逆円錐


ベルクソンの逆円錐型の図というのがあって、僕などよくわかっていないので、かなりいい加減なことを書く可能性があるのであらかじめ要注意だが、あの図の一番したの平面は、とにかく何もかもが散らばっているような場所で、つまり私もあなたも世界も何もかもが、そこに、ばらんばらんにある。あると言って良いのかわからないが、とにかくそこにある。で、円錐のさまざまな断面に生じる記憶の持続が、事後的に過去を形成して、現在が平面と円錐の接点にあるわけだが、結果的に現在は直後の過去としてしかあらわれない。


で、肝心なのはこの図が私の意識とか何かの認識構成図を示しているのではなくて、この世界そのものの成り立ちを示しているということだ。つまり前述のように世界が成り立つのだが、成り立つ前に世界は無く、すなわちそこにはこの私もあなたもいない。というか、私もあなたも実際は一番下の平面に散らばっていることになる。だとしたらこの私やあなたが、セオリーどおりに私やあなたとしてあらわれないことが起こったとしても、そういうことはありうるのだろうとも思える。この私があなたとかそれとかこれなどと一緒くたに、いいかげんに錯乱しているだけの状態から、事後的に元々この身体の中にあるその感じにイメージ生成されているのだから、そうではないイメージが生成されない理由もない。この世の何もかもが急にべチャッと音を立てて潰れた。じつは今まですべてが落下していたのだ。みたいな話があるけれども、そういうのに近いとも言えるのかもしれない。というか、べチャッと潰れる対象さえ無くて、最初からばらばらなのだから。


こういうことを考えるのは楽しいし好きだ、と自分では思っているのだが、こんな風に書いてみると甚だぎこちないというか、どうも慣れないことをしている感が拭えない気もするのだが、しかし慣れてないとは何だ?こなれてないということ?考えが生煮えで浅はかということだろうか。じつは意外とあまり興味ないのに書いてるような感じがするということだろうか。だとしたら、実際にあまり興味ないのだろうか。しかし興味あるほうがないより良いと言えるのだろうか。というか、こうして書き連ねていると、何か言いたげな雰囲気になるけど、とくに何も言いたいわけじゃないのだという感触は、伝わるのだろうか。いや、べつに伝えたくない何かもないというか、無いを繰り返すと却ってあるようになったけれども、よくあるだらーっとした感じの記述を続けている状態。


ところで年末年始で体重が二キロ程増加した。一昨年から計測をはじめて以来、今日で最高値を更新してしまった。一月からどう変化していくのか…。