おんがく

音楽 (新潮文庫)

音楽 (新潮文庫)

精神科医の診察記録という様式により書かれた作品.
この作品が書かれたのは,ずいぶん前のことであるから,当時の精神分析医学というものが,どれほど物質に依拠したものであったかはよく分からない.1950年付近にはすでに向精神薬が開発されていたようである.ただし,おそらく効用があることが見出される程度で,その作用機序はまだまだ不明な点が多かったであろう.

現代では,神経科学の立場としては,精神は,神経系細胞に関わる物質の様々なふるまいの結果という考えが主流である.自然科学は定量性を必要とすることを考えれば,精神を物質にまで還元するのは当然の成り行きではないか.

とはいえ,こうした神経科学的な知見も,ごく単純なモデルによる説明が可能となった段階にすぎない.人間の脳内で複雑な神経活動の結果生じる,多様な精神活動のすべてを捉えることはいまだ不可能である.
動物モデルを用いて研究するのは良いとしても,最も普及しているモデル動物であるマウスを用いて,精神系の疾患を追求していくのは,かなり無理があるのではないかと思う.なにせ齧歯類である.鬱病モデル,統合失調症モデル,記憶障害モデル,などなど種々のモデルマウスが作製されているものの,これが本当にヒトの精神神経系モデルと同等か,と問われれば,実は研究者でさえも首を傾げたくなるはずである.というのも,齧歯類だからである.たとえば鬱病モデルと言われているマウスについて,彼らに直接問診できるわけではない.ただ,その行動観察を以て鬱病様だと言っている.水中を遊泳させたとき,鬱病マウスでは,気力が低下していて,手足をばたつかせる時間が短く,すぐに諦める.説明的に鬱病「みたい」とは言えるが,本当に鬱なのかどうかは実際よく分からない気がする.もちろん,ヒト疾患における遺伝子変異解析の結果から,相同の遺伝子に変異を起こさせ,モデルを作ることもあるので,妥当であるといえばそうである.しかし,これで本当に良いのか,やはり疑問に思う.

さて,本作品のヒロインは,不思議な症状を訴えて精神科医のもとを訪れる.「音楽が聞こえない」というのである.この「音楽」というのが,実は,性的オルガスムを指すことが次第に明らかになる.そして,何故ヒロインが不感症なのかという理由が,実兄との近親相姦的行為にあることが露わになっていく.こういう性的逸脱は,バタイユに関心を寄せる三島由紀夫ならば得意とするところ.相変わらずの美しい文体で描いていく.

あからさまに近親相姦とは言わないが,『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』『お兄ちゃんだけど愛さえあれば関係ないよねっ』『偽物語』『この中に1人、妹がいる!』など兄妹を題材にしたライトノベルは数え切れない.『ROOM NO.1301』のようなものもあるが(こちらは姉弟).このような作品群に,三島的な芸術的昇華を求めるのは難しいかもしれない,と知りつつ手に取ってしまうのであった.

ずいぶん以前から気にしていた,Kandelの『Principles of neural science 5th ed.』が昨年の秋に発売されていた.延期に延期を重ね,いつになったら新版が出るのか注視していたのに,そのうち,「当面出ないだろう」と高を括っていたら,もう出ている.欲しくてたまらないが,高価なうえ,あのMoleciular Biology of the Cell以上に大部である.どうしたものか.