特別な1日  

-Una Giornata Particolare,Parte2-

『GとLのお話』と『世界を見るための38講』

最近 GとLの話が話題になっている。Gはグローバル、Lはローカルの略だ。グローバルとか言うと我々の日常生活とは関係なさそうだけど、良く考えてみると誰にでも関係があるんじゃないか。例えば地域おこしにも原発にも、一人一人の生き方にも関係あるんじゃないかと思う。そもそも、今回のお話は余計なことばかり言う、安倍晋三のこの演説が発端らしい。*太字・色つけはボクが行った。
                      
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2014年5月6日 OECD閣僚理事会 安倍内閣総理大臣基調演説
ある調査では、大学の特許出願のうち、アメリカでは15%程度が新たなビジネスにつながっていますが、日本では0.5%程度しかない。日本では、みんな横並び、単線型の教育ばかりを行ってきました。小学校6年、中学校3年、高校3年の後、理系学生の半分以上が、工学部の研究室に入る。こればかりを繰り返してきたのです。しかし、そうしたモノカルチャー型の高等教育では、斬新な発想は生まれません
 だからこそ、私は、教育改革を進めています。学術研究を深めるのではなく、もっと社会のニーズを見据えた、もっと実践的な、職業教育を行う。そうした新たな枠組みを、高等教育に取り込みたいと考えています。
平成26年5月6日 OECD閣僚理事会 安倍内閣総理大臣基調演説 | 平成26年 | 総理の演説・記者会見など | 記者会見 | 首相官邸ホームページ
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この演説からは、それこそモノカルチャー的な発想しかボクは思い浮かばないが(笑)、その安倍の意を受けて9月から開かれている文科省の審議会『実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化に関する有識者会議』でこんなことが論議されている(元産業再生機構の冨山和彦の発言)。http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/koutou/061/gijiroku/__icsFiles/afieldfile/2014/10/23/1352719_4.pdf#search='%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E5%92%8C%E5%BD%A6+%E5%A4%A7%E5%AD%A6'

要約するとこんな感じ。このパワーポイントは当日配られた資料で、クリックすると拡大します。

1.今の世の中は製造業・大企業中心の世界で競争するGの世界(グローバル経済)とサービス産業・中堅・中小が中心なLの世界(ローカルな経済)とに2極化しつつある。

2.日本のローカル経済の生産性は欧米諸国と比較して低水準(*儲かってないってこと)であり、サービス産業などローカル経済に従事する人のスキルを上げなければならない
                                
3.そのためには大学はグローバルに競争できるごく一部のもの(G型大学)を除いて、L型大学として職業訓練校化するべきだ。

                           
4.L型大学では、学問ではなく仕事に役立つ実践的なスキルを教える

5.L型大学では文系学部は殆ど不要。理系もグローバルに通用しないような学部・教員は不要

                                                                         
世の中をグローバル経済とローカル経済とに分けて考えるのは、幾分かの真実は含んでいると思う。また日本のサービス産業の生産性の低さは何十年も前から言われてきたことだ。地方経済を考えるうえで、これは結構大きな問題だ。
                                        
だが、後半の『ごく一部のグローバル化に対応した大学以外は潰して、職業訓練校化しろ』というのはどうだろうか。確かに18歳の人口はどんどん減り続けているのに大学の定員は増え続け、現在では大学・短大の定員は志願者に対して92%にもなっている。頭数だけで考えれば、希望すれば誰でもどこかの大学には入れる状態ではある。一方 企業の正規雇用者数はほぼ横ばいだから、卒業時に歪がでてくるのが当然で、それが昨今の就職事情の原因の一つではある。
●大学生の数と18歳人口の推移(文科省資料)

同時に、日本の大学進学率は学費の高騰で先進諸国に対して低くなっている、そういう考え方もある。



いずれにしても、一部の大学を除いて、あとは職業訓練校にしちまえ、という発想はどうだろうか。
4のL型大学では文学より地元の名所を説明する力マイケル・ポーター(ハーヴァードの経営学者)より会計ソフト、憲法より大型免許という発想は、人間を目先の金儲けの歯車の一部、消耗品とみなす非常にプアな人間観だと思う。

もちろん文学や経営学法律学を全員が理解できるわけではない。まして冨山が言っているようにマイケル・ポーターなんて知らなくたって何も困らない。だがポーターはともかく、世の中には文学や経営学、法律というものがあるということを知っておくのは決して無駄なことではない。いつかは理解できるときがくるかもしれないし、世界は広いということ思考の可能性は広がっていることを知るだけだって大きな価値がある。法律だって、最低限の労働法規を知らない学生が多いからブラック企業がのさばっているわけだ。原発ムラの連中だって、世界は広いということを理解できずに、自分たちでどんな事態も予見できると思ったからこそ、原発事故が起きたのだ。

会計ソフトの使い方だけを覚えても、会計ソフトを開発することはできない。大型免許を覚えても、自動車は作ることはできない。今の世の中、付加価値が高いのはモノを使う人間ではなく、新しいモノを生み出す人間だ。
                                                                                        
これからの時代に必要なのは自分の頭で考えること、教科書に書いてない問題点を自分で探し、解決策を考え、実行する力だ。急変する環境変化の中での判断力であり、胆力だ。それを養うためには文学や哲学、歴史であったり、自分と違う異なる国の人・環境と触れ合う体験が必要なのだ。古臭い技術を使いながら、一世を風靡したアップルのiPODが良い例だ。そのデザインや仕上げにはスティーヴ・ジョブスが大好きだった禅の影響が見て取れるのは多くの人が指摘するところだ。
日本の若い人が目先の職業技能だけに特化したL型大学で学んで、世界は広いということを理解できるようになるだろうか?                                        

                                                                            
更に問題があるのはこの発想ではGとLが固定化されがちなところだ。実際は往々にして、ある時はG、ある時はL、入れ替わりがあるものだと思う。例えばイタリアのことを考えてみればいい。トスカーナなんて70年代はただの貧困な農村で、そこで出来るワインは安物の代名詞だった。だが、今やそこで作られるド・ローカルのワインがその良さを認められ、世界中で高値で売れるようになった(もちろん質が良いものだけ)。
●このワインがトスカーナ復活のきっかけとなったそうだ

トスカーナの農村地帯は今や世界中の憧れの地として映画などでも度々紹介されている。大事なのはグローバル人材(笑)とか言って、慌ててMBAを取りに行ったり、英語を覚えることじゃない。それより大事なのは自分が住んでいるローカルを突き詰めること、それに自分を世界に受け入れてもらえるように少しだけ視野を広めることだ鳥取にはスターバックスなんかいらないんだよ(笑)。

                                          
これからの日本に一番大事なのはイノヴェーションだが、イノヴェーションはむしろ日本独自のローカルから生まれてくる可能性が高いと思うローカルを消耗品扱いして、世界へ広がるかもしれない芽を摘んでどうする。そんなことしたら例のノーベル賞を取った中村氏が卒業した徳島の大学なんかどうなっちゃうんだよ(笑)。

冨山という人は頭は悪くないとは思うけれど、かわいそうな人だと思う。経営コンサルタントというのはクライアントの意向に沿って、企業が抱えている問題の本質をバッサリ端的に指摘するのが仕事だが、世の中は企業より遥かに大きく複雑だ。社会の複雑さにたいする謙虚さが欠けているのは、きっとこの人は根本的な情操教育が欠けているからではないか。
このL型大学という発想は国民に、就職先だけは保証してやるから自分で考えるな、リーダー層の言うことに黙って従え、と言っているようにしか思えない。


                              
じゃあ、どうすればいいんだろうか。ボクとしては悪口を書くだけでなく、及ばずながらソリューションも考えることにしているのだ(笑)。

そのためのヒントの一つが最近貰ったこの本、『世界を見るための38講』の中にある。

                                      
ここには宇都宮大国際学部の教員が綴った論考が集められている。国際学というのはどういう学問だかボクにはわからないが、この学部は色々な国籍の学生が集まって政治、哲学、文学、経済、社会学などを横断的に学んでいるだけでなく、福島からの避難者の支援など学際的な活動を行っているという。
                                                                                                                                          
論考自体はそれぞれの教員が自分の専門分野の事を自由に書いていて、単体で読むと正直 玉石混交のようにも感じられる。ただ日々の感想を述べただけのようなものもあるし、ユニークで面白い指摘もある。特に第6章の90年代初頭に新興諸国の台頭の裏で社会の縮退を経験したスウェーデンは生き残りをかけて、経済・環境・文化伝統などの多様な価値を複合的に統合させる形で、持続手可能な都市形成を戦略的に進めているというスウェーデンの家庭ゴミ収集の話や第七章の『「なぜ」と問うことはアイデンティティを探すための技術である』という話は面白かった。
                                                                                 
だが続けて読んでいくと、この本の真価が現われてくる。最初はつまらないと思っていた第4章、言語学に関する複数の論考を読んでいるうちに、日本を相対化する意義を感じられたのは大きな発見だった。4章だけでなく、この本全体の文脈の中ではバーレーンからアジア、シェイクスピアから雨月物語、アフリカの貧困から栃木の偉人である田中正造までが一つの文脈で結びついているように感じられるのは正直 驚きを覚えた。ボクが大好きなユングの『統合』の概念にも似ている。                
                            
                                                                      
実際、ここの大学の学生さんには会ったことは無いけれど、こういう教育を受けられるのは非常に羨ましい気がする。学問としても、自分の体験としても、視野は広まるはずだ。仮に学生時代は有難味がわからなくても、社会に出た10年後、20年後に大きな利子がついて戻ってくるのではないだろうか。少なくとも、こういう教育を受ければGとかLとか将来の可能性を自ら否定するような視野の狭い奴にはならないだろう(笑)。
                                                                                       
                                                                         
ボクが言うまでもなく(笑)、世の中というものは広く、複雑だ。様々な考え方の人がいて、様々な利害を抱えている。原発推進とか反原発とか、右とか左とか単純なイデオロギーだけでバッサリ解決できるほど単純じゃない。ましてや、GとLという2つの記号で世の中をすべて分類してしまうなんて軽薄としか言いようがない(笑)。                                                                                     
人間というものは厄介なもので、いつも答えを欲しがる、それも自分が理解できるような答を欲しがる。だが、もし、この世の中に答えというものがあるなら、それは相対的なものだし、時間の流れによって変わっていくものだ。だからボクたちが世の中に正面から向き合おうとするなら、イデオロギーや記号で世界を矮小化する誘惑に抗い続けなければいけないらしい(笑)。
                                                      
疲れることだけど(笑) 世の中に向き合うためには自分を疑い続けなければいけない世界の複雑さに耐えうるための知的な体力を鍛え続けなければいけない。この論考集はそういうことを改めて教えてくれる。