サルにもわかるフッサールの現象学講座

サルにもわかるフッサールの現象学講座2

9 名前:>4[] 投稿日:2000/01/24(月) 00:05

現象学の出発点は主観が客観とイコールになることは絶対に無い」ってだと思うんですけど。

エポケーというのは「真理はない」というテーゼを認めるということではなくて、
普段当たり前にあるものとしている事物や世界の存在をとりあえず括弧に括っておいて、妥当現象としてのみ考えて認識批判をやろう、という操作のことです。
判断中止」と言ったりもします。
 
ちなみに主観・客観の問題についてのフッサールの考え方は
基本的には客観は超越論的主観性によって志向的に構成される、というものでした。
ただし後期になるとフッサールは「受動的総合」とか言い出して、若干
ニュアンスが変わってきますが。

サルにもわかるフッサールの現象学講座1

 
■サルにもわかるフッサール現象学講座
http://piza.2ch.net/log2/test/read.cgi/philo/948505749/
 
1 名前:名無しさん 投稿日:2000/01/22(土) 10:49
教えてくださいね
 
2 名前:カヴァイエス
投稿日:2000/01/22(土) 11:02
サルはすでに現象学的還元を身につけていると思われるが、
その経験を知的な形で伝達するには人間にまで進化して形相的還元を
行う必要がある。
 

4 名前:若頭[] 投稿日:2000/01/23(日) 02:34

よっしゃ、ワシが教えたろ。
現象学ちゅうのはよーするに
「主観は如何にして客観を認識するのか」そんで、
「主観=客観」をどう保証するのか、というのが第一の課題なんや。
 
で、現象学の出発点は主観が客観とイコールになることは絶対に無いってこと、
要は「真理は無い」ちゅうテーゼを認める事から始まるんや。
このことを現象学用語では「エポケー」って言うんや。

そやけど

いくら「客観」が無いって言われても、ワシらはフツーに「客観」を当
たり前に「あるもの(存在するもの)」として生活しとるわな。何でや?

その疑問に答えとる哲学が現象学なんや
唯一現象学だけといってもええ。
 
他の哲学、例えば現象学より前の哲学では
「真理」つまり「主観=客観」を保証する為にはどーすればええんか?
ということを必死こいて考えとった。
 
ニーチェがそれをぶち壊して以来、フーコーとかデリタあたりが受け継いで、「主観≠客観」ということを
徹底的に証明してみせ、何と言うか「主体批判」みたいなところまで行きよった。
それまでの西欧の伝統的な形而上哲学は全部アホらしいっちゅうことで、切り捨
てて「反=ロゴス中心主義」というもんをぶち上げたわけや。
これがまあ俗に言うポストモダンいうやっちゃ。
 
でもな、ポストモダンにしろなんにしろ、真理が無いことや「主観≠客観」という
ことはえらい緻密に考えよったけど、ワシらがごくフツーに「客観」をあるもの
として生活しとることの疑問には答えてくれへんのや。

そのことを「驚き」とか「戯れ」とか「パラドキシカルジャンプ」とか訳の分からへん言葉で機嫌とっとる
だけや。
 
なんやカキコが長ごーなってもたんで、現象学がそれをどう解いたかは、
またの機会や。分かる奴は書いてええど。ワシ採点したる。
  

5 名前:>4[] 投稿日:2000/01/23(日) 03:24

仏教でいうところの自我の無い無常観のように思える。
つまり自我を強調するデカルト以降の西欧哲学を否定したのかな?

ところで、現象学のあとにポストモダンがあるんじゃないの?
現象学がどう解いたかっていうことは、
ポストモダンは現象学をまだ越えていないってこと?

すいません。全然わかりません。

12 名前:若頭[] 投稿日:2000/01/24(月) 02:02

5
>ところで、現象学のあとにポストモダンがあるんじゃないの?

そうや。

>現象学がどう解いたかっていうことは、
>ポストモダンは現象学をまだ越えていないってこと?

ちゅうかデリタは現象学を批判しとる(『声と現象』)。

>つまり人間がもつ主観というか認識力では周囲のことを
>誤りなく完全に理解するのは原理的に不可能みたいな。

そんなん現代思想では常識や。反形而上学ちゅうのはそういうこっちゃ。

自然科学は進歩しとるけど哲学は進歩しとらんてか?
そんなことないで。哲学も進歩しとる。
簡単に言うたら実在論(主観=客観)から認識論(主観≠客観)へ進歩した。
科学は実在論のままや。当たり前やけどな。


基本的に科学ゆうのは数学を基礎として仮説と実験を繰り返して得られたもの、つまり一定の「文法」に則ってコード化されたもんや。
それは利用可能性があるいうだけで真理とはちゃう。
バカな科学屋はそんなこと気づいとらへんけどな。
科学で得られたモンは真実やと思うてけつかる。
オメデタイこっちゃ。
そもそも科学と哲学ではレベルがちゃうやろ。
哲学は科学のその本来の役割を指し示すことが仕事で、
科学の方は科学の方でその生理に則って何処まででも進歩したらええ。
 

41 名前:若頭[] 投稿日:2000/01/27(木) 05:55

>9
>「対象」の成立の裏にカントの物自体みたいなものは想定しないという点
>では、ある意味では「客観」を否定しているとも言えるかもしれませんが

ワシの言うとることは、そういうことやがな。
西欧哲学では「主客の一致」のことを伝統的に「真理」って言うとんのや。
竹田セイジ云々の話やないで(笑)。
言葉面なんかどうでもええけど、それを受け継いでしゃべらんことには、哲学者が一人一人が孤立してまう。

正直いうてフッサールだけ読んでもしょうがないで。
しょうがないこともないけど、フッサール専門家の本が訳わからん理由はそれが他の哲学者の言うと
ることどう綱がっとるのかが分からん為や。フッサールは独自の言葉をぎょうさん作りよった。
現象学を齧っとる最中のヤツなんかは、その意味がわかることだけで嬉しゅうて、だんだんと現象学にはまり込んでくんや。ワシもそやった。

現象学思想の性質上(主観がすべてみたいな)、他の哲学の問題設定を無視すると
現象学という思想は、孤立した迷宮のようなもんになってまうんや。

サルには到底分からんやろ。サルにも分かるようにするには、それまでの多くの
哲学の問題設定を通分して、その中での現象学の位置付けをやらんことには、
言葉遊びになるんや。ボクのいっている「〇〇」は、そう意味ではなくこういう
意味なんです、とかな。学者の戯言は殆どその作業に費やされとる。「学者根性」
いうやっちゃ。

「言語の自己言及性」なんてもんを持ち出さんでも、言葉みたいなもんは矛盾を
(意図的に)作りだして、それでも整合性を保てるというというえらい武器なんや。
哲学オタクはそういった言葉を駆使する。そりゃ面倒臭くもなるわな(笑)。
このスレッドは「知識」自慢大会やない。そやし、そんなこと無理して書かんで
ええで。ワシもノーサンキューや。
 

42 名前:若頭[] 投稿日:2000/01/27(木) 05:57

>37〜39or ALL
「物の認識」についてや。
徹底的に噛み砕いて説明する。
31で引用したフッサールの言葉を読んでくれ。
「物の認識」ゆうのは主観の中に現れるわけやから、それは「物そのもの」とは違う。
それじゃあ我々は、認識と「物そのもの」の一致をどうやって確定しているのか、ということが問題や
しかしやな、一切の認識は主観なんやから、認識が主観を飛び越えて「物そのもの」
に達するゆうことはあらへん。
そしたら、認識は主観の内部に留まったままで、何らかの「確定」を得とるわけや。。。。。

喫茶店でコーヒーが出されて、それを飲んだとしよ。
しかし、それが本当のコーヒーがどうかはわからへんで。
もしかしたら科学的に調合された黒い液体かも知らん。
その可能性は、哲学的に考えることの権利として残されとる。

つまりそのことが何を意味するかというと、「物そのもの」を正確に認識することは出来へんとゆうことや(主観≠客観)。

そこで、現象学ではこう考える。

《確かにこれは、コーヒーではない別の液体だという可能性を否定することは出来
ない。しかしその液体を飲んで「美味かった」「熱くてコーヒーの味がした」という
感覚や感情は否定できない。否定のしようが無い。そしたら別にその液体が「本当
のところ」なんであろうと我々の知ったことではない。》

現象学的還元なんてどえらい名前がついとるけど、「物の認識」に限って言うならスゴイ簡単なことなんや。
よーするに「感覚」「感情」「知覚」といったモンを「絶対の認識基準」とするしか方法はないちゅうことや。

43 名前:若頭[] 投稿日:2000/01/27(木) 05:59

要点を言うと、
主観は「認識の対象」を、「対象そのもの」であるとの証拠を掴むことで認識するわけやない。
主観の内部で「確信が成立する条件」を得ることで認識するんや。
コーヒーの例でいえば「味覚」がその条件になる。
 
「確信が成立する条件」あるいは「不可疑が成立する条件」いうのが最大のミソや。
主観の内部にあるその条件を掘り起こす作業が「還元」や。
ほんまは「客観」なんつーのは主観の中で確信された「像」に過ぎないわけやの
に、人は「客観」を「在る」ものと前提にして生活しとるだけのことや。

44 名前:若頭[] 投稿日:2000/01/27(木) 06:00

>40
知的好奇心を充たす為だけの哲学なんかいらんわい。それは学生だけの特権や。
ワシはそんなヒマちゃう。知的好奇心も殆ど無い。

ワシが現象学的な態度をとる理由は、現象学が何と言うか「メリット主義」やからや
知的好奇心のないヤツでも色んなことで悩みはするやろ。
 
俺なんでこんなに貧乏なんやろ、とかな。
現象学を学べばそれが解決できる。とは言わん。
しかし、現象学的思考を体現すれば、自分の欲望の意味合いや
その欲望と「現実」との関係を、聡明に理解することは出来る。
そしたら、自然に、自分がすべき次の行動がはっきりする。
「悩みが無くなる」ゆうのは「行動がはっきりすること」や。

 
しかし、現象学はその「行動」を例えばカントみたいに道徳的に定義するわけやない。
「行動」の意味、欲望の意味合いを自ら明らかにするだけや。
人間ゆうのはたいてい、ものごとの「意味合い」が分かれば、ナットクする生き物や。

>政治、経済、社会への影響

フッサールが、「全ての学は現象学の前に跪け」、みたいに誤解されるほどの大見得を切ったのも、故あってのことや。
ワシはそれほどのモンやとは思わんけど、わかるような気はする。
 
具体的に書けいうけど、それがどれほどたいへんな作業かくらいは想像が
つくやろ。現象学にその能力があっても、ワシにはないがな。
ただ、例えば政治の問題が、ワシにとって切羽詰ったこととして迫ってきたら
現象学的思考でもって対処する自信はあるな。
そやけど、今の世の中のことは殆どエポケーしっぱなしや。
ワシ、それでもなんも困ることあらへん(笑)
 

119 名前:若頭[] 投稿日:2000/02/22(火) 07:21

現象学についてワシから一方的に話すと、どうしても「認識」とか「客観」
とかいうしみったれた哲学講壇になってまうから、読むほうも辛いし、ワシも
ちょっと後悔しとんねん。他にもやり方があったと。
 

>現象学が何の役に立つのかわかりません。

例えば竹田青嗣なんかは
現象学のことを「現実的にはまったく不必要で非合理的な考え方だ
(略)
この考え方は根源的なのではなく、むしろいわば陰画的なのである。
すこし言い換えると、現実の関係が切羽詰ってどうしても道が無くなったときに、
くるりと現実が逆転して道が現れるといった、そういう非合理性、陰画性をこの方法は孕んでいる」

と言うとる。
実際、医学や科学のように、現象学が役に立つわけではないからね。
現象学的精神分析とか、現象学的社会学とかないわけではないけど、
それが本当に現象学のエッセンスを含んでいるかといえば、これが全然なんやなぁ。
44でも書いたけど、ワシは現象学を「メリット主義」やと捉えとって、それは、
様々な現象の「意味合い」(外側から定義されるものとは違って、自分固有の)を
まず問題にせなしょうがないっちゅう、
思想というより「態度」やと思っとる。
 

120 名前:若頭[] 投稿日:2000/02/22(火) 07:21

例えば、オカルト話をひとつ。テレパシーっちうか、人の心が読めるという
自称超能力者がおったとしよ。ワシらはこの「テレパシー」いうもんについて
どう判断するやろ? 常識的に言って、そんなもんあるわけないというわな。
「テレパシー」があると断言することはなかなか勇気のいることや。何故かと
いうと自然科学の理屈に反するからや。そやから「テレパシー」についての判断
は、「絶対にある側」と「絶対にない側」にいつも二極化してまうんや。テレビ
見とってもいっつもそうやろ?
現在では、自然科学に対する底抜けの信頼感がワシらの価値観を支配しとるから
「絶対ある派」は普通馬鹿にされる。馬鹿にされるの嫌やから、公の場ではみん
な「そんなもん無い」といわなしゃーない。
でも、「テレパシー」って本当に無いか? あの時のあれは「気のせい」とか
「偶然」で片付けられることやったか?

現象学の態度の基本は「客観」という概念を取り払うことや。
概念そのものを取り払うんや。
そやし、「テレパシー」が在るか無いかなんてことは問題にせ
えへん。在るか無いかを問題にするゆうことは「客観という概念」を無意識
に想定したうえでの思考や。つまり形而上学的思考や。ニーチェが批判した
「真理への意志」や。
 
「神」とか「真理」とか「イデオロギー」とか、はたまた「記述の体系」の
一つにすぎへん「自然科学」などに身を委ねることで、ワシらの一番重要な、
日常生活の場での「感情」や「固有の経験」をスポイルしてしまわないように
する、、、、。
現象学的思考が何の役に立つのかと言われれば、まずはこういう風に答えるしか
ないな。

 

32 名前:若頭[] 投稿日:2000/01/26(水) 04:17

ところで、ニーチェも「ホストモダン」も「命綱」を切り離した。
特に「ポストモダン」は切り離すことに懸命やった。一番の理由はマルクス主義
の崩壊や。あんだけ必死こいて考えつめた理論が役に立たへん。もう「理性」だ
の「思想」だのはあてにならん。形而上学はあかん。あ、そういえば昔ニーチェ
いうのがおもろいこと言っとったな、てなもんや。
しかし、連中はとにかく徹底的にやった。
9さんには悪いけど完全に証明して見せよった。
 
ワシの理解では現象学も「命綱」を切り離した。
そやけど「ホストモダン」と違う所は、「命綱」を切り離すのは原理的に間違ってへんけど、何で我々は言葉を使って
他者とコミュニケート出来たり、目の前のコップを疑ったりせえへんのやろ?
 と考えたわけや。
それには必ず理由がある筈やと。自然科学が我々にとって利用可能性があることの理由はいったい何や、と考えたわけや。
その理由を原理的に問い詰める為には「命綱」を切り離さな意味ないんや。
そやないとその理由を、ありもしない「客観そのものという概念」に求めることになる。

 
結論を言えば、フッサールはその理由を、主観の内部にあるとしたわけやけど、それは「真理を基礎付ける」こととは違うで。
「真理」「客観」「世界」をすてて「本質(意味合い)」を、てなところかな。
とにかく、現象学の真髄はそこから始まる。

サルにもわかるフッサールの現象学講座3

8 名前:分からん奴(理系)[] 投稿日:2000/01/23(日) 05:09
私の周りの客観は、私の周りに存在する人達の主観の平均に過ぎない
私の内側の客観は、私の人生に隣接した人達の主観の残骸に過ぎない

 

14 名前:若頭[] 投稿日:2000/01/24(月) 02:09

>8
>私の周りの客観は、私の周りに存在する人達の主観の平均に過ぎない

おもろいこと言うやんけ。現象学間主観性ゆうのがある。
それと似たような考え方や。だいぶちゃうけどな。
一つ質問や。
他者の主観の平均があんたの客観なんやろ? そしたらあんたの周りに存在する
人の主観を、あんたはどうやって認識するんや。その認識は信用できるんかい。
つまりやな、他者の主観というのは、あんたにとっては客観と違うんか?
そやし、ちょっとおかしなテーゼやな。客観を保証するのに新たな客観をもってき
とる訳やから。考えてみてくれ。
 

30 名前:名無しさる(8,20)[考えてみたので答えてみる] 投稿日:2000/01/26(水) 01:03
>一つ質問や。
>他者の主観の平均があんたの客観なんやろ? そしたらあんたの周りに存在する
>人の主観を、あんたはどうやって認識するんや。
「主観」ってコトバは、「主観を排して客観的に現象を捉えませう」みたいに使うよなー
「我思ふ」で良いんだろーなー
って事は、「周りに存在する 人の主観」は、「彼思ふ」かなー
「どうやって認識」は、道徳の時間に習ったよなー
「相手の身になって考えましょう」ってコトかなー
相手の身になるには、相手の性格、才能、育ち、学歴、収入、身長・・を値踏みして、
自分に当てはめてみるンかなー
「値踏み」ってのは、世の中の全てのパラメータを知って、相手の全てを知って、評価して・・
ムツカシそうだなー
座標を比較せにゃイカンのだから、自分の座標を把握せんといかんなー
これが一番ムツカシそうだなー
でも、みんなそれなりに出来てるから、社会って成り立ってるんだろうなー

>その認識は信用できるんかい。
信用するもなにも、確認する術すら知らんのだが・・

「もしもーし、何してた〜」(最近マンネリだなー、話題も無いし・・)
「キミのコトを考えてた」(せっかく下平さやりんで作業中なのに、醒めるじゃねェか)
「ワタシもーーーーーー」(クサいセリフ吐いてンじゃねえヨ。鏡でも贈ったろか!)
現象学を身につけると、判るようになるのかなー

33 名前:若頭[] 投稿日:2000/01/26(水) 04:18

>30
お前、おもろい。立派に「還元」しとるやないけ。そやし「還元」は誰でも
出来るんや。
それはさておき「座標」いう言葉が出てきた。
その「座標」を客観的なものとして想定(命綱をつなげたまんま)すんのは、現象学ではルール違反や。
つーか哲学史の流れに逆らうことや。

そしたらポストモダンみたく認識を諦めるか、それとも主観の内部に「座標」
をおくか、二つに一つや。
いきなり「他者の主観の認識」は難しいけど、「物の認識」「コトの認識」をふっ飛ば
してやってみるか。
現象学では「他者の主観」のことを「他我」っていう……………やっぱあかん。
「物の認識」からやらな、説明不可能や。
しかし、それもまた今度や。ワシ疲れた。
 
>25

25 名前:話かわるけど[] 投稿日:2000/01/25(火) 17:58
若頭さん、立花隆さんほんもの?
ぼくもロビーと哲学両方見てるんだけど。
世代が違うから音楽はビートルズしかわかんないよー。
あのレス見てもいまいち決定的かどうかわからん。
今度哲学の質問してみてよ。
立花さん、哲学的なことにいちばん興味があるっていつも言ってるから。

あれニセもんや
現象学的還元した結果、ワシの内在がそう告げよる。
理由はいくつもあるけど、立花隆はカルト的なトムウェイツのファン
の筈や。ワシがわざわざトムウェイツのベスト3曲書いたのに、ヤツは
トムウェイツのトの字も出さんと、誰でも書けそうなミュージシャンあげとる。
その板かロビーでばらしたろ思たけど、やめといた。
結構がんばって書いとる。ヤツも必死や(笑)。騙されとる人はかわいそうやけど。
 

123 名前:若頭[] 投稿日:2000/02/24(木) 01:03

形而上学的思考って何?

これも一般的にはかるーい気持ちで、日常を超えた「超越的」とか、「精神的」
とか、形にならない「抽象的なもの」とかいう意味で使われとるよな。
120で書いたようにワシはニーチェの概念を援用しとる。ニーチェに言わせれば
キリスト教を含めてそれまでの形而上学は、「禁欲主義的理想」というものに支え
られた「真理は必ず存在する。いや存在しなければならない」という信仰なんや。
つまり、形而上学的思考」とは、
 
「世界」には何か根本原理が存在していなければならないという「真理への意志」
 
やな。
ニーチェはそれをルサンチマンと言った。ワシもまったくそのとおりや思う。
ま、デリタに言わせれば現象学も「形而上学的予断を隠している」ということ
になる
けど、それはまた別の話しや。。
 

サルにもわかるフッサールの現象学講座4

 

110 名前:若頭[] 投稿日:2000/02/07(月) 09:52

ドイツ観念論のアウトラインと現象学実存主義との関係。

本当は「ドイツ観念論」いう述語はワシには意味不明なんや。そやけど、カントが自
分の哲学を「先験的観念論」と言っているので、カントについて少しだけ。
カントには『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』ちう三大批判書がある。
そこで何をやったか、サルにもわかるように書いてみる。

カントはそれまでの形而上学的問題〈時空・時間の謎や、神はいるのかなど、このス
レッドの文脈で言えば「客観」とか「真理」〉を「先験的アンチノミー」いう方法で処理した。
 
どういうことかというと、それぞれの問題の正命題・反命題のどちらとも
証明して、命題自体を自己矛盾に陥れたわけや。

時間の問題やったら、その起源があることも無いことも証明して、二律背反〈アンチノミーに追いこんだ。
カント曰く、人間の理性はこのような問題(神とか真理とか)をどこまでも追いつめ
たがる習性がある

しかし、上の処理で明らかなように、人間の能力は限定されたものだから、世界そのもの(物自体)を認識することはできない。
 
そこでカントは、人間に認識できる世界と出来ない世界をきっちり二つに分けた。
前者を現象界、後者を可想界。可想界みたいなもんはどうしようもないから放っておく。
そんで、現象界はさらに単なる存在ザイン)と、あるべき姿の当為(ゾルレン)に分けられる。
ゾルレンゆうのは要するに「道徳」みたいなもんで
「君の意志の格率が、常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」
という有名なテーゼに行きつく。一日一善、人類皆兄弟、笹川良一みたいなもんやな。
 
とまあ、カント哲学をスケッチするとこうなる。ワシはカント詳しくないから、間違っ
てはないと思うけど、足りない部分はあると思う。でもまあ、2年も3年もかけて読ん
で貴重な時間無駄にするよりはましやろ。
現象学との関わりは、形而上学的問題の不毛さをこのまま放っておいたらあかん、と
いう問題意識やな。それは共通しとる。