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2017-07-31

庶事


安酒でも、美味いのはちゃんと美味い。勿論、べらぼうに美味いとは言いませんよ。でも、これで充分だろうと言いたいようなヤツはある。逆に、プルミエクリュだのグランクリュだのが、必ず美味いと思えるわけでもないとも思うがどうですかね。食べ物次第なところはありますがね。とくに白は、そうじゃないですか。まあたしかに、あまり良いものを飲んだことのない奴に限って、そういう半可通な口を利きたがるというのは、それはわかりますがね。しかし半可通に居直って言わせていただくなら、それこそ中途半端が一番つまらない、もう自分はこの先、両極端で行こうと心に決めてます。何が極端なのかっていうと、高い酒、安い酒の両極端でございます。安いときはトコトン安酒をいただきます。高いときは、可能な限り精一杯トコトン金を出します。出来る範囲でですがね。だから中途半端なヤツにはなるべく手を出さない。心掛けとしてですがね。これが、意識的な体験の積み重ねを図るということです。まあ、高いと安いの間には必ず中間があるわけだから、AとBのどっちかばかり経験してたら、たまにはCもいいかと思って、たまにはこっちも新鮮な体験だろ、とか理屈を言い出して、それが何度か繰り返されて、次第に目に付いたところから、やたらとばらばら手を出し始めて、挙句の果てには、結局何がどうだったのかわからなくなる、というのがオチですがね。というか、だいたい、いつもそんな感じですがね。ちなみに食事はむしろ、世間に出回ってるものが、大方両極端というか、手間も金も徹底的に省いた安物か、相当手の込んだ高級品か、どちらかしか目に付かないところはあるので、食事はむしろ、中庸を狙いたいと。そこそこ手間の掛かった、そこそこちゃんとしたものを食うと。これは常にそうあるように心掛けると。これが戦略だと思ってはいるのですが、これも一度そうと決めて、そう取り組んでも、その中庸の中にもう一段階、奥まったところに深く、安物とそうでもない奴の格差の段が彫ってあるのが見えてきて、さらにその出来るだけ真ん中を狙おうと思って手を出したら、やっぱりその一品にも何段階かのバリエーションが広がっていて、と。ことほどさように、食の世界の奥深さは計り知れないものでございます。

2017-07-30

無人の風景


無人の風景というけれども、風景を見ているとき、自分もその場にいるのか否か。自分も風景の一部だという意識があるか否か。いや、そもそもそれを、無人であろうとなかろうと、風景だと思った時点で、視界と自分とは一旦切り離されると考えた方がいい。風景だと思った時点で、自分が風景の一部であることをやめる。テレビを見ているのと同等な状態になる。ということは、風景だと思ってない時点では、自分も風景も一緒くたで混沌としているはず。


芝居とか、色々な形式表現を鑑賞しているときも、それが始まったことを、認識した時点で、自分は目の前のことと同化するのをやめる。一旦引き離して、それを無人の風景のように見つめる。そこに、今はじめて来た人のように、目の前の人にあらためて気付く。それが始まるまでは、芝居も鑑賞者も見分けが付かない。一緒くたになっている。


先日「造成居住区の午後」を読んでたら「列車の窓の外に一瞬現れる『無人』の場所、或いは『無人の部屋』」という言葉が出てきた。思いがけず、見てしまう、見えてしまうもの、こういう事は、よくある。公園とか、広場とか、鬱蒼とした雑木林の中の、ぽっかり開いた空き地とか。


電車に乗っていて見えた風景なら、やっぱり視線はあるんだから、無人ではないじゃないか、と反論できるだろうが、いや、そうではなく、むしろ、このようにしか「無人の風景」というのは成立しないのではないか。


何年か前に、電車の窓から、幼稚園だか小学校だかの校庭が見えたことがあった。そこでは、園児たちと、保育職員たちと、保護者たちとが集まって、何か集会なのか、学芸会なのか、お芝居なのか、とにかく集まり合って何かやっていた。


これも「無人の風景」に近かった。感触としては、現実から離れてしまったときの畏れと慄きがあった。何か、やばいものを見たという感触が残った。誰が見ているのか、なぜ見ることができたのかがわからない風景を、うっかり見てしまったときの怯えが心に生じた。


母親だったか誰だったか、親しい人と話をしていたのに、相手がいきなり、静止画像のように停止してしまう、そういう夢を見たことがあった。静止してしまったので、仕方がないので、僕は手持ち無沙汰なのだ。あたりを見回して、何かする事がないか探すのだ。しかし静止している相手自体を、よくよく見つめたり、手で触れたりするのは、はばかられるのだ。それは、異なる位相に触れることになる気がして、よくないことが、起こりそうな気がして、どうしても気がすすまない。見たいが、しかし見るべきではない、と感じさせるもの。本物の「無人の風景」はそのあたりにありそうな気もする。

2017-07-29


銀座の観世能楽堂で第二十四回能尚会。番組は舞囃子「高砂」、能「屋島」、狂言「惣八」、仕舞「花筐 狂」、能「乱」



舞台とは抽象的な平面空間、という感じがある。京都の庭も、そんな感じがするけれども、そのように囲ってあることの不自然さというか、無理な感じを、あえて隠してない、はじめから疑わしさを残したままの、それでもあえてその場に試そうとする、それら含みの試みの場のように感じられる。


まず囃子方が舞台に出てきて、続いて地謡が出てきて、まるで葬式に参列するかのように、厳かに各自の配置に付く。篳篥の音が強く響き、掛声が発されて、太鼓が鳴る。


それによって、今ここに、それまでとは違う時間と空間があらわれた事になる。というか、その時に、あるルールが敷かれた状態になる、と言った方が良いのか。つまり、「能」の始まる前と後とを区切る何か、としてルールが敷かれた、ここから先は、「能」の中の時間が流れる、という作用が働く。


そのルールは、ルールとして透明化されてないというか、あまりにも時代が違いすぎて自分には透明化されているように見えないし、自分の中には定着してないのだが、それは仕方がない。


舞踏であれ芝居であれ、なんらかの連続性である。ルールというのは、何らかの連続性を得ようとするための試みである、とも言えるだろうか。


ルールは、連続性を得ようとしたときに、そのための力が加わっている瞬間に、もっとも緊張が高まる。そして、連続性に勢いがついて拍車がかかりはじめた時に、ルールはそれ自体の特質をもっとも強く発揮する、のではないか。


「能」のような表現形式をふだんは観ないので、このルールが連続しようとして力が加わっていくときの感じが、観ていて一番面白いと感じる。つまり、オープニングのところが一番面白い、面白さと不安さと驚きがまぜこぜになる。つまり、あまり見慣れてない表現形式が、目の前で今立ち上がろうとしている有様の面白さである。


とにかく、時間が掛かる。ワキとツレが、対話している。舞台上で、台詞を言い合っている二人の人物が認められる。おお、芝居みたいだ、と思う。しかし、描写という感じはしない。もっと形式的なやり取りに見える。しかしそれが形式的に見えるのは、こちら側から観ているからなのか、あちら側では、それが普通なのか、そこもよくわからない。やがて、シテとツレが出てくる。彼らも、対話する。しかも、やはり、長い。延々と時間が過ぎていく、ような気がする。これだけの時間を使って、登場人物が一通り出て、さあこれからさらに連続しますよ、という空気を作っていく。


この空気を作る過程の遅さが、ほんとうに「能」という形式の異常さだ。同時に、不安定さだ。不安定に感じるのだ。それまで「能」でなかった時間が「能」に変わっていこうとするときの緊張。それと同時に、能の世界と、それを見ている我々の、現在の感覚的世界との間に生まれる緊張感でもある。


しかし「屋島」には、疲労困憊した。約百十分。途中、間狂言が入ったりして、面白い部分もあるのだが、後半は地謡の唱にあわせて義経の幽霊がひたすら舞をやってる。これが、地謡の現代語訳を読んでるだけでは、舞台が見えないし、舞台を見てても、何を言ってるかわからないしで、次第に疲れてくる。この箇所はいわば、作品中の中心を成す部分ではあり、連続性に勢いがついて拍車がかかりはじめた時ということになるのだと思うが、わかってない人としては、むしろそういうあたりから飽きてしまって、じっとしたまま舞台を観ているのも、それなりに辛かったりする。


ということで毎度、辟易とするものはあるのだが、それはそれとして、また次回もぜひ観たいと思います。というか、少しぐらい事前に関連文献等を読んでおくなどの心掛けがないのだろうか。少しはちゃんと準備したらどうか。いつも、劇場を出るくらいのときに限ってそう思う。これは、更新料を支払った直後に引越ししたくなるのに似ている。

2017-07-28

睡魔


食べ過ぎると午後眠くなるから、昼食は少ししか食べないのです。

え!?君は、あんなに忙しいのに、いつ眠くなるのか?

窓口対応をしているその人のデスク上の電話は、おそらく一日に数十回着信するのである。

ほぼ一日中、のべつまくなし電話で喋っているような状態のくせに、いつ眠くなるのかというと、その電話中に眠くなるのだそうだ。相手が喋っているのを聴いてるときや、受話器を置いて作業か何かをしている相手が戻ってくるまで待つ間とかに、猛烈に眠くなるので困るとのこと。

逆に、電話してないときは、さほど眠くならないらしい。

2017-07-27

眠る


つり革に掴まったまま、眠って、ガクッとなる。

ホームで電車を待つときも、改札を出て時計の下で待ち合わせするときも、ふと眠ってしまう。

ガクッとなる。膝が折れて、元に戻す。抱えた鞄が、脇から腕からずり落ちそうになる。スマホが、手からすべり落ちて、床に当たる乾いた音がする。

座席に座って、眠る。両膝が、ひらき始める。手の平が上を向いてしまう、手が開いてしまう。

オフィスの、見渡す限りすべての人が、デスクに突っ伏して寝ている。

静かな音楽が流れているから、かもしれない。

昼休みに、皆が食事をしている。向かい合って談笑しながら、ではない。

無言だ。皆、目を瞑っている。

口は動いている。噛んでいる。

でも、眠っている。

口の中を開けっ放しにして、噛み掛けの食べ物を人に見せつけながら、眠っている女性もいる。

運転手も車掌さんも、眠っている。

魚屋さんも、八百屋さんも、お肉屋さんも、お豆腐やさんも、金物屋さんも。

銀行も、薬局も、公民館も、市役所も、

眠る。眠る。

バスの運転手も、タクシーの運転手も、

ぐったりとシートにもたれて、上を向いたまま、顎を突き出して、眠る。

走行している自動車が、よろよろと蛇行しながら、やがて停止する。

あるいは、自動車同士が、衝突する。そして停止する。

壁にぶつかって、人の行列や民家にぶつかって、そして静止する。

誰もが、静かに眠っている。

皆が、よく眠っているので、とても静かだ。

そんな夢を見ている。

2017-07-26

明暗


傘を挿さなくてもあまり気にならないくらいの細かい雨粒が音も無く降っている。歩道橋を歩きながら見上げると、目の前に建つビルが雲に隠れて上の方が消えてしまっている。これほど巨大なのに、消えてしまうだなんて、一体どういうことだろうか。よくよく考えてみると、すごいイメージだなと思う。消え方も、じつに見事な、肌理の細かいグラデーションを経て周囲と同化してしまっていて、こんな風にきれいに白からグレーへの諧調を出すのは、なかなかすごいことだというか、かなり抽象的で計算的な感じさえする。明から暗への移動、進行の段階として、こういう雨の日になぜか妙な正確さ、律儀さを見せるあたりに、人間が明暗に惹かれることの理由があるのかもしれない。

2017-07-25

後半を少し過ぎたあたりで


九十分の映画だとして、それが一時間を少し過ぎたくらいで、観ているもののテンションがふと緩んで、諸々がほどけはじめるようなときがないだろうか。そのとき観ているものが、今までの継続的な何かから少し外れた、そこだけ浮き上がって勝手な動きをしているような、不思議なものを見ている気にさせられることがないか。


音楽でも、少し長尺な曲の展開の後半に差し掛かったとき、ふと、音自体が展開の一部であることをやめて、勝手に動き回って落下していくような、そういうものが聴こえてくる瞬間がないか。


あるいは、一時間なら一時間、連続でランダム再生される音楽を聴いているとしよう。そのとき、だいたい三十五分から四十分過ぎたあたりで、ふいに再生された曲が、これまでの機器内でのランダム選択によって指示されたのではなく、何か、別の力で、いや、力ではなく、むしろ力の加わりが一瞬解けたことによって、ふいにその場にこぼれたかのようにあらわれて、何とも場にそぐわない唐突さで、しかし唐突さの違和感を醸し出せるほどの強さもなく、じつにささやかに、耳の傍でその場の時間と共にそれが聴こえているようなことがないか。


というか、まあ今朝、電車の中で、そんな感じだったのだが。


「造成居住区の午後」を読んでいた。これらが、「造成居住区の午後」との類似である、と言いたいわけではない。上述のこれらには「男であることの恥ずかしさ」とか、関係ないように思う。あと、これらに共通するのが、あらかじめ与えられた時間的な区切りの中によって、その区切りがあることによって発生する一瞬だということだ。たしかに「午後」も一日という区切られた時間の中に発生するひとときではあるが。あるいは「造成居住区の午後」を、つまり「男」が平日の昼間から家の近くをうろついていられるのは、会社員であれば、たとえばふいに消化の必要が生じた有給休暇のある日、という区切られた時間の中に生じるひとときだったりもするだろうが。



でも、「時間の区切り」というのも、簡単に言うけど、なかなか…。ベルクソンなあ。何度読んでもわからないのだが、何度でも気になってしまう。

2017-07-24

備忘


靴の修理がしたい。靴を買いたい。泳ぎ方を見直したい。いらない機器を売るか修理したい。鮨や行きたい。あと三週たったらもうお盆てちょっと信じられない。夜の六時四十五分の空が少し暗くなってきてかなしい

2017-07-23

たまねぎ


もう新たまねぎの季節ではないので、普通のたまねぎだが、それでも二個分を千切りにして、少し水にさらす。カツオの刺身と、あとネギ、茗荷、生姜などを用意する。


カツオは美味い。というかもはや、たまねぎの方が美味い。たまねぎを食べるために、カツオがあるのではないだろうか。カツオも、ネギ、茗荷、生姜と同等、と考えても、良いのではないか。


たまねぎの味と香りが、鼻腔の奥のほうで爽やかに広がる感じで、じつに美味しくて、ついカツオすべてが、たまねぎに隠れるくらい乗せてしまう。大量のたまねぎを、カツオの切り身で挟んだ、野菜サンドのような状態にしてしまう。

2017-07-22

下北沢〜新代田


久しぶりの下北沢だが、何年ぶりに来たのかおぼえてない。それにしても、ものすごく若者な街である。駅周辺が、一個の学園祭みたいな感じである。というかむしろ学園祭というものが、こういう街の在りようを擬態しようとしているのかもしれない。若者っぽさにも色々あるが、若者っぽい街は、べつに嫌いではない。それはたぶん立ち並ぶお店に、それぞれ個人経営の感触が強いからだろう。もちろんとくに駅前などは所謂チェーン系とか会社系の店も多少はあるけど、通りによっては、そういう店のわかりやすい看板や出入り口ではない、個別なそれぞれのやり方の一軒一軒の集合で、全体的に不揃いででこぼこした感じの風景になって、まあ、チャらいと言えばチャらいのだが、とりあえずそういう感じがいいのだろう。とはいえ別に、チェーン系とか会社系の店やネオンも嫌いではない。単に、店が多くて雑然と林立しているのが好きなのだろう。


新代田のfeverで「Yasei Collective Live Tour 2017 "FINE PRODUCTS"」出演はYasei Collectiveの他、WONK、MONO NO AWARE、ceroの荒内佑がDJという、かなり期待できる感じのliveへ行く。


mono no awareというグループはまったく知らなくて、当日出掛ける前に家でアルバムをざっと聴いただけで、おお、けっこういいじゃん、と思った。このバンドがオープニングで今日聴けるなんて楽しみだと。それにしても、こういう風にはじめて聴くバンドが、一聴して普通に良くできたいい感じの音だというのは、最近珍しくもない事かもしれないが、よく考えると凄いことだと思う。変な例えだが、適当に入った店の料理がものすごく美味かったとか、偶然出会った人がものすごくいい人だったとか、そういう幸運との出会いを、とくに珍しくもない、ということなわけだから、これはもうきっと、僕のような年齢の人間から見たら、音楽の全体的なレベルはずいぶん底上げされて、つまりその一端を見ているのかな、とも思う。ということは、僕のイメージする程度の音楽に出会うのは、僕が考えてるほどには難しくはない、ということなのかもしれない。ヤセイもwonkも、こんなグループは、少なくとも僕が高校生の頃には、絶対にいなかったではないか。いや、いたかもしれないけれども、こんなに小さな店で簡単に出会えるほどではなかったではないか。それが今や、こんな組合せだなんて、すごい話ではないか。まあ、何をもってすごいと言うかはさておくとしてもだ。


なんとなく昔のことを思い出したのだが、高校生のとき、たとえば美大を目指してデッサンとかの練習をしているとして、高校生の自分が描いたその絵は、まだ未熟で稚拙で、更なる訓練が必要なレベルなのだが、しかしそれでも、たとえば自分の親の世代で美大に進学したような人たちから見たら、まさに「最近の美大を目指す高校生の技量はほんとうに高い」みたいな水準には見えてしまう。それくらい四半世紀とかの時間的な開きは大きくて、個人差はあれども全体的な技術レベルは猛烈に上がっている。それと似たような状況を、今僕が、たまたま聴いた音楽に見ているような気もする。


ただし、アカデミックなデッサンの技量とかを越えた、まあ大きく言って、絵を描く力というのは、そしておそらくは音楽の技量やセンスも同じだろうが、全体の中でほんの一握りの、もの凄い人のもつ力は、他とは比較を絶して飛びぬけているので、それは百年前だろうが今だろうが、そのくらいの時間に風化せずにそうなので、ここでの話は、それ以外の有象無象のレベルの、たかだか何十年くらいの時間の変化に影響を受けてしまう程度のレベル差の話に過ぎない、とも言えるかもしれない。


mono no awareは男3女1の四人組で、Vo+GとG、B、Dr編成で、オーセンティックなギターサウンド。音的にはさわやかで叙情的で気持ちいい。曲もいい。詞は韻の踏み方など特徴的。何となくアイロニカルで諧謔風味な、そこは良くも悪くも、という感じもしたが、ライブは抜けの良いパワーのある演奏でひたすら気持ちいい。今後も引き続き聴いていきたい感じだ。


Wonkやはり素敵だ。僕はwonkが好みなんでしょうね。とてもいい。前に観たときよりも、バンドサウンドの骨格感があらわになっていたというか、余計なものが取れたような、少しスリムな演奏に感じられた。客は最初わりと静かで、後半は普通に上がっていったが、個人的には前半3曲目くらいまでの感じはとくに好きだった。しかしwonk、ひたすらいい感じだ。


Yasei Collectiveは驚くほど、中位〜ゆっくり目なテンポでジャム的に延々聴かせる展開が多くて意外だった。しかし要所要所で盛り上がるキャッチーな曲も挟まる。両方の要素を持つところが、Yasei Collectiveの強みであるなあと思う。演奏に関してあらためて感じたのは、ドラムの特徴的な感じが前にあって、それを他の楽器が土台となって支えているような構成というか、一般的にリズムが吸う息と吐く息の両方で出来ているとするなら、Yasei Collectiveのリズムはドラムのノリがわりと吐く息の割合が多く、吸息に回収されない粒が、大きいのから小さいのまでひたすら空間のあちこちに咲きまくって埋め尽くされてしまうのを、他の楽器が全体的に背景になって支えつつ処理しているというのか、もっと単純化して言うと、根本のリズムをキープしているのがドラム以外の楽器たちで、その上でドラムが可聴的なもう一つのリズムを伸ばしたり縮めたりしているというか、ある意味、いまどきのドラムでありながらも、昔のwhoのキースムーンとかexperienceのミッチミッチェル的な装飾的な感じもあるというか。その例えだと、さすがに古過ぎるが…。


荒内DJ時はひたすらshazamしまくった。知ることができた何曲かは、明日以降もしばらく聴くだろう。というか、いやこれなら前にも聴いたことあるでしょ、というのも少なくないが、でもなかなかこういう風にあらためて良さを教えていただく機会がないと、自分の耳だけではスルーしたままになってしまう部分も多いし、一度でも、良いかもと思ったら、そのことでそれを含む全体が、昨日と今日で違って聴こえてくることがある、というのもまた事実だ。


しかし3時間半スタンディングは、もはや体力的にキツイと云わざるを得ない。さすがに、年齢を感じなくもない。座って酒を飲みながら過ごせる店ならその方が楽だが、それよりもやっぱり音が大音量でドカンと出てる空間の方が好きである。だからそこはまあ我慢するしかない。でも仮に追加料金で「椅子席」と「飲み物持込可」が出来たら、それはたぶん、買うなあ…。

2017-07-21

入力


Macのワイアレスキーボードを買ってから相当経つはず。五年前とか、いやもっと前かもしれない。iPhoneで使うつもりで買ったのだが、結局これまでぜんぜん使わないままだった。しかしいまiPadがあるので、使うなら今でしょと、ここぞとばかりに使うべきでしょと思うのだが、Macの世界に慣れてないので、入力が甚だ煩わしい。そもそも、書くときの身体姿勢からして違う。僕の場合、ノートPCですら、身体が慣れてない。デスクトップPCで、モニタを見ながらでかいキーボードを叩くスタイルが、いちばん書きやすい。でも、それだとデスクトップの呪縛から逃れられない。いま、うちにはオンラインのデスクトップマシンはないので、ここは我慢して、iPadを使っていきたい。慣れなければいけないのだ。今やこれが、自分がメインで使うべき入力デバイスなのだと覚悟を決めるべき。と思って、昨日今日とがんばっている。ずいぶん慣れてきたかもしれない。

2017-07-20

バジル


LED光でハーブとかを室内栽培できるやつでバジルを栽培していて、かなり育ってきたので摘み取って、するとまたすぐに生えてくるので、また摘み取って、それでもう既にマルゲリータ三回分くらい食べた。これが思いのほか、バジルの味と香りが鼻腔の奥のほうで爽やかに広がる感じでじつに美味しくて、ついピザ上面すべてがバジルに隠れるくらい乗せてしまう。大量のバジルを薄いピザの生地で挟んだ、野菜サンドのような状態にしてしまう。

2017-07-19

食器


ワイングラスがふたたび割れた。洗ったグラスを拭きながらソファに座ったら、自分の膝にぽーんと当たって、そのまま脚がポキっと折れた。もうあまり、ショックは受けなかった。壊れたらまた買えばいい。何事も無かったかのように補充する。ぜんぜん気分は落ち着いたままだ。風もそよがない。


日々の食器。食材が盛り付けられる器。盛り付けるという言葉をはじめて知ったのは、小学五年生のときの家庭科の授業だった。作ったものを、さあ、盛り付けて下さいと言われて、はじめて知った。盛り付けるって、どういうこと?まるでぼってりとボリュームと粘りのある物質を、コテか何かでボテボテと塗り重ねるような行為を想像してしまう。実際の行為にそぐわない言葉のように思う、いまだに心のどこかで、違和感を感じている。


食器が壊れると、ほんの少しだけ、気分がいい。清々する。たぶん、盛り付けが不可能になるからである。盛り付けなどという言葉を、いや、もしかしてその行為を、心の奥底で許してないのかもしれない。


日々の食器が壊れて、少しずつ消えていくのは、じつは良いことだ。汚れや澱もリセットされる。どんどん壊れていい。その方が、人間の営みの、生きてることの活気というものが、感じられるような気がする、などということは別にない。ずいぶん強引な話である。

2017-07-18


占領下のパリの、レジスタンスや共産主義者たちとゲシュタポの攻防。血なまぐさい、気が重くなるようなことばかり起きて、でも休日が来て、バスケットに、ソーセージと冷たいトマトを切ったやつと、アルザスワインを入れて、恋人とピクニックに行った1944年夏。あの時代でさえ、そういう日曜日の昼下がりも、間違いなくあった。それは確固たる事実だ。戦時下だろうが何だろうが、天気の良い休日が消滅することはない。だからそれ以外のことはもう、何も信じない。ワインと軽食を持参して公園や水辺で過ごす。それを、これからもけしてやめない。ひたすら無為に怠惰に。ばかで、何がわるい。権利とか自由とか、そんな言葉すら必要ない。まさに、ばかばかしいくらい、あたりまえだ。余計なことをするな、大人しくしてろ、少し黙っててくれ、べつにそのままで、誰も君を悪く言わないじゃないか、お前の独善で、皆が迷惑するのだ、触らなくていいのよ、そっとしとけよ、世の中の、やる気のある人たち全員に、そう言ってやらないといけない。貧乏揺すりをやめろ。その金はやるから、あとは任期満了まで、適当にさぼってなよ、家の中にいないで外で遊びなよ、公園で寝転んでればいいじゃないか。こんな天気のいい日なのだし、日の暮れるまでぼけーっと、時間をやり過ごすことのできる人ばかりなら、たぶんほんとうに世の中良くなるのだろうけれども、そうも行かないのだろう。みんなあくせくしないと、生きられないのが実情である。少しでも家に引きこもると、被害妄想みたいになって、まあ自分も、人を笑えないか。これからも皆で少しずつ、首を絞めあうしかないのか。

2017-07-17

吉田健一


シンポジウム「吉田健一と文学の未来」を聴講しに駒場東大前へ。駅からすぐ東大の校門になる。深い緑と、静かに立ち並ぶ校舎。閑散としていて、遠くを、のんびりと歩いている人や、建物の奥からかすかに聴こえてくる声。あとはセミの鳴き声。大学って…ほんとうに、なんという天国的な場所だろうかと思う。ほとんど、夢の中の世界だ、信じられない、学生って、なんという優雅で贅沢な身分の人たちなのだろうか。などと思いながら、いまや僕も、コテコテにおっさん的なセリフを平然と思い浮かべるようになったものだとも思う。面白いイベントだった。英国という場所が、ほんとうに陰鬱で、娯楽もなくて、閉鎖的なヨーロッパ的な空間なのだというのは、なるほどそうなのだろうなあ、たしかにそうなのだろうなと思った。とくに柴崎友香さんの話はすごく面白くて、この話をそのまま活字にしてしまえばすごくユニークな吉田健一論というか、吉田健一をモチーフにした小説にもなってしまいそうだと思った。吉田健一、久々に読みたいかもしれない。が、あれを読むと、どうしても一定期間は完全に染まってしまうからなあ…。

2017-07-16

怪談


一日中家で過ごす。日中は、ラリー・コリンズ-ドミニク・ラピエール「パリは燃えているか?」、丹生谷貴志「死体は窓から投げ捨てよ」、稲垣足穂「ライト兄弟に始まる」など読む。シャワー浴びて、ビール飲んで、ご飯食べて、柴崎友香「かわうそ堀怪談見習い」を読む。夜中に読了。かなり、怖い。やっぱり、唐突に女がいる系は怖い。ファミレスで、窓際の席にいきなりいて、信じられないみたいな表情でこちらを見てる女とか、マンションの廊下を歩いてきて、窓越しに話しかけてくるシルエットだけの女とか、マジで怖い。幽霊というか、ちょっと壊れてるようなヤバイ系の女性というのは、半分くらい幽霊になってるというか、半現実的な存在に感じられるところが怖いのかもしれない。

2017-07-15

青い床の室内が描かれた壁紙


炎天。京成線。佐倉。太陽。川村記念美術館だが、暑い。死にそう。リキテンシュタイン「Mirror」。カッコいい。洗練の極み、これ以上かっこいい解答は、無理という感じ。そして暑い。館内は涼しい。すでに芯まで冷えきっている。外はあいかわらず、地獄の灼熱の炎天下、白い光。現代美術の夏。夏の日本の現代美術。室内だ。こういう空気な。リキテンシュタイン。誰もいない空間。夏の、郊外、いや海沿いの、有料道路で来る山の中。今、こことは別の場所。絵の中の世界。バスの時刻表が錆びている。誰もいない、ホテルのロビー。誰もいないのか、何日も使われてないから、清潔なようでいて、ソファーの肘掛けに触ると、思いのほかざらついていて、薄く溜まっていた埃が手に付く。ガラステーブルの上は少しベタベタする。潮風のせいだろう。空調も効いてるし、呼べばスタッフも居るのだろうが、なぜか物音一つしない。セミの声が、かすかに聞こえてくるだけ。何の意味もない、申請予算が通るうちは、ずっとこのまま何年も、維持運用されるのか、こういう場所、あったような、なかったような、なつかしい。熱で朦朧とした頭の中。

2017-07-14

SIM


iphoneを機種変して早三ヶ月、割賦購入なので支払いはまだたくさん残っているが、世の中は一挙に格安SIMの時代へと突入したようで、周囲の人間が次々とMNPで転んでいく。これ以上ないくらい絶妙なタイミングで時代に取り残された感がある。これからも、あと一年半以上ひたすら取り残され続けて、距離を空けられ続ける。その間ひたすら割高な料金を払わされ続ける。それでもかまわない。パケット20GBなんて、そんなデータ量をひと月で使いきれるわけないのだけれども、その無駄さ、何も考えずに湯水のごとく通信して無為に捨てるような豪奢さ贅沢さが好きだ。あたりが空しい静けさに包まれているようで気分がいい。でも違約金払ってでも今年の暮れあたりで解約のパターンについては前向きに検討したい。

2017-07-13


玄関のドアを開けて歩き出すといきなり暑くて、歩きながら意識が少し薄くなっている気がする。31分発の京浜東北線。つり革に掴まって、音楽も聴かず、本も開かないで、窓の外を見ながらぼーっとする。なぜか、妙に気持ちがいい。ふわふわとした気分である。電車の中にいるのが、面白い。周囲の音も面白いし、周りの人々の様子も、なぜかすべてが新鮮に感じられる。そのままいつまでもぼんやりする。窓の外は夏で、白い光が溢れかえっている。今この得体の知れぬ幸福感が、氷が溶けるようにゆっくりとなくなっていくのをただ黙って見ているだけだ。

2017-07-12

恋人


本を読んでいて、著者が語ろうとしているそのテーマやモティーフに対する、ものすごく熱い情熱というか固執を感じることはある。語ろうとしてるそれ自体はよくわからないけれども、語りたい情熱だけは伝わるみたいなことも、ある。この繰り返しには普通じゃない、とか、この独特の言い方が考えのパターンの基調だろうとか、そこに嗜好があってゆえにガードの弱い一枚岩な部分だろう、なぜ、そう思ってほしいと思ってることとは別なところで、この文は魅力をたたえているのか、とか、色々と思ったりもする。こんな言い方は、真剣な人を、上から醒めた目で見ているみたいで嫌らしい。そんなつもりではない。しかし読書というのは、どうしてもそういう側面はある。最初からノリノリで読み始めるわけではなく、最初は面白くても途中から飽きたりもするし、逆に後半から気を取り直したりもして、これはこれで良いのかもと考え直したりもする。そういうとき、自分はそう思うがこの書いてる本人はどう思ってるのかは、常に気にしてもいる。しかしこちらからは、何もできないし、向こうからも、何もできない。そもそも向こうは、こちらを気にしてないし、こちらのことを知らない。本を読んでるとき、その著者のことを、その人物の年齢性別を問わず、なんだかやけに張り切ってその気になっている、自分の考えに自分で夢中になっていて、カーッと熱くなっていて、ぶっ飛んでしまっている、手の付けられないバカな若い男のように感じることがある。そして読者の自分を、今更相手に何も言わないし、言ってもどうせ聞かないし、だからあきらめてほっとくけれども、だから別にその相手を嫌いなわけではなく、自分を嫌いなわけでもない、でもだいたいのことは、きっと自分が至らないせいで、自分が悪い部分も多いのだろうと感じもしながら、いつものようにただ黙って後ろから付いていくだけの、おとなしい恋人の女性のように感じることがある。

2017-07-11

感覚


酒は怖い。体を蝕む。脳を壊す。百害あって一利なしだ。やめておくべき。という声にも頷きつつ、どうせ年老いる、どうせいつか呑めなくなるのだ、ならいまのうちに、呑めるうちに呑んでおけ、今、それを呑まなかったら、その一杯はもう二度とお前の目の前にあらわれないかもしれないのだぞ、という声にも深く共感する。でも一つ思うのは、仮説として、体というのは、これは酒を味わうために存在するのだとも言えて、というか、どうして体に刺激を与えると、心が満足するのか、体そのものが、心が形になったもの、というわけではない。たとえばセックスで、相手が喜んでいるのを見ることが自分の快感、という感覚はあるかもしれないが、あれは心身がまさに無関係であることの快感に近いのか。他人の体の快感が、自分に感じられるような錯覚。しかし、セックスの快楽って、ほんとうに幻想というか、孤独な心の妄想だけで出来ているように思われるな。現実は、身体同士がぶつかり合っているだけなのに。酒だと、身体が分子レベルで他物質と結びつく部分があるように思うけれども。

2017-07-10

こころ


こころ計測器を使って、毎朝、感情値を下記の分類項目毎に記録している。


・こころ総量

 こころの総量。多すぎると制御困難を招きやすい。少なすぎると維持困難を招きやすい。

・水分量

 こころに含まれる水分量。多すぎると統合神経失調気味になり、少なすぎると神経症気味になる。

・硬度

 こころに含まれる炭素成分量。少なすぎると制御困難を招きやすい。

・代謝

 こころの維持に消費されるエネルギーの消費率。

BMI

 体躯とこころ総量との相関指数。(多め、普通、少なめ)


最近は一日でプラスにせよマイナスにせよ3〜5くらい上下するのは普通だ。というか毎日計っていて今更言う事でもないが、どうも機器として信用ならない。一回一回を、正確に計測しているという感じがしない。


どうも、日々の記録を残す役割に特化しているつもりだからなのか、もしかすると計測をそのとき一度に感知した条件ではなく、ある程度の継続的な条件の過程として捉えてるんじゃないかという気がしなくもない。なぜなら、この機械、一日に複数回計っても、大体常に同じ値を出すのだ。そうじゃないときもごく稀にあるが、ほぼ同じ値であることが多い。でも、そんなはず無いと思う。もちろん怒ってるときと嬉しいときで、結果が変わるわけではない事はわかっているが、それにしても半日以上の生活を経てからあらためて計測しているのに、結果が変わらないのは単純におかしい。体内での物質的な増減は確実に行われているし体重だって変わっているわけだから、だからこの時点で、どう考えても絶対にそのときの正確な値を計測しようとはしてないのだ。この機械は。


ただ、水分量とか硬度、代謝はわりと日々変動するので、そういうのも含めてトータルで「こいつは、こころ的には、昨日と今日で同じ。」とか、判断しているのかもしれないが。でも、翌朝も同じだったりすることも多いし、二、三日か多いときだと五日以上同じ値を示すときもある。そうかと思うと、ある日突然、がくんと増えたり減ったりすることがある。微増とか微減は、あまりなくて、どちらかと言うと触れ幅が大きい。数ヶ月分をグラフにすると、けっこう激しく揺れた地震の記録に似てくる。つまり、上下の波が小刻みで激しいが、揺れてない時間もちょくちょくある。ゆったりとした、穏やかな揺れの箇所はほぼない。しかし、日々の触れ幅を誤差と見なせば、一応のなだらかなカーブは見えてくる。つまり、非常にノイズの多いデータだと言える。こころというものが、そのようなグラフを描くものなのかどうか、よくわからない。

2017-07-09

centennial


昨晩なぜかあまり眠れなかったために終日眠い。本を読みながらふと眠りに入って、それも長続きせずまたすぐ覚める、そのくりかえし。夜になって出掛ける。渋谷駅は相変わらず方向感覚がよくわからず、ヒカリエの出口から出て、増築に増築を重ねたような、階段に階段が上乗せされて通路に通路を架け橋したみたいな、狂ったように四方八方に枝分かれした歩道橋を渡る。JZ Brat Sound of Tokyo、挾間美帆 plus + feat 大西順子 Thelonious Monk Centennial!の2nd Show、分厚い音、薄い音、鋭さ、まろやかさ、疾走、停滞、明るさ、昏さ、泣き、笑いが渾然となったThelonious Monk的時空間。楽しい時間。終演後、さっと帰る。眠い。寝る。

2017-07-08

自己実現


演技力、それは力だ。それがあるというのは、すごいことだ。自分が、そういう能力が低いから、よけいにそう思うのかもしれない。


世間一般で云われるコミュニケーション能力というのも、演技力のことではないかと思う。要するに、自分の身体を使って、何かを伝える力のことだ。


漫才やコントは面白いけれども、ああいう面白さを作り出す力は、もちろん台本の出来も大事だろうけれども、やはり演者の身体コントロールの巧みさ=演技力ではないかと思う。


なぜ「芸人になろう」と思うのか。おそらく「俺って面白いかも」と思うからだろう。「俺って面白いかも」と思う理由は、人が自分を笑ってくれるからだ。人が、ある程度自分が意図したように笑ってくれるのを経験したからだ。


自分が意図したように自分の身体を制御して、表情や身振りや話し方を表出させる。その一連の動きで、何がしかの面白さが表現されて伝わるだろうと見込んでいる。そしたら実際に、ある程度その通りに相手が反応する。


これは、すごいことだ。ほとんど、全能感すら感じるほどの、すごい体験に違いない。


漫才で、ボケが何かを言う。ツッコミが、あきれたような顔をする。面白い漫才だと、もう最初のそれだけで、とてつもないレベルで何かが成立してしまう。ただの、それぞれの表情と表情だけで、はっきりと大きなイメージの枠組みが出来てしまう。ある強力な何かを伝えてしまう。


単なる表情でも、ふつうはそれを自分の思ったようにコントロールなんて出来ない。少なくとも、自分には出来ない。困った様子、驚いた様子、怒ってる、喜んでいる、みたいな、そういう心の中の状態を表情や態度でわかりやすく表出させることができるというのは、すごいことだ。


伝えるのが上手いというのは、必要以上に伝える力があるということになり、その力を使えば、相手に対してイニシアティブを取ることも可能だ、みたいなことでもある。自分がそう思ってほしいように相手に思わせる、果ては何もかもを、自分の思うようにさせる的なことにも、繋がるのかもしれないが、まあ、フォース(能力)の効能は、使い方によって如何様にも変わるものだ。演技力そのものは、それは無いよりあった方が良くて、自分が嬉しいときに、嬉しい表情をして、それが相手に伝わるという、それ自体はもっともシンプルに、喜ばしいことだし、それを実現させる力なのだと思う。


僕の場合はおそろしいことに、この効能が逆に作用する。何でもないときに、あるいはそういう心持ちではないときに、なぜか相手から「嬉しそう」とか「怒ってる」とか言われるわけだ。つまり、自分の気持ちや感情が、身体的な表現の結果としては一切相手に伝わらず、却って訳のわからない、思っても見ないような信号ばかり送るのだ。それをこちら側からの発信情報としてほぼ制御できてないのだ。


つまり、不器用ということだ。音痴というか、演痴なのだ。ボールを投げてもあさっての方向に飛んで行ってしまうとか、目的地に向かってるはずが反対の地点に着いてしまったとか、走るのが遅いとか、字を書くのが下手とか、絵のセンスがぜんぜん無いとか、そういう類と一緒で、身体コントロールの下手さとしての、演技力の無さということだ。



芸人でも役者でも歌手でも、ある意味スポーツ選手も政治家も、社長とか実業家も、ホテルマンもレストランの給仕も、店舗販売員も、自分の身体を使う職業の人だ。自分の身体を使って他者の前でパフォーマンスする系な人たち。その能力すなわち演技力に長けているということ。


僕はいまだに、ひそかに憧れているというか、やってみたいと思ってる職業があって、とはいえそれは子供の考えのように、まったく具体性を欠いたぼんやりとした憧れめいた気持ちでしかないのだが、そそれはレストランの給仕なのだが、そんなのは若い頃にアルバイトではやってたし、仕事内容のイメージは大体わかってはいるのだけれども、そういうことではなくて、お客様ひとりひとりに対して、ベストなサービスを尽くすみたいな、劇場におけるパフォーマーとしての、そういう給仕をやってみたいのだ。


つまり、役を演じたいのだ。馬鹿な話だが、僕は仕事をするという事に、いまだに子供のような憧れをもっているらしいのだが、それはつまり、仕事をすれば、その役を演じられるから、という幼稚な原始的感覚をまだ持っているからだと思う。


でもさすがに、既に自分でよくわかっているのだが、僕には演技力はない。演技の能力がゼロなので、それは不可能なのだ。自分の思ってるようなことは、自分には出来ないということなのだ。


というか、自分の思ってるようなイメージは、自分の思ってるような演技力がなければ、実現不可能なのだ。


これは僕の人生における、一番の蹉跌と言って良いのだと思う。まさに「僕の人生、こんなはずじゃなかった」感の、もっとも大きいやつだ。

2017-07-07

干されて


一軒目はノンアルコールで二時間、僕は遅れて着いたので一時間弱だが、それだけでも飲まないでその場にいるというのはおそろしく長い。こういう時間を過ごすのははじめてに近い経験で、同席していたいつもの何人かも、いつまで経っても自分が素面であることに、明らかに戸惑っていて、最後は素面のまま謎のハイ状態に無理やり持っていくみたいな、これみよがしに作られたテンションへと変貌を試みたりもしたが、それでもどこまで行っても、かえって素面であるということの事態の変わらなさ、寄る辺無さをかみ締めることになり、お互いに顔を見合わせるみたいな、それを離陸と着陸の失敗に喩えて、延々メタ考察したが、それでもいつまでたっても、今ここにある空しさは、消えることがない。時間が来て解散後、逃げるように二軒目に流れる。皆、シェルターに避難するかのような足取りで。やがていつもの時間と空間の下に着座したらたちまち落ち着きを取り戻して、皆却って無口になり、岩手産の純米酒をあたかも酸素水であるかのように飲み干す。

2017-07-06

抱擁


久しぶりの人が嬉しそうな表情で近づいきて、ぎゅっと抱きしめられた。相手は泥酔しているから、そういう振る舞いにまったく躊躇ないけれども、こちらはさすがに引く。しかし人に抱きしめられる感じって、こういう感じよね、と、懐かしいというか、人のぬくもりというか、ははははは、この蒸し暑い時期に、いやいや、ちょっとちょっとやばいですって、やめて下さいまじで勘弁してくださいと言って逃げる。もう若くはなく、甘えたがりの寂しがりやの肉体は置き去りにして、何事もなかったかのようにしてただ歩き去ることが、当たり前のことになったと思う。

2017-07-05

有名美人


たとえば、店に入ったら、偶然、有名なミュージシャンとか俳優がいたとか、自分とすごく近い場所に位置しているので話しかけてもあまり不自然ではないくらいだとか、そういうシチュエーションも、ごくたまにはあるとして、で、おお、有名人だ、すげえ、とか思うが、だから相手に話しかけたり、握手して下さいとか、写真撮らせてもらっていいですかとか、そういうことはまずしないし、それをしたいという気持ちになること自体ないと言って良い。もし、自分がその有名人と握手したり2ショットの写真を撮ったりしたら、おそらくそのとき、自分が初対面の他人と一緒に写真を撮った、という感覚の方を強く感じると思う。その人をテレビなどで何度も観ていたとしても、実際にその場にいると、その場にいるということの方が強くなって、テレビなどで観たときのイメージを記憶に乗せて留めておくことができない。目の前の有名人に盛り上がれるような人は、おそらく目の前にいることと、今まで見た記憶のイメージが双方強くあらわれて絡み合って、その相乗効果で盛り上がれるのだろうと思う。


では、目の前の人が、有名な若い美しい女優だったらどうか?それは、さすがに自分も、盛り上がるのではないか。その場合は、目の前にいることと、テレビなどで観た記憶のイメージと、そしてその女性がじっさいにとんでもなく美人であることとの、三つ巴の相乗効果が期待できるわけだ。仮にテレビなどで観た記憶のイメージが、やはりその場において留めていられなくても、目の前にいて、かつ美人、というだけでも充分ではないか、とも思うが、想像するに、これも実際は、さほど盛り上がらないのだ。目の前にいる×美人というのは、意外と盛り上がりを呼び起こすパワーに欠けるのだ。おそらく、目の前にいるということが、もっとも強い力をもつが、それに較べると、有名人である(そのイメージが記憶されている)ことと、美人であるということは、どちらも意外に弱い。


有名人イメージが、その場にいる事実性に負けてしまうのは仕方がないとしても、なぜ美人であることの事実まで負けてしまうのか、というと、結局美人であることも事実ではないから、というか、美人性も有名人イメージに含有されてしまっているので、その場で生成される美人性ではないからだろう。だから、その場にいる事実性に含まれる美人性ではないと、それに惹かれたり盛り上がったりは出来ないということだろう。


まあ、もし仮にその場にいる事実性と美人性に強く惹かれて盛り上がったりしても、僕の場合はぐっと黙って俯いてるだけで、サイン下さいとか写真とかを要求するなんて、絶対にないと思うが。


そういうとき、相手に話しかけたり出来る人を羨ましいと思うことは、ないでもない。話しかけるというのは、やはりすごいことだ。新たな展開を開くことだからなあ。別に最初からそれを求めてない、とも言えるけれども、求める求めないに関わらず、開けるものを開こうとするのは、やはり貴重だ。


それにしても、しばしば思うことだが、若い女で美人である、というのは、テレビ画面の顔のアップ映像みたいなものとはぜんぜん違うし、作り笑顔でポーズしてるあの感じともぜんぜん違うし、やっぱり、美人というのは静的なものではなく、ある一連の動きというか、異なる体験を重ねた分厚い記憶を固めて1ブロック化したようなイメージとしてしか捉えられないものなのだろうなあと思う。


そのブロックの中に、静的な情報つまり配置の美しさとか均整とかも入るのだが、それは一部で、もっと異なる種別属性の要素が強引に含みこまれるというか、たぶん人物に属する部分とその周囲の時間までをも含むような大きな括りとしてブロック化されて、それを美人であるとして記憶されるのではないかと思う。だったら動きを伴うイメージでなければ美人とは見なせないのか?と言うと、それは違う。たぶん一枚の写真からでも、そのようなブロック化は可能なはず。


いやいや、ちょっと、もうちょっと違うのだ。こんなドンくさい言い方ではなく、もっとリアルに、ふとそのときに感じるときのその感じ。美人性をとらえるのは、難しい。

2017-07-04

kcal


ラーメン。ラーメンって、要するに、麺を、旨味を思い切り強調したスープと一緒に食べる。という事である。たしかに、そりゃあ美味しいだろう。美味しいに決まっている。ただ、やっぱり、それだけのことだしなあ、とも思ってしまう。


そば、はどうか。麺をスープと一緒に、という意味では、同じようなものだ。でもそばだと、そば自体の味と香り、汁(出汁とかえし)の味と香りがはっきりあらわれた状態を味わう、という感じがする。味わいの構成がわかりやすい。


ラーメンもそうかもしれないが、勝手な偏見で、どうもラーメンというのは美味しくないパスタみたいなもののようにも思う。つまり、油っぽくて、油っぽさの中ですべてを曖昧にごまかしてしまうというか。


逆に言うと、美味いパスタのように美味いラーメンもあるのだろう。


きっちりと各素材の味わいを生かしたまま、加熱されたばかりのフレッシュさをたたえた感じの。いやいや、やっぱり苦しい気がする。


ラーメンといえば、どうしてもあの、煮込んで煮詰めきったスープというものが最重要の要素になるわけだから。


旨味を思い切り強調したスープ、というか、炭水化物である麺を熟成させた煮込みソースで食べる、という言い方の方が近いのか。


しかも、ソース諸共飲んでしまうという。。


昔の日本映画に出てくるラーメンとか、昭和の時代のラーメンだと、まさに中華そばであって、単にそばの替わりに中華麺で、出汁に油を混ぜて、これだとソバより少しだけ旨味が効いてて、お腹いっぱいになるでしょ、くらいのものだっただろう。


一日に必要な摂取カロリーが、人にもよるけど、成人で大体1500kclとする。(やや少なめ)一食あたり500。僕は一日二食なので、一食あたり750である。


お昼はお弁当だが、ざっくり、この弁当箱の容量は約350gくらいだ。もしかすると300ml以下かも。かなり、小さいのだ。なにしろ、二つ重ねるスタイルの箱のうち一つしか使用してないし、その中にさらに白米とおかずを半分ずつ収納しているのだ。とりあえず300kcalとしよう。


あとは夕食になる。ここで酒類を考慮する必要がある。大雑把に、100mlあたり100kcalとしよう。


まあ…3合は飲むとして、500kcalだとする。残りは700kcalだ。かなり普通に夕食できる感じだ。ただ、どうしても夜遅いのだ。これがネックだ。この食事を、夜七時に摂取できるならまったく最高なのだが、それは無理だ。どうしても夜の九時とか十時とか、もっと遅くになる。完全に、眠る直前なのだ。いちばん厳しいのはそこだ。


エレクトリック・ギターでコードストローク、塩辛い音だ。


チャーリー・クリスチャンがはじめてエレクトリック・ギターを単音弾きしたとき、その音はおそらくサックスを模倣しようとしていたのだろう。サックスの音とは違うけれども、サックスの代替になりうる音だったはず。それが、ロックン・ロールとかを経て、ああいうトーンになってきた。


弦の振動をボディが増幅し、それをピックアップマイクが拾って、アンプで増幅されてスピーカーから出力される。

2017-07-03

TLC


横浜のジムが休館日。ならば、地元のジムに行くか。いやあ、面倒くさいな。しかしそのパターンも、一度は実施してみたい。つまり仕事が終わって、電車で最寄り駅まで戻ってきてから、そこで泳いで着替えて帰る、という流れ。会社を出て、そのまま家の傍まで近付いてしまうために、え?いまから泳ぐの?もうこのまま、真っ直ぐ帰りたくない?という消極的な気分との戦いを経ないといけない。終わってからも、運動の直後感と疲労感がまったく抜けきらない状態のまま、歩いて家に帰宅するので、どうもいつもと様子が違う、調子狂った、なんか余計に疲れた、みたいな感覚になる可能性がある。でもそういうのも一度味わいたい。なぜなのかは、わからないけれども、ああ、もう嫌だな、面倒くさいな、と思いたいのだ。自分が、どのへんからそう思い始めるのか知りたいので、実験というか検証として。


プールから出て、シャワー浴びて、着替えて、チェックアウトして、おもてに出たら、ここもプールエリアかと思うくらい、空気が蒸し蒸ししていて、ものすごい湿気の熱帯の夜という感じだった。手持ちの画質の悪いカメラで撮影したいようなベタベタした質感の夜景。


TLCの新譜を聴きながら歩く。TLCの声の低さは、いつ聴いても圧倒的にすばらしい。これだけは、何十年経っても古びない。だからTLCには、これからもいつまでも新曲を出してほしい。

2017-07-02

ルーティン


行きたくないが仕方がないので都議会議員選挙の投票所に行った。


湯島で下りた。しのばずの池は蓮がピークを迎えている。この池の蓮って、ぜんぜん華やかでも何でもなくて、ただ濃厚な、鬱蒼とした、暗い湿り気のなかの生き物の生臭さ、みたいな、毎年そんな風に感じる。ぽつん、ぽつんと咲いてる花も、キレイというより、突然そこに子供の頭部があるみたいな、その表面をピンクのペンキでケバケバしく塗られてるみたいな、何か妙な禍々しさ、気味の悪さの方を強く感じる。まあ、如何にも夏らしいというか、温暖湿潤地域の夏の暗いむさくるしさを体現しているようだと思う。


バベルの塔目当ての客が行列してる東京都美術館で、第6回 都美セレクショングループ展「エピクロスの空き地」展を観る。かなり色々な種類・傾向の作品たちが、それぞれの領域や境界にあまり頓着しないような感じで集まり合っているといった印象。しかし、雑然としているわでではなく、混沌としているわけでもなく、ただ、ゆるく入り混じっている、というか、結ばれようとしている、というか、結ばれる手前の状態で、そのまま置いてあるというか、そんな、いい意味でのスカスカな風通しのよさが会場内に吹いているようだった。


ひとしきり会場を見て、またおもてに出て、暑かった。これから店に行って何か飲むか、何でもどこでもいいけど、でも、飲んでもかえって喉が乾いて疲れて汗も出るだろうし、ただでさえ、蒸してかったるいのにね、今日はもう、まっすぐ帰ってもいいかもね、という事になって、根津の方向へ歩いて、そのまま千代田線で帰宅。


ビールはいつ飲んでも、やっぱりビールだ。冷えたビール。その、グラスに注いだ液体を口に運ぶときの。それはもうこれ以上考えられないくらいの、それこそ富士山とか金閣寺の写真みたいな、マンネリズムの極北、ありきたりの極致、なのだが、しかしそれでも、もうはっきりとわかっていても、結局何度でもそれだけの場所に戻ってくる。おそろしい。毎週週末の、夏の、夕方の、この部屋の、薄曇りの空の、今まで何万回も見て来たこの「いま」の感じ。合わせ鏡を覗いたように、この「いま」が無限に、いま存在している。「このビールの美味さ」もだ。百万回くらい日曜日の夕方を繰り返して、今後も消失点まで続いているこれを一個一個、律儀に潰していく。来週も再来週も同じだ。きっと、いつか一度くらいは、僕も壁の向こうを通り抜けることもあるだろうか。

2017-07-01

角材


図書館に本を返してから、東急ハンズでスギの角材を買う。自室の机は自作というか、7、80センチくらいの高さの棚二つを離して置いて、その間に180cmくらいの板を二枚渡して、それが自分の机なのですが、この上にはCDプレーヤー、ターンテーブル、ミキサー、デジタル音源MIX用デバイス、スピーカー二つが並べてあるほかに、左右スピーカーの上に三枚目の180cmの板が渡してあって、その上は本棚というか並んだ書籍類の他、アンプ、VHSデッキ、PCとVHSデッキを繋ぐアップスキャンコンバーターなどが置いてあり、アームに支えられた液晶モニタの画面が上下板を跨いで手前に浮かんでいるという状態になっている。足元にはアナログレコードの詰まった縦型セパレーターやPCレースゲーム用ハンドルコントローラーや、デスクトップPCやその付随品類などが置いてある。


要するに、もうぎっしりで、全く動かしたくないような状況なのだが、この状態のうち、下の二枚の180cm板の高さ位置を10cmほど上げたいのである。上げて、どうするのか?というと、先日家に来たワインセラーをその下に置きたいのである。バカだから、いつの間にかそういうのを入手するわけですよ。僕がね。でも一番安価なヤツだけど。まあそれで充分だと思うけど。で、まあそれはいいとして、でも最初は食器棚の脇に置いてあったのに、夜静かにしてるとどうしても作動音が気になるとか妻が言うので、仕方が無いので自室に運び込むことにしたのである。しかし今のままでは高さが足りず机下に入らない。で、そのための素材が二本のスギ角材ということになる。


買った角材をぶら下げたまま、店のドアを開けた。お一人様です。カウンターに案内される。東急ハンズの包装紙というのはすばらしくて、どんなブツでもこれに包んであると、傍からはまったく人畜無害な買い物をしただけの只の庶民に見える。こんな長いもの、もし包装されてなかったら、ゲバ棒にしか見えないというか、こういうものをぶら下げていると、その気が無くても、つい振り回したり人に面撃ちしたくなったり暴動の準備を始めたくなったり、そういう欲望を喚起させる効能はあるものだなと思う。


前菜×2、アサリと何かのボンゴレ、デザート。ワインは白ばかり四杯くらい。お店の作りが、全部開陳しますというくらい豪快な隠し立ての無いオ−プンキッチンで、カウンターのやや高い椅子に座って、スタッフ四、五人が猛烈に働いているところをまるでテニスやプールの監視員のように見下してる感じ。なんだか、あんまり見てたら却って悪いみたいな後ろめたさを感じなくもない。ほら、冷蔵庫から出したものをガシャーンと床に落としたりしてるし…。でもすぐ目の前にスタッフが来たときには、その手元はこちらから見えないので、きっと本当に秘密のことをしたいときには、むしろ客に向かい合うような位置に来て、その真下で手を動かすのだろう。


帰ってきてから作業を開始する。すべてのブツを床に下ろすところから始まって、たちまち汗まみれ埃まみれになり、三時間近く掛かって、どうにか作業完了した。結局、各機器の配線と動作検証に時間が掛かるのだ。これがなければ、半分の時間で済むのだが…。それはまあ、しょうがないとしても、しかし、やはり机高さが10cmも上がってしまったのは、ちょっと高すぎた。もはやこの机は、座って作業できるような高さとは言えない。ほとんど、立って利用するカウンターに近い。これはこれで、どうしよう。このままではまずい。高い椅子を買えばいいのか。椅子も、アームで支えてるような、昔のアニメに出てくる偉い人が座ったままでアームで位置を移動できるみたいな、というか、映画の撮影監督の乗ってるクレーンみたいな、ああいう椅子があればいいのにな。あれで、自室もリビングもキッチンも座ったままで移動する。ウチみたいな狭い間取りで、あえてそれを使うのがクールなんだよ。まあ、それはさておくとしても、椅子かあ。椅子も、高いからなあ…。それよりこの机の手前側について、今一度、考え直すか。


そういえば帰りに、ついでみたいにして、PS3も買った。PS3。テレビでYoutube見れるのが便利だしわりとキレイに映るし、やや操作し辛いがそれをつけっ放しにしておけば下らないテレビ番組を見なくて済む。

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