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2018-03-07

サムライの子、はバタ屋の子

つのだじろう、と「取材」という作法

つのだが「サムライの子」を描く前年、1961年1月から7月にかけて同じ『なかよし』誌に連載し、その年の第二回講談社児童漫画賞(現在の講談社漫画賞)を受賞した「ばら色の海」は、横浜ダルマ船に住む水上生活者の子どもたちに取材した作品で、すでにこの段階で彼の「取材」を介した創作作法が現れている。

「ある日、ぼくは横浜に行き、夕映えの港の停泊する大きな外国の貨物船の間を、いそがしげに働いているダルマ船の群れをみた。その船の中に、ぼくは子供がいるのに気がついた。いったい、あの子たちは、どんな生活をしているんだろう?学校は……? そして、ぼくは横浜にかよった。水上生活の子供たちの学校は、横浜の丘の上、山手町にある「水上学園」だ。ぼくは、職員の宿直室に、先生と一緒に寝、そして子供たちと仲よしになった。学校一のかわいい女の子(?)りよ子ちゃんの家(ダルマ船)へも遊びに行った。」(「あのころの思い出――“あとがき”にかえて」つのだじろう『ばら色の海』所収、朝日ソノラマ1968年、p.238。)

この単行本の巻頭に清水慶子(社会学者清水幾太郎の妻として当時、翻訳家・評論家として活躍していた)による推薦文が掲載されていて、そこに当時のつのだじろうの颯爽とした新進気鋭ぶりを彷彿させるこんな一節がある。

「今、私は一枚の写真を見ています。それは、つのだじろうさんが美しい人とならんで、大空の斜めに回転展望台の上から笑っている写真です。「私どもこの度結婚いたしました。どうぞよろしく。」と添え書きしてあります。これは、昭和三十六年秋のことです。その秋の彼は、「三冠王」と友人たちにいわれました。新居新築、結婚、そして講談社第二回まんが賞をみごと受賞したからです。彼は、まだ二十五歳でした。」(清水慶子「つのだじろうさんと「ばら色の海」」、つのだ前掲書所収、p.7)

これに続けて、彼女自身がこの時の選考委員でもあり、つのだの作品を強力に推したことも紹介されているのだが、そのほぼ同じ頃、清水は「日本の子どもを守る会」の「悪書追放運動」の一環としての当時の児童漫画に対する抗議集会に「母親」代表的な立場で参加し、出版社や作家たちに当時の児童漫画に対する不満を投げかけたりしていることなどを考えあわせると、そんな彼女の当時の眼につのだの表現がどうやら圧倒的に素晴らしいものに映ったらしい、そのことの内実や背景など含めて、いろんな意味で興味深い。ちなみに、彼女は1906年生まれで当時すでに55歳、1936年生まれで25歳だったつのだとは30歳の年齢差があったことになる。

「やはり「ばら色の海」は、当時の少女まんがの分野にさわやかに新風を吹き送った異色の力作だったのです。(…)あの頃も、そして今でも、どうして多くの少女マンガはレベルが低いのでしょう。どれも同じようなグロテスクな大目玉と細い手足をした少女の絵。暗く、さびしく、なげきと涙のそらぞらしいお話。いったい作者たちは、新しい教育で育っている今の少女たちをどう受けとめているのでしょうか。こうした少女ものが氾濫する中で、つのだじろうさんがつぎつぎと描いていった少女まんがは、新鮮でした。」(清水、前掲、pp.7-8)

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