Suburban Teenage Wasteland Blues

STRUNG OUT の『Suburban Teenage Wasteland Blues』(1996)を聞いている。直訳すると『ベッドタウンに住む十代が荒んだ詩を歌う』という感じになるのだろうか? 96年ごろと言えば、世相はどうだったのか。僕は大学1回生で、堺市にあるロクでもない公立大学で「総合科学」などというインチキ臭い学部に籍を置いていた。日本にかぎって言えば、まさに「荒んだ」状況に陥りつつあった。数年前にはバブルが弾け、ルーズソックスはいたコギャルの「援交」が巷の下卑た話題を賑わし、終身雇用制度の老朽化と硬直化が糾弾されていた。95年の阪神淡路大震災は僕たちに世紀末の様相を見せつけるかのようだった。失われた10年とか15年とか分かったようなやつらがシタリ顔で口にするのはいいのだが、「失われた」のはいったい何なのか、笠井潔『バイバイ、エンジェル』の主人公である矢吹駆が言うように、現象の始原点を捉えるような作業がもっとなされるべきだと思う。僕が感じるのは『真理の探究』という観点が世の中から広く失われたように思う。代わって台頭したのが『マネー』であろう。『マネー』を下部構造として、いま問題とされている諸現象が上部構造として投影されていると考えてよさそうなのだが、どうなのだろうか? そのへんはトシローの僕ではなく怜悧な論客たちにお任せしたほうがよいだろう。さて、本題の『Suburban Teenage Wasteland Blues』を取り上げた理由だが、こういう社会の捉え方を日本の若者は絶対にしないでしょうね、ということだ。もう20年前から日本歌謡界に絶望しておるのですが、根拠は明確で、やってるひとたちが徹底的に権威的かつ迎合的だからだ。彼らは弱者の代弁者ではないのだ。芸術が民衆の側に立たないなんて「ファッショ」体制と一緒のような気がする。「ここは荒野だ」と口にするひとはいまはいない。それはつまり沃野を見たことがないからなのかもしれない。そう考えると、五木寛之(『青年は荒野をめざす』)や沢木耕太郎(『人の砂漠』)は恵まれていたのかもしれない。そうだとすると、この「北斗の拳」的な暴力社会で僕らはどんな詩を歌えばいいのだろうか? それは一考に値するだろう。

Suburban Teenage Wasteland Blues

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バイバイ、エンジェル (創元推理文庫)

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新装版 青年は荒野をめざす (文春文庫)

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人の砂漠 (新潮文庫)

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