西部 邁+平岡正明+栗本慎一郎 『情念と幻想――その現実論』

死者の総意に基いてプロレタリア革命を行う、これがぼくの立場。――平岡正明

 桝添要一が厚生労働大臣になって、テレビその他に露出することが多い。めっきりハゲて白髪も増してオッサン面になったのを眺めながら、ふと、栗本慎一郎のことを思い出した。

 大学教授でテレビその他、メディアに積極的に顔を出し、そのうち国会議員になり、党務でしばらく汗をかいて、ようやく晴れて大臣に、というあの渡世は、ほんとなら栗本がある時期おそらくはめざしていたものだっただろうからだ。なにしろ、栗本もまたかつて参議院議員だったわけで、初当選の折りなんざ、「総理大臣になる」とまで公言してはばからなかった時期もあったくらい。その客気というか、自意識肥大のほほえましさは、まさに団塊の世代の脳天気……あ、いや、正しく向日性の部分。いや、なつかしく思い出す。

 というわけで、栗本慎一郎つながりでこの本。平岡正明つながり、というのもあるか。書棚を新たに増設したので、ある程度まとめて手もとに置いておく本を持ち込んできた、その荷解きをしていたら眼についたもので、ひとまず。

 薄い冊子である。パンフレットと言っても通じるかも知れない。かつての文科系的に言えば、そうだな、白水社のレクラムやクセジュ文庫あたりの体裁にも近い。「○○文学」(○○にはフランスとかドイツなどの外国名が随意入る)がまだ輝かしかった頃の名残りだ。

 『はあべすたあ Harvester』という名前の雑誌の形になっている。「非売品」だった。当時、栗本がカルビーの社長か何かとのつながりで、自身が編集長みたいな立場で好き勝手やっていた。制作は青玄社。ってことは、そうか、ポランニーの翻訳とかも確かここから出してたような。何にせよ、栗本自身、自著のどこかで、かっぱえびせんの「やめられない、とまらない」のコピーは自分が考えた、てなことも言っていたりした。このへん、「コピーライター」がカッコいい、という当時の時代状況を踏まえて、正しくハッタリとして賞味するのがいいとは思う。カルビーとの関係も、よくある後ろ盾というか、パトロンみたいなものだったのだろう。当時、企業の文化的貢献、フィランソロフィー(笑)なんてことも言われて、代表格はもちろん、かの西武と糸井重里など。先のコピーの逸話でもわかるように、その向こうを張って、という気分が栗本にはあったはずだし、まわりの認識もそんなものだったと記憶する。まあ、その初志はともかく、80年代状況、それこそ「ポストモダン」の気分というやつを反映した民俗資料としては、例の朝日出版社のやっていた『週刊本』などと並んで一級品と言っていいはずなのだが、今や世間の記憶の果てに埋もれてしまったのか、言及する者もいない。有為転変、幻のごとし。

 座談会である。西部邁平岡正明栗本慎一郎がとりもって、というあたりが、当時一部で話題になっていた。「ポストモダン」系人脈を網羅したかのようなこのシリーズの中でも、おそらく、最も注目を集めた号じゃないか。実際、読んだら読んだでその栗本のグダグダぶり(要は酔っぱらってるだけなのだが)もまた、違う意味で話題になったりしていたし。

 西部と平岡が顔を合わした、ということだけで、お好きな向きにはたまらない、というようなものだった。なぜか。60年安保世代の「ブンド」の残党、ということがひとつ。「ブンド」は共産主義者同盟の通称で、当時の学生運動の中でも最も派手に目立っていた党派、というあたりをまず予備知識として示さないとわけわからん、だろうが、まあ、なんというか、派手に暴れた一派の中での〈その後〉の処世の違いがあり、それぞれに支持者やシンパ(このもの言いももう死語か)を獲得していたメディア(当時は「ジャーナリズム」というもの言いだったか)の寵児ふたりがついに激突、てなものだったのだ。

 平岡正明というのは、60年代の若き論壇スター、ではあった。学生時代にジャーナリズムデヴュー、「コカコーラ世代」の戦後派として学生の左翼文化に新たなスタイルを持ち込んだ。「革命を遊びに堕した」とも言われたけれどもそれはむしろ勲章で、ジャズと革命を並列に語れる感覚は確かに新しかった。一方、西部は西部で学生運動ではいったん逮捕、そして裁判で「転向」して一時沈黙、アカデミズムの中から再度登場した時にはなんと「保守」の看板を掲げて面目一新、その過程も含めて一躍、注目されるようになっていたから、これもまた同じ60年代安保世代にとってはある種のスターとなっていた。もっとも、彼らをそのようなスターにしていたのは同世代というよりも、むしろその後の全共闘世代の弟分たちが質的にも量的にも大きかったと思うのだが、いずれにしてもそういう新たに形成されてきた「論壇」「ジャーナリズム」市場においてのビッグネーム、という意味では、吉本隆明鶴見俊輔などの世代とは違う、新たな注目を集めてきた名前たちではあった。

 それにしても、タイトルからしてもう時代モノだ。「情念」のこの「情」の字が重要。同様の使い方に「情況」なんてのもあった。いずれ吉本隆明が使って流行らせたもの(だと思う)。心理や思い入れ、よりもっとこってりしてややこしい何ものか、を託そうとする気分が込められている、と解釈していい。で、並列で「幻想」とくるから、これはどこから見ても吉本の影響下にあるわけで、その意味で仕掛け人である栗本慎一郎のお里もまた、はっきり知れるという次第。

 論理や現実(主として経済的、政治的、はたまた科学的、だったりした)が未だ厳然としてあるようにみんなが思っていた状況だったからなおのこと、〈それ以外〉にも意識の焦点が結ばれてゆく。「感情」「情念」「幻想」「……もの言いはさまざまでも、そんなとりとめない(と思われていた)〈それ以外〉をどのようにとらえ、語るのか、に七転八倒することが目につくようになっていた。それは「党派」とは別の「運動」を「個人」において志向する全共闘世代において最も盛り上がったものであり、その先行者として平岡にしても西部にしても仰ぎ見られていたところがあるのだろう、と今、この時点から振り返るからこそよく見える。

 栗本抜きでサシで話したがっている、ということは工作もしたがっている西部と、それを持ち前の茫洋さでいなしている平岡の対比が印象深い。平岡正明理解については人後に落ちないと自負しているあたしとしても、ここでの彼の芸風はすでに確立されていることを痛感する。

話が存外合っちゃうのは無念、とたがいに言うのが礼儀だろう。それぞれの幼児型の神話(民話?)を保存したままで、そうたやすくは成熟するものかと努力として、一人はドラキュラになり、一人は次郎長ファンになり、一人は大衆社会下の物神化現象批判に向ったのだから、元の追分道からは遠く来たぜと言わねばならぬそれぞれの立場を尊重して「あばよ」というのが礼儀なのだが、その夜、時間がたっぷりあれば夜を徹して壮語したい気持はあった。

 西部が正面から論陣を張るところを、平岡は聞き手にまわって「受け」に徹し、隙を見てはギャグとテーゼのブロウをかます、というやりとり。でも、互いに尊重しているのがありありで、後に聞こえてきた噂では西部の方がむしろ気を遣っていた、と言われていたのも、それだけ平岡の「豪傑」伝説が同時代に浸透していたということだろう。「犯罪者同盟」から谷川雁との大喧嘩、当時の多数派だった吉本エピゴーネンたちをひとくくりに「自立小僧」と揶揄しての憎まれ役ぶり、など、逸話には事欠かない。それほどまでに「ジャーナリズム」は舞台となり始めていた、という意味でも、このあたりの事情はそろそろ「歴史」として語られ直すべきだと思う。っていうか、ご本尊に聞き書き、これっきゃないな。四方田犬彦みたいなサベツ感覚丸出しの小手先オマージュされてまとめられてたんじゃ、浮かばれないってもんだ。
■初版1981年 編集・はあべすたあ編集室 制作・青玄社 非売品

もちろん、はまぞうに書影があるわけない……