旅人の手記 二冊目 - 蝉海夏人のブログ -

2014-10-26

「カゲロウプロジェクト」のメドゥーサ観――「見る≠所有する」というアンチテーゼ


※ 以下の作品について、核心的な部分についてのネタバレがあります。
 
 マンガ『カゲロウデイズ』1〜5
 (著・じん 作画・佐藤まひろ 刊・メディアファクトリー)1〜5
 小説『カゲロウデイズ』1〜5(著・じん 刊・エンターブレイン
 アニメメカクシティアクターズ


 「カゲロウプロジェクト」は〈邪眼〉というモティーフから出発し、メタ的なレヴェルにおける「見る」という行為に際し本性的に備わる暴力性やエロスに対して批判的な視座を与え、「見る」という概念を脱構築・再構成しよう試みた物語である。そのことが最も端的に表れているのが、本作におけるメドゥーサ像においてであるのだ。
 以下、「カゲロウプロジェクト」における視覚とその象徴たるメドゥーサ像をめぐる、思弁の遁走を始めたいと思う。


・ メドゥーサ=「視覚と触覚→所有欲」のメタファー

 メドゥーサという怪物は、「見る」ことの暴力性やエロティシズムを象徴する存在として、芸術作品のモティーフとして描かれてきた。カラヴァッジョの『メドゥーサ』やルーベンスの『メドゥーサの首』など、メドゥーサをグロテスクな、猟奇的なイメージを伴い描かれてきた作品を挙げていけば、枚挙に暇がない。このようなメドゥーサ観は大衆文化にも、強く根付いている。RPGでメドゥーサは定番のモンスターであるが、彼女らの持ち得る能力を思い起こしてもらいたい。味方パーティを「石化」させる力はもちろん、そして味方パーティを「ゆうわく」(味方パーティを混乱と同様の状態にする)させる力を持っていることも珍しくないはずだ。このようにハイ・カルチャーからポップ・カルチャーに至るまで、メドゥーサという怪物にはどうしても好戦的・好色的なイメージがつきまとう。そしてそのようなメドゥーサ像が一般的であることは、「カゲロウプロジェクト」の作中でも次のように触れられている。

物語の中なんかじゃいつも 怖がられる役ばかりで
(じん『想像フォレスト』より)

 それはメドゥーサが「視覚」の象徴であり、「見ること」は本性的にエロティシズムや暴力性を備えているからである。澁澤龍彦曰く「見るということは、所有すること*1」であるという。暴力もエロスも両方とも、絶対的に他者を必要とする。しかしこの両概念は、他者を必要としていながら他者の人格を否定する志向性を持つ。他者を物象化したいと欲するのだ。つまり、他人を「もの」として欲する。それは「視覚」が、自己を拡張しようとする性質を持つからである。欲しいものが目に入ったら手を伸ばすように、視覚は所有欲を誘因する本性を持っており、自己の身体を拡張するよう促すのだ。ここに「触覚」との連関性が生まれる。相手を所有するには、相手に触れなければならない。バイオレンスにしてもエロスにしても、その現実に発言させるには「触覚」の助けを借りずにはいられない。視覚したものを触覚しようとする、そこには所有欲が絡んでいるのだ。
 さて。話をメドゥーサに戻すが、メドゥーサの石化の邪眼は、まさしく「視覚と触覚の親和性」及びそのことがもたらす「所有欲」を暗喩した概念であるといえる。何故なら彼女の邪眼は、相手を腕ずくで組み伏せる(触覚)ことなく、見るだけで(視覚)永遠に静止させてしまう。「もの化」させてしまうのだから。


・ メドゥーサ≠「視覚と触覚→所有欲」というメタファー

 けれども「カゲロウプロジェクト」におけるメドゥーサ観は、前述のような好戦的・好色的なメドゥーサ像とは大きく異なっている。「カゲロウプロジェクト」に出てくるメドゥーサの一族(アザミの直系)とその能力の保持者からは、「見る≠所有すること」というテーゼはほぼ剥奪されている。そればかりか、そうした危険性に登場人物自体が自覚的で、積極的に距離を置こうとすらしている。上述したような視覚論に対して批判的なテーゼを、物語全体を通じて描写している。それは「蛇」の力を持った能力者達が自分の能力を全編通じて忌避しており、能力者同士が「蛇」の力を取り消す方法を探すためにメカクシ団を結成するという物語の大筋からも明らかなことである。この物語は、「見る」ことに伴う暴力性やエロティシズムに対して自覚的であり、かつ否定せんがために批判的視座さえ置いているとすらいってもいい。
 作者であるじんがこのようなメドゥーサ観をどこから得たのか。それは、神話上のメドゥーサの物語にその根拠を求めることができる。何故なら、原典のメドゥーサはそもそも好戦的・好色的な怪物「ではない」からである。むしろ、前述の「視覚の暴力性・エロス」を向けられる対象、「見られる」側であったのだ。
 美貌のゴルゴン三姉妹の三女であるメドゥーサはある日、アテナ神殿ポセイドン強姦されてしまう(欲望の対象として「見られる」)女神アテナは、神殿を穢した罪としてメドゥーサを咎め、頭髪を全て蛇にしてしまう。(軽蔑の対象として「見られる」)現代の倫理観に当てはめてみればとんでもない話なのであるが、とにかく神話の上におけるメドゥーサの物語はそうなのだ。ここからは、ご周知の通りペルセウスのメドゥーサ退治の物語へと続くのである。
 このメドゥーサを襲った二つの理不尽について、美学者の谷川渥は著書『鏡と皮膚 芸術のミュトロギア』において次のように説いている。

 メドゥーサは、二重の意味でヴァルネラブルな存在なのだ。その彼女は、以後、見られることにおいて見る存在となる。つまり、彼女はあくまでも見られるという受け身のあり方で見るという攻撃性を手に入れる。石化は、だから自分のあまりにおぞましい姿を見られることの拒否として結果するのだということもできる。

谷川渥『鏡と皮膚 芸術のミュトロギア』筑摩書房 P87

この「ヴァルネラブル vulnerable」というのは訳しにくい言葉であるのだが、おおよそ「迫害されやすいこと・傷つきやすいこと・被害者的」という意味を示していると考えてくれればいい。このメドゥーサのヴァルネラビティは、カゲロウプロジェクトの全編に渡って貫徹されている。文字通りメドゥーサの一族であるアザミの直系は当然のこととして、メドゥーサの能力(「蛇」の力)を持つ能力者全員は、何らかの形によって迫害を受けている。そもそも、能力を得る条件が「生死の境界(=カゲロウデイズ)」に触れることであり、かつ能力は自分の意志で所得したわけではない。受け身なのだ。彼らは、皆ひとしくヴァルネラブルな存在といえる。
 そもそも「メカクシ団」という名称からして、自分たちが「見られる」存在であり、その視線には先ほど述べたような攻撃性が備わっていることに、彼らが自覚的であることを示唆しているではないか。「カゲロウプロジェクト」とは、谷川の言葉を借りれば「見られるという受け身のあり方で見る」ことによって、「見ること」の攻撃性を否定(自分の能力の消失を願う)する物語であるのだ。


ゴルゴイオンとしての女王マリー

 だがこの物語には「見ること=所有すること」という、メカクシ団が忌避するテーゼ肯定し、実行する登場人部が存在する。〈邪眼〉の暴力性やエロティシズムを積極的に肯定し、メカクシ団と敵対し、本作最大の悪役でいえる存在、目が冴える蛇(黒コノハ)だ。彼の作中での描写は、その嗜虐性もさることながら、「見るということは、所有すること」という澁澤の視覚観と完全に合致している。故に、目が冴える蛇はその行動をとっても目的をとっても、「『見る』という行為に際し本性的に備わる暴力性やエロス」を忌避するメカクシ団にとって最大の敵であり、かつ本作最大の悪役になりうるわけだ。
 ここで、目が冴える蛇の姦計に嵌り覚醒したマリー(女王マリー)について、注目したい。マリーの能力は、アザミより渡された10個の「蛇」が全て結集させ、一つの願いを叶える能力(目を合わせる力)である。これはまさしく「見ること=所有すること」というテーゼをダイレクトに表現している。願いが叶えられると消えてしまう目が冴える蛇は、マリーにその力を使わせてループを引き起こさせ、自分を生き永らえさせようと唆すのである。
 さて。ここで見て欲しいのは、この女王マリーの容姿である。蛇の鱗、羽のような流線型の浮遊体、――短くなった髪の毛。鱗については祖母であるアザミの特徴であり、羽は天使のように超越した存在を表すシンボルであるから、これも図像学的に解釈すれば分かる範囲である。しかし短髪になる理由、これがどう考えても分からないというユーザーは多いはずだ。私もいま一つ納得のいく説が思いつかなかったが、こう考えると合点がいった。それは、「斬首されたメドゥーサのメタファー」という解釈だ。
 神話のメドゥーサはペルセウスに首を落とされたあと、化け鯨を倒す道具として利用された。これを図像解釈学の用語で「ゴルゴイオン」と呼ぶのだが、人格を剥奪され、冴える蛇に道具として使用される女王マリーはまさしくゴルゴイオンと零落したメドゥーサであると考えられる。利用するということは、所有するということと同義である。繰り返しになるが、目が冴える蛇は、全てを「合わせる=所有する」女王マリーを所有しようとする、「見ること=所有すること」というテーゼ肯定的に捉えた世界におけるヒエラルキーの頂点に立つ存在であり、まさしくそのアンチテーゼを提唱しようとするメカクシ団の最大の敵としてふさわしい存在といえるのである。

 「カゲロウプロジェクト」はメドゥーサ=邪眼の能力者をモティーフとし、「見ること=所有すること」という従来のメドゥーサ像に重ねられていたテーゼに対し、原典のメドゥーサにおけるヴァルネラビティに立ち返ることによって、「見ること≠所有すること」というアンチテーゼを提唱して戦わせる――そうして、「見ること」に新たなイマジネーションを表現して「見せた」作品群であると言えはしないだろうか。

*1澁澤龍彦「眼の欲望」(収録『エロティシズム』中央公論社 P29)

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