それがエスカレートしたらどうなるのか

前回書いて、関わってはいけない、近づかない、近寄ってきたら逃げるしかない、そんな結論にしかたどり着けなかった。

それはその通りなのだが、自分自身人間心理への洞察力が足りないという点についてはもっと深刻に考えないといけない。努力しても限界があるのはしょうがないことだが、どうやってもわからない領域には何があるかわからないのだから警戒するほかないのだ。

 

 

ところが相手はそうはしない。

欧米では、常に一定の距離をとって触れない関わらないようにしていた結果、増長し、結託し、より大きな害悪をもたらすようになって収拾がつかなくなっている所がある。

程度の差はあるが日本でも似たようなことは起きていると思う。

個人としては手に負えないので関わらないが、社会全体がそのようにふるまうといずれ多くの人が困ることになる。だからこそ政治とか公的機関の働きが必要になるはずなのだが、いつもきちんと機能するわけでもない。

 

 

東欧で戦争が始まって、その結果起きた軍事衝突で国が一つ消えてなくなった。

中東では別の戦争が始まった。

どちらの戦争でも二つの陣営がプロパガンダを流していて、自分の目にはどちらか一方が荒唐無稽な世界観や支離滅裂な言い訳を垂れ流しているように見える。

すぐにばれる嘘なんてついてどうするのか、と思っていたが、本当かどうか確認する間は何も言われない、そのごく短い時間こそが目当てであって、せいぜい目くらまし程度のものなのだ。

結局手段を選ばず欲を満たそうとする勢力が欲しいものを手に入れてしまっている。

 

 

そういう力がこの世の中を支配している、とでも受け止めているのか、その真似でもしているかのように犯罪行為に手を染めるものも目立つようになっている。

目立つ、というのが、最近起こったことなのか、昔からあるが見えていなかっただけなのか、正直わからない。

権力者のやり方に倣う、”やっていいこと”の発見に目ざとい、そんな感じの層が権力から一番遠いところに存在していて、絶えず暴発のきっかけや口実を探し回っている感じだ。

 

 

プロパガンダはそういう層に響くように設計されているといっていい。

真偽とか、論理性とか、そんなものはどうだっていい。そもそも理解する力が無いだけではない。意図的に無視できる層なのだ。

正義、倫理観、人道とか、そんなものは尚更どうでもいい、むしろそれを踏みにじることにこそ喜びだし、快感だし、何らかの優越性の証だとでも思っているようですらある。

 

 

卑しい、と表現すればいいんだろうか。

歴史を振り返るとどの国でもどの時代でも似たようなことは常に起きているようではある。

でもそれにどのように対処したのかという部分は残されてないと思う。この点は歴史に学ぶことができていない。

知識ではなく知恵で対処する、ということなんだろう。

 

 

書き出せば考えが整理できる。

考えが整理できないようだと書けないともいえる。

こういう場を残しておいてよかった。

 

 

 

どこかに吐き出して整理する必要がある

前回書いてから3年半が経っている。

でもあっという間だったように思う。

前回書いた数か月後にいわゆるコロナ禍が始まっているわけで、時系列を振り返ってみて意外で驚いている。もっと間が開いていると思っていた。

 

 

直近何度かに書いたことが、もっと酷くなっているというか、さらに違う次元で襲い掛かってくるような感じになっていて、もう逃げる以外の選択肢はないように感じている。

単に身の回りで不快な出来事が続くだけでなく、社会全体が荒廃していっている気がする。

その荒廃自体に気づいたのは2018年頃だったと思う。だが当時はまだ荒廃した結果どうなるのかまでは見通せていなかった。

こうなるわけだ。

この何年かの間にネットでフラストレーションをためた者がわざわざ出向いて実際に人を殺すという事件が何度も起きた。遡ればもっと前にもあることはあるが、頻度の増加は否めない。

遠く離れたところからわりと客観的に見ての形容としては、被害者は「殺されるようなことをしていた」ということなんだと思う。良い悪いとは関係なく、野良犬を蹴飛ばしたら噛み付かれた、とか、ハチの巣をつついたら刺された、というような、そんなことしたら当然そうなりますよとしか言えないようなことをしていてあの結末を得ている。

いやそんなこと知るわけないだろう、という反論は通用しない。それは人間心理への洞察力が欠如しているということであり、そして死んでしまっては元も子もないのだ。

物事には限度がある、超えてはいけない一線がある、それを踏み越えれば殺されるような線がある、ということなんだ、そんな簡単なことがわからないと淘汰されてされてしまうのだ、などと考えていた。

 

 

それなのに、だ。

気が付けば自分も似たようなリスクある行動をとっているではないか。

気付いてすぐやめたが、あれほど批判的な目で見ていたのに一線に近寄っていたのは率直に言ってショックだった。

そして同時に感じたのは、では違う接し方をするのだとしたらじゃあ一体どう接すればいいのか、ということだった。

往生際悪くあれこれ考えるふりをしてみたが答えが一つであるのは疑いの余地がなく、それを受け入れるか、でしかない。

 

 

要するに、接してはいけないのだ。

どのような形であれ関わってはいけない。向こうから近寄ってきたら逃げるしかない。

決して相容れない明確に分離された世界がある。そう理解するほかない。

自分が作ったものではない。最近になってできたものでもない。間違いなくずっと昔からある。

世界中どの国どの社会にも存在する沈殿物のような存在が、ついにネットに取り込まれたのだろう。

 

 

自分自身存在すら認識していなかった層によって結果的に自分がこれまで見たこともなかった世界がいろいろと見えるようになっている。

すでに知っていたものについてもその意味を再定義し続けているように思う。

多言語使えるのは大きなメリットだと実感している。いろんな視点を持てる。自分を客観視しやすくもなっているかもしれない。

そんな中で戦争が始まった。

ある国丸ごとが"接してはいけない"特徴をすべて備えているのに気づいて心底驚いた。

自ずとイデオロギーについて考えるようになった。

あれこれ理由を並べ立てて戦争を始めているが、屁理屈に次ぐ屁理屈で、恐怖に耐えられず破れかぶれで暴発したようにしか見えない。自らの存在が脅かされているから抵抗する、心の拠り所となっているものが脅かされたから必死で守る、そうなったら彼らにとっては聖戦なのだろう。聖戦のためならどのような嘘屁理屈でも捻り出す、出せることが能力や優越性の証だ、とでもいうような感じだ。

そういうのを個人レベルでやっている人がたくさんいる。

国だと逃げることはできないが、人なら逃げようはある。

 

 

この時、逃げずに彼らを”直そう”としてはいけないのだった。

直そうとすればそれが彼らにとっての致命打になるようなのだ。

以前にも似たようなことを書いたことがあるが、それとは様相が違っていた。

彼らは地獄に落とされた存在などではなく、彼らは本性として邪悪であって彼らが彼らにとって居心地のいい空間を作ればそれが地獄になる、というような感じだ。

そんな所に留まれるはずがない。

 

 

向こうは安住の煉獄を確保し、こちらは安全な場所にいる。

これでいいんだ、と結論すべきなのだろう。

そんなはずはないと思う気持ちがずっと残っていたが、それも尽きた。

もう諦めてもいいだろう。

平和な選択だが、実のところ一番残酷な判断だとも思う。

 

 

 

年に一度しか書かないのはよくない

元々PCネタを書くつもりだった。
それに伴ってネットのことも書いた。
世の中でネットの利用が広がるにつれネットを通して見た人間のことも書きたくなるが、それはちょっと本来の目的と違う気がして避けてきた。
そこに触れるとどんなことでもPCネタの延長に含まれてしまう。
実際のところその通りで、世の中に遍くコンピュータとネットが行き渡った結果そうなったのだと考えるべきなんだろう。
期待していたのとは違う形になっているからなんだか納得いかない感じになってる。


この2年くらいの間に世の中の大きな分断を目の当たりにして心底驚いている。
どのように受け止めていいのか正直わからないままになっている。
ありきたりな言い方をすると、時代についていけているかどうかで分かれている、という感じなのだが、最先端にいることに意味があるわけではなくて、それはむしろ普通で、ついてこれない人々が得体のしれない集団を形成していて恐ろしい。


ああ、恐ろしいと言えばいいのか。
書いてみて今初めてそういう表現を使った。
やはりもっと考えを書いて出したほうがいい。
なんにしろ彼らは彼らの行動がこちらに損害を与えていることを理解していない。
理解できない場合もあるだろうが、わざと理解しようとしない者がいるのも間違いないだろうと思う。
それ以外の生き方を選択する余地がないというか、20世紀と同じことしかできないというか、そういう層があって、そのままのやり方で必死に居場所を守っているような、そういう感じ。
その周辺に、縄張りを守ろうとするカラスのような必死さを卑しさを感じて、そこにある種の恐怖を感じる。
こちらはお前らの巣なんかどうとも思っていない。


こうやって書いても彼らの目に触れることはないだろう。
彼らは知ることを拒絶する。
彼らにとって知は地獄の扉のようなものらしい。
地獄へと続く扉ではなく、地獄である彼らの居場所を封印する扉のようなものだ。
知とは出口のはずなのに、未知の世界でもがくより慣れ親しんだ地獄で苦しむほうが快適だと考えている。
地獄を生き抜いたことにアイデンティティを置くが故そこを離れることは自己の破壊を意味する、とでもいうような、そんな振る舞いをする。


幸いなことに、こちらが何を言おうともあちら側には届かないのだから、何でも言いたいことを言えるということだ。
直接語り掛けるようなことさえしなければ問題は起こらないだろう。


じゃあなんでもかんでも書くのか、というと、そういうことはしない。
こうやって書いていてもなんだか得体の知れない嫌悪感に襲われている。
それでも何か書いたほうがよさそうだからあえて書いているのだが、まあ書くうちにもうちょっとはっきり見えてくるだろう。


スペイン語のほうはゆっくりながら進歩していて、英語学習の初期と比べれば格段に速く身についている。
だがスペイン語の世界観というか物事のとらえ方というか認識の特徴というか、その深層にあるものが十分につかめずにいる。
少しは理解できているだろうとは思う。無意識に自分自身の考え方が根底から変わっているかもしれない。
おそれくそれが原因で自分とは切り離された観測対象としての日本人について何がしかの評価を下せるようになった気がしている。


だがそうやって得たある種の評価を観測対象にぶつけても何の意味もない。
そして、ここに何かを書くという行為はそのぶつけることに他ならないと思っていた。
それでも何か書いたほうがいいように感じている。
それは自分の神経の一部を切り捨てるような行為にも思える。少し無神経にならないとできない。
しかし、もしかするとそれこそが今の自分に必要なことなのかもしれない。

いろいろと自分に変化が起こった気がする

この1年の間に様々なことを知った。
一つ知れば連鎖的に他のことも知ることになり、正直知りたくもないことまで知ることになっていく。
かつて経験してそれなりにきちんと理解していたつもりのことが、新たに知ったことをもとに捉えなおすとずいぶんと違った理解になることが多く、自分の判断基準としていたものの多くを再構成しなければいけない事態になった。
世界観が根底から覆る、とまではいかないものの、ものの見方や評価の仕方が否応なしに変わる。
だがそうやって描き直した風景が、中途半端に世の中のことを知った時期の理解より何も知らなかった幼児期の印象に非常に近いのだ。
なんだやっぱりそうだ、ほらみろやっぱりそうじゃないか、という、嘘つきだと誰かを責めたいような気分すら湧き上がってくる。
でも子供の頃先入観を持たずに自分で判断した内容が概ね正しかったことが分かってほっとしているのも事実だ。


誰でもがネットを使うようになって誰でもが何でも知ることができるようになれば世の中は良くなる、と思っていたが、実際はそうでもない。
大半の人は見たいものだけを見る。見たくないものが視界に入った場合甚だしくはその対象の存在を否定したり壊したり殺したりしようとする。そういうのがわりとごく普通に見られる。
ネットがそのための手段として使われている。
良く使えばより良くなるものが常に良く使われるわけではないのだ。そもそも善悪自体絶対ではない以上、対立する一方が良く使えばもう一方にとって悪に見えるだろう。


悪い意味で、誰もがネットを彼らなりに使いこなすようになった、ということだろう。
ではネット外は平和なのかといえばそれは当然違っていて、昔からある不和の類は依然として有るし、ネットやコンピュータに縁のない人特有の面倒や、それを前提とした諸々の行動様式がどうにも耐え難いものになってしまう等々、どちらを向いても嫌な気分になるものが必ず見つかる。


そういうのが嫌で今年中ごろは気分を害すようなものは徹底的に視界から排除するよう心掛けていた。
だがそうして数か月過ごしてみて、全体として何かが良くなったかというとそうでもなかったのだ。
結局以前とあまり変わらない、色々と雑多なものが見えるように戻した。自分にとって耐えられない、限度を超えているように感じられるものも時々見ないと、自分の立ち位置が分からなくなる感じなのだ。
つまり自分は自分の中に絶対的な判断基準を持ち合わせていないということなんだろう。
これは慣らされれば流されるということでもあるように思う。
振り返ればあの時注意を緩めたのは間違いだったと反省している出来事はいくつもある。慣れてしまったせいで事の重大性を徐々に過小評価するようになっていたのだ。
また、そういう風に誘導する者がいることもよく覚えておいたほうがいい。


ユートピア的なものはネットのどこを探してももう見つからない。
誰かがそういう空間を作るに違いないと期待していたが、そんなものは実現不可能なのだ。
せめて自分が個人的に使う範囲だけでも快適に整えておくくらいのことしかできない。
残念だ。
残念だが、そうと分かった以上頭を切り替えていくほかない。
その結果かつて自分が嫌った人間に自分自身がなることになるのかもしれないが、その嫌っていた自分は誰かに緩やかに騙されて作られた自分だったのかもしれないのだ。
子供の頃低い身長から見上げて思ったことを思い出すと、別に悪いことではないようにも思える。

この一年でスペイン語がかなり身についた

やはり本を買ってきてそれだけで勉強しても効率が悪いのだった。
ネットで手に入る膨大な文章を元に単語帳を生成しまず最低限の単語を覚えた後、ネットで手に入る生きたスペイン語が使われている動画やストリーミングを使って耳を慣らし、それと並行して本を使って文法などを少しずつ身に着けていく、という方法で大きく進歩した。
それ以前さっぱり身につかなかったのは、最初に買った本の出来が極めて悪かったことと、生きた見本がなかったのが問題だった。
特にこの数年の間にラテンアメリカスマートフォンの普及が進んでネットにスペイン語のコンテンツが激増した恩恵が大きかった。スペイン語のリスニングは英語とはまた違った難しさがあって、教科書的な勉強だけでは全く役に立たない。


ずいぶん理解できるようになったことで、楽しめるコンテンツが急に増えた。
ずっとネットというものに退屈していたのでうれしいことではあるが、一方で以前から感じていた「スペイン語など学んでも無意味かもしれない」という漠然とした印象の正体も見えてきた。
ずっと前にオランダ語アラビア語をかじったときには「無意味かもしれない」ではなく、はっきりと「無意味だ」と断言できていた。あれはその土地の言葉とは別にその土地の人にとっての"余所行き"の言葉があって、外部の人間が聞いて意味のあるような話はたいてい余所行き言語の英語で得るほうが手っ取り早かった。
言葉に注目するとその社会は上下に二分された階層があって、ローカルな方を見ると世界中どこにでもあるありふれた日常のバージョン違いのようなものが見えてくるだけだったのだ。人間というのはどこに行っても根っこの部分では大差ないのかな、という感想を得てやめたのだった。
スペイン語の場合、スペイン語圏が巨大なので皆スペイン語だけできれば上から下まで何でも揃う、という感じで、したがって高尚な話から下世話な話まで全部視界に入ってしまう、そのせいで見る必要のないものや見たくないものがたくさん視界に入ったから無駄かもしれないと印象を時々受けていたのだった。
英語は国際語としての性格が強い分幾分高尚だったり難解だったりする話が多いのだろう。その英語と比べるからがっかりすることが多かった。
だが日本語で経験していることとだいたい同じなわけで、以前感じた根っこの部分では大差ないというのが確信に変わってきた。
ある意味ではようやく人間というものが理解できてきたということなのかもしれない。
今まで人間についてあまり理解できていなかったということに気づくというのはなんだか奇妙な気分である。
人間について理解できていないということは自分自身のことも理解できていないということを意味するだろうし。


それで、日本の人口の4倍ほどを擁する文化圏のコンテンツが楽しめるものとして現れた結果、その量に圧倒されている。
スペイン語に似た言語についても結果的に少しだけ理解できるようになるので、その分も合わせると見える世界の広がり方は実に劇的だった。
英語がわかってきた頃も世界の広さに気づいて感激したものだが、余所行きでない丸ごとの文化圏が見えるようになるのは次元が違う。


これだけ見聞きできるものが増えると、自分自身が変わっただろうと思う。違うことをしているという意識はないものの、以前の自分ならそうはしなかっただろうと後で気づくという経験が増えてきた。
人間的な成長にもつながっているように思う。
なんとかしてスペイン語を身に着けるべきだと感じてだらだら続けてきたが、ようやく実を結んだ。
あとは単純に語彙を増やして背景となる文化について理解を深めればスペイン語圏で不自由なく行動できるようになるだろう。
ある程度の達成感を感じている。