特別な1日  

-Una Giornata Particolare,Parte2-

分かり合えない、ということについて:映画『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』&『シェイム』


3.11を振り返る、あまたのTV番組にしろ、瓦礫の広域処理にしろ、そこで出てくるのは決まって『絆』という言葉だ。まるで、『絆』という言葉さえ唱えればどんなことでも許される、免罪符のようにすら思えるくらいだ。そういう偽善的にもみえる風潮には、へそ曲がりのボクはどうしても違和感を感じてしまう。
                                 

新宿で映画『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち
2009年に亡くなったドイツの前衛舞踏家に関するドキュメンタリー。ヴィム・ヴェンダース監督が3Dで作ったもの。
ボクはバレエとかダンスは全く門外漢だが、2月9日の日経夕刊で三浦雅士ピナ・バウシュを評して『ピナ・バウシュの最大の主題は、人と人とはわかりあうことなどできない、ということだ。ただ、分かり合えないということだけは分かり合うことができる、そのことによってのみ人と人は繋がりあえるそれ以外の絆は無い』と述べていたのに興味を持ったのだ。
                  

映画の中ではステージで、自然の中で、街を走るモノレールの中で、ピナ・バウシュが作った作品が演じられる。ステージ以外の場所で演じられるパフォーマンスは異物を持ち込むことで日常を客体化する、その効果がとても面白いと思った。ピナ・バウシュの作品は演劇との融合と言われているそうだが、ステージで見るとダンスの割には『意味(文脈)』にとらわれすぎているような気もする。でも何もないステージで夢遊病者が歩く先に置いてある椅子をひたすら片付けていく、代表作という『カフェ・ミュラー』は確かに面白かった。
●確かに身体性を表現するのに3Dは悪くない。
今回3D映画というものを始めてみたが、ダンスを表現するには躍動感が強調される良いアイデアと思った。構図やカット割りまで3Dで考えなければいけないから、作るほうは大変だろう。
ただ踊りが盛り上がってくると他の作品に切り替わってしまうのは、ヴェンダースらしく(笑)、詰めが甘い、かな。

                
              

17歳の肖像』で存在を知ったキャリー・マリガンという女優さんは、まだ20代前半だと思う。その映画で彼女の存在感と演技力に驚嘆して大好きになった。初主演でアカデミー賞主演女優賞にノミネートされたのは当然だ、と思った。

そのキャリー・マリガンを視るのを楽しみに、渋谷で映画『シェイム
マイケル・ファスビンダー演じる主人公はニューヨークの成功したビジネスマン。ハンサムで独身。深い人間関係を築く事を拒否している。電話には一切出ない(ボクも一緒だ!)。セックス依存症で、毎日むなしい生活を送っている。そんなカレのアパートメントにキャリー・マリガン演じる妹のクラブ・シンガー、シシーが転がり込んでくる。
だが、この映画にはセクシャルなところは全く、ない。沢木耕太郎がこの映画での主人公の行為を、まるで僧が自分を罰するために行う『行』のようだ、と評していたが(3/14朝日新聞)、まさにそんな感じ。主人公だけではない。妹のシシーも自分を罰し続ける。理由は明かされない。ストイックに心の乾きを描いた、切ない、救いのない、映画だ。作ったのはイギリスのスティーブ・マックイーンという名前の監督。
●男前のマイケル・ファスビンダー
                  

この映画は音楽と撮影がやたらとスタイリッシュでセンスがいい。
特に音楽。冒頭からクライマックスまで何度か流れるグレン・グールドの『ゴルトベルク協奏曲』の画面とのマッチングがすばらしかった。バッハの完璧に整合性が取れた内的世界と矛盾に満ちた現実との対比は何とも表現のしようがない。しかも、その矛盾は個人の内的なものが実体化されたものである、というアイロニー
バッハだけではない。この映画での絶妙な使われ方を見て、今 ブロンディがNYで流行っているのかと思った(笑)。中盤流れたゴダールの『軽蔑』みたいな美しいストリングスもすごく良かった。
画面もフラッシュバックを複雑に組み合わせたり、ニューヨークのバブリーな夜景と地下鉄や裏町などの荒廃した様子とのコントラストも効果的だった。
ただ、お話をぶった切るところと語るべきところとのバランスが中途半端に思えた。もう少し詳しく語るか、徹底的に省略するかすれば、スタイリッシュなところがもっと生きたと思う。
        

『Shame』という題名どおり、この映画は肉体的にも心理的にも、露悪的なまでに主人公の恥ずかしい場面を執拗に晒す。マイケル・ファスビンダー、偉い。だが どうしようもない主人公を見てもボクは、そういうこともあるよね、と思っただけで、あまり『恥』だとは思わなかった。自分の生活が毎日恥だらけなせいなのか(笑)、自分の感覚が麻痺しているのだろうか。

●麗しのキャリー・マリガン嬢
                       

キャリー・マリガンはやっぱり最高。中途半端にブロンドに染めた髪の毛が象徴しているように、最初から最後まで、脆く危うげな心理状態の役柄だが、観客にそう簡単に感情移入をさせないくらいの存在感がある。シシーという存在をそのまま見ろ、私をありのままに受け入れろ、と体全体で叫んでいるかのようだ

劇中 彼女が『ニューヨーク・ニューヨーク』をうたうシーンはこの映画の白眉だ。メロディもブレスの位置も原曲と全然変えて、文字通りかみ締める様に表現する。それによって、この唄の意味が全く変わってしまう。彼女の文字通りの『パフォーマンス』で、形而上のものが実体を乗り越える物凄い瞬間がフィルムに記録されている。この映画はそれだけでも見る価値がある。ボクには『キャリー・マリガン、すげえ〜』と溜息まじりに呟くことしか出来なかった。

                         
視る人を選ぶ映画だし、唐突なエンディングは見終わって怒る人も居るかも。必ずしも面白い映画ではないが、語るところが色々ある、というのは価値がある映画なのだろう。ボクは嫌いではない。

この、感傷を拒否する徹底的に乾いた映画で、1回だけ人間らしい感情がほとばしる場面がある。終盤 『私たちはそれほど、悪人じゃない。ただ居た場所が悪かっただけ』とシシーが訴えるところだ。しかも、シシーはこれを電話、しかも留守番電話越しにしか語ることができない。
                

映画『シェイム』には偽善はない。観客に情け容赦なく、空しさを突きつける。血の繋がった同士でさえ、人間は分かり合えない、ということを冷たく見せ付ける。
だが、ボクはそこに何か救いのようなものを感じてしまう。それは人間は分かり合えないということだけは、互いに分かり合うことができる、と実感できるからだ。