特別な1日  

-Una Giornata Particolare,Parte2-

夜のルーブル、もしくは、かくも長き不在

 パリの二つ星レストラン、アピシウスの翌日は、午後3時過ぎにフリーになったのでルーブルへ。
 その時間からの見学だから、見たいものだけピックアップして周ったが、それでも真冬の日は暮れ、いつの間にか窓の外は真っ暗になってしまった。
気がつくと、今まで自然光とわずかな照明で照らされていた展示室は白熱灯の照明がつき、部屋の雰囲気は昼間と全く変わっている。

見学者の様相も異なっている。僕のような観光客みたいな奴は減り、地元の人、それも学生なんだろうか、服装がお洒落な人が急に増えたような気がする。多くの人が黒や紺のコートやジャケットにスカーフやマフラーを巻いている。金髪の白人女性だったら中間色のセルリアン・ブルーやエメラルド・グリーンだったり、黒人だったら鮮やかな黄色だったり。
目が覚めるようなスタイルのヒトもいれば、お饅頭のようなおデブちゃんもいる。みな堂々としている。要は自分に似合うものをよく知っていて、着こなしている、という感じなのだ。こういうのも、『ジュネスの反乱』ジュネスの反乱 - 特別な1日(Una Giornata Particolare)で感じたようなフランス人の主体性の強固さの一端かと、妙に感心してしまった。
 また、こんなことも感じた。僕は絵画を見る際 展示物から数メートル離れた場所に立って見ることが多い。でなければ構図の全体像がつかめないからだ。しかし、そうやって絵と自分との間に距離を開けていると、日本では何も言わずに前に割り込んでくる奴ばかりで、心静かに?鑑賞できた試しがない。ところがルーブルでも、オルセーでも、メトロポリタンでも、テートでも、人が見ている前に割り込んでくるような奴は殆どいない。前に入ってくる場合でも9割がたは一言断るか、最悪でも黙礼して入ってくる。それも こちらの目を必ず見て、だ。日本とは大違いだ。
 彼らの社会ではそうでもしないと、撃ち殺される可能性があるから(笑)、かもしれない。しかし、そもそも他人の目を見てコミュニケーションする、くらいのことができなければ、主体性が確立するとかなんとか、なんて有り得るわけがない。
 そう考えると日本で民主主義がまともに根付くまで、あと100年くらいはかかるんじゃないかと思ってしまう。議会制民主主義という形式はあっても、それを構成する実質は不在なのだから。あと100年、かくも長き不在。でもそのような民主主義は日本人が自分たちで勝ち取ったものではないのだから、それは仕方がない。ルーズヴェルトさん、ありがとう(笑)。
 というようなことはわざわざセーヌ川のほとりで考えるようなことではないかもしれないが(笑)、少なくとも美術館行くなら海外のほうが遥かに快適、ということは改めて実感した。