モーニング・ダルシャン ☆ 前半☆

サンスクリット語で、「見ること、見解、哲学」を指す、ダルシャン(Darshana)。
インドでは、神や聖者、そしてグル(霊性の師)を謁見する言葉として広く使われています。


世界中に遍満していて、(通常)プッタパルティにしか存在しないもの、それは「サイ・ババの身体」。
各界の見識者達から「人間の身をまとって降臨した神」と称えられるサイババの身体からは、常に強烈な神聖なエネルギーが流れていて、様々な奇跡が起こっている・・・。


これは、ダルシャンに関してのサイ・ババの言葉。
「私が貴方達の間を歩くときに生じる変化を過小評価してはなりません。私が目にするものは全て、変容・変質を遂げます。(中略)私が視線を注ぐ全対象が、確実に活性化され、改良されるのです。
私があなた方の間を歩き回ることは、最高位の天界に住む神々が、その恩恵に浴することを切望したほどの幸運なのです。あなた方はその恩恵を、毎日ここで受けているのです。その幸運に感謝しなさい。このようにしてあなた方が受けている様々な祝福は、それぞれ完全なタイミングで現れます。
しかし、それと同時に、多くを与えられた人々からは多くのものが要求される、ということも忘れてはなりません。」 Let Me Show Love, Pg 101


六月後半から復活した朝ダルシャンは最近も続いていて、その中でも特に、七月上旬までの二週間は、ほぼ毎朝8時台からサイババが入場され、存分にダルシャンを満喫することができた。
通常、朝ダルシャンは7時30分に入場する列の順番を決めるくじ引き(トークン)が始まることになっていて、トークンが開始する一分でも後に行くと、「レートライン(遅延組)」という、最後列が入場し終わった後にやっと入れる列に待機することになる。

あまり歓迎されないレートライン…。この列に入ると、サイババの身体が「親指の爪の先」程度にポツンと見えるぐらいの後部席に座ることになり、もはやわざわざ会場の中に入らずとも男性側から柵越しにサイババを眺めるのとあまり、変わらなくなる…。


サイババの身体の近くに行きたいか、全体の雰囲気を味わいたいか −これは人によって「趣向」が違うのでなんとも言えないけれど、サイババは帰依者たちに、アシュラムで過ごす心得の一つとして、こう語っている。


「ダルシャンで並んだ列が何番目のラインになるかに注意しなさい。
あなたの健康と身体の状態、あなたがどのように感じ、洗濯をし、食事をするかに気をつけなさい。
また、あなたがどのように周囲を見るか、誰に、どのように出会うかに気をつけなさい。
特に、様々な状況に対する自分の反応を観察しなさい。
ちょうど学校と同じで、教訓を与えてくれる人もいれば、試験をして、皆さんの進歩状況を教えてくれる人もいます。
すべての体験とそれらに対する自分の反応を、静かな平常心で受け入れることが出来るかどうか見てご覧なさい。」


「ダルシャンに並んだ列が何番目になるか」というのは、おそらく、多くの参拝者にとって、信愛のバロメーターになるような気がする。
もう何年もプッタパルティに住み続けているある帰依者は、ものすごく高い確率で一番のトークンを引き続けているけど、これは本当に凄いなぁと感心する。
世界中に存在して、パルティにしかないもの・・・、それは、「サイババの身体」。
長年にわたって怠惰に陥いずに「サイババ・ダルシャン」に一極集中するその姿勢は、どれほど多くの言葉を列挙するよりもサーダナ(霊性修行)の本質を語っていると思う。 
私もつい先日、彼から「パルティにいる間は、何があってもスワミのダルシャンを優先順位のトップに置くこと!」と言われたところだし、「ダルシャンは夕方だけ」なんて決めつけてる場合じゃなかったわ・・・(冷汗)。

それはさておき、朝ダルシャンの良い点は「とにかく参拝者が少ないこと」。この一言に尽きるような気がする。

年を追うごとに増え続けていく関係者席・・・。私の「お気に入りスポット」は、朝の間だけ一般参拝者に解放される参拝エリアで、ここも午後にはサイスクールの教諭や病院のセヴァスタッフやその家族で満杯になってしまう...。ダルシャン会場広し、と言えども玉座近くのエリアで一般帰依者が座れる場所は限られていて、午後ダルシャンには、まさに「鶴のように」首を伸ばしてスワミの肉体を一目見る、という状況も珍しくはない。

それに比べて朝ダルシャンは、午後には入れない場所に座れて、授業終了後に続々と登場するサティヤサイ大学の学生達もいないので、目の前に広がる視界 − 障害物ナシの清々しい空間の向こうにサイババの御姿をじっくりと、目にすることができる。朝ダルシャンは一般参拝者にとっては正に、至宝の時間。


さて、「サイババの愛と不確実性に溢れた朝ダルシャン」とは、奇跡現象の一つである物質化が繰り広げられた毎日。
でも、何故いきなり物質化がこんなに頻繁に・・・?

私は、ちょうどアメリカグループが滞在し始めた時期と重なっていたので、そういった(奇跡とか物質的なものを重んじる)人種へのパフォーマンスだろうか?と思ったものの、すぐにその考えを取り消した。もし、サイババが誰かに対して恩寵を与えたいとお思いになるのであれば、間接的にではなく、その人に対して直接何か啓示をお与えになるはず・・・。

実際、物質化の「受け取り主」は、第三ブロックと呼ばれているダルシャンエリア − 会場の中央に広がる、白い大理石が敷かれた場所に座る男性参拝者のみで、普段ここは、ヴェーダ吟唱隊やバジャン歌唱隊といった、サイスクールやサティヤサイ大学の関係者だけが座れる特等席。そして文化祭が開催されるダルシャンの間だけ、「舞台エリア」として一般参拝者にも開放される。

(注:文化祭終了後のこの写真の中では、いろんなことが起こっています。)

1.劇終了後、出演者が第三ブロックの中央に座り、右側に座っているヴェーダ隊&バジャン隊によりアルティの曲が奏でられ、
2.メインの司祭氏(オレンジ色の袈裟)と、劇を担当した地域の代表らが、アルティ(献火)を捧げているあいだ
3.一人の学生がサイババに呼ばれて手紙を読んでもらっていて、
4.その奥では、帰依者たちにプラサードが配られている。


通常、私たちがよく目にする「物質化(Materialization)」は、文化祭の出演者やバジャンのリードシンガーに「ご褒美(?)」として授けられる装飾品・・・。いつもなら行事終了後、参加者の一人を壇上に呼び、サイババが手をグルグルグルッと三回廻すと、空中からチェーンや指輪が出現する。

しかし、この二週間に起こった「物質化」は、いつもと多少、様子が違っていた。
なんというか・・・「ご褒美」というよりも、「励まし」のような物質化。

ヴェーダバジャンが会場に響き渡る中、サイババは第三ブロックの最前列に座る生徒たちの中から一人を選び、壇上の上に呼び寄せる。そして先ず、生徒たちが差し出す手紙をお読みなり、しばらくの間、宙を向いて何かを考えた後、金の柵にもたれ掛かって必死で祈っている生徒に対して何かを質問をする。そしてまた何かを考えてから、生徒と会話する・・・。それを何度か繰り返した後、最後にやっと物質化が起こる、という日々が続いた。

時には、一回のダルシャンで二人の生徒たちに同じような問答が繰り返され、こうも毎日、空中からネックレスやらビブーティが出てくるシーンを目にしていると、以前マスコミを騒がせた「サイババの物質化はインチキか、本物か」といった議論は、暇人たちが繰り広げる「空虚な戯言」のように思えてくるから不思議…。

それにしても、果たしてサイババは、客寄せパンダのように参拝者に対して「物質化」を披露し、それによって気を惹いて、信者を増やそうとお思いだろうか? 何をいまさらそんな質問・・・と思ったものの、時間もたっぷりあることだし、あえて私は自問自答することにしてみた...。


モーニング・ダルシャン 〜 後半に続く・・・


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