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ずっとPSPO2やってる。
まだノーマルクリアなんで先が長い。
自分は日本代表だけ応援している浅いファンなのだけど、そんな浅さでサッカーファンのブログを巡回していて驚いた。何に驚いたかっていうと、ブログ記事に「文章は客観的に書かれなければいけない」とか批判するコメントがあったんだ。
それってありえないんだよね。文章ってのは主観で書かれるものだから。
むしろその文章が主観的に書かれているのを受け入れて、そこから客観性を検討したり、主観に賛同したり反対したりするのが、読むって行為だと思っていたんだが、そういう前提条件をすっぱり忘れてしまった人もいるようだ。
おまけに感情的になりやすい試合だったんだから、湧き上がってきたものをひとまず脇に置かないと、戦犯探しをしない文章は一切合財「客観的でない」って思いかねんのにね。
あ、名前のない文章ってのは別に匿名掲示板に限った話じゃないよ。新聞なんてその最たるものだ。だから新聞は事実があったってことはわかっても、鵜呑みにはしないよね。特にコラムなんかは記者の中で作ったドラマに照準を合わせて事実を繋ぎ止めるもんだと思うんだけど、どうだろう。
それにしても、今は目の前の文章を信用しすぎている人が多いってことなのかな。信用っていうとまた漠然としてしまうか。そもそも読む気になるってこと自体が信用だし。
信用するけど信頼はしないべき、って言葉にしてしまうと、ちょっとありきたりかねえ。
ドラクエ9の話。
主人公について。
個人的にはもっと師弟の絆を書いて欲しかった。
女神の果実を集める時にちょくちょく出てくるとか。
「敬愛する師匠が命を賭けても救いたいと思った人が間違ったことをしているので弟子の自分が止める」
という設定がうまく回ってないから、必然性も薄く感じる。
ただ主人公として世界を救う必然性は薄いことを逆に考えられる。
なぜならプレイヤーはゲームを遊ぶ限りにおいてゲーム世界を救う必然性が常にあるわけだけど、
ドラクエ9はそのプレイヤーの意志が直接的に世界を救っていくRPGだとも言えるからだ。
現実世界の我々はゲーム世界を神の視点に立ちつつその中で動く。
何のために表現するか、
一つはよくわからない自分自身のことを明らかにするため、
もう一つは周囲に自分という存在を働きかけるため、
この二種類に分けられるものだと思います。
けれど、この二つが同じ方向に向くためには努力が必要だし、
受け取る側はこの二つを最初から同じものだと考える人もいます。
作り手と受け手が作品においてだけしか会話が成立しない理由です。
誰も自分の今が間違っていると考えたくないからです。
本当は、作者とその作品を作った時の人格は、違います。
けれど作者は別の人格の手柄を自分のものにしたい。
永遠に罵倒し続ける関係は、お互いが内面を偽っているから生まれるし、
その偽り具合によっては、建前としてでも素晴らしい調和が生まれます。