当時、オカルト雑誌で有名なものは二紙、『ムー』と『トワイライトゾーン』でした。『ムー』は現在も続いていますが、『トワイライトゾーン』は廃刊していますね。
現在、オウム真理教を持ち上げたのは『ムー』誌と語られる事が多いですが、紙面を多く割いていたのは『トワイライトゾーン』誌でした。カラーページで空中浮遊(と偽った)写真や、修行法紹介などをバックナンバーで読むことができます。
もちろん『ムー』も程度の差はあれ掲載はしていますので、責任がないとはいえないでしょう。
なお、『トワイライトゾーン』廃刊について元編集者(アルバイトだったかも)の手記を読んだことがありますが、オウムとは別の宗教団体に有力編集者たちが本当にはまり込み、終末論を信じたあげくに分解していく様が描かれていました。
オカルト好きがはまってしまう罠に、「精神力だけですごい成果をあげる!」というウリ文句に弱い、というものがあります。「現在のコミュニティとは違う優しい世界」にも弱いです。「人類が進化した未来の姿」とかにも。修行で超人になり、社会を変革するコミュニティを作る、と主張する彼らにそこを見事に突かれた、とはいえるでしょう。
とはいえ「楽してスゴイもんになりたい!」や「心休まる世界にいたい!」のは人類共通。故にフィクションを楽しめる、という側面はあります。もちろん当時から「そんなものはない」と誰もが思っていました。「あるかもしれない」と思う度合いだけの問題なのです。そして「あるかもしれない」と少しは思えないと楽しくないですよね。
そのためオウムの影響力が拡大する中、「そんなものはない」ことを前提として「オウムを笑う」受容と、「オウムを生真面目な宗教として社会に位置づける」受容、のふたつが初期の頃からあったことは記しておくべきでしょう。それらの受容を、とんねるず『生ダラ』出演、ビートたけしと麻原の対談、に見ることができます。
今でも「楽してスゴイもんになりたい!」欲望は忌避されるべきものとして位置づけられています。超能力を信じたり、自分がフィクションの人物のような生まれだと振る舞うのは確かに滑稽ですから。通称『なろう小説』もそのような切り口、「いじめられっ子の妄想」「欲望のはけ口」でけなされることが多いですね。
「あんなもんありがたがるのは馬鹿」
「欲望を肯定しすぎてキモい」
「むしろ若者の現在位置を示している」
「現在の最先端のあり方である」
「広まっていること自体は評価すべきだ」
これらが今も昔も変わらぬ人間の態度、ということになるでしょうか。
難しい問題じゃよねぇ……。と言いながら、事件後のオカルトについては、また次回に書きたいと思います。