ネット上で『批判』という言葉が指す言文について
今日友人の方と、twitter上での炎上について色々話す機会があって、ちょっと思ったことがあります。
最近SNSなどでよく、言い合いになる場面を見かけますよね。例えば、誰かがきつい物言いをした際に「アイツは脊髄反射的に批判を行う」「それは単なる人格批判だ」という言葉が、どこからか飛んできて、その応酬になるという風に。ただ、このような場合で使われる「批判」という言葉に対して、私は常々疑問に思ってきました。
批判という言葉は、そもそも英語の「critique」を訳した言葉であり、それはさらに遡ると古典ギリシア語の「クリネイン」という言葉に由来します。その元々の意味は「分ける」「明らかにする」という意味合いでした。このことを突き詰めて考えると、「批判」という言葉で形容するに値する文言というのは、「正しい知識を手に入れる」手段であり「冷静に真実を見極める」目的を以って発せられたもの、といってもいいでしょう。実際学問の世界では、そうした意味合いでこの言葉は用いられてきました。
例えば、プロイセンの哲学者であるイマヌエル・カントの著作に『純粋理性批判』というものがあります。これは「人間の認識能力である『理性』に関する、それまでの先人の見識に対して分析・反論をする」という内容の書物であり、ここでタイトルに冠されている「批判」というのは、まさしくこの「クリネイン」という意味での「批判」にあたります。
けれども先に挙げたような、昨今ネット上で見受けられる「批判」という言葉が指す言動のほとんどは、そのほとんどが根拠に乏しい思い込み(ドクサ)に対して使われている――そういうことが、多々あるのです。私は、このような言文は単なる非難に留まるものであり、批判とは言わないだろうと考えるのです。少なくとも、元々の意味の「クリネイン」という意味合いでの「批判」からは、全く違うものといえます。さらには、相手の人格すら否定する台詞などは、誹謗、中傷、悪口という形容を与えるこそ相応しいでしょう。これらの言葉を「批判」と言ってしまうのは、そもそもこの言葉が目的とするところに反する結果になりますし、また「定義の混乱」を招いてしまいます。私は使い分けるべきだと思いますが、皆さんどうでしょうか。
そんなことをふと、考えてしまった初夏の夜でした。