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2017-09-30

オランピア


マネの「オランピア」をはじめて観たのは、高校生のときだろうか。たぶん高校の美術の教科書に載っていたような気がする。


はじめてあの絵を観た、とは、どういうことか。


素朴な気持ちで書いていくと、まず、女性の突っかけサンダルというものを、はじめて見た、という事になる。


サンダル。もちろん、見たのははじめてではないだろうけれども、しかしあんな風に、足に引っ掛かってるサンダルを見たのは、はじめてだった。


セザンヌの言葉「空が青いということを発見したのはモネだ。あれ以来、空は青いのだ。」だとしたら、サンダルがあんな風であることを発見したのはマネで、オランピア以降、サンダルというものは、あんな風なのだと思う。


吉田秀和「マネの肖像」に書かれた以下の箇所


この絵がサロンに展示されたとき、クールベが「何と、これはトランプのハートの女王じゃないか!」と叫んだのと、それに対し、マネが即座に「ところが、あなたの理想ときたら、ビリヤードの球なんですからね」と切りかえしたという話も、有名すぎて、いまさら引用するまでもないけれど、真実をぴったり言い当てていたという点で、《オランピア》についていわれたすべての言葉のなかでも、最も色褪せない評価に属する。


この言葉、僕は知らなかった。すごい気持ちいい…。


私たち、短足人種はこういう点にあまり目が行きとどかない。そう思って、もう一度《オランピア》を見直すと、もともと持っていた、この女性が未成熟というか、まだ未発達の、幼稚で、何か足りない女という印象がいっそう確固としたものになってきた。なるほど顔の表情はシニックなまでにさめている。しかし、肉体は稚いとまではいえなくとも、美しいプロポーションをもつまでに成熟しきってない感じなのである。彼女の肉体が貧弱だというのではない。肉付きも悪くない。ただ、全体として稚いのである。稚い娼婦のシニシズム。これが、見るものの欲情をいっそうそそり、それがまたはねかえって、公衆の憤激をいっそうはげしいものにした。と、考えたら間違いだろうか?


たしかに、幼稚、というか、どことなく日本人的な感じがあるとは思う。いわば日本人的エロさなのだ。


僕がその裸身をはじめて観たときの印象。その印象、その感触をいつまでも忘れたくないと、いつも思っているのだが、それはともかく、それを観たとき、顔はまず、頬骨の張った、面長とはいえないしっかりとした顔立ちだが、まあ美人だと思った。胸の乳房は張りがあって立派だと思った。


しかし、どことなく女性的ではないと無意識で感じていた。たしかにそうだ。しかし、はっきりとエロ感はあった。アングルやティッツイアーノとは全然違う何かがあるとは思った。少年的というか、たしかにまだ未成熟とは言えるだろう。そして、そこが日本人的エロに重なるのだろう。


組み合わされた足とその先に突っかけられたサンダル。そのフォルムが、まるで刃物のように感じた。「刃物のように」と言葉にしてしまうと、嘘になるのだ。観ているときは、そんな言葉が頭に浮かんではいない。しかし、事後的に刃物という言葉をあてはめるのがそれなりに適当なような気になる、ある領域を、あるスピードと勢いをもって駆け抜ける動きの印象というのか、柔らかさに対して衝突が避けられないような切迫感というのか、なにしろそういう気持ちが、一瞬心の中を占めていることは確かなのだ。


でも、男が女の裸を見たら、そんなよくわからないことを、ひたすら色々と考えているものだ。だからそういうときのイメージの錯綜はふつうのこと。そしてとにかくこの人は、その場に、普通に座ってる、というか、寝そべってるのだ。驚きは最終的にはそのあたりに集まってきて落ち着くのかもしれない。


しかし、それにしてもだ。もうちょっと思い出してみろ。これほどはっきりとアウトラインばかりが目に焼きつく理由は、陰影表現がほとんどなされてないからだ。つまり平面的なのだ。たぶんはじめて、しういう意味での平面的な絵を観たとも言える。描き足りてないように、最初は見えたものだ。あるいは図版の印刷精度が悪くて、ほんとうはもっと克明でリアルな絵なのではないかとも思ったりしたかもしれない。なにしろこれでは、背景の黒と裸体の白だけで、絵としてはあまりにもスカスカではないか。


しかし、スカスカなのに、それで良いと、…まあ、高校生なんてバカで、しかも思い込みが強いから、美術学生なんて一ヶ月くらいで、この前までわからなかったはずのものを、もう夢中になって死ぬほどカッコいいと感じていたりするものだ。


何のコンテクストも無くそのままいきなりはじめて観たら、それが娼婦なのかどういう女なのか、少なくとも今の時代になって観たら、そんな事はわからないし、それはどうでもいいことだ。かつて実際に、そういうことがあったのかな、とか思うくらいのことだ。かつて実際に、そういうことがあったわけではないかもしれないし、そこは何とも言えないですよね的な、イメージにまつわるマネ的な面白さは、それはそれで、また別の話だ。今はただ、そこにその人がいると思っているだけだ。


いた、感想はほとんどそれだけだ。それで足りている。

2017-09-29

老朽


「AI時代に日本人が世界の少数派になるということ」

https://wirelesswire.jp/2017/09/61522/


今後の日本。いいこと一個もないというか、悪い予感しかしないというか。手持ちのカードは悪い手ばかり、という感じか。


まあ別に、リンク先の話と関係ないと言えばないが、ぼやっとした想像のレベルで、このまま、ずっとこのままかな、という感じがする。このままなら、いいじゃないか、充分じゃないか、とも言えるが、たぶんそうじゃない。このままだというのは、少しずつ悪くなっていくということと、なぜか同じなのだ。ほんとうにこのままがよければ、少しずつ良くなっていくしかない。しかしそれが、相当難しくなってきた。ただなんとなくの予感だけれども。別にAIがどうのこうの、という話に限ったことではなく。


いつのまにか、物事は変わっていく、というか古びていく。最近そのことを、まざまざと実感している。現状維持をがんばっているだけでは、避けようも無く古びて、なすすべがなくなる。


古びても良いのだ、むしろそこに何かの価値があるのだ、と言うにはそれだけの、それまでにはなかった認識の発見が必要だ。古びても良いという考えが成立するとしたら、それは古びていくことの無条件肯定ではなくて、ある新規活動によって作り出された成果である。


古びていくこと。リアルなそれに対して、人がほんとうに耐えられるかは微妙だ。滅びとか枯れるとか、そういった従来の美学的・文学的なこととはまるで違う、もっと庶務雑事的な、いやもっと切羽詰った、自分の足場の問題で、老人問題であり、被災者の問題だ。


古びるのも怖いし、新しさも恐れる。人はなぜ、新しさを怖がるのでしょうか。古いも新しいも、どちらも怖いのだ。何しろ、とにかく、怖い怖い。


こんな今こそ、まるで気楽に、まったく暢気に、次の日を迎えたいものです。

2017-09-28

マティーニ


久々にベルモットを買ったので、これで家でもマティーニを作れる。ステアするための専用の酒器があれば良いのだが、ないので、コーヒーサーバに氷を入れて代用する。マティーニは、ベルモットの割合に大量の逸話や歴史があって、そのあたりが面白味ということにもなっている。ドライ・マティーニを注文すると、店にもよるが、目の前で作ってくれるのを見ていると、ベルモットの瓶を数秒かけてゆっくりとミキシンググラスに対して傾けていき、最後一滴だけ液体が落ちるのを見届けるや否や、即座にボトルの傾きを戻す。そしてその後、まるで魔法をかけるかのように、レモンの皮を手にとって、グラスの周囲に、ふわっと香りを纏わせる。あれを見ていると、酒に金を払っているというより、なんだか占いとか祈祷に金を払っているような感覚に陥ったりもする。

2017-09-27

半生


1999年に入隊、2003年までは訓練とか演習、優秀だったので昇進、2004年から実戦配備で任地へ、2009年帰還、その五年間で自分は性格も考え方もすっかり変わった。それはそれで良かったとか思うしかない。人生というのは、そう結論付けるしかない部分もある。戦争はひどい、しかしそうでもない側面もあるのを知る。本当に辛かったのは、最初の二年くらい。あとはそうでもない。むしろ楽もできた。人生というのは、その大半を寝て過ごすのも思ったより悪くないものだと知る。2010年から内地勤務、現在に至る。かわりばえのしない日々だがとくに不満はない。むしろこのままを維持することこそ仕事、情勢を読んでなるべく良い条件を探して、そこを仮の居場所にする、人生というのは、要するにそのくりかえし。乾いた場所を避けて、目に見えない程ゆっくりとしたスピードで動き続けるカタツムリみたいなもの

2017-09-26

テーブルを囲む


セザンヌの作品で、カルタ遊びをする人を描いたものがある。レストランに行って座席に座ったときに、あの絵のことを思い出すことがある。いや、思い出すというより、一瞬だけ自分が、あの絵の登場人物になったような気がする。登場人物という言い方も適当ではなくて、セザンヌの絵に、登場人物という要素は無いと言って良いと思うが、ではそこには、何があるのか、それを言葉にするのは、かなり難しい。というより、言葉にするのが無意味な変換でしかない気もする。今の自分に戻って考えてみたらどうか。見下ろせば自分の身体がある。椅子に座っているから膝から下はテーブルの下の暗闇に消えて見えない。しかし相手と自分との間にあるまとまった量の空間と、テーブルの下一枚隔てたその下の大体同じくらいの量の暗い空間と、二人の背中が壁のようにそそり立つがその周囲に広がっている茫漠として捉えきれないような広がり。やがて酒と料理が運ばれてくれば、我々二人はやや俯いて食事に集中するだろう。ナイフとフォークを持つ手はテーブルから数センチ上を浮かんでいて、肩から肘、そして手の先までの角度が小刻みに変更され、それが空間に響くリズムの基調となる。囲まれた空間が連続した動きに歪みながら振動すると共に、料理の温かさで膨張して内側から対流する。二人の頭部によって挟まれた隙間を抜けて湯気が立ち昇っているが、食事中の二人はもちろんそれに気付かない。二人は皿を見ている。あるいは傍らのグラスを見て、それを持ち上げて口に運ぶ。テーブルの上は、コントロールパネルのように、様々な順序立ての組み合わせを待つ。試行とくり返し。運ばれて、口に運ばれて、空いた皿が光を鈍く反射し、それがまた運ばれる。あとは只時間が流れる。食事が進む。


来月になったら、男性四名で食事会とのこと。メンバーは、いつもの連中だが、男性四名…。それは一体、どんな絵なのか。なぜか少し、途方に暮れる思い。

2017-09-25

cetaceans of the world


もう一週間以上前だが、科学博物館に行ったときに、前からほしいと思っていたクジラのポスターを物販コーナーで買った。クジラを横から見たイラスト図で、類毎に、大きいものから小さなものまで、サイズの比較がしやすいように並べて描かれているものである。いちばん巨大なシロナガスクジラが画面最上位に描かれていて、その下にザトウクジラ、セミクジラがそれぞれ半分くらいの大きさで描かれていて、マッコウクジラとか、さらにサイズが小さくなるとシャチとかイルカとかもいる。真っ白の背景に、色はどれもほぼ暗青黒系のクジラ各個体の紡錘形のかたちが、大小様々にいくつもくりかえされているような図版である。("cetaceans of the world"で画像検索すると、似たような画像がいっぱい出てくる。)


このポスターはたぶん科学博物館が昔から販売しているものだと思うのだが、僕はこれをはじめて見たのはいつだったか忘れたけれど、そのとき以来、これを見ていると、とにかく忘我状態になってしまうというか、クジラという生き物の、その巨大さというか、その計り知れなさを想像しただけで、もうその図柄から目が離せなくなってしまう。


とくにセミクジラの口の曲がり方とか、ほとんど鳥肌が立つ思いだ。マッコウクジラの頭部に無数に残る傷跡の恐ろしさ。図柄の、クジラとクジラの間に存在する「地」の白さの中に、異常に小さな自分の姿を想像して、そのサイズが真上のシロナガスクジラの尾ひれの半分にも満たないだろうと想像して、それが自分とクジラ以外に何も存在しない深海の只中であることを想像しただけで、調子のいいときだと、たぶん気が狂う一歩手前くらいまで跳べるような気さえする。


で、ポスターは家に貼って、と言ってももはや全紙サイズを掛けられるような壁は我が家に無いので、フレームに入れて立て掛けるみたいな、それでさえ邪魔だが仕方が無い。あと、ポスターと同様の図柄がプリントされているA4のクリアケースも販売していて、これは会社の自分のデスク前のパーテーションに貼っておくため、ポスターと同時に購入した。あと絵葉書も。いや違った絵葉書はサメだった。まあ図版的には似たようなもの。


それで先日の会社で、さっそくクリアファイルをパーテーションに貼り付けておいたら、後ろを通りかかった女性から、クジラ好きなんですか?と聞かれたので、うーん、好きというのとはちょっと違いますけど、でもたまに、じーっと見てるのは好きなんですよ、と答える。


クジラ見てると癒されるとか、そういうことですか?と、さらに聞かれたので、うーん、癒されるというのとは、ちょっと違うんですよ、なんて言ったら良いのか、すぐ思い浮かばないのですが、…そうですねえ、見てると一瞬、気を失いそうになるような、そんな感じなんですよねえ、と答えたら、えー!?それはかなり、やばそうですねえと、やや引かれた。

2017-09-24

植物


僕の妹の娘、つまり僕から見たら姪だが、今五歳で、久々に見たら顔も全体的にも、少し縦にシュッと細長くなっていた。あら、また少し大人っぽくなってんだねーと言ったら、お父さんが、そうなんですよねー、ちょっと寂しいんですよね、昔みたいにぽちゃぽちゃしてた方が良かったんですけどねえ、と言うので、なるほどそういうものかもしれないですねえ、と。そして、以前と較べて少しだけおとなしくなった印象もあり、前はそんなに長い間、静かにしてることなかったのにねえ、と言うと、もう幼稚園の年長になって、最近わりと遠慮するというか、雰囲気とか空気とか、読むようなところがあるのよね、と言う。なるほどなあ、ついに社会性が芽生え始めたのか、と言って、社会性って要するに、そういうことなのか、でもまあ、仕方がないのだろうな、と思う。その後、キノコの絵を描いてくれと言われて、色鉛筆でマイタケみたいな曲線の細かく動くような傘をもつキノコのイメージを描いてあげたら、さっそくその形というか描いている手つきを真似して、それ風に描き始めた。単にグチャグチャに手を素早く動かしてるだけであまり上手く行ってないけど、でもすごいじゃない、すぐに真似しようとしたよ、こんなにすぐに盗もうとするなんて、心意気がいいよ、反射神経高いよ、こりゃ優秀だなあ、と親に褒めた。


昼間の光が窓ガラスから燦燦と注ぐ電車の中。ドア際に一人女性が立っていた。女性というか、ついこの間まで少女だった感じの幼さもあるが、子供という感じはしない。二十歳くらいだろうか。背はすっと高く、キレイな服装をして、まっすぐ立っている。植物にたとえたら、今の状態が、もっともキレイな時期なのだろうなと思う。なぜ植物にたとえるのか、よくわからないが、植物のような瑞々しさだったというのもあるし、それが植物のように、短い時間の中での刹那の出来事のように感じられた、ということでもある。

2017-09-23

パターソン


新宿武蔵野館ジム・ジャームッシュ「パターソン」を観た。これは、ぜひ観た方が良い。以下の文章を読まないで、まず作品を観てほしい。


月曜日、朝、主人公が目を覚ます。腕時計で時間を確認すると6時10分である。僕は毎朝6時20分に起きるので、大体一緒だな、と観ながら思う。しかし主人公のパターソンは、とくに目覚ましとかアラームとか無しで自然に起床する。隣で寝ている奥さんが寝ぼけた声で、私たちの間に双子の子供が生まれた夢を見たとか、そんなことを、むにゃむにゃと話すので、しばらくそれを聴いてあげる。一人で起き上がって簡単な朝食をとる。職場に行く。仕事する。夕方帰ってきて、食事して、犬の散歩に行く。途中バーに寄ってビールを飲む。帰って、眠る。…それで、それが繰り返されて、翌月曜日の朝まで来て、この映画は終わる。


館内はそれほど混んでもいなくて、何席か隣の人が、花粉症のせいかずいぶん鼻をグスグスと言わせていて辛そうだった。しかし花粉症のせいではなくて、もしかしたら、観ている間、ずっと涙に暮れていたのかもしれない。そんなことあるか?あるかもしれない、もしそうだったとして、少しもおかしくない。館内全体が、映画を観ながら、静かに無言で泣いていたとしても、もしかしたらそれもありうるかも、と思ってしまう。これみよがしな泣き要素など、一切含まれないし、ちょうど季節的に最近の夕方くらいの空気と光のような、カラッとさっぱりした手触りの作品であるが、しかし、いや、だからこそ、ほとんど本質的な意味での、生きていることそのものの、ふだんは忘れているけれども、ふと思い出したらいつでも泣きたくなるような、心の穴というか空虚のような、ほとんど甘美さと紙一重のかなしみのようなものに、この作品は届いているという感じなのだ。


観ているとき何度か、保坂和志のいくつかの作品、この前読んだ新作の「読書実録」とかを思い出したりもした。保坂和志の作品を、ほとんどロック・ミュージックそのもののように感じるときがある。理解を求めるな。むしろ理解させるな。拒否しろ。何も渡すな。さもしい真似はするな、安売りするな、媚へつらうな。そういうことのように感じもする。それほど攻撃的ではなくても、それを誰かに渡さない、明け渡さないということは、そのまま生き方への覚悟を決めることに等しい。本作の主人公は、その意味で、おそろしく気高くて、そして優しくて、優しさゆえに、そして愛する対象を尊重することのよろこびゆえに、ときには自らを譲歩することに対して、ほとんど恐れを知らない。だから彼の内にある彼自身が守るべきものを、彼は場合によっては、いつか手放してしまうことも、あるかもしれない。しかしこの世界では、時間や空間を越えて、誰かと誰かが、まるで当たり前のうようにして不思議な連帯の関係を結んでいるらしい、どうもそのようなのだ。あらゆる兆候や予感の重なりを経て、まるで隣人のように見知らぬ少女が自作の詩を朗読してくれるし、飼い犬は飼い主を次の場所へ案内し、行動を起こし、まったく唐突に、また別の使者があらわれ、そこでもまた出会いが生じる。そして引き続き、営みは守られる。それは時間も空間も越えた連綿と続く仕事だ。


自分のような者でも、この映画に心をふるわせる資格があるだろうか?できれば、そうありたいと願う。死んだ後に、自分はそうだったと言いたい。この映画は、そのような自分を守ることを肯定する力とよろこびそのものだ。

2017-09-22

パーラトの録音


グレッチェン・パーラトのアルバムを「in a dream」から、いくつか聴き直したり、ライブDVD「Poland 2013」、Live In NYC付属のライブDVD なども観直す。メンバーの違いなどあらためて確認。


それにしても、しつこいようだがハービー・ハンコックのButterflyの解釈の素晴らしさと言ったら、くどいようだが、まったく言葉にできないほどだ。2009年のアルバム「in a dream」にはじめて収録されたギター主体の演奏なら、すごく高度だけれどもまだわかる範疇であるが、それが2013年のライブの時点で、あれほどの奥行きと深みを獲得してしまっているというのは何なのか。それこそが、演奏を重ねていくことでしか起こり得ない変貌なのか。いや全体的に変わっているのではなくて、細部一つ一つが、すごい精度で全部洗い直されていることの凄味なのか。今回わりと久しぶりにイヤホンでデカい音で聴いていて、相変わらず圧倒されるとともに、なんというか、ライブ録音という音源そのものの根源的な不思議さというか、ちょっとこれが現実に起きたことの録音されたものとは思えないくらいの驚きに包まれてしまった。Live in NYC の日本盤CDには、渡辺享による解説が収録されていて、これが本作リリース前後でパーラトに関わった周辺のミュージシャンについて短く簡潔だが見事にまとめられていて素晴らしい内容なのだが、その中に本作はオーバーダビングなしの完全なライブ音源であると書かれていて、ということはツギハギとかもおそらくしていないのだろうが、それでもトラック毎のミックスダウンはするのだろうけれども、それだけでもやっぱりライブ音源というのは不思議な録音物だよなと、あらためて思う。というか、録音というものの、根本的な不自然さ、不可解さをはっきりと感じさせるものだと思う。出来事を認識すること、そのものが異化されてしまうような感じだ。それが今、耳に聴こえること自体が信じられない、みたいな気持ちだ。


weakは「in a dream」の時点でほぼ完成形という感じだ。先日のライブのオープニングナンバーwithin meもそうだ。Holding back the Yearsは如何にもグラスパーっぽい感じで、グラスパーが参加したのが2011年「The Lost and Found」だが、やはりパーラトのキャリアにおいて決定的なのは「in a dream」だったように思う。

2017-09-21

グレッチェン・パーラト


表参道のブルーノート東京でグレッチェン・パーラトのライブ(2nd)。うれしい、ようやく観れました、まさに堪能、という感じ。何の文句もありません。メンバーはサモラ・ピンダーヒューズ(P&key)、マーク・ジュリアナ(Dr)、アラン・ハンプトン(G&B)で、「Live in NYC」との違いはピアノがテイラー・アイグスティではない点、今まで録音されたライブ音源よりも、わりと静かでひたむきに、淡々としたスタイルでいく。しかしバンドとしては安定のクオリティだ。内容もほぼ予想の範疇内だけれども、予想していたイメージの何倍もの密度のぎっしりとつまった内実で、これでもかとばかり目の前に展開されたものを受けて、ほとんど言葉はなくて満足感だけに自足する。なんか、自分でも驚くくらい、完全にふつうに、ああ好きな曲で嬉しい、ああこの曲が聴けて幸せ、ああこれも好き、みたいな。単なるその音楽のファンとして今がひたすら幸福、みたいな、始終そういう状態で過ごした。


それにしても、ボサノバとかシャンソンとかサウダージな、スキャット割合の多めな、器楽的というかつぶやき的というか、鼻から抜けるというか、声より息の方が多いというか、声が途中から吐息に変わってしまうようなあの感じが、しかし再生音源で聴くのとこうして直接歌っているのを聴くのとで、印象がほぼまったく同じというか、あの感じのままものすごい安定感で歌われることに、あらためて驚いた。スタジオでもライブ盤でも本物のライブでも、完全に同じクオリティを保って歌ってしまうのって、たいへんな安定感というか、ものすごい技量というか、盤石の繊細さ、みたいな謎の矛盾とも言いたいような凄さ。ぎゅっと眉間にしわを寄せて顔をしかめて高音部をうたうときの、その表情と発される声が、まるで乖離しているかのようにも見える瞬間さえある。


しかしButterflyもweakも本当に名曲。何度聴いても不思議。これらの既存曲をよくもまあ、こんなカッコいいアレンジに出来たものだとつくづく思う。もう、この二曲に関しては薬物を打たれたかのように、何の冷静な言葉も出てこない。僕は、Butterfly冒頭でボーカルがスキャットとハンドクラップを続けて、weakならマーク・ジュリアナが驚愕的なドラムソロを展開していて、両曲とも、しばらくして他パートが、さーっと波の打ち寄せるかのようにリズムインしてくる瞬間が来ると、ほとんど全身が溶けて流れてしまいそうになるというか、瞳孔が開いたままで心肺停止に陥りそうなるというか、ほとんどヤバイレベルにまで連れて行かれそうになる。これほどの甘美さが、この世にあろうかと思う。


客席もかなり盛り上がっていて、楽しい雰囲気で良かった。

2017-09-20

秋の夜


なぜか僕と妻が、あるご夫婦と一緒に見知らぬ部屋で寛いでいた。

食事が終わって、デザートとお茶を頂いて、そのあと、この部屋で雑談したりしながら過ごしているようだ。

でもこのご夫婦、よく見たらたまにいくレストランのシェフとマダムではないか。

たぶん僕たちが、いつものようにその店で食事して、他に客もおらず閉店時間も過ぎてしまったので、じゃあこの後は、こちらへどうぞということになって、店の裏手口から続いている彼らの居住スペースに案内されて、そこで寛がせてもらっているのだ。

それにしてもあんな雑居ビルの裏手からこれほど森閑とした居住地へつながっているとは意外だ。どういう土地の構造なのか。

僕と妻は、部屋の壁にもたれてぼんやりしていて、窓越しに秋の虫の鳴く声を聴いていた。ご夫婦は僕らのすぐ傍で、まるで子供のように二人並んでベッドに横たわって首だけこちらを向けている。我々は奥さんとはお互いに気兼ねなく話が弾むが、じつはご主人とはそうでもない、店でのご主人は始終厨房で仕事をしているのでそれほど話す機会もないから、というのもある。こういう機会なら色々と聞いてみたいこともありそうだが、そう思ってもいざとなると何の話題も浮かばないものだ。

そして部屋の奥にいらっしゃるのは、お二人のどちらかのお母さんだと思うのだが、このお母さんがすごくいい人で、さっきから色々と気を遣ってくれて、なんだか申し訳ない気持ちになる。

そのうち、外に車の音がして、誰か来たのかと思ったら、玄関に小学校時代の同級生Yがあらわれた。どうやら僕たちを送迎するために、わざわざ車で迎えに来てくれたらしい。

なんだか悪いね、すまないねと言って、ご馳走様でした、今日はありがとうございました、と、レストランのご夫婦にも挨拶する。また来ますね、と言って、二人が玄関まで見送ってくれているその家を後にする。

真夜中の暗闇と肌に触れる空気で、もう冬がそこまで来ているのだと思う。今日はひたすら人の世話になりっぱなしだな、などと言いながら車に乗り込む。

2017-09-19

汚穢


80年代初頭の漫才ブームのとき僕は小学生だったが、当時の漫才をテレビで見て面白かったかといえば、さほど面白いとは思わなかったはずだ。とくに紳助・竜介、B&B、ツービートらは、あまりにも話の展開が速すぎて、少なくとも子供の自分には、何が何だか全然わからなかった。そもそも小学生のときは、漫才とか、テレビのバラエティ番組自体あまり好まなかったと思う。ドリフは面白がって見ていたと思うけれども。ひょうきん族もあまり見てなかった。漫才だと、しいてあげるならオール阪神・巨人とか今いくよ・くるよとか、かなり王道保守的なやつか、あとなぜかヒップアップのコントも好きだった、というか、それで笑った記憶が、かすかにある。


今当時を思い出して、ツービートは数ある漫才コンビの中においても、きわめて不良っぽいというか反抗的な雰囲気をたたえていて、子供の頃の自分は、そういう感じをあまり好きではなかったのだが、当時、偶然テレビで見て、なぜかいまだにおぼえているネタがある。それはたけしが、地獄に落ちたという設定のネタで、鬼に連れられて、釜茹地獄だの磔地獄だの火炙り地獄だの、色々なやり方で酷い目に会っている様子を見学していて、やがて自分も、どれかの地獄で責め苦に会わなければいけないのだけれど、どれも辛そうだし、困ったなと思って、ふと見るとでかい池みたいなところに、大量にうんこが溜めてあるのだという。で、そこに人々が首まで漬けられて、首だけ突き出した状態で全員タバコを吸っているのだという。そういう責め苦の地獄なのだ。でもこれなら、汚さを我慢すれば、身体的苦痛もないし、タバコ吸えるなら匂いもごまかせるし、他と較べたらかなりマシな地獄だろうと思って、さっそくこの責め苦を受けることを鬼に申請して、了承してもらう。そしていよいよ、その池に身体を沈めて、しばらくして何か様子か変だなと思ったら、さっきの鬼がやってきて池に浸かっている全員にこう告げた。「はい、休憩終わり。みんな潜って。」


その後、十年か十五年後に、肥溜めに潜るシーンというのを、何かの映画で観た。たぶんナチスの強制収容所のシーンで、追っ手から逃れるために、便所にいくつも空いた肥溜めの穴から、たくさんの子供たちが頭だけ出して、人の気配がすると、皆があわてて潜るのだった。


No Music、No Life「音楽がないと生きていけないなんて、ウオシュレットがないとトイレには行けない、とホザく今時のガキと同じじゃないのか」と昔、福田和也が意地の悪いことを書いていた。ウォシュレットがなくてもいいけど、ある程度衛生的な方がいいな、とは思っている。ある基準値みたいなラインをもし下回った場合、さすがに僕も動作停止する。そのあたり、たしかに自分の脆弱さは自覚している。公園でBBQとか、音楽フェスとか、野外イベント全般とくにそうだが、常にトイレには悩まされる。あんまり利用したくない場合が多い。最近はまあ、そうでもないかもしれないけど、なかなか寒気をおぼえるというか、自分のナーバス度が最近基準値越えしているのだと思うけれども、ああいう場所が、この世に存在していて、自分と地続きで、同じ空気を共有している、というだけで、気が落ち込み、塞ぎ込みたくなるようなところがある。そんな僕はばかだ。その性根を叩きなおしたいと、思う気持ちもなくはない。これから先、どんどん老人になるのに、そんな事言ってたらマトモに生きていけない、いや、別にもう老い先短いからマトモに生きなくてもいいけど、それだとなんだか頼りなく怯えてばかりの余生になりそうな気がする。それじゃだめだ。むしろトイレ掃除の仕事をしようかと思う。そういえば、駅や会社のトイレを掃除している作業員は、なぜ老人ばかりなのか。あれ、若い人はやらないものなのだろうか。清掃業者。清掃業者。保坂和志「未明の闘争」で、主人公と村中鳴海は、便所掃除をしながら旅を続けようと考えるのじゃなかったっけ。便所掃除をしながら生活するっていうのは、とても凄いことなのではないか。


で、昨日見た夢が、小便のいっぱい入った壺を掃除しているという夢だったのだ。何年にも渡って無数の人々の小便を受け入れてきた大きな壺で、それはそれはものすごい状態に汚れているものを、覚悟を決めて掃除するのである。でも、その気になると意外なくらい汚れが落ちてキレイになるものだから、わりと懸命に仕事をしているのだ。傍らには、同じフロアで事務仕事をしている派遣の女性がいて、とても手馴れた手つきで同じ仕事をしている。いつものように世間話などしながら、ガンガン洗っている。こういうこと、自分にも、やればできるのだな、やってみるもんだなと思っている。


排泄物といえば、田中小実昌の戦争をモチーフにした作品にも、そういう話はたくさん出てくる。排泄物の処理は、もっとも基本的な公共仕事ではないかと思うが、売春はもっとも初期に生まれた職業の一つだとか何とか言うけど、排泄物の処理は、職業としてはかなり後の方なのだろうか。そもそも昔は一箇所に排泄して、それをわざわざ処理したりはしてなかったか。農作物の肥料にするために肥え桶に溜めて運んだり、そのあたりでようやくというところか。下水によって隠されてしまったので、僕のような脆弱な人間も生まれてしまったわけだが、もっと糞尿は身近だっただろうし、匂いもそうだったろう。


発酵したものは美味しい、ということは、匂いの酷いものだって美味しい可能性はあるのだ。あるいは、おそろそく非衛生的な場所で食事をするとか、不潔な食卓と皿と食器を使うとか、それによって独自な美味しさを見出すということもあるかもしれない。


食べ物も、粗末なものとかでも、美味しいときは、しみじみするくらい美味しいものだ。そういう味わい方、ぐっと過去の記憶にまで引っ張ってくれるような味覚のよろこびというのがある。そのときの匂いに、おそらく色々と混ざっているのだ。

2017-09-18

台風一過


夏が戻ってきたようだが、光だけが夏で風は涼しく蝉の声はせず、やはり季節は変わった。とはいえ歩き回ってたら熱中症を心配しなければならない程度には暑い。


実はまだ観てない名作を観ましょうの第二段として、ビデオで「去年マリエンバートで」を観た。なんとなくデュラス「破壊しに、と彼女は言う」を思い出した。ひたすら待機の続くヨーロッパ的な時間の質感と重みといった印象。バロック時代の古風な装飾の施されたホテルの廊下や客間、というものや、そういう在り方、時間の堆積に対して、自分の中にほとんど参照項がないとき、それが小説ならば、何となくイメージ補完しながら読み進めていける気もするのだが、映画になると、どうしても映っているものを観ているばかりなので、なんとなく興味の薄いままに進んでしまうというのはあるかもしれない。というわけで、わりとダラーっと観ていたら、そのまま終わってしまった。

2017-09-17

レインコート


天気はさらに悪くなるだろうから早めに、ということで午前中から図書館へ行く。しかし以前も思ったけれども、この図書館、中に入ると妙に体調がおかしくなる。生あくびが連発しえ四肢に違和感というか鈍い疲労感のようなものがまとわりつくようで、じっとしているだけで大変鬱陶しい気分になる。たぶん、気圧がおかしいのだ。とくに今日みたいな低気圧な日だと顕著だ。外に出たら雨も風もそこそこ強くなってきたが、空気が冷たくて身体全体に掛かる負荷がすっと消えたようで、館内よりよほど快適でさっぱりした気分になった。


父親宛に宅急便の荷物を出すためふたたび家を出ようとしたときには、かなり雨脚が強くなっていた。ずいぶん前に買ったものの一度も着たことのないレインコートを試しに着てみた。荷物はコートの内側に抱えて、傘を持たずに家を出た。もしかしてレインコート着て雨の中の歩くのは、僕は生まれて始めてではないかと思った。さすがにそんなことは無いかもしれないが、でもこういう感じは記憶にないというか、すごく初体験な感じがする。雨のぼつぼつと被弾する音は耳に聴こえてくるけど、身体は濡れない。楽しい。子供のように心踊る。

2017-09-16

上野


天気があまり良くないし、近場で、ということで上野へ。


国立科学博物館の企画展「フローラ・ヤポニカ 日本人画家が描いた日本人の植物」。所謂ボタニカルアートと呼ばれる作品群の展示。植物の細密画だが、モチーフである植物の特徴を、図画として明確に伝えることが目的で、実物と照らし合わせたときの適合性を期待される類のものなので、極度の表層至上というかほとんど説明的ともいえるほど徹底的な描写の積み重ね。人力での、鬼のような細密作業を経て、最終的に画面内に収めてすっきりとまとめるやり方は、絵画ではなく図法および製図的というか完全に設計図面というか、いや、まさにこういうのを、真のイラストレーションというのだろうという感じ。僕も昔、小学生の頃ニュートンとか読んでいて、あの雑誌はオールカラーですごかったけれども、イラストレーションというのはいつの時代でもひたすら手描きで、なんというか驚きますね。でもじっくり見てるとやはり作者ごとの個性はあって、とくに男性はわりと個性を隠さないというか、嗜好がバレやすいというか、やや表現ぽくなる傾向が感じられるが、女性は総じてクールな感じというか、対象に過度な思い入れが無いというか、そこに余計なものを入れ込まないであっさりと仕上げて社会的な仕事として終わらせる感じというか…。いや、そんな単純な話でもないだろう。まあ、あまり、よくわからない、ということで。


そのあと都美術館に移動して「杉戸洋 とんぼ と のりしろ」を観る。杉戸洋の作品はこれだけまとまった量を観るのははじめて。会場全体が、かなり考慮というか配慮の行き届いた繊細な空間に仕立て上げられている感じで、作品群一つ一つから受けるある種の柔らかい甘さと、会場の暗くて無骨な抵抗感が、なかなかほどよくブレンドされていて、ちょっとあまり見たことのないような世界が醸し出しているように思った。これは、なかなかいいんじゃないかな、と思いながら、ゆっくりと徘徊した。ぼわーっと軽くいい気分になれるという意味でとてもいい感じ。

2017-09-15

疲労快


久しぶりに水泳。この疲労感。とてもいい。電車の座席に座ると、思わず息が漏れる。背中を丸めて鞄を抱え込んでそのままじっとしていたくなる。四肢がただ、力ない物体として、自分と接続されているだけのようで、ものを考える速度も変わる。たぶん僕の時間だけが遅い。心身共にではなく、疲れているのは身体だけ。移動する電車、それに乗り込んでいる疲れた身体、それに乗り込んでいるこの私。

2017-09-14

好物


「病院のメシは不味いよって、家に帰ってな、秋刀魚の寿司食いたいなあと、そんなことばっかり思とったわ。」

「秋刀魚の寿司って、押し寿司みたいなやつ?」

「おお、寿司のな、秋刀魚をな、一尾開いてメシの上に乗せてな、こう、幾つかに切って、それだけや。簡単なもんやぞ。お前知らんのか。食たことあるやろ。」

「あるかもね。ちょうど、今の時期だけかね?」

「そうや、だいたい今頃や。まあ、あれだけを食っとれば満足や。食い物でいちばん好きや。秋刀魚の寿司はな、俺は子供の頃から食とるやろ。昔から、いつまで経っても美味いなあ、好物はな、子供の頃から食とるものが、いつまで経っても、いちばん美味いな。」

「そうかね。」

「お前、そういうの無いか?昔から好きな食いもの無いか?」

「うーん、どうだろうか。」


こちらの言葉をひたすら受け流すだけだった先日の父親が僕に発した唯一の質問に対して、一瞬真剣に考えた。好物…。何かあったか。ちょっと思いつかなかった。

2017-09-13

退院


近鉄特急で8:00過ぎに伊勢市駅着。時間があるので駅前をぐるっと散歩する。外宮は駅から450メートルしか離れてないのか。前回来たときは、こっちの側に降りなかったのでわからなかったが、病院の方と反対側はそれなりに観光地らしさのある町並みだった。そのまま歩いて九時過ぎになって、前回も来た風呂屋へ立ち寄る。今回はちゃんとタオルや洗面道具など持参済みである。一時間半ばかり入浴して着替えて髭も剃って隣接する病院へ向かう。


退院の諸手続き、要支援度調査、支払い。金がばんすか無くなって気持ちがいい。親戚のSも来てくれたので車で父の住まいへ。酷い部屋の真ん中の傾いたような椅子に座り込んで、まあええわ、わかった、全部あとでいいわ、としか言わない。のれんに腕押しというか、まあ、昔からこうだったのかもな、この上っ面だけの感じな。まともに話すとか、場合によっては喧嘩になるとか、やはりありえないのかもな、昔ならともかく、今それを期待するには、もはや手遅れだな。その意味では僕も、やることが遅いわな。


それで最後、じゃあもう帰るわ、というと、おう。そうか、少し嬉しそうに、やっと帰るか、あー良かったみたいな態度で、じゃあ、気をつけてな。とか言って、他の皆にもよろしく伝えてな、とかなんとか、じつにもっともらしいことを言う。最後にお互いに向き合ったとき、たぶん今日はじめてだったが、なぜか顔が笑うので、僕も、自分が笑うと思ってなかったが、父親のその顔を真正面から見ながら、おそらくそのような顔になっていた。そのあと一人になったあと、最後に不思議なシーンを見せられたような、妙な印象が残った。


バス停まで歩いて、時刻表を見たら、次のバスまで三十分以上ある。待ってるのも無駄だし、次のバス停まで歩く。次のバス停に着いて時刻表を見たら、来るはずのバス時刻の表記が消えてる。おかしいと思ってさらに次のバス停まで歩くと、その時刻表もやはり次の到着はない。この時刻表だと、今日は夕方まで全くバスが来ないことになってしまう。いっそこのまま駅まで歩いてしまおうかとも思ったが、地図で見たら、これを最後まで歩くというのは、狂った行動としか言いようが無いような距離だったので、仕方がないのでその場でタクシーを呼んで鵜方駅まで移動。遠いな。二時間掛かって、名古屋へ。さらに二時間近く掛かって、ようやく東京。新宿まで移動してツタヤでビデオ返して(行きで返すつもりだったのだが時間がなかった。)九時過ぎに帰宅。長い一日だった。昨日の夜が、まるで数日前のことみたいに思える。

2017-09-12

長距離バス


新橋で食事して上野で酒飲んでたら、ちょっと遅くなり過ぎたので、あわてて移動して深夜0:00過ぎに新宿着。名古屋行きの長距離深夜バスが一ヶ月ぶりの乗車を待っていた。今回は席も指定して、眠る気満々で臨む。着席して後ろの人に軽く会釈してシートを倒す。バスが発車して、なるべく身体をまっすぐにする。眠ってるんだか起きてるんだかわからない時間がしばし流れる。身体をずらし、肘掛に無理して頭を乗せてみたりもしたが、無理するとかえって疲れるので、結局シートに身体を素直に横たえて大人しくするのが一番楽なようだ。その後、眠りと言うにはあまりにも浅い薄い靄の掛かったような時間が流れる。たぶん意識は失っているが、眠りに落ちてはいなくて、謎の場所に引っ掛かっている。時計を見るわけでもなく、時間の経過を感じるわけでもなく、走行音だけを聴いている。何度か、ふと目覚めたりもした。でもしばらくすると、また同じところに戻る。波打ち際みたいな浅いところを、いつまでもたゆたう。停車すると、どうしても起きてしまう。そして、再び発車するまでの時間が、やけに長く感じる。立ち上がって外に出る気にはならない。だたじっとしたまま待っている。やがて走りだして、しばらくすると、また眠る。


名古屋着は早朝6:00で、もしかして、かなり熟睡したかもしれないと思った。でもアクティビティソフトで確認したら睡眠時間としては三時間弱らしい。それでも睡眠不足感はあまり感じてない。身体に痛みも違和感もないし、上等である。バスを降りる。空は曇っている。妻にメールしたら、東京はすごく晴れていて暑くなりそうとのこと。


ミュージシャンも、アーティストも皆、長距離バスで移動するのだ。長距離バスはクリエイターたちの乗り物。若者と芸術家の乗り物。

2017-09-11

DL


東大の伊藤謝恩ホールで「ディープラーニング産業推進フォーラム2017」。会場内で書いたメモを元に覚え書き。ところどころ忘れてしまって、もう断片的にしか思い出せないが、面白かった。

https://connpass.com/event/65143/

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モラベックのパラドックス

「コンピュータに知能テストを受けさせたりチェッカーをプレイさせたりするよりも、1歳児レベルの知覚と運動のスキルを与える方が遥かに難しいか、あるいは不可能である」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%A9%E3%83%99%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9

Google翻訳は2016年からディープラーニングになって今後ますます翻訳精度が向上すると思われる。英語とスペイン語との翻訳とか、もうすでに完璧に近いくらいの精度らしい。しかし日本語は世界の言語の中でわりと無視されているというか、あまり重要と思われてないので、納得できるくらいの精度を得るにはもうちょっと時間が掛かりそう。

ビリヤードの動きをあらわした3DCG。これは物理モデルで計算しているわけではない。ディープラーニングによる1秒後の予測。ここまでリアルにビリヤード球同士がぶつかって跳ね返る様子を作り出せる。

「眼」の誕生。「眼を持つ機械」、視覚野の誕生、ということ。

それほど敷居高くない。理系の人が半年もやればそこそこ行ける

CNN=空間的な隣接性

RNN=音声、時系列的隣接性

いちばん優秀なのは二十代、しかし日本は年功序列。

アメリカで自動運転の仕事の事例だと、新卒で年収1500万、キャリア積むと何千万、リーダーとかマネージメントクラスだと億とか十億クラスも。

日本は技術やモノに対してなら費用対効果を現時点から逆算するが、人に対してはしない。

前例もなく文化も違うので、急に入ってきた若い人に巨額の給料を払うことができない。

開発製品事例。特有のデータを保持する企業に初期導入→同業企業に導入する際の皮切りデータ。じょじょに精度が上がっていく。

東大でディープラーニングは虐げられている。今までAIと関係なかった部門がディープラーニングに興味を持つ。

「アルゴリズムよりも計算資源が重要」

「アルゴリズムよりもデータが重要」

「計算資源よりもデータが重要」

データ作成、そこは人間の仕事。

秘密を守れること

データ作成できる人が求められている

ネットにないデータ

結果(因果)がわかるデータ

計算資源は当社のサーバー一台でOK。25万円。

ステージの客席にいる観客の表情を拾って、男女比や年齢、笑っている人数などからデータを集計するシステム。工数は0.5人月くらいで何十万円くらいで作ったもの。

AI 課題は汎用性、つまり対応力。今は特化型だけ。

汎用化のために、ある程度は脳モデルが参考になるはず。

AIの学術分野では、日本は世界の中では苦戦している。

判断→命令に従う、従わない (自殺しろと命令されたら拒否する)

自律性と汎用性のバランス

自律性=未知を予測する

汎用性=世界を検索する

倫理性 帰結主義、義務、徳

未知(少ないデータ)への対応

万人の幸福と人類存続のトレードオフの緩和、人工知能と人間による近未来の生態系(EcSIA)の形成、ゆるく制御。

(以上)

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独り言

「こうであれば良い」という未来像は、どのようにイメージすれば良いのだろうか。万人の幸福と人類存続の両立。これは「こうでなければいけない」ということだ。

たとえばナチスは「ドイツの現状はおかしい。これには原因があるから、これを取り除くべきで、ドイツは本来こうであるべきだ」ということで勢力を拡大した。

「こうであれば良い」の共有はとても難しい。「こうであれば良い」と「こうでなければいけない」と、当事者からすると、どちらも急に降ってくる。

現状に不満足→未来像イメージ

冷静に判断するとはどういうことなのだろうか。冷静とは何か。信用を勝ち取れる状態ということか。

AIは1秒先の未来を作る→現在を作っている?

2017-09-10

はなればなれに、死刑台のエレベーター


いまさら人に言えないけど実はまだ観てない名作を観ましょうという事でゴダール「はなればなれに」観た。


すごい。。カッコいい。これはかなり「ベイビードライバー」だ。どこが?と言われても困るのだが、いや、車が出てくるし。


車がびゅんびゅんと走っているパリ市内、まるで埼玉や千葉ではないかと思われるような、妙に湿った感じの暗いパリ郊外の風景。華やかなようでそうでもないみたいな、けっこう若者的な時間のリアリティが匂い立つような感触を受けた。


デカイ安全ピンが付いたチェックのスカート、サイズ大きめなニット、帽子のアンナ・カリーナ。ものすごく80年代な雰囲気の服装。それは逆に80年代の方がある意味ゴダールっぽいからだろう。こういうチグハグな組み合わせが、ものすごくかっこよくなってしまうワザの冴えがすごい。あの有名な三人揃ったダンスシーンもまさにそんな感じがする。今や懐かしくなってしまった凄さとも言えるが、しかし今でも充分に凄い。惚れ惚れするほどに。


続いて、妻が観てないというので「死刑台のエレベーター」。


おお、意外と「ベイビードライバー」だ。あるいは意外と「はなればなれに」だ。どこが?と言われても困るのだが、いや、若い男女だし、自動車競走だし。愚かな二組の男女、ではあるが、ジャンヌモローは貫禄のある不機嫌顔で、あんたたちガキのくせに調子に乗ってんじゃないわよ、ガキの遊びでこっちはいい迷惑よ、よくおぼえておきなさいほんとうの愚行っていうのは私たちみたいなのを言うのよ、とか無言で威圧してくる感じ。男はどちらも、頼りないというかほとんど役に立たない。

2017-09-09

ベイビードライバー、ひと夏のファンタジア


新宿バルト9でエドガー・ライト「ベイビードライバー」。まさか2017年にもなって、ジョンスペンサー・ブルースエクスプロージョンのBellbottomsをこれほどの疾走感と高揚感のなかで再び聴く日が来るなんて、まったく予想していなかった。この映画の冒頭10分は、少なくとも僕がここ数年、もしかしたら二十年近く観てきた色々な映画のなかでも、突出して凄い、あまりにもすばらしい冒頭10分だったのではないかと言いたい気持ちがある。


なにしろ、曲がいい。選曲がセンス良くてどうのこうの、みたいな意味では全くなくて、ここで選ばれたすべての曲が、誰かから熱く愛されているというか、すべての曲が、映画を愛しているかのように聴こえてくるというか。とにかく愛のある完全な幸福感がみなぎっているのが凄い。


少なくとも前半部分は、掛け値なしに最高である。ひたすらわくわくする。


主人公はサンプラーで使うために普段から録音機で色々録音するのだが、ヒロインの子が録音機を口元にあてて歌いながらはじめて自分の名前を言うところとか、いきなり感動するし、というかヒロインの子もかなり音楽好きっていうところがいいのだが、T・REXがこんなにいい感じに聴こえるなんてどういうことかと思うし、パンク周辺あまり詳しくないけどダムドこんなにカッコいいのかと思うし、クイーン、、しかもよりによってブライトンロックだなんて、マジか(感動)とか、コモドアーズのチャチな感じがこの映画においては逆に崇高な輝きを放つなあ、とか、いくら書いていてもキリがないが、それらの音楽のあらゆる良さとか惹かれる部分が、一々丁寧に枠で囲まれて、全部映画の中に割り付けられているというか、映像に対して音が伴奏されるのではなくその逆の状態、すなわち音がすべての上位にある状態で、でも一応物語としては主人公がその音をイヤホンで聞いている一部始終としての世界なので、そのあらゆる出来事が音楽と完璧にカッチリとはまっていて、そのための徹底的な作りこみがいちいち目を見張るような感じだ。


そのぶん、ユルさとか曖昧さみたいな要素は皆無なので、ややぎっしりとし過ぎていて疲れるというのはあるかもしれない。とくに後半の銃撃戦はあまり良いと思えなかった。いや、細かい部分ではかなり心踊る仕掛けも多いのだが、しかしやや腕力で押し過ぎというか、目まぐるしさが勝ちすぎというか、爽快さが後退して少し息苦しいものになってしまっているような印象を受けた。というか銃声の音というのはあまり音楽的じゃないというか、一瞬たしかにいい感じでシンクロする場面もあって、おお!と思うのだが、最後の方はちょっとくたびれてしまう感じ。物語も、最初もしかしてこんな感じかな?と予想したら、思った以上にその方向の、いかにもな感じだったので、そこも、うーんという感じであるが、などとマイナスに感じた部分もないことはないが、しかしやはり面白い。面白いところだけを何度も繰り返し観続けてしまえば、それだけで満足という感じだ。「ラ・ラ・ランド」よりも全然いいとは思うが、でもこういう風な徹底的に作りこんだ世界というのはたしかに「ラ・ラ・ランド」との共通性も感じさせるし、もしかすると「ラ・ラ・ランド」的な映画の隆盛が「ベイビードライバー」のような映画を生み出したとも言えるのかしら。製作された時期とか全然よく知らないで適当なことを言うが。なにしろ、娯楽作の流行りの形として、こういう感じのものが今、受けているのだとも言えるのかも?


帰宅後、ツタヤで色々借りてきた中からチャン・ゴンジェ「ひと夏のファンタジア」DVDを観る。


映画監督が通訳の子を連れて奈良県の田舎町を取材する前半部分と、旅行者の女の子が一人で奈良県を訪れて、その場で出会った男としばし行動を共にする公判に分かれた構成の映画。つまり前半で取材した監督の撮った映画作品が後半の部分そのもので、通訳をやっていた子が主演を演じて、取材のときに話を聞いていた市役所の男性が映画に役者として出たんだなとわかる。もちろんすべてが虚構なので、すべてがそのような映画作品ということになる。まあ構成が面白いとか言うよりも、結局観ているその出来事そのものが面白いかどうかだよな、とは思う。この映画では、主人公の女性がかなり魅力あるので、その良さだけで最後まで楽しく観れてしまうという感じだった。僕はまあ、前半も後半もこんなことありえないわなーとか思ってしまうのだが、そこは人それぞれ、違ったことを感じるだろう。

2017-09-08

傘よ


傘、先週行った店に聞いてみたら、その日忘れ物はなかったとのこと。かなり予想外。だったら、いったいどこへ置いてきたのか。というか、もう何の心当たりもない。これであきらめがついた。あの傘はもうこの世に存在しないものとみなす。


下っ端は下っ端の苦労があり、偉い人は偉い人の苦労がある。どちらがどちらかに従属しているとか、そういうのは本来幻想だ。役割でしかないのだ。時と場所が変われば、皆が、よるべない。お互いに素顔を見合わせるばかり。こういうときに、いつもの調子で横柄な態度をとる奴は、そういうのがまだ有効であることに賭けて開き直ってくる奴こそは、ほんもののばかだ。お前こそがこの世の迷惑。早いところ、つまみだしてやれ。


傘は何処へ行ったのか、だなんて、それはもとより自分の考えるべきことではなかった。傘には傘の目的があった。たぶんきっと、彼ははじめから、僕の所有物ではなかった。

2017-09-07

Wonk新作


「castor」「pollux」アルバム2枚同時発売で、なんだかずいぶんきれいですっきりした聴きやすい印象。あまり色々な考えずにひたすら何度もくりかえし聴いてしまう感じで、とりあえず気に入った。それぞれ収録時間も短く、ふつうなら余裕で一枚に収めてしまえるボリュームだが、こういう形態で販売することは、如何にも今の時代という感じがする。でも少し系統の違うコンパクトな二枚という切り方は、これはこれで悪くないとは思う。アルバム一枚が60分越えというのは二十年以上前から当たり前のことだったけれども、必ずしもそうでなくてもいいとは思う。


Wonkはどこがいいのか、なかなか言葉で書くのは難しい。なんとなく、ふつうに単純にいいという感じなのだ。とてつもなく凄い、まったく新しい、誰もが知らない世界を表現しているとか、そういう風には思わないが、もう単純に楽器で合奏するってほんとうに素晴らしいみたいな、ばーっと音の厚みを広げてその上でボーカルが伸びやかに歌って、もうこれ以上何もいらないくない?みたいな、そういうおそろしく安定した定番のメニューみたいな美味しさ。濁りや曖昧さは今回予想以上になくて、それだけ聴くのが簡単で抵抗感少なめだが、しかし完成度高くて退屈さはまったくない。で、アルバム一枚が短いからほんとうに何度もくりかえし聴いてしまう。

2017-09-06

戦況


色々と出来事が続き、今週はわりと大変な週になった。面倒ごとがいくつか、どっしりと頭の上に乗っかっていて、長期的な問題なので今後も含めてやや不穏な鈍い緊張も感じている。仕事はどうしても自分や周囲の力だけではどうしようもないものに左右されてしまう部分はある。誰もが焦り、不安を感じながら、打ち合わせで顔を見合わせるのだが、そのとき相手の困り顔を見ることで、かえって落ち着きを取り戻すことは多い。全員テンパッてるのがわかると、かえって腹をくくる気になるというか、逆に空元気が出てくる部分もある。ただし状況によって関係者のうち一番しんどい思いをしなければいけない人はいて、そういう人は一番かわいそうなのだが、空元気が出そうな人はまず第一に、そういう先行突撃する人を鼓舞する役目になる。鼓舞とはつまりいつものように平常な感じで振る舞うということを意味する。それで、半分冗談を言いながら後を見送る。そういう役割もあるよな、とか思っていると、自分も同行させられたりして、とくに最近そういうのが多くなってきた。でもそれでもいいのだ。人がどんな状況で凹み恐れ慄いているのかを自分も同じ場所にいながら、密かに他人事みたいに見ているところがある。

2017-09-05

傘が


休み明けでかえって疲れがたまってるような気分だ。厄介な話がばらばらと来て、メールもいくつかのかったるい内容のやつをずるずると仕分けして、ふーっと息を吐いて、スケジュールを整える。


六時半になると、もうすっかり暗くて完全な夜になってしまったな。


ところで、傘をなくした。たぶん金曜日。心当たりは、ないことはない。まだあきらめてない。出てくる可能性はある。

2017-09-04

怪物


水木しげるの「劇画ヒットラー」を読んでいて、今ようやくドイツ首相になって内閣を組閣したあたり。これを読んでヒットラーという人物を近くに感じられるかと言ったらそれは無理で、印象としては幕末とか明治維新の志士の武勇伝みたいな感じに近く、まあ今更ながら、今の感覚ではありえないくらい当事は血なまぐさくて人間も武闘的だった。もちろん歴史的な緒力の動きのダイナミズムを知る意味というか面白さはあり、とくにこの後はチャーチルの「第二次世界大戦」と並行して読むとさらにいい感じ。しかし人間一人を見ても、それがヒットラーだとしても単にパラノイアックにひたすら邁進するばかりで、こんなハリボテのような人物がいるのかと思うが、いや、いるんだよと言われたらそれまでだ。いや、第一お前は、自分がハリボテでないとでも思っているのか?と問い返されたら何も言えないという感じだ。べつに難しくもなんともないでしょ、ある人間が、目的に向かって進んだ、それも人並みに虚無になったり逆恨みしたり激怒したり悲しみに暮れたりしながら、、というだけでそれ以上でも以下でもないでしょと言われたら、そうですよねと答えるよりほかない。結局人物一人に注目しても何もわからず、剥いても剥いても中身はなく、砂を噛む思いだけを味わう。でもやはり、ナチというのは第一次大戦〜ベルサイユ条約が生み出してしまった怪物、という感じはする。何かからゴジラが生まれたというのはフィクションだが、ゴジラを遥かに凌駕するほどの怪物がかつて生まれたというのは事実だ。怪物というのは現実に存在し得るし、これからも生まれる可能性はある。これからの人類が有史上もっとも聡明でもっとも適切な政治的調停を為しうるなら話は別だが。いや、何かから怪物が生まれるという因果そのものが現実なのか。ゴジラはひとつのかたちを与えられた現実なのか。

2017-09-03

花鳥画


どこへ行くんだっけ?板橋って言ってなかったっけ?そうだっけ、じゃあ行こうか。と言って家を出る。巣鴨から都営三田線で西高島平駅へ。あいかわらず何もない駅前から歩道橋を渡って、高速ふもとの道を歩いて、板橋区立美術館へ。ところで、何の展示をやってるんだっけ?何だっけ?入口まで来てわかった。館蔵品展 江戸の花鳥画 - 狩野派から民間画壇まで。入場無料だった。


だいたい草花というのは、あるいは鳥もそうかもしれないが、実際に自然環境の中で見るときでも、それらはいきなり視界にふとあらわれたり、遠くと近くの合間を埋めるように存在しているのを見たり、あらわれかたそのものに特徴があるというか、あらわれかたそのものを主として見るのがほとんどで、そういう意味では花鳥画の各モチーフのあらわれかたというのは普段散歩しながら草花をふと見るときの感覚にとても近く出来ていると思う。座敷に座って、屏風画に囲まれているときでも、おそらくそう感じるような気がする。


最初の展示室にあった大きめの金屏風に萩とススキの、如何にも琳派な雰囲気の屏風絵など、あれは琳派ではなくて狩野派らしいが、しかし描かれ方はまさに琳派的なのだが、琳派というとあの様式っぽいやつかと思われそうだが、そうかもしれないが、自分は元々そこにあまり様式とか枠を感じないというか、観ているとこれはこれで実直に見て描いた結果ではないかと感じてしまう。ススキは円弧の上半分だけみたいな形態が何度も何度もリフレインして、それが風にそよぐススキの形象的な表現だというより、ススキそのものをまともに見ていたらたしかにこうなると思う。


花鳥画は西洋の風景画とはかなり違っていて、もっと連作的というか、自然の景色を左右いくつかのブロックにわけて、それぞれで発生している出来事を、各々はほぼ一緒なのにどれ一つとして同一ではない。そのことを小分けにして感じようとするというか、小分けというよりも、まず目に飛び込んできたそれを観て、色々と思って、それはそれで、次に別のことに気を取られてしまっても良い。すなわちそこで一旦絵画を観ることが、途切れてしまっていい。しかし、ふたたび視界に絵が戻ってきたとき、今度はまた別のものを観ることになる。そのときはすでに、以前の経験とは切れてしまっているが、だからと言ってまったく別の経験というわけでもない。最初から最後までその一枚を、という単位あたりの体験ではなくて、もう少し大雑把な括りで、時間も区切るというよりは任意に重ねた結果として量って、その記憶の堆積として、その絵の印象が決まるようになる。そのように観た。

2017-09-02

君の名は


観始めて、しだいに状況というか、物語的仕組みがわかってきて、これは相当すごいかもと思い始める。男女の身体と心が互いに入れ替わるというだけなら、よくあるパターンだとしか思わないが、その男女が同じ時と場所を共有しないままで、となると俄然面白味が増す。この私と誰か、この場所と別の場所が、すれ違い合い交差し合う。物語とか登場人物への感情移入だとかそういうレベルではなく、もっと根本的な緊張感のなかに作品が投げ込まれている。時間も空間も共有しないという時点で、前提そのもの、心の支えにすべきもの自体が揺らいでうしなわれる予感とともに進むしかない。それにしても語り方というかシーンの並べ方が上手い。別々のことを見事な手腕で並走的に語っていく。


被災する村の祠のところで、お互いが入れ替わっていてさらに過去と現在も混線したような状況下で、ほぼ同じ時と場所を、ついに共有したかと思ったのに、お互いがお互いを見えない瞬間が生じたりして、このあたりの複雑さのきわまりきった辺りに差し掛かったときなど、たいへん素晴らしいと思った。あのまま存在する/しないの境界でずーっと二人の幽霊(一人は生きてるが、でもあそこまで行くとどっちもどっちだ。)が手探りし合うだけでもいいのにとか思ったが、後半は二人が頑張って活躍して入れ替わってリトライを試してと、そのあたりの異様な感じも面白いのだが、その結果お互いがお互いを忘れてしまい、それ自体がなかったことになる、しかしお互いの気持ちとしての、忘却への抗いの思いが、たたみかけるようにアツく展開する。後半以降、そういう終わり方かあ、、とも思ったが、まあ、それはそれでどちらでもいいこととも言える。タイムトラベル的でもあり、心身の交換もあって、分身的な要素もあって、失くすことへのかなしみ、感傷をひたすらうたうと、これは大林宣彦の尾道三部作の要素が全部入ってるではないかとも思ったが、しかしこれまで存在したどの作品とも違う独自な質感を獲得できているとも思う。それは登場人物たちの体験そのものが二人の身体交換によって二重化されていることの、何か肝心だと思っていたことのすっぽり抜けてしまったような感覚、軽く呆然とするしかないような空虚さみたいなものが、一番中心の奥の部分にあって、それがあったことなかったことのたらればの世界とダブルで二重化されているからだろうか。共感ベースでもなければ設定の説明だけでもない、このたまたま、偶然でしかなかった不安さの感覚こそがこの作品の肝ではないか。


観たのは31日の木曜日の夜だったか。ちなみにはじめてネット配信をレンタルしてみた。返却しなくていいのはとりあえず楽だが、ちょっと観直したいと思っても二日経つと観れないのはつらい。まあしょうがないか。

2017-09-01

フレンチ、ホルモン


正午を少し過ぎたくらいに広尾の店に着くと、店内は誰もおらず客は僕一人だった。窓が開いていて快適な風がかすかに店内に入り込んでくる。バイザグラスで、けっこうたくさん飲みますとあらかじめ伝える。フランス料理は結局、最高に美味しい酒のアテだなとあらためて思う。しかも古来の日本的な感覚、すなわち寿司とか蕎麦とかだと、さっさと食って呑んで早めに帰るのが、まあ無難な作法とされがちだが、フレンチとかだといくらでも何時間でも浪費していいよ、あなたの時間と金が許すなら別にいつまでもそこにそうしていてもこちらはかまわない的な感覚があるように思われ、そこも嬉しいというか助かる。何を食べたかよりも誰と食べたかが重要だというのはそのとおりだが、たぶんそれは誰かと時間を共有することの価値であって、あれを食いたいと思ってすぐその店に行ってそれを頼み、ひたすらそのひとときをいつくしむとしたら、それは一人での行動でなければほぼ無理というか、どこまでも個人的欲望に根ざした行為なので、フレンチフルコースといえども結局一人になってしまう。しかし休暇日の昼だし、天気は晴れているし、これで良いのだ。完璧な二時間あまりだったではないか。この店は三年ぶり二回目。前も同じような季節で、あのときの夏メニューに再会できて良かった。夏の店みたいなイメージを勝手にもっている。ほかの季節にも来たいが、再訪はいつになることか。


帰って、とりあえず水泳。泳いだの、十日ぶりくらいじゃないか。こんなに間が空いたのは去年以来はじめてかも。


夜は友人と待ち合わせて二人で西日暮里のホルモン屋へ。ここも久しぶりに来た店。僕が行きたいとリクエストした。どの部位ならどのくらい火を加えるとか、そういう細かいことを友人が異様によく知っている(週一くらいで来てるから)ので、その知識を借りて食したかった。レバ、ハツ、白モツ、ミノと定番な部位がたしかにうまい。が、まあ、やっぱり脂っぽいというか、そうたくさんは食えるものではないというか、これこそ仕事帰りとかにさっと食ってさっと帰るためのものだなと思った。しかし今日みたいにだらだらと、店内を煙が濛々と舞って所々薄くなったり濃くなったり、まるで飛行機が雲の中を飛んでるみたいな、向かいにいる友人の顔さえ霞むようなものすごい状態なのをぼんやりと見上げているのも、なかなかいいものだと思った。

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