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聖マリア幼稚園 チャプレンコーナー

2012-03-08

9月:安心しなさい。恐れることはない。(マタイによる福音書14:27)

 この主題聖句が含まれている物語は、大変興味深い流れになっています。

 弟子たちが湖の上で、舟を漕いでいます。ところが逆風のためになかなか進みません。夜通し苦労したあと、夜明け頃、イエス様が湖の上を歩いて、弟子たちの所へ来られました。弟子たちは幽霊だと思って恐れました。そのときにイエス様が言われたのが、この聖句です。面白いのはそれからです。一番弟子のペトロが言います。「イエス様、私も湖の上を歩いてあなたの所まで行かせてください。」イエス様が許されたので、ペトロは湖の上に足を置くと、本当に歩けました。少し歩いてから、ペトロは強い風に気がついて恐くなりました。すると、途端に沈みだしました。イエス様はペトロを助け、二人で舟に乗り込みました。イエス様はペトロに言われます。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」

 水の上を歩く、という段階で「奇跡物語」ですが、大切なのは、イエス様が言われるとおり「信仰」、また私たちの生き方の問題です。

 私たちはどうやっても水の上を歩くことはできません。水は私たちの歩みを支えることのできない、不安定な物質であることを私たちは知っています。けれども「信仰」があれば、不安定な水が堅い地面のように安定した存在になり、また「信仰」の有り様によって、その逆もあること、イエス様は語ります。

 私たちの歩みを安定させてくれるものは、物質的なものではなく、私たちの心にあるのかも知れません。私たちは、自身が無くなり不安に襲われたとき、足から力が抜けるような気がします。反対に誰かに「大丈夫だよ」といってもらうと、困難な生き方でもしっかりと歩むことができます。

 子どもたちの毎日は、初めてのことの連続でしょう。不安なことがいっぱいあるのでしょう。そんな中で、親や先生、信頼できる大人たちに「大丈夫だよ」と言ってもらうことで、自身と勇気を得て歩みだして行きます。大人は子どもたちの不安を少しでも取り除いてあげる責任があります。けれども、大人にも不安なことはいっぱいあります。大人も「大丈夫だよ」という言葉を聞きたいのです。心を静め、お祈りの中で、心の耳をイエス様に向けてみたいと思います。きっと、ペトロに言われたのと同じ言葉を、今日、私たちにも語ってくださっていると思います。

8月:信じない者ではなく、信じる者になりなさい。(ヨハネによる福音書20:27)

 8月は、特に「平和」について思いを深める月であると言えましょう。

 「世界平和」とは、口にするのは簡単ですが、実現するのはとても難しいのです。難しい原因の一つは、平和は一人では作り出せない、というところにあります。自分一人だけが心をきれいにしても、自分一人だけが努力しても、平和は作り出せないのです。平和は、みんなで力を合わせなければ、実現しないものです。誰かと誰かの間の和解から、平和は始まります。和解の和が広がることで、平和の範囲が広がります。どこかの地域の紛争を止めるには、その地域に住む人の努力だけでなく、周囲の人々の働きかけが必要です。みんなで話し合い、お互いに理解し合い、みんなで具体的に努力して、初めて平和は実現してゆくのです。それでも完全な平和の実現には、まだまだ時間が掛かりそうです。みんなで、平和に向けて歩み出す、その歩みが大切なのだと思います。

 先日、「お父さんの会」の発足式に参加しました。有志のお父様方がご尽力下さり、10名ほどのお父様が集まってくださり、大変楽しい、有意義な集いになりました。会全体に、「これから始めていこう」という熱意と、「子どもを中心に、幼稚園のために」というはっきりした方向性を感じました。この会は、きっとこれから幼稚園にとって、そして何よりも愛する子どもたちにとって、とても大きな働きをしてくださるものと信じます。

 お母さま方に比べてお父様方の場合、横のつながりを作るのがなかなか難しいように思います。この会は、これからがんばって、横のつながりを造り出そうとしておられます。横のつながりが広がってゆくと、きっと、それだけで幼稚園の雰囲気が良くなって行くことでしょう。横のつながりは、平和への入り口です。

 「信じる」というとき、私たちはすぐに、結果を求めてしまいます。「これを信じたらこのようになる」と。けれども大切なのは、結果ではなく、「方向性」と「歩み出すこと」のような気がします。この方向が正しいと信じるならば、たとえ困難な道であろうとも、歩み出してみる。その事が大切だと思うのです。結果はまだまだ遠いかも知れません。けれども、その道を歩んで行くこと自体が大きな喜びとなり、力となると思うのです。

7月:主において喜びなさい。(フィリピの信徒への手紙3:1)

 「サカナの会」でも良く話題になるのですが(脱線して)、「県民性」というのは面白いものですね。地域によって驚くほどの個性があります。その中で、関西の特性というと、やはり「お笑い」となるようです。何でも笑いのネタにしてしまうのが、関西のようです。

 みんなが芸人さんのようになる必要はありませんが、やはり適度な笑いは私たちの生活に必要不可欠です。笑いには、心の余裕が必要です。精神的に張りつめ、余裕が無いときには、顔から笑いの表情が消えてしまいます。心の余裕から笑いが生まれるとも言えますし、また逆に、笑う事によって、心の余裕を造り出そうとすることもあるでしょう。私の友人は、大変厳しい仕事をしていたときに、心の安定を保つために、毎日、お笑い番組を見ることと、ゆっくり寝ることを日課としていました。

 「お笑い」と、聖書で言う「喜び」とが、同じかどうかは分かりませんが、いずれも、心のゆとりや和やかさがないと生まれないものでしょう。穏やかな心によって、様々な感情が生まれます。喜びだけでなく、同情、感動、涙、また、相手をうち負かすためでなく、相互の理解を深めるための「喧嘩」も、含まれるかもしれません。

 このような豊かな感情を生み出すための穏やかな心は、どのようにして生まれるのでしょうか。それは「信頼」だと思います。信頼できる人が居て、信頼できる場があってこそ、自分の感情を素直に出すことができるのです。

 聖書では、喜びの源は、神様への信頼です。神様が私たちを導いてくださる、必ず守ってくださる、という信頼があるからこそ、人々は喜びを得るのです。

 子どもたちも、信頼の中で、様々な感情を育んでゆきます。まぶしいほどの笑顔も、病気のお友だちを心配する心も、涙を流しながらの喧嘩も、信頼があるからこそ存在します。周りの大人達を信頼して、お友だちを信頼して、そして目に見えない神様を信頼して。私たちができることは、子どもたちをしっかりと信頼することでしょう。そして、大人同士が信頼し合い、子どもたちに、信頼のお手本を示すことでしょう。

2011-06-06

6月:求めなさい。そうすれば、与えられる。(マタイによる福音書7:7)

 聖書の神様というのは、いわゆる「人格神」です。目には見えませんが、御自分の意志を持ち、行動される方です。喜怒哀楽の感情を持っておられます。この神様は、人格を持っておられるので、他の人格との交わりを求められます。その交わりの相手が、人間です。神様は、人間との交わりを説に求めておられます。とは言え、神様は、いつも人間の方を向き、人間に語りかけ、日々、人々が幸せに暮らすことができるように、様々な働きかけをしてくださっています。ですので、課題は、人間が、神様の方を向くかどうかです。人間は、目に見えることばかりに関心が向き、目に見えない神様に、なかなか気が向きません。目に見えないところで頂いている神様からのお恵みにも、多くの場合無関心で、感謝することも余りありません。そのような現状を、神様は寂しく思い、人間が御自分の方に向くことを、心待ちにしておられるのです。

 「求めなさい」のみ言葉は、「自分の欲望を満たしなさい」や「わがままになりなさい」と言う意味ではありません。自分の思いを、神様に語りかけなさい、という呼びかけです。目に見える世界の中だけで終始してしまうのではなく、神様との交わりに入ることで、人間は希望を持ち、元気になることができるのです。

 この世界では、自分の求めているものが得られる場合と、そうでない場合があります。大したことのないものなら、諦めればいいだけなのですが、人生にとって大切なものの場合、簡単に諦めることはできません。神様に求めていくことによって、私たちは、困難な現状にもめげず、希望を持って歩み出す力を得ることができます。

 この聖書の箇所の最後には、次のような言葉が記されています。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」面白いことに、神様に求めることは、人に与えることにつながるようです。神様に一杯求めて、神様からたくさんのお恵みをいただいた人は、今度は、周りの人に与えることができる人になるようです。受けることによって与える、愛されることによって愛する、神様への求めは愛の循環を生み出してゆきます。

5月:わたしは良い羊飼いである。(ヨハネによる福音書10:11)

 羊飼いというのは、大変なお仕事のようです。飼い主から羊を預かり、毎日美味しいくさいを食べさせるために移動します。ユダヤの国は厳しい自然環境に囲まれていましたので、放牧地を探すのも大変だったでしょう。羊飼いは一人で100〜200匹もの羊を導きます。時には野外で野宿しなければならないときもあります。夜には交代で寝ずの番をして、狼や泥棒から羊を守らなければなりません。時には、動物と戦い、命を落とすこともあるそうです。

 そのように、命がけで羊を守る羊飼い、イエス様はその姿を、御自分との関係に例えられました。人々を心から愛し、その魂を命がけで守ろうとされるイエス様の生き方を、この言葉は表現しています。

 さて、この聖書の箇所の最後の方に、次のような言葉があります。「こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」(16節)良い指導者に恵まれたとき、人々はまとまります。そして、まとまるだけでなく、「指導者に感化されて、良い行動をするようになります。

 良い羊飼いとは、人々を守り、お世話するだけでなく、人々の模範となり、良い行動のお手本となる人でもあります。

 私たちの幼稚園は、イエス様という羊飼いに導かれた、小さな羊の群です。幼稚園の一つの目標は、「みんなでイエス様のようになる」というものかもしれません。一人一人がイエス様のような優しい、愛ある人に成長する、というのと、みんなで、イエス様のような働きをする、というのもあるでしょう。みんながそれぞれの個性を出し合って、幼稚園全体が、イエス様のような愛ある歩みができればと思います。

 現在、日本中が、震災被災者の方々のことを思い、お祈りしています。「自分に何ができるだろう」と考えるとき、自分の無力さを思います。けれども、みんなで力を出し合えば、きっと大きな働きができるでしょう。一人一人の力は小さくても、みんなで協力し合えば、全体としてイエス様のような働きができればと思います。イエス様がなさったように、人を癒し、慰め、力付け、死にかけた人を生き返らせ、そして死の悲しみで終わらず新しい命の希望を与える働きが、きっとできると思うのです。

4月:あなたがたに平和があるように。(ルカによる福音書24:36)

 チャプレンの藤原健久です。チャプレンとは「施設付き牧師」のことです。学校や病院等の施設で宗教活動を行う牧師です、私は、礼拝堂での献金礼拝でお祈りやお話をし、また、幼稚園の宗教教育全般に携わっています。どうぞよろしくお願いします。

 生活表では毎月、その付きの主題聖句を解説しています。今月は年度初めですので、年主題聖句と共に解説いたします。

 丁度1ヶ月前、信じられないような大災害が起きました。東日本大震災は、地震津波によって大きな被害をもたらし、原子力発電所の事故によって、脅威は今も進行中です。被災された方々の苦しみは、察するに余りあります。被災地から遠く離れている私たちは、被災地の人々のために、何かしたいと思いながら、「自分に一体何ができるだろう」と呆然としてしまいます。

 そのようなときに、大切なのが「お祈り」だと思います。目の前の絶望的な状況にも負けず、希望を持ち続けるには、目に見える物だけでなく、見ない物をも納めておられる神様に信頼を置くしかありません。その信頼の行為が、「お祈り」です。

 聖書で語られる「平和」は、「全ての人が、一人残らず幸せな状態」を指します。大多数の幸せの陰に、少数の泣く人がいるのを、聖書は「平和」とは呼びません。危機的な状況が収まり、被災地復興してゆくには、長い時間が必要でしょう。私たちがじっくりと課題い取り組み、みんなで幸せになるには、息の長い関心と援助、具体的な行動が必要です。私たちの長い歩みを支えてくれるもの、疲れた魂に栄養を与えてくれるもの、それが「お祈り」なのです。

2011-02-25

3月:光の子として歩みなさい。(エフェソの信徒への手紙5:8)

 とうとう今年度最後の月になりました。この1年間の、神様からの見守りと導きに感謝したいと思います。

 来月になれば、子どもたちは一つずつ学年を上がります。子どもたちの成長を喜ぶと同時に、特に卒業してゆく緑組さんを思うと、少し寂しさもわき起こります。

 先月の生活表にも報告されていましたが、先日来、子どもたちの何人かが神様へお手紙を書いています。私はその事を知ったとき、とても感動しました。この感動はどこから来るのだろうかと、しばらく礼拝堂でお祈りしていました。それは、「神様への率直な信頼」から来ていることに気づきました。

 礼拝堂の聖卓の上に置かれた小さな封筒、その上に書かれた「かみさまへ」の可愛らしい文字、そして、次の日に同じく聖卓の上に置かれた神様からの返事を、持って行くときのきらきらした目を見ていると、子どもたちが、どれほど素直に神様を信じているのかが分かります。

 きっと、子どもたちにとって、神様がおられるのは当たり前で、神様と自分とは手紙のやり取りをできるほど近い関係にあるのでしょう。

 このような子どもたちの姿を見て、私は、「この人達は大丈夫だ」と思いました。今後、どんなことがあっても、きっと乗り越えられると確信しました。

 子どもたちにとっては、神様がおられるのが当たり前。そして、神様が近くにいてくださるのも当たり前、神様が自分を愛してくださるのも当たり前、神様がみんなを愛しておられるのも当たり前、だから、私はとっても大切な存在であることも当たり前、みんなを大事にしなければならないことも当たり前、そして、神様はいつも私たちを守り、良い方向へと導いてくださることも、当たり前なのです。

 こんな素直で、これ以上ないくらい立派な「信仰」を、幼い頃に心に抱いた子どもは、きっと大丈夫です。これから何があっても、みんなで手を携えて乗り越え、みんなで幸せになることでしょう。

 大人が子どもから学ぶことは沢山あります。その中の大きなものの一つが、「素朴な信頼」だと思います。子どもたちと出会い、共に歩ませてもらえることに、心から感謝です。

2011-02-24

2月:わたしたちは、互いに体の一部なのです。(エフェソの信徒への手紙4:25)

 聖書には、教会を、「キリストの体」と表現する箇所が、幾つもあります。教会に集う人々の、有機的なつながりを、「体」という言葉で表現しています。現在の教会にも、様々な人々が集まって来られ、それが教会の魅力の一つになっていますが、聖書の時代の教会は、もっとバラエティー豊かだったようです。当時の社会では決して、席を共にしないような人々が、教会では、一緒に神様にお祈りすると言うことがありました。たとえば、ユダヤ人と外国人、奴隷と主人、男性と女性、そして大人と子ども。人と人とを分ける「壁」が乗り越えられた交わり、それが教会だったのです。 一人一人が「手」や「足」のように、それぞれの役割を担い、一つの組織運営する、そのような考えは、教会でなくともあろうかと思います。たとえば、こんな考え方があります。組織のトップを支えるために、みんなは我が身を犠牲にして働く。これは、戦前の日本がそうでした。現在でもこのような考え方をしている国や組織があります。教会は全く違う考え方をしています。教会は、お互いに助け合い、支え合うために働きます。「手」が「足」を、「目」が「口」を支えるために、「体」として働いているのです。そのような交わりを、イエス様が祝福してくださる、というのが、「キリストの体」としての教会です。

 先日、阪神淡路大震災が起こった日に、献金礼拝がありました。園長先生は子どもたちに、16年前の出来事について説明して下さいました。震災は大変な出来事で、今も苦しむ人がおられ、また深い悲しみの内にある方がおられます。語り継いでゆかなければならない出来事です。思い起こしてみれば、あの時「ボランティア」と言う言葉が注目されていました。被災して苦しむ人々のために、多くの人々が現場を訪れたのです。この人達は、誰に言われたのでもなく、自主的に奉仕されました。きっと、「苦しむ人々を放ってはおけない」という思いに突き動かされてきたのでしょう。彼らの働きによって、多くの方が助けられ、癒されたことでしょう。

 私たちの社会には、誰かを傷つけたり、人を押しのけたりする、香菜悪しい出来事が沢山あります。けれども人間の本質は、きっと、互いに支え合い、助け合うものだと思います。本当の「体」のような、優しい思いにあふれる社会の実現を目指したいと思います。

1月:神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。(創世記1:31)

 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 今年、最初に子どもたちと分かち合う聖書のみ言葉が、この主題聖句です。これは、世界の始めに、神様が6日で天地の全てのものを創られた箇所の、最後に記されている言葉です。ここには、聖書の世界観が記されています。それは、世界は、本来、良いものである、というものです。確かに世界には悪いこと、悲しいことがいっぱいあります。今年になってからでも、国内で理不尽な反抗によって若い人が傷つけられたとのニュースを聞きました。また海外では、宗教の対立を背景にテロ事件が起きたと聞きました。このような暗いニュースを聞くと、私達の心はとても暗くなってしまいます。そして、世界は基本的に悪いものであるかのような、諦めの気持ちになってしまうこともあります。けれども聖書は、そうではなく、世界は基本的に良いものである、と私達に教えています。神様は世界を良いものとしてお造りになった。けれども、人間の欲望や自分勝手な思いによって、悲しい事件が起きることがおある。けれども、みんなが悔い改め、良い方向へと努力するならば、必ず世界は良くなって行く、という希望の教えが、聖書に記されているのだと思います。

 この事は、理屈よりも、生活の中で実感する方が良いように思います。子どもたちの姿を見ていると、神様がどれほど素晴らしく子どもたち一人一人をお造り下さったかを実感します。子どもたちの笑顔には、曇りなんてありません。お友だちとのケンカもあれば、お母さんや先生から叱られることもありますが、それは悪意や罪からでたものではありません。子どもたちが正しく育ってゆくためには、子どもたち一人一人の育ちと同時に、私達大人が造っている社会を、正しく整えてゆくことが不可欠です。

 キリスト教の目標は、私達の世界を、再び、神様が造られた良い世界へと戻してゆくことにあるように思います。それは簡単なことではありませんが、決して不可能ではないと思います。何せ、元々が「良い」ものとして造られたのですから、時間が掛かっても、きっと成し遂げられます。希望を胸一杯に、前向きに歩んでゆきたいと思います。

 皆様に、神様の祝福が豊かにありますように。

2010-12-01 12月:始めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(

 クリスマス礼拝で、毎年読まれるのが、この聖書の箇所です。神様は、世界を創造されるとき、「光あれ」という言葉から始められました。神様の言葉には特別な力があって、神様の言葉が人となったのがイエス様。だから、クリスマスの読まれるのです。

 普通「言葉」と書く「ことば」に、「言」という漢字を当てているのは、神様のことばは特別なんだということを表現しようとしたものだと思います。

 私は今まで、神様の言が、どのくらい特別なのかと言うことに気を付けて、この聖書の箇所を読んでいました。けれども今、もしかしたらこの「言」は私達が日頃使うのと同じ意味の「言葉」かもしれない、と思うようになりました。

 私達は言葉を、コミュニケーションの道具として使います。自分の思いを相手に伝えるためのものです。そして、言葉は、コミュニケーションの道具としては、「弱い」部類のものです。言葉は、相手に聞いてもらって初めて、力を得ます。無視されてしまうと、何の力も持てません。また言葉は、語られた途端に消えてしまいます。録音しない限り、言葉はその場限りのものなのです。言葉よりも強いものは、いくらもあります。相手に自分の要求を通したければ、「暴力」という方法もあります。内容をのこしておくには、「書く」という方法が有効です。言葉は、随分と弱い道具なのです。

 神様は、あえて御自分を、そのような弱い「言葉」とされたのかも知れません。暴力を用いず、相手に自分の要求を強制することなく、相手を信頼し、相手から受け入れてもらえることを期待する、そのような、「言葉」の持つ弱さを表現するために「言」という文字を用いたのかも知れません。

 それでも言には、「言葉の暴力」という側面もあります。言葉は、内容によっては人を傷つけ、時には深刻な被害をもたらします。それだけに私達は、言を大切に、身長に用いなければなりません。クリスマスを迎えるに当たり、最も相応しい姿勢は、誠実に言葉を語り、じっくりと相手の言葉に耳を傾ける、と言うことではないでしょうか。そのような行為そのものが、愛の行いだと思います。