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2007-12-29 2004年の大学卒業論文・第二部「戦後日本とは何か? 若者たちと社会

[]2004年の大学卒業論文「戦後日本とは何か? 若者たちと社会運動/消費社会、第二部

第一部 http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20091230 からの続きです。

第三部は http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20071228/1256711643

第三部・最終部は http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20071227  

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第二部 若者に降りてくる消費社会――1970〜80年代の高度消費社会 


今から思えば、戦後日本には大きな軌道修正を図るべきだった時期が少なくとも二回あったのかもしれない。経済的な豊かさや安定した生活という目標をある程度達成した時期に、国家と社会の目標や価値観を根本から議論するべきだった。つまり「個人」と「公共」が結びつく回路を作るべきだったのだ。その最初の時期が、朝鮮特需によって戦前の経済水準を回復し、ようやく人びとが貧しくも落ちついた生活を過ごせるようになった1955年前後であり、次の時期が、高度経済成長が終わり、「3種の神器」や「3C」がどの家庭にもある程度行き渡った1973年前後である。

 だが、どちらの時期も軌道修正はできず、さらなる経済成長を求めてしまった。結果的に消費社会化を深めてしまった。56年は高度経済成長の始まりを告げたが、73年以降に始まったのはいわゆる「高度消費社会化」である。それは高度成長によって確立された「企業中心社会」の構造を変えられなかったことに起因する。産業の中心が、大型製造業が中心の第二次産業から「多品種少量生産型」の第三次産業へ、工業から情報業・サービス業へと移行する中で、若者文化がそれに従う形で変化してしまったからである。

 前章で述べたように、高度成長期の消費社会化が中心的なターゲットにしたのはあくまで会社員や主婦といった大人たちだった。だが高度成長以降はターゲットの低年齢化が進行したのだ。高度成長が終わった1970年代中盤以降の消費の主役は、大学生や20代のOLといった若者たちになった。小林や福田らが「若者の内面に“消費”が深く影響している-」と指摘した現代に至る道を探るのが、この章のテーマである。


第五章 学生運動から「ニュー・ファミリー」へ――団塊世代の転換

 

連合赤軍事件で交差した2つの価値観

1973年のオイルショックにより高度経済成長が終焉した。社会では「省エネ」「せまい日本そんなに急いでどこへ行く」「のんびり行こうよ俺たちは」といった標語が登場した。ノストラダムスの終末論やオカルト・超能力ブームが起きたのもこの時期であり、高度成長を見直し生活にゆとりを求める機運が高まる。

 この時期のキャッチコピーの一つに旧国鉄の「ディスカバー・ジャパン」があった。このキャンペーンは特に若い女性たちに広く受け入れられたが、それには70年に創刊した女性雑誌『an・an』と『non-no』が強く影響していた。合わせて「アンノン」と呼ばれた両誌は、国内旅行ガイドを主要企画の一つにしていたからだ。そして主婦でもOLでもない若い女性に向けて新しいライフスタイルを提案し、女性誌はおろか女性たちのあり方をも大きく変えたと言われている。斎藤美奈子は以下のように整理している1)。

“アンノンが「女性解放」に果たした役割は、おそらく電気洗濯機と同じくらい大きい。なぜってそれは、すべてを「趣味=ファッション」にかえてしまったからである。アンノンのファッション革命によって、かつて「家事」や「花嫁修行」の領域にあったものは、ことごとくカジュアルな趣味・消費の対象にかわった。裁縫は流行の既製服を買うためのファッション情報に、炊事は食べ歩きやクッキングというレジャーに、住まいの手入れはインテリアという趣味にである。いままで「女の義務」だったものが「女の子の趣味」にかわる。若い娘たちの気分をこれがどれほど解放したことかわからない。……さらに数年後、成長したアンノン世代に向けて七七年に誕生した『MORE』『クロワッサン』は、「女の人生」までファッションに変えた。ファッショナブルな衣装をまとうように、ファッショナブルな人生を着る。”

主婦も家電製品も高度成長初期のような目新しい存在ではなくなった中で、個人としてのライフスタイルを「消費」によって表現することを女性たちの新しい生き方として提案する。当時の『アンノン』は、「一人旅」の魅力を盛んに主張していた。

 そして、この時期の人びとに大きな転換を印象づけた出来事がもう一つある。連合赤軍の浅間山荘事件だ。事件の内容は前章で述べたが、この事件は「社会運動」や「イデオロギー」が戦後日本の中で大きく失墜した出来事として位置づけられる。それは事件の凄惨な結末により「社会運動=恐い、格好悪い」「イデオロギー=硬直している」というイメージが広まったからだ。だが評論家の大塚英志によれば、そうした変化はすでに事件が起きる前の山荘でのやりとりに表れていたという2)。

 “連合赤軍事件で殺された女性たちに共通なのは八0年代消費社会へと通底していくサブカルチャー的感受性である。したがって十二人が殺された山岳ベースで対立していたのは二種類の革命路線ではなく、意味を失う運命にあった男たちの「新左翼」のことばと、時代の変容に忠実に反応しつつあった女たちの消費社会的なことばであり、少なくとも四人の女性の「総括」はそのような「闘争」の結果生じたものではないか。”

その新しい感受性は、あらゆるモノを「かわいい」という表現を基準に判断することであり、連合赤軍に代表される新左翼のイデオロギーはその中に崩れ落ちてゆく運命にあったという。若者たちが「個人」を「社会参加」ではなく「消費」と結びつける時代の始まりである。「それは、『an・an』『non-no』と同じく、オイルショック後の経済構造が生産から消費に変化していくことへ忠実に対応していたのだ。

 そして連合赤軍事件と同じ72年、歌手の井上陽水が発表したヒット曲『傘がない』は、まるで「個人」と「公共」を自らの手で結びつける試みの敗北宣言のようであった。

都会では 自殺する若者が増えている

今朝来た新聞の片隅に書いていた

だけでも問題は今日の雨 傘がない

行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ

つめたい雨が今日は心に浸みる

君のこと以外は考えられなくなる

それはいい事だろ?

テレビでは 我が国の将来の問題を

誰かが深刻な顔をしてしゃべってる

だけども問題は今日の雨 傘がない

行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ

つめたい雨が僕の目の中に降る

君のこと以外は何も見えなくなる

それはいい事だろ?

(後略)


「ニュー・ファミリー」の形成

 

女性たちが消費社会に適応し男性たちがイデオロギーから離れていった団塊世代が向かったのは、のちに「ニュー・ファミリー」と呼ばれる家族づくりだった。まず71年に結婚・挙式ラッシュが起きる。団塊世代自体が非常に人数が多かったため、それはブライダル産業を創出するほどの数になった。72年前後には『結婚しようよ』『花嫁』『てんとう虫のサンバ』といった結婚の歌がヒットする。71年にTV番組の『新婚さんいらっしゃい』が始まり、漫画も『同棲時代』や『赤色エレジー』や『愛と誠』といった恋愛生活の素晴らしさを描く作品がヒットした。

 結婚ラッシュの次は出産だった。71年から始まった出産ラッシュは、73年にピークを迎えてベビー市場を作りだし、74年まで続く(この71〜74年に生まれた若者たちは後に「団塊ジュニア」と呼ばれる。彼らが1990年代の若者であり、次章で述べる)。

 そして数の多い「ニュー・ファミリー」が住む場所として、この時期団地に替わり一気に増大したのが郊外の「ニュータウン」である。1970年に大阪の千里に国内初のニュータウンが完成し、翌71年には東京の多摩ニュータウンで入居が始まる。さらに関東では東京近県の人口増大も著しかった。1969年に神奈川・埼玉・千葉の三県を合わせた住宅戸数が東京都とほぼ同数になり、以降は住宅建設が鈍化した東京を三県が追い抜いて伸び続ける。ニュータウンは、まさに団塊世代が幸せな家庭生活を築く場所としてイメージされた。

またニュータウンが従来の団地と異なっていたのは、郊外の一戸建て住宅をも実現できる点であった。72年から75年にかけて住宅の広告宣伝費用が業種別の2位に浮上し、70年代後半に30代になった団塊世代が一定の収入を得ると、郊外の持ち家を手にし始めた。それを当て込んだ『MORE』や『クロワッサン』がインテリア特集を組んだ。彼らが週末に食事をする場所としてファミリーレストランが増大し、71年に登場した『すかいらーく』が78年に100店舗を突破する。そんな彼らのモノに囲まれたやさしい夫婦関係や親子関係は「友達夫婦」「友達親子」と形容された。

 そして家族作りに向かう若者たちを象徴するように、1974年に小坂明子の「あなた」という曲がヒットする。

もしもわたしが家を建てたなら

 小さな家を建てたでしょう

 大きな窓と小さなドアーと

 部屋には古い暖炉があるのよ

 (中略)

 家の外では坊やが遊び

 坊やの横には

 あなた、あなた、あなたがいてほしい

 (後略)

 この曲は少なからぬ話題を呼んだ。大規模な学生運動で社会に異議申し立てをしたはずの若者たちが、一転して「私生活主義」「小市民」になっていくように見えたため、そのギャップと変化の早さが話題になったのだ。またこの歌詞では、家庭生活のイメージが“大きな窓”や“古い暖炉”といったモノの細かいディテールで表現されていることに注目したい。社会学者の三浦展は、この時期のテレビコマーシャルの雰囲気をこう分析している3)。

“「愛情はつらつ」では、ジーンズにスニーカーの夫とギンガムチェックのマタニティウェアを着た妻が二人並んで陽の当たる坂道を下ってくる。「金曜日はワインを買う日」では、夫が会社の帰りにスーパーマーケットの紙袋をかかえ、「金曜日には、花買って、パン買って、ワインを買って帰ります」と歌う。新聞広告にはフランスパンとチーズとソーセージとワインの写真が使われた。それがリッチな消費生活の記号だった。

  ここで重要なのは、「ニュー・ファミリー」という言葉とともに、家族がかつてのような生産や労働の単位ではなく、「消費の単位」として確立されていったということである。それは単に必要なものを買うだけでなく、豊かさの記号として物を買うという意味で、「消費社会型」の家族の誕生であった。“

 産業構造が転換する中で若い女性に消費や旅行で自己表現することが宣伝されたように、家族生活もまた消費の場になった。とはいえ大型家電製品は普及を終えていたので、今度は製品の外見やアンティークとしての価値が宣伝され始めた。またその製品に囲まれることがより良いライフスタイルを演出することになると宣伝された。そうした基準でモノを選ぶことは、フランスの思想家ボードリヤールによって「“記号”としてのモノの消費」と呼ばれ、1980年代の消費社会論の流行につながっていく。

そう、団塊世代が「ニュー・ファミリー」を「学生運動に変わる新しい自立だ」と思っても、「自分たちが作り上げたんだ」と思っても、結局の所それは政府や大企業の消費社会が必要としたイメージだった。そして彼らが「家庭」と「消費」を結びつけながら大人になる中で、年少の頃からより純化された消費文化を生きる若者たちが出現してくる。彼らは「シラケ世代」と呼ばれたように、イデオロギーが失墜した後の空虚さの中で生きていた。その替わりに、「消費」を通して自己実現を成し遂げ人間関係を作ろうとするのである。


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第六章 「若者文化」とコミュニケーション――1970年代後半の若者たち


「シラケ世代」の登場

 

学生運動が終わった後に高校や大学へ入学した1950年代半ば生まれの若者たちは、1976年頃に「シラケ世代」と呼ばれるようになる。ではなぜ彼らは「シラケ」ていたのか。1956年生まれの社会学者小谷敏は、「シラケ」の理由を自らの学生時代を振り返って述べている4)。

“われわれが「しらけ世代」と呼ばれ、アパシーにとりつかれていたのは、明らかに全共闘運動の反動である。全共闘の若者たちは熱く盛り上がり、体制に対する異議申し立てを行った。しかし、その結果たるや、安田講堂や浅間山荘が象徴する全面敗北であった。若者たちが熱く盛り上がっても、社会の支配的な力の前では無力なものでしかない。そして、セクト的な「連帯」は内ゲバとリンチ殺人の陰惨な結末を迎える。これが、全共闘運動の残した「教訓」であった。だとすれば、全共闘の挫折の後で青春の歩みをはじめた世代が、「盛り上がること」や「連帯」に対して、徹底的に「しらけ」てみせたのも故なきことではない。”

 団塊世代の「盛り上がり」や「連帯」を見せつけられ、しかしいざ自分たちが学生になる頃にはそれが不可能になる。このような屈折した経験が彼らの姿勢を「シラケ」させた。

1959年に生まれた社会学者の宮台真司も、“私たちは上の世代と比べられ、「シラケ世代」と呼ばれたが、むしろ「輝かしさ」を夢見た世代だったからこそ、革命幻想を生きた団塊世代への羨望ゆえに屈折したのである。”と振り返っている5)。

そして78年には「モラトリアム人間」が流行語になる。それを提唱した社会学者の小此木啓吾によれば、いつまでも大人になることを拒否し、自らの社会的立場を決めようとしない若者たちの心性を指す。それは当時の日本社会全体が豊かになったからであり、生業に就かなくても何とか食べていける、明確な思想を持たなくても生きていける、そう若者に思わせたからだった。

小此木の著書を読んだ小谷は、“当時大学四年生で進路決定を迫られていた筆者は、この論文を読んで、ひどく関心したものだ。大学院進学という自分の決定のなかにも、多分に「モラトリアム延長」の気分は含まれていた。そして筆者のまわりには、いつまでも大学を卒業しない連中がごろごろしていた。”と述回している6)。

そして小谷によれば、自分たちには巨大な「若者文化」を生み出した全共闘世代から引き継いだ心性があったが、それは「シラケ」や「モラトリアム」が広がる中で次第に変質したのだという7)。

 “「やさしさ」は70年代のキーワードであった。それは全共闘世代から引き継いだ心性である。しかし、全共闘運動の時代には「世界の若者」に向けられていた「やさしさ」に基づく連帯の感覚が、七0年代にいたると「四畳半」の広さにまで収縮してしまう。閉じた小宇宙のなかで親密な他者とともに、互いの傷口をなめあう「やさしさ」。しかし、この「やさしさ」には欺瞞の匂いがつきまとう。「やさしさ」のベクトルが、他者ではなく自分自身に向いているからだ。”

 

誰もが自閉していく中で、他者との連帯を「四畳半の広さ」に求めていった若者たちは、団塊世代の幅広い「盛り上がり」や「連帯」を可能にしたコミュニケーションとは別のやり方を探ることが必要になった。団塊世代のそれを支えていたのは、宮台真司によれば“ベトナム戦争に代表される大きな社会的出来事”と、“それを処理するための「大人/若者」「体制/反体制」「強者/弱者」といった二項対立図式”であった。そのどちらも失った「シラケ世代」は、オイルショック後の消費社会化を背景に、自分が選び取った商品やサブカルチャーの話題を共有できる相手と人間関係を作り始める。

 

『POPEYE』と『JJ』――カタログが覆っていく若者生活

 

まず72年に創刊した雑誌『ぴあ』は、映画や演劇の上映から音楽のコンサートまで、メジャーな作品からマイナーな作品まで、あらゆる情報を網羅し平等に並列していたため、商品の情報が若者たちにとって重要になる時代の始まりを予感させた。そして76年に創刊された『POPEYE』と75年に創刊された『JJ』は、若者たちの商品やサブカルチャーを利用した人間関係作りを促進した。

特に『POPEYE』は、まだ米国文化の情報が少なかった時代に現地の豊かな文化や商品を次々と紹介し、いくつものブームを巻き起こした。当時は73年に創刊した雑誌『宝島』がアメリカ西海岸のヒッピー的思想をすでに紹介していたが、『POPEYE』は同じ西海岸でもよりポップに洗練されたカレッジ生徒のライフスタイルを紹介した。ジーンズ、コーデュロイパンツといったファッションアイテム。フリスビー、ローラースケートといったアウトドアでの遊び方。そこには細かい商品情報が溢れていた。

また『JJ』は、『an・an』『non・no』が築いた女子大生向けの分野をさらに拡大した。だが『アン・ノン』が商品や旅行を一つのライフスタイルに昇華させていたのに対し、『JJ』は洋服や化粧品の情報をどれだけ多く詰め込めるかという面で勝負していた。同誌は海外の高級なブランドも積極的に紹介し、女子大生のブランドブームを作る。これが『POPEYE』と共通する「カタログ文化」である。

そして『POPEYE』が生み出した最大のブームが「サーファースタイル」だ。『POPEYE』が紹介した米国西海岸のサーファースタイルは当時の若者たちの心をとらえた。神奈川県の湘南海岸に多くの若者がサーフボードを持ってつめかけ、車の上部にサーフボードを固定して街を徘徊する「陸(おか)サーファー」までもが登場した。湘南に集まった若者たちの多さは、一本の波に100人が同時に乗ろうとするほどだった。さらに77年には湘南出身のバンド・サザンオールスターズがデビューしてサーファーたちの文化を歌い上げた。

湘南に集まった若者たちがサーフィンという文化を通して恋愛関係や友人関係を築いたように、78年に若者たちの間で「ディスコ・ブーム」が起きる。それは当時公開されたアメリカ映画『サタデー・ナイト・フィーバー』に主演したジョン・トラボルタの影響だった。彼を真似て「フィーバー」という言葉や男性が女性を踊りに誘う「チークタイム」の作法が流行し、ディスコは若い男女の出会いの場として一気に定着した。もちろんそこでかかる音楽も「ディスコ系」という売れ筋ジャンルになり、今では「ダンス・クラシック」と呼ばれそれを回顧する動きも起きている。こうして「消費文化」を媒介にした人間関係が、若者たちにとっての「公共性」になっていくのである。

 

消費によるコミュニケーション――「なんとなく、クリスタル」

ディスコでかかる音楽が一つのジャンルになったように、この70年代末から若者たちが好む音楽のジャンルが細分化して「○○系」と呼ばれるようになった。「ニューミュージック系」「パンクロック系」「ポップス系」「歌謡曲系」といった具合だ。さらに78年にデビューしたYMOの大ヒットを機に「テクノポップ系」「ニューウエーブ系」とさらに細分化していく。

 若者たちの人間関係は文化と商品で成り立っていたため、文化や商品の細分化により人間関係もいくつかのグループに分かれていった。そして細かくなったグループ内の人間関係を保つために、さらに特有の文化や商品が必要になっていく。若者たちはこのようなループ構造を強めながら70年代から80年代へ向かっていた。それは同時期の団塊世代の「ニュー・ファミリー」が消費によって家族生活を作っていったことと同じ動きであり、細かいモノや情報の差異で利益を生み出す新しい産業構造の結果である点も同じだった。

 若者たちが「個人」と「消費」の関係をより深めていった動きを当時の小説も反映していた。79年に『風の歌を聴け』でデビューした村上春樹の小説は、「ぼく」としか言わない主人公の人格の輪郭が曖昧である分、コーヒーカップやたばこやビールといった様々なモノが描かれ、それが自己像の曖昧さを補完していた。

 そして80年から81年にかけて、現・長野県知事の田中康夫のデビュー小説『なんとなく、クリスタル』がベストセラーになり、「クリスタル族」なる流行語を生み出した。この作品は細分化していく若者たちのうちのハイ・センスなグループに属する女子大生の生活を描いていた。東京に住む女子大生は、ファッションや音楽やグルメ料理を消費し、それを扱う店やディスコに通いながら流行の最先端で日々を過ごしている。    この作品の特徴は、その日々の描き方である。作中に出てくる商品や店や街の固有名詞全てに注釈をつけて同時解説することで、主人公の生活がモノの消費を中心に成り立っていることを浮き彫りにしているのである。その注釈の数は何と442個に及ぶ。

 主人公は自らの行動を「結局、私は“なんとなくの気分”で生きているらしい。そんな退廃的で、主体性のない生き方なんて、けしからん、と言われてしまいそうだけれど、昭和三十四年に生まれた、この私は、“気分”が行動のメジャーになってしまっている」と言っている8)。その後に描かれているのは、学校帰りにケーキのお店に寄り、夜はディスコクラブに繰り出しながら、最も新しくて洗練されたスタイルを探す生活である。「ケーキは、六本木のルコントか、銀座のエルドールで買ってみる。」「ディスコ・パーティーがあるのなら、やはりサン・ローランかディオールワンピース。輸入レコードを買うのなら、青山のパイド・パイパー・ハウスがいい。」といったように9)。

 それは、センスの違いこそあれ当時の都市部の若者たちに顕在してきた行動様式だった。さらには消費都市と化していく東京の姿も反映していた。1980年代の始まりであり、それは若者と社会の関係が店や洋服の名前といった記号の集積で語られ、バブル経済の反映に至る時代である。だが若者たちの文化を媒介にしたコミュニケーションも、産業構造の変化に忠実に対応しただけだったのではないだろうか。全共闘世代の「社会運動」に替わる新しい人間関係だと若者たちが思っていても、高度消費社会が無ければ成り立たないものであった。日本経済が強大な輸出力で世界経済の「ひとり勝ち状態」になる中で、国内では「高度消費社会化」「情報化」と呼ばれながら内需拡大の方針が取られた。そうして20代の若者たちを爛熟した消費文化が覆っていくのである。

(「その2」http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20091229/1256711318 につづく)


第七章 高度消費社会に覆われる若者たち――1980年代と「新人類」


内需拡大と「広告ブーム」

1980年代に消費社会が爆発した根本には、日本政府が取った「内需拡大」の方針がある。1970年代に自動車を海外へ輸出し続けていた日本は、79年に「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼ばれるほどの輸出大国へ変貌していた。そして翌80年に日本の自動車生産台数は一千万台を突破して世界一になる。日本車の対米輸出は181万台に及んだため、米国との間に貿易摩擦を引き起こし、80年代の大きな外交問題になっていく。そこで81年に自動車の対米輸出自主規制が行われ、替わりに日本国内でモノの消費を促進する方針が取られた。この年の『生活白書』は、「生活の質的充実とその課題」を副題にしていた。

とはいえ、何度も述べてきたように生活に必要な製品はほぼ出回っており、この頃には「国民の9割が中流意識を持っている」と言われていた。つまり『生活白書』の「課題」とは個々の人生やライフスタイルを充実させるために消費させることであり、身も蓋もない表現をすれば「いかにいらないモノを買ってもらうか」であった。

そうした流れの中で始まったのがいわゆる「広告ブーム」である。世間が『なんとなく、クリスタル』のヒットで新しい若者に注目していた81年、西武百貨店が「不思議、大好き」というキャッチコピーを発表する。それを作成したのは団塊世代のコピーライター糸井重里であった。彼はその前後にも「じぶん、新発見」「おいしい生活」という西武のヒットコピーを作成し、80年代を代表する売れっ子コピーライターになっていく。そして中畑貴志、川崎徹らも続き、「コピー一行が数十万」と言われるほどの広告ブームが巻き起こる。

 糸井が西武で作成したコピーに共通していたのは、「いらないモノを買いに行くこと」を「自己表現」や「新しい生活」に読み替えていく作業だった。「じぶん、新発見」では“できるかぎり、あなたの可能性発見に手をかしたい。西武も、いま、可能性を発見中。期待してください。”と唄われ、「不思議、大好き」では“春になったら、ますます、不思議大好き! 春の西武にいらっしゃいな。不思議の種子がいっぱいですよ。”と唄われ、「おいしい生活」では“自分のおいしさをさがすトリップは、そのまま、自分の生活をさがすことらしい。……あなたと一緒に、西武も、もっと食しん坊になるつもりの一九八二年です。“と唄われていた。

 それはまた、人間は本来自分なりの欲望を持っており、自分なりの欲望に忠実になることが前時代からの「解放」にもなるということだった。糸井は『不思議、大好き』のコンセプトについて“……高度成長で浮き足立っていると思ったら、エネルギーショックでしょげかえったり、なにかいつも物理的な条件で動かされていた時代へのあかんべえみたいな感じ。”と語っている10)。これは明らかに高度成長期の日本社会で価値観が画一化していたことへのアンチテーゼだろう。一躍売れっ子になる糸井は、以前から雑誌『ビックリハウス』で自分が取りまとめ役の連載を始めており、それも渋谷を若者都市として再編成しようとする西武がスポンサーになっていた。糸井が『ヘンタイよいこ新聞』という題名の連載について語る言葉からも、前の時代へのアンチテーゼが伺える11)。

“これだけ多様な価値観が、チカチカと点滅しているいまの時代に、「ワタシ、正常。アノヒト、変態」と、冗談でなく言い放つことのできる人がいたら、もう、それだけで変態である。……自分の「ヘンタイ」性を客観的に見つめられること。これは、想像力の翼をぐんと広げることになる。「いわゆる」で決められた感動や感覚から、自由になれる。……イモ虫を美しいと思う瞬間だって、あってもおかしくないのに、それを言うと「ヘンタイ」と思われる。でも、ヘンタイよいこの間では「へぇ、なるほど」となるのではないか。これは、ある種のユートピア思想ではある。”

 恐らく団塊世代であった糸井の中には、かつての学生運動がイデオロギーという“「いわゆる」で決められた感動や感覚”で凝り固まっていったために崩壊したという思いがあったのではないだろうか。「感性」に基づいた行動は、それまでの時代と対置されることで肯定されるのである。それは後述する浅田彰ら、1980年代のオピニオンリーダーたちに共通する論法であるが、団塊世代の糸井の場合は少し違うようだ。それを大塚英志は「遅れてきた階級闘争である」と見なしている12)。

  “……糸井が「うれしい」と喜ぼうと消費者に語りかけているのは、「ヨコナラビの差異」を消費することで「階級」が喪失し、誰もが等しく豊かになった事態であり、つまり「中流幻想」の左翼的肯定こそが糸井のコピーの根幹にある。……広告コピーという記号の操作で糸井は日本が貧乏だった時代に存在した「階層」を消費を通して解体しうる、という感情を隠さない。”

 また大塚は西武新宿線沿線で生まれ育った自らの実感として、西武グループという企業自体が資本主義化の富の再配分によって階層性を無くしていく思考を持っていたと述べている。 

 確かに時代ごとのリアリティがある。当時の日本社会には貧しい時代の記憶がまだ残っていたし、高度成長と学生運動に続くあらたな時代の価値観を見つけられずにいた。そうした中で「さらなる豊かさ」と「自己実現」が結びつけられれば、それは今の私たちでは想像出来ないほど新鮮な価値観に見えたのだろう。モノの豊かさが飽和しきった現代の感覚から1980年代の消費社会を断罪する事は慎むべきだろう。

また学生運動のように単一のイデオロギーが失敗を犯した記憶が生々しく、それを乗り越えるために自分なりの欲望に忠実になることがキャッチコピーに託された。そのコピーを「自分なりの欲望」や「価値観の多様性」が行き着く所まで来た現代の視点から一概に否定することはできないだろう。

 とはいえ、価値観を提示することがどんなに当人たちにとって主体的なことでも、やはりそれは大塚英志も言うように西武のような大資本の力があって初めて可能だったのではないか。その根本には内需を拡大したい日本政府の政策があった。ましてキャッチコピーに託された価値観を受け取る側の若者たちにとってはなおさら主体的とは言えなかっただろう。当時の状況で消費をポジティブに捉えることは、結果的に見れば与えられた自由に過ぎないものを積極的な自由だと思わせていたのではないだろうか。

だからだろうか、当時高校生で『ビックリハウス』に投書していたライターの水元犬太郎は後に“何をやってもいいと言われた自習時間だから、子どもたちは勝手なことをした。でも、誰かが「この時間は自習時間だ」と言ってくれなかったら、何もできない不自由さのなかに、『ビックリハウス』の読者がいたことも事実だ。”“もしどうしても『ビックリハウス』が欲しければ、自分で作ればいいんだ。今度は企業の金抜きで。”と述べている13)。それは言わば若者が自らの手で「公共性」を作り直す作業ではないだろうか。

だが高度消費社会化は尚も強まっていった。広告ブームでは受け手に位置していた1960年代前半生まれの若者たちが今度は主役として注目され始める。彼らは「新人類」と呼ばれ、消費社会に加えて情報化社会をも生き抜く新世代のように持ち上げられていく。


「新人類」と「高度消費社会」

「新人類」の盛り上がりには「ニューアカデミズム」がお墨付きを与えていた。それは80年代前半から構造主義・ポスト構造主義といったフランス現代思想を日本に紹介し始めた人びとの動きを指しているが、それらの言説は当時の消費社会と結びついたことで大きな流行になった。糸井重里が新しい時代の感性を広告に託したように、「ニューアカデミズム」の主導者たちもまた、それまでの時代と決別するための新しい行動指針をフランス現代思想に託していた。『構造と力』『逃走論』と立て続けに話題作を書いた経済学者の浅田彰がそれを最も明確にしていた14)。

ジャーナリズムが「シラケ」と「アソビ」の世代というレッテルをふり回すようになって久しいが、このレッテルは現在も大勢において通用すると言えるだろう。そのことは決して憂うべき筋合いのものではない。「明るい豊かな未来」を築くためにひたすら「真理探究の道」に励んでみたり、企業社会のモラルに自己を同一化させて「奮励努力」してみたり、あるいはまた「革命の大義」とやらに目覚めて「盲目なる大衆」を領導せんとするよりは、シラケることによってそうした既成の文脈一切から身を引き離し、一度すべてを相対化してみる方がずっといい。繰り返すが、ぼくはこうした時代の感性を信じている。……その上であえて言うのだが、ここで「評論家」になってしまうのはいただけない。……対象と深くかかわり全面的に没入すると同時に、対象を容赦なく突き放し切って捨てること。……簡単に言ってしまえば、シラケつつノリ、ノリつつシラケること、これである。”

全体主義を生み出した近代哲学の主体思想に抗するため、西洋人が自らの問題として練り上げた(ポスト)構造主義思想が、日本では「一時的に対象に没入しつつ、しばらくしたらそれを突き放して次の対象を探す」というわかりやすい行動指針に置き換えられた。この行動指針はどこかで見たものではないだろうか。そう、それは次から次へとモノを消費していくことが求められていた当時の高度消費社会に適合した思想だった。他人と同じモノを求めることが次第に時代遅れになり、それを“いかにも一般大衆が喜びそうなアイデアですね”と自嘲するサントリービールのCMがヒットした。

浅田と同じく中沢新一や栗本慎一郎といった若手のスター学者が生まれ、左派論壇の大御所であった吉本隆明は当時の最先端ファッションブランド『コム・デ・ギャルソン』の服を着て『an・an』に登場した。彼らに求められていたのは、使用価値に乏しくデザインにしか差異がないような商品でも、舶来の記号論を用いてそれを消費することに意味を与えることだった。浅田や中沢にとって自らの言説がマーケッターたちに重宝されたことは予想外だったのかも知れないが、結果的に見れば両者は強く結びついてしまった。

城戸秀之はその奇妙な現象を“……消費記号論は、社会科学のパラダイム転換を商品論へと転用し、「記号」をコードの集合的論理から商品差別化の個別的論理に変形する。マーケットへの拘束性を隠しつつ、消費の文化性・個性を強調する一方で、イメージによる商品の消費者への「刷り込み」をねらった商品開発を強調するように[星野1985b:47-48]、人間の「個性」はマーケットを活性化する動員として操作される。”と指摘している15)。

そして消費者として期待されたのが当時の若者たちであり、彼らにその自覚を持たせたのもまた「ニューアカデミズム」の当事者たちだった。浅田彰は、高度経済成長期の日本のような一つの価値観に執着する近代社会を「パラノ型」と名付け、それを超えるような「分裂症的」に行動する消費者のあり方を「スキゾ型」と名付けた。そして「スキゾ型」は近代社会の元で抑圧されてきたが、近代社会の成長は限界に来ており、「スキゾ型」が表舞台に出る時が来たという。浅田はその担い手に若者を“言うまでもなく、子どもたちというのは例外なくスキゾ・キッズだ。すぐに気が散る、よそ見をする、より道をする。”と言いながら指名した16)。そして“スキゾ・キッズの本領を発揮して、メディア・スペースで遊び戯れる時が来た”と宣言した17)。それは浅田自身の20代半ばという年齢の若さや「神童」を思わせる独特の風貌と相まって、若者たちや彼らを取り巻く大人たちへダイレクトに伝わった。

 そうして注目された若者たちが「新人類」と呼ばれるには、『朝日ジャーナル』の「若者たちの神々」という連載も大きな役割を果たした。筑紫哲也編集長は84年第一回・浅田彰から、最終回の田中康夫まで、様々な分野で時代の先端を走る人びとを招き寄せた。そこで語られる時代の感性が、当時の若者たちを象徴するものだと思われていったのだ。そうして「新人類」たち、性格に言えば1960年代前半生まれの若者たちは、様々なモノの消費へ向かっていった。『コム・デ・ギャルソン』に代表されるDCブランドファッションのブーム。ますます細分化する音楽。コンビニエンスストアには『森永おっとっと』のようなガジェット商品が溢れ、すでに出回っていたカップ麺やスナック菓子には「激辛」味のブームが起きる。83年には『東京ディズニーランド』がオープンして関連商品が大ヒットしていき、CMからエリマキトカゲやコアラといった珍奇な動物が人気者になる。都市には高度消費社会の影響で様々な商品が溢れていた。

 だが若者たちが「新人類」と呼ばれたのは、「消費社会」だけでなくもう一つの大きな社会変化に適応していると見られたからだった。それは「情報化」である。


「新人類」と「情報化社会

 

1980年代は日本社会で情報テクノロジーが急速に発達・普及した時代だった。83年にパソコンの普及台数が100万台を突破し、オフィス環境のOA化が始まっていった。通産省と郵政省が「高度情報社会」を提唱するのは1983年で、85年のつくば科学万博では大型ディスプレイから映像や音響の体感装置まで様々な最新のメディア機器が披露された。この急速な変化の中で生きていた大人世代は、自分たちが変化に対応出来るかのという不安を抱えていた。それに対して、生まれたときから家庭にテレビがある中で育ってきた「新人類」は、情報処理能力や親メディア性の高さで高度情報化社会に対応できる世代だと思われたのである。

実際彼らは10代から20代をメディアの発達と共に過ごしてきた。コンピュータの大幅なダウンサイジングにより、70年代末から次々と新商品が開発されたからである。79年に『インベーダーゲーム』が大流行し、ソニーから『ウォークマン』が発売された。82年にはCDプレイヤーと100万円を切る日本語ワープロが、83年に家庭用ビデオデッキが発売された。そして最も話題を呼んだのは83年のファミリーコンピューター(通称“ファミコン”)の発売だった。浅田彰が“メディア・スペースで遊び戯れる時が来た”と宣言したように、若者文化は映像メディアとの結びつきを強めていく。

映像メディアや情報機器を自在に操る若者たちは、主に次のように評価された。仕事は言われたことだけをテキパキとこなし、仕事後に上司と飲むような従来のコミュニケーションを避ける。その代わりメディア相手だと積極的になり創造性を発揮する。ここには現在の若者とメディアの関係を論じるときの原型が伺えるだろう。言うまでもなくパソコンやテレビゲームやビデオ機器の発達は現在まで続いている。だが若者たちへの見方は、異物を見るような猜疑心も含めつつ、やはりまだ持ち上げる見方の方が多かった。

この時期に発生し現在まで連続している点では、いわゆる「ギョーカイ」を裏読みする現象が挙げられる。これもまた、テレビメディアなどの発達による現象だった。「ギョーカイ」とはコピーライター、放送作家、編集者といったテレビ・雑誌などのマスコミ関係者の総体を指す言葉で、それは片仮名に変換されているように若者たちに自分たちの感性を活かせる職業世界だと思われた。そして、「ギョーカイ」の当事者たちが内幕を自ら暴露する『ホイチョイ・プロダクション』の漫画や放送作家・秋元康が手がけた『夕やけニャンニャン』といった作品がヒットした。それは、それまでなら作り手側しか知りようがなかった番組製作の内幕やスタッフの裏話を受け手になる若者も共有するコミュニケーションであった。それにより受け手の側は作り手の意図をあらかじめ読み込むようになっていった。

社会学者の北田暁大はこの若者たちを“この世代に特徴的なのは、斜めに構えることなくしては理解することのできない「笑い」に満たされたメディア体験、およびその体験において獲得した≪裏≫読みのリテラシーの共有だ。”と特徴付け、そのメディアとの共犯関係により“≪巨大な内輪空間≫とでも呼ぶべき奇妙な社会性の磁場が形成された”と指摘している。しかもそれだけではなく、“八0年代テレビ文化によって育まれたお約束に対するアイロニカルな感性は同時に、テレビを含むマスメディア一般に対するシニシズムをも生み出しつつあった”のであり、そうしたマスメディア一般への接し方はその後の若者文化に広がっていったため、“マスコミを愛し嘲笑する「2ちゃんねらー」的心性の素地をそこに見ることができるだろう”というのである18)。

内幕の暴露により、他者をなし崩し的に≪内輪空間≫へ引き込むコミュニケーションの始まりは、現代の若者たちが互いの長所を伸ばし合うよりは互いを相対化して「どっちもどっちさ」と低い次元に落ち着いていくことに影響しているのだろう。

 こうして「消費社会」と「情報化社会」が若者たちのあり方を強く規定していった。高度成長や学生運動のような「社会参加」や「熱い理想」に自己実現を託してきた過去が「ダサイ」と嘲笑され、大人世代もそんな新人類たちを新時代の旗手と見なしていく。ブームは最高潮を迎え、1986年に「新人類」が流行語大賞を獲得する。


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第八章 「おたく」と新興宗教の若者たち――高度消費社会の落とし穴


都市生活者の環境変化

 「新人類」をめぐる盛り上がりが落ち着いてきた1987年頃、日本は空前のバブル景気へ突入していた。土地の地上げ屋や株取引のディーラーが幅をきかせ、普通の人びとがマネーゲームに乗り出す狂騒が幕を開ける。これまで見てきたものが若者をめぐる言説の変化なら、若者の日常生活の環境も同じように変化していた。言説面で「自由な消費者」と持ち上げられたように、実際の都市生活もよく言えば自由で悪く言えば孤独になった。若者が持ち上げられる事が無くなった現代でも、生活の孤独化は進んでいる。ここではその始まりを追ってみたい。

 80年代の都市生活に最も影響したのは、恐らくワンルームマンションとコンビニエンスストアの急増である。まずワンルームマンションは82年から83年にかけて東京二十三区内で建築ラッシュが起き、83年の建築申確認請数は前年の四倍近くに及んだ。そこに入居したのは親元を離れた独身の若者たちであった。彼らを引きつけたのは都市の単身生活者が感じるような孤独なイメージがなく、「自由で自分らしい生活が出来る」といったキャッチコピーがあるからだった。また、彼らがバブル経済に向かって巨大化していく東京で学生生活や仕事生活を送るための受け皿を求めているからでもあった。評論家の芹沢俊介は当時のワンルームマンションが選ばれる動機を“情報産業のなかにいること、そこで生きていることがすべての優先ごとであるという認識。これがワンルームマンションを選ばせている”と位置づけている。19)”“ワンルームは、高度情報化社会を生きようとする情報人間(発信し受信する主体)を容れる身体のようなものである。”と推測している20)。さらに84年からは建築ラッシュが東京の郊外や地方都市にも広がっていく。

 ワンルームマンションに住む単身者の増加を狙って様々な商売が成立する。まず82年から86年にかけてコンビニエンスストアの総数が1.7倍に増加し、24時間営業が定着していく。業界最大手の『セブンイレブン』は82年に商品の売り上げ情報が一目で表示される「POSシステム」の導入を始める。これにより売れ筋商品と死に筋商品の把握が容易になり、24時間売れ筋商品のみが棚に陳列されるようになる。そこで売られる様々なガジェット商品やレトルト食品が開発され売り上げを伸ばしていく。そして「POSシステム」が評価された『セブンイレブン』では87年から東京電力の料金支払いが可能になり、様々な公共料金や宅配便、チケット販売などのサービスを扱うようになる。それは多忙な都市生活者にとって非常に便利なシステムだっただろう。こうしてコンビニエンスストアは単身者の若者を引き寄せると共に地域の情報発信地になっていく。そして『セブンイレブン』は03年に一万店を突破した。

 そしてこれらが生み出す新しい生活様式を人びとに印象付けたのが、『セブンイレブン』の『けいこさんのいなり寿司』というCMだ。マンションの一室で夜中に急にいなり寿司を食べたくなった若い女性が、「いなりずし、いなりずし」とメモし始め、『セブンイレブン』に駆け込んでいなり寿司を買い「空いてて良かった」と微笑むストーリーだ。そこに「けいこさんにはけいこさんのセブンイレブン」というアナウンスが被せられる。つまり単身者の若者にはそれぞれの欲望があり、コンビニエンスストアがそれを満たすべくいつでも待機しているというメッセージだろう。またこれまでなら近所の人目を気にして夜中にいなり寿司を買いに行くことなど出来なかったが、こうしたCMのライトなイメージがそれを可能にした。

 さらに同じ時期、一人暮らしや家族と一緒に暮らす若者でも、テレビや電話を一人一台手に入れられるようになった。電話は85年の電電公社の民営化で買い切り制に移行し、単身者は自分用に買い、家族が居る若者でも多機能電話の普及で家族に聞かれず自分の部屋で電話が出来るようになったからだ。またテレビやビデオや冷蔵庫といった大型家電製品も、87年から韓国や台湾といったアジアの新興工業国で作られた安価な製品が都内のスーパーやデパートに置かれ始めた。値段は3〜4万円で、単身者の若者でも一式を揃えられる値段であり、それらを扱う『ダイクマ』のようなロードサイドショップも増加した。ビデオデッキが若者の間で普及した結果、レンタルビデオ店が急速に増えていく。これが前節で述べたような若者とメディアとの強い結びつきの一例だ。89年に昭和天皇が死去した時、テレビが天皇報道一色になる中で、若者たちがレンタルビデオ店に詰めかけた事が話題になった。そして言うまでもなく、これらの変化は1980年代の高度消費社会の産物だった。

宮台真司は、80年代の都市生活の変化を、高度成長期の団地の増加に続く「第二段階の郊外化」と名付けている。そしてそこに住む若者の行動は“ワンルームマンションに住む単身者、あるいは家族と一緒に住んでいるのに「個室化」した「疑似単身者」が、なぜか夜中にいなり寿司が食べたくなってコンビニに行く。ところが、なぜかレディコミ・告白投稿誌・写真週刊誌があって、暇つぶしに買って帰宅。ところが、なぜか手元にコードレスホンがあり、家族を気にせずテレクラに電話する”ということを可能にしたとまとめている21)。ちなみに“なぜか”という点がポイントだろう。それは消費者の主体的な選択ではなくいつのまにか高度消費社会に誘導されていたことを表しているのではないだろうか。

 都会で一人暮らしを始める若者たち。彼の住居をワンルームマンションが、彼の買い物をコンビニエンスストアが、文化との関わりをテレビやビデオが担い、都市生活につきものの孤独感を自由の謳歌に変えてくれる。これまで食事や文化体験には他者との関わりが必要だったが、それを無くして自分のペースで欲求を満たせるようになった。1960年代末の学生運動の若者たちは“近代的なビルの中に生きていることは、いいようのない人間空白”と言っていたが、1980年代の若者たちにはお洒落で理想的な生活だと思われるようになった。生活環境の個別化は1990年代にますます強まっていくのだが、バブルが崩壊した若者たちとってそれは理想でも幻想でも無くなっていく。

 さてもう一つ、団塊世代が築いた「ニュー・ファミリー」のその後に触れておきたい。70年代には新しく理想的だった家族像も、80年代中盤にはごくありふれたものになり、その矛盾が噴出してきた。それを象徴するのが83年の『金曜日の妻たちへ』というドラマのヒットである。団塊世代の三組の夫婦が主人公で、舞台は代表的なニュータウンの一つ・『たまプラーザ』で、夫の不在に空虚さを感じた妻たちが不倫をする物語だった。その後も同種のドラマが続出し、主婦の不倫ドラマが一般化する。ここに来て「ニュー・ファミリー」の幻想は完全に冷めてきていた。いわばそれが「消費のための家族」でしかないことが露見し始めたのである。彼らの子どもである「団塊ジュニア世代」は冷めていく家庭の中で育ってきたため、90年代は家庭作りに幻想を持たない若者たちが主流になっていく。このように、都市生活でも家庭生活でも、1990年代の若者たちは80年代までのような幻想を持たなくなっていくのである。

 だが90年代の若者たちを論じる前に、80年代の若者と社会の関係が破綻していったことを見る必要がある。それを象徴したのが、89年の連続幼女殺害事件と、95年のオウム真理教事件である。

「おたく」と宮崎勤事件――消える若者幻想

 一つの時代に盛り上がった出来事に対しては、必ず後で反動が来る。89年の連続幼女誘拐殺害事件を機に起こった「おたく」へのバッシングは、80年代に一斉を風靡した新人類論への反動だったのではないだろうか。

 1980年代の若者たちは、誰もが革新的な「新人類」として振る舞っていた訳ではない。ごく普通に過ごしていた若者も多いだろうし、さらに暗く孤独な生活を送っていた若者もいただろう。80年代前半に「ネクラ(根暗)/ネアカ(根明)」という分類が流行していたように、コミュニケーションが不得手な若者も一定数存在していた。そのような人びとが漫画やアニメといったメディアに耽溺するようになったのがいわゆる「おたく」である。そして「新人類」と「おたく」はまさに同じ世代の若者だった。

 「新人類」論が世間を席巻する影で、「おたく」と言われる人びとも独自の文化を形成していた。70年代終わりの『宇宙戦艦ヤマト』や、80年代初頭のロリコン漫画や、『機動戦士ガンダム』の大ヒット。様々な漫画やアニメが流行し、プロ作品のパロディ漫画である「同人誌」が幕張メッセを貸し切って販売されるほど増えていった。共に宇宙を舞台にしていた『ヤマト』や『ガンダム』に共通していたのは、大塚英志によれば作品の中に現実の世界を肩代わりするような「大きな物語」が構築されているということだった。大塚は作品という虚構の中に「大きな物語」を求める受け手の心理を“こういう受け手の側の過剰な読み込みこそが「おたく」の最大の特徴である。虚構の世界を現実世界と同等の統辞で成り立っているのだと見なす思考と、それを出発点とする想像力のあり方こそが「おたく」表現の本質である。”と規定している22)。

 この時代のおたく表現が「大きな物語」を求めるに至った背景を、大塚英志は“現実の世界にマルクス主義的な歴史像を描き出すことが困難になった後、その代償として、仮想世界に歴史が求められていく”と述べている23)。すなわちよく言われているような対人関係を忌避した結果「おたく」になるという解釈は(少なくともこの時期の「おたく」に対しては)正しくない。世界に意味を求め、他者との交流を通して世界観を成就させたいが、それが不可能になったから「おたく」系の文化を通して世界と関わっているのである。その世界とは学生運動も高度成長も無くなった1970年代後半から80年代の日本だった。そして文化の選択で自己像を確保するのも他者とコミュニケーションするのも「新人類」と同じ行動原理であり、「おたく」という名称はそもそも彼らが他人に「お宅さあ……」と呼びかけることから取られたのである。このように、「おたく」は決して一部の特異な人種ではなく、同時代の若者たちに広く見られた特徴を内包している。

 だが89年に宮崎勤青年が起こした連続幼女殺害事件により、「おたく」はネガティブな人種であるというイメージが一気に広まってしまった。それは宮崎青年が4人の幼女を誘拐・殺害した理由にある。ロリコン漫画やアニメやビデオといったメディアに耽溺しており、その影響で“現実と虚構の区別がつかない”状態となり幼女にわいせつしようと思ったからだ、と広く宣伝されたからである。数千本のビデオテープやアダルトコミックが山のように積まれた宮崎青年の部屋の写真がその印象を強くした(だが大塚英志は部屋の配置が取材記者によって意図的に作られたと主張している)。

 この事件で若者が「高度情報化社会」の悪影響を受けていると批判されたのは、それまで「新人類」が「情報化社会の主役」と持ち上げられてきたことの反動なのではないだろうか。守弘仁志は当時の報道を振り返りながら“……「情報新人類」である若者に対して、大人社会が根底にもっていた胡散臭い感情が「それ見たことか」という口調で発散されたものとしてみることができるだろう”“八0年代の情報・メディアに関する若者論は、一方で若者をおだて、他方でその椅子を速やかに外すということをやったようだ”と述べている24)。そのため、「現実と虚構の区別がつかない」という急に降ってわいたような批判は紋切り型の面が否めないだろう。

批評家の東浩紀も、“オタクたちが社会的現実よりも虚構を選ぶのは、その両者の区別がつかなくなっているからではなく、社会的現実が与えてくれる価値規範と虚構が与えてくれる価値規範のあいだのどちらが彼らの人間関係にとって有効なのか、たとえば、朝日新聞を読んで選挙に行くことと、アニメ誌を片手に即売会に並ぶことと、そのどちらが友人たちとのコミュニケーションをより円滑に進ませるのか、その有効性が天秤にかけられた結果である。”と反論している25)。

 だが東が言うように80年代の日本でもはや社会的現実が価値規範を与えてくれなくなっていることも事実だった。そして社会の方は問題にされることなく、「おたく」という特定人種のメンタリティの問題にされてしまった。そのため90年代以降の「おたく」たちはバッシングに対応して表面的にはあか抜けたが、日本における情報社会のあり方は変わらなかった。そして次第に低年齢化されていく。だが問われるべきだったのは、(朝日)新聞を読んで知るような社会事象への関心も、選挙に行くような公共政策に関わるプロセスも失墜した状態で、メディア情報やメディアコミュニケーションだけを増幅させていいのかという事である。そこに成立する「公共性」は果たして本当の「公共性」だと言えるのだろうか?

新興宗教とオウム真理教事件――80年代への反動

 大塚や東が説明した「おたく」の行動原理は、1995年に日本中を震撼させたオウム真理教にも共通していた。この事件は非常に規模が大きく、多岐に渡って論じられたため、その中からここでは「世代」に注目してみたい。

オウム真理教の幹部達は、1955年生まれの麻原教祖を始めそのほとんどが50年代後半〜60年代前半生まれであり、80年代の若者たちだった。1980年代は消費社会の反映の影で新興宗教ブームが起こった時代でもあったのだ。幸福の科学、統一教会、エホバの商人といった宗教団体が若者の支持を獲得していくが、オウム真理教もその一つだった。

そこに集まった若者は、80年代の消費社会に馴染めなかった人びとが多かった。ある人は最初から消費社会に馴染めず、自らの良心を満たせないその社会に違和を感じていた。宮台真司は、そのようにして行き場を無くして苛立つ若者達にオウム真理教が活躍の場を与えたのだと主張している。また、ある人は消費社会の中で様々な「自己実現」を目指しながら結局そのどれもに満足することができなかった。

例えば大塚英志は“これらオウムの女性たちの前歴から浮かび上がるのは、一つには彼女たちの職業が今はその呼び名さえ死語になってしまったカタカナ職業に集中することだ。……それらは八0年代の消費社会が女性たちに示した華やかな可能性であり、それらはまさに自己実現なり自己表現の手だてとなるような職業であった”と述べている26)。総じて、「おたく」と同じように80年代消費社会が生み出した負の側面を新興宗教が引き受けていったということになる。

ちなみに新興宗教の参加者が増えただけでなく、いわゆる「自己改造セミナー」も80年代後半にブームになっている。三浦展によれば、1960年代に連続射殺事件を起こした永山則夫の時代と比べて、自らを取り巻く社会という環境がもはや動かし難くなっており、自己改造セミナーのブームはその反動だという27)。

“永山則夫は極貧の家庭に生まれ、集団就職し、貧富の差のある社会を憎み、殺人を犯した。彼にとって自己の不幸の理由が社会の貧富の差にあることはまったく自明であった。……それに対して、オウム真理教の信者の多くは、経済大国日本を支えた郊外中流家庭の出身である。したがって彼らが自分の不幸の原因が社会にあると考えることは困難であり、むしろ自分の親とか、自分自身に不幸の原因があると考える傾向が強まっていく。が、親は変えることができない。しかし親からは逃げることはできる。だが自分からは絶対に逃れることができない。もし自分を不幸であると感じ、そこからの脱出を求めるなら、自己そのものを修行によって変革し、まったく異なる自分に生まれ変わるしかない。それはどうしたら可能か? そこに自己啓発セミナーや新興宗教の市場が成立した。”

 日本のような高度に純化された資本主義社会では、誰もが情報や商品の受け手になるしかない。社会を作り上げていく過程に関われない閉塞感が、若者たちの関心を自己の意識と身体に向かわせた。

そして大塚英志によれば、「おたく」の若者たちや「新人類」の若者たちがサブカルチャーで自己と他者の関係を築いたように、そもそもオウム真理教の教義自体が70年代や80年代のサブカルチャーを繋ぎ合わせたものだったという。確かにオウムの施設には『宇宙戦艦ヤマト』から取られた名前が付けられ、陰謀史観を持ち出すときの「核」「毒ガス」といったイメージも漫画の『AKIRA』や『風の谷のナウシカ』からの明らかな影響を受けている。

だからこそ1958生まれの大塚は“……ぼくは彼らの思考を構成する一つひとつのことばや彼らのふるまいの出自を手にとるように記述できる。それはサブカルチャー的な断片の集積に他ならず、稀に思想や宗教の語が紛れ込んでいたとしても、それらは八0年代の<知の商品化>の残滓以外の何ものでもない。”と語っている28)。

 だが情報化を生きる若者たちがやがて「おたく」バッシングを受けたように、1990年代の日本にはもはやサブカルチャーの思想化を受け入れる余地は無く、それが一般社会からは奇怪に見える新興宗教であれば尚更だった。91年から92年にかけて幸福の科学と統一協会が社会問題になり、信者の若者たちを「一般社会」へ「引き戻す」ための報道や運動が行われた。そしてオウム真理教は、1994年に長野県松本市と95年に東京の営団地下鉄へそれぞれ猛毒のサリンを散布するテロを起こし、計18人を死亡させた。彼らが引き起こした数々の大事件は、「80年代の若者像の破綻」「おたくの連合赤軍」などと同世代の識者によって熱心に論じられ、やがて冷めていった。

 こうして、「消費社会を軽やかに生きる新人類」や「おたく」といった1980年代の若者像は崩壊していった。しかし彼らを生んだ高度消費社会が変わった訳でもなく、失われた「個人」と「公共」を結びつける回路が再生した訳でもなく、消費社会の根本にある高度資本主義が省みられることはついになかった。

むしろ1990年代も消費社会は強化を続けていく。1980年代の「消費する若者」はあくまで大学生や若手社会人といった「20代」の若者たちであり、それに替わる新たな消費のターゲットを開拓していくからだ。それはさらなる低年齢化――つまり10代の少年少女たちだった。まだ自我が成長過程にある頃から取り囲まれることで、少年少女の内面は消費文化とより深く結びついていくのである。

第3部 http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20071228/1256711643 に続く。

2007-12-28 2004年の大学卒業論文・第三部「戦後日本とは何か? 若者たちと社会

[]2004年の大学卒業論文「戦後日本とは何か? 若者たちと社会運動/消費社会、第三部


第二部 http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20071229 からの続きです。

序章・第一部は http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20091230

第三部の続き・最終部は http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20071227

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第三部 10代を覆う消費社会――1990年代以降の若者たち


 1980年代の楽観的な消費社会論を支えていた日本のバブル経済は、1991年前後に崩壊した。また89年に世界の東西冷戦体制も崩壊し、1990年代の日本は政治、経済、社会とあらゆる分野で混迷の度合いを深めていく。

経済の混乱は「経済大国」と言われ続けた日本の自己像やプライドを揺るがし、終身雇用や年功序列の日本型雇用システムが急速に消えていった。政治の混乱は、日本という国の戦後のあり方を問い直さずにはいられなかった。それは「左」の立場からは国民国家批判や戦争責任を、「右」の立場からは戦後批判としての「愛国心」を主張していくことになった。「右」の代表例が序章で取り上げた小林よしのりや福田和也だったが、彼らが批判していた若者たちこそこの章で取り上げる1990年代の若者である。

確かに「援助交際」や「キレる少年」といったそれまでの常識を越えた10代の少年少女の振るまいが話題になり、大人世代によるバッシングはかつてなく盛んになる(なお、本章では80年代までの若者論が「20代の若者」を中心にしていた事と区別するために、90年代の10代を「少年少女」と呼ぶ)。だがここでは安易なバッシングに与するのではなく、彼らがこれまで見てきた消費社会化と情報化の結果に登場したと考えたい。「若者論」の主役が80年代までの20代から90年代の10代へ移行したように、90年代の企業社会もターゲットの中心を10代へ移行させていったからだ。その中でまだ若い「個人」と「社会」の関係はどのようなものになったのだろうか。またそれが生み出した問題とは何なのだろうか。


第九章 渋谷と「コギャル」の深き関係――90年代消費社会と女子高生

10代を覆い始めた消費文化

I’m proud

こわれそうでくずれそな

情熱を つなぎとめる何か

いつも探し続けていた

どうしてあんなに夢が

素直に見れなくなってた?

街中でいる場所なんて

どこにもない

身体中から愛がこぼれていた

ひとごみをすりぬける

大人が誘いの手をひく

経験がふえてゆく

避けて通れなくなってた

さまよったって

愛すること誇れる誰かに

会えなさそうで

会えそな気がしてたから

生きてた  

(華原朋美『I'm proud』)

東京・渋谷の街が「ストリート」と呼ばれ始め、そこに集う10代の少年少女たちが「チーマー」「コギャル」などと注目されるようになったのはいつからなのだろうか。

 渋谷はもともと1970年代に西武コクドグループが若者向けの街として再開発した。街全体を単一のコンセプトで設計したことにより、渋谷は現在のような「消費」に特化された都市になっていった。それでも1980年代までは文化産業の流行に敏感な「新人類」の若者や「ギョーカイ」の人びとを中心に動いており、彼らは西武パルコや各種レコード店から発信される最先端の文化を探し求めていた。

 そこから10代の少年少女たちが渋谷へ集まり始め、マスコミも注目するようになったのは、80年代末に「チーマー」と呼ばれる粗暴な少年グループが渋谷で起こす抗争が話題になったからだろう。それは外見や組織のあり方が日本の従来の暴走族よりも米国の少年ギャング集団に近かったため、彼らがよく居た渋谷の「センター街」が日本における「危険なストリート」の代名詞になっていったのだ。

 また「チーマー」と時を同じくした89年頃に、渋谷に集まる10代の少年少女たちのカジュアルなファッションが「渋カジ」と呼ばれ注目された。それはポロ・ラルフローレンニューバランスのスニーカーや紺のブレザーといった定番アイテムを「自分流」に着こなすスタイルであり、トレンドアイテムの低年齢化を一気に推し進めた。現代の若者たちが古着や輸入品を駆使して作る多種多様なカジュアルスタイルはここから始まっているほど話題になった。

 「チーマー」を構成していたのも「渋カジファッション」をしていたのも、1971〜74年に生まれた「団塊ジュニア」世代である。それゆえ彼らは中高生の頃から「若者論」の標的になったが、それはまた彼らの時代から企業の商品開発やマーケティングが中高生を中心にしていくことでもあった。「団塊ジュニア」の世代は親の団塊世代と同じく人数が多かったため、企業には彼らを取り込まなければ生き残っていけないという危機感があった。そのため「新人類」を対象とした若者マーケティングが頭打ちになる80年代後半頃から、10代向けの新しい商品が様々な分野で増えていく。

 まず87年に女子中高生が朝の登校前に洗髪することが社会現象になり、「朝シャン」なる流行語が生まれ、企業は専用洗面台やリンスインシャンプーといった関連商品を開発した。またムースやジェルといった男性化粧品も種類を増やし、若い男性向けファッション専門誌『メンズノンノ』や『ファインボーイズ』の創刊で男子高校生のお洒落が日常化した。また15歳をメインターゲットにしたソニーのミニコンポ『リバティ』や、高校生をターゲットにした『日清パワーステーション』といったライブハウスが作られた。87〜88年にはアメリカンキャラクターの小物グッズが少女たちの間で大ブームになり、渋谷の『ソニープラザ』がアメリカ小物主体の商品構成に変えて売り上げを急増させ、88年には『渋谷ロフト』も開店。シンプルでファッショナブルな雑貨や文房具は10代向けの大きな市場を形成していくことになる。ちまちました小物や何十色も作られたカラーペンは、80年代前半に語られた「多品種少量生産」の産業構造をまさに体現していた。また80年代後半は日本のバブル経済絶頂期でもあり、高校生アルバイターの需要増加と親に余剰所得のできたことが10代の消費を支えていた。 

 この時期に、10代の少年少女たちを消費の主役として分析するマーケティング書籍が相次いで出版されている。『団塊ジュニア――15世代白書』(辻中俊樹編著、88年)、『「団塊ジュニア」をつかまえる法』(辻中俊樹、89年)、『ティーンズ解体新書――「超適応世代」は消費社会をどう変えるのか』(ODSティーンズ研究会、90年)、『「女の子」マーケティング 消費トレンドをリードする団塊ジュニアの研究』(水喜習平、91年)といったものである。        

このように「団塊ジュニア世代」を取り巻く環境はその後の10代へと続く様々な変化を見せていたが、中でも重要なのは87〜88年頃に私立高校が行った制服のモデルチェンジである。人数の多い「団塊ジュニア」世代が高校へ入学し、後は入学生が減っていくだけという状況になった時、私立高校はお洒落な制服に変えることで他校との生き残りをかけた差別化を図ったのだ。若者の流行を観測する雑誌『アクロス』の編集部は以下のようにまとめている1)。

セーラー服や紺の車ひだジャンパースカートが定番だった制服が、今街でよく見かけるブレザー+チェックのミニスカートといったタイプに一斉に変わり始めたのだ。いかにもお嬢様校の雰囲気を作り上げたり、DCブランドのデザイナーが起用されたり、もはや校風や偏差値ではなく制服で高校選びをする時代になったともいえる。87年に初版が出版された森伸之著『東京女子高制服図鑑』は、どちらかというと男性マニア向けオタク本といった趣だが、いつのまにか書店の受験コーナーに並べられるようになっていた。……ちなみにこの本によると、81年にはわずか一校しかなかったタータンチェック柄の制服が、モデルチェンジが盛んだった88年に18校、94年には36校と、急速に増えていることがわかる。”

これは学校教育までもが少年少女を消費社会の中に位置づけられていくことであり、80年代前半に校内暴力やいじめで荒廃した学校が、ブランドやファッションの記号へと意味を変えながら再興することでもあった。そして女子高生の制服がファッションアイテムになったことが、90年代の女子高生の消費社会化と風俗現象化に大きな影響を与えた。その後の女子高生は“……制服もだんだん自分たちなりにおしゃれに見えるよう、スカートの丈をもっと短くしたり、ソックスの長さにこだわってみたり、学校指定以外のかばんを持ったりという変化が見えてきた。”からである2)。


10代に降りる「情報化」と自己/他者の記号化

 それでは、消費社会が低年齢化していく中で育ってきた少年少女の社会関係や人間関係はどのようなものになったのだろうか。

 「団塊ジュニア」が10代後半で注目されていた88年頃から、彼らにとってのメディアである10代向けの雑誌『セブンティーン』や『プチセブン』が内容の方向転換を始める。

少女コミックの連載を中止し、アイドル・芸能情報も減らし、ファッション情報・ダイエット・恋愛・生活情報などを中心にしていった。雑誌を読者にとってより身近なものにする試みであり、それにより両誌は90年代に部数を大幅に伸ばした。

身近な生活情報は、雑誌による「上からの押しつけ」ではなく、雑誌と読者の双方向のコミュニケーションが可能なメディアだと思われたのだ。それはいわば読者にとって「雑誌が友達化」することであった。このため雑誌メディアではそれまでのジャニーズのスター等ではなく、より等身大なモデル出身の女性が中心になり、彼女が自らの私生活を雑誌で公開することでブーム商品や消費のモデル生まれていく。そして90年代半ばになると『egg』や『Cawaii!』といった一般の女子高生がそのまま「読者モデル」として登場する雑誌が人気を博していった。

 そして10代向けメディアがより読者へ歩み寄るだけでなく、女子高生の側からも最近身の回りで流行している商品やスポットの情報を投稿や読者アンケートで雑誌へ提供するようになった。そしてここに企業のマーケッターが目をつけて商品を開発するようになった。つまり、80年代には主に大学生や20代の若者が参加していた商品の消費と開発のサイクルへ、90年代になると10代の女子高生が参加するようになったのである。『流行観測アクロス』は、団塊ジュニアのさらに下の世代を取り上げながら10代とメディアと企業の情報サイクルを解説している。3)

“なかでも彼らのくちコミは影響力絶大な情報として注目度が高い。雑誌には「高校生の流行はこれだ!」といったフレーズが目立つし、実際にヒット商品を見てみると缶紅茶のピコー、つぶつぶいちごポッキー、パンテーンシャンプーなど、高校生の口コミが人気に火をつけた商品がかなりある。『プチセブン』『セブンティーン』などのティーンズ誌には、定期的に5000人、1万人規模のアンケート調査を行い、彼女たちの好きなお菓子から文房具のブランドまでをランキングにする目玉企画があるが、そのデータは彼女たちだけではなく、企業のマーケティング担当者に明らかにアピールしている。『プチセブン』はあの「電通報」に広告を掲載していたほど。高校生のくちコミは雑誌に掲載されて拡張され、さらに企業にマーケティングされて商品が作られ、またそれがくちコミにより広まり……そんなサイクルがビジネスに組み込まれているような構図になっている。”

女子高生は、ある商品を「良品」と認める選択権が自分たちの手にゆだねられることで、誰よりも早く意外なヒット商品を見つけ出せば、それで仲間内のヒーローになれるようになった。それが雑誌メディアに載れば「女子高生」全体のヒーローになれる。そして「意外」「自分なり」のヒット商品を見つけ出すために動き続ける消費者は、商品が多品種少量生産されている社会にとって最適な顧客だった。

こうして女子高校生が商品の情報サイクルに組み込まれていくことで、彼女たちの日常は一気に「情報化」していった。多様な情報を整理するのに最適な『システム手帳』がこの時期急速に普及し、93年からは『ポケットベル』がクチこみなどを広めるのに最適な女子高生の必需品になっていく。つまりマーケティングの対象が低年齢化したことにより、80年代には20代の「新人類」が当てはまると考えられていた「高度な情報処理能力」がまだ10代の女子高生へも求められるようになったのだ。ちなみにこの93年頃には「『電子手帳』を持つ小学生」も話題になっている。

しかしこうした情報化は、彼女たちの人間把握をも変えた可能性がある。80年代に情報化社会が20代の若者を覆った時、彼らは他者を「ネクラ/ネアカ」「マルキン/マルビ」などと記号化して分類していた。それが90年代になると10代の若者に降りてきて、援助交際の相手となる「オヤジたち」が記号化されたのではないだろうか。

複数の相手と金銭を通して次々関係する援助交際は、相手に対して特別な感情を抱かないからこそ可能になる。相手に固有の感情を抱いていたら非効率で売春などできないからだ。そのため彼女たちはよく「偉そうなオヤジでも服脱げばみんな一緒じゃん」と言っていた。そしてそれは、日本社会の男たちが「女子高生」を記号化して、「制服」や「清楚」といった要素を勝手に読み込み興奮していたことの裏返しだった。

そして女子高生の特徴でよく挙げられた彼女たちの突っかかりぎみで何でも省略する話し方は、彼女たちを取り巻く環境の情報化が顕著になる92年頃から始まっている。話し方にも情報化の影響が出たのである。


都市の流動性への適応と、日常(人生)の断片化


 こうして「渋谷で消費する女子高生」が若者の象徴になっていくが、都市というのは基本的に人間関係が流動的であり、渋谷のようなモノと情報に溢れた街は流動性をさらに加速させる。第8章で見たように、80年代以降の都市生活は個人化と流動化が著しく進んでいた。そこに10代の少年少女が参加するのは、当人たちがまだ「流動的な空間である」と自覚出来ないうちからそれを所与の前提として求められることであった。つまりどんな出来事が起きてもどんな人と出会っても、それを断片的な記憶に変えてまた別の出来事や相手に向き合っていくことを10代のうちから行わなければいけなかった。

この時期は歌謡曲の流行歌が80年代の松任谷由実から90年代のドリームズ・カム・トゥルーへ移行したが、社会学者の宮台真司によればそれは“ユーミンの作品世界は、主人公の「世界内でのあり方」を唱い込む。それがドリカムになると、「それって、あるある!」と盛り上がれるような十五秒CF的シーンの羅列。”というような変化であり、ここにも10代の変化が反映されていたのではないだろうか。宮台はそれを“要するにユーミンからドリカムへの移行は、「これって、あたし!」的な「関係の複雑性」から、「それって、あるある!」的な「シーンのモザイク的寄せ集め」への移行である。”と定義している4)。例えば彼らの代表曲の一つ『サンキュ』は、<季節外れの花火 水はったバケツ持って 煙に襲われて走りながら “キレイ”涙目で言うから 笑っちゃったじゃない><話のきっかけを探して黙ったら 急に鼻歌 歌うから 笑っちゃったじゃない><“ちょっとカッコ悪いけど 髪切るならつきあうよ”なんて笑っちゃったじゃない>などと日常のシーンをいくつも積み重ねている。

 情報化した街を生き抜くために、日常をいくつかの断片の積み重ねとして把握していくこと。例え援助交際で嫌な思いをしても、断片的な記憶に出来れば忘れていくことができる。そしてまた次の相手と向き合うことができる。90年代に一斉を風靡する「援助交際」で、見知らぬ「オヤジ」と性交渉ができる女子高生の身体感覚は、間違いなくこうした変化の中で形成されていた。

そんな女子高生は、第一章の小林よしのりのようにしばしば「他者に無関心である」と批判されたが、渋谷が消費をさせるために生み出す凄まじい情報量や刻々と移り変わる人間関係の中で生きていれば、関わり合いがなさそうに見えた相手ならある程度無関心にならなければやっていけなかったのではないだろうか? ただしそれは、自らの人生が一歩一歩積み重なり建設的に進んでいく実感を得られなくなることと引き換えとなっただろう。その後出てくる「生きづらさ」の大きな要因の一つがここにある。

“夢なんて過去にはない 未来にもない 現在(いま)追うものだから”(安室奈美恵/『Chase The Chance』) 

ブルセラ・援助交際と「消費欲求」

 このように10代の環境が消費社会化・情報化していった結果、93年に女子中高生が自分の着用した下着を販売店に売る「ブルセラ」が大きな話題になる。続いて94年にお金を払って女子中高生と仲を持つための「デートクラブ」が、95〜96年には女子中高生が自ら年長の男性と掛け合って売春する「援助交際」が話題になり、女子高生と性産業の結びつきは90年代を代表する社会現象になっていった。宮台真司の試算では93年夏の時点の都内では六千人〜一万人の女子高生がブルセラショップに出入りしていたという。また94年夏の都内には35店のデートクラブ業者が営業し、八千人〜一万人の女子高生が登録していた5)。そして援助交際を経験した女子高生は“女子高生全体でならせば六〜八パーセントだが、「街に生きる」タイプの子に限れば二割から三割に及ぶだろう”という6)。

それは「女子高生」という付加価値に大きな金額がついたからだった。93年から女子高生の制服の着崩しが始まったことはすでに述べた。同じ93年に渋谷の『ソニープラザ』で販売されていた『ルーズソックス』が爆発的に売り上げを伸ばし、「茶髪、制服、ルーズソックス」という女子高生のスタイルが定式化された。

 ブルセラや援助交際をする女子高生たちは、大人世代から「金が全てなのか」「倫理を無くした」などと批判されたが、こうした紋切り型の批判はそれが90年代に登場した社会的な意味を見失わせる。売春の是非についてここでは問わないし、筆者にはそれを判断するだけの見識が欠けている。それより筆者が問題にしたいのは、90年代の女子高生たちがなぜそこまでして金を稼がなければならなくなったのかという事にある。やはりそれは、90年代に10代の少年少女がより深く消費文化による自己実現を行うようになり、女子高生はその中で最も先端的な存在になったからではないだろうか。渋谷のような繁華街で一日中過ごしたりブランド品を買ったりするには、多くの金が必要なのである。

ブルセラや援助交際で得た金を消費に使うことを繰り返していく具体例を挙げてみたい。黒沼克史のルポルタージュ『援助交際』によれば、最初に取材した少女が援助交際した理由は“世界の一流品を手に入れたいという欲望に目覚めた”からだったという。“ユミちゃんに初めて会った時、彼女の化粧ポーチにはシャネルがぎっしり詰まっていた。サワコちゃんは、「ユミちゃんはファッション知識人なの」と言った。それはどうやら、世界の一流品が持つ魔力を知った上で、その魔力に気持ちよく負けるということのようだった。7)”

 高校一年生の“トモコちゃん”は“伝言ダイヤルのメソッドはすべて先輩から学んだ。「お金がなくて困っている」と言うと、先輩が何から何までセッティングしてくれた。そして、一年足らずで十八人のオジサンたちと援助交際をしてきたという。”彼女はまた“親がたまに買ってきてくれる洋服の趣味がまったく合わないことが、トモコちゃんをウリに走らせる一因にはなった”のだという8)。

 あえて直接援助交際をやらずにテレクラでアルバイトをしている高校三年生によれば、“(援助交際を)やってる子は、洋服をバンバン買ったりすぐに新しいボードを欲しがるような子で、彼氏に貢いだり友だちにおごったりして、人生楽しいよ、とか言ってる。私はブランド物はあんまり欲しいと思わなくて、どっかに行く時にポイントで着てればいいってタイプだから、やってないのかな。何が何でもシャネルってなっちゃった人は、だいたい売春とかにいきますね。”というのだ9)。続けて中学3年生で初めて援助交際した女子は“その時はD&G(ドルチェ&ガッバーナ)のTシャツとかが欲しかったの。ノースリーブのTシャツとかなのに、ブランド名がついてるだけで三万するんです。それで、ウリをやって買っちゃった。10)”

 80年代後半のバブル経済の円高・ドル安により大量に輸入されてきた海外の高級ブランド品は、90年代の不況になると買い手を減らし始めた。そこで目を付けられた消費者が10代の少年少女であり、この時期の女子高生向け雑誌にもブランド品が頻繁に登場するようになり、ブランド品が載る女子大生向け雑誌を高校生も読むようになる。援助交際をする女子高生たちのブランド志向は明らかにこれらの影響を受けているだろう。またブランド品とまではいかなくとも、ショッピングビルの『渋谷109』では10代の少女向けに五千円から一万円台の非常に様々な洋服が作られ始めた。そのため『渋谷109』は90年代に急成長を遂げて今や渋谷の代名詞になった。

1980年代の女性が消費によって「自己実現」しようとしたように、その洋服を買って身につけることが女子高生にとっての「自己実現」になっていったのである。そこでは援助交際をした金で買えば買うほど「自己実現」になっただろう。他者との社会関係を実感出来ただろう。ルポライターの井田真木子によれば、ある女子高生は援助交際をする友だちを評して“で、ヴェルサーチ命だって、その子言ってる。ヴェルサーチで固めるためだったら、あたし、なんでもするわよって、誰にでも言うの。悪びれないの。……世間でどう思おうと、自分がやりたいわがまま通しちゃうっていう決心ですか、そういうの、個性だし、いいってことじゃないですかね……あたし、その子のこと、ある意味ですごく尊敬しているし、憧れてるんです。”というように消費することが自己実現になると思い賞賛している11)。80年代には20代の女性たちが行っていた「消費による自己実現」が、10代の少年少女に降りてきたのだ。


援助交際――情報化された身体と、消費という目的

そして消費の要素としては他に「繁華街の居場所代」が挙げられる。繁華街で遊ぶ10代が増え、10代向けのスポットも増えていったが、繁華街で遊ぶには地元や友人宅で遊ぶ以上に金がかかる。しかし10代の稼ぎには限度があるため、ブルセラや援助交際で金を稼ぎたい。援助交際にはこうした動機も多かったのではないだろうか。

 前述の援助交際をしている女子高生は“こうやってフツーに暮らしてても、月に四、五十万は使ってるもん。”という12)。その内実は“べつに高い買い物してないよ。シャネルのマスカラだって五千円しないしね。クラブとかパーティーとかカラオケとか遊びに行って飲んだり食べたりすると、積もり積もっていつの間にか五万なくなってる。”13)というように、街中に留まり遊んでいるだけで大金が無くなっていく様子が伺える。

 カラオケボックスは1990年に「団塊ジュニア」向けの遊び場として激増する。それに合わせて91年からドラマとタイアップしカラオケで歌われることを狙いにした大ヒット曲が続出する。カラオケは10代の主要な遊び場になり、大きな繁華街にも私鉄のマイナーな駅にも次々と作られていき、前述のドリームズ・カム・トゥルーやBzやミスターチルドレンといった出す曲出す曲100万枚を超えていくメガヒットアーティストを生みだした。これにより歌謡曲は「J−POP」と呼ばれるようになり、10代や20代にとって最も影響力のあるメディアになっていった。

 そしてプロデューサーの小室哲哉は、90年代半ばにカラオケで歌われるための曲作りで空前の大ヒットを連発した。それは援助交際が話題になっていたのと同時期であり、女子高生たちはこぞって小室がプロデュースする安室奈美恵や華原朋美の曲をカラオケで歌っていたが、何とその歌詞には、当の女子高生たちの行動や思考を入念にマーケティングしたことが明確に分かるのだ。

 例えば本節の冒頭で引用した安室奈美恵の歌詞は、女子高生の身体的な「欲望」を解放させることを勧めているように見えるし、華原朋美は『I’m proud』で<人混みをすり抜ける 大人が誘いの手を引く 経験が増えていく 避けて通れなくなってた><彷徨ったって 愛すること誇れる誰かに 会えなさそうで会えそな気がしてたから生きてた“などとどう見ても援助交際する女子中高生の姿を歌っていたのだ。

 言うまでもないことだが、音楽ビジネスは受け手の少年少女にとって等身大のアーティストだけで成り立っている訳ではない。アーティストの所属レコード会社があり、CDを生産する工場や全国へ運送する会社があり、CDの販売店があり、アーティストを取り上げるメディアがあり、それは全てスーツを着た「大人世代」が自らの利潤を手にするために行っている。プロデューサーの小室も当時すでに30代後半である。これだけ女子高生の意見をマーケティングして商品化し、彼女たちに金を使わせることで産業を作り出している「大人世代」が、同時に女子高生の援助交際等をバッシングするのなら、これは消費社会が行き着いた果ての壮大な「マッチポンプ」ではないだろうか? 消費社会を作り出した「大人世代」が、消費社会の生み出す副産物に気づかないまま自らの影に怯えているのである。

 企業のマーケッターも女子高生の消費社会化へ積極的に荷担した。PARCOの『アクロス』は90年代の10代の女子を「他人に媚びない“無性化”が進む」と言い、「……“性差”の壁は、若者の間では一気に崩れてしまったかに見えた。そして“人に媚びない、自然体の明るさ”こそが女の子が最優先する価値観として浮上してきたのである」と言ってそれを女子高生の消費活動へ注目する理由に挙げている14)。しかしこの「女性の自立」を「消費社会で主役になること」へすり替える言説は、まるで1980年代に女子大生やOLへ向けられてきた「自分らしくなるためにモノを買おう」という言説の反復ではないだろうか。つまりマーケッターも企業も新たな消費主体を見つけるためにより低い年齢を賞賛しているだけなのである。あまつさえ彼女たちを“新人類世代に通ずる感覚を感じる”などと評している15)。彼らは自らが盛り上げた80年代の新人類論が「おたく」や「オウム真理教」によって破綻したことの落とし前をきちんとつけたのか?

 宮台真司は“売春というと「物欲主義」や「消費社会の退廃」を問題にしがちだが、実際に調べてみると多様な動機が見えてくる”として援助交際の動機をいくつかに類型化している16)。確かに金銭崇拝を紋切り型で批判してもあまり適切ではないだろう。しかしそれならなぜ多様な動機が「援助交際」という多額の金銭が得られる手段に集約されたのかを解明する必要があるのではないだろうか。これまで見てきたように、若年層には80年代までの上昇志向に裏打ちされた分かりやすい金銭崇拝とは異なる状況が表れていると思うのだ。それが、自分の存在を証明するためには消費をするしかないという感覚である。

 井田真木子によれば、デートクラブの店長は自分が接している女子中高生を“……あの子たちの価値観、お金とブランドだけなんです。/たとえばお客さんから二万円手にするでしょう。そしたら瞬間的に、まったく考えることなく、贋シャネル・ショップに行きますね。彼女たち。ためらうってこと知らないですよね。ふと、立ち止まる子どもっていないんですよね。”と評しているが17)、これはいわゆる「欲に目がくらむ」というような状況よりも、薬物依存に近い。消費に依存しなければ自己の感触を得られない、そういう少女が増えてきているのではないだろうか。

 また黒沼も井田も、ブルセラや援助交際をする女子中高生の一部に「親からはお金をもらえる余裕がない」という意識があることを指摘している。90年代の不況が子どもにモノや金を与える経済的な余裕を親から無くさせたのだ。井田はもう一歩進めてブルセラや援助交際を“……九二年以来ストリート・サヴァイバーが顕現してきているのではないか。これが私の推論です。具体的には性を売る商売に、ほとんど自分が何をしているのか意識していない子供が流入したこと、それから薬物濫用が一般化したということ。いわば無意識のうちの一般化、それが、子供の危機を呼び、社会の変質を招き、中産階級の溶解をもたらしていると思います。”と分析している18)。

 1990年代の消費社会と情報化社会が10代をターゲットにしたことで、ブルセラや援助交際といったそれまでの常識を越えた10代の社会現象を生み出した。少なくともそれを促進した。そしてこの現象は女子中高生に限られたものではなかった。90年代後半からはまるでそれまでの性差バランスを覆すかのように中高生の少年犯罪が話題になるが、そこにも消費社会と情報化社会の深い影響が存在していたのだ。


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第十章 少年犯罪と郊外消費社会の限界


神戸連続児童殺傷事件と地域社会

 1997年に日本中を震撼させた神戸の中学3年生による連続児童殺傷事件は、コギャル女子高生と並んで90年代以降の若者像を規定した。それは「いつ“キレる”のか分からない心の闇を抱えた少年」という見方である。だがここでもその事象を心理主義的に理解するのではなく、女子高生と同じように戦後の社会変化の中に位置づけてみたい。神戸の加害少年の周囲にもまた、これまで見てきた総消費社会化の負の側面が表れているからだ。

それは高度成長期に産声を上げ、70年代以降の団塊世代が発展させ、80年代にその夢が醒めてきた「郊外ニュータウン社会」である。 

 神戸の加害少年は、神戸市須磨区須磨ニュータウンという1970年代初頭に開発された典型的な郊外ニュータウンに住んでいた。少年の父親は1950年生まれのほぼ団塊世代であり、その世代が築いてきた郊外ニュータウンの幸せな家族幻想が1980年代になると次第に薄れてきたことは第三章で触れた。三浦展は、郊外社会の黎明期とオウム真理教の事件を結びつけ“……おそらくオウム事件とは高度経済成長の郊外中流家庭で育った、いわゆる新人類世代以降の若者たちが中心となって引き起こした事件のようなのである”と言い、それに対して“……同じような郊外的環境で育った青少年はその後ますます増えているのだから、郊外を舞台にしてもっと悲惨な事件が起こるのではないかと推測することは理の当然である”と論じているように19)、神戸の少年の事件は郊外から幻想が薄れてそれが持つ矛盾が徐々に表面化してきた中で起きた事件だったのではないだろうか。

 では、その矛盾とは何か。少年にはどのように感じられたのか。少年は、犯行声明文で自らを“透明な存在”と規定している。“……しかし悲しいことにぼくには国籍がない。今までに自分の名で人から呼ばれたこともない。……ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。”というように自分の存在が社会から遊離していることを強調し、その状態からの回復のために殺人を犯したと主張している。

 彼は“透明な存在であるボクを作り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復習も忘れてはいない。”とも書いている。彼には自分を取り巻く家庭や地域といった全ての環境に不満があり、しかしそれらの環境が全て有機的に絡みあっていることを把握するだけの力は年齢的にまだ無かったため、その中で最も目の前にある「学校」を名指ししたのではないだろうか。もちろん全てが絡み合う環境とは「郊外ニュータウン社会」のことである。


消費社会化されすぎた郊外ニュータウンの閉塞感

そして、彼が住んでいた「須磨ニュータウン」は他のニュータウンと比べても固有の問題があったようだ。宮台真司はそれを“同質性の圧力の中での異質化競争”と表現している。家に分譲と賃貸の区別があり、分譲にも収入に応じて三千万円や四千万円といったクラスがあり、それで生活水準が判別出来るようになっている。では収入が同程度ならどこで差異をつけるかという時に、教育と車しかないという。これが実に息苦しい“競争”なのだ20)。

 

“だから須磨ニュータウンの人はみんな、いい車を持っているんですよ。ところがぜんぶ国産なの。なんでぜんぶ国産なんですかって聞いたら、外車はやりすぎなんですって。外車を買っちゃったら、ゲームから降りちゃったことだと。

細かくいうと、国産車は二00万円くらいから始まって、四00万円ぐらいまでの幅がある。このなかでセンスのある高級な車を買う。外車になったら、そのなかから飛びだしてしまう。(ベンツの)SLクラスなんか、一台一五00万円というところまでいっちゃう。そしたら郊外のみなさんがやるゲームではなくなるんですよ。ゲームのルールを壊すやつは、また嫌われちゃう。“

 70年代から80年代にかけての郊外ではまだ家や車を持つことに夢があったが、それが行き着く所まで行けば他者との差異を図るための消費財でしかなくなる。さらに現地を取材した三浦展は、須磨ニュータウンで駅から大学に向かう学生の姿を見て“ゾッとした”という。それは学生たちが“ほとんど一列になって、おしゃべりをするでもなく、ただ黙々と大学に向かって歩いている。”からだ21)。

それは須磨の道造りの構造に原因がある。“おそらく駅から大学までの道がまっすぐな一本道であり、街路樹もなければ一軒の店もない通りだからである。まわりは主に集合住宅だから、横道にそれても喫茶店があるわけでもない。こういう環境であるから、ただただ目的地まで脇目もふらず歩くしかないのだ。”“実は事件のあった中学校の校門までの道も同じである。……校門の直前で生徒をすべて一つの流れに合流させた方が、学校側は何かと管理しやすいという考え方が、この街の設計思想にあったのではないかという気がしてならない。”と三浦は推測している22)。

ニュータウン固有の問題として、宮台が挙げたような収入や生活環境や家族構成の「均質性」があり、三浦が挙げたような「管理された街並み」がある。例えば郊外では道に商店や公園がほとんどなく、駅前にのみ集中しているため、人は車で移動する。その結果道から人がいなくなり、歩いているのは学生のようにただ黙々と目的地を目指す人だけだ。つまり道の中で立ち止まって地域住民と何かを共有することが出来ずに、人は「点」で移動するしかなくなってしまう。

 そもそもニュータウンの居住者とは生まれ故郷を離れてきた人たちである。それに加えて地域社会の中で他者と交流する習慣が無くなってしまえば、差異化のゲームに勤しむしかないのも納得がいくだろう。このようなただでさえ息苦しい環境で育つ少年がいつも「点」でしか動けていないとしたら、それはどれだけ息苦しいだろうか?

 そしてこうした問題の根本にあるのは、郊外がそもそも「消費のための場所」に純化されていることだ。郊外を成立させたのはそこで家事を行う主婦と都心へ働きに出る夫という性別役割分業の普及であり、従って主婦と子どもしかいない郊外では「消費」が主役になるしかないのだ。夫が買ってきたテレビやミニコンポといった家電製品を消費する。子どもはそれを自室にも持つようになる。後で詳しく述べるがファーストフードやTSUTAYAといった典型的な消費社会の商店は、まさに郊外で繁盛している。郊外こそ戦後日本が果たしてきた消費社会化が最も「画一的」で「隙間無く」達成された場所なのだ。

 それは東京・渋谷とはまた違った息苦しさがあるだろう。渋谷は確かに日本最大の消費都市だが、そこには都市ならではの活気があり、渋谷にしかないお店も幾つもある。何より「ここが首都・東京だ」という自負が街にも人にも存在している。

 だが須磨ニュータウンのような場所は違う。駅前にあるファーストフードなどは全国どこにでもあるものであり、それに何らかの誇りや新鮮さを感じることは困難だろう。ニュータウンでは「自分らしさ」を発揮すると思われている消費行為すら均質化されているのだ。だから、車で言えば外車に乗ることはゲームオーバーになる。

 三浦は“郊外では、人生が思い通りにならないとき、それが「失敗」だと感じられる。郊外は、明るい理想の家族が住む場として設計されているからだ。ホワイトカラーの夫と専業主婦と勉強熱心な子供が住む場として設計されているからだ。失業した夫とフルタイムで働く妻と勉強嫌いの子供の街としては設計されていないのだ。”と述べている23)。

もし少年に、勉強や消費とは別に思春期に誰もが持つ「自分とは何か」「世界とは何か」という疑問や不安が生まれても、郊外では共有出来る場など初めから無かったのではないだろうか。だから彼は“透明な存在”“国籍がない”などとひたすら内に向かっていくか、一気に飛躍して中学校の校門前に死体を遺棄するような行為で疑問や不安を解決するかしか選択肢が無くなったのではないだろうか。

 宮台真司は、学校や塾や家庭といった機能的空間以外の空間を“ダークサイド”“屋上的な無意味な空間”と表現し、それが郊外には決定的に欠けていると指摘している。それは筆者が言い換えるなら、自己と他者でコミュニケーションを重ねながら相互承認が出来る「公共空間」と呼びたい。昔の地域社会をもっと風通し良くしたものと言っても良い。それは言うまでもなく団塊世代がかつての学生運動に求め、その後の「ニュー・ファミリー」や「ニュータウン」に求め、結果的に消費社会に飲み込まれてしまったものでもあるのだ。


「キレる少年」と日本の総郊外化

 

神戸の少年事件は動機の不透明な少年犯罪というイメージを決定づけ、翌98年に栃木県黒磯市で中学一年生が学校に持ってきたバタフライナイフで女教師を殺害した事件により、「いきなり激高して人を傷つける」=「キレる少年」という呼び方が定着した。そして2000年5月には神戸の少年と同い年の高校3年生が立て続けに殺人事件を起こし、97年の「14歳」と同様に「17歳」が話題になる。愛知県の豊川市で老女を殺害した少年は動機について「人を殺す経験をしてみたかった」と言い、彼に「先を越された」と思った佐賀県の少年はバスジャックをして「東京へ向かえ」といい、主婦を殺害した。そうした不透明な動機に社会は衝撃を受けたのだった。

 だが三浦展の『ファスト風土化する日本』によれば、それらの事件も神戸の事件と同様に「郊外社会」、あるいはそれに近づいている田園地帯で起きた出来事だった。言われてみれば近年の少年犯罪は、東京や大阪といった大都市ではなくみな北関東や中国地方といった地方で起きている。三浦によれば、1985年の少年犯罪件数は東京が最多だったが、2002年には香川県、山口県、鳥取県、高知県、宮城県、福島県といった地方が東京を追い抜いている24)。

 それは、東京の多摩や大阪の千里から始まった郊外ニュータウン社会が、神戸の須磨のみならず今や全国へ広がっているからだという。バブル経済時代の「国土の近衡ある発達」計画や、バブル崩壊後の景気対策型公共事業により、地方がどこも似たような風景になった。その変化を三浦は“新幹線や道路の整備は交通量の増加を生む。それは産業を誘発し、経済を伸ばす。同時に、社会の貨幣経済化・消費社会化を進め、生活を一変させた。日本中の田圃の真ん中を走る新幹線や幹線道路沿いには、大企業の工場、流通拠点などが立地するようになり、巨大ショッピングセンターができ、ディスカウント店ができた。そしてパチンコ屋ができ、カラオケボックスができ、テレホンクラブができ、サラ金ができ、ラブホテルもできた。その光景は東京郊外と何も変わらない。いや、東京以上に徹底的に郊外的だ。”とまとめている25)。

 しかしそれが青少年に与える影響はまだ社会的に自覚されていないため、少年犯罪は“キレる”といった突発的な印象の言葉で表現されてしまう。しかし青少年文化を追う社会学者の中西新太郎は、少年犯罪の形容詞が「キレる」という言葉になったのは大人世代が“「キレる」状況にいたるまでの前史が分かっていない”からだという。“現代の青少年が何をどのように「こらえて」いるのか、その「がまん」のかたちについて大人があらかじめ知っているわけではない。それを自覚せずに、「いきなりキレる」若者という像を描くのは大きなまちがいだろう”と中西は指摘している26)。

 それに加えて、中西によれば“キレる若者という像にはカウンターパートに当たるもう一つの像が存在する”という。それは“嬉しいのか悲しいのか、何を考えているのかさっぱりわからない若者”という像だ。“「キレる」という印象が成り立つためには、キレる前段階が、感情の波立ちを感じさせない、のっぺりと「平静な」状態に映っていなければならない”からだという27)。つまり大人世代は、少年少女の「キレる」という特徴とそれを成り立たせる平静状態の両方を異端視しているのだ。

思えば、「何を考えているのか分からない若者」という視線は80年代の職場などで「新人類」に向けられたものだった。しかしその視線が90年代後半には10代の少年少女へ降りてきたのである。20代の「新人類」には年齢に応じた社会経験があったが、経験の少ない10代の少年少女にあったのは地域環境と消費文化環境だけだろう。従って「キレる」に至る前の段階や「何を考えているのか分からない」ように見える理由を知るには彼らが生きていた環境の実体を知る必要があるのだ。


二人の「17歳」の犯罪と郊外社会

愛知県豊川市で老女を殺害した少年は名古屋から少し離れた田園地帯に住んでいた。少年はとても規則正しい生活を送っていたが、人間の生死に対する興味も沸いてきたという。しかしその供述を聞いていると、純粋な愉快犯的な殺人とはくくれない面が見える。それは「自己実現のための殺人」である。少年は全く面識の無かった老女を殺害した理由について“自分の求めるもののために、人を殺すとはどういうことか知ることが必要だった。”“自分は物事を理解したり知識を得るために、人の話を聞いたり本を読んだりしただけではだめで、経験してみなければ知識にはならないと思っていた。殺害という行為が自分にとって必要だった”と述べていたという。つまり彼は自分が成長していく中で沸いてきた疑問を自分で解決しなければ前へ進めないと思い、そのために殺人を犯したのではないだろうか。

また愛知の事件から2日後に佐賀県で起きたバスジャック事件では、17歳の少年が動機について“派手なことをして、社会に自分をアピールしたかった”という趣旨のことを述べている。それは高慢な物言いに見えるが、実際の少年は中学時代にいじめを受けて不登校になっていた。そのいじめの中で起きた事故で入院した結果、第一志望の県内最難関の高校に合格できず、実際に入学した高校をわずか九日間で中退した。

 少年法の壁の中で漏れ伝わる情報のみで判断する事には慎重になるべきだが、少年がジャックしたバスの中で乗客に向かって「これが僕の宝物なんだ」といいながら高速道路の領収書を見せたことは間違いないようだ。それは少年が父親と共に車で中国地方や近畿地方へドライブした時のものだった。家に閉じこもりがちだった少年にとって、遠く離れた地方へ行ったことが最高の思い出だったのではないだろうか。実際、少年がジャックしたバスを走らせたコースは父親とのドライブコースと同じだった。そして少年はその終着点に「東京の霞ヶ関」を指名した。

 少年が「自宅」へ閉じこもりがちになったことを、「佐賀」という地域に置き換えるとどうなるだろうか。現地を取材した三浦展は、佐賀から福岡へは高速バスを使って格安で行けるようになっているため、“かくして佐賀の現状は、まるで精気を吸い尽くされて骨と皮だけになったような状態である”と指摘している28)。

 

 “受験の失敗がバスジャックに関係したかどうかは知らない。そんなことはどうでもよい。それより問題は、もしそれなりに優秀な少年が、この停滞した佐賀という土地で生きていたら、何をどう感じただろうかということだ。自分の能力と佐賀の現実を対比して、自分の将来を悲観したとしてもおかしくはない。こんなところにいちゃだめだと思っても、当然だろうと私は思った。

 何もない。何の刺激もない。驚きもない。ただ福岡に吸い尽くされているだけの街。その先には当然東京がある。少年は、ひたすら中心によって吸い尽くされる佐賀ではなく、その中心にこそ自分がいるべきだと思うだろう。だから彼がバスジャックをして、霞ヶ関へ行けと言った気持ちは、実際佐賀の地に立ってみるとごく素直に共感できる。“

 ではなぜ佐賀は福岡に近いというだけで「吸い尽くされて」しまうのか。それはショッピングセンターやアミューズメントパークといった消費社会の豊かさが全て福岡にあるからだ。そのため人びとは休日に福岡へ買い物や遊びに行くからだ。それは大人でも子どもでも同様だろう。東京にあるモノが愛知や福岡といった準大都市に作られ、それを求めて周囲から人が集まり、自分の地元にもそのようなモノを欲しがる。それが三浦の言う「ファスト風土化」である。「東京的な消費社会」を招き寄せた場所が元から何もない場所であるほど、あるいは伝統的な地域社会を破壊した場所であるほど、そこは消費のための地域に純化されていくのではないだろうか。前節で90年代半ばに数々のメガヒット曲が生まれたことに触れたが、それは恐らく日本中でディスカウントショップタワーレコードが作られていく郊外化の時期と重なったからだと思われる。そして今では富山県や山形県といった地方が東京都の家計支出を追い抜いている。


郊外消費社会と「自己実現欲求」は両立しない

 愛知県豊川市と佐賀県の少年に共通していたのは、近代以前の「通過儀礼」に当たるような自己の成長と社会から社会からの承認を求める気持ちではないだろうか。しかしそれを実感するのは消費社会と郊外社会の中では困難なこともこれまで見てきた中で明らかになったのではないだろうか。他者との差異を認め合い話し合いながら共存できる公共空間ではないからだ。

 だから少年たちにとっての公共空間は漫画やゲームやインターネットといったサブカルチャーとメディアだった。愛知県の少年は“死へのイメージは、本やテレビ、他人との会話やゲームで膨らませていった”と答えている。また佐賀県の少年は犯行予告をインターネットの掲示板に書き込んだように、引きこもりの最中にインターネットに夢中になっていた。栃木県で女教師をバタフライナイフで刺した少年もテレビドラマからの影響を語っているし、神戸の少年は様々なサブカルチャーからの引用で犯行声明文を構成していた。

 だが皮肉なのは、少年達が揺れ動く自己を仮託したサブカルチャーやメディアですらも消費社会化と情報化が生み出したものであることだ。事件の責任をビデオやインターネットといったニューメディアのみに帰結させることは、いつの時代でも表れる技術発達への過剰反応にすぎないので、そのつもりはない。だがもし佐賀のような何もない場所や、何もかも画一的な風景に囲まれた郊外ニュータウンや、田園地帯にいきなり道路と大型ディスカウントショップが出来るような場所で、サブカルチャーやメディアに一人で浸っていたらどうなるだろうか? 一人で悶々と思いつめるしかなくなるだろう。それ故これまでなら感情表現が豊かだと思われていた「若い10代」が、その若さゆえに周囲から「何を考えているのか分からない」と見えるようになっていってしまう。

ニューメディアが悪いのではなく、それを異質な他者と現実の中で公共空間を作るためのツールにできないことが問題なのだ。与えられたモノを消費者として使うだけなので、自ら能動的に使いこなすことができないことが問題なのだ。そう、消費社会とそれに主導される情報化社会は、「個人」と「公共」を結びつけるよりもむしろ一人ひとりを消費者として分解させるのである。それが最も純化されたのが郊外ニュータウン社会であり、そこには「ニュー・ファミリー」から始まった戦後社会の失敗が積み重なっている。その失敗とはこれまで何でも述べてきたように、前の時代からの「解放策」を消費社会の枠組みの中でやり続けてしまったことだ。一連の少年犯罪は、失敗が積み重なった環境と自己実現を求める少年たちとの軋轢の結果生まれたのではないだろうか。


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第十一章 止まらない消費文化の低年齢化


10代前半に降りていく消費文化

前節で紹介した「ファスト風土化」が日本中の地域へ広がっているのは、今の日本のような高度資本主義経済はどこまでも消費対象を求め続けるからだ。そのため現代の消費文化もより低年齢化されてきている。その新たな主役は小学校5〜6年生から中学生にまで下がっており、特に女子にその傾向が顕著だ。それは簡単に言えば、90年代前半に女子高生が享受してい音楽やファッションや性の情報を10代前半の少女が享受するようになったということだ。その大きな切っ掛けを作ったのは、恐らく安室奈美恵や女子高生ブームの絶頂期だった96年にデビューしたミュージシャンの『SPEED』である。彼女たちはデビュー当時小学校6年生〜中学3年生だった4人組であり、同年代の少女たちのまさにカリスマと化していったが、その歌詞はまるで女子高生が築いた世界をより低年齢へ移植したようなものだった。

『Go! Go! Heaven』という曲の“成熟した果実のように あふれ出してく 欲望に正直なだけ 満たされてたい!”という歌詞は、安室奈美恵の“A to Z だけじゃ足りなそうだから 身体で話そう”という部分に、“矛盾だらけの世の中じゃ 良いも悪いも興味がないよね”という歌詞は安室の“もう なんだってアリみたいな時代だから モタモタしてちゃ損だから ”という部分にそれぞれそっくりだ。

 このような背伸びしてせっぱ詰まった歌詞が、激しいダンスビートに乗せて歌われていた。恐らくここから女子高生の直面していた現実がより下の世代へ移っていったのだ。それはより低年齢が「市場化」されていったと言うこともできるだろう。 

現在の渋谷109にはよく見れば小学校高学年の少女も出入りしているし、中学生は普通に見かける。『ピチレモン』や『エルティーン』といった10代前半の少女向けの雑誌も、90年代後半にファッション情報やリアルな恋愛・生活情報を増やしていくことで急速に売り上げを伸ばした。そう、80年代末に女子高生向けの雑誌が行った転換と同じだった。現在の両誌は洋服から細かいアクセサリーまで様々な商品の情報に満たされている。ちなみに『ピチレモン』05年1月号の最初の見開き広告は渋谷109のクリスマスフェアである。

80年代には20代の女子大生やOLがボディコンスタイルをし、90年代には女子高生がミニスカートにロングブーツを着こなしていた。それらは全て欧米のセレブリティ女性をモデルにしているが、今や小学校高学年や中学生の華奢な子どもたちが同じセレブをモデルにして着こなしているのだ。ルイ・ヴィトンやエルメスといった高級ブランドも同様であり、地方の郊外のディスカウントショップではそれらを買う子どもたちが実際に存在している。

中西新太郎は10代前半の消費文化の形成を“女子の場合、小学校五、六年生のときから消費文化の世界にデビューするわけです。親とか教師のほうから見ると、まず親や教師が勧めたい本、児童文学の良書と言われるものなどを読まなくなる。少女小説を読むようになる。夕飯を食べた後、すぐ自室に引っ込んでヘッドホンで聴いている音楽もスピード等々、大人たちが知らない音楽になってゆく”とまとめている28)。

そして携帯電話が爆発的に普及して中学生でも持つことが当たり前になった。携帯電話の通話料金の高さが90年代後半にCDの売り上げを落としていった原因だとよく言われており、今では中高生に最も人気のあるバンド『オレンジレンジ』の曲が携帯電話の販促CMに使われている。今や地方の郊外に住む少年少女にとって携帯電話は欠かせないコミュニケーション・ツールになっているだろう。高校生の8割が携帯電話を所有している国は日本だけである。


消費社会と連動する性の低年齢化

さらに96年頃から援助交際の中心が高校生から中学生へ移ってきたと言われている。そのため96年の後半には中学生を表す「マゴギャル」という言葉が登場した。黒沼克史が96年に取材した女子高生も、新宿のナイトクラブを95年と比較して“当時は二十代の人たちもいたんですけど、今はほとんど中学生とか高一とかの年下のコギャルばっかりでムカつくというか、ウチらはそのクラブに行っても面白くなくなっちゃった。だったら地元で友だちと呑みながら話してる方が楽しいですよ。時代が変わって、今は中学生がシャネルとか携帯とか持ってる時代ですからね”と答えている29)。

援助交際の取材を重ねてきた井田真木子も同様の認識を持っている。日本の状況を96年の時点で“まず自分たちは売春などやっていないと思っていながら、実は売春をやっている子供の年齢が加速をつけるようにさがってきていること。最初は十七歳あたりが主流でしたが、おそらく今の主流は十四歳あたりでしょう。次に、売春をやる子供の層が中流の下、とくに八0年代の好景気でせりあがって中流の仲間入りをした層になっていること。”などと分析している30)。これらもやはり、消費社会のターゲットがより低年齢になってきたことが影響しているのではないだろうか。

ファッションや性の舞台における中学生の台頭は、高校生の意識にも影響しているようだ。ノンフィクションライターの高崎真規子は、女子高生たちに「自分はもう若くはない」という意識が見られるとして、その理由に中学生の台頭を挙げている。高崎がインタビューした女子高生は“「最近の中学生はすごいですよ。ウチの代は中学で付き合うなんてあまりなくて、付き合おうもんなら、あいつらこうなんだって、すぐに広まっちゃうような感じだった。でも、今は、中学生が男と付き合うのは、当然みたいなんですよね。”と答えている。“「でも、中学生恐いね」”“「でも、彼氏に中学生と二股かけられたりしたら、嫌だよね」”“「そうだよ、やっぱ若い方がいいのかなって思っちゃう」”“「思っちゃうよね、最近中学生がライバルか、ばかにしてらんねーな、って」”というように、より低年齢の存在が自分と対等な世界へ参入してくることが、10代後半にして「自分は若くない」という意識を生み出している31」。彼女たちは言う。“「いや、私の中では十八、十九、二0はいっしょ。十七歳までだよ」「じゃあ、三十路とかどうなるのかな。あーやばいね。死ぬのかなそんとき(笑)」31」”

注意すべきなのは、こうした少女たちが決して昔の「不良少女」のような逸脱者ではないことだ。援助交際女子高生にもいわゆる普通の優等生がかなりいたが、それは年齢が下がっても同じ事だ。つまりそれだけファッションと性が少女たちに内面化されてきていると思われる。それは本人が外部からの影響だと感じないほど消費社会の宣伝手法が洗練されてきていると言うこともできるだろう。


小学6年生と中学一年生による殺人

こうして性とファッションが女子高生にすら「自分より低年齢化している」と思われている中で、果たして中学一年生と小学六年生による殺人事件が連続して起こった。共に長崎県で、前者は2003年に長崎市の中学一年男子が幼児を殺害し、後者は2004年に小学6年生女児が同級生を刺殺した。三浦展によれば長崎県では典型的な「ファスト風土化」が進行しており、犯罪件数は95年から2000年にかけて約四割増加している。

佐世保事件の加害女児は佐世保の中心地から少し離れた山の上で暮らしており、そこは一時間に一本しかバスが来ないような場所だった。女児の親は大型スーパーのジャスコ(これも典型的な郊外型商店である)で働いており、少女はゴールデンウイーク中どこにも行くことが出来ず、自分で作ったインターネットホームページに“暇、暇、暇、超暇……”と書いていた。

そして同級生を殺害したきっかけもインターネットでのやり取りですれ違いが生じたからだった。ここでも17歳の少年犯罪と同じく何もない場所でインターネットだけが頼りになっている姿が浮かび上がる。そのすれ違いも少女たちの人間関係や容姿に関する評価にあり、加害少女は自らのホームページに“30キロ代にやせるどー!!”と書いていた。ここにも容姿を過剰に気にする消費文化の低年齢化が表れているのではないだろうか。筆者が小学生だった1990年代前半にすら、ダイエットをする女子はいなかったと記憶している。ちなみに雑誌『ピチレモン』にはダイエットの記事が載っており、そもそもモデルが着ている洋服は痩せていなければ似合わないように見せられているのだ。


消費社会での「成長」と社会経済的な「無力化」

消費文化が果てしなく低年齢化していく中で、高校生には早い時期の結婚願望が顕在化しているようだ。それは高崎によれば“結婚だけが人生じゃないことは、十分承知している。が、多くの女の子たちが、そこに収まらなければ社会の構成員として成り立たないような気持ちに襲われている”からだ32) 。そこには様々な理由があるが、中西新太郎は90年代以降に顕著になった消費社会の強化・低年齢化と若年層の経済的自立の困難さという二点を挙げ、「社会的縁辺化」と名付けている。経済的自立が急速に困難になっていることに詳しく触れることは主題から外れるが、これも非常に大きな問題であり、『SPEED』が大ヒットし消費文化が小中学生に降りてきた1997年に高校生の就職難が過去最悪を更新した。そして大学生の就職難も泥沼化していく33) 。

“……現在の、特に女子高生を中心とする高校生たちにかんする調査をみていきますと、高校の時が人生で一番楽しい時期で、今遊ばなければ、今自分を実現できなければもう先がない、という意識が非常によく表れています。……高校を卒業したその先のステップが、大学進学は別として、見えない。学校から社会への架け橋がもはや思春期の少年少女たちにとっては見えがたいものになっているのです。……ところがそれにもかかわらず、これは、八0年代までの日本社会と九0年代の変化をつないでいるメカニズムなのですが、日本型消費社会の中で徹底して繰り広げられてきた私秘化privatization、商品化は、九0年代の変化によって制約されるのではなくて、むしろ逆に正当化され、ますます強化されることになるのですね。”

 現在の産業社会においては若年層は社会的・経済的な自立の道を閉ざされてきているが、消費社会では無邪気に最先端で遊び続けることを要求されてきているのだ。そう考えれば、不況にも関わらず女子の様々なファッションアイテムや男子のテレビゲーム・漫画が売れ続けていることも理解出来るのではないだろうか。

しかし、その先に道がないことも多くの少年少女に薄々自覚されてきているだろう。いくら消費の能力に優れていても企業社会はそれを採用の判断基準にはしないからだ。90年代末〜2000年代にかけて10代の少女に最も人気のあった浜崎あゆみは、このような先行きの見えなさと自分の存在感の希薄さを掛け合わせて“ねえほんとは 永遠なんてないこと 私はいつから気づいていたんだろう”(『LOVE ―Destiny―』)、“もう戻れないよ どんなに懐かしくなっても あの頃確かに楽しかったけど それは今じゃない”(『End roll』)、“繰り返してく毎日に少し 物足りなさを感じながら 不自然な時代のせいだよと 先回りして歩いていた”(『SEASONS』)、“君を咲き誇ろう 美しく花開いた その後はただ静かに散って行くから…”と歌っていた。

しかしそんな自分に残された手段は、友人などと「共同で何かをする」ことではなく、たった一人の恋人の存在であり、消費だった。だがそれすらも“ムダなもの溢れてしまったもの役立たないものも 迷わずに選ぶよ そう私が私であるためにね”(『Trauma』)などと自分が消費に依存していることを自覚しており、それでもやめられないと歌っているのだ。ここに、消費に依存していた90年代半ばの女子高生と共通点を見いだせるのではないだろうか。このような歌を日本の少女は10代前半から聞いていたのである。

早い子は小学校高学年から消費社会の中での「自己実現」が要求され、「自己実現」を求める心性を植え付けられる。しかしそれをこれまでの成長コースであった企業社会や、昔の学生運動のような公共的な関係の中で果たそうとすると、自分や他人を傷つけることになりかねない。だから消費社会で早い内から主役になるしかない――。それが現代の多くの少年少女が置かれた「個人」と「社会」の関係である。

それでいて少年犯罪が低年齢化してきたことを嘆くのならば、援助交際女子高生がバッシングされた時と同じ「消費社会のマッチポンプ」ではないだろうか。さらに遡れば「おたく」やオウム真理教がバッシングされた時とも同じである。この状況を変えることができなければ、今度はさらに低年齢の――10歳や、さらにはそれ以下の重大犯罪が――起きる可能性も否定出来ない。

第十二章、終章 http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20071227 に続く

2007-12-27 2004年の大学卒業論文第三部・最終部「戦後日本とは何か? 若者たち

[]2004年の大学卒業論文「戦後日本とは何か? 若者たちと社会運動/消費社会、第三部・第四部

第三部の第十一章まで http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20071228/1256711643 からの続きです。これでラストです。

序章・第一部は http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20091230

第二部は  http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20071229

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第十二章 若者文化から「つながりのためのつながり」へ――2000年代の若者たち


細分化する若者文化

第二部で、1980年代の若者たちが音楽やファッションやアニメといった若者サブカルチャーで人間関係を作っていったという話をした。ここではその後の若者の人間関係がどうなったのか追っていきたい。

それは結論から言えば、サブカルチャーの共有よりも『携帯電話』が重要になった。若者カルチャーは非常に種類が細かく分かれていき、人間関係もそれに合わせて細分化した。その中では、携帯電話で身近な友人といつでも連絡を取り合い、「私はあなたのことを気にしているよ」と伝えること自体を目的にするようになっていく。

 『なんとなく、クリスタル』に見られた80年代の若者たちは、自分が選び取ったサブカルチャーの趣味を共有できる相手と人間関係を作っていった。そのため80年代には、「根暗(ネクラ)/根明(ネアカ)」「新人類/おたく」「マルキン(金持ち)/マルビ(貧乏)」といったように若者たちを分類する事が流行していた。

 確かに60年代末の学生運動のように「同じ若者だ」と思いながらみんなで連帯できるような状況ではなかったが、若者たちのグループの種類はまだ全て見渡すことができるほど少なかった。同世代で誰が「○○系」で誰が「○○タイプ」の人なのかを判断することができたため、“それってありがちだよね”という見方がこの時期流行していた。

 また、第八章で見た「おたく」が求めていた「大きな物語」、すなわち政治運動はもう社会の主流から消えていたが、まだそれに替わるような「カルチャーの物語」が存在した。「サーファー」のブームも「ディスコ」のブームもそうだったし、「新人類」という呼び名自体が新しい人間のあり方や文化を体現していた。またおたくにとっての「ヤマト」や「ガンダム」の設定は壮大な宇宙的物語だった。

 だがそれと90年代以降の若者たちのコミュニケーションは同じではなかった。若者たちのカルチャーがさらに細分化していくからである。

若者文化の細分化から人間関係の細分化へ

第九章で、89年の「渋カジ」ブームによりトレンドアイテムの低年齢化が進んだことと、アメリカンキャラクターグッズが流行したことを述べたが、それは少年少女のファッションスタイルやアイテムが細かく分かれていくことであった。90年代になるとアニエス・べーを着たフレンチ系、後のコギャルスタイルになるLA(ロサンゼルス)系、ニルヴァーナに影響された古着/グランジ系、サーフ/スケボー系などと10代の様々なファッションスタイルが作られた。

 同時にアイテム自体が細かくなっていく。93年に女子高生の間で「ワンポイントアクセサリー」が流行し、制服姿の両腕にキャラクター時計、サッカーのミサンガ、ビーズのブレスレット。バッグにはミッキーマウスのキーホルダーやキティちゃんのステッカー、髪には様々なカラーゴムなどと広がっていく。流行の移り変わりも早く、例えばバッグなら92年はトートバッグをより大きくしたような『エスプリバッグ』や薄いナイロン製のカラフルな『レスポートサック』のショルダーバッグが、93年前半はビニールやナイロン製のジッパー付きスクールバッグが、93年後半は『バハマパーティー』や『ムラサキスポーツ』で買い物をした時にもらえるショップバッグが流行した。渋谷の『ナイスクラップ』は洋服に年間1000種類ものデザインバリエーションを開発していた。

 少年少女のファッションスタイルが数多くに分裂すること。細かいアクセサリーが大切になりその種類も増えていくこと。流行も早くなること。これらは何十色ものカラーペンが人気を博しのと同様に、この時代の少年少女を「多品種少量生産」型の企業戦略が覆っていったことを表しているのではないだろうか。

 またファッションスタイルが音楽のジャンルと密接な関係にあることはよく知られているだろう。私たちは「ロック」と聞けば昔ながらの革ジャンなどを思い出すし、「ヒップホップ」と聞けばルーズで不良っぽい服の着こなしを思い出す。すなわちファッションスタイルが細分化したことにより、若者たちが聞く音楽も非常に細分化していった。80年代初頭の音楽は人間関係と同じようにいくつかのジャンルで分けられたが、80年代末から始まったクラブブームはその後ありとあらゆるスタイルを生み出した。クラブでDJをする時はいつの時代のどんなジャンルのレコードも対等に扱うため、これまでなかったような小さなジャンルを作ることもできるからだ。そのためクラブブーム当初のハウスやヒップホップは、90年代になるとトリップホップ、ダンスクラシック、アシッドジャズ、ハードハウス、ディープハウス、トランス、アンビエント、テクノ、ドラムンベースビッグビートポストロックと数え切れないほど細分化していった。

 それは、音楽を聴く若者たちのあり方をも変えた。80年代末のクラブ創世記に自らDJをしていた音楽評論家の小野島大は、当時の状況を“さまざまなジャンルがゴッタ煮的に入り混じり、奇妙な熱気を帯びていたのである。現在のようにクラブがジャンル毎に細分化することなく、なんでもありという状況だったし、異ジャンルがクロスオーヴァーすることで、新しい動きが生まれてきていた。”と評している1)。つまり同じクラブの中で異なるジャンルの音楽が掛けられたため、そこには様々なタイプの若者たちが集まっていた。    だが小野島が言うように、90年代以降は音楽ジャンルだけでなくクラブ自体も“ジャンル毎に細分化”した。特定の日に特定ジャンルの音楽が掛けられる棲み分けが進むことで、クラブにはそのジャンルが好きな若者しか集まらなくなっていくのである。

 同じようなファッションや音楽の趣味を持っていれば、同じような「ノリ」を共有できて居心地が良くなる。ファッションも音楽も細分化したことで、若者たちの友人グループも細かく分かれていった。趣味の共有で友人になるなら80年代と変わらないが、90年代の変化はそれまでと比較できないほどジャンルが細かくなり、従って「ネクラ/ネアカ」などと優劣が付けられなくなったことにある。あらゆる若者グループが平等に並び、「彼は○○系、彼は……」などと若者の全体を見渡すことも不可能になった。思えば80年代にはまだ『朝日ジャーナル』で「若者たちの神々」という表現が流通していたが、今や「若者たちの神々は誰か?」と聞かれても「人それぞれ」としか答えようがなくなっている。


携帯電話インターネットがによる細かい人間関係の維持

 人間関係の細分化はあらゆる領域に及び、コミュニケーションの質自体を変えていった。90年代初頭、宮台真司は “……若者のコミュニケーションは現在、各種の等価な「島宇宙」によって分断され尽くしている。学校の教室の中も、かつては教室単位の一体感があったり、女の子でいえばキーパーソンを中心に二大勢力にわかれて対立したりしていたのが、現在では二〜四人ぐらいの小グループに分断されていて、それぞれが教室をこえたつながりを、街のなかで(クラブやパーティー)、あるいはメディアを通じて(電話風俗や投稿雑誌や電子メディア)もつようになっている。”と分析している2)。

 教室のような物理的な制約を離れた関係作りを始めたことに、若者たちの友人とのコミュニケーションを読み解くカギがある。そこで参考になるのが、物理的な制約を超えるのに最適な携帯電話の普及だ。携帯電話が今やコミュニケーションに欠かせないツールと化しているのは誰もが認める所だろう。

 携帯電話は95年秋の時点でまだ十人に一人しか持っていなかったが、料金値下げで爆発的に普及率を伸ばし、二年後の97年末には二人に一人が入手した。そして現在の普及率は95%を越えている。この爆発的な普及時期は当初から20代や10代を若年層をターゲットにしており、女子高生はポケベルからPHSへ、携帯電話へとすぐに乗り換えていった。そして98年から携帯電話でEメールが可能になったことにより、若者のコミュニケーションのあらゆる場面で用いられるようになった。今では高校生の8割が携帯電話を持っており、携帯電話のCMが各社とも若者を最大のターゲットにしていることは一目瞭然だろう。日本は世界で最も10代や20代と携帯電話の結びつきが強い国である。

 携帯電話を頻繁に使用していると、電話やメールを逐一チェックする癖がつき、相手に連絡したときも反応や応答が気になっていく。親友に電話してすぐに出てくれれば嬉しいし、Eメールにどんな絵文字の細工が施されているかといったことで相手の自分に対する思いを確認する。逆に、電話に相手が出なければ「今忙しいのかな?」から始まり果ては「私の電話は後でかけ直せばいいや」ぐらいに思われているのかな?などと色々想像するようになる。Eメールを送ってすぐに返信がこないと自分が軽く扱われているような気分になることもある。

 こうして携帯電話が友人との「つながり」を確認する重要なアイテムになることで、若い世代は特に用がなくても電話やEメールで友人に何かを伝えるようになった。そこでは伝える「内容」や「意味」よりも、Eメールや電話をすること自体に意味がある。それを繰り返していく中で、いつしか「つながること」自体を目的にしたやり取り、即ちコミュニケーションのためのコミュニケーションが若者の人間関係を作り始めたのではないだろうか。

 80年代の若者たちはあくまで「若者文化」を共有することでつながっていた。ある音楽の意味や情報を相手と交換することに価値があると思っていた。だが80年代末の文化の細分化はまず若者グループ自体を細分化させ、続いて90年代後半の携帯電話は「文化」の重要性を低下させた。音楽やファッションはそれが持つ意味を共有するよりも、友人とつながるための「ネタ」でしかなくなっていく。文化の重要性は作者が込めた世界観を読み解くことではなく、自分と友人との間で盛り上がれるかどうかで恣意的に判断されていく。従って無数の誤解やパロディが生まれている。

 80年代の若者のコミュニケーションは、現実の社会から学生運動のような政治的意味が失われていったことの替わりに、作者が文化の意味を作り、受け手がそれを共有していた。その意味で一つの世界観に若者が従っており、「おたく」や「新人類」ごとに異なる世界観があるという状態だった。だが90年代以降の若者は「世界観」に従って動くのではなく、「つながっていること」を実感できることを重視するようになった。

「つながり」の自己目的化、外部への関心の持ちにくさ

第五章で、80年代半ばから『夕焼けニャンニャン』や『ホイチョイ』の漫画などで「ギョーカイ」の内幕暴露が始まったという社会学者の北田暁大の意見を紹介した。北田は若者が持つマスコミや文化への強い関心がそれを成り立たせていたと指摘している。そこではあくまで文化の情報を送る方が主役で、若者たちはそれに従って人間関係を作っていた。だが80年代から90年代は“≪秩序≫の社会性に対する≪繋がり≫の社会性の上昇”へと変化したと分析している3)。

(80年代の)“若者たちは、マスコミが提示する価値体系を十分に租借したうえで自らの記号的位置を演出していくこと、つまりマスコミが演出する≪秩序≫のなかで位置取りをすることを求められていた。……しかし、九0年代半ば以降、若者たちは大文字の他者が供給する価値体系へのコミットを弱め、自らと近い位置にいる友人との≪繋がり≫を重視するようになる。重要なのは、その≪繋がり≫が、「共通する趣味」「カタログ」のような第三項によって担保されるものではなく、携帯電話コンサマトリーな使用(用件を伝えるためではなく、「あなたにコミュニケーションしようとしている」ということを伝達するためになされる自足的なコミュニケーション)にみられるように、≪繋がり≫の継続自体を指向するものとなっているということだ。”

 

 北田によれば、マスコミと受け手がなれ合い始めたことで、受け手がマスコミの「裏側」を読むようになったコミュニケーションは、90年代に「つながり」を重視するようになった結果、今の『2ちゃんねる(2ch)』は「マスコミを裏読みすることが他人とつながるためのネタになっている」という。そして“2chを毛嫌いする若者は少なくないが、彼らもまた2chと同型の社会性を生きているかもしれないのだ。電車に居合わせたオヤジの風貌や教師の「寒い」ギャグをメールで友人に実況する若者は、世界を≪繋がり≫のためのネタにしている点において、テレビを肴にパソコンに向かう「2ちゃんねらー」たちと変わるところはない”というように4)、今の時代の若者たちに広く共通する特徴がそこにはある。

 これまでの「社会性」や「文化」は、異なる他者が意見を交わし合うことで成り立つと思われていた。だが90年代以降の携帯電話を使った若者コミュニケーションでは、「意見」を交換するよりも「つながり」の確認が重要になっている。またインターネットのブログで、「コメント」欄から議論に発展するよりも褒め合いかけなし合いのどちらかに留まることが多いのも、建設的な「意味」「意見」の交換を「つながりの重視」が上回っているからではないだろうか。

  

「萌え」――同様に変化するおたく文化

また批評家の東浩紀によれば、90年代以降の「おたく」文化にも同様の変化が起きている。80年代のおたく系文化が、現実の日本社会から失われた「大きな物語」を作品の中で求めていたことはすでに触れた。だが東によれば、90年代の若い「おたく」たちはそれを求めなくなったのだという5)。

“90年代のオタクたちは一般に、80年代に比べ、作品世界のデータそのものには固執するものの、それが伝えるメッセージや意味に対してきわめて無関心である。逆に90年代には、原作の物語とは無関係に、その断片であるイラストや設定だけが単独で消費され、その断片に向けて消費者が自分で勝手に感情移入を強めていく、という別のタイプの消費行動が台頭してきた。この新たな消費行動は、オタクたち自身によって「キャラ萌え」と呼ばれている。”

そして現実の替わりに「大きな物語」を作っていた80年代までのおたく文化と「キャラ萌え」との違いは、後者が効率よく感動できるためにあらかじめ用意された要素を組み合わせたものに過ぎない点だという。その要素が「萌え」と呼ばれている6)。

“……それでもこの種のゲームが、高い単価にもかかわらず一0万部以上を売り上げ、商業的に大きな成功を収めているのは、『デ・ジ・キャラット』の成功と同じく、物語の類型からデザインの細部にいたるまで、そこで萌えの基本がきっちりと押さえられているからである。……九0年代に現れた消費者にとっては、現実世界の模範よりも、サブカルチャーデータベースから抽出された萌え要素の方がはるかにリアルに感じられる。……したがって彼らが「深い」とか「泣ける」とか言うときにも、たいていの場合、それら萌え要素の組み合わせの妙が判断されているにすぎない。……そこで求められているのは、旧来の物語的な迫力ではなく、世界観もメッセージもない、ただ効率よく感情が動かされるための方程式である。”

 ただこれだけなら別に取り立てて問題にする必要はないかも知れない。世界に意味を求めなくてもそこそこ生きていけるのなら、それもまた幸福の一つだろう。だがその先には、消費者をコントロールする技術がどこまでも発達していくという問題があるのだ。

東によれば、“特定のキャラクターに「萌える」人々は関連商品を集中的に購入するので、制作者からすれば、作品そのものの質よりも、設定やイラストを通して萌えの欲望をいかに喚起するかが、企画の正否を直接に握ることになる。”という7)。

 この指摘を裏返せば、消費者を刺激できる「萌え」の要素を掴めれば大量の利益を上げることができるということになる。そこで消費者の若者を「萌え」させるために日々研究される方法とは、効率よく消費者を意のままにコントロールできる手段を洗練させることに他ならない。東も別の場所で、コントロールの洗練は本の中で書くには問題が大きすぎてあまり触れられなかったが、それこそが真の問題だと述べている8)。と言っている。そしてこうした構造の元祖は、東も言うように戦後の日本へ輸入されてきたマクドナルドのようなアメリカ型消費社会にあり、「萌え」の広がりはアメリカ型消費社会の論理が日本の若者たちを変えてきたことを意味している。

私たちのコミュニケーションの全てを「資本」と「資本主義的関係性」が覆う

  

 この時代には、「萌え」の要素をつかんだ大企業が、メディアミックスなどに利用しながら消費者を操作して金を使わせられるだけではない。裸一貫で始めた「個人」でも「萌え」のパターンをつかめれば大金が稼げることになる。その結果、個人として他者と対等な関係を作ろうとする志が、相手をモノのように刺激して反応を引き出そうとするだけの関係に成り下がるのではないだろうか。何らかの意味や世界観を共に作り上げるのではなく、経済原則に沿った「儲け」のパターンに相手を当てはめることを繰り返していくだけになるのではないだろうか。つまりに私たちのあらゆるコミュニケーションが、高度消費社会の「需要/供給」という関係性に組み込まれてしまうのだ。そして現在の日本政府がベンチャー企業の養成や文化制作者の養成に乗り出している新自由主義政策とは、この「萌えのパターン」と「儲ける法則」を作り続けられる人材を育てている側面が強いのではないだろうか。

携帯電話のように若者たちの意見交換が「つながるためのネタ」にすぎなければ、現実の社会と関わってそれを変えていけるような行動を起こすことは困難になる。若者文化から世界観すらなくなれば、意味のある思想や文化を他者と築いていくことが困難になる。そのため現在では年長世代が若者を「政治や社会への関心がない」「世界の出来事より自分の身の回りだけが気になるのか」「すぐに欲求を満たしたがり、我慢ができない」などと批判することが多い。

だがその分逆に「つながる」ための文化や商品が増加していくことになる。2004年に大ヒットした映画・小説の『世界の中心で、愛をさけぶ』と『いま、会いにゆきます』が、両方とも身近な恋人との深い「つながり」を神秘的に描いていることは偶然ではないだろう。あるいは綿谷りさの100万部を越えた小説『蹴りたい背中』が、自分の半径一メートル以内の極私的な世界を非常に細かく描いていることも偶然ではないだろう。

 

世界の中心で愛をさけぶ』も『いま、会いにゆきます』も『蹴りたい背中』も、広告代理店が「2004年の日本経済を活性化させたヒット商品だ」と分析している。これまで見てきたように、若者ファッションや音楽の細分化は80年代初頭の「多品種少量生産」計画が10代の少年少女の消費生活にも降りてきた結果であり、人間関係の細分化も視野の狭さもそれに伴って起こっている。また「自分の身の回りが大事」と思わせているのは、90年代後半以降の携帯電話が若者を最大のターゲットにしており、今や日本の産業を牽引するランナーになったからだろう。そして欲求をすぐに満たしたがる「おたく文化」は今や世界に通用する日本のコンテンツ産業に変化しており、それもやはり80年代のような物語性を失った純粋(かつ単純)なキャラクター産業としてのようだ。

こうして新自由主義経済の政策を進める日本政府と大企業が、それでも若者コミュニケーションの変容をバッシングするなら、それも援助交際や“キレる少年”の時と同じ「消費社会のマッチポンプ」なのだ。この矛盾に日本政府や企業が気づけなければ、日本の若者たちはこれまでの人類にとって経験したことのない困難な状況に陥ってしまうと筆者は考えている。それは社会的な自立の環境が全く整えられていない状態で消費とメディア漬けにされたら人間はどうなってしまうのかという、未知の領域である。


第3章

1) アクロス編集室編『ヘタウマ世代――長体ヘタウマ文字と90年代若者論』(PARCO出版、1994年)121頁

2) アクロス編集室編前掲書121頁

3) アクロス編集室編前掲書142―143頁

4) 宮台前掲書(二章)201頁

5) 宮台前掲書110頁

6) 宮台前掲書115頁

7) 黒沼克史『援助交際――女子中高生たちの危険な放課後』(文藝春秋、1996年)31 頁

8) 黒沼前掲書97、101頁

9) 黒沼前掲書129頁

10) 黒沼前掲書164頁

11) 井田真木子『ルポ十四歳――消える少女たち』(講談社文庫、2002年)272―273頁

12) 黒沼前掲書35頁

13) 黒沼前掲書35頁

14) アクロス編集室編前掲書79頁

15) アクロス編集室前掲書215頁

16) 宮台前掲書118頁

17) 井田前掲書188頁

18) 井田前掲書69頁

19) 三浦前掲書(二章)158―159頁

20) 宮台真司『透明な存在の不透明な悪意』(春秋社、1997年)47―48頁

21) 三浦前掲書177―179頁

22)  三浦前掲書185頁

23) 宮台前掲書53―55頁、57―59頁

24) 三浦展『ファスト風土化する日本』(洋泉社新書Y、2004年)21頁

25) 三浦前掲書25―26頁

26) 中西新太郎『若者たちに何が起こっているのか』(花伝社、2004年)265―266頁

27) 三浦前掲書43―46頁

28) 中西前掲書61頁

29) 黒沼前掲書124頁

30) 井田前掲書329頁

31) 高崎真規子『少女たちはなぜHを急ぐのか』(NHK生活人白書、2004年)37―39頁

32) 高崎前掲書105―106頁

33) 中西前掲書179―180頁

2) 宮台真司『制服少女たちの選択』(講談社、1994年)

3) 北田暁大『嘲笑う日本のナショナリズム〜「2ちゃんねる」に見るアイロニズムロマン主義』(『世界』03年11月号)124頁

4) 北田前掲論文125頁

5) 東前掲書(六章)58頁

6)東前掲書114―115頁

7) 東前掲書71頁

8) 『図書新聞』01年11月30日号


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最終部 「無限消費社会」を超えて――戦後批判の<愛国心>から「新しい社会運動」へ


第十三章 高度経済成長以降の日本社会の本質


「無限消費社会」と化した現代

 これまで見てきた中で明らかになったのは、1960年代以降の日本が若者を中心に総消費社会化していったことだろう。それが行き着く所まで来た1990年代後半に、小林よしのりや福田和也のような戦後批判と「愛国心」の提案が盛んになったことは、ある意味で当然の成り行きだったのかも知れない。

 だが出発点の疑問が自然でも、その後の批判や提案が的を外していることもこれまで見てきた中で明らかになったのではないだろうか。小林は現在の消費社会化は米国の敷いた民主化政策に日本人が洗脳されてしまったからだと指摘している。確かに、米国が日本を東アジアの工場として経済成長に専念させようとした事から全ては始まっている。だが戦後初期からそうだったのではなく、米国の政策が転換したのは1950年の朝鮮戦争前後であり、高度経済成長が始まったのは1956年からだった。それまでは米国も日本を民主化の実験国にする意識があったのであり、日本人も第二章の60年安保闘争で見たように自ら「公共性」を探ったり米国の変節を批判したりしていた。

ではなぜそれが高度消費社会に変化していったのか。小林や福田なら「日本人の意識が軟弱で自己中心的になったから」と言うだろう。確かにそうした面もあると言える。だが人間の意識はそれ自体が独立しているのではなく、自分が置かれた「環境」に常に左右されている。筆者が考察してきたのはその「環境」の変化がどのように人びとへ影響してきたのかということだったが、それは結局の所、1960年前後から「高度資本主義」と「企業中心主義」というシステムが回転し始め、何が起きても変わらないまま強化され続けていったからと言えるのではないだろうか。その中では、どんなに若い世代の新しい自己実現に見えることでも、結局は消費社会の枠組みの中に回収され、様々な問題や世代の断絶を後に残していった。

システムが発達し強化されていくことと、人びとが何を「幸福」だと思うかは、常に密接に結びついていた。工業化された第二次産業が中心になった高度成長期からは、安保闘争のように政治参加を通して「個人」と「公共」を結びつけることは「限界がある」「就職が失敗しかねない」と思われ始めた。そして働き続けて大型家電製品を手にすることが「幸福」だと思われた。だがそれはベトナム戦争で日本を軍事基地化した米国の意に沿った方向でしかなく、ベトナム特需にかなりの面を支えられていた。

第三次産業が中心になり始めた1970年代以降からは、第二次産業に従事して激しく労働することや大型製品を消費することは「時代遅れの画一化」だと思われ始めた。そして若い世代を中心にして細かいモノを買うことが「一人ひとりの新しいライフスタイルだ」と思われた。だがそれも、根本には「多品種少量生産」へ転換させる経済政策があった。

さらにバブル経済が崩壊して「経済のグローバル化」が合言葉になった1990年代からは、「終身雇用・年功序列制度」を反省する空気が大人世代に広まった。そしてコンピュータベンチャービジネスが推奨されたが、それも現在の政府とその上にある米国が推し進める政策から始まっている。また「金まみれの消費社会」への反省も徐々に広まり、自然回帰や自分の精神に注目が集まったが、それも旅行代理店や「癒し」ビジネスによって新しい消費に変えられている。その分「金まみれの消費社会」は若者に降りてきて、どこまでも低年齢化されてきている。

経済成長も消費社会化も、その時代に生きていた人びとが選択するときは「軟弱」とも「自己中心主義的」とも思わなかっただろう。いつだってそれは過去を振り切りより良い未来を作る選択肢だと思われていた。高度経済成長の初期に家庭へ入った専業主婦も、モーレツに働いた会社員もそうだった。学生運動から「ニュー・ファミリー」や「広告ブーム」 へ向かった団塊世代の多くもそうだった。新しい関係性を築くために「シラケ」から「クリスタル族」へ向かった人びともそうだった。自分たちは「新人類」だと思った人びともそうだった。消費で自己実現しようとした80年代の女性もそうだった。90年代以降に洗練されていく「おたく」もそうだった。ワンルームマンションに住む若者もそうだった。80年代末の「団塊ジュニア」もそうだった。90年代の女子中高生や彼女たちと同世代の筆者もそうだった。「キレる少年」たちの日常や住んでいる地域もそうだった。現代の小学校高学年から中学生もそうだろう。「団塊ジュニア」以降の10代を持ち上げた企業のマーケッターたちはそれが生み出す社会問題までは意識できなかっただろうが、持ち上げることに関しては文化振興のための確信犯だった。

ただ、私たち日本人は気づくことができなかったのだ。そのほとんど全てが資本主義システムを強化する方向でしか選択していなかったことに。自分たちの選択がいつでも政府・官僚やマスメディアと癒着した関係の中で進められていたことに。そして資本主義を強化し続ければ消費対象を探し続ける必要があるため、ターゲットはどこまでも低年齢化し(今のベビー服や胎内教育の活況を見よ)、若者のコミュニケーションを変容させ、様々な社会問題を生み出すことに。

すなわち高度経済成長以降の日本社会が現代に残した最大の問題は、どんなに自由で新しく見える試みをしてもそれが結局は高度消費社会のシステムに回収されてしまい、その事が自覚されないまままた次の世代が同じような試みを繰り返してしまう事にあるではないだろうか。それは米国が日本を東アジアの工場として経済成長に専念させ続けた結果、日本の政治家や官僚がその中で政策を進めていくことに慣れすぎてしまい、引いては日本の企業社会と私たちがその枠組みの中でしか物事を考えられなくなってしまったからだ。だがこれ以上同じことを続けて、10代の少年少女に“ムダなもの溢れてしまったもの役立たないものも 迷わずに選ぶよ”などと自嘲的に歌わせるような社会の先に、一体何が待っているというのか?

高度資本主義を存続させることを至上命題にしてきた結果、現代日本が何をやっても高度消費社会に回収されていく事態を、筆者はここで「無限消費社会」と呼んでみたい。では「無限消費社会」を少しでも良い方向に変えて行くにはどうすればいいのだろうか。


<愛国心>では「無限消費社会」は変わらない

小林や福田の戦後批判・消費社会批判が多くの支持を集めたのは、現代日本に誰も納得することができなくなったからだろう。だがその後の主張が的を外しているのは、問題を個人の意識にだけ求め、戦後の社会システムを切り離しているからだ。

 小林や福田が現代の消費社会を批判するのは、それが人びとの生活をバラバラにし規範意識を崩壊させる原因だと思っているからだ。小林は“何不自由ない豊かさの中で自分の個を支える共同体や歴史から切り離されて生きてきたせいで「ぼくはこのままでいいのだろうか?」「ぼくって何?」……と個をぐらつかせている若者がいて”といったモチーフを何度も持ち出している1)。福田和也も“日本人が、みんな小ぢんまりとして、のっぺりとしてしまい、ただなにがしというブランド製品を身にまとうということでしか「個性」を示しえない、ストレスとフラストレーションと神経症だけが人格であるような代物になってしまった”というような主張を繰り返している2)。

 彼らの社会への疑問自体は間違ってはいない。だがその解決策に戦前日本の「愛国心」という意識を持ち出してくることが間違っているのだ。彼らは個人の意識変化だけに原因を求めているから対案も「愛国心」という意識になってしまうのだが、現在の私たちが立っている社会経済システムの根本を捉えることができなければきっとまた失敗するだろう。

 小林や福田が批判する消費社会の個人主義には、コンビニエンスストアワンルームマンションや情報化が1980年代以降にあまりに急速に進展したことが影響している。小林が規範意識の消えた象徴と見なす援助交際女子高生は、消費社会の低年齢化が影響している。小林が“……自分を超越する何かにすがることが絶対にない人間とはお友達になりたくない……不気味なニヒリズムに精神が浸食されていそうである日突然発狂しそうで恐い”と見なして批判する少年犯罪の加害少年たちには、画一的な郊外ニュータウンの環境が影響していた3)。「個人」と「公共」を人びとが自らの意思で作り上げる手段や慣習作りを棚上げした状態で消費社会化と情報化を進めてきたツケが回ってきたのだ。

それらはみな人びとが自ら主体的に選択した社会変化というより、システムの流れに主導されて自己の願望が作られることに疑問を持たずにいた結果なのではないだろうか。つまり自ら主体的に情報やサブカルチャーを使いこなしたのではなく、気づいてみたら自分の周りに広がっていた。真の問題は消費社会化や情報化ではなく、それを選び取ることがいつでも経済政策のような他人の判断に基づいていることなのだ。

このように、日本は自らが立っているシステムを自覚出来ないまま社会を完成させてしまった。そのため現代が閉塞感に満ちているのであり、それを米国や“サヨク”や戦後日本人といった「過去」のせいにしてもまた同じ失敗を繰り返すのではないだろうか。

時代ごとに存在したメンタリティを理解する努力を省いたまま「誰もがイデオロギーに支配されていた学生運動」や「米国に洗脳された戦後日本」などとイメージし、そこに失敗や不満の原因を押しつけて、高度資本主義を前進させるためにいつでも手を変え品を変えてきたのが高度経済成長以降の日本社会だった。その現実と向き合わずに「愛国心」という特効薬を持ち出しても、結局は自己を確立することや他者と対等にコミュニケーションすることの代わりになるだけではないだろうか? つまり小林や福田が「資本主義社会の売れっ子論客」になっていくだけなのではないだろうか。彼らは結果的に自らが立っている足場をも隠蔽しているのである。そもそも戦前日本の「愛国心」は、誰もが同質な「世間」に所属していなければ自己の確立も他者との対等なコミュニケーションもできない日本人をまとめ上げるために必要とされた、人工的な超越性であった。

小林は言う。“ちゃんと個人を考えるなら「国」を考えるべきなのだ 公なき個ではヨーロッパの個人主義にすら近づけないのだから”と4)。福田は言う。“私たちは、この日本という場所で、さまざまな保護や支配の網の目にとらわれています。その網の目に異議を申し立てるにしろ、提案をするにしろ、日本というものの存在を見すえなければ、何もできません。”と5)。その通りだ。だが問われているのは、その「公」を「日本の風土や価値観」といった抽象的な概念で捉えるだけでなく、どうすれば社会経済システムとして可視化し、私たち一人ひとりがシステムの解体と再構築に関わっていけるかということではないだろうか。「個人」と「公共」を再び結びつけるためには、より多くの人がシステムを把握したり関わったりしてゆくことが求められているのだ。


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終わりに 未来に向けて――新たな社会運動がつくる公共性

2003年イラク反戦運動の可能性

 それでは最後に、「個人」と「公共」を結びつけて「無限消費社会」を越えていくための一つの手段として、自分も関わった2003年のイラク反戦運動が持つ可能性について考察したい。

それはもともと80年代以降にNPOやNGOといった「新しい社会運動」が世界で盛り上がってきたことが影響していた。その特徴は、「THINK GLOBAL,ACT LOCAL」という標語に表れた環境問題への関心や、紛争地へ民間人が直接支援に行くことや、政府への対案提示である。日本でも92年の「リオ地球サミット」をきっかけに若年層へ広がり始め、95年の阪神大震災では若者のボランティアが大勢参加したことが注目された。その流れが03年のイラク反戦運動へも反映され、環境問題に関心を持つ若年層と年長の社会運動家というという異なる世代がそこで結びついた。消費社会の移り変わりが早いため世代の断絶が強調されがちな日本で、これは画期的なことだったのではないだろうか。

03年のイラク反戦運動は、世界同時行動に呼応して行われていた。2月15日には全世界で合計1000万人が参加した大規模なもので、開催場所も世界で200以上の地域に及んでいた。日本でも東京のみならず全国で同じ日に情報交換しながら行われていた。

日本の反戦運動に参加した若者には、「イラク反戦」と共に「つながり」「ネットワーク」を求める意識が存在していた。“みなさんも一緒に歩きましょう”“ひとりひとりの力を大きな力に変えていきましょう!”“みんなで戦争を起こさない世界に変えていきましょう!”といった呼びかけからは、個人と個人の対等な連帯の追求が伺える。そして「従来の反戦運動だけでは戦争は止められない」という意識から、様々なNGOへ呼びかけていた。“「石油をめぐる戦争」を止めるために。再生可能エネルギー・環境問題に取り組んでいるみなさまへ”、“私たちのお金が戦争につぎ込まれないようにするために。<地域通貨・エコマネーや金融問題に取り組んでいるみなさまへ”、“これ以上の怒りと悲しみの連鎖を断ち切るために。人権問題・人道支援に取り組んでいるみなさまへ“といったものだ6)。

 そして実際に、様々なNGO、個人、若者から親子連れや年長者まで、会社員からフリーターまでが参加していた。そして80年代や90年代の若者のような選択した文化ごとにタコ壺化した関係ではなく、勉強好きな人、クラブ音楽が好きな人、昔の音楽が好きな人と様々な背景を持った人びとが共通の目的のために集まっていた。それは硬直した運動にありがちないつまでも拘束される関係ではなく、目的が終わればまたそれぞれの場へ戻っていく流動的な関係だった。

 そのため援助交際女子高生で問題にした「流動性」がここではいい意味で活かされていた。例えば東京の渋谷や新宿という最も流動性の高い都市を、逆にチラシ配りや街頭投票といったゲリラ的な神出鬼没の街頭アクションに活かしていた。そこでは戦争の問題や社会問題について様々な人と話をすることが出来ていた。

 また、本論で様々な面から問題にしてきた高度情報化社会も、ここではそれがもたらした新たなツールを人びとが「主体的」に使いこなせることを学べた。インターネットホームページマスメディアでは報道されない世界の出来事や日本のデモ情報を伝えた。これまでなら踏みつぶされていたような個人が企画した小さなイベントもインターネットで広めることができた。またスタッフがデモやイベントを組み立てる時はメーリングリストを活用し、同じ職場に属していなくても毎日毎日会議を開かなくても迅速に作業を進めることが出来た。デモをビデオカメラで撮影してすぐにインターネットで映像を流している人もいた。そもそも海外との連帯や情報交換はインターネットが可能にしていたのだ。04年4月のイラク人質事件でも、市民がインターネットや中東のアルジャジーラテレビを活用して人質拘束者に訴えたことが解放に影響していた。

 消費社会化によって生まれたツールも人びとが「主体的」に活用した。デモの先導車で古今東西の名曲をDJしながら巨大なサウンドスピーカーから流し、今ではそれを特化させたサウンドデモというものもある。デモを知らせるチラシ(「フライヤー」と言い換えていた)には漫画イラストを用いてグラフィックデザイン調にした。それを渋谷のような繁華街の洋服店やナイトクラブに置くことで、反戦に関心のある人間だけのタコ壺的な集まりにならないよう考慮していた。デモ出発前のイベントでもバンドに演奏させ、会場ではデモで持ち歩くプラカードや横断幕を参加者が自分で作れるようになっていた。

 そして、全共闘運動に見られたような「社会の外側」「豊かさの根本」への視点がもう一度浮上してきた。そもそもNGOの環境運動や人権活動では南北問題がかなり意識されており、そこに若者たちはコミットしていた。イラク戦争でも「石油のための戦争」や「日本が米国に付いていくのはグローバル経済の“勝ち組”になりたいから」といった認識はかなり共有されていたのではないだろうか。「南」側へのコミットメントも、旅行、NGO、フェアトレード商品の購入といった形で探られている。それらはみな、戦後日本の豊かさが「南」側の貧困に依存した状態で成り立ってきたことや今も成り立っていることへの自覚の萌芽ではないだろうか。それを消費社会が日本国内にもたらす問題と同時に変えていくこともできるだろう。

 つまり、消費社会と情報化社会がもたらした長所を活かしながら誰もが自分から主体的に「個人」と「公共」を結びつけていける可能性があるのだ。


未来の社会に向けて

 2001年の米国の9、11事件後の報復攻撃に反対して渋谷で行われた「ピースウォーク」を主催していた人びともまたNGO・NPOの経験者だったが、その呼びかけ人の一人である小林一朗は行動原理を以下のように語っている7)。

 “「自らの素朴な気持ち」を表現できる場、対立を越えるためにどうしたいのかを表現できる場にするためである。問題に詳しくなくても、家族連れでも気軽に参加できるウォークにしたい。よくテレビなどでタカ派の知識人が高圧的に一般の人たちの無知を指摘し、意見の表明を封じるような態度を取っている。だがたとえ無知であったとしても、強固に反対意見を表明するのではないとしても、個人の意見を顕せる場、素朴な気持ちを表に出せる場は尊重すべきなのだと思う。

  ……このようにCHANCE!の活動は特定のリーダーが引っ張るピラミッド型ではなく、ネットワークによって展開されている。自然発生的に自己組織化された連帯が多重に行われていく。”

もちろん「新しい社会運動」にも限界はあるだろうし、「公共性」を作るための手段はこうした反戦デモだけではない。私たちが生きる消費社会のシステムを把握しつつ、それぞれが自らの生きる現場に基づいた行動をしていき、その成果と課題を他者と広く共有すれば、どんな思考や行動でも自ずと「公共性」が形成されていくのではないだろうか。

すなわち本論の結論は、以下のようになる。私たちが未来へ進んでいくためには、闇雲な前進の前に「戦後」という時代をよく知る必要がある。だがそれは小林や福田のような粗雑な批判ではなく、時代と社会の変遷をきちんと検証しなければならない。その上で年長世代は、もう高度資本主義社会の維持や強化という同じ方向性を反復するのではなく、より多くの人が自らの意思で社会の方向性を決めていけるようにするべきだろう。具体的にはその時初めて「戦後」を真に精算し乗り越えていくことができるのではないだろうか。

そして年長者たちから若者へ、若者批判でも消費社会のマーケットの対象と見なすのでもない真摯な反省の姿が伝われば、若者たちは自分たちの生きる社会構造を自らの力で把握出来るようになるのではないだろうか。年長者はそのために本論の後半で見てきた現代の消費社会と情報化社会を少しずつ緩め、若者たちが自ら主体的にそれらのツールを使いこなせるような環境整備をするべきだ。若者たちは世代対立ではない形で応答し、自らの消費生活を省みることが重要になる。未来の日本社会はきっとそこから始まるはずだ。


終章

1)  小林よしのり『戦争論』354頁

2)  福田前掲書(一章)88頁

3)  小林よしのり『戦争論2』516頁

4)  小林よしのり『戦争論』376頁

5)  福田前掲書78―79頁

6)  「WORLD PEACE NOWホームページhttp://worldpeacenow.jp/

(データ更新年月日:2月2日、アクセス日:12月21日

7)  坂本龍一・編『非戦』(幻冬舎、2001年)135、137頁