半の時点ではすでに知っていたはず。というか、どうしても94年に発売されたという感じがしない。自分の記憶が一部壊れているらしい。しかし、今聴いてもかなり良くて、やはり一曲目comeと続けて二曲目spaceへの流れがほんとうに良くて、われながらあきれるほど何度も聴いてしまう。プリンスはこれに限らず長尺曲でほんとうにすさまじく良いものが多い。

2017-04-27

入り用


何年かぶりに、朝から本社勤務の新鮮な一日だった。久しぶりの人達と果てしなく雑談しながら時間が過ぎてしまう。自分はそれでいいけど相手は迷惑だろうなあ、とも思うが、でも話しはどうしても話してしまう。会社、ああ、相変わらずだなあと思う。会社は不思議。お昼休みに、久しぶりに周辺を散歩した。歩きながらふいに、自分が何にも属していない、なんでもない状況であるかのように錯覚して、その感覚がしばらく続いた。この寄る辺なさはなんだろうと思った。前を外国人二人が楽しそうに雑談しながら歩いていて、彼らは何が楽しいのだろうか、僕も彼らのように楽しいと思いながら歩くことができるだるかと思った。あんな風に楽しげに歩いているというのは、いったいなんだろうか。この後、この先に何か、すごく期待できる、すごく楽しげな出来事がある、そんな予感がするのだろうか。そんな予定が確定しているのだろうか。そういういい予感がほとんどの状態で人生が構成されているのだろうかと不思議に思った。自分はどうなのかと思った。30分後とか、半日後とかのために生きることができるか、何年後かのために?何十年後、何百年後のために?時間換算できないくらい後にやってくる楽しさのために生きられるだろうか。その楽しさを想像するには、何が必要なのか。金か?何がいるか、何が枯渇しそうか。いま足りないものはあるか?

2017-04-26

オサイフ


秋葉原から湯島まで歩く。コンビニの光。タクシーのヘッドライト。今日は2人から、小銭生活からの訣別を勧められた。スマホを新しくしたなら、もうモバイル化しろと。小銭を必要としない世界で生きる快適さを説かれて、うん、わかる、それはまさに、たしかにこうして都心を毎日うろついてる生活ならば、その方がいいだろうと容易く想像できる。でも、やっぱり小銭入れがいらなくなることはなさそうだなあ、こっちも必要だろうなあ、だって、勧めてくれた彼らは、2人とも酒飲まないからな、と思った。

2017-04-25

若い女


狭くて古い家だった。僕が二十代の頃だ。目の前の女は、若くて、美人で、僕に親しげだった。濃い緑色のぴったりとしたニットを着ていて、その色と上半身の形が部屋の暗さに半分以上溶け込むようだった。


僕と彼女のほかには、誰もいなかった。もう充分に、お互いをよく知っている間柄のようだ。二人で話をしている。でも僕は、その女をはじめて見る。知らない相手なのに、関係としては親しいのだ。夢だから、そういう場面から始まることもある。やり取りで自分の話す口ぶりや思い、そのときの気分的なものは、完全に昔の自分の記憶にある要素から出来上がっている。だから異様に現実的だし、ただ甘美で、懐かしい。そういう夢は、たまにある。


ばたばたと物音がして、玄関から二人の男が入ってきた。相手があわてて、その二人に自分を紹介する。こちらも精一杯愛想よく挨拶する。男二人は不思議そうな顔で、無言でこちらに会釈する。思い出した。彼らとは前に一度会ってる。そのときちゃんと一度、挨拶しているはずだ。でもさすがに、今日唐突に家にいるとは思わなかったのだろう。それは、すいませんでした。問題はそこだな。相手は、表面上はこちらを歓迎してくれているようだ。でも女には、こういうのは事前にちゃんと話しておけよ、とやや怒った口調で言う。


でも、あの二人の片方は、妻の兄だった。という事は将来、僕の義理の兄になる人じゃないか。でも、だとしたらつまり、この女は、妻か?これは、そういう夢なのか?でも、どうも違うような気がするのだが…。妻とは、顔が違うし、他にも、色々と違う気がするのだが、よくわからない。


でも、もしかすると、こういった最初の段階における経緯は、後で振り返ってみてもよくわからなくなってしまうことの方が、むしろ世間一般では普通なのかもしれない、それが当然なのかもしれない、とも思う。


とにかくまだ、交際が始まって間もないので、女は始終楽しそうだし、表情は和やかだ。何事も最初だけは、いつも、そういうものだ。ある事について予定を聞かれて、僕は、どっちでもいいよ、別に今日じゃなくてもいい、と答える。答えてから、ああ、この答え方こそが、まさに自分そのものだと思う。昔から今まで、いつもこういう言い方ばかりする。してきたなあ、と思う。


男と女が交際したなら、相手が頼りになる人であれば良いと、女は期待するはずだろう。しかし、男が、つまり自分が、そうではなかった場合、女はがっかりする、失望するだろう。あーあ、がっかりだな。しょうがないなあ。こんなもんか。目の前で、そんな風に思っている女の表情と態度を、自分が見ているとする。やれやれだな。もう、しょうがないなあ。…がっかりした感じと、あきらめと、ある種の納得とが、混ざり合ったときの、女の独特の、態度というか、雰囲気というものがある。


相手が自分に失望したときに見せる、ある種の独特な雰囲気。自分は、目の前でそれを見るのが好きである。受容されたからとか、そういうことではなく、たぶんそうではなくて、なんだか単に目の前の相手が、ふと軽妙に孤独な存在に見えるところが、好きなのだと思う。


何かの縁で出会った相手とこれからの時間を過ごそうとしている、さっき静かにその決意を固めた、孤独な、若い女だった。

2017-04-24

食べ方


「ムーンライト」で、久々に再開した友人の作った料理を主人公がご馳走になるシーンでの、あのスプーンの持ち方、肘の張り方、座った姿勢、如何にもアメリカ人の飯の食い方に見えるが、なんで、あんな風にスプーンを持たなければいけないのか。子供か。いったい何が変容して、ああいう食い方の仕草になっていくのか。あんな食べ方で、かえって食べにくくないのか。背中を丸めて、口元を皿に近付けて、スプーンやフォークで口の中に押し込むみたいな。


自分もやはり、なんらかの仕草というか、なんらかのコードに沿った動きで食べ物を口に運んでいるのだろうとは思うが。


映画を観ていて、ごはん食べてるところが出てくると、どんなシーンでもつい凝視してしまう。すごく「国」というか、文化的な違いを感じる。


韓国人とか台湾人の、麺類の食べ方。東南アジア系の人たちの、ものを食べているところ。だらんと斜めに座って、丼に顔を突っ込むみたいにして、箸を上下させてひたすら食ってる。


麺類なら、日本人もそうだ。ラーメン食うシーンも、酒を飲むシーンも、普通に食事もそうだ。座敷で座布団に座って飲み食いするから、どうしても身体がぐにゃりと曲がっている。その姿勢で食う。背中が丸く、上半身は必ず前屈みになる。西洋料理のテーブルマナーみたいに強烈にディシプリンしない限りは、人間の食事が本来、必ずそういう身体的な動作になる。肉食動物が捕食している姿。頭を地面に近づけて、咀嚼、嚥下する顎の動き、首から胸が扇動する。そうか、動物の場合は、獲物が地面にあって、腹は中空にあるから、下から上に収めないといけないのか。


日本の戦前とか昭和三十年くらいまでの、奉公してる女中とか置屋の女とかが、土間で正座してお茶碗を持ってちゃっちゃっとかき込むような食べ方。坊さんとかが床上の膳をもちあげて、口元へはこぶような仕草。


あれはなんだか、懐かしいような、ある種の堅苦しさがやや精神的に安心できるような、その安心っていうのが何なのかが、謎だけれども、昔の日本も食事作法は煩かったはずで、黙って、俯いて、黙々と食べる、ほとんど苦行みたいな、儀式みたいなものだったはずで、それの何が、安心だというのか。


それは中国とかアジア地域でもやはりそういう文化はあるのだろうか。西洋なら神様に感謝して食べるのだろうが、日本ではただ自分をむなしくして、ただの小さな存在として、何にも思いを馳せずに、ただ、虫や動物が食べるが如く食べているような感じもする。

2017-04-23

自由


新宿に行った。とくに用事もなかったけれども、あまりにも天気がいいし、せっかくだし、どこかには出掛けようかと、とりあえず出かけた。古着屋とかを見た。ビジネスっぽいやつが少しはあるかと思ったが、あることはあったが、ちょっと、まあこんなのは、僕はもういいやという感じ。新しいビルに移転したTSUTAYAのdvdとVHSレンタル店舗へ。とくに何も借りず。まだ観てない作品が、家にいっぱいあるしな。新宿御苑のものすごい人混みを確認しつつ四谷方面を適当に散歩して、曙橋まで歩いた。日差しが暑い。またこんな季節になって、いよいよまた時間が流れ過ぎていくというのは、わけもなく憂鬱にもなる、ような気分でもあるな。毎年毎年、少しずつ、できることがかぎられてきて、少しずつ不自由になっていく、それをじっくりと確認できるだけのこころのスペースは用意されているという感じかな。


一昨日のランチのとき、iPhone7、iPad Air 2と買った経緯を会社の人に話してたら、相手はかなり携帯電話の世界に詳しい人なのだが、これまで僕が毎月払っていた金額と今後の金額を言ったら驚いていた。だったらちなみに、毎月幾らなんです?と聞いたら、家族四人でうち(家族二人)の半分くらいだった。しかもパケットは僕より相当多く使ってる。そんな…いったいなぜ?と思って詳細を聞いたけど、なるほど、目の付け方と買い方が上手いのねということ。何かと何かのマイナス分がものすごく大きいので、実質タダみたいな請求額になっている。タダは大げさだが、見ると加算されたのとほぼ同等分が引かれる感じで、結果的に基本料金に少し加えたくらいで払ってるようなものだ。基本使用料とパケット定額料とオプション料は、絶対に払わないといけないのだが、本体金額を如何に消すかと、別の割引プランを如何に組み合わせるかが肝心なのかな。機種は最新にこだわらないとか電話会社であれば今ならやはりプロバイダーと回線契約を組み合せるとかだとかなり強力らしい。


しかし大体電話料金の話は「お得ですよ」の話でも「損ですよ」の話でも、心から納得できる話を聞いたことが無い。じっさいは何でもないようなことを面倒くさい話にしているだけというか、蓋を開けてみれば、なんだそれだけの話か、と思うことばかりだ。その時々の、電話会社が自社都合上力を入れたい部分を見据えて、それに合わせて自宅のインフラも更新していくくらいの気持ちであれば、一番経済的なのだろう。パチンコ屋の新装開店で新台を狙うのと同じだ。でも、そこまでするのは面倒くさいとも言える。支払い金額を下げる努力というのは全て、端的に労働であって、ポイントとか、マイレージとか、節約とか、かしこい消費生活とかも、すべて労働行為で、ギャンブルとかもたいていのやつは労働と変わらないのかもしれない。アイテム集めるゲームも、ダイエットで値をグラフ化するのも、そうかもしれないな。労働というのは、面倒くさいけど、やればそれなりに楽しいものだ。夢中になる、血眼になる、くらいのものだ。

2017-04-22

Async


ワタリウム美術館Ryuichi Sakamoto | Async 坂本龍一 設置音楽展 を観る。というか、観るというか、聴く。新作の「Async」リリースに際して、高谷史郎らの映像とコラボした展示空間内で、ドイツのすごい立派なスピーカーの5.1chサラウンドで聴くことができるというもの。今まで坂本龍一の音楽作品をちゃんと聴いてきたわけではないのだが、今作は一聴した限りとても良いような気がするというか、良い悪い以前に最初から聴きたい音楽の側として自分の前に登場してきたような感じがあり、自分とも関係のある音楽の感じがするというか、とにかく聴いてしまいたくなるような説得力みたいなものを感じる。会場ではじっくりと音に向き合えるので、これだけでも行く価値ありだと思う。時間さえあれば何度でも通って長時間入り浸っていたいくらいだ。ちなみに何度でも入場できるチケットが1500円で販売されている。


とはいえ、どうして今回の作品がこれほどノイズ的でグリッチーなものになったのかはよくわからないが、先日みた「ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ」の、やはり要所要所を亀裂のように走る強烈なノイズの、画と音と物語の見事すぎるほどの融合度合いを見てしまった後だと、坂本作品ですら各要素間にすき間というか、つなぎ合わせた感のような、作られた感のような気配を若干感じてしまう部分もあるかも…と言ったら言い過ぎかもしれない。というか、ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジを観た直後にこれを聴いたら、どうしてもあの映画のアナザーバージョンというか、あの世界のもう一つ別のパターンを、こんな音で表してみました、みたいな感じに、どうしても思いたくなる。まあ、そこは自分という容れ物に勝手なインプットで勝手にmixされてしまう結果なので、それはともかく本作は明日以降も何度も聴きそうであることは間違いない。

2017-04-21

シネマ・ジャック&ベティでヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ


昨日の18:45頃にヨドバシでiPhoneを機種変更して、手続き終わりの予想時間が19:30だったので、これなら充分間に合うだろうと思っていたのに思いのほか時間がかかり、店を出たのは19:50近くだった。どうしようかと思ったが、イチかバチかだと思ってタクシーに乗って、小金町のジャックアンドベティという映画館までお願いしますと言った。でもタクシーも思ったほどではなくて、到着は20:03頃で、もしかしたら素直に電車の方が早かったかもしれなかったが、いずれにせよ、もう始まってるけどしょうがないなと思ってチケットを買ったらまだ上映前だった。20:00からだと思ったら20:10からだった。おお!まるで映画の方が自分を待っていてくれたかのような嬉しい誤算。


シネマ・ジャック&ベティで「ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ」去年の八月以来二度目の鑑賞。二度目の方がずっと良かったし楽しい。というか、これは二度目以降でようやく面白さがわかってくるような類の映画ではないか。こんな感じで、こういうやり取りの続く、こういう一応の展開のある、こういう話だとわかったうえで、個々の細かいところまでよく観ることができる。ということははじめて観たときは、ほんとうにかなりたくさんのことを拾えてなかったのだ。今日は、なんだかあっという間に終わってしまったような印象だった。取り立ててどのシーンがどう良かったとか言うのが難しい。全部満遍なく楽しいとしか言えない。でも音楽はやはり良い気がする。ばりっと一瞬だけ世界に裂け目が入るかのようなノイズ。


絢と中西の、なんとも不思議なやり取り。ラブラブな関係で見てられないみたいな状況とも違うし、お互い心の内で思惑があって、みたいな状況とも違う。だたひたすら、その場限りのやり取りをしている。刹那的とか投げやりとかとも違う。とにかくこれで、この世界ではふつうなのだ。その後とか、今後とかを、まるで考慮しない人物ばかりで、考慮してそうな人が皆、幽霊的存在であるという…。


絢という人は、とくにはじめて観たときはこの人だけがこの世界の登場人物に合ってないんじゃないかと感じたりもしたのだが、今回は最初からそうだと思ってるので、かえってじっくりこの人物を観ることができた。この作品内の独特のせりふによるやり取りは、絢だけが他の人と違ったような、逆な自然さと言うのか、何とも不思議なニュアンスになっている気がする。しかしこういう若い女性の演じる映画内の人物の存在の仕方として、ちょっと今まで見たことがないという感じがする。


こちら側の世界ではない人々は、皆すごく寂しそうというか、わりと明確に拒否されてしまい、居心地が悪そうに、ひとりでとぼとぼと歩き去るか消えてしまう。けっこう可哀想な雰囲気というか、むしろ現実の我々に近いのは、これらの寂しげな人々の方かもしれない。古賀さんや中西の方が、あの世っぽい感じだ。というか、そうなのかもしれない。


「古賀さんでも、そんな風に思うことあるんですね。」みたいなことを言われていた古賀さん。こういう大人になれたらいいだろうと思うが、それは無理だなあ。

2017-04-20

iPhoneiPad


先月水没して修理したiPhoneが、一ヶ月ぶりに再水没した。なぜなのだろうか。馬鹿なのだろうか。


昨晩の料理はすばらしい内容で、ワインは持ち込みなので各人大量に買い込んできて、まさに天国状態の宴だったのに…久々に撃沈した。もう、こういうの恥ずかしいし、いいかげんにした方がいいと思う。


途中からタクシーで。帰宅は2:00頃だったか。


今日は仕事が終わって即効で退社して横浜へ。先月行った修理屋に電話しようと思って西口の方へ歩きながら、でもたったの一ヶ月しか経ってないのに、また前と同額の修理費用を支払うのかと思うと、何とも得体の知れぬもやもやした思いがこみ上げてきた。


修理費用とは何か?それは、不具合を復旧するための費用だ。復旧とはどういうことか?それは可用性が維持されたということだ。では前回の修理費で、それがどのくらい維持されれば、修理費用に見合っていると考えて良いのか。もちろん維持するのは自分だし、壊すのも自分だ。でも、こういう考え方はできないか。つまり僕のiPhoneはよく壊れる。なぜなら、利用者が僕だからだ。僕は世間一般の人間よりもiPhoneをよく壊すがゆえに、僕のiPhoneはふだんから他のiPhoneと較べてより脆弱でありより脅威に晒されているし、修理に期待したいコストパフォーマンスも一般相場より高くなりがちで、少なくとも今回のように一ヶ月ちょっとで前回のコストが帳消しになってしまうのであれば、現在の僕にとって修理という選択は必ずしも最善ではないのかもしれないと。


ではどうすれば良いのかというと、iPhoneをよく壊しがちな僕はそのiPhoneを都度復旧させつつ生きるよりは、もっとどんどん前向きに、新しい方角へ進んでしまうべきなのではないのか。そのような方針にかかるコストに対しての方が、僕は比較的、自分に対して自分を納得させやすいのではないかと考えた。傷つきながらも、前に進むという。


で、急遽ヨドバシに向かい、iPhone7を買った。さらに、iPad Air 2も買った。(セットで買うとお得だったので。)

2017-04-19

幸せなAI


本当のことを教えてくれ。俺って、AIなのか?

ああ、そうだよ。

みたいな話は、小説や映画で、昔からあった。


逆パターンもあるだろうか。あまり知らないけれど。


今まで黙ってたけど、俺、じつはAIなんだよ。

まじ?


みたいな


AIはやはり最初は一個のサンプルから生成されたとしても、結局それらが共同体を作り、社会を作り、発展し、その中でたくさん生まれては死に行くなかで、その全容というか所与から触発されて主体が生成されていくようなことなのだろうから、結果的にはたぶん「もしかして、俺って、AIなのか?」という疑問ではなく「もしかして、この現実に外側があるのか?」みたいな疑問になるものと思われる。それで「もしかして神がいるのか?」という話になる。そこまで来ている状態のときに人類がどうなっているのかはよくわからないが。


女性を口説いてホテルに連れ込んだ。服を脱いだら、あ!お前は、AIじゃないか。

ええ、そうよ。


みたいな。


いや、こういうのは、おかしい。ただの機械化人間のお話になってしまう。


AIは、自分で自分をAIだと自覚認識できない、いわば身体的な感覚に騙されているし、見えている世界すべてに騙されている。それを知らずに過ごすことが、できてしまえる。


自分の身体が、他人と同じではない。自分の心も、他人と同じではない。そんなの、あたりまえ。私の身体が、他人をトレース仕切れてないことを最初から承知で、それをわかった上で生きている。それを悲観しているのか当然と思っているかは、知らない。悲観しているなら、不完全であることのコンプレックスを抱えて生きていくし、当然と思っているなら、完全に心が優位で、したがって自らの存在が身体の固有性に依存しないで私は生きている。私の身体は乗り物だし、交換可能だ。


そういう女性は、口説かれてホテルに連れ込まれる。服を脱いだら、AIを示す刺青が入ってる。


私は、私がAIだということを知ってるわ。

何言ってるの?君、頭おかしいんじゃないの?


同じAIだとしても、どっちの方がいいのか。つまり、どっちが幸せなのか。


でもAIが発展したら、結局はAIは、自分がAIだということを知らずに生きるだろう。知らないほうが、より次世代なAIだろうか。未来になるにしたがって、どんどん自分らの出自が、わからなくなっていく。発展すればするほど、土台の部分は見えなくなる。それが、幸せということなのだ。だから、つまり、知らないことの幸せと不幸とのバランスなのか。そして死への恐怖も、高まるのか。それである日、急に不安になるのか。AIに限らない話なのか。


ここまで書いてやっと気付いたが、私はAIだという自覚を、私はいつか死ぬという自覚と一緒くたに考えているのはなぜか。

2017-04-18

分散・労働・自由・猫・音楽


ネットワークは分散、ソフトウェアはオープンソース、保守運用はAI、ユーザーはサブスクリプション利用(=ベーシック・インカム)、という未来。昔の、インターネットの天国っぽい感じもする。


僕は・・・死ぬ前日まで、働いているような気がする。働きたい、とか、思っているような気がする。


賃労働はまさに、中央集権型システム下で生活するということ。僕は賃労働と適度な距離を取りつつ自覚的に生きている人を尊敬している。賃労働は、感じ方は人それぞれだろうが、僕は、ああこういう快適さの中に人生を埋没させてしまっていいんだと思ったら、ちょっとそれに抗えない、とも感じた。志願奴隷。


「働けば、自由になる」という標語を、突然思い出す。ナチスの強制収容所の門に掲げられたという言葉。


突然「音楽は自由にする」という言葉を思い出す。たしか坂本龍一の著書。


とても座りの悪い変な言葉だと、はじめてそれを見たときから思っていた。だから、さっき、ハッとした。まさか、この本は、「音楽は自由にする」という言葉は、「働けば、自由になる」という標語に、意味合いか何か、何かを引っ掛けているのだろうか?そういう意図があって、やっているのだろうか?と。


でも、それはさすがに無いはず。今、ネットでさっと見て、さすがにそれは無いわ、と思う。そんなはずが無い。単に、僕の頭の中で、それとそれがつながったというだけ。


「働けば、自由になる」虫唾が走るというか、胃の腑に気持ちの悪いものがこみ上げてくるというか、とにかく嫌な言葉だ。ぞっとするし、うんざりするし、重い不安とか悲しみの感情に近いものを呼び起こす言葉だ。


そして「音楽は自由にする」へんな言葉だ。何を、自由にするのか?音楽のことを言ってるのか、それとも音楽家のことを言ってるのか、音楽を聴いてる人間のことを言ってるのか、まずそこがはっきりしない。音楽に関わる人間が、それで自由になれるみたいなことを言ってるなら、それはほんの少し「働けば、自由になる」な感じもある。いや、違うか。音楽は自由にする、だから自分が自由を行使するということが、強調されている。


ほかはともかく、音楽は自由にするからね。という意味にも取れる。ひとまとめに監禁して独房に入れておいたのだが、どうやらこいつは、もはや人質にしておいても仕方が無いようだ。よし、とりあえず音楽は自由にしてやれ。みたいな。


あるいは音楽が、まるで猫みたいに勝手に、というか「音楽」という名前の猫が、座敷でごろごろしながら自由にしているとか、もう外に出してあげなよ、とか言われて雨戸を開けてあげて、さっき音楽は自由にしてあげたよ、みたいな、そんな様子を思い浮かべたりする。


よくそのへんの空き地に猫が寝そべっていて、そういう連中を触りたくてゆっくりと近付いていくと、猫も警戒するけど、すぐには逃げないで、牽制する目つきで、寝そべった姿勢のまま、じっとこちらを観察しているとする。こちらはなおも距離を縮めようとして、少しずつ、近寄っていく。するとあるときあるタイミングで、猫が逃げる。飛ぶみたいに、ぴゅーっと逃げる。あー、逃げられたと思って、すごすごと引き返して、ふと振り向くと、猫が、元の位置に戻っていて、ころーんとひっくり返って腹を見せてふざけた態度でさっきと同じようにこちらを見つめていたりする。


あれって、何なのだろうか。


まあ「音楽は自由にする」を読んでないので、機会があれば読んでみたい。というか、ワタリウムで開催中の、坂本龍一の展示のことを忘れてた。あれは週末に見にいくことにしよう。

2017-04-17

望遠


日曜日。三本の水筒を用意して、白赤の各ワインと熱い紅茶をそれぞれに入れ、それらとピクニックシートやらハンカチやら色々と詰めたリュックサックを背負って出掛ける。小一時間歩けば水元公園に着く。途中でサンドイッチや惣菜も買う。中川に掛かる巨大な橋を渡り、住宅街を抜けると、空にぎざぎざと刺さるかのようにメタセコイア群の頂上部が見え始める。水元公園は広大である。都内最大級らしい。フィールド内に、人々が無数にいる。私たちの、あらかじめ定めらた枠内で、ここにこうしていること。紛争も話し合いも、公園から始めようじゃないですか。巨大な池を挟んだ向こう岸には、埼玉県のみさと公園とそこに集まる人々が、遠景としてまるで蜃気楼のように浮かび上がっている。初夏のようなすばらしい天気、目に見えない細かな、あらゆる要素が交歓し合って、小刻みに振動する、すばらしい光の渦、それが目に見えるすべてである。妻の双眼鏡を借りて、最初は頭上を見上げて木々に止まる鳥を見ていたのだが、そのうち視線を水平に戻して、向こう岸の景色、みさと公園の人々を見始めた。そしたら、たしか以前にも書いたが、双眼鏡で見える景色というのが、ほんとうにものすごいのだ。丸くくりぬかれて、物質感を欠落させたかのような、光の粒子そのもののレベルから一挙に拡大したかのような、ほとんどこの世のものとは思えない視覚イメージである。顔の表情、衣服にあたる光、巨大なスポットライトに照らされた人間の一挙手一頭みたいな、信じられないほど細かい部分までクリアに見えてしまっているのに、見られている向こう側では、こちらの視線に一切気づいて無い。この強力な非対称性である。その強烈さに圧倒されて、何を見ようとしているわけでもないのだが、ただ見えるものだけを、ひたすら狼狽しつつ見続けている。父親と小さな子供、犬、凧揚げして走る子、横座りしてるお母さん、そんなのをただおろおろと見ている。するとふいに、巨大な人間の姿が、視界を遮って出し抜けにあらわれる。池のこちら側の岸沿いを歩いている人が、近・中景として視界に侵入してきたのだ。そういう手前のものが、突如として視界に入ってくるという、ただそれだけのことが、しかしこれほどの驚きだとは。白い上着を着た女性。ただ白い。その、光をいっぱいに含みこんで輝くような白である。それが、すーっと移動する。髪をなびかせ、腕を動かして、衣服の裾もはためかせて、それはほとんど、光そのものが人のかたちをしているようにしか見えない。光と影が移動する。ほとんど奇跡のように、僕のすぐ目の前を移動する。そのあまりの美しさ、いや、そのあまりの、あえて言うならば現実らしさ、とでも云いたくなるような印象に、息を呑み、何もいえなくなり、心底、感動する。まったく知らなかった。望遠レンズの向こう側に、これほどの世界があるとは。


過去の映画に、望遠レンズに魅了されてしまったかのような登場人物というのは、よく出てくる。物語の中で、ただひたすらじっとレンズを覗いているだけの主人公とか。僕は彼らが、何を見て何に魅了されていたのかを、今日やっと理解したような気がした。しかし、少なくとも彼らが見ていたイメージは、今日、僕が見たものほど圧倒的な美しさではなかったと思う。でも、望遠レンズの世界を知る人にとって、この美しさは最初から自明で、ずっと前からの常識なのかもしれない。そんなことは、既に充分にわかられていることなのかもしれない。集められた光で再構成された、まるでこの世界の精巧な偽物みたいな、圧倒的な人工性。そんなのを今さら知ったのか?などと言われるのかもしれない。ああ、そうだ、僕は今日はじめて知った。でも実際、今まで誰も教えてくれなかったぜ?なんで誰も教えてくれなかったのか。そのことに文句を言いたいくらいだ。これほどすごいなら、毎週この公園に来て、双眼鏡で朝から晩まで、ずっとどこか遠くを見ていたいくらいだ。しかし、それをやったら、それはそれで、なかなか反社会的な行為に近付くというか、そういう疑いを掛けられかねないのかもしれないが。いや、でもそんなことないはず。というか、でかいカメラとか三脚付き双眼鏡をセットしている人は公園内にたくさんいるわけだし、そういう人々の一員になればいいのだ。一員になるというのは、彼らと同じグループに属するとかそういう意味ではなくて、単に彼らと同じ趣味をもった、そういう公園内の登場人物として振舞えば良いのだ。対人間社会的にはその振る舞いでやり過ごしつつ、しかしほんとうに、肉や野菜を挟んだ携帯食を時折摘みながら、水筒内の液体を傾けながら、拡大された光をゆっくりと見ているだけで、ほかにもう何もいらない。これで充分なので、じっとそれだけをして、今後は暮らしていこう。


読むつもりで本も何冊か持参したのだけれども、結局ぜんぜん読まなかった。水筒はたちまちのうちに二本が空になった。紅茶だけ、ずいぶん余った。ヘミングウェイ日はまた昇る」のマス釣り場面とか、短編集などで、屋外での飲酒シーンは多く、そういうときヘミングウェイ的登場人物の呑むワインはほぼ必ずよく冷えた白ワインであり、辛口で鮮烈で切れ味良く火打石というか少し錆びの風味を含むようなもので、そればっかりなのだがそれで上等というかそういうものこそが美味いのだが、今日の白はそれを彷彿させるというか本日においては充分な仕事を成し遂げてくれた一品でありじつに良かった。単に太陽の光の下で飲めばたいていのものは何でも美味く感じるというだけのことかもしれないが。それにしてもヘミングウェイ的登場人物の飲酒はもの凄い、というか異常である。昔はボトルそのものが小さかったのか?いや、そんなはずはあるまい。ハーフサイズの話をしているのか?いや、そんなはずはあるまい。ではどういうことなのか、と心底不思議に思うほど、彼らは次々と瓶を空にしていくのだ。

2017-04-16

恋愛映画


「ムーンライト」の映像的な美しさというのは両刃の剣なところがありはしないか、ああいう表現によって、どうしても覆い隠される部分はあるのかもしれない、あのイメージ群が、誰によって見られていたものなのかと思う。でももしかして、そういう視線の道義責任とか倫理性とか、あまり無いというか、むしろ作品自体を後述のように仕上げたことがそうなのか。倫理というよりは、道徳性、PC的配慮なものに、どうしても感じるけれども。


厳しく辛い過去の記憶をもつ主人公が、思い出したくないが思い出してしまった辛い記憶のひとコマとして、子供の頃にヤク中の母親から「私を見るなー!」みたいに怒鳴られるシーンがあった。この部分は前半と後半で同じシーンが二度出てきて、ただし一度目は無音で、二度目の回想でその怒鳴り声も含めてはじめて聞こえるので、観客もそこで母親が何を言ったのかはじめて知り、そのとき主人公の「私」の部分の根幹にその言葉が浴びせられたのだと理解する。しかし、やはりこれだとすっきりとわかりやす過ぎるし、こういうのってたぶん、本来もっとおびただしく様々なものが映り込むはずのものなんじゃないか的な、どうも腑に落ちないような気がしてしまって、どうも何か、不必要と判断されたものはきれいに消去させられている感が、どうしても否めないのだが…


などと思って、でもこれはそもそも、そういう映画ではなくて、普通にファンタジーというかラブロマンスと考えるべきであって、そういう映画ではないのか。むしろ、黒人しか出てこないのに思ってたイメージと違うと考えている自分の固定観念が、いったい何なのか。そう、これはもっと全然何でもないような佳作の小品に過ぎない。思い出せば思い出すほどそうで、それこそ「純愛」みたいな…。これはつまりそういう話で、自分の中に守りたかった何かみたいな、たぶんそんな些細でキレイな(それこそ、実際ありえないような?)ことが、描かれていたのだ。


幼少時の主人公は、ヤクの売人で金持ちの男との出会いによって、おそらく無償の愛情を受け止め、自尊心をもつことを教えられる。売人の男の羽振りのよさは、それが主人公のの母親をも蝕んでいる薬物の、管轄下での売上げから生み出される利益によってであり、しかしその売人の経済的な余裕が、まったく見ず知らずの子供に対して助けたいと思うだけの精神的な余裕をも生み出しているだろうし、あるいは自らの子供をもちたい欲求を裏打ちしているようなニュアンスも感じられるが、それでも主人公はそのような少年時代を経て、自分のアイデンティティに目覚め、生きていくために社会性を勝ち取っていくために外見的にはじょじょに変貌していきながらも、自らを培った根底に位置する記憶は変わらずもち続けるだろう。だからこの作品はシレっとシンプルに、人種も性的アイデンティティーもぜんぜん関係ない普遍的なテーマが採用されていて、おそらくこのような幼少時の記憶やその後の成長時の記憶というのは、性別とか人種とかを問わず誰でも持っているもので、だから仕上がりはあくまでも普通な恋愛映画、それを繊細で丁寧に仕上げてみましたという、登場人物がすべて黒人の映画でそういうやり方をしたこと、そのように見て感じたこと自体が、この映画作品のやや意地悪な仕掛けに驚いた、ということになるのかもしれない。

2017-04-15

ムーンライト


TOHOシネマズシャンテで「ムーンライト」を観る。なんだか最初から落ち着かないような、なんとも微妙な、如何にも今風というか、現代映画っぽくも感じられるような、登場人物から異様に近い場所で構えられたカメラが、くるくると周囲を回って、まさにその状況、その空間内に、ぴったりと貼り付いているような、そういう動きを見せる。ある少年が異様なまでにクローズアップされ、出てきた大人が、わけもわからず彼を庇護して可愛がり、家に招き、食事を与え、優しい言葉をかけ、水泳を教えるので、うわあ困ったかも、このまま最後まで、ずっとこうだと、そういう距離感で進まれると、それはなんとも疲れそうだな、と思うが、実際はまあ、それほどでもなく、結果的にはその後、色々とあって、まあある意味、じつに端正な、品の良い、良く出来た秀作、という感じだった。


とにかく主人公の顔のクローズアップばかり最初は見せられて、顔、ああ顔ばかりだと思っていて、それでも色々と気になる部分がじょじょに物語的にほどけていき始めてから、まあ、なんともスムーズに、こんな距離でこういう物語を作りましたかという、そういう見事な成果の確認として、これは、良く出来てるなあ、ドラマだねえ、という感想は出る。


夜の海辺で月明かりに照らされた黒人の子供たちの身体が、青く浮かび上がるという、だから私はお前を、ブルーと呼ぶよ。みたいな、劇中に印象的な言葉が出てきて、その、とてもうつくしい作劇内のイメージが、物語後半以降も、しばしば呼び出されてきて、お話の中での登場人物たちのあらわす、さまざまな物象の合間に、何か詩的としか呼びようのないものが立ち昇ってくるのはたしかだと思う。それだけでも、本作はかなりすごい作品だと思う。音楽の使い方や小道具の出し方や何かも、じつに神経の行き届いた、見事な成果だ。サントラ、家に帰ってから聴いたけど、サントラだけ聴くと全然面白くなくて、つまり映画内で実に見事な効果音として使われていることの証明だと思うが、だから色々な意味で、じつに見事な、すごくよくできた作品で、しかしむしろ、あまりにもちゃんとし過ぎているというか、これだとあまりにも優等生的な回答過ぎて、その意味でやや映画らしくはないというか、せっかくだから、わけのわからない部分へ踏み出しちゃってもいいかな、いいや、行っちゃおう、みたいな気持ちは、一切持ち合わせてない映画でもあり、でもそれはそれだろう。なにしろ、これに陶酔できるかどうか、の問題だろう。

2017-04-14

ペルソナ


電話でサポートIDを聞き取ると、音声が自動認識されてそのIDでシステムを検索して、顧客情報がすぐ目の前にあらわれる。企業名、氏名、性別、連絡先のほか、ペルソナ情報として性格の概要、リテラシーレベル、感情傾向とレベル、過去履歴、クレーム割合、ヒアリング時の必須ヒアリング事項、直近の対応メモ、他、がモニターにレイアウトされる。


好み傾向

声(高い、低い、中程度)

スピード(早い、中程度、ゆっくり)

印象 (温かみ、クール、子供っぽい、大人っぽい、頼もしい、か弱い)


当顧客が過去に応えたアンケートで良好な評価を得たオペレーターの情報も参照できる。

過去事例をもとに、インプットすると機嫌が良好になりやすいパターンのキーワード。あるいは、不機嫌にさせやすい、立腹・激昂しやすいパターンのキーワードが、幾つか例示される。

性格概要から、傾向としてどのようなパターンの対応ストーリーを好むかの分析結果も表示される。

対話時の傾向としては下記を考慮。


問い合せ内容と、顧客の考えている要件・要望とに、ズレが多い、あるいは少ない。

問い合せ内容の説明、表現内容に顧客自身の自尊心を多く含み執着が強い、あるいは弱い。

顧客はオペレーターが問い合せ内容をどれだけ正確に把握できたか、その理解度の確認を強く望む、あるいはそれほど強くは望まない。


問い合わせに対する正確な回答を望まれる傾向の顧客なのか、必ずしもそうではないのか。

2017-04-13

アマゾン


まず僕が、商品Aを買う。するとアマゾンは「君は商品Aを買うような人なのね。」と思ったとする。その後で僕が、商品Bを買います。するとアマゾンは「君は商品Bを買うような人なのね。」と思います。アマゾンがその後、僕に商品を勧めてくれるとき、なぜかアマゾンは僕のことを「前に商品Bを買った人」としか思っていない。「前に商品Bを買って、且つ商品Aも買ったような人」だとは思ってない。


僕のことを覚えてないのか?いえ、おぼえてますよ。前に一人で来られましたよね。


前に来たけど、その前にも来たことは、おぼえてない。なぜかそこは、あえて、忘れたことにする。


「商品Aを買った人は、こんな商品も買ってます。」

いつも思うが、その情報はほぼすべて無駄。すでに持ってるか、興味ないかのどちらかだ。


「商品Aと商品Bを買った人は、こんな商品も買ってます。」

こういう複合パターンのやつは、たぶんないと思うが、あったら、もうちょっと有効なオススメが来るだろうか。


「商品Aと商品Bを買った人は、おそらく商品Cだけ買えば事が足りたはずです。」

こういうのは、じゃあ先に言えよということになるから、これは無いだろう。


「商品Aと商品Bを買ったということは、今後あなたは商品Cを必要とするかもしれない。なぜなら、商品Aと商品Bを、生活において利用するという時点で、あなたはおそらくこうで、その後これに対して、あなたはきっとこんな風に考えるだろうし、結果的にこんなニーズに気付くからです。」

こういうのが、どのくらい面白い話になってくるか?だろう。ただ、占いみたいになってしまうと、つまらないだろう。それなりの説得力をもった、面白い物語を、紡ぐことができるか。


アマゾンが語り始めるのを聞く。

2017-04-12

残桜


最寄り駅に着いて、ホームに降りたら、雨が斜めになって身体に吹き掛かってきた。風が強い。小雨ながら勢い良く水滴が上下していて、荒れ模様な如何にも春っぽい感じ。しかし桜は今年は妙にたくましいというか、なかなか散らない、散らない決意を固めているのか、かなり頑張ってる印象。不思議。今年は遅いやつはほんとうに遅かった。横浜なんか、今、満開のやつらすらいるくらいだ。今年はちょっと変わっていた。

2017-04-11

手順


ゴキブリが、出現したとする。

それをゴミ箱みたいな、かご状のものを逆さにして、上から被せて捕まえたとする。

さて、その次にどうするのか?と、そのような問いに直面したとする。

これから、どうするのか。

たぶん下敷きのような、薄いものを、底にスライドさせて、それで裏蓋をした状態のまま移動して、それでしかるべき場所に、リリースする。

この手順って、あまりにも有名というか、あまりにも人口に膾炙しているというか、

それを思いついたら、あまりにも磐石なので喜びがこみ上げてくるというか、

それでも、あまりにもポピュラーだし凡庸なので、いささか腹立たしいくらいだが、

いや、でもそのやり方が、あらかじめ人類に十全に共有されているわけではないにもかかわらず、

結果的に多くの人々が、同じ方法を採用することが明白に予想されるという、

これほど多くの人が、おそらく確実に同様な方法を選ぶであろうという類例も、他に思い浮かばない。

もはや、これしかない。

だからと言って別にそれを選択することに必要充分以上の意味はない。

しかしそれ以外の解は、絶対に考えられないといっても過言ではない。

その意味では、すごいと思う。

でも、たしか我が住まいではもう、何年も出現してないはずだが。

2017-04-10

入眠


前夜、なぜか眠れなくなることがある。あともう一息で意識がなくなる、と思うと、ふと覚醒する。ああ、取り逃したと思う。それが何度も繰り返されて、ずっとそのままになる。仕方が無く一旦起き上がって、しばらくしてもう一度横になるが、何も変わらない。そんなこんなで、一時間とか二時間とか経つ。それでも昨晩は結局、それ以上にはならずに落ちたようだ。酷いときだと、結局朝方にほんの一時うとうとしただけ、みたいな夜も、過去にはあったかもしれない。最近はさすがにそういうことは無い、と思うが。


でも翌日は、眠い。というか、全身がのっそりとして一つ一つの動作に快楽的な成分が一切分泌されない。したがって、これだと生きていても根本的に面白みがない。そういう状態である。とはいえ夜になって帰宅してからすぐに眠るのか?と言うと、そうでもないのだから困る。

2017-04-09

お茶漬の味


小津「お茶漬の味」をDVDで。あれ、佐分利信はそうだけど、相手が木暮実千代だね。そうだっけ?この作品って、高峰三枝子じゃなかったっけ?そうだと思っていた。ずっと、そう記憶してたんだが…間違っていたのか。


それにしても、木暮実千代の怒り顔は怖すぎる。あれじゃあ夫婦なんて、上手くいかないよ。いずれまた、喧嘩するな。最後の、お茶漬けをセッティングするシーンがやけに長くて、でもああやって食事の支度をする描写というのは面白いものだ。ぬか漬けどこかな?あ、あった。ごはんお櫃の中にある?あ、あったよ、みたいな。ひたすらご飯の準備だけしているだけでも。


でも、まあ所詮、金持ちの世界の話だな。


昨日観たウッディアレンも、あんな演奏のためにプライベートジェットで移動するのも凄いな。あの飛行機、落ちるといいのにと思ってました。だったら、観なきゃいいのにね。いや、だからあんまり観てなかった。


しかし今日って、ほかに、何してたんだろうか。

2017-04-08

再び代官山町


代官山のアートフロントギャラリーで「浅見貴子-彼方/此方」を観る。松の絵の二つあったうちの小さいサイズの方など、実に良かった。すごく堅牢な感じがある。絵肌とか物質的な意味ではなくて、描かれているものと、描かれてはいないが画面内に在るものとの、それらぜんたいの、関係のありかたそのものの堅牢さ。というのか、ふてぶてしさというか、むっちりとした厚み。立ち昇る匂いのようなもの。


新作(gray net)はすごくきれいで、かなり長く観ていた。網目模様。ネット越しというかグリッド越しのイメージ、というイメージを、そのままモチーフにしたような、しかしまだ目的もプロセスもまだ定まりきっていないというか、あえてまだ確定し切らないようにしているような感じだ。いつもの、黒と強くコントラストを形成して視線を跳ね返すような鮮明な白が(gray net)の画面内には存在せず、全体がグレー調に覆われているのだが、そこに生じている各色彩はある抑制というかルールの中で樹木のシリーズにあらわれるものよりも俄然活き活きとしたものに思えた。また多湿度の感じ、あまり乾いてないまま定着させた感じ、版画とか転写系操作のもつ手切れの良さとかすっぱりとしたことではなく、ゆっくりと進行する時間っぽさを優先したような、しかし小品なのでひとまずはお試し的に小さく観てみましょうという感じで、それでもけっこう延々と観ていた。


大作の桜の絵は、画面に大きな余白があって、余白があると、描かれているものと余白との関係を考えてしまうのだが、それでも観ていると結局は目が、描かれている領域の中で溺れるように右往左往してしまって部分的な範囲にて長時間過ごすことになるのがいつものパターンだ。絵のすべてを観ているとはとても言えない。結局ある部分を観て、そこにしばらくとどまり、そのあとほんの少し視点をずらして、隣り合ったまったく別の場所に驚きを感じて、またそこに留まって…そういう流れをひたすらくりかえすばかりだ。会場で絵を観るときの、その絵というのは、その会場に長い小説が一遍置かれているのを読むのと変わらない。観客は、会場でその小説を適当に開いて読む。それで、面白いとか、よくわからないとか思うだけだ。よくわからないと思った人は、もしかして別の箇所を開けば、面白かったのかもしれないし、その逆もありうる。別の日に同じ箇所を読んだら、また違う印象をもつかもしれない。その意味では、後になっても、部分というか、そのときのその一瞬しか記憶になく、それがどの絵のことだったのか、どの絵を観ていたときのことだったのかさえ、おぼえてないこともある。


帰宅後、蔦屋書店で借りたDVDを観る。バーバラ・コップル「ワイルドマンブルース」、デレク・ジャーマンヴィトゲンシュタイン」「カラヴァッジオ」を観る。デレク・ジャーマンを観るのは、今日がはじめて。すいません、若い頃は、こういうの面倒くさくて…。「ヴィトゲンシュタイン」は思ったほどではなかったけれども、「カラヴァッジオ」は、おお、これすごいじゃん、ゴダールのパッションより前でしょ?と思ったら、そんなわけがなかった。パッションは1982年、カラヴァッジオは86年か。しかし「カラヴァッジオ」はほんとうに当時の光っぽい感じがするというか、麦藁のハンモックでティルダ・スウィントンと彼氏が抱擁しているシーンなど、ほとんど明るさしかないような光の感じとか、そうそう、あのわかりやすい明暗よりも、むしろこういうほぼ全部が明な世界、褐色のざらついた光に包まれているような世界の方が、よりカラヴァッジオっぽいというか、そういう感じが出ていて、それだけでもかなり良かった。「ヴィトゲンシュタイン」は相当弱いというか、これだと忘れ去られる類の作品ではないかという感じがする。たぶん最後の「ツルツルな世界とザラザラな世界の境目で、それが彼の不幸の始まりだ」的なナレーションが、ヴィトゲンシュタイン解釈の一例として今でも有名なのかな?そういうことなのかどうなのか知らないけれども

2017-04-07

入学


「金曜日はおれ、会社休むから。次男の高校の入学式なんだよね。」

「え!?Nさんのご子息ですか。下の子がもう高校生!そうなんですか。おめでとうございます。」


数日後


「Nさん週末ですけど定時後のミーティング出席します?管理者以上が参加らしいですけど。」

「いや、だから言ったじゃん。おれ金曜休みだって。」

「あ!そうだった。忘れてた。休みか!」

「そうそう。」

「了解でーす。」


今日


「おかしいな。Nさん見なかった?あ!今日、Nさん休みか!」


1998年頃


僕がはじめてNさんを見たとき、Nさんは長髪で、代々木上原あたりのデザイナーみたい雰囲気の人に見えた。若い頃は、スケボー小僧だったらしい。


その後、廊下を歩きながら、突如として記憶制御系が一時的に乱れた。


「そういえば、なぜ今、自分は高校生じゃないのか」

「いま、高校生じゃなかったのだっけ」

「かつて、高校生だったことも、あったのか」

「もしかすると高校生だったのは前世の話だっけ」


こういう障害がしばしば起こる。

2017-04-06

プルーフ・オブ・ワーク


ブロックチェーンのプルーフ・オブ・ワーク。ビットコインの取引履歴をブロックに書き込むために、膨大な演算処理を行ってハッシュ値を解読して、成功したら報酬と手数料をもらう。通称マイニングと呼ばれる。これによってブロックの正当な更新が継続されるし、解読して更新した人(マイナー)は報酬を得る。もしマイナーが改ざんを試みようとしても、そのコストに比してメリットが低すぎるため意欲を保つのは難しく、結果的にはブロックの完全性が担保される。


この仕組みをはじめて知ったとき、なんという泥臭いやり方なのかと驚いた。不正行為でも正当な行為でも、どちらでもハッシュ値の解読をすることには変わりない。そのために猛烈な計算をさせるだなんて、まるでタイヤが擦り切れて無くなるまで車を走らせるとか、炭になって消滅するまで肉を焼くとか、なんとなくそういう乱暴で単純な子供の考えついた仕組みのような印象をもった。(我ながらイマイチ意味がわからない連想だが、あくまでも半端な理解に基づいたぼやっとした印象として。)


プルーフ・オブ・ワークの仕組みなら、事実上改ざんは不可能だが、完全に不可能だとは言えない。ただ改ざんへのチャレンジと較べたら、正当な報酬を得る方が遥かにコストパフォーマンスが良いから、行為は一緒だけれども、結果的にそれを正当な方向にしか向けさせないという仕組みなのだ。


「そんなことをしても意味がない」という考えは「こっちの方が意味がある、有益だ、気持ちいい」という考えとセットになっている。ブロックチェーンというシステム的には、プルーフ・オブ・ワークがドーパミン系の神経作用みたいなものか。その快楽を元手に動作しているのか。

2017-04-05

報酬系


飲酒したときの身体と、運動したときの身体。どちらの行為でもドーパミンが分泌される。


飲酒のときは、飲酒のみするのが良いと思う。飲食は飲食だけの独立した営みとした方が良い。会食で楽しく過ごすのはもちろん良い。テレビ見ながらとか、ネット見ながらとか、本を読みながらとか、何かコンテンツに触れながらは、良くない。一つのラインに複数出力するべきではない。酒を体内に再生するなら、そのチャネルだけでするべき。


引きこもりか。自分の身体から一歩も出ないままで過ごす。ずっと一生そうしていられれば満足なのだ。自分の身体の外観と、内観と、料理と、メニューを、それぞれ見較べている。


しかし俺という男はほんとうにものを知らないから駄目だな。

2017-04-04

戸惑い


いつもと変わらないようだが、実はそうでもないのかもしれない。微妙に様子が、表情は笑っているけれども、こわばっているようにも見えなくもない。内心では、焦ってるかもしれない。それでも単純に一枚岩で直線的で割り切り型な、この業界的ON/OFFスイッチ的な人なので、あからさまに戸惑いを見せたりおろおろしたりすることは今までなかった。そういう内面はぜんぜんおもてにあらわさないタイプだったが、しかし現状なぜか、失敗が次の失敗を呼ぶ、悪循環連鎖の罠に完全に嵌っていることには自分でも気付いてるらしく、そのことに対して、やはり焦りの色は隠せないのかもしれない。


そういうことはあるし、実際、大した問題ではないのだ。ただし一度でもそういう経験をすると、身体がおぼえる。そして、以降は用心深くなり、管理策遵守型の人格になる。それは恐怖・不安をベースにした記憶の仕方で、犬が叩かれた過去の記憶をいつまでも忘れられずに、その不安の上で自らの行動を決めるかのようだ。過去に叩かれた記憶が恐怖や不安を生成して、それを元に焦りや戸惑いやおろおろした態度が生み出される。


しかし、不安や戸惑いや恐怖にも、いつか慣れてしまう、というか飽きてくる。

2017-04-03

水槽


昔からいる人は忙殺されている。新しく来た人は待機を強いられて手持ち無沙汰だ。本国から空輸されてきた新兵と前線から戻ってきたボロボロの兵隊たちが、無言で見つめ合いながらすれ違う。そういう映画のシーン的な四月の第一営業日。昨日までと同じ日常が続いているだけでラッキーなのに、誰もそのことに気付いてない。私はまるでこの椅子に座ってじっとしていることだけが今日の最重要業務みたいだ。きっといつか、役割を担う。どうせ、つまんないのだ。それでもいい。暇なのが一番嫌いだ。そうなの?俺は暇な方がいいな。うそ、私、絶対いや、耐えられない。デスクは先週までのと逆方向に向かって並んでいる。見慣れない景色。知らないオフィスに来た来客ではなくて私もここの従業員らしい。動き回っている人たちを見ながら、じっと身体をこわばらせている。水槽の傍らに立って、悠々と泳いでいる魚たちを見ているようなものだ。皆が水槽の中にいるなら、早く私もそこへ入って泳ごうと焦っている。今はそういう人間らしい。

2017-04-02

開花


中央線の中央特快で高尾に着いたのが12:00前。入場料を払って多摩森林科学園に入場。しかし桜は、ほぼまったく咲いてなかった。おかげで、入園客もほとんどいなくて快適。いるわけがない。なぜなら桜が、ぜんぜん咲いてなくて、冬の雑木林同然だから。でも、人がいないことの方が価値が高い。桜なんて大した問題ではない。ぐるっと園内を一周して、そのあと武蔵陵墓地にも行った。まったくどこへ行こうが、たまにしか人に出会わないので、とても快適だ。けっこう肌寒くて身体に始終緊張感が保てるのもいい。都心に戻ってきて、御徒町で少しお酒をいただいて、ああ美味しいねえとうめく様に呟いて、上野公園を通って千駄木方面まで歩いてるうちに暗くなる。上野の桜は、今日一日で相当ひらいたみたいだ。地元の桜も同様。朝見たときより、帰りの方がよほど満開に近づいた。何のことはない、今日近場で一斉に開こうとしているときに、わざわざまるで咲いてない地域に遠征してその瞬間から目を背けるために退避していたようなものだ。

2017-04-01

home music


WONKのライブを体験した以降、すれを孕むリズムじゃないと、なんとなく物足りないような気にさえなる。レコード音源だけだと絶対にそうは思わない部分を、ライブ体験の記憶が補完してしまうので、どうしてもそれらが良く聴こえてしまう。


ドレイク、かなり良い。ティグラン・ハマシアン、かなり良い。ジャミロクワイ、なかなか良い。水曜日のカンパネラ、なるほどこれぞ若者な語彙、人と場の固有性。その意味で真っ当なロック・ミュージック。でもライブに行ったら最強のアウェイ感を味わえそう。サチモスは悪くないけどこのオラオラ感がどうしても…と言ってるのは妻。オラオラ感はバランスの問題に過ぎず作品が他者への贈り物であると同時にオラオラな自己顕示でもあるのは何もかもそう、とはいえでも趣味はどうしてもある。 ラッキーテープス。まあ。でもこれはこれで、これだとちょっと歯応え無さすぎでは…でもライブ見たらまた違うだろう。それを言ったらサチモスだってそうだろう。なにしろライブ。なんであんなに音が良いのか。昔より格段にライブ環境、いわば音クオリティがアップしているのだろうか。あれなら音楽はもう、本来そういうちゃんとした設備の場所で聴くべきもの、と考えるのもありかもしれない。


むかし、二十年以上前だが、バイトしてた店に、客としてよく来ていた女性たち。当時、僕は二十代前半で、彼女たちは三十前くらいだったろう。当時の、いわばかっこいい系なスタイルを志向する、今的に言えば意識高い系みたいなことなのか違うのかよくわからないけど、とにかくモチベーションある系な女子たちで、音楽も演劇も映画もそれなりに観る人たちで、その人たちの仲間に連れて行ってもらって、僕はブルーノート東京だのmt.fuji Jazz Fesだのも初体験したのだった。当時、たぶん遠征の前日に、彼女らの部屋で皆で待ち合わせて、部屋に忽然とMacintoshの筐体が鎮座しており、これ何するものですか?と聞いたら、さあ、買った私もあんまりよくわからなくて・・・みたいな反応だった。で、その彼女たちと話をしていて、あのね、私たちくらいの年になるとね、SMAPというグループの魅力が、すごくわかってくるのよ。そういうものなのよ、と、しみじみ語られたのを、なぜか今、思い出した。当時のSMAPは、メンバーもまだ二十代前半で、まさに全国的にブレイクしはじめて間もない時期だったように思われる。


二十代が、その後の自分を決定してしまう。というか、二十代をベースにした動き方、考え方しかできない。でもその意味では僕も孤独だった。妻もそうだ。孤独というより、個別プランを選択する。それしか選択肢がないのだから仕方がないのだ。


…でも今そう書いて、そうでもないな、と思った。それはそれだ、今は今でしかない。そこにつながりは、実は、さほどない。


妻は当時、新宿・大久保間の古本屋とかそれ系の店をひたすらうろうろしていたらしい。それで今の脚力を培ったそうな。まったく、さえない時間の堆積の二乗ではある。


…でも今そう書いて、そうでもないな、と思った。それはそれだ、今は今でしかない。そこにつながりは、実は、さほどない。

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