旅人の手記 二冊目 - 蝉海夏人のブログ -

2015-02-08

『劇場版まどマギ』は「ループもの」そのものに対する叛逆だった

先日ですが『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語』を、
TSUTAYADVDを借りてきて鑑賞しました。
物語は完全に本編と繋がっているため、
アニメ視聴者か総集編の劇場版二作品を鑑賞した人向けになっています。

まず総評からいくと、演出や特殊効果が本編以上にスゴかったです。
正直これだけでも観る価値があるくらいです。
物語自体は、本編にあったサヴァイブ的な要素などを極力排除して、
純粋に少女たちの思惟や感情のみを抽出しており、極めて抽象的な感じでした。
そのため、本編で前面に出された
露悪的な表現や生々しい描写が引っかかった人ほど、
観て欲しいかなと思いました。

ここから、ネタバレありの感想です。


本作で何よりも驚いたのが、最終的に本作の実質的な主人公であるほむらが、
「ループによる時空回帰を肯定するというクライマックスです。
ループものはケン・グリムウッドの『リプレイ』(1987)以来、
脱出することを前提や目的とするのが定番となっておりまして、
過去に戻ることによる改変をタブーとするのが暗黙の了解となっていたのです。
(これはループものに限らず、『時をかける少女』などのタイム・リープものも含め、
 多くのSF作品で描かれてきた神話素(ミュトス)です)

本作もアニメ版の方は、
まどかによる「魔法少女」というシステムの改竄肯定しつつも、
「改変による喪失」という業(カルマ)を背負う形で物語を閉じました。
そこでは結局、完全な形での回帰は否定されているのです。
けれども、この『叛逆』ではそれをやっちゃった。
ほむら円環の理から、原理の中核であるまどかサルベージし、
さやかやなぎさなど魔女化した魔法少女を現世に戻してしまった。
これはまさに「叛逆」というタイトルに相応しい結末といえるでしょう。

一応、続篇も作ろうと思えばできる締め方ともいえますが、
私はここで終わりにして欲しいと思います。
そうしなければ、ほむらの行った「叛逆」の重みは削がれてしまうでしょうから。

個人的な感想をいうと、私としては
「破綻した秩序を破壊し新たな秩序を構築するには、自己犠牲が必要だ」
という押し付けがましい命題が貫かれたアニメ版の結末よりも、
「いかなる高尚な理想があろうとも自己犠牲を全否定し、
 一人でも多くの人間が幸福でいられることを実現しようとするエゴを貫く」

こちらの結末の方が好みです。
正直、この作品はアニメ版だけだと余り好きになれなかったのですが、
本作で少し好きになれたようにすら思えます。

色々な意味で、観て良かったと思える秀作でした。

(BGM:Kalafina『ひかりふる』)

2014-10-12

『ノーライフキング』と周縁作品に関する断想

 先週の日曜日だが、ゆりいかさんが開催された読書会に参加した。課題図書は前に申し上げたとおりノーライフキング』(いとうせいこうである。

「あの夜(よ)の読書会 開催のお知らせ」
「ハロー・ブンガク・グッドバイ」

 大学のゼミを髣髴とさせるような雰囲気で互いに意見を交し合う、大変充実した時間を過ごせたように思う。
 ただ、題材となる作品が非常に難解な内容であり、時間ギリギリまで物語の読解でほぼ手一杯となってしまった。そのため類似作品や後発に見られる影響といった系譜論的な推論、その他メタレヴェルの考察まで十分な発言をすることができなかった。本作は物語的な面白さやプロットの構成力・ドラマツルギーなどの技巧的な拙さは数多くあれど、大変射程の広い作品ということができ、系譜論的に見ても様々な論点を展開することが可能である。そこで個人的な補遺として、考えていたけれどあの場ではちょっと言えなかったことを、ここでまとめたい。


子どものカルチャー・ホビーにおける解釈の必要性

 本作『ノーライフキング』が発売された1988年前後という時代におけるテレビゲームというものは容量も少なく、ゲームの中で語られる世界観というのは限界があった。結果プレイヤーに解釈を必要とするものが多く存在していた。本作はそのような時代背景がダイレクトに反映され、かつメインストーリーの肝として織り込まれている。
 読者は本作を読んでいて『ドラゴンクエスト』や『ゼルダの伝説』など、当時の様々なタイトルが頭の中に浮かんだことであろうが、ここでは少し視点を変え「解釈」という点に注目し、テレビゲーム以外の同時代的にヒットしていたある商品について少し触れたいと思う。「解釈」の要素がヒットの原動力となった「ビックリマンシール」である。
 物語がシールのイラストと、その裏面に書かれているわずかなテクストによって、ごく断片的に語られない「ビックリマンシール」(正確には「10代目・悪魔VS天使シール」「11代目・スーパービックリマン」)は、1980年代後半から1990年代初頭にかけて一大ムーブメントを築き上げた。物語の断片を求めてシールを買い子どもたちだけで意見を交換し合うという状況と、本作におけるメインモティーフとなるゲームソフト「ライフキング」を取り巻く様相との類似点を見出すことは容易い。おまけに「ライフキング」には複数のバージョンがあってそれぞれによってレアリティが異なるといった「射幸心を煽る」点まで一致している。
 このような物語で描かれる消費の仕方は、まさしく大塚英志の物語消費論に当てはまるところであり、またそこから派生した東浩紀データベース消費論などを引き合いに出してくれば、一層面白い議論を展開することができるであろう。ただ今回はそのような論点は少し脇におく。本作が登場した当時の子どもの文化において「『解釈』を肝としたヒット商品」があり、それを取り巻く構造は『ノーライフキング』の物語に色濃く反映されていること、基本的なことではあるが、それをしっかり踏まえておかなければ、本作以後の後発作品についてその類似性や影響について深く論じることができなくなるのだ。


セカイ系やJホラーなど、後発作品に与えた影響について
 
「第一回ちょこっと読書会 いとうせいこう『ノーライフキング』を読み解く(2ページ目)」

以上のリンクは、2年前ゆりいかさんがtwitter上で主催された『ノーライフキング』の読書会のまとめである。この2ページの後半で掲載されている、山川賢一(しんかい36)さんの発言を以下に引用する。

セカイ系?とかのルーツの一つはノーライフキングだと思うんだけど、これDVDないのかよ。http://t.co/6nlC91WA 電柱写りまくる無機質な都会の描写、日常の裏で営まれる、子供達だけが知ってる非日常のサバイバルゲーム、「リアル」というキーワード、などなど

ノーライフキングは呪われたテレビゲームの話で、リングよりも二年くらい早いはず。おそらく影響も与えていると思う。

Jホラーとセカイ系?とか言われる作品(ブギーポップあたりを含めて考える場合)は意匠がよく似ているんだけど、わりと同時発生的でどういう影響関係なのかよくわからなかった。ノーライフキングがすべての出発点にあり、そこから双方が別個に進化したという仮説はどうだ。いけるんじゃないか

Jホラーやセカイ系作品と関連付けて考察するしんかいさんの発言は、私の問題意識とかなり近いものがある。私も『ノーライフキング』を読んでいて、真っ先に思い浮かんだのが『リング』鈴木光司だった。「テレビゲームのカセット」にしろ「ビデオカセット」にしろ共通していえることは、二者とも当時最新のメディア媒体であるということだ。そして、その内容について解釈すること、そしてその解釈が現実にかけられた呪いを説くカギになるという点まで、この二者は一致している。虚構が「呪い」という摩訶不思議な概念を以って、現実に対してダイレクトに影響を与える。そして現実の登場人物が、虚構の内容を「解釈」することで「解呪」する方法を探る。二作品に共通するこの物語の構造は明らかに「虚構と現実の脱構築」をプリミティブに志向しており、虚構と現実の相互境界侵犯性」を読者は意識せざるを得ない。「呪い」がもたらす「死」というモメントを前に右往左往する物語に沿って織り込まれたこのような構造性を目の当たりにした読者が必然的に「実存の危機」というテーマを見出すことは、想像に難くない。
 ただし、二者には「物語の明瞭性」という相違点があることを抑えておく必要がある。『ノーライフキング』においては「呪い」と「死」の因果関係が曖昧で、そもそも何を以って「呪い」とするのかすら曖昧なまま物語が終わる。一方『リング』は「七日間という時間制限のうちに「呪い」を解かなければ、ビデオを見たものが死ぬ」と最初からはっきりと明示されている。ドラマツルギーも明瞭で、登場人物の言動もリアリズムを踏襲している。二者は構造こそ似ていれど、「解釈」と「死」という二つのモメントの関連性、及び「呪い」という概念の定義がまるで違うのである。
 分かりやすくいうと、後者のほうが明らかに「エンターテイメント」を意識した作風になっているということだ。一つの作品がエンターテイメントとして成立する要件というものは人によって様々だと思うが、私なりにある程度普遍的に認められていて共通し、かつ重要と考えられるものとしては「物語のプロットが明瞭であること」「登場人物に感情移入できること」の二つがとりわけ挙げられる。『リング』はその点がはっきりと前面に描かれており、それが本作の完成度に貢献し、多くの読者を牽引した原動力となったことは詳述するまでもない。けれども『ノーライフキング』は先に述べたように、こうした要件を忠実に守っているとは到底言い難い。(故に、「『ライフキングを解釈する子どもたち』という物語を解釈する読者」というメタ構造が生まれ、それが『ノーライフキング』という作品の特異性を浮き彫りにしているといえるのであるが)この差異性は興味深い。何故なら、上のセクションで挙げた『ビックリマン』にしろ、このセクションを挙げている『リング』にしろ、本作の周縁作品として挙げた作品は「エンターテイメントとしての完成度」という点で、本作と真逆のベクトルを志向しているからだ。このことは本作より十年後より開始されたブギーポップシリーズ』(上遠野浩平などにも共通することである。両者は「『死』と『子どもたちだけのウワサ』」というモティーフを核にした物語という点で一致しつつも、「プロット構成の巧みさ」「読者の自意識をくすぐる心理描写(=感情移入)」というエンターテイメント性を備えているか否かという点で両者はまるで異なる。

 まとめると、ノーライフキング』は構造とモティーフにおいて「死にまつわるウワサと解釈、箱庭的世界観」という魅力的な要素を示し、後発のクリエイターはそれを継承しつつも、同時にエンターテイメント性を加えることでオリジナリティを確保して、「Jホラー」「セカイ系」「現代伝奇」といったジャンルとして独自の進化を遂げていった、といったところだろうか。

2014-09-06

「如月シンタローの友情物語」として見る『カゲロウプロジェクト』

※ 以下の作品について、核心的な部分についてのネタバレがあります。
 
 マンガ『カゲロウデイズ』1〜5
 (著・じん 作画・佐藤まひろ 刊・メディアファクトリー)1〜5
 小説『カゲロウデイズ』1〜5(著・じん 刊・エンターブレイン)
 アニメ『メカクシティアクターズ』


 『カゲロウプロジェクト』は基本的に群像劇の様相を呈しており、「誰それのエピソードが本筋である」とは言いがたい構造をしている。あるいはそのような構造になることを、意図的に避けていると言ってもいい。けれども、そのうちのなかでもとりわけ「世界観全体の骨子となる重要な物語軸」というのは、当然存在する。その一つに、「如月シンタローの友情物語」を取り上げることができる。
 これは『ロスタイムメモリー』のMVなどで語られているように、この物語群の登場人物の一人である如月シンタローが他の登場人物と交流していく一連の流れを、ストーリーの軸として考える観点だ。シンタローは、公式サイドから「主人公格」とされているだけあって、本作に登場するほぼ全ての登場人物と何らかのやり取りをする場面が描かれており、かつ本作において複数の重要エピソードにおいて、中心的な役割を担うことが多い。
 そして、「友情」という観点から見た場合、シンタローと深く関わってくる登場人物は四人いる。一人はアヤノ。次にエネ。そしてカノ。最後にコノハである。彼ら四人の登場人物との関わりを時系列順に考えて、シンタローはこの物語群において「四つの友情概念の契機」を経験するのである。

第一契機:友情概念の「取得」=アヤノとの出会い
第二契機:友情概念の「喪失」=アヤノとの死別
第三契機:友情概念の「再生」=メカクシ団入団
第四契機:友情概念の「深化」=コノハとの交流

 
以上、四つの契機のそれぞれの詳細と、そこから導き出される総論を、以下考察していきたく考える。


・ 第一契機:友情概念の「取得」=アヤノとの出会い

 楯山文野ことアヤノとシンタローの特別な関係については、一連のシリーズのどれか一つにでも触れた人には、ほぼ説明不要とさえいえる。だが、二人の関係を「友情」として捉えるか「恋愛」として捉えるか、あるいはその両方と捉えるかで、後に起こる物語の解釈は大幅に変わってくる。アヤノとシンタローの関係を、「友情」の側面に重きをおいて考えると、これから展開されるシンタローの物語が「友情物語」であるという風に筋道立てることができるのだ。
 アヤノと出会う以前のシンタローに友人がいた事実は、全てのメディアにおいて描写されていない。本編におけるシンタローのアヤノに対する態度や、それに際する彼の心理描写も併せて考えてみても、アヤノがシンタローにとって初めての友人であることは、ほぼ確定であるといっていいだろう。そして、アヤノと友人関係になったことで彼は、初めて「友情とは何か」を考える切欠を得たのである。こうしてシンタローは「友情概念」を「取得」するに至るのであって、彼の友情物語の第一契機と規定することができるのだ。


・ 第二契機:友情概念の「喪失」=アヤノとの死別

 アヤノとの交流を通じ、少しづつではあるが心を開くようになってきたシンタロー。けれども、彼女の自殺および直前に浴びせかけられた彼女からの暴言(詳細後述)によって、シンタローはこの「友情概念」を木っ端微塵に粉砕されてしまう。これは、彼にとって友情という概念を「喪失」するに至る出来事であった。この一連の出来事を、彼の友情物語の第二契機として規定する。
 アヤノとの死別の後、シンタローが再び「友情」の何たるかを知ることに――「友情」の概念を再生する切欠を得る第三契機は、作中時間で2年後となる。
 この間におけるシンタローの物語を語るにおいては、重要な役回りを担った人物が存在することを忘れてはいけない。シンタローのPCに住み着く、電脳少女エネ(榎本貴音)である。彼女はシンタローのPCに偶然たどり着いて以降、悪戯を繰り返しつつも、彼と悪友的な関係を取り持ってきた。その間の出来事は、はっきりとは描写されてはいないが、「友情」という概念を喪失したシンタローの精神的な支えになっていたことは、〈ROUTE XX〉(後述)とその他のルートを対比すれば、一目瞭然だろう。
 そして何より彼女が、引きこもっていたシンタローを2年ぶりに外へと連れ出したのだ。そのことによって、シンタローはメカクシ団と遭遇することができたのである。つまりエネは、シンタローの友情物語において、第二契機から第三契機への橋渡しという、重要な役割を担っているといっていいのだ。
 そして、シンタローがメカクシ団へ入団するに至るには、もう一人の人物の存在が肝要となるのだ。それは、エネと共に訪れたデパートで強盗団と遭遇した時、シンタローに話しかけてきた人物であり、メカクシ団員のなかで最初にシンタローと接近を図ったカノである。


・ 第三契機:友情概念の「再生」=メカクシ団入団

 カノの話に入る前に、メカクシ団をつくったのがアヤノであるという事実を、最初に抑えておきたい。
 メカクシ団と関わることで、シンタローの中で友情の概念が再生されていくことは、周知の事実であろう。そして、このコミュニティの創設者はアヤノ(入団からしばらくの間、シンタローはこの事実を知らない)であり、「ピクシブ百科事典」内「アヤノの幸福理論」の記事における「アヤノが彼女なりのやり方で守ろうとした居場所が巡り廻ってシンタローを救った」という記述は、私の見方と概ね合致している。

 けれども、ここで再生されたシンタローの友情概念には、ある歪んだ友情関係も内包していたのであった。それが、カノとの関係である。
 カノはよくシンタローに絡んだりからかったりしていて、一見悪友的な間柄に見える。しかし、それはカノの「欺いている」姿であり、心の奥底でシンタローのことを激しく憎んでいることが、小説版5巻で明かされている。目が冴える蛇に脅迫され、カゲロウデイズの向こうへ消えたアヤノの替わりに、アヤノの死体役を演じたカノは、その直前にシンタローに出会っている。そこでカノは、いつも側にいながらアヤノの異変に何も気付けなかったシンタローに対し、「お前のせいだ!」と、アヤノの姿のまま言ってしまうのである。このことで精神的な傷を負ったシンタローは、2年間への引きこもりへと突入してしまうのである。(そうすると、第二契機を作ったのはカノであると言ってもいい)
 アヤノの自殺を止められなかったことは、事情を知らぬシンタローからしたら無理からぬことではある。しかし、アヤノに目の前で消えてしまわれ、かつケンジロウを乗っ取った冴える蛇に脅迫されたカノに、そのことを斟酌する余力はないことも十分納得できる。(とはいえ、逆恨みであることには違いない)

 またシンタローの方も、けしてカノに心を開いている訳ではない。彼とは、本性的に相容れないそぶりを作中において何度も見せているし、上述のルートとは大幅に異なるマンガ版ルート二周目(5巻)の描写においても明らかである。
 このように、二人はとても友好的な関係とはいえない。
 けれども忘れてはいけないのは、カノはシンタローにとってメカクシ団のインターフェース的な役割を果たしているということだ。シンタローとメカクシ団との出会いが、彼の友情物語の第三契機とすれば、カノの役割の重さは推して知るべきだ。
 また、カノはシンタローのことを憎む一方で、彼の人格的魅力について認めているところもある。また時間の経過とともに、アヤノの自殺直後に彼女の姿で暴言を吐いたことも、申し訳なくも思っている。
 以上のように、二人の関係はかなり歪な関係であり屈折している。小説版6巻では、以上の真実が、カノの口から打ち明けられるエピソードが入ると思うのだが、その後二人はどのような関係を築いていくのであろうか(他のルートから鑑みるに、何らかの形で和解するはず)
 これもまた、一つの友情関係とはいえるのではないかと、私は考えたい。

 そして、この第三契機において友情概念を「再生」したシンタローは、彼らとの交流の中で、それを「深化」させていくことになる。その象徴となる相手が、他でもないコノハなのだ。


・ 第四契機:友情概念の「深化」=コノハとの交流

 コノハとシンタローの関係に関する描写は、各ルートによって大幅に異なる。現時点で明確な友情関係が描かれているのは、小説ルートと楽曲ルートの二つだけである。
 しかし、全ての媒体において根本となるルートであろう〈ROUTE1〉と〈ROUTE XX〉の二つのルートが描かれる『ロスタイムメモリー』でのストーリーと、全ルート共通であるコノハの作中世界におけるポジションの重要さからして、主人公であるシンタローと深く絡むのは必至であると念頭に置いておいて間違いはないだろう。
 楽曲ルートと小説ルートにおいてシンタローとコノハの二人は、強い信頼関係を窺わせる描写がいくつかある。〈ROUTE1〉におけて二人で拳をぶつけ合わせる描写(他の団員たちとはハイタッチ)や、小説4巻で自分の危険も顧みずシンタローを助ける描写がそうだ。そして『ロスタイムメモリー』の〈ROUTE1〉が最初の周だとして、かつ解釈のしようによっては、シンタローとコノハの友情がループの切欠の一つになったとすら考えられるのだ。

 〈ROUTE1〉において、黒く染まったコノハが自殺しようとする描写がある。これは人によって解釈が分かれるところだが、「シンタローの友情物語」を『カゲプロ』の一つの軸と考えるなら、私はこう解釈したいと思う。「シンタローを含むメカクシ団のみんなを殺したくないと願ったコノハの意識が、『目が冴える蛇』の意識に介入した」という風には考えられないだろうか。そしてそれを止めようとして、逆にシンタローが被弾してしまう。
 そこから先は『ロスメモ』だと描かれていないのだが、私はこうではないかと憶測してみることにする。これはアニメ版8話のラストで描写されているのだが、シンタローは遥か昔の周で、マリーから「目に焼き付ける蛇」を受け取っている。これは〈ROUTE1〉の後ではないか、と私は考える。つまり最初のループでシンタローは死に、マリーから「蛇」を受け取っているのだ。そしてマリー以外は「もう一度意識を乗っ取り直した『目が冴える蛇』に全員射殺されてしまった」のではないか。そうは考えられないだろうか。

 話がずれたので、まとめに入る。
 〈ROUTE1〉において自殺しようとしたのがコノハの意識だとすれば、またそれを知ったシンタローが止めようとしたのならば、かつこの〈ROUTE1〉が最初の周だとすれば、シンタローとコノハの友情関係は作中世界において、極めて重要なモティーフとして考えられるのではないか。また、〈ROUTE1〉におけるシンタローがそのような行動に至るまでには、シンタロー自身の友情概念を自ら深化させる必要があるだろう。
 以上のことから、コノハはシンタローの友情物語において、彼の友情概念を深化させ、自分の主体性として消化させるのに、重要な役割を担うキーパーソンであるといえるのだ。


・ 総括

 以上、如月シンタローの物語を「友情に関する四つの契機」を踏まえながらまとめてみたが、いかがであろうか。複雑なこの物語群に対して、この観点はある程度クリアな見通しを与えるように私は思う。
 話は少し飛躍するが、私は『カゲロウプロジェクト』の魅力は「メカクシ団」というコミュニティが紡ぐゆるやかな「コミュニティズム」にあると考えている。そして、その土台にあるのが上述のような複雑な登場人物同士の「関係性」なのだ。シンタローの物語は、その現在のメカクシ団のコミュニティズムを作中において描写する一つの軸、そうした意味を内包しているのではないかと私は思う。


・ 補足

 この「シンタローの友情物語」をもっとも描写していないルートは、アニメ版のルートである。カノの逆恨みは全く描写されず、コノハとの精神的なつながりも描かれていない。さらには、他のメカクシ団員との交流も希薄である。もっというと、アヤノとの関係も「友情」と言い切れるのか、アニメ版では微妙である。最終回でのやり取りを見るに、シンタローとアヤノの二人は「恋愛関係」とすらいえることを示唆している。(実際、カノや貫音が冷やかしている)こうなると、上述の全ての契機がアニメではほとんど描写されていないとすらいえる。
 そうすると、アニメ版は「シンタローの友情物語」が描かれなかったルートと考えるべきなのかもしれない。

2014-08-24

マンガ『カゲロウデイズ』における、登場人物の関係性の描写及びその演出の上手さとストーリーテリングの拙さ

※ 以下の作品のネタバレがあります。
 
 マンガ『カゲロウデイズ』1〜5
 (著・じん 作画・佐藤まひろ 刊・メディアファクトリー)
 小説『カゲロウデイズ』1〜5(著・じん 刊・エンターブレイン)
 アニメ『メカクシティアクターズ』


※ 『』……作品名、「」……マンガ版のエピソード名

 じん(自然の敵P)の展開するメディアミックス企画『カゲロウプロジェクト』のマンガ版である『カゲロウデイズ』4巻では、楽曲ルート・小説ルート・アニメのどれとも違う展開に突入した。
 その極めて衝撃的な展開に、読者は目を丸くしたことだろう。楽しい遊園地でのエピソードは、良いアイスブレーキング的な描写として機能しており、これから彼らの冒険が描かれるのだという期待を、否が応でも持たされる。エネ(貫音)の過去のエピソードから遊園地の帰りへと舞台時間が戻り、挿まれる彼女のモノローグ(p.p.93〜95)も、同じような効果を期待できる。
 故に、その直後に描かれる悲劇は、読者にとって一層ショッキングに映り得るのだ。メカクシ団の面々が、突如現れた謎の青年によって虐殺されていく――この謎のキャラクターは、エネの視点を通じて読解するマンガ版のみの読者にとっては「遥そっくりの青年」として映る。「かつて想い人だった青年が、何故こんなことを」という風に感じ取るように、描写しているのだ。一方、MV版(特に『アウターサイエンス』)を視聴した読者にとって、この謎のキャラは「物語の最終局面において、メカクシ団を虐殺する存在=黒コノハ」として認知済みである。それが、この序盤に出てくることによって「ここで出てくるのか!?」という意外性に驚嘆するのだ。この二重性には舌を巻く。著者の演出の上手さが、最大限に光ったエピソードといえるだろう。
 そしてこの物語は、一旦ここでバッドエンドとして終わりを告げ、時間が巻き戻る。二周目突入という、ループものの醍醐味と呼べる展開に入った。ここからのストーリーは、如月兄妹がヒビヤとヒヨリに出逢うところから始まる。これはアニメルート、小説ルートとも全く違うものである。4巻ラストの、楽曲『カゲロウデイズ』を髣髴とさせる引きも良く、総じてマンガ版からの読者も他媒体からのファンも、期待高まる内容として仕上がっていた。

 けれどもその期待は続刊である5巻によって、悪い意味で裏切られてしまう。

 ヒヨリの電話により異変を感じ取り、ヒビヤとヒヨリを捜しにいった如月兄妹は、意外な人物と遭遇する。シンタローとエネはキド、モモはカノとコノハとである。(このルートにおいて、如月兄妹がメカクシ団のメンバーと遭遇するのは、これが初めてのことであり、前の周の関係はリセットされている)そして、コノハは何故かヒビヤを抱えており、モモは不審に思う。そして、カノの胡散臭くかつ挑発的な態度に対して反感を覚えたモモはヒビヤを奪還し、如月家で保護することになる。翌日、警察に届出を出した如月兄妹は、そこでカノと再遭遇するも、またしても決裂することになる。一方、家を抜け出したヒビヤはコノハに逢い、彼から「一緒にヒヨリを捜そう」と手を差し伸べられるが、ヒビヤはこれを拒む。そして、如月兄妹の元に戻ることを選択する。
 以上が5巻のおおまかなプロットであるのだが……、これがまるで面白くなかったのだ。私の不満点は、大きく分けて二つある。
 
 一つは「マンガ版からの読者は、ヒビヤとコノハの関係が現時点で全く分からない」ということ。もう一つは「カノと如月兄妹が対立することによって、話が全然進まない」ということだ。

 ヒビヤとヒヨリは、ヒヨリの義理の兄である楯山研次郎の家に、世話になっていることとなっている。そして、そこにコノハが居候していて、ヒヨリはコノハに好意を抱くというのが、小説版の設定だ。けれどもマンガ版では「親戚の家で世話になっている」「夏の間しかこっちにいられない」ということがヒヨリの口でのみ説明されているに過ぎず(4巻、p.148)ヒビヤとコノハの関係は、全く描かれていない。故に、何故ヒビヤがコノハを嫌悪するのかも、さっぱり分からないようになっている。いくら他の媒体で分かるといっても、一つの媒体のみでここまで関係性が分からないというのは、ドラマツルギーが拙劣であると言われてもしようがないことだろう。
 そしてもう一つは、カノ(=メカクシ団)と如月兄妹の対立についてである。これはマンガ版オリジナルの展開であり、どうしてこのような展開を挿むのかが、他の媒体を読んでもその理由が見えてこない。しかも、カノと如月兄妹の交渉は、二度も決裂している。前述の通りシンタローとエネは、15日の深夜にキドと接触したことがあるのだが、彼女とカノの関係は認知しておらず、このエピソードは全く機能していない。これらのやり取りが……、正直読んでいてイライラする。この決裂によって、話が全然進まず時間だけが過ぎているのだ。前周では8月15日の夕方で皆殺しにされ、ループしてしまったというのに、今回の周は既に昼である。それでいて話が、全然進展しない。これでは、読者はやきもきするだけである。その上、モモに対してカノが何故あそこまで嫌悪感を煽るような態度を取るのか、他の媒体を読んでもよく分からないようになっている。そもそもキドも何故、一度交渉が失敗しているカノを単独で行かせるのか? その辺りも釈然としない。
 情報を制限することによる、すれ違いや対立を描くのは別にいい。それでこのルートが、如月兄妹とメカクシ団が対立したまま、バッドエンドに終わっても別に構わない。そのことによって何かしら隠された設定が開示されたり、話が進んだりすれば別に構わないのだが、この場合はそのいずれでもない。その上、不自然な点ばかりが目立つ。これは、はっきりと面白くないといえる。
 
 どうしてこのようなことになったのか? それは、著者であるじんのストーリー構成及びドラマツルギーの拙さが現れた結果だと考える。この著者は他媒体を参照するに「こういう関係・こういうやり取りを書きたい」という欲望が先立つタイプだと考えられる。読者がどこまで関係を把握しているか、というより「○○と××がケンカしているところを書きたい!」(=場面)とか、「今回は○○と××が険悪な仲になるという風に行こう!」(=関係)という描写をしたいという欲求が、先走ってしまっているのだ。
 だから「関係性そのものを描くエピソード」は、とても魅力的に描いてくれる。「如月アテンション」のような互いの自己紹介的なエピソードや、「夕景イエスタデイ」のような過去にあったことをリリックに描くエピソードがそうだ。あるいは上述の「ヘッドフォンアクター」における黒コノハとの遭遇についても、同じことが言える。理不尽な出来事に直面した各々が取る咄嗟の行動に、それまでのキャラクター同士の関係そのものが浮き彫りにされている。
 このような関係性を強調したエピソードは、演出力のある著者にとって、その強みを存分に発揮できる場面といえるのだ。
 逆に今回の「カゲロウデイズ」のように、上述の関係性が明らかになっていない状態で、複数のキャラクターが同時的に動き、対立し合うようなエピソードは、前述したようなストーリーテリングの拙さが如実に現れてしまう。「どうしてこうなるのか」という因果関係がすごく伝わりにくく、シークエンスがまるで上手く描けていないのだ。

 このような理由で、現時点での5巻の評価はかなり辛いものとせざるを得なかった。しかし、この中だるみは、このマンガ版の評価を決定的にするほどのことではない。今回のラストでは、小説版で詳しく描かれていないセトの過去編に突入した。ここからマリーや楯山家に関するエピソードが描かれることで、一気に世界観の核心へと迫るのだろうか。
 次の巻での盛り返しに期待したい。

2014-08-10

『メカクシティアクターズ』は、メカクシ団という独特のコミュニティズムを上手く表現していない

※ 以下の作品について、核心的な部分のネタバレがあります。
 
 アニメ『メカクシティアクターズ』
 小説『カゲロウデイズI〜V』(じん 刊・エンターブレイン)
 アニメ魔法少女まどか☆マギカ』


 じん(自然の敵P)の展開するメディアミックス企画『カゲロウプロジェクト』アニメ版である『メカクシティアクターズ』を、先日全話視聴した。
 総論としては水準以上のクォリティを誇る作品ではあった。しかし、ループ構造であるこの世界観の、他のルートを描写したミュージックビデオ版や小説版を読んでいると、引っかかるところがいくつかあった。特に気にかかったのが、「メカクシ団」という組織の団員同士の関係性や、そこから生じる独特のコミュニティズムを表現し切れなかった点にある。

 周知の通りこの物語は8月14日、シンタローがエネと共にデパートへ壊れたキーボードを買いに出かけ、強盗団と遭遇するところから始まる。この時点でメカクシ団は、キド、セト、カノ、マリー。その後いくつかのできごとがあり、モモ、エネ、シンタロー、ヒビヤ、コノハの5人が加わり、『チルドレンレコード』などの楽曲で知られている9人構成になるわけである。小説『カゲロウデイズ』のほうはその過程が――ドラマツルギーが稚拙であることは否めないにしても――そこそこ丁寧に描かれていた。けれども『メカアク』の方は、メンバー同士が顔を付き合わせたり、互いの心情を交わし合ったり(会話があっても、能力や組織、過去にあった出来事の説明がほとんどで、とても新たな関係性の構築を図っているとはいい難い)、一緒に何かを楽しんだりする機会が、余りにも少ない。遊園地で遊んだり、アジトで料理を食べたりといった描写が、バスバス削られてしまっている。

 それどころかアニメにおいては、ヒビヤやコノハは正式に入団したといえない。ヒビヤが、他のメカクシ団のメンバーに心を許すのが11話目。最終回1話前。コノハに至っては、最後までほとんどのメンバーからは、ベースが遥だということが分かっても「どんな人物かよく分からないまま」彼らの前から消え去ってしまう。その上消える際、以前から知っていたはずのヒビヤやシンタローからの声がけもない。エネ=貫音の、彼に対する複雑な心情も殆ど描写されない。
 さらには、主人公格であるシンタローについてすら同様のことが言える。彼は、8話の最後で、一旦表舞台(現実世界)から退場してしまう。ここまでで他のメカクシ団メンバーとの交流は数えるほどしかない。この後、カゲロウデイズにおいてアヤノと出会い、それまで一定の期間の日々が延々とループしていた事実を知るのであるが、これがまた問題なのだ。
 シンタローが、全ての周期における記憶を取り戻すと聞いて、まず期待したのは「メカクシ団のメンバーと過ごした大切な日々を知り、彼らと行動を共にしようと、ループを断ち切ってもこの絆は忘れないと、決意を固める」という展開だ。この予想は、本筋とも大きく外れていない。だが、その描写が余りにも「厚み」を感じない。メカクシ団の日常は、8話のエンディングで小説版やマンガ版のフラッシュカットだけとか、そりゃあないだろう。唐突に『ロスタイムメモリー』のROUTE XXの黒シンタローとか描かれても、アニメから入った人にはさっぱりなのではないか。せめて新房監督の代表作である『魔法少女まどか☆マギカ』みたいに、ラスト前1話を丸々かけて、それまでの楽しい日常とバッドエンドを描写するとかして欲しかった。そうすれば、何度も時間を戻すマリーへ、視聴者を共感させることもしやすくなるのではないか。
 ループものは、基本的にちゃぶ台返しが許されている。「互いにいがみ合っている僕らだけれど、実は前の世界ではみんな仲良しだった」なんてことができるのだ。それまでの過程が稚拙であるにしても、ちゃぶ台返しの仕方次第で最終的な評価は大きく変わる。

 ファンが見たいのは、「メカクシ団」の優しく、おかしく、緻密で、少し歪な関係性なのだ。過度な心理情景の描写やシャフ度などの悪凝りばかりに力を入れて、本作の魅力である「現在の」メカクシ団内における関係性がきちんと描かれないようでは、本末転倒といえるのではないか。