旅人の手記 二冊目 - 蝉海夏人のブログ -

2015-02-08

『劇場版まどマギ』は「ループもの」そのものに対する叛逆だった

先日ですが『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語』を、
TSUTAYADVDを借りてきて鑑賞しました。
物語は完全に本編と繋がっているため、
アニメ視聴者か総集編の劇場版二作品を鑑賞した人向けになっています。

まず総評からいくと、演出や特殊効果が本編以上にスゴかったです。
正直これだけでも観る価値があるくらいです。
物語自体は、本編にあったサヴァイブ的な要素などを極力排除して、
純粋に少女たちの思惟や感情のみを抽出しており、極めて抽象的な感じでした。
そのため、本編で前面に出された
露悪的な表現や生々しい描写が引っかかった人ほど、
観て欲しいかなと思いました。

ここから、ネタバレありの感想です。


本作で何よりも驚いたのが、最終的に本作の実質的な主人公であるほむらが、
「ループによる時空回帰を肯定するというクライマックスです。
ループものはケン・グリムウッドの『リプレイ』(1987)以来、
脱出することを前提や目的とするのが定番となっておりまして、
過去に戻ることによる改変をタブーとするのが暗黙の了解となっていたのです。
(これはループものに限らず、『時をかける少女』などのタイム・リープものも含め、
 多くのSF作品で描かれてきた神話素(ミュトス)です)

本作もアニメ版の方は、
まどかによる「魔法少女」というシステムの改竄肯定しつつも、
「改変による喪失」という業(カルマ)を背負う形で物語を閉じました。
そこでは結局、完全な形での回帰は否定されているのです。
けれども、この『叛逆』ではそれをやっちゃった。
ほむら円環の理から、原理の中核であるまどかサルベージし、
さやかやなぎさなど魔女化した魔法少女を現世に戻してしまった。
これはまさに「叛逆」というタイトルに相応しい結末といえるでしょう。

一応、続篇も作ろうと思えばできる締め方ともいえますが、
私はここで終わりにして欲しいと思います。
そうしなければ、ほむらの行った「叛逆」の重みは削がれてしまうでしょうから。

個人的な感想をいうと、私としては
「破綻した秩序を破壊し新たな秩序を構築するには、自己犠牲が必要だ」
という押し付けがましい命題が貫かれたアニメ版の結末よりも、
「いかなる高尚な理想があろうとも自己犠牲を全否定し、
 一人でも多くの人間が幸福でいられることを実現しようとするエゴを貫く」

こちらの結末の方が好みです。
正直、この作品はアニメ版だけだと余り好きになれなかったのですが、
本作で少し好きになれたようにすら思えます。

色々な意味で、観て良かったと思える秀作でした。

(BGM:Kalafina『ひかりふる』)

2014-10-26

「カゲロウプロジェクト」のメドゥーサ観――「見る≠所有する」というアンチテーゼ


※ 以下の作品について、核心的な部分についてのネタバレがあります。
 
 マンガ『カゲロウデイズ』1〜5
 (著・じん 作画・佐藤まひろ 刊・メディアファクトリー)1〜5
 小説『カゲロウデイズ』1〜5(著・じん 刊・エンターブレイン
 アニメメカクシティアクターズ


 「カゲロウプロジェクト」は〈邪眼〉というモティーフから出発し、メタ的なレヴェルにおける「見る」という行為に際し本性的に備わる暴力性やエロスに対して批判的な視座を与え、「見る」という概念を脱構築・再構成しよう試みた物語である。そのことが最も端的に表れているのが、本作におけるメドゥーサ像においてであるのだ。
 以下、「カゲロウプロジェクト」における視覚とその象徴たるメドゥーサ像をめぐる、思弁の遁走を始めたいと思う。


・ メドゥーサ=「視覚と触覚→所有欲」のメタファー

 メドゥーサという怪物は、「見る」ことの暴力性やエロティシズムを象徴する存在として、芸術作品のモティーフとして描かれてきた。カラヴァッジョの『メドゥーサ』やルーベンスの『メドゥーサの首』など、メドゥーサをグロテスクな、猟奇的なイメージを伴い描かれてきた作品を挙げていけば、枚挙に暇がない。このようなメドゥーサ観は大衆文化にも、強く根付いている。RPGでメドゥーサは定番のモンスターであるが、彼女らの持ち得る能力を思い起こしてもらいたい。味方パーティを「石化」させる力はもちろん、そして味方パーティを「ゆうわく」(味方パーティを混乱と同様の状態にする)させる力を持っていることも珍しくないはずだ。このようにハイ・カルチャーからポップ・カルチャーに至るまで、メドゥーサという怪物にはどうしても好戦的・好色的なイメージがつきまとう。そしてそのようなメドゥーサ像が一般的であることは、「カゲロウプロジェクト」の作中でも次のように触れられている。

物語の中なんかじゃいつも 怖がられる役ばかりで
(じん『想像フォレスト』より)

 それはメドゥーサが「視覚」の象徴であり、「見ること」は本性的にエロティシズムや暴力性を備えているからである。澁澤龍彦曰く「見るということは、所有すること*1」であるという。暴力もエロスも両方とも、絶対的に他者を必要とする。しかしこの両概念は、他者を必要としていながら他者の人格を否定する志向性を持つ。他者を物象化したいと欲するのだ。つまり、他人を「もの」として欲する。それは「視覚」が、自己を拡張しようとする性質を持つからである。欲しいものが目に入ったら手を伸ばすように、視覚は所有欲を誘因する本性を持っており、自己の身体を拡張するよう促すのだ。ここに「触覚」との連関性が生まれる。相手を所有するには、相手に触れなければならない。バイオレンスにしてもエロスにしても、その現実に発言させるには「触覚」の助けを借りずにはいられない。視覚したものを触覚しようとする、そこには所有欲が絡んでいるのだ。
 さて。話をメドゥーサに戻すが、メドゥーサの石化の邪眼は、まさしく「視覚と触覚の親和性」及びそのことがもたらす「所有欲」を暗喩した概念であるといえる。何故なら彼女の邪眼は、相手を腕ずくで組み伏せる(触覚)ことなく、見るだけで(視覚)永遠に静止させてしまう。「もの化」させてしまうのだから。


・ メドゥーサ≠「視覚と触覚→所有欲」というメタファー

 けれども「カゲロウプロジェクト」におけるメドゥーサ観は、前述のような好戦的・好色的なメドゥーサ像とは大きく異なっている。「カゲロウプロジェクト」に出てくるメドゥーサの一族アザミの直系)とその能力の保持者からは、「見る≠所有すること」というテーゼはほぼ剥奪されている。そればかりか、そうした危険性に登場人物自体が自覚的で、積極的に距離を置こうとすらしている。上述したような視覚論に対して批判的なテーゼを、物語全体を通じて描写している。それは「蛇」の力を持った能力者達が自分の能力を全編通じて忌避しており、能力者同士が「蛇」の力を取り消す方法を探すためにメカクシ団を結成するという物語の大筋からも明らかなことである。この物語は、「見る」ことに伴う暴力性やエロティシズムに対して自覚的であり、かつ否定せんがために批判的視座さえ置いているとすらいってもいい。
 作者であるじんがこのようなメドゥーサ観をどこから得たのか。それは、神話上のメドゥーサの物語にその根拠を求めることができる。何故なら、原典のメドゥーサはそもそも好戦的・好色的な怪物「ではない」からである。むしろ、前述の「視覚の暴力性・エロス」を向けられる対象、「見られる」側であったのだ。
 美貌のゴルゴン三姉妹の三女であるメドゥーサはある日、アテナ神殿ポセイドン強姦されてしまう(欲望の対象として「見られる」)女神アテナは、神殿を穢した罪としてメドゥーサを咎め、頭髪を全て蛇にしてしまう。(軽蔑の対象として「見られる」)現代の倫理観に当てはめてみればとんでもない話なのであるが、とにかく神話の上におけるメドゥーサの物語はそうなのだ。ここからは、ご周知の通りペルセウスのメドゥーサ退治の物語へと続くのである。
 このメドゥーサを襲った二つの理不尽について、美学者の谷川渥は著書『鏡と皮膚 芸術のミュトロギア』において次のように説いている。

 メドゥーサは、二重の意味でヴァルネラブルな存在なのだ。その彼女は、以後、見られることにおいて見る存在となる。つまり、彼女はあくまでも見られるという受け身のあり方で見るという攻撃性を手に入れる。石化は、だから自分のあまりにおぞましい姿を見られることの拒否として結果するのだということもできる。

谷川渥『鏡と皮膚 芸術のミュトロギア』筑摩書房 P87

この「ヴァルネラブル vulnerable」というのは訳しにくい言葉であるのだが、おおよそ「迫害されやすいこと・傷つきやすいこと・被害者的」という意味を示していると考えてくれればいい。このメドゥーサのヴァルネラビティは、カゲロウプロジェクトの全編に渡って貫徹されている。文字通りメドゥーサの一族であるアザミの直系は当然のこととして、メドゥーサの能力(「蛇」の力)を持つ能力者全員は、何らかの形によって迫害を受けている。そもそも、能力を得る条件が「生死の境界(=カゲロウデイズ)」に触れることであり、かつ能力は自分の意志で所得したわけではない。受け身なのだ。彼らは、皆ひとしくヴァルネラブルな存在といえる。
 そもそも「メカクシ団」という名称からして、自分たちが「見られる」存在であり、その視線には先ほど述べたような攻撃性が備わっていることに、彼らが自覚的であることを示唆しているではないか。「カゲロウプロジェクト」とは、谷川の言葉を借りれば「見られるという受け身のあり方で見る」ことによって、「見ること」の攻撃性を否定(自分の能力の消失を願う)する物語であるのだ。


ゴルゴイオンとしての女王マリー

 だがこの物語には「見ること=所有すること」という、メカクシ団が忌避するテーゼ肯定し、実行する登場人部が存在する。〈邪眼〉の暴力性やエロティシズムを積極的に肯定し、メカクシ団と敵対し、本作最大の悪役でいえる存在、目が冴える蛇(黒コノハ)だ。彼の作中での描写は、その嗜虐性もさることながら、「見るということは、所有すること」という澁澤の視覚観と完全に合致している。故に、目が冴える蛇はその行動をとっても目的をとっても、「『見る』という行為に際し本性的に備わる暴力性やエロス」を忌避するメカクシ団にとって最大の敵であり、かつ本作最大の悪役になりうるわけだ。
 ここで、目が冴える蛇の姦計に嵌り覚醒したマリー(女王マリー)について、注目したい。マリーの能力は、アザミより渡された10個の「蛇」が全て結集させ、一つの願いを叶える能力(目を合わせる力)である。これはまさしく「見ること=所有すること」というテーゼをダイレクトに表現している。願いが叶えられると消えてしまう目が冴える蛇は、マリーにその力を使わせてループを引き起こさせ、自分を生き永らえさせようと唆すのである。
 さて。ここで見て欲しいのは、この女王マリーの容姿である。蛇の鱗、羽のような流線型の浮遊体、――短くなった髪の毛。鱗については祖母であるアザミの特徴であり、羽は天使のように超越した存在を表すシンボルであるから、これも図像学的に解釈すれば分かる範囲である。しかし短髪になる理由、これがどう考えても分からないというユーザーは多いはずだ。私もいま一つ納得のいく説が思いつかなかったが、こう考えると合点がいった。それは、「斬首されたメドゥーサのメタファー」という解釈だ。
 神話のメドゥーサはペルセウスに首を落とされたあと、化け鯨を倒す道具として利用された。これを図像解釈学の用語で「ゴルゴイオン」と呼ぶのだが、人格を剥奪され、冴える蛇に道具として使用される女王マリーはまさしくゴルゴイオンと零落したメドゥーサであると考えられる。利用するということは、所有するということと同義である。繰り返しになるが、目が冴える蛇は、全てを「合わせる=所有する」女王マリーを所有しようとする、「見ること=所有すること」というテーゼ肯定的に捉えた世界におけるヒエラルキーの頂点に立つ存在であり、まさしくそのアンチテーゼを提唱しようとするメカクシ団の最大の敵としてふさわしい存在といえるのである。

 「カゲロウプロジェクト」はメドゥーサ=邪眼の能力者をモティーフとし、「見ること=所有すること」という従来のメドゥーサ像に重ねられていたテーゼに対し、原典のメドゥーサにおけるヴァルネラビティに立ち返ることによって、「見ること≠所有すること」というアンチテーゼを提唱して戦わせる――そうして、「見ること」に新たなイマジネーションを表現して「見せた」作品群であると言えはしないだろうか。

*1澁澤龍彦「眼の欲望」(収録『エロティシズム』中央公論社 P29)

2014-09-06

「如月シンタローの友情物語」として見る『カゲロウプロジェクト』

※ 以下の作品について、核心的な部分についてのネタバレがあります。
 
 マンガ『カゲロウデイズ』1〜5
 (著・じん 作画・佐藤まひろ 刊・メディアファクトリー)1〜5
 小説『カゲロウデイズ』1〜5(著・じん 刊・エンターブレイン
 アニメメカクシティアクターズ


 『カゲロウプロジェクト』は基本的に群像劇の様相を呈しており、「誰それのエピソードが本筋である」とは言いがたい構造をしている。あるいはそのような構造になることを、意図的に避けていると言ってもいい。けれども、そのうちのなかでもとりわけ「世界観全体の骨子となる重要な物語軸」というのは、当然存在する。その一つに、「如月シンタローの友情物語」を取り上げることができる。
 これは『ロスタイムメモリー』のMVなどで語られているように、この物語群の登場人物の一人である如月シンタローが他の登場人物と交流していく一連の流れを、ストーリーの軸として考える観点だ。シンタローは、公式サイドから「主人公格」とされているだけあって、本作に登場するほぼ全ての登場人物と何らかのやり取りをする場面が描かれており、かつ本作において複数の重要エピソードにおいて、中心的な役割を担うことが多い。
 そして、「友情」という観点から見た場合、シンタローと深く関わってくる登場人物は四人いる。一人はアヤノ。次にエネ。そしてカノ。最後にコノハである。彼ら四人の登場人物との関わりを時系列順に考えて、シンタローはこの物語群において「四つの友情概念の契機」を経験するのである。

第一契機:友情概念の「取得」=アヤノとの出会い
第二契機:友情概念の「喪失」=アヤノとの死別
第三契機:友情概念の「再生」=メカクシ団入団
第四契機:友情概念の「深化」=コノハとの交流

 
以上、四つの契機のそれぞれの詳細と、そこから導き出される総論を、以下考察していきたく考える。


・ 第一契機:友情概念の「取得」=アヤノとの出会い

 楯山文野ことアヤノとシンタローの特別な関係については、一連のシリーズのどれか一つにでも触れた人には、ほぼ説明不要とさえいえる。だが、二人の関係を「友情」として捉えるか「恋愛」として捉えるか、あるいはその両方と捉えるかで、後に起こる物語の解釈は大幅に変わってくる。アヤノとシンタローの関係を、「友情」の側面に重きをおいて考えると、これから展開されるシンタローの物語が「友情物語」であるという風に筋道立てることができるのだ。
 アヤノと出会う以前のシンタローに友人がいた事実は、全てのメディアにおいて描写されていない。本編におけるシンタローのアヤノに対する態度や、それに際する彼の心理描写も併せて考えてみても、アヤノがシンタローにとって初めての友人であることは、ほぼ確定であるといっていいだろう。そして、アヤノと友人関係になったことで彼は、初めて「友情とは何か」を考える切欠を得たのである。こうしてシンタローは「友情概念」を「取得」するに至るのであって、彼の友情物語の第一契機と規定することができるのだ。


・ 第二契機:友情概念の「喪失」=アヤノとの死別

 アヤノとの交流を通じ、少しづつではあるが心を開くようになってきたシンタロー。けれども、彼女の自殺および直前に浴びせかけられた彼女からの暴言(詳細後述)によって、シンタローはこの「友情概念」を木っ端微塵に粉砕されてしまう。これは、彼にとって友情という概念を「喪失」するに至る出来事であった。この一連の出来事を、彼の友情物語の第二契機として規定する。
 アヤノとの死別の後、シンタローが再び「友情」の何たるかを知ることに――「友情」の概念を再生する切欠を得る第三契機は、作中時間で2年後となる。
 この間におけるシンタローの物語を語るにおいては、重要な役回りを担った人物が存在することを忘れてはいけない。シンタローのPCに住み着く、電脳少女エネ(榎本貴音)である。彼女はシンタローのPCに偶然たどり着いて以降、悪戯を繰り返しつつも、彼と悪友的な関係を取り持ってきた。その間の出来事は、はっきりとは描写されてはいないが、「友情」という概念を喪失したシンタローの精神的な支えになっていたことは、〈ROUTE XX〉(後述)とその他のルートを対比すれば、一目瞭然だろう。
 そして何より彼女が、引きこもっていたシンタローを2年ぶりに外へと連れ出したのだ。そのことによって、シンタローはメカクシ団と遭遇することができたのである。つまりエネは、シンタローの友情物語において、第二契機から第三契機への橋渡しという、重要な役割を担っているといっていいのだ。
 そして、シンタローがメカクシ団へ入団するに至るには、もう一人の人物の存在が肝要となるのだ。それは、エネと共に訪れたデパートで強盗団と遭遇した時、シンタローに話しかけてきた人物であり、メカクシ団員のなかで最初にシンタローと接近を図ったカノである。


・ 第三契機:友情概念の「再生」=メカクシ団入団

 カノの話に入る前に、メカクシ団をつくったのがアヤノであるという事実を、最初に抑えておきたい。
 メカクシ団と関わることで、シンタローの中で友情の概念が再生されていくことは、周知の事実であろう。そして、このコミュニティの創設者はアヤノ(入団からしばらくの間、シンタローはこの事実を知らない)であり、「ピクシブ百科事典」内「アヤノの幸福理論」の記事における「アヤノが彼女なりのやり方で守ろうとした居場所が巡り廻ってシンタローを救った」という記述は、私の見方と概ね合致している。

 けれども、ここで再生されたシンタローの友情概念には、ある歪んだ友情関係も内包していたのであった。それが、カノとの関係である。
 カノはよくシンタローに絡んだりからかったりしていて、一見悪友的な間柄に見える。しかし、それはカノの「欺いている」姿であり、心の奥底でシンタローのことを激しく憎んでいることが、小説版5巻で明かされている。目が冴える蛇に脅迫され、カゲロウデイズの向こうへ消えたアヤノの替わりに、アヤノの死体役を演じたカノは、その直前にシンタローに出会っている。そこでカノは、いつも側にいながらアヤノの異変に何も気付けなかったシンタローに対し、「お前のせいだ!」と、アヤノの姿のまま言ってしまうのである。このことで精神的な傷を負ったシンタローは、2年間への引きこもりへと突入してしまうのである。(そうすると、第二契機を作ったのはカノであると言ってもいい)
 アヤノの自殺を止められなかったことは、事情を知らぬシンタローからしたら無理からぬことではある。しかし、アヤノに目の前で消えてしまわれ、かつケンジロウを乗っ取った冴える蛇に脅迫されたカノに、そのことを斟酌する余力はないことも十分納得できる。(とはいえ、逆恨みであることには違いない)

 またシンタローの方も、けしてカノに心を開いている訳ではない。彼とは、本性的に相容れないそぶりを作中において何度も見せているし、上述のルートとは大幅に異なるマンガ版ルート二周目(5巻)の描写においても明らかである。
 このように、二人はとても友好的な関係とはいえない。
 けれども忘れてはいけないのは、カノはシンタローにとってメカクシ団のインターフェース的な役割を果たしているということだ。シンタローとメカクシ団との出会いが、彼の友情物語の第三契機とすれば、カノの役割の重さは推して知るべきだ。
 また、カノはシンタローのことを憎む一方で、彼の人格的魅力について認めているところもある。また時間の経過とともに、アヤノの自殺直後に彼女の姿で暴言を吐いたことも、申し訳なくも思っている。
 以上のように、二人の関係はかなり歪な関係であり屈折している。小説版6巻では、以上の真実が、カノの口から打ち明けられるエピソードが入ると思うのだが、その後二人はどのような関係を築いていくのであろうか(他のルートから鑑みるに、何らかの形で和解するはず)
 これもまた、一つの友情関係とはいえるのではないかと、私は考えたい。

 そして、この第三契機において友情概念を「再生」したシンタローは、彼らとの交流の中で、それを「深化」させていくことになる。その象徴となる相手が、他でもないコノハなのだ。


・ 第四契機:友情概念の「深化」=コノハとの交流

 コノハとシンタローの関係に関する描写は、各ルートによって大幅に異なる。現時点で明確な友情関係が描かれているのは、小説ルートと楽曲ルートの二つだけである。
 しかし、全ての媒体において根本となるルートであろう〈ROUTE1〉と〈ROUTE XX〉の二つのルートが描かれる『ロスタイムメモリー』でのストーリーと、全ルート共通であるコノハの作中世界におけるポジションの重要さからして、主人公であるシンタローと深く絡むのは必至であると念頭に置いておいて間違いはないだろう。
 楽曲ルートと小説ルートにおいてシンタローとコノハの二人は、強い信頼関係を窺わせる描写がいくつかある。〈ROUTE1〉におけて二人で拳をぶつけ合わせる描写(他の団員たちとはハイタッチ)や、小説4巻で自分の危険も顧みずシンタローを助ける描写がそうだ。そして『ロスタイムメモリー』の〈ROUTE1〉が最初の周だとして、かつ解釈のしようによっては、シンタローとコノハの友情がループの切欠の一つになったとすら考えられるのだ。

 〈ROUTE1〉において、黒く染まったコノハが自殺しようとする描写がある。これは人によって解釈が分かれるところだが、「シンタローの友情物語」を『カゲプロ』の一つの軸と考えるなら、私はこう解釈したいと思う。「シンタローを含むメカクシ団のみんなを殺したくないと願ったコノハの意識が、『目が冴える蛇』の意識に介入した」という風には考えられないだろうか。そしてそれを止めようとして、逆にシンタローが被弾してしまう。
 そこから先は『ロスメモ』だと描かれていないのだが、私はこうではないかと憶測してみることにする。これはアニメ版8話のラストで描写されているのだが、シンタローは遥か昔の周で、マリーから「目に焼き付ける蛇」を受け取っている。これは〈ROUTE1〉の後ではないか、と私は考える。つまり最初のループでシンタローは死に、マリーから「蛇」を受け取っているのだ。そしてマリー以外は「もう一度意識を乗っ取り直した『目が冴える蛇』に全員射殺されてしまった」のではないか。そうは考えられないだろうか。

 話がずれたので、まとめに入る。
 〈ROUTE1〉において自殺しようとしたのがコノハの意識だとすれば、またそれを知ったシンタローが止めようとしたのならば、かつこの〈ROUTE1〉が最初の周だとすれば、シンタローとコノハの友情関係は作中世界において、極めて重要なモティーフとして考えられるのではないか。また、〈ROUTE1〉におけるシンタローがそのような行動に至るまでには、シンタロー自身の友情概念を自ら深化させる必要があるだろう。
 以上のことから、コノハはシンタローの友情物語において、彼の友情概念を深化させ、自分の主体性として消化させるのに、重要な役割を担うキーパーソンであるといえるのだ。


・ 総括

 以上、如月シンタローの物語を「友情に関する四つの契機」を踏まえながらまとめてみたが、いかがであろうか。複雑なこの物語群に対して、この観点はある程度クリアな見通しを与えるように私は思う。
 話は少し飛躍するが、私は『カゲロウプロジェクト』の魅力は「メカクシ団」というコミュニティが紡ぐゆるやかな「コミュニティズム」にあると考えている。そして、その土台にあるのが上述のような複雑な登場人物同士の「関係性」なのだ。シンタローの物語は、その現在のメカクシ団のコミュニティズムを作中において描写する一つの軸、そうした意味を内包しているのではないかと私は思う。


・ 補足

 この「シンタローの友情物語」をもっとも描写していないルートは、アニメ版のルートである。カノの逆恨みは全く描写されず、コノハとの精神的なつながりも描かれていない。さらには、他のメカクシ団員との交流も希薄である。もっというと、アヤノとの関係も「友情」と言い切れるのか、アニメ版では微妙である。最終回でのやり取りを見るに、シンタローとアヤノの二人は「恋愛関係」とすらいえることを示唆している。(実際、カノや貫音が冷やかしている)こうなると、上述の全ての契機がアニメではほとんど描写されていないとすらいえる。
 そうすると、アニメ版は「シンタローの友情物語」が描かれなかったルートと考えるべきなのかもしれない。

2014-08-31

秘密基地に集まって 「楽しいね」って単純な

どうも、こんばんは。蝉海です。

ええと、twitterやblogを見てもらえると分かるように、
最近『カゲロウプロジェクト』にどっぷりハマっています。
MVは全部観たし、アニメも視聴済み。小説・マンガも既刊は全部読みました。
今では毎日のように、公式MVや「歌ってみた」を聴いています。
さらにはpixivを巡って、ファンアートを観回るのが日課となりつつあります。
昨日もおざ研という場所で、こんな講義(↓)を勝手にする始末。



どうしてこんなにハマったのでしょうか?
正直、楽曲を聴いただけではそこまで引かれるものは感じませんでした。
「聴き易いけれど、よくあるロキノン系っぽいなあ」と。
けれども今となっては、ED曲の『サマータイムレコード』とか、
聴くと胸が苦しくなって、うかつに聴けません(笑)

それは当然、私の琴線に引っかかるものがあったからでしょう。
箇条書きにしてみると、こんな感じですかね。

・ジュブナイル
・濃厚な「夏」のガジェット
・秘密基地で子どもたちが集まって何かする
・邪眼
・理解と拒絶とすれ違い
・複雑な関係性
・フラットな血縁関係と擬似家族
・中性的なキャラデザ
etc...

う〜ん、こうして改めてみると、
思った以上にかなり私好みな作風なのですね。
エニックス系のマンガや創作ファンタジーによくある、
中性的でリリカルな雰囲気というか、
ジュブナイル寄りな作風が好きでしたので、
そうしたところと意外に親和性があるのかもしれません。
あと、性衝動を前出しにしない心理主義的描写も、
藤野もやむさん(桑佳あささん)とかに通じるところがあるかも。

さて。恐らく他のファンの方々もそうだと思うのですが、
私はこの『カゲプロ』に感じている最大の魅力は、
キャラクター同士の「関係」にあると思うのです。
「メカクシ団」というゆるいコミュニティを舞台に、
様々な出自、年齢、性別の人間たちが集まって描かれる、
優しく、複雑に絡み合って、少し歪な人間関係。
それが様々なメディアで断片的に描かれることで、
それら断片を自分なりに集積して、
おのおのの世界像=キャラクターの関係世界を構築する。
そこにこの作品の面白さと魅力があるように考えています。

それもカップリング人気も高い本作ですが、
あくまでメカクシ団というコミュニティを
前提に据えて妄想する人が多いように思います。
だからなのか、余り激しいカップリング妄想の抗争を、
このジャンルでは見かけることが少ないように感じますね。

このメカクシ団の「関係性」については
以前の記事でも多少述べましたが、
また今後とももっと深く突き詰めていきたいと思います。

それでは、今日はこの辺で。

(BGM:じん(自然の敵P)『サマータイムレコード』)

2014-08-24

マンガ『カゲロウデイズ』における、登場人物の関係性の描写及びその演出の上手さとストーリーテリングの拙さ

※ 以下の作品のネタバレがあります。
 
 マンガ『カゲロウデイズ』1〜5
 (著・じん 作画・佐藤まひろ 刊・メディアファクトリー
 小説『カゲロウデイズ』1〜5(著・じん 刊・エンターブレイン
 アニメメカクシティアクターズ


※ 『』……作品名、「」……マンガ版のエピソード名

 じん(自然の敵P)の展開するメディアミックス企画『カゲロウプロジェクト』のマンガ版である『カゲロウデイズ』4巻では、楽曲ルート・小説ルート・アニメのどれとも違う展開に突入した。
 その極めて衝撃的な展開に、読者は目を丸くしたことだろう。楽しい遊園地でのエピソードは、良いアイスブレーキング的な描写として機能しており、これから彼らの冒険が描かれるのだという期待を、否が応でも持たされる。エネ(貫音)の過去のエピソードから遊園地の帰りへと舞台時間が戻り、挿まれる彼女のモノローグ(p.p.93〜95)も、同じような効果を期待できる。
 故に、その直後に描かれる悲劇は、読者にとって一層ショッキングに映り得るのだ。メカクシ団の面々が、突如現れた謎の青年によって虐殺されていく――この謎のキャラクターは、エネの視点を通じて読解するマンガ版のみの読者にとっては「遥そっくりの青年」として映る。「かつて想い人だった青年が、何故こんなことを」という風に感じ取るように、描写しているのだ。一方、MV版(特に『アウターサイエンス』)を視聴した読者にとって、この謎のキャラは「物語の最終局面において、メカクシ団を虐殺する存在=黒コノハ」として認知済みである。それが、この序盤に出てくることによって「ここで出てくるのか!?」という意外性に驚嘆するのだ。この二重性には舌を巻く。著者の演出の上手さが、最大限に光ったエピソードといえるだろう。
 そしてこの物語は、一旦ここでバッドエンドとして終わりを告げ、時間が巻き戻る。二周目突入という、ループものの醍醐味と呼べる展開に入った。ここからのストーリーは、如月兄妹がヒビヤとヒヨリに出逢うところから始まる。これはアニメルート、小説ルートとも全く違うものである。4巻ラストの、楽曲『カゲロウデイズ』を髣髴とさせる引きも良く、総じてマンガ版からの読者も他媒体からのファンも、期待高まる内容として仕上がっていた。

 けれどもその期待は続刊である5巻によって、悪い意味で裏切られてしまう。

 ヒヨリの電話により異変を感じ取り、ヒビヤとヒヨリを捜しにいった如月兄妹は、意外な人物と遭遇する。シンタローとエネはキド、モモはカノとコノハとである。(このルートにおいて、如月兄妹がメカクシ団のメンバーと遭遇するのは、これが初めてのことであり、前の周の関係はリセットされている)そして、コノハは何故かヒビヤを抱えており、モモは不審に思う。そして、カノの胡散臭くかつ挑発的な態度に対して反感を覚えたモモはヒビヤを奪還し、如月家で保護することになる。翌日、警察に届出を出した如月兄妹は、そこでカノと再遭遇するも、またしても決裂することになる。一方、家を抜け出したヒビヤはコノハに逢い、彼から「一緒にヒヨリを捜そう」と手を差し伸べられるが、ヒビヤはこれを拒む。そして、如月兄妹の元に戻ることを選択する。
 以上が5巻のおおまかなプロットであるのだが……、これがまるで面白くなかったのだ。私の不満点は、大きく分けて二つある。
 
 一つは「マンガ版からの読者は、ヒビヤとコノハの関係が現時点で全く分からない」ということ。もう一つは「カノと如月兄妹が対立することによって、話が全然進まない」ということだ。

 ヒビヤとヒヨリは、ヒヨリの義理の兄である楯山研次郎の家に、世話になっていることとなっている。そして、そこにコノハが居候していて、ヒヨリはコノハに好意を抱くというのが、小説版の設定だ。けれどもマンガ版では「親戚の家で世話になっている」「夏の間しかこっちにいられない」ということがヒヨリの口でのみ説明されているに過ぎず(4巻、p.148)ヒビヤとコノハの関係は、全く描かれていない。故に、何故ヒビヤがコノハを嫌悪するのかも、さっぱり分からないようになっている。いくら他の媒体で分かるといっても、一つの媒体のみでここまで関係性が分からないというのは、ドラマツルギーが拙劣であると言われてもしようがないことだろう。
 そしてもう一つは、カノ(=メカクシ団)と如月兄妹の対立についてである。これはマンガ版オリジナルの展開であり、どうしてこのような展開を挿むのかが、他の媒体を読んでもその理由が見えてこない。しかも、カノと如月兄妹の交渉は、二度も決裂している。前述の通りシンタローとエネは、15日の深夜にキドと接触したことがあるのだが、彼女とカノの関係は認知しておらず、このエピソードは全く機能していない。これらのやり取りが……、正直読んでいてイライラする。この決裂によって、話が全然進まず時間だけが過ぎているのだ。前周では8月15日の夕方で皆殺しにされ、ループしてしまったというのに、今回の周は既に昼である。それでいて話が、全然進展しない。これでは、読者はやきもきするだけである。その上、モモに対してカノが何故あそこまで嫌悪感を煽るような態度を取るのか、他の媒体を読んでもよく分からないようになっている。そもそもキドも何故、一度交渉が失敗しているカノを単独で行かせるのか? その辺りも釈然としない。
 情報を制限することによる、すれ違いや対立を描くのは別にいい。それでこのルートが、如月兄妹とメカクシ団が対立したまま、バッドエンドに終わっても別に構わない。そのことによって何かしら隠された設定が開示されたり、話が進んだりすれば別に構わないのだが、この場合はそのいずれでもない。その上、不自然な点ばかりが目立つ。これは、はっきりと面白くないといえる。
 
 どうしてこのようなことになったのか? それは、著者であるじんのストーリー構成及びドラマツルギーの拙さが現れた結果だと考える。この著者は他媒体を参照するに「こういう関係・こういうやり取りを書きたい」という欲望が先立つタイプだと考えられる。読者がどこまで関係を把握しているか、というより「○○と××がケンカしているところを書きたい!」(=場面)とか、「今回は○○と××が険悪な仲になるという風に行こう!」(=関係)という描写をしたいという欲求が、先走ってしまっているのだ。
 だから「関係性そのものを描くエピソード」は、とても魅力的に描いてくれる。「如月アテンション」のような互いの自己紹介的なエピソードや、「夕景イエスタデイ」のような過去にあったことをリリックに描くエピソードがそうだ。あるいは上述の「ヘッドフォンアクター」における黒コノハとの遭遇についても、同じことが言える。理不尽な出来事に直面した各々が取る咄嗟の行動に、それまでのキャラクター同士の関係そのものが浮き彫りにされている。
 このような関係性を強調したエピソードは、演出力のある著者にとって、その強みを存分に発揮できる場面といえるのだ。
 逆に今回の「カゲロウデイズ」のように、上述の関係性が明らかになっていない状態で、複数のキャラクターが同時的に動き、対立し合うようなエピソードは、前述したようなストーリーテリングの拙さが如実に現れてしまう。「どうしてこうなるのか」という因果関係がすごく伝わりにくく、シークエンスがまるで上手く描けていないのだ。

 このような理由で、現時点での5巻の評価はかなり辛いものとせざるを得なかった。しかし、この中だるみは、このマンガ版の評価を決定的にするほどのことではない。今回のラストでは、小説版で詳しく描かれていないセトの過去編に突入した。ここからマリーや楯山家に関するエピソードが描かれることで、一気に世界観の核心へと迫るのだろうか。
 次の巻での盛り返しに期待したい。