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2011-09-19

[]今こそ先人の知恵に学ぶ時

ここ最近(と言っても数年スパンだが)のいろいろな情勢を見ていてふと思い出した言葉がある。それは、"巧言令色、鮮なし仁"。言うまでもないが、論語の言葉である。
最近の日本は、どうも、巧言令色に流される人が多いのではないか、と感じる。

要は、「自分の主義主張や権益に合う情報」や「センセーショナルな情報」と言うような、「都合のいい情報」「派手な情報」に引っかかる人が増えているように思う(かく言う自分も何度か引っかかったことがあるが)。特にTwitterではその傾向が強いように感じる。その情報が真実であれば良いが、情報が間違っていたり、虚偽のものであった場合は、そう言った情報に引っかかってしまった人々の方が周囲から侮蔑の目で見られることもある(いわゆる"情弱"と言うような呼び方がその典型例であろう)。それらの情報が特に害のないものであればまだしも、特定の個人・団体・企業などを貶めるようなものだった場合、その情報の発信者はもちろん、真偽を確認せずに騒いだ連中にも名誉毀損、風説の流布、業務妨害、信用毀損、侮辱、などに関する刑事罰が科せられたり、賠償責任などが生じる可能性があるのではないか、と思う。現状、日本ではTwitterでの発言などが元で賠償請求をされた、と言うような例は覚えがないが、今のような「真偽も分からないのにやたらと情報が拡散される」という状態が改善されない限り、そのような事態がいつ発生してもおかしくないのではないか、と思う。そうでなくとも、誤った情報に振り回される、と言うことは判断ミスを招く行為であり、非常に危険である。

そのような事態を避ける手段は一つ。「流れてきた情報を鵜呑みにしない」と言うことだと思う。たとえば、Twitterの場合「こういう情報があった!大変だ!拡散希望!」と言うようなツイートの場合、酷い場合は情報源がなかったり、情報源があったとしても、個人ブログの記事や誰かからの伝聞、と言うような、非常に信頼性の乏しい情報源しか提示されていないことも少なくない。もちろん、そう言った情報が全て虚偽や間違いであるとは言わないが、情報源としての価値は低いと言わざるを得ない。なぜなら、世の中には、筆者の願望や推測が、あたかも事実であるかのように書かれているケースも少なくないからである。「○○は××なのである」と、一見事実が記述されているように思えても、実際は単に「そうであったらいいなあ」と言う願望や「こうに違いない」と言う推測でしかないこともあるため、その情報が客観的な事実に基づくものであるかどうかの確認は重要である(そうでなくとも、勘違いや思い込み、と言うことは誰にでも容易に発生しうることである。また、このブログの記事も、個人で記述している以上、ここで述べたようなことから逃れることはできない。このブログの記事を見るときは、話半分程度で受け取って頂くのが安全だと思われる)。
また、仮に客観的な事実であっても、意見誘導のために、わざと誤解を招くような書き方がされていることもある(このパターンで一番有名な例はDHMOの事例であろう)し、証拠となる情報が発信者の都合が良いように編集されていることもあるため、証拠となる情報があるから、と言って、そのまま信じてしまうことも非常に危険である。

ここで出てくるのが、最初に言った「巧言令色、鮮なし仁」と言う論語の言葉である。都合のいい情報や派手な情報ほど、実際は中身がなかったり、全くの虚偽情報だったり、と言うことは少なくないし、むしろ有害であることすらある。
そのような情報に引っかからないように、「巧言令色、鮮なし仁」と言う言葉に学び、都合の良い情報や派手な情報ほど疑って掛かることと、それ以外の情報も含め、情報発信者が何を考えてこのような形で情報を発信しているのか、と言うことを考える癖を付けないと、いずれ取り返しの付かない大損害を被ることになる可能性もあることを肝に銘じておくべきだと思う。

そして、忘れてならないのは、情報を鵜呑みにした結果損害を被った場合、その責任は他でもない「情報を鵜呑みにした自分自身」にあることを忘れてはいけない。もちろん、最初から他者に損害を与える目的で誤った情報を発信している人もいるが、何らかの誤解から全くの善意で誤った情報を拡散してしまう、と言うことも少なくない。そして、その情報を受け入れ、行動に移したのは他でもない、自分自身の判断なのだ。誰から強制された訳でもなく、自らの判断で行動を起こした場合、その責任の所在は自分自身に帰する。「○○が言ってたから……」「○○がRTしてたから……」と言うことは言い訳にしかならないことは、他者から見たら「○○」に自分自身が入ることでも明らかである。自分の判断が甘かったことを認めるというのは確かに嫌なことかも知れないが、だからと言って「○○に騙された!私は悪くない!」と主張することは非常にみっともないし、そのように主張すればするほど「この人は情報の真偽も確認しないで拡散するくせに、そのことを反省しようともしない人なんだな。今後この人の言うことは信じないようにしよう」と周囲からは思われてしまう。判断して行動したのは間違いなく自分自身なのだから、そのことをまず認め、自分の責任を自覚すべきである。その上で、情報発信者に明確な悪意があるのであればそれを糾弾すればよいのだ。間違っても糾弾が先ではない。そこを誤るとさらに大きな損害を、自分の手で発生させてしまうことになる。

[]「報道」に対する雑感

誤解を招きかねない表現手法に関しては、ネットではマスメディアが良く槍玉に挙がるが、個人的にはある程度監査システムなどが整っている分、マスメディアの方がまだマシだと思う。また、公共性を認識して書かれている、と言う理由で、企業のプレスリリースも、個人ブログなどの情報よりは信頼できると考えている。むしろ、そう言った監査システムが整備されていない(変に整備されても困るが)個人ブログなどの方が、仮に全く間違った情報を書いていたとしても、それを監査する人を経ずに情報が発信されてしまうため、間違った情報が拡散される可能性が高いように思う(しかも個人ブログの場合、公共性に対する意識が低く、無責任な記事が書かれることが多いように思える。個人的には、個人ブログだとしても、新聞社などの記事同様、基本的に全世界に発信されているものなので、公共性に関してはほとんど差がないと考えている)。にも関わらず、ネットには、マスメディアは信用しないのに、どこの誰が書いたかも分からないような個人ブログなどの内容は鵜呑みにしてしまう、と言うような人がいるのが滑稽でならない。マスメディアを疑うのは結構なことなのだが、「正しく疑う」と言うことこそが重要だと思う。疑問を持つことと全否定することは似て非なるものである。

マスメディアは恣意的に情報を取捨選択して報道しているから信用できない、と言うような人もいるようだが、マスメディアに限らず、人が他者に情報を伝達しようとする時、恣意的な情報の取捨選択を行っていない人はいないのではないだろうか。また、一口に「マスメディア」と言っても、それを構成しているのは数多くの報道機関である。仮に1つ2つの報道機関が伝えない事実があったとしても、他の報道機関が報道することは充分にあり得る。「そうは言っても、こういう事実があるのにマスメディアによって全然報道されない。都合の悪いことを隠蔽しようとしているのではないか?」と言う意見もあろうが、そのような場合、いくつかの理由が考えられると思う。
まず1つめ。「こういう事実がある」と言うのが全くの誤解で、実際にはそのようなことがなかった場合。これはマスメディアによって報道されないのが当然である。
2つめ。確かにそう言うことはあったのだが、情報としての重要度が低いと判断された場合。この場合の判断基準にはいろいろと疑問が生じるものもない訳ではないが、メディアも使える枠に限界がある以上、重要度が低い(と判断した)情報は切り捨てざるを得ない。ただ、メディアや報道機関によって判断基準は異なるため、この段階でかなりの情報が表に出てくることになると思う。
3つめ。当事者の安全を守るために外部機関からの依頼や協定などによって報道が差し止められている場合。誘拐事件などの情報や、軍などの機密情報がこれに当たる。これらの情報は、報道することにより、当事者や軍に対して不必要な危険を招く可能性があるため、当然の措置とも言える。
4つめ。外部から圧力を掛けられて、報道できなくなっている場合。外部、と言うのは企業や国家(海外も含む)である。かつて中共が中共に対して不利な情報を報道しようとする報道機関の入国を認めず、結果的に中共に都合の良い情報しか報道できないようにしていたことがあったと言うが、そのような事例がこれに当たる。しかしながら、このようなやり方は報道機関のみならず、様々なところからの反発を招き、結果的に情報は圧力の壁をぶち破って世界へと拡散されることが多い。
5つめ。報道するにはあまりにも内容がショッキングである場合。凄惨な殺人現場や大量の死体など、見る人にとってあまりにもショッキングなものを報道してしまうと、場合によってはパニックなどが発生することもある。そのようなことを防ぐためにあえて報道しない、と言うこともあるだろう。
6つめ。マスメディアにとって都合が悪いので情報を握りつぶしている場合。「マスメディアなんか信用できない」と言う人が真っ先に上げるのがこのパターンだと思われるが、実際にこのような事例は少ないのではないか、と思う。一口にマスメディアと言っても、先に述べたとおり報道機関はたくさんあるし、メディアの種類もテレビ、ラジオ、新聞、雑誌、ネットなど、様々なものがあるため、仮に一つの報道機関、あるいはメディアにとって都合が悪い情報があったとしても、他の報道機関やメディアを通じて情報が出てくる可能性は高い。これほどメディアが多様化した現代において、一つの報道機関や、一つのメディアにとって都合が悪いから、と言うだけの理由で、情報が全く出てこなくなる、と言うことは考えにくいと思う。
結局のところ、メディアが報じない情報、の大半は、1の「実際にはそのようなことが起きていなかった」か2の「こちらが思っているよりは重要度が低かった」のいずれかのパターンではないかと思う(もちろん、3、4、5、6に当てはまるものがない、とは言い切れないが)。

そもそも、人が、自分が持っている情報を他者へ伝達しようとした場合、そこに自分の意志を紛れ込ませないようにすることはもちろん、その情報を完全に他者へ伝達することは非常に難しいと思う。たとえば、伝言ゲームのような単純な遊びですら、最初と最後で情報が全然違うものに変質してしまっていた、と言うのは誰しも経験があると思う。そして、現実は、伝言ゲームよりもはるかに複雑に情報ネットワークが絡み合っていることの方が多い。また、そこで伝達される情報も、伝言ゲームで伝達されるような他愛ないものではなく、個人の思想や権益などに関わって来るものであることも少なくない。さらに、その情報ネットワークを流れる情報量も、伝言ゲームなどよりはるかに多い。
つまり、実際の情報伝達ルートでは、情報が伝達される過程において、「情報発信者の意志」がどこかで入り込む可能性が非常に高い、と言うよりも、情報発信者の意志を完全に排除することは事実上不可能だと思う。なぜなら、情報発信者が、あまりにも膨大な情報を全て伝えきることは不可能だからである。当然、伝達可能な量に減るまで情報の取捨選択が行われる訳だが、その過程での情報の重要度を判断する、と言う行為がすでに「情報発信者の意志によるもの」であることは疑いようがない。

すなわち、現代社会において飛び交う情報は、いかに中立的な情報に見えても、全て「情報発信者の意志」が込められていると考えた方が妥当である、と言うことである(Wikipediaのように、可能な限りそれを排除しようという試みもあるが)。つまり、情報の受け手として行うべきことは、「情報発信者が何を考えてこの情報を発信したか」を考えることと、可能であればその意志を見抜くこと、であると思う。