葬儀


Aさんとは昨日の夜、電話で話をした。Aさんとの電話は去年の夏と、先日と、昨日だ。そして葬儀の今日、はじめて、ここまで来てくださったAさんご本人に直接にお目にかかった。


去年の八月、父は自宅で倒れたまま数日間昏睡していて、何度電話しても父が出ないことを不審に思ったAさんが、父宅へ様子を見に行ってくれたのである。Aさんは名古屋にお住まいなのだ、父宅まで、車でどのくらいの時間掛かることか、とんでもない労力を掛けてわざわざ様子を見にきてくれて、自宅で倒れている父を発見して、その場で救急車を呼んでくれたのである。もしAさんのこの行動がなければ、父は八月時点でそのままこの世から去っていた可能性が高い。あの暑い時期、想像するのさえ憚られる最悪の状況になった可能性が高い。ひどい話でしょう?書いている自分もそう思います。ほんとに、こんなことになって、この先どうなっちゃうのよこれ、という感じでした。


つまりAさんは、残された2017年後半以降の時間を父に与えてくれた人である。それは僕にとっても大きな出来事で、このことをきっかけに、僕は要介護申請など遅ればせながら始めたのであった。しかし結局は、今年の2月8日に再び倒れる→ヘルパーが発見して医療行為対応へ受け継ぎ→一応回復して介護継続と訪問看護利用→2/26死去となり、一応、夏前よりは仕組みや制度も利用できたとは言えるが、けれどもまあ、死んでしまったら、それもこれも、どうもこうもない。


そもそも、なぜこうなったのか、2月8日の時点で病院からは入院を拒否されているが、その時点でこうなる可能性を予知できなかったのかと思うところもあるが、仮に予知できたとしても、やはり入院は難しかったかもしれないなとも思うし、入院できたとしても、今回の事態を回避できたか否かは、また別の話だろうな、とも思う。なにしろ、2月に入ってからインフルエンザ感染もあり、急速に身体が弱ったのではないか、それで、何が悪い悪くないを単体的に観察することも空しいというか、後期高齢者的な弱体化への道を進んでいって、もしこの事態がなくても、再び自立歩行できるまで回復できたかどうかもわからないというか、15日を過ぎた時点で僕も正直その覚悟もしていたし、春になっても歩けないようなら、寝たきりの生活がこのまましばらくのだろうと予想していた。


午前中の葬儀が終わって、出棺である。Aさんが、あなたに渡したいものがある、という事で、何かを思ったら、父親の描いたかなり昔のSMサイズのタブローと水彩が二、三枚である。サインを見たら、僕が生まれた年とか、その前後の頃のものだ。その絵にまつわる話をひとしきり聞いて、モノを受け取った。Aさん号泣状態で、あれであの後、車が運転できるのか心配になるほどだったが、とにかくありがとうございましたと、それ以外の言葉はない。


Aさんは、電話で話したときの印象も実際にお目にかかったときの印象もあまり変わらず、とても正しい感じのする、きちんとした人で、真面目でひたむきで、今はほんとうに、悲しみのなかにある人だった。ただ涙を零されていた。僕は尊さを感じた。我が父親は、こう言っては何だけれども、やはりどこか、壊れていたというか「正しくきちんと」ではなかったように思うし、僕も、父親とはまた違う意味で、やはりどこか壊れているというか、やはり「正しくきちんと」ではないように思うのだが、ちなみに外面を取り繕うのは、父親よりも僕の方がよほど上手いと自分では思っているのだが、それも実は意外とそうでもないのかもしれず、結局この歳になっても自分がどの程度の外観を呈した人間なのか、自分を他人のように把握するのはいまだに難しく、ただ年齢を経ると単にそういう事への興味とか自意識が薄れるというだけで、しかし人間性とか、倫理とか、そういった部分で、僕はやはりどこか、元々の何かが壊れているような気もする。というか、象徴秩序的なものの様相に人が見ているものとの微妙な相違の予感をおぼえるというか…しかし、そんなことを言ったら、やはりAさんもそうなのかもしれない。他人は誰も「正しくきちんと」しているように見えるものだ、というだけのことだろうか、そうかもしれない。


霊柩車で火葬場まで移動する。霊柩車っていうのは、ゆっくり走るものだなあと思う。まるで遊園地の乗り物みたいなスピードである。火葬場に着いたら市役所職員さんの担当者さんには以前(もう二十年近く前に、やはり父の仕事関連で)何度かお目に掛かったことのある方で、亮太くん久しぶりやなあ、このたびは大変やったなあ、とか、ご無沙汰してますねえとか、普通に挨拶。さすがに狭い田舎なので、僕のような者ですら覚えていて下さっている方がいるし、父親に関しては寺の「おっさん」も知り合いだったし(この地域では寺の住職を「おっさん」と呼ぶ。)、JA葬儀の担当の人も生前を知ってるみたいだったし、霊柩車の運転手さんも「以前、絵を見せてもらったことがありますわ」とか言ってたし(笑)、とにかくどこもかしこも知り合いだらけである。


火葬が済んで、先ほどまで棺が置かれていた土台の周囲に近付く。火の熱が顔に生々しく感じられる。とくに根拠もなく、しかしなんとなく予想していたのだが、やはり骨は、じつにしっかりとしていた。僕と同じように父も元々は痩身で、最後の十年くらいでかなり太ったのだったが、いずれにせよ骨は太そうな予感がなぜかしていたのだが、まさにその通りで、僕も今まで何度か人の骨を拾う経験をしてきたけれども、今まで見た中では一番「骨」だった。(もっとも「若い人の骨」を見たことはない。僕が見たのはたぶん全員、若くても50歳以上だ。)大腿骨は二本とも白々と並んでいたし、背骨は巨大な塊が背骨の並び順で複数個ごろごろと並んで転がっているような有様だったし、顎の骨など歯の並びまで含めてほぼそのままといった感じがした。うーん、これもある意味「本性」だなと思った。まあ、この人はやはり、僕とはまるで違う人間だった。それはあらためて思った。


骨を拾って、波切へ移動して初七日法要。このあたりの寺は臨済宗妙心寺系とのことで、それが何なのと言われてもよく知らないのだが、お経の途中で「渇!」があるやつだ。ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてーのやつである。先日から何度目かわからない焼香も、これでひとまず最後だろう。波切周辺の施設や店に父親の描いた絵が掛かっているのを目にすることはよくあるのだが、このお寺もそうで、左右の障壁に墨絵で大王崎の岸壁、龍の図などが、また梁には大きめの油彩が掛かっている。僕は個人的には父親の仕事というか作品を素直に良いと思わない部分もあるし、色々な思いはあるわけだが、このたびの葬儀で感じたのは、僕の父は僕の父だが、父を知る人にとっての父は、僕の知る父ではないのだな、ということで、それはどちらが正しいとか間違っているとかでもなく、どちらも正しいということになる。少なくとも一方が一方に訂正を迫るとか、そういうことがあって良い訳ではないし、Aさんの心の中の我が父はAさんの心の中でそのままで在ってくれれば、それに越した喜びはないわけであるということだ。だから僕も、せっかくなのだから品性良くしようと感じました。


その後少し片付けなどしてから、妹が予約しておいてくれたホテルへ向かう。(このホテルにも父の絵がある…)昨日は魚ばかりで、今日も火葬を待つ間は寿司だったので、夜はさすがに魚じゃなくて、ということで焼肉屋へ。まあまあ。それにしてもこういう油っぽくて甘いタレに浸かった韓国的肉料理が、じょじょにキツく感じられるようになってきたものだと思った。赤ワインも安物だから品のない甘みがやや勝っていて何ともなあ、などと云いつつ、結局はぺろっと喰ったのだけれども。ホテルはそんなに高くないのに風呂も部屋から見える景色もかなり素晴らしい。ここ、いいじゃん、また来たいかも、と思った。


テーブルには、父の位牌と骨壷が置いてある。ちなみに最近の骨壷はかなり小さめであり(大きさは従来サイズと小サイズを選べる)、小さいのはクマガイの「ヤキバノカエリ」みたいに両手で抱えるようなやつではなく、大体300mlのマグカップくらいだろうか。それを持って、明日このまま東京まで一緒に帰るのだ。うーーん、まさか、こういう経験を自分がするとは、、何とも不思議な気分になる。正直、骨壷に納まってしまってから、こうして移動しているときに常に携行しているほうが、火葬前の通夜の席で遺体として横になっているときよりも、よほど父親がすぐ傍にいるという実感が強いのだ。何となく思い出したのが映画「ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ」の、伊藤さんが石になってしまった後も、石の姿のまま変わらず何かを呟いているシーンで、位牌と骨壷というのは、まさにそういう感じで、けっこうな存在感があるので、正直困っている。


夜、雨が降っていた。